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鼈の独り言(妄想編)

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第五回ストックホルムオリンピックマラソン競技 ~オリンピック初の悲劇と最遅記録~

 夏季オリンピック競技の種類はリオデジャネイロオリンピックで28競技306種目であったという。これだけの競技の中で花形を上げろというとなかなか意見はまとまらないと思うがマラソンは候補の一つになるだろう。マラソンは紀元前490年のマラトンの戦いの勝利を伝えるために走り続け報告を終えると息絶えたという伝令の伝説を元に第一回アテネオリンピックでマラトン-アテネ間の長距離走を行った事が由来である。この伝承のためかマラソンは他の競技に比べるとナショナリズムが強い傾向がある。他方マラソンはトラック外を走るため天候、気温、路面条件などの影響が大きい競技でありアクシデントも多い。今回はオリンピック競技で初めての死者を出してしまった第五回ストックホルムオリンピックマラソン大会を考察したい。

 第五回ストックホルムオリンピックは1912年5月5日から開催されている。開催種目は15競技102種目と現在の1/3ほどであったが競技の準備等に時間がかかり7月27日まで約三ヶ月にわたって競技が続けられた。参加国は28国であったがこの大会から日本もオリンピックに参加している。そして大会終盤の7月14日に男子マラソン競技が開催されるのである。

 この日マラソン競技が行われるストックホルムでは記録的な熱波が襲来していた。この日日光の当たる所では摂氏40℃に達したと言われている。ストックホルムは北緯60度に近い位置にあり亜寒帯気候で7月の平均日最高気温は22度前後であるが数年に一度熱波に襲われることがあり観測記録の最高温度は1811年7月3日に38℃という記録が残っている。この気温の中13時45分にマラソンはスタートするが68名のマラソン競技参加者は棄権者が続出しほぼ半数の33名が棄権するという過酷な競技になってしまいこの棄権者の中にポルトガル代表のフランシスコ・ラザロがいたのである。

 フランシスコ・ラザロは1891年生まれ(生年には諸説ある)ストックホルムオリンピック出場時は21歳の若さであったが1910年のリスボンマラソンで優勝するなどポルトガル国内のマラソン大会で3度優勝しておりストックホルムオリンピックのマラソン代表に選ばれている。オリンピック開会式では国旗を掲げる旗手を勤めておりポルトガル国民がラザロにかける期待は相当大きかったようである。
 ラザロは30㎞以上を走ったが残り8㎞を切ったところで突然倒れてしまう。スタッフが異変に気づきラザロに駆け寄るが既にラザロの意識は無かった。すぐに待機していた医師がラザロの倒れた現場に赴き応急処置を行った後ラザロは病院に搬送されたがラザロの体温は42度という人間が耐えられる体温を超えている状態で手の施しようが無く翌朝6時にラザロは意識を取り戻すこと無く短い生涯を終えてしまったのである。

 ラザロの死因は現在で言えば熱中症である。ラザロが熱中症を起こしてしまった要因がいくつか指摘されている。最大の要因はやはりマラソン同日の暑さであったろう。そして当日晴天の日差しを避けるため多くの選手が帽子を被っていたにもかかわらずラザロは帽子を着用していなかった。さらにラザロは日焼けと過度な発汗で体力を消耗しないように身体にオイルを塗っていたということが後から判明している。このオイルが正常な発汗を押さえてしまい体温の調整や体内の電解質の不均衡を起こさせてしまったと言われている。まだ「スポーツ生理学」という言葉すら生まれていなかった時代の悲劇であった。

 このマラソン大会には日本人選手も出場している。日本代表の金栗四三は大会前年に行われた日本代表選考会で長距離走用に改良されたマラソン足袋を履き当時の世界記録を27分も縮める記録を持ち、優勝の期待がかかっていた。しかし当時の日本からストックホルムへの移動は二十日に及ぶ船旅しか無く船上でできる限られた練習では持久力の維持は困難であった。さらにストックホルムは緯度が高く夏は昼間の時間が極端に長く金栗は睡眠障害に悩まされる。そして当時のストックホルムでは日本人の主食である米の入手方法が無かったのである。これらの悪条件で競技前に体調を落としていた金栗は順位争いから脱落し18㎞付近で熱中症で倒れてしまう。大会関係者は多くの脱落者の救護で手一杯で金栗が倒れたことに気づかずレース沿道の農家が金栗を家まで運びそこで介抱されたのである。金栗が意識を取り戻したのはレース翌朝ですでに競技は終了していた。日本側は金栗が行方不明になったことにより混乱していたのか、はたまた故意かは分からないが競技棄権の意思を示さず金栗の競技記録は「レース中に失踪しゴールせず」となってしまう。

