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鼈の独り言(妄想編)

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イオ ~地球以外で唯一熱い溶岩が視認できた天体~

 溶岩は岩石が溶けたものであるから熱い、というのは地球での常識である。太陽系という範囲で見ると長石、シリカ、鉄などが融解した「熱い溶岩」を噴出する天体は少数派である。太陽から見て火星以遠の天体はガスが主成分の木星、土星を除くとほとんどがメタンなどが低温で固体化した「氷」の惑星でそういった天体では「冷たい」溶岩が存在する。岩石が主成分の「地球型惑星」で現在火山活動が目視で確認できるのは地球のみである。観測から金星でも火山活動がある可能性が高いが厚い大気と雲に阻まれて火山活動を直接観察することは出来ない。視点を太陽系全体に広げてみると地球以外で「熱い溶岩」が直接観測されている天体が一つだけ存在する。今回はその衛星「イオ」を考察してみたい。

 イオは木星の衛星で有名なガリレオ衛星の一番内側(一番木星に近い)を公転している衛星である。発見者はガリレオ・ガリレイで1609年1月7日に自作の望遠鏡で木星を観察した際に複数の衛星を発見している。だがこの日たまたま地球上からの視点でイオとエウロパ(第2衛星)が接近しており別々の天体がどうかの区別が付けられなかった。翌8日の観測で二つの天体であることが判明し公式の発見日は1月8日となっている。
 ところが1614年ドイツの天文学者シモン・マリウスが自身の著書でガリレオより早く木星の惑星を発見したと主張したのである。シモンが記載した観測日記の日付は1608年12月29日になっておりガリレオよりも11日ほど早かった。だがシモンが使っていた暦は紀元前に制定されたユリウス暦と言われガリレオの使用したグレゴリオ暦よりこの時点では11日遅い日付になっており発見は同日ということになる。ガリレオが先に発見を発表しており現在では木星の衛星発見者はガリレオという認識が一般的である。
 発見者にはなれなかったがシモンが提案した木星衛星の命名法は受け入れられ木星第一衛星はギリシャ神話の神イーオーから採られている。ちなみにイオの等級は5.02で目のいい人ならば地球からでも肉眼で見える明るさであるがすぐそばに等級-3の木星があるため肉眼での観察はほぼ不可能である。

 月以外の衛星の発見は当時の天文学者の興味を引き詳細な観測が行われた。この結果イオの周期が分かりこれを利用してデンマークの数学者オーレ・レ-マが地球と木星の距離によりイオが木星の裏側に隠れる「食」の周期に変化が生じることを観測し光速が有限であることを初めて証明している。しかしイオがどのような星であるかは19世紀後半になるまで分からなかった。
 1890年代にイオの赤道付近と極付近の表面の色に違いがあることが地球からの観測結果によって分かった。当初この色の変化はイオが球形では無いことや二連星であることが予想されたが観測が進むにつれて表面の地質的な違いによるものとの推測がされるようになる。これは氷で形成されていると考えられていたイオが他の成分で形成されていることを示唆するものだった。さらに1950年代には他のガリレオ衛星には存在する水がイオの表面には存在しないことが示唆されイオの特異性が明らかになった。こうした中で惑星探査機での調査が試みられるのである。

