鼈の独り言(妄想編)

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駆逐艦 子日 ~ 今日は何の日? ネノヒダヨー ~

 旧日本海軍の艦艇の命名には規定があり、例外もあるがおおむね規定に則って命名されている。このうち駆逐艦の命名は気象現象や気候、潮流に関するものとされており、それに加えて睦月や如月といった月を表す古語も艦名として用いられている。ところが日本語には「二十四節季」など特定の「日」を表す言葉が多数あるのに対し、駆逐艦の名前として用いられたのはただ一つの例を除いて存在しない。今回はその一つだけの例となった駆逐艦「子日」を考察したい。

 暦でいう「子日」とは立春後最初の十二支の「子」の日のことをいう。古来この日は「子の日の遊び」という。この日人々は野外に出て長寿を祝う催しを行った日であり「子日」はその目出度い日を艦名としたのである。
 最初に書いたように艦名が特定の日を示す名前を付けられたのは日本海軍では子日が唯一の例と言っていいが、諸外国特にスペインの影響を受けた国々では多くの例が見られる。たとえばアルゼンチン海軍が保有した重巡洋艦、及び航空母艦に命名された「ペインティシンコ・デ・マヨ」(Vainticinco de Mayo)はそのものズバリ「五月二十五日」である。これはアルゼンチンの独立記念日を記念しての命名であるが、日本人にはこの命名、ちょっと馴染みにくいといえる。
 
 「子日」を艦名とした艦艇は二隻ありいずれも駆逐艦だった。初代の子日は明治三十八年10月1日に竣工した神風型(初代)に属する駆逐艦であった。当時日露戦争開戦に伴う海軍増強計画での建造で、起工から竣工までわずか3ヶ月という短時間で建造されている。それでも初代子日は日露戦争には間に合わなかった。第一次世界大戦の青島攻略に参加したのが唯一の実戦参加で、大正一三年に掃海艇に転籍、昭和三年に除籍されている。

 二代目子日は初春型駆逐艦の二番艦として昭和六年12月15日に起工、昭和八年9月30日に竣工したとなっている。しかし子日が実際に竣工したのは昭和12年に入ってからであり、それまで多くの改正工事が行われたのである。

 そもそも初春型駆逐艦はロンドン海軍軍縮条約で駆逐艦の保有トン数が定められ、さらに1500トンを越える大型駆逐艦が占める割合が駆逐艦の保有トン数の16%とされた日本海軍が1400トンの排水量で特型駆逐艦と同等の武装と速度を持たせようとした艦で設計に無理があり、ネームシップの初春の竣工前の公試の旋回試験で転覆しかかるなどの問題点の改正のため一旦竣工した上でそのまま改正工事に入ったのである。この改正工事の最中に水雷艇友鶴の転覆事故が起こり初春型駆逐艦にはさらに抜本的な改正が行われることになった。この改正工事で艦橋の縮小、魚雷発射管の一部撤去、備砲の位置改正、重心の低下工事及びバラストの装着などの追加工事が行われ、三年の工事の末子日は初春と共にようやく実務に服せるようになる。速力は3ノット低下、魚雷発射管は特型駆逐艦の2/3となったが、その後の運用実績は良好で子日は艦隊所属後直ちに日華事変に従軍している。武装が縮小されたとはいえ初春型の駆逐艦の武装は当時の列強海軍の駆逐艦の武装と遜色は無く、速度がやや劣るものの運用面では十分な実力を備えていた。限られた排水量で無理な武装を装備させようとした設計思想が根本的な問題であり、身の丈にあった装備にしていれば3年間の改正工事は必要なかったと言える。この初春型の経験があったからこそ日本海軍は艦隊決戦に用いる実力を備えた「甲型駆逐艦」を建造できたともいえ、初春型は理想の駆逐艦を建造するための試金石の役割を担ったと言えよう。

 太平洋戦争勃発時子日は国内に残っていたが、1942年初頭から行われた蘭印攻略作戦に参加、その後北方部隊に転じアッツ島攻略部隊に加わる。アッツ島攻略後は同島の哨戒を行っていたが昭和十七年(1942年)7月5日、アガッツ島北方で米潜水艦トライトンの雷撃を受けて沈没する。初春型駆逐艦では初の戦没艦であった。

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竣工直後の二代目子日、特型と比べて高く大きい印象のある艦橋、艦前方に二基三門配置された備砲(特型駆逐艦は艦前方には一基二門)が精悍な印象を与える。この艦型で完成した初春型は初春、子日の二隻だけであり、両艦とも竣工後すぐ改正工事に入ったためこの艦型であったのは短い時間であった。



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by narutyan9801 | 2013-11-07 14:11 | 妄想(軍事) | Comments(0)