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鼈の独り言(妄想編)

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イオ ~地球以外で唯一熱い溶岩が視認できた天体~

 溶岩は岩石が溶けたものであるから熱い、というのは地球での常識である。太陽系という範囲で見ると長石、シリカ、鉄などが融解した「熱い溶岩」を噴出する天体は少数派である。太陽から見て火星以遠の天体はガスが主成分の木星、土星を除くとほとんどがメタンなどが低温で固体化した「氷」の惑星でそういった天体では「冷たい」溶岩が存在する。岩石が主成分の「地球型惑星」で現在火山活動が目視で確認できるのは地球のみである。観測から金星でも火山活動がある可能性が高いが厚い大気と雲に阻まれて火山活動を直接観察することは出来ない。視点を太陽系全体に広げてみると地球以外で「熱い溶岩」が直接観測されている天体が一つだけ存在する。今回はその衛星「イオ」を考察してみたい。

 イオは木星の衛星で有名なガリレオ衛星の一番内側(一番木星に近い)を公転している衛星である。発見者はガリレオ・ガリレイで1609年1月7日に自作の望遠鏡で木星を観察した際に複数の衛星を発見している。だがこの日たまたま地球上からの視点でイオとエウロパ(第2衛星)が接近しており別々の天体がどうかの区別が付けられなかった。翌8日の観測で二つの天体であることが判明し公式の発見日は1月8日となっている。
 ところが1614年ドイツの天文学者シモン・マリウスが自身の著書でガリレオより早く木星の惑星を発見したと主張したのである。シモンが記載した観測日記の日付は1608年12月29日になっておりガリレオよりも11日ほど早かった。だがシモンが使っていた暦は紀元前に制定されたユリウス暦と言われガリレオの使用したグレゴリオ暦よりこの時点では11日遅い日付になっており発見は同日ということになる。ガリレオが先に発見を発表しており現在では木星の衛星発見者はガリレオという認識が一般的である。
 発見者にはなれなかったがシモンが提案した木星衛星の命名法は受け入れられ木星第一衛星はギリシャ神話の神イーオーから採られている。ちなみにイオの等級は5.02で目のいい人ならば地球からでも肉眼で見える明るさであるがすぐそばに等級-3の木星があるため肉眼での観察はほぼ不可能である。

 月以外の衛星の発見は当時の天文学者の興味を引き詳細な観測が行われた。この結果イオの周期が分かりこれを利用してデンマークの数学者オーレ・レ-マが地球と木星の距離によりイオが木星の裏側に隠れる「食」の周期に変化が生じることを観測し光速が有限であることを初めて証明している。しかしイオがどのような星であるかは19世紀後半になるまで分からなかった。
 1890年代にイオの赤道付近と極付近の表面の色に違いがあることが地球からの観測結果によって分かった。当初この色の変化はイオが球形では無いことや二連星であることが予想されたが観測が進むにつれて表面の地質的な違いによるものとの推測がされるようになる。これは氷で形成されていると考えられていたイオが他の成分で形成されていることを示唆するものだった。さらに1950年代には他のガリレオ衛星には存在する水がイオの表面には存在しないことが示唆されイオの特異性が明らかになった。こうした中で惑星探査機での調査が試みられるのである。

 1973年にパイオニア10号、翌年に同11号が木星に接近し平行してイオの観測も行われる。イオの質量が計測されイオの密度が月を上回り内部に鉄のコアを持ち岩石を主体として形成されていることが明らかになった。しかし期待された近距離の撮影は一部を除いて上手くいかなかった。宇宙線による高放射能領域の影響で画像が乱れたためと言われている。
 1979年に接近したボイジャー1号、2号からは良質な画像が送られ科学者たちを驚かせることになる。イオの表面は黄色に染まり部分的に茶、赤、緑などの色彩が点在する姿だったのである。他の衛星には多数見られるクレーターは見られず比較的なだらかな表面と点在する山というかなり単調な地形であった。そしてこの地形を生み出す原因もボイジャーは捉えていたのである。
 ボイジャー1号のイオへの最接近直後に撮影された画像を分析していたエンジニアがイオの表面から立ち上る噴煙を見つける。さらに解析してみると複数の噴煙が上っていることが分かったのである。ボイジャーの接近前にイオが木星及び他の衛星であるエウロパ、ガニメデからの引力を受け潮汐加熱や摩擦熱を発生させているという論文が発表されていた。イオの火山活動はそれを実証したものとなったのである。地球やおそらく金星で起こっている火山活動のエネルギーは惑星誕生時の余熱や含有している放射性物質の崩壊が主な熱源であり潮汐力は主な熱源とはなっていない。それに対してイオの火山活動のエネルギーはほぼ潮汐加熱や摩擦熱となっており外部からのエネルギーが天体の地質活動を起こしているという事象の実例になったのである。この火山活動の噴出物でイオの表面は覆われクレーターは形成されてもすぐ隠されてしまう。表面が比較的なだらかなのも活発な火山活動が原因だったのである。

 ボイジャーの接近後しばらくは惑星探査機の派遣は無かったが1995年に木星探査機「ガリレオ」が木星に到着し観測を開始する。しかし正規ミッションではガリレオはイオへの接近を試みなかった。イオの周囲は高放射能環境のため機器の破損を避けたためである。正規ミッションは1997年に終了しオプションのミッションでガリレオは数回イオにも接近している。2000年には土星に向かう探査機カッシーニがフライバイの目的で木星に接近した際同時に別方向からの観測を行うという試みもおこなっている。ガリレオの運用終了後現在は探査機ジュノーが木星の周回軌道に入っておりイオの探索も継続中である。ハッブル宇宙望遠鏡や地上からの観測技術も向上し探査機を介さなくてもイオの噴火活動を観測できるようになっている。

 イオの火山活動を支えている潮汐加熱はイオと木星の近木点と遠木点との差によって生じている。イオの軌道は真円では無く円に近い楕円形であるが離心率は0.0041と非常に小さい。しかしもしイオが単独で木星の周りを回っていれば木星とイオの重量差が圧倒的なためいずれはほぼ円に近い軌道になってしまう(重量差が圧倒的な火星とその衛星ダイモスの離心率は0.0002である)それを妨げているのが他の衛星エウロパとガニメデである。イオ、エウロパ、ガニメデは1:2:4の平均運動共鳴を起こしている。イオが木星を2周するごとにエウロパは1周、イオが木星を4周するごとにガニメデが1周とこの三つの衛星は木星の周りを整然と公転しているのである。このためイオの公転は真円にならずにわずかな楕円を描き続けている。イオの「熱い溶岩」は木星とそれを取り巻く衛星の相互作用で成り立っているのである。
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 木星探査機ガリレオが捉えたイオ。一見平坦で静かな印象であるが太陽系随一の火山活動を行っている天体である。またイオの表面には水がほぼ存在しない。すぐ外側を回っているエウロパが厚さ100kmに及ぶ水の層を持つのとは対照的である。

