鼈の独り言(妄想編)

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第五回ストックホルムオリンピックマラソン競技 ~オリンピック初の悲劇と最遅記録~

 夏季オリンピック競技の種類はリオデジャネイロオリンピックで28競技306種目であったという。これだけの競技の中で花形を上げろというとなかなか意見はまとまらないと思うがマラソンは候補の一つになるだろう。マラソンは紀元前490年のマラトンの戦いの勝利を伝えるために走り続け報告を終えると息絶えたという伝令の伝説を元に第一回アテネオリンピックでマラトン-アテネ間の長距離走を行った事が由来である。この伝承のためかマラソンは他の競技に比べるとナショナリズムが強い傾向がある。他方マラソンはトラック外を走るため天候、気温、路面条件などの影響が大きい競技でありアクシデントも多い。今回はオリンピック競技で初めての死者を出してしまった第五回ストックホルムオリンピックマラソン大会を考察したい。

 第五回ストックホルムオリンピックは1912年5月5日から開催されている。開催種目は15競技102種目と現在の1/3ほどであったが競技の準備等に時間がかかり7月27日まで約三ヶ月にわたって競技が続けられた。参加国は28国であったがこの大会から日本もオリンピックに参加している。そして大会終盤の7月14日に男子マラソン競技が開催されるのである。

 この日マラソン競技が行われるストックホルムでは記録的な熱波が襲来していた。この日日光の当たる所では摂氏40℃に達したと言われている。ストックホルムは北緯60度に近い位置にあり亜寒帯気候で7月の平均日最高気温は22度前後であるが数年に一度熱波に襲われることがあり観測記録の最高温度は1811年7月3日に38℃という記録が残っている。この気温の中13時45分にマラソンはスタートするが68名のマラソン競技参加者は棄権者が続出しほぼ半数の33名が棄権するという過酷な競技になってしまいこの棄権者の中にポルトガル代表のフランシスコ・ラザロがいたのである。

 フランシスコ・ラザロは1891年生まれ(生年には諸説ある)ストックホルムオリンピック出場時は21歳の若さであったが1910年のリスボンマラソンで優勝するなどポルトガル国内のマラソン大会で3度優勝しておりストックホルムオリンピックのマラソン代表に選ばれている。オリンピック開会式では国旗を掲げる旗手を勤めておりポルトガル国民がラザロにかける期待は相当大きかったようである。
 ラザロは30㎞以上を走ったが残り8㎞を切ったところで突然倒れてしまう。スタッフが異変に気づきラザロに駆け寄るが既にラザロの意識は無かった。すぐに待機していた医師がラザロの倒れた現場に赴き応急処置を行った後ラザロは病院に搬送されたがラザロの体温は42度という人間が耐えられる体温を超えている状態で手の施しようが無く翌朝6時にラザロは意識を取り戻すこと無く短い生涯を終えてしまったのである。

 ラザロの死因は現在で言えば熱中症である。ラザロが熱中症を起こしてしまった要因がいくつか指摘されている。最大の要因はやはりマラソン同日の暑さであったろう。そして当日晴天の日差しを避けるため多くの選手が帽子を被っていたにもかかわらずラザロは帽子を着用していなかった。さらにラザロは日焼けと過度な発汗で体力を消耗しないように身体にオイルを塗っていたということが後から判明している。このオイルが正常な発汗を押さえてしまい体温の調整や体内の電解質の不均衡を起こさせてしまったと言われている。まだ「スポーツ生理学」という言葉すら生まれていなかった時代の悲劇であった。

 このマラソン大会には日本人選手も出場している。日本代表の金栗四三は大会前年に行われた日本代表選考会で長距離走用に改良されたマラソン足袋を履き当時の世界記録を27分も縮める記録を持ち、優勝の期待がかかっていた。しかし当時の日本からストックホルムへの移動は二十日に及ぶ船旅しか無く船上でできる限られた練習では持久力の維持は困難であった。さらにストックホルムは緯度が高く夏は昼間の時間が極端に長く金栗は睡眠障害に悩まされる。そして当時のストックホルムでは日本人の主食である米の入手方法が無かったのである。これらの悪条件で競技前に体調を落としていた金栗は順位争いから脱落し18㎞付近で熱中症で倒れてしまう。大会関係者は多くの脱落者の救護で手一杯で金栗が倒れたことに気づかずレース沿道の農家が金栗を家まで運びそこで介抱されたのである。金栗が意識を取り戻したのはレース翌朝ですでに競技は終了していた。日本側は金栗が行方不明になったことにより混乱していたのか、はたまた故意かは分からないが競技棄権の意思を示さず金栗の競技記録は「レース中に失踪しゴールせず」となってしまう。

 ストックホルムオリンピックは1912年7月27日に閉幕するが近代オリンピック初の死亡事故は関係者に衝撃を与えることになった。オリンピックのメインスタジアムでは後日当時の国際オリンピック委員会会長だったピエール・ド・クーベルタンの発案で追悼の音楽会が催されその収益はラザロの遺族に贈られている。またポルトガルで行われたラザロの葬儀には数千人が参列し若くして亡くなった英雄に祈りを捧げたという。

 金栗四三は1920年のアントワープオリンピック、1924年のパリオリンピックにもマラソン選手として出場し(1916年のベルリンオリンピックは第一次世界大戦のため中止)日本での長距離走の第一人者として箱根駅伝の開催にも尽力している。競技引退後は教鞭を振るい熊本県教育委員会委員長、日本陸上競技連盟会長などを歴任する。そして1967年、一通の手紙が金栗の元に届くのである。
 手紙の差出人はスウェーデンのオリンピック委員会からであった。スウェーデンではストックホルムオリンピック開催55周年を記念しての行事開催が予定されており当時の記録を改めて精査していたところ金栗の行方不明が「再発見」されたのである。オリンピック当時ヨーロッパでは初参加の日本人マラソン選手の行方不明事件が「椿事」として話題になったこともあり記憶している人も多かったのだろう。そして記念式典で金栗をゴールインさせるという企画が持ち上がり金栗をストックホルムへ招待することになったのである。金栗は思い出とも因縁とも言えるストックホルムに赴きオリンピックスタジアムに設けられたゴールテープを切る。時刻は1967年3月20日19時17分20秒、記録は54年8ヶ月6日5時間32分20秒であった。この瞬間スタジアムには「これをもって第五回ストックホルムオリンピックの全競技が終了いたします」とのアナウンスがあり第五回ストックホルムオリンピックの終了が告げられたのである。ゴール後スピーチを求められた金栗は万感の思いを笑顔でこう締めくくっている。「長い道のりでした。この競技中に孫が5人できました」と

