人気ブログランキング | 話題のタグを見る

鼈の独り言(妄想編)

suppon99.exblog.jp
ブログトップ

ウルバンの大砲 ~千年以上不落の城壁に挑んだ大砲~

 大砲という兵器は通常「戦術兵器」として分類される。大砲の運用目的は普通敵の戦術兵器を攻撃しその撃破が目的だからである。だが状況によっては大砲が戦略兵器となることもある。第一次大戦中ドイツ陸軍が使用した「パリ砲」などは戦略兵器となるだろう。さらに敵国の重要な都市の攻略になると、攻撃側の大砲は敵守備隊の撃滅としての戦術兵器、敵重要拠点の破壊としての戦略兵器を兼ねることもある。今回は千年以上も国家を守り続けた城壁を破壊し、戦術・戦略両面から国家を崩壊させることを狙った大砲「ウルバンの大砲」を考察したい。

 ウルバンの大砲が用いられたのは1453年のコンスタンチティノープルの攻防戦の際である。コンスタンティノープルは395年のローマ帝国の東西分裂の際に東ローマ帝国の首都となるが、分裂直後の410年、時の皇帝テオドシウスⅡ世がフン族の侵略を防御する目的でコンスタンティノープルの周囲に築いたのが「テオドシウスの城壁」である。テオドシウスⅡ世以降も度々改修が行われ、三重の城壁となり実に千年以上もコンスタンティノープル防衛の要となっており、コンスタンティノープル攻略はこの城壁を如何に突破するかが鍵になっていた。コンスタンティノープルはローマ分裂後外部勢力に二度攻略されているが、いずれも城壁を軍事力で突破したのではなく混乱に乗じて戦わずに突破しており、その意味でテオドシウスの城壁は千年以上不落を誇ってきたのである。

 その東ローマ帝国も衰退しコンスタンティノープル周辺のわずかな領土を有するだけの小国家となった1452年頃、一人のマジャール人が自らの考案した巨砲の売り込みにコンスタンティノープルを訪れていた。その名はウルバン、彼を接見した時の皇帝コンスタンティノス11世は彼の考案に興味を示し、彼を召し抱える。しかし衰退した帝国では彼に約束した禄を与えることができなかったため、ウルバンは他国にこの発案を売り込もうとするが、それを皇帝が許すわけもなくウルバンは拘束されそうになり、亡命同然で彼が向かったのは東ローマ帝国の仇敵であるオスマン帝国であった。

 ウルバンが東ローマ帝国で拘束されそうになったもう一つの理由として彼が「マジャール(ハンガリー)人」であった可能性は否定できない。ローマ帝国という名前とは裏腹にギリシャ人、正教徒国家となっていた東ローマ帝国とマジャール人・カトリック教徒は相容れない関係になっていた。そういった相互不信がこの契約に亀裂を生じさせた一因となったかもしれない。

 ウルバンの考案した兵器は時のオスマン皇帝メフメトⅡ世によって実用化される。砲身は青銅製で長さ8m、直径75cm以上というもので重さ544kgの花崗岩製の石弾を1.6km先まで飛ばすことができたと言われている。
 しかし前例のない巨砲はその運用も大変であった。まず石弾に使える花崗岩はコンスタンティノープル付近にはなくわざわざ黒海沿岸の産地から運び込み、それを加工して使用していた。装填から発射までに最低でも3時間かかり、発射の衝撃で砲身が痛みその都度小修理を行い、再度発射を続けている。しかし最終的に発射の反動により大砲自身が壊れてしまい発射不能になってしまった。
 戦火の方は運用コストに見合うものであったかというとそうではなかったようである。ウルバンの大砲は滑空砲であり命中精度は相当低く、また一撃で城壁を崩すだけの威力は無かった。結局7週間に渡りウルバンの大砲は連日砲撃を繰り返していたが、テオドシウスの城壁を崩壊させることはできなかった。しかし連日の砲撃で城壁の一部が崩れ内部に通じる通路ができていた。ここにオスマン軍が攻撃を集中し、守備兵がそこの防備に集中している隙に施錠し忘れた城門からオスマン軍が侵入し、これがコンスタンティノープル陥落に繋がることになる。

 ウルバンの大砲は結果としてコンスタンティノープル攻略に寄与したとはいえ、運用の困難さからすれば効果は限定的だったと言える。しかしウルバンの大砲は「直立した城壁は連続した砲撃には耐えられない」という重要な戦訓を残すことになる。この戦い以降ヨーロッパの要塞では直立の城壁は廃れ稜堡式城郭が建造されることになる。ウルバンの大砲はその威力よりも戦争の一側面を変化させたことの方が戦史的には重要なのである。

ウルバンの大砲 ~千年以上不落の城壁に挑んだ大砲~_e0287838_11325154.jpg

現在のイスタンプールの航空写真にテオドシウスの城壁の位置を表したもの。赤い線がテオドシウスの城壁。ウルバンの大砲の砲撃は青い四角の位置にあった聖ロマノス門付近を砲撃し、攻城戦もここを中心に行われている。その最中ケルコポルタ門(緑の四角)の通用口が施錠ないまま守備隊が居なくなってしまい、ここからオスマン軍が侵入、コンスタンティノープルは陥落する。施錠されなかったのは内部の裏切りがあったものとの説もある。
by narutyan9801 | 2013-09-12 11:43 | 妄想(歴史)