# by narutyan9801 | 2019-05-08 20:56 | 妄想(天文) | Comments(0)

スティーブ・ジャクソンのソーサリーシリーズ ~一瞬だったゲームブックブームの最高傑作~

 人類が意識・無意識な作為を排除した乱数を創作する器具、賽を発明したのはおよそ7000年前と言われている。最初賽は『賽銭箱』という言葉が示すとおり神の意思を告げる神具であったが時代が下がるにつれて遊具として広く用いられるようになった。正方体の対面に1-6,2-5、3-4と合計が7になるように作成したいわゆる「サイコロ」はほぼ全世界で用いられる遊具になっている。このサイコロを使った遊戯はたくさんの種類があるが20世紀後半の数年間爆発的に流行した「ゲームブック」という遊戯があった。今回はそのゲームブックの中でも最高峰と言われる「スティーブ・ジャクソンのソーサリー」を考察したい。

 賽が遊戯に使用され始めたのはおよそ5000年前のエジプトだと言われている。現在のバックギャモンの原型になったセネトと呼ばれる遊戯でサイコロを振って出た目の数だけ盤上の駒を動かし自陣に入れるのを競うゲームであった。サイコロを使う遊戯はこのような駒を動かすいわゆる双六と呼ばれる遊戯や出る目を予測して当てるような遊戯の時代が長かった。現在のパラメーターと乱数を組み合わせて結果を決めるような遊戯は実は軍事学から移入されたものである。
 1820年代にプロイセン陸軍で導入された兵棋演習で偶発的な勝敗を決めるためにサイコロが用いられるようになる。この兵棋演習を各国が採用し日本でも明治期に導入している。有名な話であるが太平洋戦争のミッドウェー海戦直前に行われた兵棋演習で米軍の攻撃を受けサイコロの目が「命中九発」であった所を当時の連合艦隊参謀長宇垣纏少将の鶴の一声で「命中三発」とした逸話がある。ミッドウェー海戦の顛末を考えると複雑な思いがあるがこの時の兵棋演習の基本的な所は現在のウォーゲームとあまり変わらないのが感じ取れる。
 第二次大戦後アメリカで兵棋演習を簡略したボードゲーム(ウォーゲーム)が発表され人気を博するようになる。このボードゲームのバリエーションとして指輪物語などのファンタジー要素を取り入れ、扱う駒も戦士や魔法使いなどをモチーフとしたフィギュアを使うゲームが発表され1974年には初のファンタジーテーブルトークRPGである「ダンジョンズ&ドラゴンズ」(D&D)が発売されるのである。
 D&Dはゲームマスターが作ったシナリオを複数のプレイヤーが協力してPLAYしていくというスタイルで進行はゲームマスターの裁量に委ねられておりグループ内のコミュニケーションが重要になってくるという新しいゲーム感覚が話題を呼び人気を博したのである。
 好評だったD&Dだが一人ではPLAYできないという問題点があった。ソロプレイ用のシナリオも発表されていたのだがシステムが煩雑すぎ手軽にPLAYできるものではなかった。こうした中イギリスで二人のゲームデザイナーが新たなゲームを創作したのである。

 1975年イギリスでゲームズ・ワークショップ社が設立される。立ち上げたのはイアン・リビングストンとスティーブ・ジャクソンのルームメイト同士であった。設立当初同社はD&Dの輸入販売を手がけていたが1977年にテーブルトークRPG専門誌を創刊、独自のゲームデザインを模索するようになる。
 当時「ゲームブック」や「アドベンチャーブック」の名称でいわゆるテキストアドベンチャー形式の書籍は存在していた。二人はこのゲームブックにRPGの要素を加えることを模索、出版社ペンギンブックス編集者にこの案を打診し出版を提案する。この結果二人の共著である「火吹山の魔法使い」が刊行されることになった。発刊当初「火吹山の魔法使い」は話題にならなかったが手軽にロールプレイングゲームができると徐々に評判になりベストセラーとなる。大当たりしたゲームブックは「ファイティング・ファンタジー」シリーズとして続刊していくことになる。
 ファイティング・ファンタジーシリーズの作者の一人として名を連ねることになったスティーブ・ジャクソンであったが彼はシステムはほぼ踏襲するもののファイティング・ファンタジーシリーズとは別個のゲームブックの腹案を持っていた。それが「ソーサリーシリーズ」として世に出ることになるのである。

 「ソーサリー」シリーズはカクハバートという世界を舞台に奪われた「王たちの冠」を奪還することを目的とした物語で全4巻のゲームブックで構成されている。それぞれの巻は単独でPLAYできるようになっているが1巻から通してPLAYした方がより世界観を楽しめる。各巻が一つのクエストとなりキャンペーンをクリアすることを目的としていると言っていいだろう。
 ゲームシステムの特徴としては「魔法」の設定があげられる。ファイティング・ファンタジーシリーズでも魔法の要素はあったがあくまで選択肢の一つとして魔法が使えるといった程度だった。「ソーサリーシリーズ」では全48の魔法が用意され戦闘や要所要所で魔法を唱えるという選択が出る。現在では主流のマジックポイントという概念は存在せず魔法を唱えるごとに設定された体力を失う、つまり体力がマジックポイントを兼ねているという設定になっているのである。
 見逃せないのがジョン・ブランシュの挿絵である。独特のおどろおどろしい挿絵は妖精が飛び交い華麗な甲冑を着けた騎士が活躍する場面とはほど遠い、むしろ生活臭というか体臭が臭ってきそうな雰囲気を醸し出しているのだがこれが作品に強いインパクトを与えているのである。

 英国で1983年に発刊された初刊「The Shamutanti Hills」は1985年に日本語版「魔法使いの丘」として発刊されるや一大ブームになる。どれだけブームになったはと言うと最終刊「The Crown of Kings」が1985年にイギリスで発刊されたのだが同年中に日本語翻訳版「王たちの冠」が発刊されたのを見れば理解出来るだろう。娯楽としてのゲームブック人気は一気に高まりゲームブック専門誌とも言える「ウォーロック」が創刊され日本人ゲームブックデザイナーも誕生していった。しかしこのゲームブック人気は長く続かなかったのである。