 1973年にパイオニア10号、翌年に同11号が木星に接近し平行してイオの観測も行われる。イオの質量が計測されイオの密度が月を上回り内部に鉄のコアを持ち岩石を主体として形成されていることが明らかになった。しかし期待された近距離の撮影は一部を除いて上手くいかなかった。宇宙線による高放射能領域の影響で画像が乱れたためと言われている。
 1979年に接近したボイジャー1号、2号からは良質な画像が送られ科学者たちを驚かせることになる。イオの表面は黄色に染まり部分的に茶、赤、緑などの色彩が点在する姿だったのである。他の衛星には多数見られるクレーターは見られず比較的なだらかな表面と点在する山というかなり単調な地形であった。そしてこの地形を生み出す原因もボイジャーは捉えていたのである。
 ボイジャー1号のイオへの最接近直後に撮影された画像を分析していたエンジニアがイオの表面から立ち上る噴煙を見つける。さらに解析してみると複数の噴煙が上っていることが分かったのである。ボイジャーの接近前にイオが木星及び他の衛星であるエウロパ、ガニメデからの引力を受け潮汐加熱や摩擦熱を発生させているという論文が発表されていた。イオの火山活動はそれを実証したものとなったのである。地球やおそらく金星で起こっている火山活動のエネルギーは惑星誕生時の余熱や含有している放射性物質の崩壊が主な熱源であり潮汐力は主な熱源とはなっていない。それに対してイオの火山活動のエネルギーはほぼ潮汐加熱や摩擦熱となっており外部からのエネルギーが天体の地質活動を起こしているという事象の実例になったのである。この火山活動の噴出物でイオの表面は覆われクレーターは形成されてもすぐ隠されてしまう。表面が比較的なだらかなのも活発な火山活動が原因だったのである。

 ボイジャーの接近後しばらくは惑星探査機の派遣は無かったが1995年に木星探査機「ガリレオ」が木星に到着し観測を開始する。しかし正規ミッションではガリレオはイオへの接近を試みなかった。イオの周囲は高放射能環境のため機器の破損を避けたためである。正規ミッションは1997年に終了しオプションのミッションでガリレオは数回イオにも接近している。2000年には土星に向かう探査機カッシーニがフライバイの目的で木星に接近した際同時に別方向からの観測を行うという試みもおこなっている。ガリレオの運用終了後現在は探査機ジュノーが木星の周回軌道に入っておりイオの探索も継続中である。ハッブル宇宙望遠鏡や地上からの観測技術も向上し探査機を介さなくてもイオの噴火活動を観測できるようになっている。

 イオの火山活動を支えている潮汐加熱はイオと木星の近木点と遠木点との差によって生じている。イオの軌道は真円では無く円に近い楕円形であるが離心率は0.0041と非常に小さい。しかしもしイオが単独で木星の周りを回っていれば木星とイオの重量差が圧倒的なためいずれはほぼ円に近い軌道になってしまう(重量差が圧倒的な火星とその衛星ダイモスの離心率は0.0002である)それを妨げているのが他の衛星エウロパとガニメデである。イオ、エウロパ、ガニメデは1:2:4の平均運動共鳴を起こしている。イオが木星を2周するごとにエウロパは1周、イオが木星を4周するごとにガニメデが1周とこの三つの衛星は木星の周りを整然と公転しているのである。このためイオの公転は真円にならずにわずかな楕円を描き続けている。イオの「熱い溶岩」は木星とそれを取り巻く衛星の相互作用で成り立っているのである。
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 木星探査機ガリレオが捉えたイオ。一見平坦で静かな印象であるが太陽系随一の火山活動を行っている天体である。またイオの表面には水がほぼ存在しない。すぐ外側を回っているエウロパが厚さ100kmに及ぶ水の層を持つのとは対照的である。

by narutyan9801 | 2019-05-08 20:56 | 妄想(天文) | Comments(0)

スティーブ・ジャクソンのソーサリーシリーズ ~一瞬だったゲームブックブームの最高傑作~

 人類が意識・無意識な作為を排除した乱数を創作する器具、賽を発明したのはおよそ7000年前と言われている。最初賽は『賽銭箱』という言葉が示すとおり神の意思を告げる神具であったが時代が下がるにつれて遊具として広く用いられるようになった。正方体の対面に1-6,2-5、3-4と合計が7になるように作成したいわゆる「サイコロ」はほぼ全世界で用いられる遊具になっている。このサイコロを使った遊戯はたくさんの種類があるが20世紀後半の数年間爆発的に流行した「ゲームブック」という遊戯があった。今回はそのゲームブックの中でも最高峰と言われる「スティーブ・ジャクソンのソーサリー」を考察したい。

