鼈の独り言(妄想編)

suppon99.exblog.jp
ブログトップ

糸瓜忌の翌日に ~ロンドンでの明治期日本人二つの別れ その2~

 昨日、子規と漱石の話が長くなって書けなかったもう一つの「別れ」
 
 子規の死の一か月前の明治三十五年八月、テムズ川河口に停泊する貨物船「若狭丸」で二人の日本人が対面を果たしている。一人は病を得て日本に帰国する作曲家瀧廉太郎、もう一人はイギリス留学中の詩人土井晩翠であった。二人にとって生涯最後の対面となった情景を綴ってみたい。


 瀧廉太郎は明治十二年東京で生まれている。父が内務省の地方官で転勤が多く、瀧も転校を繰り返す学生生活を送ることになる。この幼き日に各地の様々な抒情風景を感じたことはのちの作曲に大きな影響を与えたのかもしれない。15歳で東京音楽学校に入学した瀧は才能を認められ将来を嘱望される存在となる。

 一方の土井晩翠は明治四年の生まれで滝より八歳年上になる。晩翠の生家は質屋であったが父親は趣味で俳諧、和歌などを嗜み中国の歴史書も愛読していた。父の影響で晩翠も文学に興味を持つが家業を継ぐ立場から進学は諦め、今でいう英語の通信教育を受けていた。この成績が優秀だったため学業を許され現在の東北大学に入学し外国語を学ぶ。一方で文学の道でも詩集を発表するなど多方面で活動する文化人となってゆくのである。


 明治時代前半の日本は様々な外国文化を取り入れ、定着させることに躍起になっていた時代である。もちろん音楽もその一つであった。しかし外国の歌詞を日本語に訳し、それを原曲にはめ込んだ唱歌は歌いづらく馴染めないものであった。学校の音楽の唱歌としてふさわしい曲を作るべく当時の文部省はまず詩の作詞を土井晩翠に依頼、明治三十一年に「荒城月」が完成する。文部省は「荒城月」の作曲の公募を行い、滝廉太郎の作戦が選ばれることになる。こうして初の日本人による作詞、作曲の唱歌が旧制中学の「中学唱歌集」に収められたのである。「荒城の月」は現在で言うところの「詩先」で作られた曲だった。また「荒城の月」のイメージとして晩翠は故郷の仙台にある青葉城、または戊辰戦争で攻城戦を受けた会津の若松城、さらに青森県の九戸城をイメージしたと言われているが、滝のほうは幼い日に見た大分県竹田市の岡城、または富山県富山市の富山城をイメージしたと言われている。両者全く違う城をイメージしたのであるが、情景として荒城に浮かぶ月が容易に連想できる一体感がこの曲にはある。

 土井晩翠の妻は東京音楽大学出身であり瀧廉太郎の後輩にあたるのだが、「荒城の月」の完成まではお互いに意識したことは無かったようである。そして「荒城の月」の完成後も多忙な二人が出会う機会は訪れなかったが、手紙のやり取り等連絡を取り合っていたと思われる。程なく瀧廉太郎は留学生としてドイツに留学する。しかし瀧は到着わずか二カ月で肺結核を病み、静養につとめるが病状は悪化、無念の帰国を余儀なくされる。その帰国の途上で「荒城の月」の作詞者、作曲者は初めて顔を合わせることになったのである。対面は滝の病気もあり短時間で終わったようであり、また一対一の対面ではなく二人(もう一人は宗教学者の姉崎正治)で見舞いにいったと晩年の晩翠は語っている。



 帰国した瀧廉太郎は父の故郷で静養するが病状は悪化してゆき晩翠との対面から10か月後の明治三十六年六月二十九日に死去する。享年二十三歳、死の直前に作曲した「憾」(うらみ)が遺作となる。「憾」は「恨み」の意味とは違い「心残り」や「未練」といった意味であり若くして死んでゆく自分の心情を込めた題目だったのだろう。

 一方の土井晩翠は太平洋戦争後まで長命するが晩年は家族に先立たれ空襲で家も焼かれてしまい蔵書を焼失するなど苦労も多かった。昭和27年に青葉城址に「荒城の月」の詩碑が建立され、その落成式に出席するがその後体調を崩し二か月後に死去している。晩翠にとっても「荒城の月」はかけがえのない作品だったのだろう。

荒城の月―土井晩翠と滝廉太郎

山田 野理夫/恒文社

嗚呼!瀧廉太郎―知られざるその家族とふる里

財津 定行/日本文学館



[PR]
by narutyan9801 | 2014-09-21 02:41 | 妄想(人物) | Comments(0)