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 ゴールテープを切る金栗四三氏、ちなみにJOCの公式記録データベース上での金栗四三のストックホルムオリンピック記録は「途中棄権」となっている。

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# by narutyan9801 | 2018-02-02 04:00 | 妄想(その他) | Comments(0)

窒素 ~大気の8割を占める気体は「声」も支配する~

 地球の大気の組成は季節の変動が大きいが乾燥した状態(水蒸気を大気に含まない状態。水蒸気は大気中の1~4%を占める)酸素が約21%、アルゴンが約1%、二酸化炭素が約0.04%である。近年温室効果で増加が注視されている二酸化炭素であるが現在のところは大気中に占める割合はごく小さい。そして大気中の約8割、約79%を占める気体が窒素である。今回はこの窒素を考察したい。

 現在の大気の大部分を占める窒素であるが、地球が誕生した当初はごくごく微量が含まれていただけだったと考えられている。誕生したばかりの地球の大気は非常に高温高圧で大部分が水素とヘリウムで太陽の構成に近いものだったと考えられている。水素やヘリウムは軽く誕生したばかりで活動が活発だった太陽からもたらされる太陽風で吹き飛ばされてしまい数千万年後にはほとんど無くなってしまったらしい。代わって地球の大気の大部分を占めたのが地球の火山活動で地球内部から噴出してきた二酸化炭素とアンモニアであった。海が出来る前の地球の大気は現在の金星の大気に似ており大気中の二酸化炭素の温室効果で温度は400℃を超え100気圧ほどの高圧状態、言い換えれば濃い大気濃度だったと思われている。そしてこの時微量の窒素分子そのものやアンモニアが分解されて窒素分子が誕生しているが密度の濃い古代地球の大気成分の中ではごく微量だったと思われている。しかしこのごく微量の窒素がのちのち大気の大部分を占める窒素になるのである。
 やがて地球の表面温度が冷え大気中に含まれていた水蒸気が雨になりついには海を形成する。誕生したばかりの海は酸性だったが岩石が解かされ中和された海に大量の二酸化炭素が溶け込み大気中の二酸化炭素濃度が急激に下がってゆき相対的に窒素が大気中に占める割合が増えていく。そして生命が誕生し生命の光合成活動により海洋に溶け込んだ二酸化炭素が光合成で消費され酸素が生み出されることにより現在の大気組成になったと考えられているのである。

 1772年、スコットランドの化学者ダニエル・ラザフォードにより窒素は「発見」される。当時二酸化炭素は発見されていたが密閉容器の中で火を点し酸欠によって自然鎮火した空気から二酸化炭素を取り除いた気体では火が点らないことが分かっていた。当時の化学では燃焼という化学反応には「フロギストン」(燃素)という物質が形成され密閉容器の中ではフロギストンが飽和状態になるため燃焼できないという説が信じられていた。ラザフォードは燃焼で酸素が消費され二酸化炭素を取り除いた気体はフロギストンが飽和状態になった気体と思い発表したのである。なお日本語の窒素という文字の由来はラザフォードが生物の生命活動でも燃素を発生させており窒素のみの気体中にマウスを入れてみると死んでしまったことからフロギストン飽和状態では生物は息ができないと考えnoxious air(有毒空気)と命名し、それがドイツ語訳ではStickstoff(シュティクシュトフ,窒息に至らしめる物質)と訳されそのドイツ語をそのまま日本語に訳したものである。もしかしたらドイツ人であったシーボルトがもたらしたものかもしれない。マウスを死に至らしめのは窒素そのものではなく酸素の欠乏が原因ではあったのだが。

 その後フランスのアントワーヌ・ラヴォアジェによりフロギストン説が否定され、さらにラヴォアジェ自身が窒素が元素であることを発見すると窒素の研究が飛躍的に進み窒素と生物・化学の関連性が分かってきたのである。
 生物を形成するアミノ酸やタンパク質などはほぼすべてが窒素の化合物で形成されている。特に植物の生育には窒素は不可欠で他の必須要素であるリン・カリウムと共に肥料の三大要素と言われている。ところが窒素分子(N2)は非常に安定した物質で生物がこれを利用するためには微生物が空気中の窒素をアンモニアなどに変化させる窒素固定と呼ばれるプロセスを経ないと利用できなかったのである。窒素酸化物は水に溶けやすく継続的に施肥をする必要があり空気中にほぼ無尽蔵にある窒素を微生物の力によらず固定する方法が研究され1903年にフリッツ・ハーバーとカール・ボッシュにより窒素を人工的に固定する方法が発明されたのである。この発明により人類の農業生産量は飛躍的に増大した。他方窒素酸化物は火薬の原料にもなる。それまでの天然鉱物を利用しての火薬生産から人工的に火薬を生成することも可能になった。実際に第一次世界大戦では火薬の原料となる窒素酸化物系の鉱物を産しないドイツがほぼすべての火薬を人工的に窒素固定した窒素酸化物から生産している。

 このように人類に恩威をもたらす窒素であるが、圧力がかかる状態で窒素を吸引してしまうと人体に牙をむくことがある。いわゆる「減圧症」という症状である。圧力がかかって体積が小さくなった状態で血液中に溶け込んだ気体が圧力が下がると気体に変化して人体に様々な影響を与える障害である。窒素は空気中に多量に含まれ潜水病の主要な要因となる。また血液中に窒素が多量に溶け込むとアルコール酩酊に近い状態になる「窒素酔い」を起こすこともありダイビングをする際に窒素はやっかいな存在となっているのである。
 この減圧症を防ぐために大深度潜水などではより安全な(100%安全ではない)ヘリウムと酸素の混合気体を用いるが、ヘリウムは音の伝播が早く(空気中の伝播のおよそ3倍)この気体を吸引した人の声が変わってしまう。管理者も30年ほど前のテレビ番組で愛川欽也氏がこの気体を吸って声を発した時の衝撃を今でも覚えているが声が変わっただけで人全体の印象も変わってしまうものだと考えさせられたものである。窒素は「声」という人の個性を決める重要な部分を担っている気体でもあるのである。

