鼈の独り言(妄想編)

suppon99.exblog.jp
ブログトップ

デイヴィッド・リヴィングストン ~アフリカで冒険と布教に燃え尽きた男~

 19世紀初め、アフリカ大陸はヨーロッパ人にとって沿岸付近までしか分からない土地で「暗黒大陸」と呼ばれていた。このアフリカの地に布教を目的に訪れた一人の青年の探検によってアフリカ大陸の内陸部の様子が初めて明らかにされたのである。アフリカを探検したその人物の真の目的は奴隷貿易の廃止であった。今回はアフリカ内陸部を冒険しその生涯もアフリカ大陸で終えることになった探検家、デイヴィッド・リヴィングストンを考察したい。

 デイヴィッド・リヴィングストンはスコットランドで1813年に生まれている。生家は貧しくリヴィングストンは10歳から紡績工場で働かなければならなかった。だが向学心が強かったリビングストンは工場で働きながら本を読む工夫を考え、仕事を終えてからは夜間学校で学び、神学や聖書について勉強を続ける。やがてリヴィングストンはドイツの宣教師カール・ギュツラフの著書を目にし、彼が行った東洋での布教活動を志し1936年にグラスコー大学に入学。働きながら宣教師を目指し1838年にはロンドン宣教師会に入会し布教活動の機会を待つが、1840年のアヘン戦争により東洋の布教活動は断念しなければならなかった。
 東洋での布教活動を諦めたリヴィングストンは同じスコットランドの宣教師ロバート・モファットと知り合い、彼が布教活動を行ったアフリカ大陸の話を聞き、アフリカでの布教活動を目指すことになる。1840年末、イギリスを発ったリヴィングストンは当時イギリス領だった南アフリカを経由して現在のボツアナで布教を進めるための活動拠点を探して各地を移動する。その最中夜間にリヴィングストンはライオンに襲われて重傷を負ってしまい傷が癒えた後も左手には大きな傷跡が残ることになる。

 1844年、ボツアナのクルマンで布教を行っていたリヴィングストンにイギリスからモファットが合流、モファットに同行していた彼の娘メアリーとリビングストンは結婚する。リヴィングストン夫妻は奥地での布教を目指してアフリカ大陸を北上し1849年にはヨーロッパ人で初めてヌガミ湖に到達し、さらにザンベジ川まで到達するが、子供が病に倒れたのを機にリヴィングストンは婦人と子供をイギリスに帰し自らはアフリカ大陸の探検を続けることにする。
 布教活動がいつからか探検に変化してしまったのはリヴィングストンがアフリカで見た奴隷貿易の悲惨さからだと言われている。リヴィングストンは奴隷が売買されるのは産業が無く交易するものが奴隷しかないため奴隷貿易が行われると考え、交易ルートを確立すれば産業が興り労働力として人が必要になり結果的に奴隷貿易が無くなると考えたらしい。産業革命下のイギリスで育ったリヴィングストンらしい考え方である。
 家族と別れたリヴィングストンは西に向かい、食糧不足と病気に苦しみつつもついに大西洋沿岸の都市ルアンダにたどり着く、ここでイギリス王立地理協会に自分の探検内容を記した手紙を書き、体力の回復を待って今度はアフリカ大陸を東に横断する冒険の準備を行う。1年半の冒険の結果1856年3月にインド洋沿岸のモザンピーク・キリマネにリビヴィングストンは到着、ヨーロッパ人として初めてアフリカ大陸横断に成功する。