 ゲームブックの誕生とほぼ同時期に「ウルティマ」「ウィザードリィ」と後のコンピューターRPGの源流となる作品が発表されている。それぞれのゲームデザイナー、リチャード・ギャリオット(ロード・ブリティッシュ)とロバート・ウッドヘッド両氏共ゲーム開発の目的は「D&Dを一人でPLAYしたかったから」と語っている。つまりゲームブックとコンピューターRGBゲームの源流は同じところであった。そしてこの二作品の影響を受けたファミリーコンピュータ用ソフト「ドラゴンクエスト」が1986年にリリースされ大ヒットを記録したのである。これまでのPC用RPGはPLAYに十数万円以上するパソコンを購入する必要があったのに対しハードとソフト併せて二万円ちょっとでお手軽に本格的RPGが楽しめ、それまでシューティングやアクションゲームと子供のものだったゲームを大人も楽しめるという趣味にまで発展させたことで画期的な出来事であった。そしてコンシューマ機でのRPGの普及はゲームブックを一気に衰退させたのである。パーティーを組んでの複雑な戦闘処理、世界観を形作るグラフィック、複雑なシナリオ等々ゲームブックではとうてい再現不可能な要素であった。コアなファンが多く代替えの効かないテーブルトークRPGと違いゲームブックプレイヤーがそのままコンシューマRPGプレイヤーに流れても仕方ない状況だった。その結果ゲームブックというジャンルは衰退しスティーブ・ジャクソンもソーサリーシリーズを超えるゲームブックを作ることは出来なかったのである。

 2000年代に入りソーサリーシリーズを含むゲームブックの再版が行われているがかっての勢いを取り戻すことはなかった。現在はソーサリーシリーズの単行本よりも軽いスマホでどこでもRPGが出来る時代である。もはやゲームブックがブームになることは無いだろう。しかし短いながらサイコロ二つで熱くゲームを楽しめる時代が存在したことを自分は忘れることができないのである。
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 ソーサリーシリーズの日本語版、右が東京創元社版の「王たちの冠」左が創土社版の「シャムダンディの丘を越えて」PLAYのしやすさは創土社版の方に軍配が上がりそうだが翻訳者の拘りが東京創元社版のファンを捉えきれなかった感がある。個人的にもミニマイト=豆人はちょっと思うところがある

# by narutyan9801 | 2019-05-06 17:27 | 妄想(その他) | Comments(0)

メシエカタログ ~コメットハンターの拘りがつまった「紛らわしいものリスト」~

 コメットハンターと呼ばれる人々がいる。夜空に突如現れる彗星をいち早く探し出す人々たちのことである。現在彗星の発見は地球近傍小惑星自動探査プロジェクトがいくつか稼働し人が直接観測して新たな彗星を発見することは希になってきているがそれでも地道に夜空を観測しているアマチュア天文家も多い。現在のような観測機器がなかった時代、彗星の発見は簡素な天体望遠鏡と観測者の腕にかかっていたが他の天体の誤認も多く発生していた。今回は彗星探査の際彗星と紛らわしい天体の除外を目的として作成された「メシエカタログ」を考察したい。

 メシエカタログを作ったシャルル・メシエは1730年生まれのフランス人で1751年にフランス海軍天文台の助手となり天文観測に従事することになる。天体観測者となった彼が没頭したのは「ハレー彗星の再発見」であった。エドモンド・ハレーが1757年に回帰すると予言した彗星の再発見にメシエは情熱を注いだのである。メシエは1759年1月21日にハレー彗星を再発見するがすでにその一月前にドイツ人ヨハン・ゲオルク・パリッチュがハレー彗星再発見を果たしていたのだった。ハレー彗星再発見一番乗りを逃したメシエに誹謗中傷が殺到する。普通ならば腐ってしまってもおかしくない状況であったがメシエはこの状況に逆に発奮する。レクセル彗星(観測史上最も地球のそばを通過した彗星)などを発見したメシエはフランス国王ルイ15世から「彗星の狩人」と呼ばれその名声は揺るぎないものになったのであった。

 名声を得た後も天体観測を続けたメシエではあるが夜空にはメシエを悩ますものが存在した。彗星は太陽に近づくと揮発性の物質が蒸発し天体望遠鏡での観測ではぼやけて見える。しかし夜空の天体には当時の天体望遠鏡では彗星によく似た見え方をする天体も存在したのである。恒星が球状に集まっている散開星団や球状星団、星間ガスなどがまとまった星雲、銀河系外の別の銀河などは当時の光学機器の精度では彗星と区別が付きにくかった。誤認の多さに業を煮やしたメシエはあるアイデアを思いつく。見間違えやすい天体をリストアップして誤認を防ごうとしたのである。それまで知られていた誤認しやすい天体にメシエ自身が発見した天体を合わせて発表し彗星との誤認を防ぐという考えであった。
 このリストアップにメシエが天体観測と同じぐらい情熱を注いだのが「数字の切りの良さ」であった。リストを纏めていくうちにリストアップした天体の数が「39」になりそうになるとメシエは「1個追加して40にしよう」とするのである。様々な文献を漁っていくと1660年にポーランド人天文学者ヨハネス・ヘヴェリウスが星雲らしいものを見つけたという情報があった。メシエが自身の望遠鏡で確認してみると星雲はなく重なるように見える二つの恒星が見えるだけであった。しかしメシエはこの二重星をリストに加えてしまうのである。
 しかし話はここでは終わらない。リストが40個になりやれやれと思ったかは分からないが彼が本業の彗星探索をしていると自分で紛らわしい天体を一つ見つけてしまうのである。そこで彼が取った行動は「あと4つ加えて45個にしよう」というものであった。しかしそう簡単に適当な天体は見つからない。そこでメシエがリストに載せたのは紀元前から知られているオリオン星雲や昴(ブレアデス星雲)などおおよそ初歩的な天文学を学んだ者ならば彗星と見間違えることはないであろう天体だった。彼の切りの良い数字へのこだわりは並大抵のものではなかったのである。
 好意的に見ればメシエのカタログ作りは彗星と紛らわしい天体のピックアップから「彗星状」天体の網羅と制作目的が変わったため過去に観察された星団や既知の星団を遅まきながら取り込もうとしたと解釈することもできる。しかし観測結果で彗星状天体の存在が確認されなかった40番をカタログに加えたのはやはり不可解に感じる。
 ともあれ彼の拘りも含めて1774年にメシエカタログとして45個の天体が発表される。その後も彗星と間違えやすい天体の発見は続き彼の生前に計103個の天体が追加記載されることになる。さらに彼の死後残された資料から彼が発見していたと思われるが記載しなかった天体が7つ加えられ現在のメシエカタログは110の天体が記録されている。ただ記載位置に天体が存在しないものもある。行方不明天体の大部分はメシエの記録の間違い等でその後同定されたが102番目の天体の正体は現在も議論が続いている。