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# by narutyan9801 | 2018-01-26 04:49 | 妄想(その他) | Comments(0)

ミイデラゴミムシ ~昆虫のロケットマン、幼虫は偏食家~

 「ロケットマン」現在某超大国の大統領が某国の最高指導者を揶揄した言葉である。しかしこちらのロケットマンは国家が作り出したロケットを操ることはできても自分ではロケットを生み出すことはできない(権力で造ったロケットは自ら建造したと言えないという定義ならば)ロケットそのものを考えるにはこの人物よりも我々の足下に優れたロケット技術を持つ「昆虫」が存在する。今回は体内にロケット技術を隠し持つ昆虫「ミイデラゴミムシ」を考察したい。

 そもそもロケットとはなんぞや?というと「自らの質量を噴射して推力を得るもの」となる。簡単なロケットとなるとゴム風船を膨らまして口を結ばずに手を離せばゴムの縮む力で風船内の空気が押し出され風船が動く。これもロケットといえるのである。しかし普通に質量を噴出しただけでは自らを動かすまでの推力は得られない。このため物質の化学変化で噴出させる物質の体積を増やすなどしてより大きな推力を得ようとしたものがロケットエンジンである。

 ロケットの定義はこれぐらいにしてミイデラゴミムシの方に戻ろう。ミイデラゴミムシは沖縄諸島を除く日本全国、朝鮮、中国に分布するゴミムシの仲間(ホソクビゴミムシ科)で頭と胸がオレンジがかった黄色。腹部上羽は黒で中央付近に頭や胸と同色の切れ込み模様が入り、警告色なのかこの種の虫としてはかなり派手な色をしている昆虫である。
 ミイデラゴミムシの生態の特色はなんといっても「おなら」である。ミイデラゴミムシは敵に襲われると「おなら」をして敵を撃退する防御方法を持っているのである。この特徴から「ヘッピリムシ」や「ヒヘリムシ」の方言で呼ばれる地方も多い。ちなみに管理者の出身地では「ヘッピリムシ」はカメムシのことを指していてミイデラゴミムシはさしたる呼び名はなかった。実のところミイデラゴミムシが含まれるホソクビゴミムシ科の昆虫は「おなら」をする虫が多い。ミイデラゴミムシはこの仲間では大型で餌を求めて徘徊する習性があり目立つため「ヘッピリムシ」の名前を頂戴したと思われる。

 ミイデラゴミムシのロケット機構は過酸化水素水(H2O2)とヒドロキノン(C6H4(OH)2)の反応を利用したものである。ミイデラゴミムシは肛門近くの袋にこの二つの物質を収納しておきいざというときに二つの物質を同時に肛門へ押し出すとこの二つの物質は反応を起こすのである。過酸化水素水は強力な酸化剤でかのロケット戦闘機メッサーシュミット Me163や日本版Me163「秋水」にも利用されてきた物質でありヒドロキノンも強力な還元剤として利用される物質である。この二つが混じり合うと
  ヒドロキノン(C6H4(OH)2)+過酸化水素水(H2O2)
  →p-ベンゾキノン(C6H4O2)+水(H2O)
という反応を起こし、また反応熱が発生する。この熱で水は蒸発して水蒸気となり急激に体積が膨張してミイデラゴミムシの体外に放出されるのである。この発生ガスの温度は100℃を超えており捕食者へ火傷を負わせることでミイデラゴミムシは敵から逃れることが出来るのである。またヒドロキノン、ペンゾキノン共にタンパク質と結合する性質があり人体に直接触れると皮膚が褐色を帯びてしまうことがある。人体に大きな影響は与えないがミイデラゴミムシの捕食者には科学的に有害な成分になっている。さらにたとえ捕食されたとしてもミイデラゴミムシの有毒ガスは捕食者の胃腸を刺激し獲物を丸呑みにするカエルなどはこの刺激により飲み込んだミイデラゴミムシをはき出してしまうことがある。実験では飲み込まれて二時間後にはき出され生還したミイデラゴミムシもいたそうである。カエルは獲物が危険かどうかの学習能力が高く一度ミイデラゴミムシの屁の洗礼を浴びたカエルはミイデラゴミムシの捕食を避けるようになりミイデラゴミムシの捕食圧を軽減する効果も期待できる。
 ミイデラゴミムシの肛門は伸縮性がありまたフレキシブルに動かせるので背中側にガスを噴射させることもできる。ただ残念ながらミイデラゴミムシの噴射力では空を飛ぶことは不可能なようである。

 ミイデラゴミムシの成虫の特徴だけでも非常に興味深いのだが幼虫時代は更に特異な生態を持っている。ミイデラゴミムシの幼虫はふ化した直後は体長2~2.8mmほどで移動能力が高く地中に潜って暮らしているケラという昆虫の産卵した卵の塊に侵入してそれを食べて成長する。移動の必要が無くなったミイデラゴミムシの幼虫は脱皮して二令幼虫になると足が無くなり蛆状の形になってしまう。この他の昆虫の卵塊などにたどり着きそれを食べて成長するのはホソクビゴミムシ科全体の特徴であるがほとんどのホソクビゴミムシ科の昆虫は宿主が分からず日本産のホソクビゴミムシ科で宿主が判明しているのはミイデラゴミムシだけである。このように研究が進んでいるのはやはり「ペッピリムシ」という知名度だからであろうか?

