鼈の独り言(妄想編)

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駆逐艦 天津風 ~半身を失った駆逐艦の奮戦~

 船という乗り物は想像以上に損傷に対しての回復力が大きい乗り物である。船は多くのブロックに分けられて建造され、それらを鋲接や溶接で組み合わせるので各パーツごとの取り替えが可能なこと、船体そのものよりも機関の建造の方が手間やコストがかかり、これらが再使用可能であれば極力流用するためなどが要因としてあげられる。この特性は損傷を受けることが前提条件である軍用艦ではさらに顕著で普通の感覚では全損で当然と思われる損傷を受けた艦が再生されることも多い。今回は遠く南方で損傷し修理のため日本帰還を目指し果たせなかった駆逐艦「天津風(二代目)」を考察したい。

 天津風と命名された駆逐艦は二隻存在する。今回考察する天津風は陽炎型駆逐艦九番艦の二代目「天津風」である。天津風は昭和十四年(1939年)二月に起工されている。天津風の大きな特徴として、実艦装備実験のため他の陽炎型よりも高温高圧のボイラーを装備したことがあげられる。日本海軍は次世代の駆逐艦として最大速力40ノットの駆逐艦の建造を計画しており、それに装備する予定だったボイラーを試験的に天津風に装備したのであった。従来の陽炎型のボイラーの蒸気は圧力30kgf/cm2、温度350℃であったが天津風装備のボイラーは圧力40kgf/cm2、温度400℃の高温高圧ボイラーだった。蒸気を受けるタービン機関は従来の陽炎型と同等なので他の姉妹艦と速力に違いは無かったが(そうしないと戦隊が組めない)燃費に関しては13%ほど天津風が勝っていたと言われている。昭和一五年(1940年)10月26日に竣工した天津風は他の陽炎型姉妹艦(初風、時津風、雪風)と第16駆逐隊を編成、太平妖怪戦後フィリピン攻略、蘭印攻略作戦、ミッドウェー海戦等に参加した後ガダルカナル攻防戦に加わることになる。

 1942年11月12日の第三次ソロモン海戦第一夜戦で天津風は奮戦するものの米駆逐艦主砲が第二缶室を直撃し、さらに小口径弾多数が命中、戦死傷者70人以上を出す損害を受ける。損傷修理のため呉に回航された天津風は翌年一月まで修理を行い、2月にはトラックに進出するが、この後はもっぱら輸送護衛任務に就くことになる。これはガダルカナル攻防と3月のビスマルク海海戦で多くの駆逐艦を失った日本海軍は駆逐戦隊の再編成を行う余裕が無く前線に出ていた駆逐艦同士で臨時編成をして出撃をさせていたため、編成からあぶれていた天津風が入り込む余地がない状況になってしまったためと思われる。かって編入されていた第二水雷戦隊旗艦「神通」が戦没した「コロンバンガラ島沖海戦」、僚艦だった初風が戦没したブーゲンビル島沖海戦にも参加できなかった。

 昭和十八年中盤頃から米潜水艦による輸送船を狙った通商破壊作戦の損害が大きくなり日本海軍では対応に迫られていた。天津風はソロモンの戦いから帰還した僚艦雪風とともに「ヒ31船団」の輸送任務に当たることになる。この輸送任務では軽空母「千歳」が初めて船団護衛に加わるなどかなり強力な護送船団であったが昭和十九年(1944年)1月16日、天津風は浮上していた米潜水艦「レッドフィン」を攻撃するが、レッドフィンの反撃の魚雷が左舷中央に命中、艦橋直後で艦は二つに折れ、間もなく前部は沈没してしまう。艦前部で配置に付いていた乗組員は数人が分離前に後部に移動することができたが、駆逐隊司令古川大佐以下74名が戦死する。残された艦後部は一週間の漂流したのち発見されサイゴンに入港、長期間に渡る修理を行う。

 しかし実際には天津風はほとんど放置されていたと言っていい状態だったと思われる。すでにトラック空襲を受け戦場は中部太平洋に移っており艦体が断絶した損傷艦に目を配ることは難しくなっていたのではないだろうか?そうでなければ十ヶ月も天津風を放置しておく理由が見つからない。

 サイゴンでの応急修理は11月8日に一応終了し、天津風は11月15日シンガポールに回航、ここで機関の修理と仮設艦首の装着を行う。残された第二ボイラーと機関の整備により天津風は20ノットの速力を発揮できるようになる。さらに仮設艦首には大きな波を作り出し実際よりも速力が出ている効果を持たせてあったということが様々な資料に書かれている。天津風の最後の戦闘写真を見ると確かに艦首波が過剰に発生していることがわかるが、この効果は狙ったものではなくおそらくは副産物的なものであり、本当の効果は「舵を切れるように水の抵抗をわざと増した」のではなかったろうか?
 元来船の舵というものは船の大きさに合わせて設計されるもので、天津風のように艦体が40mも短くなれば舵のバランスが崩れ、艦の操作が不可能になると思われる。このため艦首の抵抗を大きくし舵のバランスを整え繰艦性能を得るための苦肉の策ではなかったかと思える。しかしそれでも舵の切れは良くなかったのではないだろうか?後の4月6日の戦闘では速力が劣るはずの海防艦の航行に付いていけず落後しているのがその証拠と思える。この日荒天で舵に加えピッチングが激しかったことも落後の原因であったろう。機関は幾分回復したといっても、正直なところ天津風には外海航行能力はかなり減退してしまっていたといっていい状況だったのではなかろうか?