 現在は観測技術が発達しメシエ天体が彗星発見の邪魔になることはほぼ無くなっている。コメットハンターから目の敵にされることの無くなったメシエ天体を使った面白い試みがなされてる。メシエが活躍していた時代の観測器具で発見された天体は現在の観測機器であれば容易に観測が可能である。そこで一晩でメシエ天体をより多く観測するという「メシエマラソン」という天体観測がある。北緯25度前後で3月中旬から4月上旬であれば一晩ですべてのメシエ天体を観測することも可能と言われている。作成の動機とは全く違った用途に使われるのは地下のメシエも驚いているだろうが同時に満足していることだろう。
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メシエカタログ104番目に記載されているソンブレロ銀河。メシエ自身がカタログに記載した天体は1784年に発表した103番まであり104番以降は死後彼の研究結果を基に追加記載されている。最後の発表からメシエの死まで30年以上の時間があるが身体の衰え(転落事故の後遺症があったと言われる)やフランス革命の影響でメシエカタログは追加されることは無かった。
 

# by narutyan9801 | 2019-05-03 11:28 | 妄想(天文) | Comments(0)

ヴォイニッチ手稿 ~未だ解読不能な謎の奇書~

 人類が直接言葉を交わせない相手に情報を伝える手段、文字を発明したのは約8000年前と言われている。そして文字の誕生とほぼ同じ時期には特定の人以外に情報が伝わらないようにするための手段「暗号」も出来ていただろう。暗号は文字に条件付けを行い情報を分からなくするものであるがあまりに複雑だと解読に時間がかかったり間違った解読を行ってしまう可能性が増えるため一定の条件を付加する場合がほとんどである。しかし何度も暗号を使用していると確率統計的手法により暗号が解読されてしまうことになる。現在ではコンピューターの解析なども使われ極端に使用頻度の低いもの以外の暗号は時間をかければほぼ解読が可能となっている。しかし何事にも例外は存在し現在の暗号解読技術をもってしても解読できない奇書も存在する。今回はそんな奇書の中でもとりわけ謎めいている「ヴォイニッチ手稿」を考察したい。

 ヴォイニッチ手稿は1912年にアメリカ在住の古書商ヴォイニッチが現在のグレゴリアン大学の前身コレジオ・ロマーノが売却した古書の中から発見したとなっているがこの手稿の存在はそれ以前にいくつかの記録が残されている。確実な最古の記録はプラハに住んでいた錬金術師ゲオルク・バレシュが1639年にローマに在住していた学者アタナシウス・キルヒャーに宛てた手紙の中にこの手稿を入手したことが記されている。バレシュの死後友人の手を経て手稿はキルヒャーが所有することになった。入手の際この手稿がかって神聖ローマ帝国皇帝ルドルフ2世(1552~1612)が600ダカット(現在の価値で約10万ドル)で手稿を購入したと書かれたメモが付随され後にヴォイニッチが再発見した際このメモも見つかっている。エジプトの古代文字ヒエログリフの研究なども行っていたキルヒャーは自身がこの手稿の解読を試みようしたが解読は失敗に終わったようでありキルヒャーの死後ヴォイニッチ手稿は他の蔵書と共にコレジオ・ロマーノに収蔵されたらしい。その後1912年にコレジオ・ロマーノが財政難に陥り蔵書の一部を売却、その中にヴォイニッチ手稿が含まれていたのである。再発見者のヴォイニッチは同書をアメリカに持ち込み亡くなるまで彼が所有していた。1930年にヴォイニッチが亡くなると同書はまた幾人かの手を経た後1969年にイェール大学に寄贈され、現在に至っているのである。

 ヴォイニッチ手稿は大きさは23.5cm×16.2cm×5cmで現在のA5サイズよりも若干小さい。一部が失われているが現存する部分の厚さは5cm、ページ数は約240ページで上質な羊皮紙で作られている。土台となっている羊皮紙であるが2011年にアリゾナ大学で行われた放射性炭素年代測定法により1404~1438頃に作成されたものであることが判明しているが手稿自体の作成時期は羊皮紙の製造よりも時代が下がる可能性はある。
 ヴォイニッチ手稿に記載された文字数は残っている部分で約17万文字であり多くのページに挿絵が描かれている。挿絵の種類から生物学、占星術、薬学、薬草、処方の五つの分野に区分されるのではないかと思われている。
 文字、または記号と思われるものはでたらめに配置されているわけではなく何らかの意味を持つ文章の配列になっていると推察されており様々な手法で解読が試みられているが未だに記載された内容は不明である。

 ヴォイニッチ手稿が再発見された時期は第一次世界大戦の直前で国家間の諜報活動が活発化した時期であり暗号の解読方法も日々発達を遂げていた。第二次世界大戦後成熟した暗号解読法を用いてヴォイニッチ手稿の解読が幾度か試みられている、代表的なのが暗号の天才と呼ばれたウィリアム・フリードマンによる解読であるが彼をもってしてもヴォイニッチ手稿に記載された内容は解読できなかった。解読には失敗したもののフリードマンはヴォイニッチ手稿の記述は民族や国家と言ったマクロな単位で時間をかけて発達した自然言語ではなく個人や団体といったミクロな単位の中で短時間で考案された人工言語ではないかと推察している。
 暗号解読とは別の手法で挿絵等からヒントを得て単語の意味を解読し個々の単語の意味をつなぎ合わせて文章の内容を解読しようという試みもなされている。例えるなら杉田玄白らの「ターヘル・アナトミア」の翻訳で「鼻」の項目に記載された「フルヘッヘンド」という単語を「盛り上がった」と推察したような解析(このフルヘッヘンドの話は実際は別の単語だったという説もある)である。しかし正体が特定しやすいと考えられた植物の挿絵は実際に存在する植物ではなく架空のものが描かれており単語の特定に結びつけられるものはなかった。そしてもう一つ特定しやすい要素である人物画も全裸かつ抽象的な画法で装飾品や身体的特徴から民族を特定できずこの手法での解読も失敗している。
 現在注目されている解読法は知られている言語の文法パターンとヴォイニッチ手稿の文法パターンを比べ元になる言語を特定しそこから翻訳を進めるという手法である。現在コーカサス語、セム語、ラテン語、古トルコ語などの候補があり実際にある程度翻訳が進んでいるというものもあるが元になる言語が確定しない限り推察の域を超えないものである。

