鼈の独り言(妄想編)

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簫何 ~劉邦を影で支え続けた男~

 古代から近代にかけて政治体制を中国から取り入れた国家は「臣下の最高位」の称号として「相国」の称号を与えることが多い。日本でも太政大臣の唐名は「相国」としている。元々相国は「相邦」と表記されていたが、中国の漢王朝が成立した際「相邦」の邦の字が劉邦の諱に触れることになるので「相国」と改められている。今回は歴史上初めて「相国の称号を与えられた簫何を考察したい。

 簫何は沛県(現在の中国江蘇省徐州市)の出身で地元の下級役人を勤めていた。仕事ぶりは評価されていたが、出世街道にはほど遠い役職であった。漢の高祖劉邦も同じ沛県の出身で侠客を生業としていたが、たまたま縁があって亭長の役職に就き、仕事柄劉邦と簫何は顔見知りになる。簫何は劉邦の不真面目な仕事ぶりに呆れるが、劉邦に人を引き付ける魅力を感じ色々と面倒を見てやるようになる。
 ある時名士で名高い呂公が仇討ちを避けて沛県に逗留することになった。名士を歓待する宴を簫何が取り仕切ったが、簫何は呂公に劉邦を引き合わせる。劉邦は事前に呂公に銭一万銭を進呈すると伝えていたが、劉邦が銭を持っていないことを知っていた簫何は「劉邦は大風呂敷を広げる男だ」と呂公に取りなし、実際に劉邦は一銭も持たずに宴会に参加している。呂公は劉邦を気に入り、娘を娶らせたのである。

 秦の始皇帝が亡くなり陳勝・呉広の乱が勃発するなど世の中が騒然とする中、沛県の県令が反乱で殺害される事件が起こり、住民の支持で劉邦が県令になる。この時劉邦を推挙したのは簫何であった。劉邦は近隣を制圧してゆくが、その間後方のことはすべて簫何に任せており、簫何もその期待に答え、必要な兵力、資金の調達に奔走する。やがて劉邦は秦の都咸陽を攻め落とすが、略奪に走る武将の中で簫何だけは秦の省庁を巡り各地の戸籍、人口、地籍などの資料を押収する。遅れて咸陽に到着した項羽は一番乗りを逃した腹いせに咸陽に火を放ってしまい、咸陽は灰になってしまうが、簫何の持ち出したはこの後膨大な資料はこの後の楚漢戦争で大いに役立つことになる。

 劉邦は項羽の臣下となり、漢中王に封じられると簫何も劉邦に同行し漢中に赴ことになる。ここで簫何は韓信と知り合い、その才能を高く評価して劉邦に推挙する。韓信が与えられた役職が不満で出奔すると後を追いかけ「次も駄目ならば私も国を捨てる」とまで言い切り劉邦を説得、韓信を大将軍の地位につけることを納得させている。やがて楚漢戦争が勃発すると簫何は再び後方支援を行い劉邦の軍勢を支え続ける。劉邦は項羽に対して百戦して百敗したともいわれる連戦連敗ぶりであったが、簫何は失った兵力と必要な食料を常に補充し続けた。一方の項羽軍は食料の供給を略奪に頼ったので民心は次第に項羽から離れ、これが最終的な勝敗に大きく寄与することになる。
 楚漢戦争が劉邦の勝利に終わると劉邦は戦いの最大の功績者を簫何とする。前線で命がけで戦った武将たちから不満の声が挙がると劉邦は「お前たちはいわば猟犬、簫何は猟師である。猟師の指示があって初めて猟犬は働ける。猟犬は猟犬の功績しか与えられない」と諸将を納得させる。

 しかし劉邦は次第に猜疑心の強い男に変貌してゆく。毎年の様に臣下に謀反を起こされ、心理的に追いつめられたせいもあるだろう。簫何の説得で漢に止まった韓信も謀反で処刑されているが、韓信を捕縛したのは簫何の計略によるものである。この功績で簫何は「相国」を地位を賜るが、劉邦の疑いの目は簫何にも向けられていた。それを察知した簫何はわざと田畑を買いあさって暴利を得たり、不公平な取り決めを裁可したりして評判を下げ、劉邦の疑いを解こうとしている。かって秦の武将王翦は楚を討伐中もしつこく後の始皇帝、秦王政に「褒美は何をくださるか?」と使者を送り続け、政の猜疑心を和らげたが、簫何は実際に行動を起こして劉邦の猜疑心を和らげるしか方法が無かった。猜疑心という点では劉邦は始皇帝を上回っているかもしれない。

 それでも簫何は劉邦が亡くなった後までも「相国」として漢王朝に尽くさねばならなかった。同僚だった張良は引退して仙人になろうとし、時々劉邦に会いに来て話をするだけの隠遁生活を送っていたが、実務官僚だった簫何には国を立ち上げる仕事が残っていた。劉邦の死から二年後、死の床に伏した簫何は後任には沛県の役人時代の部下であった曹参(血の繋がりはないが三国志の曹操の祖先に当たる人物)を指名し、簫何は静かに息を引き取った。

 簫何の死後指名により相国の地位に就いた曹参は政務そっちのけで酒ばかり飲んでおり、政務上の小さなミスはもみ消し、大きな問題は簫何の行った事例にならって処理を行っていた。漢の二代皇帝恵帝は曹参のこの態度を職務怠慢と見、曹参を呼び出して詰問を行ったことがある。曹参は恵帝に「先代(劉邦)と陛下はどちらが上と思われていますか」と問い恵帝が「もとより朕は先代の足下に及ばない」と答えると次に「では先代の相国(簫何)と私とではどちらが勝っていると考えますか?」と問うと恵帝は「どうもそなたの方がすこし劣っているようだ」と答える。「ならば先代の取り決めたことを我々は遵守してゆけばそれでよいのではありませんか?」との曹参の答えに恵帝も納得している。

 曹参の死後、漢では「相国」の称号を臣下に与えることを控えるようになる。相国の称号が復活し再び使われるようになるのは後漢末期に実質上後漢を滅ぼした男、董卓が拝命して以降のことになる。

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by narutyan9801 | 2013-07-11 10:38 | 妄想(人物) | Comments(0)