 上で「発がん性が指摘されている」と書いたミイデラゴミムシのおならの成分「ヒドロキノン」であるが実は美容品に使用されている。近年よく耳にする「美白効果」これにヒドロキノンが一役買っている。ヒドロキノンの強力な還元力は漂白効果もあり肌のシミや黒ずみを消す効果があると言われている(含有量2%までは無規制)美女の白肌を造る成分が実は「ヘッピリムシ」の屁の原料と同じ(もちろん合成で製造されていてミイデラゴミムシから抽出するわけではない)と考えると笑いがこみ上げてくるのである。

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 ミイデラゴミムシは朝鮮半島にも生息しているがかの「ロケットマン」の国ではミイデラゴミムシが切手になっていたそうである。


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# by narutyan9801 | 2018-01-24 04:03 | 妄想(生物) | Comments(0)

「春の目覚め」作戦 ~ハンガリーからソ連軍を駆逐しようとしたヒトラーの賭~

1945年4月時点でナチスドイツの敗勢は誰の目にも明らかであった。既にソ連軍はドイツの首都ベルリンから約80kmのオーデル川に到達し準備ができ次第ベルリン攻略に乗り出す体勢を整えつつあった。この情勢でもヒトラーの目はドイツ国外に向いていたのである。今回は第二次大戦ドイツの最後の攻勢と言われる「春の目覚め」作戦を考察したい。

 1944年6月のパグラチオン作戦終了後ドイツ正面では戦線整理と前線部隊の補充再編成を行っていたソ連軍であったがドイツと同盟関係にあった東欧諸国への攻勢は続けていた。ドイツの同盟国だったハンガリーは一時枢軸国側からの離脱を計るがドイツが支援するクーデターがあり引き続きドイツ側に留まっていた。ソ連軍はハンガリー領内に侵入し1944年10月29日にはハンガリーの首都ブダペストを包囲する。約4ヶ月の包囲の後ブダペストは陥落しハンガリーの大部分はソ連占領下に置かれたのである。
 この状況下でヒトラーはハンガリー国内のソ連第3ウクライナ方面軍を一掃し軍事的脅威を除く攻勢を計画する。すでにソ連がドイツ国内に進軍しておりベルリンへの攻勢も間近と思われたこの時期に戦局には直接関与しないと思われた地域への攻勢は無意味とほとんどのドイツ軍首脳は考え作戦へ反対したがヒトラーは強引に作戦準備を推し進める。ヒトラーからすればハンガリーはドイツ国内では算出しない石油を供給する地であり何より中央・東ヨーロッパ最大の都市であるブダペストの領有は政治家ヒトラーの信念でもあった。軍事力が激減し軍事的に保持占領が不可能となっているブダペストを奪回しようとするヒトラーの信念はもはや狂気と言ってもいい状態だったといってもいいかと思う。

 作戦はブダペスト南西、バラトン湖周辺で計画された。当時この地域にソ連第3ウクライナ方面軍の主力が展開しハンガリー西方に残るドイツ軍を攻撃すべく準備を行っていた。ドイツ軍は東西に細長いバラトン湖の東側と西側から同時に攻勢をかける作戦を立案する。主攻勢は東側でバラトン湖東岸を進撃しその後北東と東南の二方向に分かれて進軍し北東側はブダペストへ進撃、南東側はドナウ川西岸を制圧しつつ第3ウクライナ方面軍の撃滅を計る予定であった。西側の攻勢はバラトン湖を迂回進撃し東側南東攻勢と呼応して第3ウクライナ方面軍を攻撃する手はずになっていた。これとは別にハンガリーとユーゴスラヴィアの国境付近から同地に駐屯するE軍集団の二個軍団が北進して包囲網に加わることが計画された。計画の上では壮大な包囲殲滅作戦が展開される予定であった。
 「春の目覚め」作戦の主役となるバラトン湖から出撃する兵力は南方軍集団隷下の第6SS装甲軍と第6軍が投入されることとなった。しかし参加兵力のほとんどがフランスで行われた「ラインの守り」作戦(バルジの戦い)やハンガリー国内の戦闘で消耗し再編成を行った部隊であった。既にドイツの国力は払底しており親衛隊全国指導者ヒムラーの権限で優先的に装備を補充されたSS部隊もほとんどが部隊定数を満たすことが出来ていない状況であった。人員の補充はさらに困難で歩兵の一部にはドイツ海軍の水兵を即席訓練を行って充当させている。南から北上するE軍集団は元々が占領地区などに駐屯してパルチザン討伐などに当たる部隊であり本来なら攻勢に投入すべきではない部隊で更に度重なる戦闘に従事しており部隊は損耗、疲弊した状態になっていた。このような問題を抱えては居たがドイツ側は約14万人の兵員が集められ作戦に投入されている。対するソ連第三ウクライナ方面軍は45万人の兵力を保持しており戰車などの数量も圧倒していた。さらに諜報活動によりソ連軍はドイツ軍がハンガリーで攻勢を計画していることを察知しており防備を整えて待ち構えていたのである。兵力が拮抗する戦線でドイツ軍の攻撃が予想された戦線でソ連軍はドイツ軍に先だって攻勢をかけ主導権を奪おうとする奇襲戦術を採る場合もあったがハンガリー戦線はソ連軍には二次的な戦線であり投機的な戦術を採用する必要は無かったといえる。ソ連軍はSS装甲軍への対抗のため「パックフロント」と呼ばれる対戦車陣地を構築してドイツ軍を待ち構えていたのである。

 「春の目覚め」作戦は1945年3月6日に発動される。バラトン湖東岸を進撃する部隊は当初は順調に進撃できたがソ連側の激しい抵抗と折り悪く雪解け水の泥濘が発生し次第に進軍速度は低下し3月15日に20㎞ほど前進したシモントルニャに到達したところで完全に停止してしまう。またバラトン湖西岸部隊と南方のE軍集団はソ連側の抵抗でほとんど前進できない状態であった。
 3月16日ソ連側はブダペストの西から逆に進撃を開始する。この進撃はハンガリー国境を超えてオーストリア国内に侵入しようとした野心的な計画であった。この攻勢はバラトン湖東岸進撃部隊の後背を扼するもので包囲の危険を察知したドイツ軍部隊はヒトラーの死守命令を無視して西へ後退、ついにはハンガリー国境を超えオーストリアまで撤退してしまい「春の目覚め」作戦は完全に破綻、ヒトラーの賭けは失敗に終わるのである。

 「春の目覚め」作戦の失敗の原因は根本的に言ってしまえば「攻勢に出るには兵力不足であった」に尽きよう。兵力差を考えれば作戦の成功は万に一つも無かったと言える。結果的に見れば「春の目覚め」作戦は消耗していたとはいえ貴重な機甲師団を敵の前面に投入してすり減らせるだけの作戦だった。しかし春の目覚め作戦で進軍したわずか20㎞はドイツ機甲師団が見せた最後の進撃であったことはおそらく間違いないだろう。

 ドイツの同盟国とはいえ第二次大戦でハンガリーが被った戦災は多大なものであった。現在ハンガリーでは公の場での「鍵十字」(ナチスの紋章)「矢十字」(ナチスに同調してクーデターを起こした矢十字党の紋章)や「鎌と槌」「赤い星」(両方とも共産主義の象徴)の使用を刑法で禁止しているのである。