 様々な解読が試みられている中でヴォイニッチ手稿の内容は実は全く意味をなさないものでないかという説も根強い。前述したとおりヴォイニッチ手稿は神聖ローマ帝国皇帝ルドルフ2世が大枚を叩いて購入したという記述も有り代々の所有者も大金を出して購入したと思われ詐欺を行うための贋物して十分な魅力を持っている。もしも手稿を詐欺の餌として使うならばなまじ意味が通る内容よりも意味がありそうで実は無意味な偽書としたほうが何かと好都合であろう。高価な羊皮紙や顔料も偽書に付加価値を与えるには効果的であるかもしれない。しかし万が一ヴォイニッチ手稿が偽書であった場合、この奇書は高価な落書きということになってしまうのである。

 現在ヴォイニッチ手稿は所有者であるイェール大学がインターネット上で公開しネットを介して誰でも閲覧することができる。数百年前の不老不死や錬金術の秘法を記したと思われている奇書は現在全世界の人々の目に晒されつつもその秘密を守り続けているのである。

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 現在ヴォイニッチ手稿はインターネット環境があれば複数のサイトで現存しているすべての記載が閲覧できる。希代の奇書を眺めてみるのも一興だろう。

# by narutyan9801 | 2019-05-02 11:58 | 妄想(オカルト) | Comments(0)

第五回ストックホルムオリンピックマラソン競技 ~オリンピック初の悲劇と最遅記録~

 夏季オリンピック競技の種類はリオデジャネイロオリンピックで28競技306種目であったという。これだけの競技の中で花形を上げろというとなかなか意見はまとまらないと思うがマラソンは候補の一つになるだろう。マラソンは紀元前490年のマラトンの戦いの勝利を伝えるために走り続け報告を終えると息絶えたという伝令の伝説を元に第一回アテネオリンピックでマラトン-アテネ間の長距離走を行った事が由来である。この伝承のためかマラソンは他の競技に比べるとナショナリズムが強い傾向がある。他方マラソンはトラック外を走るため天候、気温、路面条件などの影響が大きい競技でありアクシデントも多い。今回はオリンピック競技で初めての死者を出してしまった第五回ストックホルムオリンピックマラソン大会を考察したい。

 第五回ストックホルムオリンピックは1912年5月5日から開催されている。開催種目は15競技102種目と現在の1/3ほどであったが競技の準備等に時間がかかり7月27日まで約三ヶ月にわたって競技が続けられた。参加国は28国であったがこの大会から日本もオリンピックに参加している。そして大会終盤の7月14日に男子マラソン競技が開催されるのである。

 この日マラソン競技が行われるストックホルムでは記録的な熱波が襲来していた。この日日光の当たる所では摂氏40℃に達したと言われている。ストックホルムは北緯60度に近い位置にあり亜寒帯気候で7月の平均日最高気温は22度前後であるが数年に一度熱波に襲われることがあり観測記録の最高温度は1811年7月3日に38℃という記録が残っている。この気温の中13時45分にマラソンはスタートするが68名のマラソン競技参加者は棄権者が続出しほぼ半数の33名が棄権するという過酷な競技になってしまいこの棄権者の中にポルトガル代表のフランシスコ・ラザロがいたのである。

 フランシスコ・ラザロは1891年生まれ(生年には諸説ある)ストックホルムオリンピック出場時は21歳の若さであったが1910年のリスボンマラソンで優勝するなどポルトガル国内のマラソン大会で3度優勝しておりストックホルムオリンピックのマラソン代表に選ばれている。オリンピック開会式では国旗を掲げる旗手を勤めておりポルトガル国民がラザロにかける期待は相当大きかったようである。
 ラザロは30㎞以上を走ったが残り8㎞を切ったところで突然倒れてしまう。スタッフが異変に気づきラザロに駆け寄るが既にラザロの意識は無かった。すぐに待機していた医師がラザロの倒れた現場に赴き応急処置を行った後ラザロは病院に搬送されたがラザロの体温は42度という人間が耐えられる体温を超えている状態で手の施しようが無く翌朝6時にラザロは意識を取り戻すこと無く短い生涯を終えてしまったのである。

 ラザロの死因は現在で言えば熱中症である。ラザロが熱中症を起こしてしまった要因がいくつか指摘されている。最大の要因はやはりマラソン同日の暑さであったろう。そして当日晴天の日差しを避けるため多くの選手が帽子を被っていたにもかかわらずラザロは帽子を着用していなかった。さらにラザロは日焼けと過度な発汗で体力を消耗しないように身体にオイルを塗っていたということが後から判明している。このオイルが正常な発汗を押さえてしまい体温の調整や体内の電解質の不均衡を起こさせてしまったと言われている。まだ「スポーツ生理学」という言葉すら生まれていなかった時代の悲劇であった。

 このマラソン大会には日本人選手も出場している。日本代表の金栗四三は大会前年に行われた日本代表選考会で長距離走用に改良されたマラソン足袋を履き当時の世界記録を27分も縮める記録を持ち、優勝の期待がかかっていた。しかし当時の日本からストックホルムへの移動は二十日に及ぶ船旅しか無く船上でできる限られた練習では持久力の維持は困難であった。さらにストックホルムは緯度が高く夏は昼間の時間が極端に長く金栗は睡眠障害に悩まされる。そして当時のストックホルムでは日本人の主食である米の入手方法が無かったのである。これらの悪条件で競技前に体調を落としていた金栗は順位争いから脱落し18㎞付近で熱中症で倒れてしまう。大会関係者は多くの脱落者の救護で手一杯で金栗が倒れたことに気づかずレース沿道の農家が金栗を家まで運びそこで介抱されたのである。金栗が意識を取り戻したのはレース翌朝ですでに競技は終了していた。日本側は金栗が行方不明になったことにより混乱していたのか、はたまた故意かは分からないが競技棄権の意思を示さず金栗の競技記録は「レース中に失踪しゴールせず」となってしまう。

 ストックホルムオリンピックは1912年7月27日に閉幕するが近代オリンピック初の死亡事故は関係者に衝撃を与えることになった。オリンピックのメインスタジアムでは後日当時の国際オリンピック委員会会長だったピエール・ド・クーベルタンの発案で追悼の音楽会が催されその収益はラザロの遺族に贈られている。またポルトガルで行われたラザロの葬儀には数千人が参列し若くして亡くなった英雄に祈りを捧げたという。

