鼈の独り言(妄想編)

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氷原に消えた男達 ジョン・フランクリン冒険隊の遭難

 大航海時代より、海原を航海する者たちの一番の関心事は「どれだけ儲けられるか?」だったろう。船の容積は限りがあるため、航海日数の短縮は船乗りたちにとって重要なことであった。パナマ運河、スエズ運河が無い時代ヨーロッパから極東に向かうためには、東西どちらに向かってもアフリカ大陸、南アメリカ大陸を迂回しなければならず、長い時間をかけねばいけなかった。しかし、北方に目を転じてみると氷に閉ざされている北極海に航行可能な地域があれば、極東への航行日数が大幅に短縮できる。こうして「北西航路」を求めてあまたの探検家が旅立ち、多くの悲劇が生まれている。その中でも最大の悲劇と言われる。「ジョン・フランクリン探検隊の悲劇」を今回は取り上げてみたい。

 探検隊を率いるのはジョン・フランクリン。彼は1786年に生まれ、トラファルガーの海戦にも参加した海軍士官であり、一方で北極探検も数度参加していた。彼が32歳から3年間行った探検では複数の隊員が死亡し、食糧不足から革のブーツを食べようとしたとまで言われている。その後彼は政務官に転じ、1838年にはタスマニア副総督まで上り詰めるが、5年後に失脚している。

 フランクリンが北西航路発見の探検隊の隊長に選ばれたのは彼自身が隊長になることを熱望したためであった。もちろん彼自身の経験も選考対象になったろうが、すでに齢60に近い彼に北極の極限状態で耐えられるかどうかは現在の感覚では疑問である。ただ、この探検は船での航路開拓が主な目的で、隊長自身は船から離れることはほとんどないと思われたための人選であったかもしれない。それだけに船の装備はかなり本格的なものだった。探検に用いられる船はイギリス海軍の二隻の軍艦が使用され、寒さ対策のため居住区にはスチーム暖房が装備された。食料は3年分が積み込まれ、半分は昔ながらの保存食、そして残り半分は缶詰が数千個用意された。さらに長期航海の船乗りの恐怖であった壊血病もキャプテンクックの航海で実証されたレモンジュースで対策しており、当時最新の極地探検装備を備えた探検隊だったろう。しかし、この探検隊の命を預ける艦の名前は「エレバス(地獄)」と「テラー(恐怖)」という、とっても厨二臭溢れる名前だったのは探検隊の先行きを暗示していたのかもしれない。

 フランクリンが隊長を正式に拝命したのは1845年2月7日、そして出航まで数ヶ月しかない中、準備は急ピッチで行われ、同年5月19日、総勢134名の探検隊は出航する。グリーンランドのホワイトフィッシュ湾までは別の軍艦と輸送船船も同行、同地で輸送船から最後の補給を行い、ここで探検隊から5名が外れ、総勢129名となった探検隊は同行した艦と別れ、一路西に向かった。同年7月26日、付近で鯨を追っていた捕鯨船「プリンス・オブ・ウェールズ」と「エンタープライズ」が氷山にもやい綱をかけて仮泊している両艦を目撃している。これが西洋人が見た探検隊の最後の姿になった。

 探検隊の出発から2年、探検隊からの連絡が無いことを心配したフランクリン夫人がイギリス海軍に捜索を依頼するが、海軍は3年間の越冬は予定の行動としてこの年の捜索隊の派遣は見送った。しかし翌年になっても探検隊の消息は掴めず、ようやく重い腰を上げたイギリスは捜索隊を派遣、別にアメリカからも捜索隊が派遣され、民間からも捜索隊、そしてフランクリン夫人も私費で捜索隊を派遣するが、探検隊の消息は掴めず、捜索隊の遭難が相次ぎ、犠牲者が多数出てしまう事態となる。

 1850年になってようやく捜索隊からフランクリン隊の断片的な情報が得られるようになる。フランクリン隊の最初の目標だったビーチー島で三人の隊員の墓が発見されたのである。隊員の遺体は凍土によって保存されており、検死により結核を患っての病死であることが判明した。
 さらに1854年になって他の探検を行っていた探検隊が現地のイヌイットから「数十人の白人が飢えて死んでいた」との情報を得、イヌイットの所持していた持ち物からこの白人たちがフランクリン隊の隊員たちであったと確認できる品物を見つけた。
 この報告を受け、フランクリン夫人は夫の最後を確認すべく、借金を重ね私費探検隊を現地に送り込んだ。そしてこの探検隊により探検隊の最後が明らかになる。

 探検隊は1845~1846年にかけて海が氷に閉ざされたので船内で越冬、越冬中に亡くなった三人を埋葬後、夏に南に開いた海を航行し、キングウィリアム島北方でまた氷に閉ざされてしまう。ここでの氷は夏になっても溶けず、隊員たちは次第に衰弱していく、実は食料として積載した缶詰は準備期間が短く、密封のはんだ付けの作業が荒く内容物にはんだに含まれる鉛が侵入し、隊員たちは鉛中毒に犯されてゆく。さらに缶詰の何割かは悪徳業者によりおがくずなどが積められており、食料自体も不足がちになる。さらに壊血病予防のレモンジュースも効能が無くなっており、隊員たちに壊血病が蔓延する。イヌイットたちが目撃した隊員の姿は皮膚の爛れ、唇の黒色化などの壊血病の典例的な症状を示していた。そしてこうした環境の悪化で最初に倒れたのが隊長のフランクリンであった。隊員が書き残したメモによるとフランクリンは1847年6月11日に死亡したと記さている。