 ストックホルムオリンピックは1912年7月27日に閉幕するが近代オリンピック初の死亡事故は関係者に衝撃を与えることになった。オリンピックのメインスタジアムでは後日当時の国際オリンピック委員会会長だったピエール・ド・クーベルタンの発案で追悼の音楽会が催されその収益はラザロの遺族に贈られている。またポルトガルで行われたラザロの葬儀には数千人が参列し若くして亡くなった英雄に祈りを捧げたという。

 金栗四三は1920年のアントワープオリンピック、1924年のパリオリンピックにもマラソン選手として出場し(1916年のベルリンオリンピックは第一次世界大戦のため中止)日本での長距離走の第一人者として箱根駅伝の開催にも尽力している。競技引退後は教鞭を振るい熊本県教育委員会委員長、日本陸上競技連盟会長などを歴任する。そして1967年、一通の手紙が金栗の元に届くのである。
 手紙の差出人はスウェーデンのオリンピック委員会からであった。スウェーデンではストックホルムオリンピック開催55周年を記念しての行事開催が予定されており当時の記録を改めて精査していたところ金栗の行方不明が「再発見」されたのである。オリンピック当時ヨーロッパでは初参加の日本人マラソン選手の行方不明事件が「椿事」として話題になったこともあり記憶している人も多かったのだろう。そして記念式典で金栗をゴールインさせるという企画が持ち上がり金栗をストックホルムへ招待することになったのである。金栗は思い出とも因縁とも言えるストックホルムに赴きオリンピックスタジアムに設けられたゴールテープを切る。時刻は1967年3月20日19時17分20秒、記録は54年8ヶ月6日5時間32分20秒であった。この瞬間スタジアムには「これをもって第五回ストックホルムオリンピックの全競技が終了いたします」とのアナウンスがあり第五回ストックホルムオリンピックの終了が告げられたのである。ゴール後スピーチを求められた金栗は万感の思いを笑顔でこう締めくくっている。「長い道のりでした。この競技中に孫が5人できました」と

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 ゴールテープを切る金栗四三氏、ちなみにJOCの公式記録データベース上での金栗四三のストックホルムオリンピック記録は「途中棄権」となっている。

by narutyan9801 | 2018-02-02 04:00 | 妄想(その他) | Comments(0)

ノルマン人の北方開拓 ~コロンブスに先んじた冒険開拓者達~

 学校の歴史の授業ではヨーロッパ人のアメリカ大陸発見をコロンブスの航海によるものと教えているが、現在ではヨーロッパ人のアメリカ大陸発見はそれ以前に行われ、入植も行われていたことが分かっている。この入植は最終的には定着せず、入植地は人々から忘れられ消滅していった。今回はこの「ノルマン人のグリーンランド及び北アメリカ入植」を考察したい。

 ノルマン人によるグリーンランド入植が記録上に登場するのは西暦980年頃からである。入植したのは「赤毛のエイリーク」と呼ばれた男で、この男の物語である「赤毛のエイリークのサガ」によれば彼は殺人を犯し3年間の国外追放になった際現在のグリーンランドを冒険し、帰国後この地への入植を熱心に説いて回ったという。この際入植希望者を引きつけるためこの地を緑溢れる地「グリーンランド」と名付けたと言われている。
 現在グリーンランドは氷に覆われた極寒の地であるが、赤毛のエイリークの命名は決して膨張とはいえない。この時代は「中世の温暖期」と呼ばれる温暖な気候が続き、たとえば日本の記録では温暖化が顕著化した現在とほぼ同じ頃に「桜」の開花が始まったことが記録されている(この時代の「桜」は「ソメイヨシノ」ではなくエゾヤマザクラだったことを考えると現在よりも温暖だった可能性が高い)北極付近でも気温が上がりグリーンランドでも森林が広がっていた可能性が高い。エイリークの入植活動は成功し、グリーンランドでは最盛期に二カ所の入植地に8,000人が暮らす規模にまで発展する。