 昭和二十年(1945年)3月17日、日本海軍は「ヒ88J船団」の編成を決定、天津風はこの船団に加わっての日本帰還が命令される。すでにシンガポールに残っていた海軍の有力艦艇は一ヶ月前の「北号作戦」で無事に日本に帰還しており、シンガポールには重巡洋艦「羽黒」「足柄」駆逐艦「神風」、そして損傷で航行できない重巡洋艦「妙高」「高雄」などしか残っていなかった。現地司令部では天津風の状況を考え、シンガポールに残ることを勧めたが新任の森田友幸艦長は内地での修理を望み出航に踏み切ることを申し出た。餞として現地司令部から北号作戦参加艦艇が残していった機銃数基が天津風に装備される。こうして南方からの最後の便となる船団に天津風は加わることになるのである。

 しかし無線傍受で船団の出航を察知していた米軍の攻撃は激しく、船団に加わっていた輸送船はすべて沈没、天津風も海南島に停泊した際に爆撃を受け不発ながら一発が命中している。何とか香港までたどり着いた「ヒ88J船団」生き残りの護衛艦はここで新たに編成された「ホモ03船団」を護衛して門司に向かうことになる。護衛する船舶は二隻、それを護衛する艦艇は天津風、海防艦2隻、駆潜艇2隻であった。しかし香港を出航してまもなく輸送船2隻は航空機の攻撃を受け沈没。駆潜艇二隻は救助した人員を乗せて香港に引き返すことになった。残った天津風と海防艦1号、海防艦134号は日本帰還を目指して航行を続ける。

 三隻は航行を続けたが、次第に天津風と海防艦との距離は離れ、午前11時半頃には二十海里の距離が開いてしまう。そこへ米陸軍のB-25爆撃機が反跳爆撃を行い、先行した海防艦二隻は撃沈、残った天津風にも計18機のB-25が攻撃をかけ、爆弾3発が命中し主砲が破壊、機関も停止し天津風は漂流しはじめる。しかし米軍側も天津風の反撃で3機を撃墜され、追撃を控える。沈没に瀕した天津風は攻撃が止むと懸命の復旧作業が開始されるのである。

 天津風は燃料タンクが破損し、重油タンクに海水が混じったたため乗員は手で浸水した海水を掬って重油を確保し、機関の再起動に成功、出力の調節ができず6ノットの速力に固定された天津風は日本軍がいる廈門を目指して航行する。夕刻にようやく廈門に到着した天津風は機関を停止するが、潤滑油に海水が侵入して焼き付き、機関が使用不能になる。さらに爆撃で錨を失っていた天津風は錨泊が出来ず、潮流に流され夜間に座礁してしまう。さらに現地住民が略奪を仕掛け、これは撃退したもののここに至って艦長は艦の維持は無理と判断、装備などを陸揚げした後4月10日に爆雷の自爆により処分され、天津風は厦門湾でその生涯を閉じることになる。処分の3日前、廈門から千キロ離れた沖縄北方で天津風の姉妹艦「浜風」「磯風」が戦没しており、天津風の沈没時に姉妹艦で生き残ったのは「雪風」一隻のみとなっていた。天津風は陽炎型駆逐艦の太平洋戦争における最後の戦没艦であった。

 天津風の日本回航は無謀な旅だったかもしれない。しかし便乗者のうち161名は廈門までたどり着き生きながらえることができた(戦死者39名)課せられた命令の苛烈さを考えると多くの生存者を味方根拠地まで送り届けたことは功績として評価していいと思える。

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                           公試中の天津風
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天津風の同型艦、不知火の損傷状況。不知火は昭和一七年(1942年)米潜グローリーの雷撃を受け艦体前部切断の損傷を被る。切断箇所は天津風の切断箇所とほぼ同じ部分である。
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B-25の攻撃を受け損傷した天津風。後部主砲は破壊され既に戦闘力は喪失している。行き足は止まっているようだがこの後天津風は機関の応急修理を行い、6ノットで厦門に向けて航行することになる。

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by narutyan9801 | 2013-09-04 11:00 | 妄想(軍事) | Comments(0)