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# by narutyan9801 | 2018-01-22 00:51 | 妄想(軍事) | Comments(0)

ウェンティゴ症候群 ~姿の見えない精霊が導く人肉食病~

 本日極夜の下の街でしばらく滞在する紀行番組を見ていたがその中で極夜で暮らす人は自殺率が上がると放送されていた。この情報でまた妙な感覚が刺激されたので今回は「ウェンディゴ症候群」を考察したい。

 ウェンディゴとはカナダ北部の先住民に信じられていた精霊で姿をみることが出来ない。一人でいる人や一人旅の人に近づき付きまとう。近づかれた人はウェンティゴの姿を見ることは出来ないが気配を常に感じることになる。そのような状態がしばらく続きそのうちウェンティゴは小さな言葉にならない声で話しかけてくるようになるという。ウェンティゴ自身はこれ以上の危害を加えないのだが付きまとわれた人はその不気味さのあまり自分がウェンティゴになってしまうという不安に駆られそのうちウェンティゴの気配に心が支配されてしまうと人肉を食べたくなる衝動に駆られてしまうという。この状態に陥った人は普通の食事を一切受け付けなくなり意思の疎通や日常の身だしなみも行わなくなる。最終的には自殺したり処刑されてしまうという。

 このウェンティゴに取り憑かれた人を特定の地域、文化、民族内で発生する精神疾患としてウェンティゴ症候群と呼ぶ。原因としては冬期のビタミン不足、極夜による身体バランスの欠如などが上げられる。治療方法は患者にスプーン一杯の動物の脂肪を与えると治ると言われている。実際に視聴した番組では鱈の肝臓から取られた肝油をビタミン不足を補うという目的で摂取していることが紹介されていた。

 番組で紹介された街はロングイヤービエン、このブログでも何度か名前が出てきている北大西洋のスピッツベルゲン島にある町で番組ではトナカイの姿が写されていたがホッキョククマも生息していることが紹介されている。スピッツベルゲン島ではトナカイは定住しているが大陸に住むトナカイ(カナダ圏ではカリブーと呼ばれる)は季節によって移動する動物であり冬期は居なくなってしまう地域もあると思われる。そしてホッキョクグマはさほど移動しない動物であるがホッキョクグマの肝臓はビタミンAが過剰に含まれ人間が食べると過剰摂取により中毒を起こすことが知られていてその他の臓器も含まれる酵素などで長期保存が難しいものが多い。主な狩猟動物であるカリブーとホッキョクグマが居なかったりビタミンが豊富な内臓が食用に適さないとなるとビタミン不足に陥る可能性は高いと言える。
 ビタミン不足で不安定な精神環境に陥るのはなんとなく分かるがそこからカニバリズムに陥るのは何故だろうか。想像力を膨らまして妄想してみると過去に飢餓により人肉食に走ってしまった人が居たのかもしれない。その人物の犯した人肉食をその人の世にせず姿が見えない「ウェンティゴ」という精霊のせいにした可能性は高そうである。そうして人喰いを促す精霊となったウェンティゴの恐怖がウィンディゴ症候群を生み出すことになった…。そんな感じがする。

 ビタミン不足の認識と流通状況が発達した現在、ウェンティゴ症候群の発症は報告されていないようである。しかし食生活の欧米化が進み生鮮食料が近くで調達できない環境ではまたビタミン不足に陥ってしまう可能性も指摘されている。ウェンティゴは今は態を潜めているが再び地上に出る日を待っているのかもしれない。

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# by narutyan9801 | 2018-01-20 01:49 | 妄想(病気) | Comments(0)

広南従四位白象 ~位階を賜ったゾウさん~

 日光東照宮、上神庫に二頭の象の彫り物がある。江戸初期の画家狩野探幽が下絵を描き彫られたものとされている。この彫り物の象は生きている象を知っている我々の目から見れば足の爪の形状など違和感があることは事実であるが、描いた狩野探幽自身は象を見たことがなく想像で描いたことを考えると実在の象にかなり近いものと言える。また象の表情は東照宮にたくさん存在する空想上の動物に比べるとどことなくユーモラスな雰囲気を漂わせている(同じ東照宮表門にも象の彫り物があるがこちらは厳めしい表情をしている)。これは「象」という動物が当時の日本人にはまったく馴染みの無い動物ではなくごくわずかの人であるが実際の象を見たり、見た話を聞いた経験があることに関係があるかもしれない。探幽が下絵を描いた半世紀前には同じ狩野派の狩野内膳が実際に目にした象を描いている。こちらは実際の象の姿をかなり忠実に描いておりもしかしたら象の姿が狩野派の中で語り継がれていたかもしれない。内膳が描いた象は安土桃山時代に輸入された象であるが、今回は江戸時代に輸入され長崎から江戸まで歩いて旅をした「広南従四位白象」を考察したい。

 有史以前には日本列島にもナウマン象、マンモスなどの長鼻目(象の仲間)が闊歩していたのだが日本人が歴史を記録できる時代にはすでに絶滅していた。象は居なくなっていたものの化石化した象の骨は「竜骨」として珍重されていて正倉院にはナウマン象の臼歯が五色龍歯という名で二つ奉納されている。海外では象は飼い慣らせば使役動物として有用で特別な訓練を施せば「戦象」として兵器としても取り扱える動物であり人間と象のつながりは他の野生動物に比べれば深かった。中国では殷の首都であった殷墟から飼育されていた象が埋葬された状態で発掘されており馴染みのある動物だったと思われる。そして遣唐使などで中国を訪れた日本人も象を見た人物は存在したろう。こうした人々からの伝聞で日本でも象がどのような動物か漠然とながら知られていたようである。12~13世紀の「鳥獣人物戯画」には象と思われる動物が登場している。

