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鼈の独り言(妄想編)

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三増峠の戦い ~心理戦と機動戦が引き起こした戦国最大の山岳戦~

 永禄一二年十月八日(1569年11月16日)甲斐・相模国境の三増峠で武田氏と後北条氏が合戦を行っている。世に言う「三増峠の戦い」である。この戦いは戦国最大の山岳戦として有名であるが、その他にも軍隊の行軍運動や連携といった機動戦、情報戦の妙を尽くした戦いでもあった。今回はこの三増峠の戦いを考察してみたい。

 甲斐の武田氏と相模の後北条氏は戦国時代初期には争いを繰り返していたが、越後の長尾景虎が上杉氏の名跡を継ぎ関東に影響力を及ぼす状況になると両勢力は共通の的上杉氏に当たるために同盟を結ぶことになる。後にこの同盟に駿河の今川氏も加わり三国同盟へと発展する。この同盟は三者とも大きなメリットとなり、武田氏は北信濃、北条氏は武蔵・上野、今川氏は三河へ後顧の憂いなく侵攻が可能になったのである。

 この状況に変化が生じたのは武田氏の北信濃侵攻に限界が生じたためと今川義元の戦死による今川氏の弱体化が要因である。武田信玄と上杉謙信による川中島の五次に渡る戦闘は基本的に信玄の侵攻を受けた北信濃の豪族の救援要請を受けて上杉謙信が挙兵したものであり謙信自身に川中島への執着は薄かった。北信濃と謙信の居城春日山城は20キロ足らずと近距離であり北信濃に武田軍が入れば謙信にとって脅威ではあるが雌雄を決してまで領有する必要性は無かったと言える。武田側にしてもこれ以上の北進は謙信の反発が強くなりメリットは薄いことが明白であった。こうして信玄は攻勢軸を北信濃から駿河に向けることになり、三河の徳川家康と密約を結び駿河侵攻に踏み切ることになる。
 駿河の今川氏真は正室の実家である後北条氏に救援を求め、それに答えた北条氏政が駿河に出兵、武田側の密約違反で不信感を募らせていた徳川家康と新たに密約を結んだ後北条氏が東駿河を占拠する状況になる。信玄はこの状況で一度甲斐に兵を引くことになる。こうした状況が翌年の信玄の相模侵攻、三増峠の戦いに繋がってゆくのである。

 信玄との同盟を破棄した北条氏康は長年の宿敵であった上杉謙信との同盟を提案する。謙信自身は関東管領の責務から同盟には乗り気ではなかったが、周囲の説得により折れ、同盟が締結される。この同盟により両家は停戦を実現するのだが、関東の諸豪族は宿敵同士だった二つの勢力の突然の同盟に戸惑い、中には武田氏に誼を通ずるものも現れるなど後北条・上杉の同名は強固なものとはならなかった。

 一方の武田信玄は駿河侵攻の実を後北条氏にさらわれたことに怒り、なおかつ後北条氏と上杉氏の同盟に危機感を抱いており、後北条氏領への侵攻を模索していた。こうして永禄一二年八月、信玄は二万の軍勢で侵攻を開始する。

 武田群は碓井峠を越え銭形城、滝山城に攻撃を加え、十月一日には小田原城を囲む。小田原城にあった北条氏康は籠城を決意し、武田軍も城攻めを行わず四日後には小田原を撤退、甲斐へ帰還すべく三増峠への道を進軍する。こうして三増峠で両軍が激突することになるのである。

 後北条方は武田軍が三増峠を通って甲斐領内に帰還することを察知し、北条氏照・氏邦の兄弟が三増峠の高地に陣を張り武田軍を待ち構えており、さらに近隣の津久井城には後詰めの兵力も待機させており万全の迎撃体制を整えていた。加えて武田軍の後を北条氏政の軍勢が追尾しており挟撃も可能な配置をとっていたのである。

 しかし信玄はこの上をゆく準備をしていた。三増峠の麓に陣を構えた信玄はまず津久井城を牽制するため小幡重貞を派遣し城下に武田軍が集結しているかのように偽装を行い、津久井城の兵を釘付けにする。さらに山県昌景らの軍勢を志田峠を越えて後北条軍より更に高所に配置する。こうして配置が決まったところで、武田軍本隊が持っていた荷駄を捨てて甲斐に逃げ込む様な偽装を行ったとされる。ごの挑発に後北条軍が乗ってしまい、十月八日に両軍は激突する。
 緒戦は地の利を生かした後北条軍が有利に展開し、浅利信種が戦死するなどしたが山県等の伏兵が戦闘に参加すると形勢は逆転し、後北条側は敗走に移る。武田側は北条氏政隊が追尾していることも察知しており追撃を行わず甲斐に引き上げ、三増峠の戦いは武田側の勝利に終わっている。

 最終的に勝利したとはいえ、武田側は挟撃の危険もあり戦闘自体も山県隊の迂回攻撃が成功しなければ勝利はおぼつかなかったろう。おそらく信玄も三増峠で追撃を受けることは読めていて、あえて相手の作戦に乗った可能性が高い。この戦いの8年前、小田原城を攻囲した上杉謙信の諸軍はその退却中に追撃を受け、かなりの損害を被っている。その前例から信玄はあえて追撃を受けてその戦闘に勝利し、後北条軍に追撃を諦めさせ、安全に本国に帰還することとしたのではないだろうか。
 そこまで危険を冒しながら、この相模侵攻自体は得られた領土はほとんどなかった。この戦いだけをみれば「無駄足」という判断になるかもしれない。しかしこの戦いの後、信玄を取り巻く周囲に大きな変化が生じるのである。

 後北条氏と上杉氏の同盟には「武田氏が後北条領に侵攻した場合上杉氏は武田領に侵攻して牽制を行う」という条文が盛り込まれており、謙信は武田領に侵攻する規約があったが、謙信は当時越中の紛争に関わっており軍勢を割くことができなかった。更に信玄の侵攻開始の一月前、将軍義昭から武田家との和睦せよとの書状が届いており外交上も動くことができなかった。これは当時織田信長と良好な外交関係を持っていた信玄の画策によるものと考えていいだろう。この一件がただでさえ利害の不一致が目立つ後北条氏と上杉氏の同盟にヒビを入れるには十分で、北条氏康死後、後北条氏は上杉氏との同盟を破棄し、再度武田氏との同盟に踏み切る。この同盟により上杉謙信は再度関東の諸勢力に軍備を向けなければならず、信玄の上洛への道が開けたとも言えるのである。

 その一方で、信玄は後北条氏一門をちょっと羨ましく感じていたかもしれない。それぞれの居城を攻撃され、連絡もままならなかったはずの北条氏照・氏邦が軍勢を率いて三増峠に陣を引き、小田原から氏政が呼応して出陣、小田原には氏康とその叔父である幻庵(長綱)が留守を守り(氏康は氏政とともに出陣したとも言われている)一族が足並みをそろえて防衛に向かうことをどう感じていたか…。父信虎を追放し、嫡子義信は蟄居の上病死(自害とも)兄弟には支えられているものの次弟信繁はすでに戦死。自分の親族と隣国の覇者の親族を省みて…。もしかしたら信玄は何か特別な感傷を感じていたかもしれない。
by narutyan9801 | 2013-05-14 09:33 | 妄想(歴史)