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鼈の独り言(妄想編)

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王安石と司馬光 ~政治改革の断行と保守派の反動は必須なのか?~

 先日田沼意次が亡くなった日という事で改めて田沼意次とその後の松平定信の政治形態を考えてみたのであるが、ふとこの二人が行った事象とよく似たことが二人が生きた時代から700年ほど前の中国で起こっていたことを思い出した。今回は中国・北宋時代の二人の政治家、王安石と司馬光を考察したい。

 王安石(1028~1086)と司馬光(1019~1086)はともに若くして科挙の最難関(倍率は3000倍とも言われている)である進士に合格している。司馬光はその名前が示すとおり三国時代の後中国を統一した晋王朝の血筋を引いており(司馬懿の弟司馬孚の子孫と言われている)貴族的な立場であったと言われている。一方の王安石は父は地方官僚を務めていたが一族が多く、暮らしぶりは貧しかったと言われている。このため科挙を合格したものの若いうちは給料がよかった地方官の職を歴任する。おそらくこの経験が王安石の経済観念に影響を与えたと思われる。

 1058年王安石は政治改革を訴える上奏文を提出し、王朝内の注目を集める。この上奏文に関しては後に政敵となる司馬光も激賞している。1067年に宋第五代皇帝英宗が崩御し神宗が即位すると王安石は中央に登用され副宰相として政治改革を断行することになる。

 王安石の政治改革は農業、経済、軍事、政治など社会全般にわたっていた。特徴的なのは無駄な軍人や官僚の首切り、農民や都市在住者への低金利貸付である。さらに自らが合格し政治家になった礎でもある科挙を改革し実務的な人物を合格させるようにしたり、徴兵義務を納金で免除したりするなど当時としてはかなりユニークな改革も行っている。

 しかし王安石の改革はいわば既得権を侵害することが多く、王安石には怨嗟の声も上がる。その急先鋒が司馬光であった。司馬光自身が既得権の侵害を受けた様子はなく、司馬光の怒りは儒学者として修養を積んだ彼には下々の者に手厚い王安石の改革が儒学的観念を覆すものに見えたのだと思われる。しかし王安石の政策は若い神宗に理解され、神宗の元で次々と法案として成立する。司馬光はこの状況に憤慨し、自ら蟄居してしまう。司馬光の才覚も惜しんだ神宗は司馬光が願い出た歴史書の編纂に全面的に協力し、歴史書「資治通鑑」が編纂されることになる。

 神宗の信頼を得ていた王安石であったが、保守層の恨みは深く1074年に起こった干ばつが王安石の政治が天に受け入れられていないという風評が立ち、この声をを神宗も無視できず、解任されてしまう。一度は返り咲いた王安石であったがほどなく自ら辞職し、故郷に隠棲してしまう。王安石としてはまだ若い神宗が自らの改革を引き継いでくれれば改革は成功するという思いがあっただろうが、1085年に神宗は崩御し保守勢力の首領であった皇太后により司馬光が抜擢され、王安石の改革をほとんど廃止し旧来の政策に戻してしまう。このあたりは武士階級の借金を棒引きさせた松平定信の政策を彷彿とさせる。

 この頃王安石は隠居生活を送っており神宗死後司馬光の政治にも特に意見をいうことは無かったが、ただ一つ募役法の廃止に関しては「あれは止めるべきではないなぁ」と感想を述べたと言われている。

 政治の実権を握った司馬光であるが、わずか8ヶ月後には病死してしまい、その政治活動は王安石の政策を覆すのみであった。司馬光にはもしかしたら別の具体的な政策の素案があったかもしれないが、それを実行する時間は無く保守派の溜飲を下げることが唯一の成果であった。同年王安石も隠棲先で亡くなる。二人のライバルは同じ年に世を去っているのである。

 宋王朝はこの後も王安石と司馬光の政策が交互に行われる政治形態が繰り返されることになる。そして金の侵攻により一度宋王朝が滅亡した際に政治の実権を握っていたのは王安石派であったため、後年王安石の政策は否定的な意見が主流となってしまう。そして近年改めて王安石の政策が見直され再評価されつつあるのは田沼意次とよく似ていると自分は思うのである。政治改革が成功するかどうかの鍵は既得権を持つ勢力とどのあたりで妥協するかにかかっているかと思うが、これはなかなかさじ加減が難しいようである。
by narutyan9801 | 2013-08-21 10:09 | 妄想(人物)