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鼈の独り言(妄想編)

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第二次ウィーン包囲 ~オスマン帝国最後のヨーロッパ攻勢とキリスト教国の反撃~

 前回考察した第一次ウィーン包囲から約150年後の1683年、オスマン帝国は再びオーストリア大公国の首都ウィーンを包囲する。攻撃側・守備側は150年前とまったく同じであるが、両者とも前回とは大きく異なる状況下で戦局は推移し、結局のところこの戦いはオスマン帝国の没落の兆しになるものであった。今回はこの「第二次ウィーン包囲」を考察したい。

 第一次ウィーン包囲はウィーン攻略こそならなかったもののオスマン帝国の東欧における優位を示す戦いであった。1571年のレパントの海戦で西地中海の制海権こそ失っていたが、オスマン帝国の国威はヨーロッパ諸国を圧倒していた。しかし時代を経るにしたがい帝国の勢いは徐々に削がれていたのである。
 オスマン帝国の軍事力は中央集権化とそれを皇帝が掌握、直接指揮することによって発揮されていた。しかし中央集権化というものは端的に言ってしまえば権力のシステム化というものであり、皇帝自身が掌握することは必ずしも必要とはされないものである。メフメットⅡ世やスレイマンⅠ世のような有能な皇帝で、征服の意志があれば軍隊は有能に機能するが、スレイマンⅠ世以降オスマン帝国の歴代皇帝は政治的関心が薄い皇帝が続き、経済的な理由もあるが皇帝自身の意志による領土拡張は行われておらず、帝国は内部から弱体化の兆しを見せていた。この危機を未然に防いだのはオスマン帝国内の貴族キョブリュリュ家の当主であるキョブリュリュ・メフメト・パシャである。彼はヨーロッパ方面で小規模な軍事行動を行いそれに勝利することにより帝国の威信を回復することに成功する。彼と息子のアメフト・パシャの努力によりオスマン帝国の領土はこのころ最大規模に達することになる。しかしかって中央集権と皇帝の権威によって作られた強大な軍隊による国家は、次第に強大な軍隊により国家が維持されるという逆転現象にみまわれていたのである。

 一方のオーストリア大公国はそれ以上に軍事的弱体化を見せていた。オーストリア・ドイツ連邦は17世紀初頭の「30年戦争」により国土は荒廃し、17世紀後半になってもその痛手は癒えていなかった。そして隣国のフランスでは太陽王ルイ14世の統治で絶対王政の絶頂期を迎えていた。第一次ウィーン包囲時と同じくフランスはオスマン帝国寄りの外交を行っており、オーストリアに対し絶えず牽制を行っていた。そして第一次ウィーン包囲の時と同じく、ハンガリーが今回も戦端の原因となる。

 1664年にハンガリーへ侵攻したオスマン帝国に対しオーストリアは軍隊を送り、戦いに勝利するがフランスの牽制でオーストリアは不利な和平を結ばざるを得ず、オーストリア国内貴族の間に不満が広がり、1683年にはハンガリー系住民が反乱を起こす事態になる。オスマン帝国ではキョプリュリュ家に婿入りし大宰相に就任したカラ・ムスタファ・パシャが好機と判断、大規模な攻勢を行うことを決意する。時の皇帝メフメットⅣ世は攻勢の是非を決める意志は無く、ムスタファ・パシャの思惑のままオスマン帝国群はヨーロッパ遠征を行うことになる。

 一方のオーストリア側であるが、第一次ウィーン包囲の時と同じように野戦でオスマン軍を撃退する戦力は無かった。ウィーンから退去した時の神聖ローマ皇帝レオポルドⅠ世はヨーロッパ各国に援軍を求めることになる。
 第一次ウィーン包囲と様相が違うのはこの要請に多くのヨーロッパ諸侯が立ち上がったことである。第一次ウィーン包囲はキリスト教国内では宗教改革運動のまっただ中であり、キリスト教国内でも対立があったが、この時は宗教的な危機感を共通することができた。ヨーロッパ各国からウィーンに向けて援軍が出発する。フランスは国としての支援は行わなかったが、フランス国内の諸侯の中には自発的にウィーンに赴く者もあった。また度重なるオスマン帝国の領土拡張で、カトリックの大国ポーランドとオスマン帝国が領土争いを行い、ポーランド国王ヤンⅢ世がオーストリア救援に動いたのは戦局に決定的な影響を与えることになる。

 オスマン帝国軍は1683年7月13日にウィーンに到着し攻囲を開始するが、前回と同じく進撃を急いだため攻城兵器を欠く装備で攻城戦は捗らなかった。前回の包囲の経験からウィーンの城壁は強化され、築城方法も進歩していたことも大きく、ウィーン守備兵は善戦ししばしば城外に打って出ることもあった。オスマン軍は地下道を掘り城壁の爆破も試みるが失敗し、徒に時が流れ、士気も低下していった。

 包囲開始から約二ヶ月後の9月12日、ウィーン郊外にキリスト教国の援軍が到着する。当初援軍は翌13日に一斉にウィーン包囲軍に攻撃を開始することを予定していたが事前に偵察を行いオスマン軍の弱体化を掴んでいたポーランド国王ヤンⅢ世の判断により到着日の夕刻に攻勢を開始する。到着早々の攻勢はないと判断していたオスマン軍は対応できず、包囲網を寸断され総崩れになってしまう。夜になったために追撃は断念されたが、救援軍の到着当日にウィーンは解放されることになった。

 ベオグラードに退却したムスタファ・パシャは反撃を企図するが、首都イスタンブルのメフメットⅣ世から派遣された使者によりムスタファ・パシャは処刑されてしまう。強権を握っていた大宰相に敵対する勢力が皇帝を動かし、戦局の判断ができない皇帝は処刑の使者を送ってしまったのである。まとめ役を失ったオスマン帝国にキリスト教連合軍は各地で攻勢を仕掛け、東ヨーロッパの領土は次々ど奪われてしまう。1689年にキョプリュリュ家出身のキョプリュリュ・ムスタファ・パシャが登用され、一時的に領土を回復するが、彼は1691年に戦死してしまい戦局の挽回には至らなかった。一方のキリスト教国も足並みが乱れ、大規模な戦闘が行われなくなる。1697年にゼンダの戦いでキリスト教国側が勝利を収めたのが契機となり、1699年にカルロヴィッツ条約が締結される。オスマン帝国のヨーロッパにおける領土は大きく縮小し、イスラム教国家のヨーロッパへの脅威は大きく減少することになったのである。

 第二次ウィーン包囲は戦局的にはヨーロッパへのイスラム教国家の脅威を取り除いたという大きな意義があったが、食文化においてはヨーロッパに大きな影響を与えたものとなる。クロワッサンはこの戦いの際にオスマン帝国の旗印であった「三日月」を意匠して作られたものという伝承がある(あくまで伝承で、現在クロワッサンとされているもののレシピが出来たのは20世紀に入ってからである)また「ウィンナーコーヒー」(ただしホイップクリームを浮かべて飲む習慣は彼の地にはないが)に代表されるコーヒー文化はオスマン軍撃退後オスマン帝国の物資を払い下げられた者がその中にあったコーヒー豆を元に店を始めたことがきっかけと言われている。もし第二次ウィーン包囲が無かったとしたら「クロワッサンとカプチーノ」という朝食は存在しなかったかもしれない。
by narutyan9801 | 2013-07-05 09:02 | 妄想(歴史) | Comments(0)