鼈の独り言(妄想編)

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良栄丸遭難事件 ~小型漁船を襲った悲劇~

 日本人にもっとも好まれる食用の魚の代名詞と言えば「マグロ」があげられる。マグロは回遊魚で陸地の近くには来ないため、古来漁法は沖合に船を進めて延縄などで漁を行うものであった。人力や風力に代わりエンジン動力が漁船にも導入され、陸地が見えない沖にまで出かけて漁を行う船が登場するのは大正期ごろからである。今回は沖合漁業の初期に起こった悲劇「良栄丸遭難事件」を考察したい。

 悲劇が起こった漁船「良栄丸」は1924年(大正13年)に建造された42トンの小型漁船である。この漁船は無水式焼玉エンジンを搭載した当時としては装備優秀な漁船であった。焼玉エンジンとはエンジンの着火装置として熱せられた空間をもうけ、そこへ燃料を吹きかけて着火させる方式のエンジンでプラグなどの着火装置が必要なく、構造も簡単で多くの小型船に取り付けられたエンジンである。良栄丸には無線は取り付けられていなかったが、当時の一般的な漁船には無線は取り付けられていなかった。

 良栄丸は船長三鬼登喜造、機関長細井伝次郎など12名が乗り込んで漁を行っていた。そして1926年(大正15年)現在もマグロ漁の基地である三浦半島先端の三崎港から千葉県東方沖へマグロ漁に出港する。出港後エンジンの調子が悪く翌日千葉県銚子港に入港し整備するが問題は見つからず、当日銚子港を出港し銚子沖でマグロ漁に従事する。しかし天候が悪く漁を断念し三崎港に戻ろうとしていた12月12日の午前中、エンジンのクランクシャフトが折れてしまう。西の季節風に煽られ良栄丸は15日には銚子沖1600キロの太平洋上まで流されてしまうのである。

 当時の漁船には動力の補助用の帆があるのは一般的で良栄丸も装備していたが、季節風に逆らって西に帆走することは漁船の良栄丸には無理なことであった。良栄丸には食料の備蓄があり、しばらく漂流して救助を待つことにするが発見されず12月26日に至ってアメリカに漂着することとなり、東へ舵を切ることになる。

 この判断自体は決して間違ってはいなかったと個人的には思う。日本から東へは海流の流れがあり、その流れに乗って当時も多くの船が行き来していた。事実良栄丸の航海日誌にも何度か船影をみたという記述があり信号を送ってもいるが不運にもどの船にも気づいてもらえなかった。さらに備蓄してあったという食糧もほとんどが白米であり栄養のバランスが取れず船員には壊血病、脚気などの病に苦しめられ、3月上旬にはその備蓄食料も無くなってしまう。

 3月6日、備蓄していた食料が尽きた良栄丸船上で乗組員全員が連名で板に遺書を残している。板に遺書を書いたのはこの後良栄丸が沈没しても板は漂流して拾ってもらえるかもしれないという希望からであろう。この際乗組員はそれぞれ自分の髪の毛と爪を切り取り、遺髪として船内に保管を行っている。遺書の日付は「大正16年3月6日」となっていた。彼らは漂流中に大正天皇が崩御し年号が昭和になったことを知らずにいたのである。

 遺書をしたためてから3日後の3月9日、細井伝次郎機関長が亡くなり、その後次々と乗組員は栄養失調と病で亡くなってゆく。最初に死亡した者には水葬を行ったようであるが、生存者も体力が落ち、乗組員が亡くなっても遺体はそのまま放置されるようになる。

 5月11日、この日良栄丸の航海日記には「十一日 NNW(北北西)の風強く波高し、帆巻き上げたまま流船す。SSW(南南西)に船はどんどん走っている。船長の小言に毎日泣いている。病気」と記され、ここで航海日記は終わっている。このとき良栄丸の船上で生存していたのは船長の三鬼登喜造と航海日記を書いていた松本源之助の二人であった。この後数日のうちに二人も亡くなったと推測されている。

 船長の三鬼登喜造は連名の遺書とは別に家族宛に遺書を認めており、妻へ詫びる言葉と息子へは漁師になるなという言葉が書き連ねてある。これらの遺書は後に日本の遺族に届けられている。

 無人となった良栄丸はその後も漂流を続け、漂流を始めてから約11ヶ月後の1927年10月31日にシアトル沖でアメリカの貨物船により発見される。アメリカでの検査終了後、船体は破損がひどく、遺族も返還を望まなかったので焼却処分にされている。ただ奇妙なことに良栄丸に積まれていたはずの現金(漁の途中で寄港して燃料などの補充を行う際に支払う現金など)や書類が無くなっており、良栄丸には乗組員全員が死亡した後、何者かが船に乗り込み現金等を持ち去った可能性も指摘されている。

 最近、インターネットでは良栄丸の船上で猟期的なことが行われたという情報が出回っているが、詳しくみると細井機関長の死亡が連名遺書を認める以前の3月4日になっていたり、時系列的に矛盾があるので都市伝説のたぐいであろうと思われる。「12月26日にシアトル沖1,000キロで救助をしようとしたが、乗組員が呆然とみているだけだったのでバカらしくなった」云々という記事に至っては漂流からわずか三週間でアメリカまで1,000キロの地点に到達したことになり想像の産物でしかないことがわかる。
 当時の漁船の装備では遭難は免れなかったかもしれないが、条件が良ければ救助できた可能性もあったと思われる。船長の遺書を思うと不運という言葉だけでは片付けられない思いが残る事件である。
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by narutyan9801 | 2013-06-01 09:48 | 妄想(事件・事故) | Comments(0)