鼈の独り言(妄想編)

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ニュートンとハレー 同じ時代に出会った二人の科学者

 万有引力の法則の提唱者、アイザック・ニュートンとハレー彗星を発見したエドモント・ハレー。この二人は同時代のイギリスで活躍した人物で、以外とも思える接点がある。お互いの代表的な業績、万有引力の法則とハレー彗星の発見は二人が出会うことがなければ世に出なかった可能性もある。今回はそんな二人の関係を考察したい。

 アイザック・ニュートンは1642年生まれ、ハレーよりも14歳年上になる。偶然だがニュートンの生年にガリレオ・ガリレイが他界している。ニュートンの父親はニュートンが生まれる前に他界し、母親はニュートンが3歳の時に再婚して家を出、祖母に養育されることになる。後に母親の再婚相手も亡くなり、母親は再婚相手との三人の子供を連れて出戻り、こうした複雑な家庭環境がニュートンを気むずかしい性格にしてゆく。学問好きだったニュートンは家業を継がずケンブリッジ大学に入学する。大学では雑務をする代わりに授業料を免除される学生として入学し、このこともあって同級生とは打ち解けなかったと言われる。大学でニュートンはアイザック・バローという師に巡り会い彼の口添えで奨学生となる。ほぼ同時に大学がペストのため休校となりニュートンは故郷に戻り、自分の思想に耽る時間を得ることになる。奨学金を事前に支給されていたこともあり、約1年半の間故郷で自分の時間を過ごしたニュートンはこの時万有引力の法則、微積分法、光のスペクトル解析という自身の業績のほとんどを発見、証明したと言われている。大学に復学後ニュートンはバローの教授職を引き継ぐ。ニュートンの講義は内容が斬新すぎて生徒が付いていけず、講義を開いても生徒が誰も来ないことがたびたびあったと言われる。
 学者としてのニュートンは順風漫歩な道を歩んでいたが、彼は生まれつき猜疑心が強く、他人を信頼できない性格であった。微分積分法の発見は別にライプニッツが全く別個に発見、先に発表していたがニュートンはライプニッツが自分の研究を盗んだと裁判を起こし25年も争うなど人間関係に悩まされることになる。

 一方のハレーは1656年生まれ、生家は裕福な石鹸製造業者であり、1673年にオックスフォード大学に入学している。在学中に太陽系と太陽黒点に関する論文を発表しており、早くから天文学に興味があったことがわかる。
 大学を卒業後南半球の恒星の研究のためセントヘレナ島にわたる。150年後ナポレオンが流された絶海の孤島である。研究を終え1682年に結婚(ちなみにニュートンは一生独身だった)このころハレーは月の観測を中心に研究を行っていたが、重力にも関心を抱いていた。彼の関心はケプラーの法則の物理学的な証明だった。ケプラーの法則では惑星は楕円運動をしているとなっている。これは実際の観測結果から分かったことであるが、ハレーは何らかの法則があるのではないかと思っていた。
 1884年、ハレーは建築家のレン、「フックの法則」の発見者フックと三人で話をする機会を得、この時に「距離の2乗に反比例するような引力を受けて運動する物体の軌道はどうなるか証明できるか」とフックに訪ねるとフックは「証明可能」と答え、証明した計算式を約束の期日まで届けると語ったが、約束をすぎてもそれは届かなかった。ハレーはケンブリッジのニュートンを訪ね同じ質問をしてみたところ即座に「何年か前に説いてある。その物体は楕円軌道を描く」と答える。翌年ニュートンは完全な証明を示し、驚嘆したハレーはこの結果を出版するよう強く進める。あまり乗り気ではなかったニュートンもハレーの説得に応じ、ニュートン学の集大成ともいえる「プリンキピア」が完成する。しかし出版を約束していたイギリス王立協会が資金難で出版できなくなってしまい、お蔵入りすると懸念したハレーが自費出版として刊行し、ニュートンの業績は広く世に知られるようになる。
 しかしケプラーの法則の証明は先に証明可能と言ったフックの反感を買う。フックとニュートンの対立は次第にニュートンの精神を病み(研究していた錬金術の影響で水銀中毒になっていたという説もある。実際後年ニュートンの毛髪からは水銀が検出されている)、彼は数年間閉じこもり気味になりついには学問の道を捨て、教え子から紹介された造幣局長官に就任し精力的な政務を行う。やがて対立者だったフックが亡くなるとフックの次の王立協会会長の地位につき、イギリスだけでなくヨーロッパの学者の重鎮におさまるのである。

 一方のハレーはその後も研究に没頭している。彼は行動の人であったらしく実地に基づいた研究に多くの生家を残している。終身年金の掛け金を年齢に合わせた掛け金にする論文を発表したり、潜水時間を大幅に延長させる潜水樽を考案したり、地球の磁気の観測のため軍艦の艦長になったりしている。そのなかでも一番の功績はやはりハレー彗星の発見だろう。

 1682年ハレーは巨大な彗星を観測したが、過去にケプラーなどが観測した彗星と特徴が似ており、その彗星が76年の周期で現れることからこれらの彗星は同じもので、76年の周期で公転しており、次回の回帰は1757年になると予言している。木星と土星の影響で実際の回帰はハレーの予言よりも遅れたが、ハレー彗星は1758年12月25日にドイツでパリッチュにより回帰が観測されている。奇しくもこの日はニュートンの誕生日でもあった。ハレーの予言の自信には間違いなくニュートンの研究の後押しがあったろう。

 その後ハリーはグリニッチ天文台長に就任するがその天文台の監察委員長はニュートンが勤めていた。またニュートンが会長を務めている王立協会にはハレーも加わっている。想像の話になるが、ハレーはニュートンにとって心許せる存在とまではいえないかもしれないが、学者仲間では一番話せる相手だったのではなかろうか?

 山田風太郎の人間臨終図鑑のニュートンの項にはニュートンが亡くなる半月前にハレーを叱りつけたという話が載っている。出典が何か分からないのが残念だが、この日からニュートンは体調を崩し、ついには息を引き取る。最後の叱責の時、ハレーは苦笑を堪えつつ、長年の友人(?)の小言を聞いていたのではないだろうか。

 ハレーはその後もグリニッチ天文台長を死ぬまで勤め、1742年に85歳で亡くなっている。この年はニュートンの生誕から100年目の年であった。
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by narutyan9801 | 2013-03-12 08:59 | 妄想(人物) | Comments(1)
Commented by 通りすがり at 2015-01-09 08:15 x
面白かったです。
以下、誤字が散見されたので指摘させてもらいます。

>とフックに訪ねるとフックは「証明可能」と答え
尋ねると

>即座に「何年か前に説いてある。その物体は楕円軌道を
解いてある

>驚嘆したハレーはこの結果を出版するよう強く進める
勧めるor奨める

>実地に基づいた研究に多くの生家を残している。
成果を残している