 賽が遊戯に使用され始めたのはおよそ5000年前のエジプトだと言われている。現在のバックギャモンの原型になったセネトと呼ばれる遊戯でサイコロを振って出た目の数だけ盤上の駒を動かし自陣に入れるのを競うゲームであった。サイコロを使う遊戯はこのような駒を動かすいわゆる双六と呼ばれる遊戯や出る目を予測して当てるような遊戯の時代が長かった。現在のパラメーターと乱数を組み合わせて結果を決めるような遊戯は実は軍事学から移入されたものである。
 1820年代にプロイセン陸軍で導入された兵棋演習で偶発的な勝敗を決めるためにサイコロが用いられるようになる。この兵棋演習を各国が採用し日本でも明治期に導入している。有名な話であるが太平洋戦争のミッドウェー海戦直前に行われた兵棋演習で米軍の攻撃を受けサイコロの目が「命中九発」であった所を当時の連合艦隊参謀長宇垣纏少将の鶴の一声で「命中三発」とした逸話がある。ミッドウェー海戦の顛末を考えると複雑な思いがあるがこの時の兵棋演習の基本的な所は現在のウォーゲームとあまり変わらないのが感じ取れる。
 第二次大戦後アメリカで兵棋演習を簡略したボードゲーム(ウォーゲーム)が発表され人気を博するようになる。このボードゲームのバリエーションとして指輪物語などのファンタジー要素を取り入れ、扱う駒も戦士や魔法使いなどをモチーフとしたフィギュアを使うゲームが発表され1974年には初のファンタジーテーブルトークRPGである「ダンジョンズ&ドラゴンズ」(D&D)が発売されるのである。
 D&Dはゲームマスターが作ったシナリオを複数のプレイヤーが協力してPLAYしていくというスタイルで進行はゲームマスターの裁量に委ねられておりグループ内のコミュニケーションが重要になってくるという新しいゲーム感覚が話題を呼び人気を博したのである。
 好評だったD&Dだが一人ではPLAYできないという問題点があった。ソロプレイ用のシナリオも発表されていたのだがシステムが煩雑すぎ手軽にPLAYできるものではなかった。こうした中イギリスで二人のゲームデザイナーが新たなゲームを創作したのである。

 1975年イギリスでゲームズ・ワークショップ社が設立される。立ち上げたのはイアン・リビングストンとスティーブ・ジャクソンのルームメイト同士であった。設立当初同社はD&Dの輸入販売を手がけていたが1977年にテーブルトークRPG専門誌を創刊、独自のゲームデザインを模索するようになる。
 当時「ゲームブック」や「アドベンチャーブック」の名称でいわゆるテキストアドベンチャー形式の書籍は存在していた。二人はこのゲームブックにRPGの要素を加えることを模索、出版社ペンギンブックス編集者にこの案を打診し出版を提案する。この結果二人の共著である「火吹山の魔法使い」が刊行されることになった。発刊当初「火吹山の魔法使い」は話題にならなかったが手軽にロールプレイングゲームができると徐々に評判になりベストセラーとなる。大当たりしたゲームブックは「ファイティング・ファンタジー」シリーズとして続刊していくことになる。
 ファイティング・ファンタジーシリーズの作者の一人として名を連ねることになったスティーブ・ジャクソンであったが彼はシステムはほぼ踏襲するもののファイティング・ファンタジーシリーズとは別個のゲームブックの腹案を持っていた。それが「ソーサリーシリーズ」として世に出ることになるのである。