 金栗四三は1920年のアントワープオリンピック、1924年のパリオリンピックにもマラソン選手として出場し(1916年のベルリンオリンピックは第一次世界大戦のため中止)日本での長距離走の第一人者として箱根駅伝の開催にも尽力している。競技引退後は教鞭を振るい熊本県教育委員会委員長、日本陸上競技連盟会長などを歴任する。そして1967年、一通の手紙が金栗の元に届くのである。
 手紙の差出人はスウェーデンのオリンピック委員会からであった。スウェーデンではストックホルムオリンピック開催55周年を記念しての行事開催が予定されており当時の記録を改めて精査していたところ金栗の行方不明が「再発見」されたのである。オリンピック当時ヨーロッパでは初参加の日本人マラソン選手の行方不明事件が「椿事」として話題になったこともあり記憶している人も多かったのだろう。そして記念式典で金栗をゴールインさせるという企画が持ち上がり金栗をストックホルムへ招待することになったのである。金栗は思い出とも因縁とも言えるストックホルムに赴きオリンピックスタジアムに設けられたゴールテープを切る。時刻は1967年3月20日19時17分20秒、記録は54年8ヶ月6日5時間32分20秒であった。この瞬間スタジアムには「これをもって第五回ストックホルムオリンピックの全競技が終了いたします」とのアナウンスがあり第五回ストックホルムオリンピックの終了が告げられたのである。ゴール後スピーチを求められた金栗は万感の思いを笑顔でこう締めくくっている。「長い道のりでした。この競技中に孫が5人できました」と

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 ゴールテープを切る金栗四三氏、ちなみにJOCの公式記録データベース上での金栗四三のストックホルムオリンピック記録は「途中棄権」となっている。

# by narutyan9801 | 2018-02-02 04:00 | 妄想(その他) | Comments(0)

窒素 ~大気の8割を占める気体は「声」も支配する~

 地球の大気の組成は季節の変動が大きいが乾燥した状態(水蒸気を大気に含まない状態。水蒸気は大気中の1~4%を占める)酸素が約21%、アルゴンが約1%、二酸化炭素が約0.04%である。近年温室効果で増加が注視されている二酸化炭素であるが現在のところは大気中に占める割合はごく小さい。そして大気中の約8割を占める気体が窒素である。今回はこの窒素を考察したい。

 現在の大気の大部分を占める窒素であるが、地球が誕生した当初割合でいえばごく微量であった。誕生したばかりの地球の大気は非常に高温高圧で大部分が水素とヘリウムで太陽の構成に近いものだったと考えられている。水素やヘリウムは軽く誕生したばかりで活動が活発だった太陽からもたらされる太陽風で吹き飛ばされてしまい数千万年後にはほとんど無くなってしまったらしい。代わって地球の大気の大部分を占めたのが地球の火山活動で地球内部から噴出してきた二酸化炭素とアンモニアであった。誕生から少し時間がたった海が出来る以前の地球の大気は現在の金星の大気に似ており大気中の二酸化炭素の温室効果で温度は400℃を超え100気圧ほどの高圧状態、言い換えれば濃い大気濃度だったと思われている。そしてこの時微量の窒素分子が地中より排出されたりアンモニアが分解されて発生し大気に含まれることになる。しかし密度の濃い古代地球の大気成分の中で窒素の割合はこの時点でもごく微量だったと思われている。やがて地球の表面温度が冷え大気中に含まれていた水蒸気が雨になりついには海を形成する。誕生したばかりの海は酸性だったが岩石が解かされ中和された海に大量の二酸化炭素が溶け込み大気中の二酸化炭素濃度が急激に下がってゆき相対的に窒素が大気中に占める割合が増えていく。そして生命が誕生し生命の光合成活動により海洋に溶け込んだ二酸化炭素が光合成で消費され酸素が生み出されることにより現在の大気組成になったと考えられているのである。

 1772年、スコットランドの化学者ダニエル・ラザフォードにより窒素は「発見」される。当時二酸化炭素は発見されていたが密閉容器の中で火を点し酸欠によって自然鎮火した空気から二酸化炭素を取り除いた気体では火が点らないことが分かっていた。当時の化学では燃焼という化学反応には「フロギストン」(燃素)という物質が形成され密閉容器の中ではフロギストンが飽和状態になるため燃焼できないという説が信じられていた。ラザフォードは燃焼で酸素が消費され二酸化炭素を取り除いた気体はフロギストンが飽和状態になった気体と思い発表したのである。なお日本語の窒素という文字の由来はラザフォードが生物の生命活動でも燃素を発生させており窒素のみの気体中にマウスを入れてみると死んでしまったことからフロギストン飽和状態では生物は息ができないと考えnoxious air(有毒空気)と命名し、それがドイツ語訳ではStickstoff(シュティクシュトフ,窒息に至らしめる物質)と訳されそのドイツ語をそのまま日本語に訳したものである。マウスを死に至らしめのは窒素そのものではなく酸素の欠乏が原因ではあったのだが。

 その後フランスのアントワーヌ・ラヴォアジェによりフロギストン説が否定され、さらにラヴォアジェ自身が窒素が元素であることを発見すると窒素の研究が飛躍的に進み窒素と生物・化学の関連性が分かってきたのである。
 生物を形成するアミノ酸やタンパク質などはほぼすべてが窒素の化合物で形成されている。特に植物の生育には窒素は不可欠で他の必須要素であるリン・カリウムと共に肥料の三大要素と言われている。ところが窒素分子(N2)は非常に安定した物質で生物がこれを利用するためには微生物が空気中の窒素をアンモニアなどに変化させる窒素固定と呼ばれるプロセスを経ないと利用できなかったのである。窒素酸化物は水に溶けやすく継続的に施肥をする必要があり空気中にほぼ無尽蔵にある窒素を微生物の力によらず固定する方法が研究され1903年にフリッツ・ハーバーとカール・ボッシュにより窒素を人工的に固定する方法が発明されたのである。この発明により人類の農業生産量は飛躍的に増大した。他方窒素酸化物は火薬の原料にもなる。それまでの天然鉱物を利用しての火薬生産から人工的に火薬を生成することも可能になった。実際に第一次世界大戦では火薬の原料となる窒素酸化物系の鉱物を産しないドイツがほぼすべての火薬を人工的に窒素固定した窒素酸化物から生産している。

 このように人類に恩威をもたらす窒素であるが、圧力がかかる状態で窒素を吸引してしまうと人体に牙をむくことがある。いわゆる「減圧症」という症状である。圧力がかかって体積が小さくなった状態で血液中に溶け込んだ気体が圧力が下がると気体に変化して人体に様々な影響を与える障害である。窒素は空気中に多量に含まれ潜水病の主要な要因となる。また血液中に窒素が多量に溶け込むとアルコール酩酊に近い状態になる「窒素酔い」を起こすこともありダイビングをする際に窒素はやっかいな存在となっているのである。
 この減圧症を防ぐために大深度潜水などではより安全な(100%安全ではない)ヘリウムと酸素の混合気体を用いるが、ヘリウムは音の伝播が早く(空気中の伝播のおよそ3倍)この気体を吸引した人の声が変わってしまう。管理者も30年ほど前のテレビ番組で愛川欽也氏がこの気体を吸って声を発した時の衝撃を今でも覚えているが声が変わっただけで人全体の印象も変わってしまうものだと考えさせられたものである。窒素は「声」という人の個性を決める重要な部分を担っている気体でもあるのである。