 この年12月にイギリスに16年ぶりに帰ったリヴィングストンはアフリカ冒険の英雄として扱われる。しかし冒険を重視し途中で布教活動を中止したため、イギリス宣教協会からは除名処分が下される。1858年にリヴィングストンはキリマネ駐在大使を拝命し、同時にザンベジ周辺の探索を命じられ、妻子を連れて再びアフリカへへ向かうことになる。
 南アフリカのケープタウンで妻子と別れリヴィングストンはマラウィ湖の探索を行う。妻のメアリーはいったんイギリスに戻ったのち1862年にリヴィングストンに合流するが、マラリアのため1862年4月27日に亡くなる。妻の死後もリヴィングストンは探検を続けるが、翌年イギリスからの召還を受けイギリスに帰国する。二度目のアフリカ探検は学術的な成果が上がったが、一度目の「アフリカ横断」のような具体的な結果を得られず、失敗と見られリビングストンの評価は厳しいものとなる。しかしアフリカに魅せられたリヴィングストンは三度目のアフリカ探検に意欲を燃やし、講演や本の出版などで旅費の捻出を目指ざしている。出版された本には奴隷商人の蛮行が生々しく画かれ、この結果イギリスの世論は奴隷貿易の廃止に傾くことになる。

 1865年、リヴィングストンにイギリス王立地理協会からナイル川源流調査の依頼が入る。ナイル川のうち支流である青ナイル川は源流が判明していたが、白ナイル川については源流地が判明していなかった。具体的には白ナイル川の源流はビクトリア湖か否かを調査することになり、リビングストンは同年8月14日、三度目のアフリカ探検に旅立つ。
 リビングストンは1866年1月16日にインド洋沿岸のザンジバルに到着し、4月4日に内陸部へ出発する。しかし今回の冒険は難航し。数十人いたポーターも脱落者が相次ぐ。さらにリヴィングストンが奴隷貿易廃止論者であるため、地域の奴隷商人から有形無形の妨害を受けることになりついには買収されたポーターがリヴィングストンの医薬品を盗んで逃亡する事態も起きリヴィングストン自身も病に苦しむことになってしまう。
 イギリスではリヴィングストンからの連絡がないことを憂い、現地に連絡員を派遣してリヴィングストンの消息を探る探検隊が組織され、ジャーナリストで探検家でもあるヘンリー・スタンレーがリヴィングストン探索にアフリカに派遣される。

 スタンレーは1871年にタンガニーカ湖にたどり着き、当地で静養していたリヴィングストンに面会する。病で衰えた体を引きずるようにタンガニーカ湖周辺を探索するリヴィングストンにスタンレーは4ヶ月間付き添い探索の手助けを行う。その間スタンレーはリヴィングストンにイギリスに帰るよう勧めるが、リヴィングストンのナイル源流探索の意志は固く翻意させることは出来なかった。スタンレーは翌1872年3月にイギリスに帰国するが、スタンレーの報告によりイギリスから増援物資が送られる。この増援を得てリヴィングストンは白ナイル源流探索を再開するが、リヴィングストンの体はすでに病に蝕まれ手遅れの状態となっていた。翌年4月29日にバングウェル湖に到達、この湖の畔のチタンポという小さな村でリヴィングストンは息を引き取る。死因は赤痢とマラリアの合併症といわれている。彼を慕っていたポーターは彼の遺体を埋葬せず、内蔵を抜き取り防腐処理を施した上でザンジバルまで運び出すことに成功する。ザンジバルからイギリスへ船によって運ばれたリヴィングストンの遺体は左腕のライオンに襲われた傷跡から本人と確認されウエストミンスター寺院に葬られている。

 リヴィングストンの目指した交易ルートの開拓でもっとも利益を得たのは、実は彼が廃絶しようとした奴隷商人だった。さらに一回目の冒険で彼を助け、冒険を成功させた要因の一つは奴隷商人の援助によるものであり、このことはリヴィングストンを生涯悩ませていたと言われている。しかし彼の努力は決して無駄ではなく彼の三度目の冒険中イギリスの影響下にあったザンジバルでは奴隷貿易が廃止されている。
 リヴィングストンは著書の中で冒険は依頼内容はともあれ自分にとっては布教の為の拠点を探すことだと述べている。最後の冒険も布教の拠点を探すためだったのだろうか?白ナイル川の源流で布教を行う予定だったのか?それは彼自身にしかわからないことである。

[PR]
by narutyan9801 | 2013-05-03 09:25 | 妄想(冒険家) | Comments(0)