鼈の独り言(妄想編)

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韓信と酈食其 ~「将に将たる」劉邦に仕えた二人~

 紀元前二世紀の中国、秦帝国滅亡後の楚漢の争いを制したのは漢の高祖、劉邦だった。劉邦の元には張良、蕭何、陳平などの人材が集い、漢帝国を建国する原動力としたが、集まってきた人材の中には劉邦の「性格」により人生の転機点を迎えたものも多い。今回は劉邦の性格により大きく人生が変わった二人の将、韓信と酈食其を考察したい。

 劉邦が漢中王に報じられて数年、項羽の治世が乱れ初め劉邦が挙兵に至った際、西魏王に封じられていた魏豹は初め劉邦に味方していたが、劉邦が項羽に連戦連敗しているのを見て裏切って項羽側に走る。これを説得するように派遣されたのが酈食其であった。だがこの交渉はまとまらず、韓信が西魏に遠征し討伐を行う。韓信と酈食其のこのときの接点の話は伝わっていないが、もしかしたらこれがのちの出来事の始まりだったかもしれない。

 劉邦は自らが項羽と対峙し、その間に韓信が諸国を平定する作戦を採用する。韓信は次々と諸国を平定するが、劉邦は項羽と百回戦って百回負けたといわれるほどの苦戦を強いられ、韓信は兵力を劉邦の戦線に回すなど援護するが、度重なる敗戦に焦った劉邦は項羽との戦場を密かに抜け出し、眠っていた韓信をたたき起こして斉攻略を命ずる。

 当時斉は国力が中国随一の国であったが、国王の田広は中立の立場をとっていた。もし韓信が斉を攻略してしまうと劉邦から独立してしまう可能性があり、おそらく劉邦も後になってそのことに気づいたのだろう。そんなおりに酈食其が斉王を説得してみせると進言し、劉邦はその進言を採用し酈食其を斉に派遣する。

 酈食其は斉王田広を説得し、斉を帰順させることに成功する。この報に斉攻略を準備していた韓信は斉攻略を中止しようとするが配下のケイ通に「劉邦の斉攻略の命令は中止の命令があって初めて止められるもので、まだ攻略の命令は有効である。また一介の弁士が斉攻略を成し遂げては韓信の功績が霞んでしまう」と言われ斉攻略を始める。驚いた田広は煮えたぎる大鍋の前に酈食其を引き出し、韓信の斉攻略を止めるよう命じられたが「大事の前で小さいことにこだわる必要はない」と命令を拒絶し、そのまま煮殺されてしまう。その後斉王田広は逃亡し、韓信は斉攻略を完遂するのである。

 劉邦が最終的に項羽を倒し漢の天下が定まった後、韓信は楚の旧臣を匿ったことが発端で謀反の疑いをかけられ、その後兵権を奪われ、屋敷に引きこもる生活を送っていた。ある日皇帝となった劉邦に呼び出され、話し相手を勤める。このときの話の内容は「この人物ならどれだけの兵を指揮することができるだろうか」ということであった。一通りの人物評が終わった後、ふと劉邦が「朕はどれほどの兵を指揮できると思うか?」の問いに韓信は「陛下はせいぜい十万の兵です」と答える。劉邦は続けて「では卿は?」と問うと「私は多ければ多いほど良い」と韓信は答える。劉邦は笑って「では先日の謀反の疑いがかかったときなぜ卿は朕に捕らえられたのだ?」と聞くと韓信は「陛下は兵を率いるには限界がありますが、将に対して将であることができます。それが私が捕らえられた所以です」と答えている。

 この会話をしている時、もしかしたら二人は酈食其のことを思い出していたのかもしれない。将に将たる劉邦の命令は遂行するだけの力があったのだろう。二つの相反する命令が発せられても、臣として遂行しなければならない。そのために自分が犠牲になっても、それは仕方ない。あの時の酈食其の態度はそういうものだった。と韓信は思っていたのかもしれない。そしてこれも推測だが、劉邦もこの話題を持ち出して韓信に警告を発していたのかもしれない。

 この数年後、韓信は謀反を計画するが計画は露見し処刑される。このとき韓信を宮廷内に呼び出して捕縛、処刑を行ったのはかって韓信が劉邦の元から出奔しようとしたとき追いかけて連れ戻した親友蕭何であった。やはり「将に将たる」劉邦の意図を汲んでの処置であったろう。
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by narutyan9801 | 2013-05-04 10:59 | 妄想(人物) | Comments(0)