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鼈の独り言(妄想編)

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アンカラの戦い ~イスラム圏の覇者を賭けた巨大帝国同士の死闘~

 国同士の「戦争」の勝敗のつき方には色々とあるが、もっとも端的な勝敗のつき方はその国の組織・権力を戦闘で破壊することであろう。その国が専制君主制をとっていればその専制君主を戦死させるか、捕らえるかすることである。今回はイスラムの強国の君主が合間見え、一方が捕虜になった「アンカラの戦い」を考察したい。

 アンカラの戦いは1402年7月20日、現在のトルコ共和国の首都アンカラ近郊でオスマン帝国とティムール帝国との間で行われた戦闘である。戦闘の規模は当時最大級といわれ、双方併せて30万人を越える人員が投入されている(号数だと100万人を越える)。戦闘の規模もさることながら、双方の君主が直接戦闘を指揮し、一方の君主が捕虜になるという決着の仕方でも注目される戦いである。

 オスマン帝国は1299年、オスマン・ベイが建国して以来小アジアで勢力を拡大してきたが、三代目君主のムラトⅠ世は東ローマ帝国の重要都市だったアドリアノープルを奪いヨーロッパ方面でも勢力を拡大してゆく、ムラトⅠ世はセルビア王国をコソヴォの戦いで破った直後暗殺されるが、嫡男であったバヤズィトⅠ世が戦場で即位しその指揮の元で数度に渡るコンスタンティノプール包囲を行うなどバルカン半島の多くをその領土としていた。

 一方のティムール帝国は1370年に成立したといわれている。建国したティムールは元々サマルカンド周辺の強盗集団の頭目であったが次第に頭角を現し、一代にして大帝国を築き上げた傑物であった。

 当初両帝国の間には直接的な接点はなかったが、お互いの領土拡張の結果領土が接するようになる。最初に接触を行ったのはティムール側で国境を設定しようという提案がなされたが、バヤズィトは提案に関心を示さなかった。さらにバヤズィトが滅ぼした小アジアの小君主がティムールを、ティムールの滅ぼした黒羊朝のカラ・ユーフスがバヤズィトをそれぞれ頼るようになり、両者の対立は深まっていったのである。

 1400年ティムールは西方遠征を決意し、オスマン領に攻め込みスィヴァスを占領するが、エジプトのマムルーク朝討伐を優先しエジプトに向かったため両者の激突は一時回避される。二年後再びオスマン領に侵入したティムールはバヤズィトに臣従を促す書簡を送るが、バヤズィトはそれを拒絶、両軍はアンカラの地で激突することになる。

 戦力はティムール軍20万、オスマン軍12万と言われておりティムール側がが戦力的には優勢だった。さらにオスマン軍はコンスタンティノプール包囲から急遽駆けつけたため疲労した状態で戦いは始まる。開戦後オスマン軍に加わっていた征服間もない部隊が寝返りを起こすがオスマン軍は奮戦し昼間に始まった戦いは夜半になるまで続いた。しかし結局はオスマン軍が敗走、退却しようとしたバヤズィトは落馬し(通風を患っていたと言われる)ティムール軍の捕虜になってしまう。

 戦闘ではティムール・バヤズィト双方ともひけを取らない采配を見せたが、人心掌握術ではどうやらティムールの方が上手だったようである。バヤズィトは勇猛であるが、意固地になることもあったという。また彼はムスリムでありながらワインを愛飲していたと言われている。ワインはヨーロッパ遠征をしているうちに味を覚えたらしいが、イスラム教の戒律では飲酒は禁忌でありアンカラの戦いではムスリム教徒の裏切りの一因になった可能性は否定できない。一方のティムールもムスリムであるが、状況によってスンニ派になったりシーア派になったりと状況に応じた立場をとっている。建国初期の段階ではモンゴル帝国の血筋にあたるものを擁立するなど抜け目のない振る舞いをしており両君主の人柄が戦闘に与えた影響は無視できないのではなかろうか。ちなみにティムールも飲酒はしていたと言われている。

 バヤズィトは捕虜となった当初は丁重に扱われていたが、脱走を計って失敗した後、厳しい監視下に置かれるようになる。サマルカンドに護送される際には格子のついた籠に入れられ、馬に引かせて護送されている。こうした扱いが元なのか、アンカラの敗戦から8ヶ月後、バヤズィトⅠ世は死亡する。死因には病死説(前述の通風など)のほかに指輪に仕込んでいた毒薬を飲んでの自殺説もある。彼の死後オスマン帝国は彼の息子たちがそれぞれ君主を名乗り分裂、内乱状態に陥ってしまう。

 一方のティムールはアンカラの戦いの2年後、東方の大国明への遠征を決意しサマルカンドを発つが、遠征中に発病する。400キロの道のりを一ヶ月以上かけてオトラルに到着しここで遠征に参加する将兵へ労いの宴会を開くが、この宴会の後症状が悪化しそのまま帰らぬ人となってしまう。生涯の多くを戦場で過ごしたティムールにとってアンカラの戦いは最後の勝利となったのである。

 ティムール・バヤズィト両者の死後、分裂したオスマン帝国はバヤズィトの息子メフメットⅠ世が再統一し、やがてヨーロッパ諸国を震撼させる大帝国に成長する。それに対しティムール帝国はティムールの死後徐々に領土が縮小してゆき約一世紀後に滅亡する。一代の英雄という点ではティムールが勝っていたが、国の組織・機構という点では破れたオスマン帝国側が反省を踏まえて再構築し、それが長期の繁栄に繋がったというべきであろう。

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 アンカラの戦いで敗れ、捕虜となりほどなく病死したバヤズィトⅠ世。肖像画には描かれていないが、彼は隻眼、もしくは片目が極端に小さい「藪睨み」だったという。
by narutyan9801 | 2013-09-26 17:45 | 妄想(軍事) | Comments(0)