鼈の独り言(妄想編)

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斉の桓公 ~覇者の人生につきまとったのは棺桶だった~

 マカロニ・ウェスタン映画の傑作「荒野の用心棒」のラストシーン、宿敵ラモンを倒したクリント・イーストウッド演じる流れ者ガンマンのジョーがサン・ミゲルの町を去ってゆく…。銃撃戦後の殺伐とした雰囲気であるがそんな雰囲気をいい意味でぶち壊すのは射殺された男たちの棺桶を作るために身長を測って読み取る棺桶屋の声であった。棺桶はほとんどの人間が人生を終えた際に入る器であるが死者を抱くが故に色々と感情をかき立てる品物でもある。フランスの伝説的な女優サラ・ベルナールは就寝する際には棺桶の中に入って眠っていたと言われるし、江戸時代の演出家四代目鶴屋南北は作中によく棺桶を登場させている。今回は棺桶で覇者となり棺桶に入るのに難渋した覇者、斉の桓公を考察したい。

 桓公を語る前に覇者という言葉を説明しておきたい。我々の世代であれば世紀末覇者拳王を思い出す御仁も多いと思うが覇者とは中国の春秋時代、周王朝下の諸侯に与えられる尊号である。初期は周王朝を夷狄から守った者に対して授けられた称号であったが春秋時代になると国力を背景に他の覇者を周王の元に集め、合議を行う「会盟」を取り仕切った者を「覇者」と呼ぶようになる。斉の桓公は初めて「会盟」を取り仕切った覇者である。

 斉の桓公の生年は詳しく分かっていないがおそらく紀元前710年頃の生まれと思われる。諱は小白、彼には二人の兄がいて長兄が襄公として斉公の位に就くが、この襄公は性格が荒々しく気に入らない人物を次々と殺害したため小白と次兄の公子糾はそれぞれ莒国と魯へ亡命する。やがて襄公は従兄弟の公孫無知に暗殺されるが、公孫無知もまもなく暗殺され斉公の座が空白になってしまう。このため斉の貴族たちは亡命していた二人の後継者のうち早く帰国した方に斉公についてもらうという、いわば斉公の椅子取りゲームを二人にしてもらうことにしたのである。
 
 小白の兄の公子糾は腹心の管仲を小白の帰路に待ち伏せさせ矢で射殺すよう命じ命令通り管仲は小白を射、小白は矢を腹に受けて倒れるのを確認して公子糾へ報告する。しかし小白は幸運にも帯の留め金に矢が当たり無事であった。小白と彼の師である鮑叔はこの状態を利用し護衛の兵を次の宿場で帰国させ、鮑叔牙は棺桶を用意させ小白の棺を一人で運んでいるよう偽装したのである。この策に公子糾はかかり帰国の足取りを緩め、その隙に棺桶に潜んでいた小白は先んじて帰国、斉公の地位に就き桓公と称することとなる。

 斉公に就いた桓公は帰国中の公子糾の一行を待ち伏せして急襲し撃退する。公子糾は魯国に逃げ込んだものの桓公の圧力で魯は公子糾を処刑、管仲は生け捕りにされ斉に連行されることになる。

 桓公は鮑叔牙の功績を評価し宰相の位に就くよう求めるが、鮑叔牙は「公がただ斉の君主だけでよいならば自分でも務まりますが、天下に覇を唱えるならば異才の人物を宰相につけなければなりません」と友人であり罪人として魯から連行されてきた管仲を宰相に推挙するのである。管仲を宰相にするのに桓公はかなり迷いがあったようであるが鮑叔牙の熱心な推挙もあり管仲を宰相に任命することになる。

 管仲を宰相に迎えた斉は政治、経済面の改革を行い国力の増大に成功する。元々斉は太公望呂尚が封じられた国であり他の国から人目置かれた国であった。斉の国力はすでに衰退を見せていた周王朝を凌ぎ諸侯は国家間の諸問題を桓公に裁定してもらうようになる。折しも長江流域では楚が建国され南方から周王朝や諸侯に圧力をかけ始めていた。桓公は諸侯に働きかけ楚を討ち、紀元前651年周王臨席の下諸侯を集め会盟を行い、歴史上初の覇者となったのである。桓公が会盟を行えた大きな理由に約定を違えない姿勢があったと言われている。公子糾をかくまった魯国と斉は国境を接している隣国同士であり魯の始祖は周王朝の始祖武王の甥である伯禽、斉の始祖は武王の軍師太公望とライバル同士、さらに公子をかくまっていたとなると国家間がしっくりするわけもなく桓公の即位後は何度も争っていたが国力は斉の方が上で魯は次第に追い詰められ、土地の割譲による講話を結ぶことになった。しかし講和締結の席上、魯の将軍曹沫が桓公に掴みかかり短剣を突きつけ割譲された土地の返還を求める椿事が起こったのである。その場ではこの条件を呑んだ桓公であるが後になってこの講和を破棄し土地の返還を拒否しようとしたのである。これを諫めたのは管仲であった。彼の考えでは脅しの結果であっても約定を違えない姿勢をとることが諸侯たちへ信頼を与えることにになり結果的に斉に利益をもたらすであろうという読みがあったのである。桓公も熟慮の末管仲の考えが正しいと思い直し土地の返還に応じたのである。この結果が会盟の成功に大いに貢献したと思われる。

 会盟を行った桓公は次第に増長し君子だけが執り行えるという封禅の儀式を行おうとするがこれを諫めたのも管仲であった。桓公と管仲の間は堅い信頼で結ばれていた訳ではなさそうであるが桓公は管仲をその死まで宰相の位に留まらせている。

 紀元前645年に管仲がなくなると桓公を諫める者はいなくなり桓公は放蕩に明け暮れ後継者の選定も曖昧になる。管仲の死から二年後桓公も病に倒れるが国内は後継者争いの混乱に突入してしまい病床の桓公を顧みる者はいなかった。桓公は紀元前643年10月8日に亡くなるが死後67日間も遺体は病床に横たえられたまま放置されたという。納棺後も翌年8月に息子太子昭が斉公に就くまで埋葬されず、ついには蛆虫が棺桶から這い出してきたと言われる。桓公の人生は花開くときも終焉も棺桶に左右された人生といっても過言ではないだろう。
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   斉の桓公。春秋五覇と言われる覇者の中でも晋の文公と並んで上位に置かれることが多い。

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by narutyan9801 | 2016-09-07 03:36 | 妄想(人物) | Comments(0)