鼈の独り言(妄想編)

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給糧艦 伊良湖 ~開戦直前に竣工した二隻目の給糧艦~

 以前このブログでは旧日本海軍の給糧艦「間宮」を書いているが、間宮の竣工が1924年(大正十三年)であり長年日本海軍は給糧艦は間宮一隻のみ運用してきた。しかし日本海軍の規模が大きくなると間宮一隻の供給能力を超える補給の必要性が生じ始め、さらに戦争の足音が聞こえるようになると間宮の喪失という事態も配慮せねばならなくなってきた。日本海軍は間宮建造後も複数回給糧艦の建造計画をしてきたが二隻目の給糧艦が完成したのは太平洋戦争開戦の3日前であった。今回は日本海軍が保有した本格的な、そして最後(徴用による臨時的なものを除く)の給糧艦となった「伊良湖」を考察したい。

 伊良湖とはあまり聞きなれない名前であるが、愛知県にある「伊良湖水道」に因む命名である。渥美半島の先端にある「伊良湖岬」から神島の間の水路で一番狭い部分は幅1,200mほどしかないが、名古屋港など伊勢湾、三河湾と太平洋との海路が通り古くから船の通りが多い水路であった。先輩の「間宮」も間宮海峡からの命名であり正式決定はされてないようであるが給糧艦の命名はは海峡、水路の名前が基準になっていたようである。

 間宮は昭和十二年度からの建艦計画「③(マル3)計画」の追加分として計画されている。この計画は海軍軍縮条約が失効して初めての建艦計画であり、大和型戦艦や翔鶴型航空母艦など大型の新造艦が多く計画されている。ちなみに伊良湖の建造予算は当時の金額で400万円、大和型の予算が約1億800万円(ダミーを使っての流用追加予算もあるので実際はこれより多い)であるから約1/27である。あまりにスケールが違うので伊良湖の価格が高いか低いか評価するのは難しい。

 伊良湖は1940年(昭和十五年)5月30日に起工、翌41年(昭和十六年)12月5日に竣工している。間宮がクリッパー型の垂直な艦首であったのに対し伊良湖は弱いながらも二つのカーブがつながった「ダブルカーブドバウ」を持つ俊敏な外見をしている。外見上のもう一つの特徴は高い煙突である。これは伊良湖が重油を節約するために石炭専用のボイラーを搭載したため、煤煙に煤が入りそれが食料品にかかるのを防ぐための措置であった。これは確かに妙案ではあったろうが通商破壊戦が実行されれば敵に発見されやすくなるという問題点があり、事実後述するが伊良湖は潜水艦の雷撃で沈没に瀕する損害を被っている事実を考えると問題もあったと思える。

 伊良湖は竣工当日に連合艦隊に編入され翌月にはさっそくトラックやマーシャル諸島へ食糧の輸送任務を行っている。その後も輸送任務に従事し特にソロモン方面の戦いが激しくなると伊良湖は本土と前進基地であるトラックを何度も往復するようになる。この働きは敵である米軍にも察知され工作艦「明石」とともに重要目標として狙われるようになってゆくのである。

 工作艦「明石」は原材料の輸送を他艦に任せ自らはトラックに腰を据えて任務にあたれたのであるが、「伊良湖」は前線に食糧を運ぶのが任務であり当然潜水艦が遊弋する海域も航行しなければならなかった。そして1944年(昭和十九年)1月20日、トラックを出港して内地に帰投する「伊良湖」は米潜水艦「シードラゴン」の雷撃を受けてしまい、魚雷一本が右舷前方に命中する。この雷撃で艦首が水没するほどの浸水が生じるが伊良湖は奇跡的に沈没を逃れ内地で修理を行う。8月に修理を終えた伊良湖は再び食糧輸送の任務に就くが、すでに日本近海の航行も危険な状態になっていた。

 1944年9月にフィリピン方面の補給に従事した伊良湖は21日マニラ湾で空襲を受け損傷、コロン湾へ退避するが24日に再度空襲を受け大破着底してしまい、船体は放棄される。しかし放棄後も書類上は健在艦として登録され続けている。伊良湖が正式に除籍されたのは終戦後の1945年(昭和二十年)11月30日で軽巡洋艦北上と同じ日の除籍であった。伊良湖の船体は現在もコロン湾にあり、ダイビングスポットとして人気があるという。
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 米潜水艦「シードラゴン」の雷撃で損傷した伊良湖。艦首はほとんど水面下に没し逆に艦尾は浮き上がっている。沈没寸前のように見えるが奇跡的に内地に帰還し修理の上再就航している。

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by narutyan9801 | 2014-10-01 23:26 | 妄想(軍事) | Comments(1)