 日本に生きた象が持ち込まれた最も古い記録は応永十五年(1408年)東南アジアからの献上品と思われる。当時は足利幕府四代将軍足利義持の時代であった。義持は父義満の政策を支持しておらずこの贈り物も父への贈り物と受け取ったようでありほどなく朝鮮へ贈ってしまったと記録されている。
 戦国時代から安土桃山時代にかけてはヨーロッパのポルトガル、スペインとの直接貿易が始まりまた中央政府の監督が行き届かなくなり地方の有力者が貿易を自由に行えたため数度象が来日している。慶長年間には二度象が日本に送られており狩野内膳が描いた象はこの二例のどちらかの象を描いたものであろう。
 その後江戸幕府は鎖国政策を取り海外の品物は輸入が規制されてしまう。この規制が緩むのは八代将軍徳川吉宗の時代である。吉宗は様々な政策を行っているがその中に洋書の輸入解禁がある。キリスト教関連以外の書物の輸入を許可したがただ単に本を輸入していいとって言っても庶民にまでその意図は伝わらないだろう。それならば海外の文物を持ち込み海外に庶民が興味を持つようにするのがいい。この際インパクトがあって入手も現実的な象がいいんじゃないだろうか?と吉宗が考えたか、はたまた単に象が見てみたいと思ったかどうか?詳しい心情は分からないが将軍の直接注文の形でベトナムに象を注文しているのである。

 注文された象は雌雄二頭で中国人貿易商の手配で享保十三年(1728年)六月に長崎に到着、雌象は長崎到着後三ヶ月後に死んでしまうが雄象は無事に冬を越し翌年3月、江戸へ向けて出発することになる。通訳、象使い、随行の役人など14名とハンニバルの長征に比べるとだいぶん規模が小さいが間違いなく前代未聞の旅出であった。
 当初象を江戸に送るには海路での輸送も検討されていた。しかし幕府の禁令により大型船の建造が禁止されており輸送に適した大型船が無いことと遭難の可能性からより安全な陸路を取ることになったと言われる。一行が翌日通るであろうルート沿いは犬猫を外に出さず、号令や鐘など敏感な象を刺激する音を出さないよう、餌と水の準備(成獣の象は一日150リットルの水が必要である)、沿道沿いには縄を張り道路や橋の補強等々、これが地元の負担で行われたのである。とんだインフラ整備を強いられたものであるが異国の珍獣が通るというだけで当時の人々は文句も言わず従ったのである。小倉では藩主小笠原忠基が見物に訪れるなど当時の人々も興味津々で象を見たことだろう。
 関門海峡は石を運ぶ船に乗せられて渡り西国街道を進んだ一行は4月20日に大阪に到着する。ここで思わぬ話が一行に飛び込む、時の天皇中御門天皇が象を見たいといったというのである。象の一行が江戸へ下るというのは朝廷内でも話題持ちきりだったのか、それとも中御門天皇の祖父である霊元上皇が歌会にでも出て噂を仕入れてきたか、中御門天皇に象の噂が伝わり是非とも見てみたいと希望を伝えてきたのである。御所に出入りするには位階が必要である。しかし天皇自らが見物に出るとなれば「行幸」という大げさな話になる。おそらく朝廷の武家伝奏と京都所司代は協議を行ったであろうが江戸幕府成立時や幕末のやりとりに比べれば平和な話し合いだったろう。結局象は「広南従四位白象」という立派な名前と従四位という位を賜ることになる。ちなみに従四位という位、日露戦争で日本海軍の作戦を立案した秋山真之が死後贈られた位でありかなり高い位である。
 4月26日に「広南従四位白象」は御所にて中御門天皇、霊元上皇に拝謁。このとき象は象遣いが背に乗るときに調教された前足を折って体を低くする姿勢を見せたらしい。これを見た中御門天皇は象にも拝跪の礼があるのかと感銘し次の歌を詠んだという

 時しあれは 人の国なるけたものも けふ九重に みるがうれしさ
 
 この時中御門天皇は29歳。和歌や書道、笛を嗜む天皇は象よりも早くこの六年後に崩御している。

 京都を発した一行は東海道を江戸へ向かう。東海道は桑名から熱田までは海路なので象一行は長良川と木曽川を馬を運ぶ船をつなぎ合わせて三里の渡しと呼ばれた渡し船のルートを通って渡り佐屋街道を通って熱田に至っている。橋の整備が進んでいない天竜川や大井川は泳いで渡り武田氏と徳川氏の間で激戦が行われた三方ヶ原を通過するなど一行は東海道を東へ進むが象は疲労が蓄積していたらしい。浜名湖を北に迂回する本坂道の登り道では急勾配に象が悲鳴をあげ後にこの坂は地元の人々に「象鳴きの坂」と名付けられたという。そして「天下の険」箱根でついに象は疲労のため寝込んでしまうのである。箱根の関所を目の前にして倒れた象に近隣から象の好物が送られ近隣の寺院では病気平癒の加持祈祷が行われたと言われる。この甲斐あってか3日後に象は回復、無事に箱根の関所を超える。そして長崎を出発して二ヶ月半、ようやく江戸城に到着、将軍の上覧をうけることになる。
 上覧を終えた象は浜離宮で飼育されることになり江戸城への登城の際には見物人が鈴なりになったと言われ、瓦版や象の玩具など現代で言うところの「メディア展開」に発展する。この状況をみると江戸時代の人々も現代とあまり変わらない感性をもっていたのだなと感じざるをえない。
 しかし広南従四位白象のブームは長く続かなかった。吉宗は数回象を見ただけで満足してしまい江戸城に登城することはなくなってしまう。そして象にとって不幸なのは象使いが帰国してしまったのか居なくなってしまったことであった。象は引き続き浜離宮で飼育されることになったが象に不慣れな日本人飼育係では世話が行き届かず象にはストレスが溜まってゆく。また象の飼育には莫大な費用が必要であった。倹約を奨励している吉宗政権下では象飼育はお荷物扱いであったろう。そうしているうちに象が飼育員を攻撃し殺してしまうという事件が起こる。厄介者となっていた象は中野村の源助という人物に払い下げられたが寛保二年(1741年)冬に死んでしまったという。推定の年齢は21歳、象の寿命は60年前後と言われるので早死にといっていい最後であった。死亡した象の象牙と皮は幕府に献上され中野宝仙寺に納められた。宝仙寺では宝物として大事に保管していたが昭和二十年五月二十五日の空襲で大部分が消失。現在鼻の皮膚の一部のみが伝えられているという。


 広南従四位白象が江戸城へ登城した際、御用絵師であった四代狩野栄川古信が象を描いている。想像で描いた同派の狩野探幽と違いモデルを見つつ描いた象はさすがに精緻に描かれている。この作品は現在東京国立博物館に収納されており広南従四位白象の姿を現代の我々に伝えているのである。