# by narutyan9801 | 2018-01-26 04:49 | 妄想(その他) | Comments(0)

ミイデラゴミムシ ~昆虫のロケットマン、幼虫は偏食家~

 「ロケットマン」現在某超大国の大統領が某国の最高指導者を揶揄した言葉である。しかしこちらのロケットマンは国家が作り出したロケットを操ることはできても自分ではロケットを生み出すことはできない(権力で造ったロケットは自ら建造したと言えないという定義ならば)ロケットそのものを考えるにはこの人物よりも我々の足下に優れたロケット技術を持つ「昆虫」が存在する。今回は体内にロケット技術を隠し持つ昆虫「ミイデラゴミムシ」を考察したい。

 そもそもロケットとはなんぞや?というと「自らの質量を噴射して推力を得るもの」となる。簡単なロケットとなるとゴム風船を膨らまして口を結ばずに手を離せばゴムの縮む力で風船内の空気が押し出され風船が動く。これもロケットといえるのである。しかし普通に質量を噴出しただけでは自らを動かすまでの推力は得られない。このため物質の化学変化で噴出させる物質の体積を増やすなどしてより大きな推力を得ようとしたものがロケットエンジンである。

 ロケットの定義はこれぐらいにしてミイデラゴミムシの方に戻ろう。ミイデラゴミムシは沖縄諸島を除く日本全国、朝鮮、中国に分布するゴミムシの仲間(ホソクビゴミムシ科)で頭と胸がオレンジがかった黄色。腹部上羽は黒で中央付近に頭や胸と同色の切れ込み模様が入り、警告色なのかこの種の虫としてはかなり派手な色をしている昆虫である。
 ミイデラゴミムシの生態の特色はなんといっても「おなら」である。ミイデラゴミムシは敵に襲われると「おなら」をして敵を撃退する防御方法を持っているのである。この特徴から「ヘッピリムシ」や「ヒヘリムシ」の方言で呼ばれる地方も多い。ちなみに管理者の出身地では「ヘッピリムシ」はカメムシのことを指していてミイデラゴミムシはさしたる呼び名はなかった。実のところミイデラゴミムシが含まれるホソクビゴミムシ科の昆虫は「おなら」をする虫が多い。ミイデラゴミムシはこの仲間では大型で餌を求めて徘徊する習性があり目立つため「ヘッピリムシ」の名前を頂戴したと思われる。

 ミイデラゴミムシのロケット機構は過酸化水素水(H2O2)とヒドロキノン(C6H4(OH)2)の反応を利用したものである。ミイデラゴミムシは肛門近くの袋にこの二つの物質を収納しておきいざというときに二つの物質を同時に肛門へ押し出すとこの二つの物質は反応を起こすのである。過酸化水素水は強力な酸化剤でかのロケット戦闘機メッサーシュミット Me163や日本版Me163「秋水」にも利用されてきた物質でありヒドロキノンも強力な還元剤として利用される物質である。この二つが混じり合うと
  ヒドロキノン(C6H4(OH)2)+過酸化水素水(H2O2)
  →p-ベンゾキノン(C6H4O2)+水(H2O)
という反応を起こし、また反応熱が発生する。この熱で水は蒸発して水蒸気となり急激に体積が膨張してミイデラゴミムシの体外に放出されるのである。この発生ガスの温度は100℃を超えており捕食者へ火傷を負わせることでミイデラゴミムシは敵から逃れることが出来るのである。またヒドロキノン、ペンゾキノン共にタンパク質と結合する性質があり人体に直接触れると皮膚が褐色を帯びてしまうことがある。人体に大きな影響は与えないがミイデラゴミムシの捕食者には科学的に有害な成分になっている。さらにたとえ捕食されたとしてもミイデラゴミムシの有毒ガスは捕食者の胃腸を刺激し獲物を丸呑みにするカエルなどはこの刺激により飲み込んだミイデラゴミムシをはき出してしまうことがある。実験では飲み込まれて二時間後にはき出され生還したミイデラゴミムシもいたそうである。カエルは獲物が危険かどうかの学習能力が高く一度ミイデラゴミムシの屁の洗礼を浴びたカエルはミイデラゴミムシの捕食を避けるようになりミイデラゴミムシの捕食圧を軽減する効果も期待できる。
 ミイデラゴミムシの肛門は伸縮性がありまたフレキシブルに動かせるので背中側にガスを噴射させることもできる。ただ残念ながらミイデラゴミムシの噴射力では空を飛ぶことは不可能なようである。

 ミイデラゴミムシの成虫の特徴だけでも非常に興味深いのだが幼虫時代は更に特異な生態を持っている。ミイデラゴミムシの幼虫はふ化した直後は体長2~2.8mmほどで移動能力が高く地中に潜って暮らしているケラという昆虫の産卵した卵の塊に侵入してそれを食べて成長する。移動の必要が無くなったミイデラゴミムシの幼虫は脱皮して二令幼虫になると足が無くなり蛆状の形になってしまう。この他の昆虫の卵塊などにたどり着きそれを食べて成長するのはホソクビゴミムシ科全体の特徴であるがほとんどのホソクビゴミムシ科の昆虫は宿主が分からず日本産のホソクビゴミムシ科で宿主が判明しているのはミイデラゴミムシだけである。このように研究が進んでいるのはやはり「ペッピリムシ」という知名度だからであろうか?