 「ソーサリー」シリーズはカクハバートという世界を舞台に奪われた「王たちの冠」を奪還することを目的とした物語で全4巻のゲームブックで構成されている。それぞれの巻は単独でPLAYできるようになっているが1巻から通してPLAYした方がより世界観を楽しめる。各巻が一つのクエストとなりキャンペーンをクリアすることを目的としていると言っていいだろう。
 ゲームシステムの特徴としては「魔法」の設定があげられる。ファイティング・ファンタジーシリーズでも魔法の要素はあったがあくまで選択肢の一つとして魔法が使えるといった程度だった。「ソーサリーシリーズ」では全48の魔法が用意され戦闘や要所要所で魔法を唱えるという選択が出る。現在では主流のマジックポイントという概念は存在せず魔法を唱えるごとに設定された体力を失う、つまり体力がマジックポイントを兼ねているという設定になっているのである。
 見逃せないのがジョン・ブランシュの挿絵である。独特のおどろおどろしい挿絵は妖精が飛び交い華麗な甲冑を着けた騎士が活躍する場面とはほど遠い、むしろ生活臭というか体臭が臭ってきそうな雰囲気を醸し出しているのだがこれが作品に強いインパクトを与えているのである。

 英国で1983年に発刊された初刊「The Shamutanti Hills」は1985年に日本語版「魔法使いの丘」として発刊されるや一大ブームになる。どれだけブームになったはと言うと最終刊「The Crown of Kings」が1985年にイギリスで発刊されたのだが同年中に日本語翻訳版「王たちの冠」が発刊されたのを見れば理解出来るだろう。娯楽としてのゲームブック人気は一気に高まりゲームブック専門誌とも言える「ウォーロック」が創刊され日本人ゲームブックデザイナーも誕生していった。しかしこのゲームブック人気は長く続かなかったのである。

 ゲームブックの誕生とほぼ同時期に「ウルティマ」「ウィザードリィ」と後のコンピューターRPGの源流となる作品が発表されている。それぞれのゲームデザイナー、リチャード・ギャリオット(ロード・ブリティッシュ)とロバート・ウッドヘッド両氏共ゲーム開発の目的は「D&Dを一人でPLAYしたかったから」と語っている。つまりゲームブックとコンピューターRGBゲームの源流は同じところであった。そしてこの二作品の影響を受けたファミリーコンピュータ用ソフト「ドラゴンクエスト」が1986年にリリースされ大ヒットを記録したのである。これまでのPC用RPGはPLAYに十数万円以上するパソコンを購入する必要があったのに対しハードとソフト併せて二万円ちょっとでお手軽に本格的RPGが楽しめ、それまでシューティングやアクションゲームと子供のものだったゲームを大人も楽しめるという趣味にまで発展させたことで画期的な出来事であった。そしてコンシューマ機でのRPGの普及はゲームブックを一気に衰退させたのである。パーティーを組んでの複雑な戦闘処理、世界観を形作るグラフィック、複雑なシナリオ等々ゲームブックではとうてい再現不可能な要素であった。コアなファンが多く代替えの効かないテーブルトークRPGと違いゲームブックプレイヤーがそのままコンシューマRPGプレイヤーに流れても仕方ない状況だった。その結果ゲームブックというジャンルは衰退しスティーブ・ジャクソンもソーサリーシリーズを超えるゲームブックを作ることは出来なかったのである。

 2000年代に入りソーサリーシリーズを含むゲームブックの再版が行われているがかっての勢いを取り戻すことはなかった。現在はソーサリーシリーズの単行本よりも軽いスマホでどこでもRPGが出来る時代である。もはやゲームブックがブームになることは無いだろう。しかし短いながらサイコロ二つで熱くゲームを楽しめる時代が存在したことを自分は忘れることができないのである。
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 ソーサリーシリーズの日本語版、右が東京創元社版の「王たちの冠」左が創土社版の「シャムダンディの丘を越えて」PLAYのしやすさは創土社版の方に軍配が上がりそうだが翻訳者の拘りが東京創元社版のファンを捉えきれなかった感がある。個人的にもミニマイト=豆人はちょっと思うところがある

by narutyan9801 | 2019-05-06 17:27 | 妄想(その他) | Comments(0)