 グリーンランドの入植から数年後、さらに西に陸地があることが発見される。サガの記録によると985年、グリーンランド入植へ向かう船が嵐で航路を外れ、西に流された際に陸地を目撃したというのが最初の記録である。その目撃談を元にレイフ・エリクソンという男がその地の探索を行い、15年後にはヴィンランドと名付けられた地に小規模の開拓地を持ったという記録が残っている。さらに記録によるとこのほかに小石に覆われた「へッルランド」、森林が多い「マルクランド」という二つの地を発見したと記録されている。グリーンランドでは入手できない木材を産するマルクランドは重要な発見であった。

 しかしヴィンランドの入植地を含め、この新たに発見された地は恒久的な入植は行われなかった。原因の一つとして考えられるのは先住民との対立があったからだろうと思われる。「サガ」の記録にも「スクレリング」と呼ばれる先住民との闘争が記されており、先住民との争いが当初からあったことが推察できる。また憶測であるが、グリーンランドの入植地も結局は「交易地」に止まっていたことも関係してくるかもしれない。入植を行ったとはいえグリーンランドの気候は厳しく農作物は自給自足がやっとではなかったと思われ、重要物品はおそらく交易によって得られていたのではないかと思われる。時代が下って1261年にグリーンランドの住民はノルウェー王国の支配を比較的すんなりと受け入れたのは交易の安定した継続を望んだことが背景にあるかもしれない。新たな土地に無理に入植して負担を増やすよりも交易品となるもの(毛皮等)を入手するために新たな土地へ行き来すればいいと判断があったと思われる。それでも北アメリカ大陸とグリーンランドとの行き来は数百年続き、ノルウェー王国の硬貨やヨーロッパで製造された物品が後に北アメリカで発見されている。

 14世紀に入るとグリーンランドの入植地は衰退してゆく。「中世の温暖期」が終わり地球は小氷河期と呼ばれる低温時代を迎える。グリーンランド周辺は海が結氷する時期が長くなり海氷も増えたため航海に危険が伴うようになり交易は衰え、農作物の収穫も激減したと考えられている。寒冷化が入植地衰退の最大の原因であろうが、それに加えてヨーロッパでの商貿易の中心が地中海へ移りアフリカから大量に毛皮、象牙などが輸入されグリーンランドの物品の取引が衰退したことも一つ要因となったとも考えられる。
 グリーンランドに二つあった入植地の一つは1350年頃に放棄、1378年には入植地の司祭も居なくなり1408年に一件の婚姻があったことを最後にグリーンランドの入植地の記録は途絶えてしまう。1450年頃にはグリーンランドからヨーロッパ人は姿を消したと考えられている。

 しかしヨーロッパではグリーンランドの記録は忘れられた訳ではなかった。連絡が途絶えて約300年後、ノルウェー王国はグリーンランドへ探検隊を派遣する。この探検隊の主な目的は中世の「カトリック」がグリーンランドに残っているかどうかの調査であったことは興味深い。探検隊が発見したのは廃墟と化し、氷に埋もれた入植地の跡であった。さらに1960年代にニューファンドランド島で開拓地が発見され、ノルマン人がアメリカ大陸周辺に到達したことが確実視されるようになった。この地はサガの記録に登場する「ヴィンランド」と推定されている。残る「ヘッルランド」はバフィン島、「マルクランド」はカナダのラブラドール地方と推定されているが、その証拠となる遺跡はまだ見つかっていない。

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 グリーンランドに入植を行った「赤毛のエイリーグ」後年に書かれた想像の肖像画で生前の彼の風貌を描いた絵画は見つかっていない。
by narutyan9801 | 2013-09-27 15:27 | 妄想(歴史) | Comments(0)