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# by narutyan9801 | 2018-01-14 01:24 | 妄想(生物) | Comments(0)

Phoney War ~宣戦布告後半年以上続いた「まやかしの戦争」~

 1939年は第一次世界大戦終結から21年。当時の人間の一生の時間でも隔世というには短すぎる時間であった。人間が初めて体験した人類を滅亡させかねない長く激しい戦いは個人の記憶として生々しく残っていたろう。この年人類は再び世界大戦を始めることになるのだが人々の第一世界大戦の記憶は戦いを始めることを躊躇わせるのに十分だった。今回は第二次世界大戦の緒戦で繰り広げられたファニーウォー(Phoney War)を考察したい。

 1939年9月1日にドイツはポーランド侵攻を開始、その二日後の9月3日にイギリス・フランスはドイツへ宣戦布告するがこの時点ではイギリス、フランスともにドイツに対する戦備はまったくといっていいほど行われていなかったのである。ポーランドとフランスは軍事同盟を締結しておりイギリスも1939年春からはポーランド寄りの外交を行っていたが情勢が一変したのは1939年8月23日の独ソ不可侵条約締結であった。独ソ不可侵条約締結までの英仏の外交方針は最悪ポーランドは切り捨てるという方針だったろう。不倶戴天の敵同士と見られていた独ソが手を結ぶというのは想定外でさすがにドイツはポーランド全土を併合してソ連と国境を接することはせず、また仮にそうなったとなれば今度こそドイツと妥協できるという考えがあったのではなかろうか?しかし独ソが手を結ぶという事態になるとさすがに妥協の余地は無くなっていた。ドイツは英仏にポーランド侵攻の意思を秘密裏に伝え両国がポーランドを支援しないよう交渉を行っている。この交渉は最終的に決裂し9月3日の英仏の対ドイツ戦線布告に至るのである。独ソ不可侵条約締結から英仏の宣戦布告までわずか10日あまり、戦備を整える暇を与えないドイツの外交的電撃戦とも言えよう。

 宣戦布告後英仏は動員令を発しフランスのドイツ国境には英仏の両軍が集結するがドイツ側は若干の守備隊が警備しているだけであった。ポーランド侵攻に主力部隊を投じていたためである。ポーランド侵攻前この状況はフランス方面からの侵攻があった場合耐えられないとドイツ陸軍は多くの守備隊を残すようヒトラーに進言していたがヒトラーはフランス側の侵攻は無いと判断し最小限の守備隊の残置でポーランド侵攻を行ったのである。ヒトラーの判断が英仏の宣戦布告は無いという判断だったか、それとも宣戦布告しても侵攻はないという判断だったかはっきりしないが結論から言えばこの判断は正しくフランス側からは一個連隊規模の威力偵察的な侵攻があったのみであった。
 ポーランド侵攻に投入された兵力は侵攻終了後次々とフランス国境に集結する。ヒトラーはフランス侵攻には強気であり11月中のフランス侵攻を指示していたが悪天候が重なり空軍の移動が遅れフランス侵攻は翌春まで延期となってしまう。国境を挟んで両軍は睨み合っていたもののプロパガンダの応酬程度で次第に緊張感が緩み前線では配給品の物々交換なども見られるようになったと言われている。こうした状態が1941年5月10日のドイツのフランス侵攻作戦が開始されるまで半年以上続くことになる。

 フランスは第一次世界大戦の緒戦侵攻してきたドイツ軍前面に騎歩兵の突撃を敢行して機関銃になぎ倒され多大の損害を被った苦い経験があり自らの侵攻にはきわめて慎重であった。国防の基本からドイツ国境のいわゆるマジノ線での防禦で敵の戦力を削って後の反撃を主体としている。この状況では宣戦布告後速やかな侵攻は無理だったろう。それでもドイツ軍の状況を把握して強引に侵攻すれば勝機はあり得たのか?個人的な意見になるがこれもかなり難しいと思われる。侵攻があった場合ドイツ軍守備隊は出来うる限りの遅滞戦術を行うだろう。フランス軍の中には後のフランス大統領ド・ゴールの様に電撃戦を模索する人物もいたのであるが後のドイツ軍が行ったような電撃戦を行える思想も練度もこの時点では無かったといえる。おそらく侵攻半ばでドイツ軍の迎撃に遭い大きな損害を出して撤退というのが管理者の考えた仮想のシナリオである。

 このPhoney Warは陸上の話だけで海では両軍の激しい戦闘が緒戦から起こっている。海戦と同時にドイツの潜水艦部隊は活動を開始し開戦直後の1939年9月17日には英空母カレイジャスがU39に撃沈され10月14日にはスカパフローに進入したU47により英戦艦ロイヤル・オークが撃沈される。一方ドイツ側も12月17日にモンテビデオ港外に追い詰められたアドミラル・グラーフ・シュペーが自沈している。数的劣勢であったドイツ海軍は通商破壊戦で英国の疲弊を誘う戦略をとっていたが通商破壊戦は常に相手に損害を与え続ける必要があり戦機を待つ余裕は無かったのである。

 1940年にドイツ軍は北欧諸国侵攻を行う。スウェーデンで産出される鉄鉱石はドイツの戦争遂行に必要不可欠なものと考えられていた。スウェーデンは中立国でありドイツは侵攻しなかったがその積み出し港として重要なノルウェー、そしてスカンジナビア半島を扼することができるデンマークへドイツは侵攻、これを占領する。さらに5月10日にはフランスへ侵攻を開始し「Phoney War」は本物の戦争となるのである。

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 イギリス空軍のハンドレページ・ハンプデン(発音はハムデンに近いそうな)爆撃機。第二次世界大戦開戦直後は本機を含む英国爆撃機がドイツ爆撃を行っているがプロパガンダ目的のビラ撒きを行ったこともある。イギリス空軍は昼間の爆撃でドイツ空軍の迎撃により大きな損害を受け主に夜間爆撃を行うことになる。

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# by narutyan9801 | 2018-01-12 00:49 | 妄想(歴史) | Comments(0)

