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鼈の独り言(妄想編)

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第一次ウィーン包囲 ~複雑に絡み合う二大国の攻防~

 1529年9月27日、オスマン帝国のスレイマンⅠ世(大帝)はオーストリア大公国の首都ウィーンを包囲する。約3週間の攻囲ののちオスマン帝国軍は撤退を行うのであるが、戦闘としては大規模な攻城戦があったわけでもなく、目新しい戦術や調略は行われず、非常に「地味」な戦闘であった。しかしこの戦闘は歴史上重要な意味を持つ戦闘であり、その後数百年に渡りヨーロッパの情勢に影響をあたえるものであった。今回はその「第一次ウィーン包囲」を考察したい。

 まずオスマン帝国側の情勢を見てみると、1520年に即位したスレイマンⅠ世が「征服王」メフメットⅡ世の征服できなかったベオグラード、ロードス島を制圧し領土を拡大していた。1526年にモハーチの戦いでハンガリー王ラヨシュⅡ世を戦死させたオスマン帝国はオーストリア大公国と領土を接することになる。

 対するオーストリア大公国であるが、当時オーストリア大公の地位にあったのはフェルデナント、その兄は神聖ローマ皇帝であったカールⅤ世であった。カールⅤ世は同時にスペイン王も兼ねており、強大な領土を保有していたが、領内は様々な状況で混乱していた。
 神聖ローマ皇帝領内では元々封建社会で各地の諸侯が独立状態にあり、加えて宗教改革の混乱が続いていた。スペインと神聖ローマ帝国に挟まれたフランス王国はカールⅤ世の勢力に挟まれているのを嫌い、オスマン帝国寄りの外交を展開する。この情勢でカールⅤ世がさらに背負い込んでしまったのがハンガリー王継承権であった。

 戦死したラヨシュⅡ世の後を継ぐ国王の選出で多くのハンガリー貴族はトランシルヴァニア候のサポリア・ヤノシュを推していたが、カールⅤ世は弟のフェルデナントを推挙していた。フェルデナントの妻はハンガリー王の娘であり王位継承権があると主張したのである。結局はフェルデナントが王位を継承することになる。
 これに対して怒ったのがスレイマンⅠ世であった。ヤノシュの王位継承はスレイマンⅠ世の意向でもあったのである。やがてオーストリアの圧力によりヤノシュはオスマン帝国に亡命、オスマン帝国とオーストリア大公国は対立状態になる。

 第一次ウィーン包囲は俗世間での勃発原因はハンガリー王位継承の争いである。しかし宗教面からみるとキリスト教とイスラム教を奉ずる二大勢力の争いでもある。さらに歴史的観点からみるとローマ帝国の統一戦争と見ることもできる。神聖ローマ皇帝は名目上は古代ローマ皇帝を引き継ぐ存在である。対するオスマン帝国も東ローマ帝国を「引き継いだ皇帝」であり、ローマ皇帝統一戦争の色彩も帯びてくるといった非常に複雑な装いを持つのが第一次ウィーン包囲の特徴であった。

 1529年5月、数度の外交交渉が決裂しスレイマンⅠ世はオーストリアへ遠征を決意する。彼の号令の元、総勢12万といわれる大軍はイスタンブル(当時も正式な都市名は『コンスタンチノープル』であった。イスタンブルと正式に改名するのはオスマン帝国が滅んだ後である)を出立、ヨーロッパ遠征に向かう。
 しかしこの遠征軍は大雨に祟られ、ベオグラードに到着したのは7月に入ってからであった。その後も悪天候に悩まされつつオーストリア勢力下のブダを攻略する。すでに季節は秋に入っておりスレイマンⅠ世は攻城兵器を投棄して進撃を急ぎ、9月27日にウィーンに到着、攻囲を行うことになる。
 オスマン帝国軍の到着前にウィーンからカールⅤ世とフェルデナントは避難し、ウィーンはニコラス・サルム伯率いる2万の軍勢が籠城する。オスマン帝国の進撃が鈍かったこともあり、城壁の改修整備や食料の備蓄も進んだが、国内の諸情勢に対応するため軍勢はオスマン軍よりも過小で野戦は回避し籠城戦に徹する方針であった。

 ほどなく攻城戦が開始されたが、オスマン軍は攻城兵器を途中で投棄してきたため城壁そのものを破壊することができず、攻撃は守備隊により撃退される。そして長距離の遠征による疲労、食糧不足が重なり冬の到来も近いことからスレイマンⅠ世は攻城を断念、10月15日にウィーンを撤収する。オスマン軍は秩序を維持し撤退したため、オーストリア軍は追撃を行うことができなかった。

 この戦いの勝者は判別が難しい。戦術的に見れば攻撃軍を撃退したオーストリア軍ということになるが実質的な損害は両軍とも軽微なものであった。戦略的に見れば首都にまで兵を進められたオーストリア軍の方が深刻な影響を受けたと考えていいだろう。

 この三年後、スレイマンⅠ世は再度ヨーロッパ方面へ遠征を行い、オーストリア国内にも侵入するが、オーストリア軍は野戦を回避し決戦を望むスレイマンⅠ世の目的は達成されなかった。翌1533年、オーストリア大公フェルデナントはスレイマンに使者を送り、自らのハンガリー国王継承権を放棄することを条件に和平を提案、スレイマンⅠ世もこれを了承し、両国はとりあえず戦闘の継続を回避することになる。少々の小競り合いはこの後も度々起こるが本格的な戦争には至らなかった。両国が再び雌雄を決することになるのは約150年後になる。


by narutyan9801 | 2013-07-04 10:33 | 妄想(歴史) | Comments(1)
Commented by at 2018-09-20 14:33 x
こちらの内容とても勉強になりました。よろしければ参考文献など教えて貰えないでしょうか