給糧艦 間宮 ~日本海軍の胃袋を支え続けた殊勲艦~

 人間が生きていくために必要不可欠な欲求の一つに「食欲」がある。特に束縛される状況では「食欲」は重要な娯楽となり、たとえ「食欲」が満たされるだけの食事量が有ったとしても単調な食事が続くと心理面の荒廃が起こってしまうと言われている。束縛が常態化する軍隊、特に人間の活動の場から切り離されてしまう海軍艦艇勤務者にとって食事の「質」は士気を維持する上で重要な要素である。今回は日本海軍の胃袋を支え続け、日本海軍艦艇乗組員に最も愛された給糧艦「間宮」を考察したい。

 間宮は「給糧艦」という艦種に属する。給糧艦は艦隊に食料を補給することを任務とする艦種であるが、創生期から大正中期までの日本海軍には「給糧艦」は存在しなかった。これは初期の日本海軍が日本沿岸を防衛するために整備された海軍であり、長期間の洋上活動は考慮されていなかったためである。第一次大戦で連合軍の一員として参戦した日本海軍は初めて長時間の洋上作戦行動を行うが、このときは同盟国である英国の支援を受けることができたのである。

 第一次大戦後、日本の仮想敵国であるアメリカとの海軍力から、日本海軍の戦略が「日本沿岸まで引き寄せた後の決戦により撃滅」から「日本へ進撃途中に戦力を削り取ったのちに撃滅」と変化し、日本海軍が長期間洋上で行動できる必要性が生じるようになる。また日英同盟の解消により日本海軍は日本から離れた所での食料供給能力を自前で行なわなければならなくなり、給糧艦の建造が考えられるようになったのである。

 折しも海軍内では「八八艦隊」の計画が進んでおり、八八艦隊の支援艦艇として能登呂型給油艦の建造が国会で承認されていた。日本海軍は能登呂型給油艦の一隻の予算を給糧艦建造に当てたいと要望し、建造されたのが給糧艦「間宮」である。

 間宮の建造は民間委託され川崎造船所で建造されている。もっとも間宮には戦闘能力は必要なく、海軍にはほぼ無縁である冷蔵、冷凍設備を充実させる必要があったため民間委託での建造が当然であったろう。こうして大正十三年(1924年)海軍唯一の給糧艦間宮は竣工する。

 間宮は18,000人の食料補給能力を有し、艦内で加工食品の製造を行うことも可能であった。第一次大戦でエムデン追撃などに従事した日本海軍将兵はイギリスなどから食料の供給を受けたが、加工食品は西洋風であり洋食に慣れた士官はともかく、下士官兵には不評であった。そのため間宮には和食の食材である豆腐やこんにゃくの加工設備が整備され、また羊羹、饅頭といった和菓子、アイスクリームなどの嗜好品の製造も可能であった。変わったところでは「床屋」も間宮には設けられていた。こうした施設で働く人々は軍属として雇われた「職人」であり、食品の品質は娑婆のものと遜色ないものであったという。艦隊の作業地に間宮が入港すると新鮮な食品が供給され、艦隊の士気がみる間に上がったと言われる。

 間宮は正式な「軍艦」ではない。しかし歴代の間宮艦長には「大佐」が多く配属されている。これは間宮の存在の特殊性が現れている。間宮の任務上海外の港に入港して食料を購入しそれを艦隊に補給するという任務が発生する可能性がある。この場合軍艦を率いれる身分である「大佐」であれば何かと利便性が高い。こうしたことで間宮には大佐が多く配属されたと思われる。

 間宮は竣工以来一貫して艦隊に配属され続けている。通常艦艇は一年おきに予備艦として整備や改装を行うのであるが、日本海軍にただ一隻しか無かった間宮にはその暇を取れる余裕が無かった。間宮の次に建造された給糧艦「伊良湖」が竣工したのは昭和十六年(1941年)12月5日、太平洋戦争開戦3日前である。
 太平洋戦争勃発後も間宮は前線への食料供給に働き続け、二度米潜水艦からの魚雷攻撃により損傷を受けているが沈没は逃れていた。海軍将兵に愛された艦は幸運にも恵まれていたのだろう(米軍の魚雷に不備があったことも事実ではある)。僚艦伊良湖が大破着底し放棄された後も間宮は働き続けるが、昭和十九年十二月二十日にその命運が尽きる。すでに制空権を失ったフィリピン・マニラに食料を補給する任務の途中、海南島東方で米潜水艦「シーライオン」の雷撃を」受け艦長加瀬三郎大佐以下多数の将兵と共に南シナ海に間宮は沈没する。将兵の胃袋を満たすために働き続けた艦の最後であった。

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                       艤装中の大和の背後に停泊する間宮
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by narutyan9801 | 2013-08-22 11:21 | 妄想(軍事) | Comments(0)