メシエカタログ ~コメットハンターの拘りがつまった「紛らわしいものリスト」~

 コメットハンターと呼ばれる人々がいる。夜空に突如現れる彗星をいち早く探し出す人々たちのことである。現在彗星の発見は地球近傍小惑星自動探査プロジェクトがいくつか稼働し人が直接観測して新たな彗星を発見することは希になってきているがそれでも地道に夜空を観測しているアマチュア天文家も多い。現在のような観測機器がなかった時代、彗星の発見は簡素な天体望遠鏡と観測者の腕にかかっていたが他の天体の誤認も多く発生していた。今回は彗星探査の際彗星と紛らわしい天体の除外を目的として作成された「メシエカタログ」を考察したい。

 メシエカタログを作ったシャルル・メシエは1730年生まれのフランス人で1751年にフランス海軍天文台の助手となり天文観測に従事することになる。天体観測者となった彼が没頭したのは「ハレー彗星の再発見」であった。エドモンド・ハレーが1757年に回帰すると予言した彗星の再発見にメシエは情熱を注いだのである。メシエは1759年1月21日にハレー彗星を再発見するがすでにその一月前にドイツ人ヨハン・ゲオルク・パリッチュがハレー彗星再発見を果たしていたのだった。ハレー彗星再発見一番乗りを逃したメシエに誹謗中傷が殺到する。普通ならば腐ってしまってもおかしくない状況であったがメシエはこの状況に逆に発奮する。レクセル彗星(観測史上最も地球のそばを通過した彗星)などを発見したメシエはフランス国王ルイ15世から「彗星の狩人」と呼ばれその名声は揺るぎないものになったのであった。

 名声を得た後も天体観測を続けたメシエではあるが夜空にはメシエを悩ますものが存在した。彗星は太陽に近づくと揮発性の物質が蒸発し天体望遠鏡での観測ではぼやけて見える。しかし夜空の天体には当時の天体望遠鏡では彗星によく似た見え方をする天体も存在したのである。恒星が球状に集まっている散開星団や球状星団、星間ガスなどがまとまった星雲、銀河系外の別の銀河などは当時の光学機器の精度では彗星と区別が付きにくかった。誤認の多さに業を煮やしたメシエはあるアイデアを思いつく。見間違えやすい天体をリストアップして誤認を防ごうとしたのである。それまで知られていた誤認しやすい天体にメシエ自身が発見した天体を合わせて発表し彗星との誤認を防ぐという考えであった。
 このリストアップにメシエが天体観測と同じぐらい情熱を注いだのが「数字の切りの良さ」であった。リストを纏めていくうちにリストアップした天体の数が「39」になりそうになるとメシエは「1個追加して40にしよう」とするのである。様々な文献を漁っていくと1660年にポーランド人天文学者ヨハネス・ヘヴェリウスが星雲らしいものを見つけたという情報があった。メシエが自身の望遠鏡で確認してみると星雲はなく重なるように見える二つの恒星が見えるだけであった。しかしメシエはこの二重星をリストに加えてしまうのである。
 しかし話はここでは終わらない。リストが40個になりやれやれと思ったかは分からないが彼が本業の彗星探索をしていると自分で紛らわしい天体を一つ見つけてしまうのである。そこで彼が取った行動は「あと4つ加えて45個にしよう」というものであった。しかしそう簡単に適当な天体は見つからない。そこでメシエがリストに載せたのは紀元前から知られているオリオン星雲や昴(ブレアデス星雲)などおおよそ初歩的な天文学を学んだ者ならば彗星と見間違えることはないであろう天体だった。彼の切りの良い数字へのこだわりは並大抵のものではなかったのである。
 好意的に見ればメシエのカタログ作りは彗星と紛らわしい天体のピックアップから「彗星状」天体の網羅と制作目的が変わったため過去に観察された星団や既知の星団を遅まきながら取り込もうとしたと解釈することもできる。しかし観測結果で彗星状天体の存在が確認されなかった40番をカタログに加えたのはやはり不可解に感じる。
 ともあれ彼の拘りも含めて1774年にメシエカタログとして45個の天体が発表される。その後も彗星と間違えやすい天体の発見は続き彼の生前に計103個の天体が追加記載されることになる。さらに彼の死後残された資料から彼が発見していたと思われるが記載しなかった天体が7つ加えられ現在のメシエカタログは110の天体が記録されている。ただ記載位置に天体が存在しないものもある。行方不明天体の大部分はメシエの記録の間違い等でその後同定されたが102番目の天体の正体は現在も議論が続いている。

