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鼈の独り言(妄想編)

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ポーハタン号 ~幕末の日本とアメリカを繋いだ軍艦~

 嘉永六年(1853年)ペリーが開国要求で最初に来訪した際、率いてきた艦艇は4隻であった。翌年条約締結へ再度来訪した際、艦艇の数は7隻に増強されていた。ペリー自身は日米和親条約の締結後は表舞台を去りほどなく亡くなっているが、二度目のペリー来訪でやってきた軍艦はその後も長く日米の架け橋として活躍している。今回はその軍艦「ポーハタン号」を考察したい。

 ポーハタン号は1847年8月6日に起工、五年の歳月をかけて建造された外輪式フリゲート艦である。排水量3765トン、速力は最大11ノット、備砲は大小16門が装備されていた。これは少し時代が下がっての建造である江戸幕府軍艦「開陽丸」と比べると艦体は大きいが、反面備砲数はかなり少ない。これは開陽丸が戦闘を重視したのに対しポーハタン号は遠洋航海と海外駐留を重視したためと思われる。特徴的なのが外輪走行方式をとっていることである。外輪走行方式は推進軸が水面上にあり、推進軸からの浸水がないことや機関が艦中央に位置するので艦のバランスをとりやすいなどのメリットもあるが、戦闘時に破壊されやすいことや艦からの転落者が外輪に巻き込まれやすいなどのディメリットも多い。さらに外用航行では波浪の影響で外輪の水車が空回りしたり、機関の位置が高くトップヘビーで揺れが大きいなどの問題が多く、アメリカ以外の国では外洋船舶の推進にはあまり取り上げられなかった推進方法である。アメリカでは国内大河川での外輪船運用の経験が多く軍艦にも応用した例があるが、ポーハタン号以降は外輪船の軍艦建造は下火になる。

 竣工後訓練を行ったポーハタン号はアメリカ海軍東インド艦隊に編入される。東インド艦隊といっても任地は極東であり、本来は中国駐留の予定であった。任地に向かう途中ポーハタン号はペリー艦隊に加わり、東京湾に入港することになる。東京湾入港後ペリーは旗艦をサスケハナ号からポーハタン号に変更、日米和親条約調印はポーハタン号の船上で調印されたのである。

 調印を終えたポーハタン号は条約の細部の交渉を行うため下田に移り、ここで停泊を行っていたが、この停泊中のある日一人の若者が闖入してくる事件がある。この若者の名は吉田寅次郎、のちの吉田松陰であった。松蔭はアメリカへの密航を訴えるが条約の交渉中に密航者を受け入れるわけにもいかず、ポーハタン号はこの願いを拒否、松蔭は国元で投獄されることになる。

 ポーハタン号はこの任務終了後一度アメリカに帰国している。ペリー・吉田松陰が亡くなった後、日米修好通商条約の調印が行われ、日本側の使節がアメリカに出向くことになったが、総員77人の使節を乗せる船が日本には無く、ポーハタン号が使節の移動を担うことになる。それでもポーハタン号の艦内の宿泊設備では使節全員を収容するには足りず、正規の使節随員以外の人(従者など)は甲板に仮小屋を建てそこで寝起きしていたと言われる。
 1859年9月に再来日したポーハタン号は翌1860年2月13日(安政七年一月二十二日、ちなみに便宜上日本使節側もグレコリオ歴を使用していた)、日本の使節を乗せ横浜を出航する。ポーハタン号には幕府の軍艦「咸臨丸」が護衛に付くことになっていたが、艦体はポーハタン号の方が遙かに大きく、咸臨丸の実際の操船はアメリカ海軍のブルック大尉以下のアメリカ人11人が行っており咸臨丸は「予備の外交使節」という役割だったろう。この二隻は一緒に行動せず咸臨丸はサンフランシスコに直行してポーハタン号より先に到着。一方のポーハタン号は燃料と水の不足でハワイに補給のため寄港している。水の不足は正規の乗組員の他に幕府使節が乗り込んだため消費量が多くなってしまったためである(特に洗濯で真水を使ったためと言われている)。またこの航海は嵐が多く、外輪が波浪の谷に入って空回りするため燃料の消費が多く、燃料不足はこのためであったと言われる。3月28日にサンフランシスコに到着したポーハタン号は休養後、パナマまで再度使節を送り大任を果たしている。

 翌年から始まる南北戦争にもポーハタン号は参加している。しかし前線で放火を交えるということは少なかった。南北戦争の海戦は北軍の封鎖作戦、それを南軍が突破を計るというのが主な作戦であり、また沿岸海域で行われるため、ポーハタン号の航行能力が発揮されるような作戦は少なかった。それでもカリブ海での哨戒任務などに活躍しており、また大きな艦体を生かした旗艦任務にしばしば就いている。

 南北戦争終了後もポーハタン号は現役にとどまり、1868年には南太平洋艦隊旗艦、1869年と1879年には本国艦隊旗艦を務めている。ただこれはポーハタン号の能力の優秀さもあろうが、それ以上にアメリカ海軍の懐事情もあるだろう。極東への権益確保がポーハタン号の建造目的であったと思われるが、南北戦争という内戦を行ったアメリカは東アジア進出への熱意が失われてしまったようであった。このため海軍の新造艦建築も下火になり、外輪艦のポーハタン号が長期間現役にとどまる結果になったといえる。

 ポーハタン号は1886年に退役し、翌年解体され、日米の架け橋となった艦艇は姿を消すことになる。アメリカが極東方面に再度興味を示し始めるのは1898年の米西戦争の勝利でグァム島、フィリピンの権益を獲得して以降のことになる。

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使節一行をパナマまで送ったポーハタン号。ちなみにアスペンゥオール(パナマの大西洋側)からワシントンまで送ったのはロアノウク号(3,400トン)ニューヨークから大西洋、インド洋を横断して日本まで送り届けたのはナイアガラ号(4,800トン)である。参考までに咸臨丸の排水量は292トンだった。
by narutyan9801 | 2013-09-05 11:50 | 妄想(歴史) | Comments(0)