グルカ兵 ~山岳地帯が生んだ精強な戦士たち~

 管理者の小学生時代愛読していた漫画に「劇画太平洋戦争 激突!戦車部隊(7)」という漫画があった。太平洋戦争中の旧日本海軍の主力戦車「九七式中戦車(チハ車)」乗車兵の物語でガールズ&パンツァーブームのこのご時世ちょっと見直されても良さげな漫画である。この漫画で密林の仲から唐突に銃撃を受けるシーンがあるのだがその際戦車長が「グルカ兵だな」と看破する台詞がある。この漫画では「グルカ兵」がなんなのか具体的に説明しておらず管理者も成人後自力で(と言うより自費)調べてみるまで実態は知らなかったのである。今回はこの「グルカ兵」を考察したい。

 一般にグルカ兵は「グルカ族出身の傭兵」というイメージがあるがこれは正しくない。元々はネパールの一地方名、そしてそこに暮らすヒンドゥー教を信仰する少数民族を示す言葉であった。ネパールには元々はヒンドゥー教徒は住んでいなかったのだが14世紀にインド北部のヒンドゥー教徒が移住を行っている。当時カトマンズ盆地では三つの王国がしのぎを削っていたが外部にはほとんど警戒を払っていなかった。ネパールに定住したヒンドゥー教徒は自分たちの王朝を立て三王国を滅ぼしカトマンズ盆地を統一することに成功する。この王国は「ゴルカ朝」と称することになるが英語での発音は「グルカ」に近かったので西欧圏ではこの王朝を「グルカ朝」王国内の民族を「グルカ族」と呼ぶことになるのである。

 グルカ朝に滅ぼされた三王国の王族はインドへ逃れ当時インド支配を固めつつあったイギリスにカトマンズ盆地奪回を懇願する。これに応えイギリスは小規模な部隊を派遣するがネパール軍に撃破されてしまいイギリスのネパール侵攻は一時的に凍結されることになる。

 グルカ朝はその後も積極的な対外侵攻を行うが隣国チベットとの紛争が生じチベットの宗主国である清の侵攻を招いてしまう。首都であるカトマンズ近郊まで侵攻されたグルカ朝は清の宗主権を認め属国として存続する道を選択、その後勢力拡大の方向を南に求めたグルカ朝は次第にインドへ圧力をかけるようになっていったのである。

 当時インドではイギリスの東インド会社による植民地支配が進行中であったがそれに反抗する勢力が各地で反乱を起こしていた。ここでグルカ朝が介入してくると抵抗が激しくなる懸念もありイギリスはグルカ制圧を行うのである。
 グルカ戦争と呼ばれるこの戦闘でイギリスはグルカ朝を屈服させることに成功するが山岳地帯でのグルカ部隊はイギリス軍に頑強に抵抗しイギリス軍はしばしば苦境に立たされている。他方グルカ族はインドにも多数暮らしているヒンドゥー教徒であるがヒンドゥー教の特色であるカーストはインドのそれほど絶対的ではなくそれでいて命令や規律に関しては厳密に守る民族性を持っていることにイギリス軍は着目し戦争中からイギリス軍はグルカ側から脱落した勢力の兵士を非正規軍に編入させることを行っている。
 1816年にスガウリ条約が批准されグルカ朝はイギリスの保護国となるがネパールの自治権はほぼ保障され王国としての面目は保たれることになる。他方イギリスはグルカ朝を通さず直接グルカ族と傭兵契約が出来ることを認めさせ5000人のグルカ族を傭兵として自軍に編入させるのである。インド大反乱(セポイの乱)の際グルカ傭兵は14000人が乱鎮圧に参加、多くの戦果を上げている。イギリスはグルカ兵の策源地であるゴルカ朝の存続に配慮しイギリス領インド帝国の成立後もゴルカ朝(実質上宰相家に簒奪されていて形骸化していたが)の自主性は存続させ1923年にはイギリスから独立国と認められている。この間もイギリスはグルカ兵を雇い入れている

 第二次大戦でもイギリスはグルカ兵を戦線に投入させている。特にインパール作戦では多数が投入され日本軍の撃退に大きな功績を残している。その後も第二次大戦後半、朝鮮戦争、そしてフォークランド紛争、湾岸戦争、イラク戦争に至る現在の戦闘地域でもグルカ兵は傭兵として戦場に姿を現している。フォークランド紛争では真偽は別としてグルカ兵が攻めてくると聞いたアルゼンチン軍に逃亡者が出たという逸話も伝わっている。

 グルカ兵の選抜は現在も独特な方式をとっていると言われている。イギリス軍のスカウトがネパールの山村を巡りめぼしい人材を見つけ雇用するのである。しかしグルカ兵は軍隊内では英語を使わなければならずさらに入隊に必要な基礎体力を養っておかなければならない。そのため現在はネパール国内にはグルカ兵養成所が設立され基礎的な訓練を施された人材をスカウトする方式が取られているらしい。さらに入隊後軍隊で必要な知識や技術を学ぶ訓練所が設立されているとされる。以前はイギリス軍内で「グルカ」という呼称は一部上級者のみで一般の兵士は訓練所の所在場所の名称で呼ばれていたらしいが現在は「グルカ」という呼称に一定の価値が見いだされており一律に「グルカ」という呼称が使われているそうである。

 一般にはグルカ兵は特徴的な「ククリ」と呼ばれる前方に湾曲した刃物から連想されるのか格闘戦を主体とする軍隊と思われがちであるが彼らは格闘戦を主体とはしていない。彼らは非常に小柄で格闘戦では大柄な兵士に圧倒されてしまう。彼らの持ち味は厳しい地形を素早く行軍し有利な地形から火力で敵を圧倒することである。19世紀のグルカ兵の写真にはしばしば彼らの身長とは不釣り合いな当時最新式のスナイドル銃を装備した姿を写したものがあるがその姿が彼らの主任務が何かを物語っている。

 グルカ兵は現在も「短期雇用」扱いである。雇用契約が終われば除隊して次の仕事を見つけなければいけない。契約から解き放たれた彼らの仲には経験を活かして紛争地域のゲリラ勢力に身を投じるもの居たと言われる。現在は退役したグルカ兵の再就職を斡旋する民間軍事会社も存在する。決して裕福といえないネパールではグルカ兵の存在は貴重な外貨獲得の手段となっているのである。

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# by narutyan9801 | 2018-01-08 10:49 | 妄想(軍事) | Comments(0)