 現在は観測技術が発達しメシエ天体が彗星発見の邪魔になることはほぼ無くなっている。コメットハンターから目の敵にされることの無くなったメシエ天体を使った面白い試みがなされてる。メシエが活躍していた時代の観測器具で発見された天体は現在の観測機器であれば容易に観測が可能である。そこで一晩でメシエ天体をより多く観測するという「メシエマラソン」という天体観測がある。北緯25度前後で3月中旬から4月上旬であれば一晩ですべてのメシエ天体を観測することも可能と言われている。作成の動機とは全く違った用途に使われるのは地下のメシエも驚いているだろうが同時に満足していることだろう。
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メシエカタログ104番目に記載されているソンブレロ銀河。メシエ自身がカタログに記載した天体は1784年に発表した103番まであり104番以降は死後彼の研究結果を基に追加記載されている。最後の発表からメシエの死まで30年以上の時間があるが身体の衰え(転落事故の後遺症があったと言われる)やフランス革命の影響でメシエカタログは追加されることは無かった。
 

by narutyan9801 | 2019-05-03 11:28 | 妄想(天文) | Comments(0)

ヴォイニッチ手稿 ~未だ解読不能な謎の奇書~

 人類が直接言葉を交わせない相手に情報を伝える手段、文字を発明したのは約8000年前と言われている。そして文字の誕生とほぼ同じ時期には特定の人以外に情報が伝わらないようにするための手段「暗号」も出来ていただろう。暗号は文字に条件付けを行い情報を分からなくするものであるがあまりに複雑だと解読に時間がかかったり間違った解読を行ってしまう可能性が増えるため一定の条件を付加する場合がほとんどである。しかし何度も暗号を使用していると確率統計的手法により暗号が解読されてしまうことになる。現在ではコンピューターの解析なども使われ極端に使用頻度の低いもの以外の暗号は時間をかければほぼ解読が可能となっている。しかし何事にも例外は存在し現在の暗号解読技術をもってしても解読できない奇書も存在する。今回はそんな奇書の中でもとりわけ謎めいている「ヴォイニッチ手稿」を考察したい。

 ヴォイニッチ手稿は1912年にアメリカ在住の古書商ヴォイニッチが現在のグレゴリアン大学の前身コレジオ・ロマーノが売却した古書の中から発見したとなっているがこの手稿の存在はそれ以前にいくつかの記録が残されている。確実な最古の記録はプラハに住んでいた錬金術師ゲオルク・バレシュが1639年にローマに在住していた学者アタナシウス・キルヒャーに宛てた手紙の中にこの手稿を入手したことが記されている。バレシュの死後友人の手を経て手稿はキルヒャーが所有することになった。入手の際この手稿がかって神聖ローマ帝国皇帝ルドルフ2世(1552~1612)が600ダカット(現在の価値で約10万ドル)で手稿を購入したと書かれたメモが付随され後にヴォイニッチが再発見した際このメモも見つかっている。エジプトの古代文字ヒエログリフの研究なども行っていたキルヒャーは自身がこの手稿の解読を試みようしたが解読は失敗に終わったようでありキルヒャーの死後ヴォイニッチ手稿は他の蔵書と共にコレジオ・ロマーノに収蔵されたらしい。その後1912年にコレジオ・ロマーノが財政難に陥り蔵書の一部を売却、その中にヴォイニッチ手稿が含まれていたのである。再発見者のヴォイニッチは同書をアメリカに持ち込み亡くなるまで彼が所有していた。1930年にヴォイニッチが亡くなると同書はまた幾人かの手を経た後1969年にイェール大学に寄贈され、現在に至っているのである。