 フランクリンの死後も隊員は次々と倒れていったが、元々選りすぐった隊員たちは頑健で、フランクリンの死の翌春の段階でまだ100名以上が存命していた。ここで隊員たちは船を捨て、陸地まで歩いて行く決断をする。隊員たちは食料などの物資のほか、陸地までの歩行には不必要と思われる食器や装飾品も含む荷物を三隻のボートに積んで陸地を目指し歩き始める。この装備としては不要な装飾品はイヌイットと出会ったときの交渉の代価とも言われるが、体力を消耗しきっていた隊員たちはそれを曳いて歩けず、すぐに放棄している。さらに陸地を目指す途中で隊員たちに諍いが起こり、船に戻るものと陸地をめざすものの二つに分裂する。鉛中毒による精神的荒廃が諍いの元になったとも思えるが、ここまで統率をとっていた人物に何かが生じたような感じも受ける。結局船に戻ろうとしたものたちは途中で全員力つき、陸地を目指したものはキング・ウィリアム島にたどり着いたものの、その先までは進めず全滅したらしい。彼らの遺体のいくつかには人為的な切断の跡があり、飢えに苦しんだ彼らがついには人肉食に及んだことが想像できる。

 冒険家の植村直己氏はフランクリンの冒険を「現地のイヌイットの生活に学ばず、西欧の生活をそのまま踏襲しようとして自ら招いた惨事である」としている。これは確かに的を得た言葉である。フランクリンの死後から実に60年後、アムンゼンによってようやく北西航路の航行が実現したが、アムンゼンの用いた船ヨーヤ号はわずかに47トン、喫水約1mの小型船で、氷が押し寄せない浅瀬も航行できる船であった。この船を用い、海面が凍結する時には陸地で越冬し、航行可能な時期に移動するというイヌイットの生活様式に則した方法でアムンゼンは北西航路を制覇した。しかしフランクリンの冒険の目的は「航路の開拓」であり、走破だけが目的ではなかったことを割り引いて考えねばならない。

 航路の開拓という現在でも実現できていない目的を課せられたフランクリン隊にとって北極海はまさに「恐怖」に満ちた「地獄」の地であったろう。
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by narutyan9801 | 2013-03-06 17:31 | 妄想(冒険家) | Comments(3)
Commented by 紅玉国光(富山市) at 2015-07-15 01:01 x
初めてお邪魔致します。

フランクリン北極探検隊の用船「エレバス」と「テラー」は、その前にはジェイムズ・クラーク・ロス卿の南極探検にも用いられた耐氷構造の船ですが(完全な砕氷船ではない)、元々は共に海軍の砲艦でした。当時の砲艦は陸上目標を艦砲射撃する専門のふねであり、比較的小型の船体に不釣合な巨砲を搭載する傾向にあり、発砲時の衝撃に耐え得る様に当時の木造船体としては強度が大きく設計されておりました。この特性を買われ、極地探検船に転用されたものです。従って、本来の砲艦としての目的に沿った名前=敵軍に「恐怖」を与え「地獄」をもたらす、と命名されていた艦名を、そのまま変えずに使用したものと思われます(この2隻の名は、第一次世界大戦から第二次世界大戦まで英海軍に在籍した鋼製砲艦が受継いでいます)。 老婆心ながら。

序でに申し上げますと、鋼製船体が鋲接(リベット打ち)構造で組立てられていた20世紀前半迄は、氷海行動に鋼船は不適と一般に考えられていた(タイタニックの例を見よ!!)為、ナンセンのフラム号、スコットのディスカヴァリー号、シャックルトンのエンデュァランス号、何れも船体を強化した木造船です。
Commented by narutyan9801 at 2015-07-18 00:15
コメントありがとうございます。

フランクリン探検隊が用いた船に関してはおっしゃるとおりです。確かシャクルトンの遭難の項で当時の極地探検では木造船のほうが優れていると私も書いた記憶があります。船の名前に関しては文を結ぶ際の所謂「オチ」として使ってみたのですが、改めて文章を読んでみるとフランクリン卿が命名したような印象をうけますね。ご指摘ありがとうございます。
Commented by 紅玉国光(富山市) at 2015-08-23 13:25 x
管理人様へ。偶々立ち寄っただけの紅玉の拙文にわざわざ丁重な御返事を頂き恐縮の極みであります。……紅玉は当初、此処を局所的にしか読まなかった為、無知故に大変に失礼致しました。管理人様がちゃんと艦艇や海事史に深い造詣をお持ちの方である事に思い至らず、正に「釈迦に説法」を為しました無礼を平身低頭して陳謝致します。

そう言えば、ディスカヴァリー、エンデュァランス等は以後も調査船の名として襲名されておりますが(スコットのディスカヴァリー号はⅡ代目)、エレバス、テラーの名が元々の砲艦としては用いられても、調査船としては再用されなかったのは、やはりいくら何でも129名全員死亡と同じでは縁起が悪過ぎる、と、豪胆な英国人でも思ったのでしょうね……。(タイタニックもⅡ代目は無い……どころか、建造中だった同級3番船を、連想され易いヂャイガンティックからブリタニックに中途改名している。その縁起担ぎも空しく、第一次世界大戦中触雷し、同じ所に破口を生じて沈没した)

しかし、考えて見れば砲艦(大型モニター)新テラーも第二次世界大戦中、北極海ではなく地中海で急降下爆撃機に攻撃され戦没しているのであった(新エレバスは戦後まで残存、解体)。