 上で「発がん性が指摘されている」と書いたミイデラゴミムシのおならの成分「ヒドロキノン」であるが実は美容品に使用されている。近年よく耳にする「美白効果」これにヒドロキノンが一役買っている。ヒドロキノンの強力な還元力は漂白効果もあり肌のシミや黒ずみを消す効果があると言われている(含有量2%までは無規制)美女の白肌を造る成分が実は「ヘッピリムシ」の屁の原料と同じ(もちろん合成で製造されていてミイデラゴミムシから抽出するわけではない)と考えると笑いがこみ上げてくるのである。

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 ミイデラゴミムシは朝鮮半島にも生息しているがかの「ロケットマン」の国ではミイデラゴミムシが切手になっていたそうである。


# by narutyan9801 | 2018-01-24 04:03 | 妄想(生物) | Comments(0)

「春の目覚め」作戦 ~ハンガリーからソ連軍を駆逐しようとしたヒトラーの賭~

1945年4月時点でナチスドイツの敗勢は誰の目にも明らかであった。既にソ連軍はドイツの首都ベルリンから約80kmのオーデル川に到達し準備ができ次第ベルリン攻略に乗り出す体勢を整えつつあった。この情勢でもヒトラーの目はドイツ国外に向いていたのである。今回は第二次大戦ドイツの最後の攻勢と言われる「春の目覚め」作戦を考察したい。

 1944年6月のパグラチオン作戦終了後ドイツ正面では戦線整理と前線部隊の補充再編成を行っていたソ連軍であったがドイツと同盟関係にあった東欧諸国への攻勢は続けていた。ドイツの同盟国だったハンガリーは一時枢軸国側からの離脱を計るがドイツが支援するクーデターがあり引き続きドイツ側に留まっていた。ソ連軍はハンガリー領内に侵入し1944年10月29日にはハンガリーの首都ブダペストを包囲する。約4ヶ月の包囲の後ブダペストは陥落しハンガリーの大部分はソ連占領下に置かれたのである。
 この状況下でヒトラーはハンガリー国内のソ連第3ウクライナ方面軍を一掃し軍事的脅威を除く攻勢を計画する。すでにソ連がドイツ国内に進軍しておりベルリンへの攻勢も間近と思われたこの時期に戦局には直接関与しないと思われた地域への攻勢は無意味とほとんどのドイツ軍首脳は考え作戦へ反対したがヒトラーは強引に作戦準備を推し進める。ヒトラーからすればハンガリーはドイツ国内では算出しない石油を供給する地であり何より中央・東ヨーロッパ最大の都市であるブダペストの領有は政治家ヒトラーの信念でもあった。軍事力が激減し軍事的に保持占領が不可能となっているブダペストを奪回しようとするヒトラーの信念はもはや狂気と言ってもいい状態だったといってもいいかと思う。

 作戦はブダペスト南西、バラトン湖周辺で計画された。当時この地域にソ連第3ウクライナ方面軍の主力が展開しハンガリー西方に残るドイツ軍を攻撃すべく準備を行っていた。ドイツ軍は東西に細長いバラトン湖の東側と西側から同時に攻勢をかける作戦を立案する。主攻勢は東側でバラトン湖東岸を進撃しその後北東と東南の二方向に分かれて進軍し北東側はブダペストへ進撃、南東側はドナウ川西岸を制圧しつつ第3ウクライナ方面軍の撃滅を計る予定であった。西側の攻勢はバラトン湖を迂回進撃し東側南東攻勢と呼応して第3ウクライナ方面軍を攻撃する手はずになっていた。これとは別にハンガリーとユーゴスラヴィアの国境付近から同地に駐屯するE軍集団の二個軍団が北進して包囲網に加わることが計画された。計画の上では壮大な包囲殲滅作戦が展開される予定であった。
 「春の目覚め」作戦の主役となるバラトン湖から出撃する兵力は南方軍集団隷下の第6SS装甲軍と第6軍が投入されることとなった。しかし参加兵力のほとんどがフランスで行われた「ラインの守り」作戦(バルジの戦い)やハンガリー国内の戦闘で消耗し再編成を行った部隊であった。既にドイツの国力は払底しており親衛隊全国指導者ヒムラーの権限で優先的に装備を補充されたSS部隊もほとんどが部隊定数を満たすことが出来ていない状況であった。人員の補充はさらに困難で歩兵の一部にはドイツ海軍の水兵を即席訓練を行って充当させている。南から北上するE軍集団は元々が占領地区などに駐屯してパルチザン討伐などに当たる部隊であり本来なら攻勢に投入すべきではない部隊で更に度重なる戦闘に従事しており部隊は損耗、疲弊した状態になっていた。このような問題を抱えては居たがドイツ側は約14万人の兵員が集められ作戦に投入されている。対するソ連第三ウクライナ方面軍は45万人の兵力を保持しており戰車などの数量も圧倒していた。さらに諜報活動によりソ連軍はドイツ軍がハンガリーで攻勢を計画していることを察知しており防備を整えて待ち構えていたのである。兵力が拮抗する戦線でドイツ軍の攻撃が予想された戦線でソ連軍はドイツ軍に先だって攻勢をかけ主導権を奪おうとする奇襲戦術を採る場合もあったがハンガリー戦線はソ連軍には二次的な戦線であり投機的な戦術を採用する必要は無かったといえる。ソ連軍はSS装甲軍への対抗のため「パックフロント」と呼ばれる対戦車陣地を構築してドイツ軍を待ち構えていたのである。

 「春の目覚め」作戦は1945年3月6日に発動される。バラトン湖東岸を進撃する部隊は当初は順調に進撃できたがソ連側の激しい抵抗と折り悪く雪解け水の泥濘が発生し次第に進軍速度は低下し3月15日に20㎞ほど前進したシモントルニャに到達したところで完全に停止してしまう。またバラトン湖西岸部隊と南方のE軍集団はソ連側の抵抗でほとんど前進できない状態であった。
 3月16日ソ連側はブダペストの西から逆に進撃を開始する。この進撃はハンガリー国境を超えてオーストリア国内に侵入しようとした野心的な計画であった。この攻勢はバラトン湖東岸進撃部隊の後背を扼するもので包囲の危険を察知したドイツ軍部隊はヒトラーの死守命令を無視して西へ後退、ついにはハンガリー国境を超えオーストリアまで撤退してしまい「春の目覚め」作戦は完全に破綻、ヒトラーの賭けは失敗に終わるのである。

 「春の目覚め」作戦の失敗の原因は根本的に言ってしまえば「攻勢に出るには兵力不足であった」に尽きよう。兵力差を考えれば作戦の成功は万に一つも無かったと言える。結果的に見れば「春の目覚め」作戦は消耗していたとはいえ貴重な機甲師団を敵の前面に投入してすり減らせるだけの作戦だった。しかし春の目覚め作戦で進軍したわずか20㎞はドイツ機甲師団が見せた最後の進撃であったことはおそらく間違いないだろう。

 ドイツの同盟国とはいえ第二次大戦でハンガリーが被った戦災は多大なものであった。現在ハンガリーでは公の場での「鍵十字」(ナチスの紋章)「矢十字」(ナチスに同調してクーデターを起こした矢十字党の紋章)だけでなく「鎌と槌」「赤い星」(両方とも共産主義の象徴)の使用を刑法で禁止しているのである。

# by narutyan9801 | 2018-01-22 00:51 | 妄想(軍事) | Comments(0)