 ヴォイニッチ手稿は大きさは23.5cm×16.2cm×5cmで現在のA5サイズよりも若干小さい。一部が失われているが現存する部分の厚さは5cm、ページ数は約240ページで上質な羊皮紙で作られている。土台となっている羊皮紙であるが2011年にアリゾナ大学で行われた放射性炭素年代測定法により1404~1438頃に作成されたものであることが判明しているが手稿自体の作成時期は羊皮紙の製造よりも時代が下がる可能性はある。
 ヴォイニッチ手稿に記載された文字数は残っている部分で約17万文字であり多くのページに挿絵が描かれている。挿絵の種類から生物学、占星術、薬学、薬草、処方の五つの分野に区分されるのではないかと思われている。
 文字、または記号と思われるものはでたらめに配置されているわけではなく何らかの意味を持つ文章の配列になっていると推察されており様々な手法で解読が試みられているが未だに記載された内容は不明である。

 ヴォイニッチ手稿が再発見された時期は第一次世界大戦の直前で国家間の諜報活動が活発化した時期であり暗号の解読方法も日々発達を遂げていた。第二次世界大戦後成熟した暗号解読法を用いてヴォイニッチ手稿の解読が幾度か試みられている、代表的なのが暗号の天才と呼ばれたウィリアム・フリードマンによる解読であるが彼をもってしてもヴォイニッチ手稿に記載された内容は解読できなかった。解読には失敗したもののフリードマンはヴォイニッチ手稿の記述は民族や国家と言ったマクロな単位で時間をかけて発達した自然言語ではなく個人や団体といったミクロな単位の中で短時間で考案された人工言語ではないかと推察している。
 暗号解読とは別の手法で挿絵等からヒントを得て単語の意味を解読し個々の単語の意味をつなぎ合わせて文章の内容を解読しようという試みもなされている。例えるなら杉田玄白らの「ターヘル・アナトミア」の翻訳で「鼻」の項目に記載された「フルヘッヘンド」という単語を「盛り上がった」と推察したような解析(このフルヘッヘンドの話は実際は別の単語だったという説もある)である。しかし正体が特定しやすいと考えられた植物の挿絵は実際に存在する植物ではなく架空のものが描かれており単語の特定に結びつけられるものはなかった。そしてもう一つ特定しやすい要素である人物画も全裸かつ抽象的な画法で装飾品や身体的特徴から民族を特定できずこの手法での解読も失敗している。
 現在注目されている解読法は知られている言語の文法パターンとヴォイニッチ手稿の文法パターンを比べ元になる言語を特定しそこから翻訳を進めるという手法である。現在コーカサス語、セム語、ラテン語、古トルコ語などの候補があり実際にある程度翻訳が進んでいるというものもあるが元になる言語が確定しない限り推察の域を超えないものである。

 様々な解読が試みられている中でヴォイニッチ手稿の内容は実は全く意味をなさないものでないかという説も根強い。前述したとおりヴォイニッチ手稿は神聖ローマ帝国皇帝ルドルフ2世が大枚を叩いて購入したという記述も有り代々の所有者も大金を出して購入したと思われ詐欺を行うための贋物して十分な魅力を持っている。もしも手稿を詐欺の餌として使うならばなまじ意味が通る内容よりも意味がありそうで実は無意味な偽書としたほうが何かと好都合であろう。高価な羊皮紙や顔料も偽書に付加価値を与えるには効果的であるかもしれない。しかし万が一ヴォイニッチ手稿が偽書であった場合、この奇書は高価な落書きということになってしまうのである。

 現在ヴォイニッチ手稿は所有者であるイェール大学がインターネット上で公開しネットを介して誰でも閲覧することができる。数百年前の不老不死や錬金術の秘法を記したと思われている奇書は現在全世界の人々の目に晒されつつもその秘密を守り続けているのである。

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 現在ヴォイニッチ手稿はインターネット環境があれば複数のサイトで現存しているすべての記載が閲覧できる。希代の奇書を眺めてみるのも一興だろう。

by narutyan9801 | 2019-05-02 11:58 | 妄想(オカルト) | Comments(0)