鼈の独り言(妄想編)

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ウルバンの大砲 ~千年以上不落の城壁に挑んだ大砲~

 大砲という兵器は通常「戦術兵器」として分類される。大砲の運用目的は普通敵の戦術兵器を攻撃しその撃破が目的だからである。だが状況によっては大砲が戦略兵器となることもある。第一次大戦中ドイツ陸軍が使用した「パリ砲」などは戦略兵器となるだろう。さらに敵国の重要な都市の攻略になると、攻撃側の大砲は敵守備隊の撃滅としての戦術兵器、敵重要拠点の破壊としての戦略兵器を兼ねることもある。今回は千年以上も国家を守り続けた城壁を破壊し、戦術・戦略両面から国家を崩壊させることを狙った大砲「ウルバンの大砲」を考察したい。

 ウルバンの大砲が用いられたのは1453年のコンスタンチティノープルの攻防戦の際である。コンスタンティノープルは395年のローマ帝国の東西分裂の際に東ローマ帝国の首都となるが、分裂直後の410年、時の皇帝テオドシウスⅡ世がフン族の侵略を防御する目的でコンスタンティノープルの周囲に築いたのが「テオドシウスの城壁」である。テオドシウスⅡ世以降も度々改修が行われ、三重の城壁となり実に千年以上もコンスタンティノープル防衛の要となっており、コンスタンティノープル攻略はこの城壁を如何に突破するかが鍵になっていた。コンスタンティノープルはローマ分裂後外部勢力に二度攻略されているが、いずれも城壁を軍事力で突破したのではなく混乱に乗じて戦わずに突破しており、その意味でテオドシウスの城壁は千年以上不落を誇ってきたのである。

 その東ローマ帝国も衰退しコンスタンティノープル周辺のわずかな領土を有するだけの小国家となった1452年頃、一人のマジャール人が自らの考案した巨砲の売り込みにコンスタンティノープルを訪れていた。その名はウルバン、彼を接見した時の皇帝コンスタンティノス11世は彼の考案に興味を示し、彼を召し抱える。しかし衰退した帝国では彼に約束した禄を与えることができなかったため、ウルバンは他国にこの発案を売り込もうとするが、それを皇帝が許すわけもなくウルバンは拘束されそうになり、亡命同然で彼が向かったのは東ローマ帝国の仇敵であるオスマン帝国であった。

 ウルバンが東ローマ帝国で拘束されそうになったもう一つの理由として彼が「マジャール(ハンガリー)人」であった可能性は否定できない。ローマ帝国という名前とは裏腹にギリシャ人、正教徒国家となっていた東ローマ帝国とマジャール人・カトリック教徒は相容れない関係になっていた。そういった相互不信がこの契約に亀裂を生じさせた一因となったかもしれない。

 ウルバンの考案した兵器は時のオスマン皇帝メフメトⅡ世によって実用化される。砲身は青銅製で長さ8m、直径75cm以上というもので重さ544kgの花崗岩製の石弾を1.6km先まで飛ばすことができたと言われている。
 しかし前例のない巨砲はその運用も大変であった。まず石弾に使える花崗岩はコンスタンティノープル付近にはなくわざわざ黒海沿岸の産地から運び込み、それを加工して使用していた。装填から発射までに最低でも3時間かかり、発射の衝撃で砲身が痛みその都度小修理を行い、再度発射を続けている。しかし最終的に発射の反動により大砲自身が壊れてしまい発射不能になってしまった。
 戦火の方は運用コストに見合うものであったかというとそうではなかったようである。ウルバンの大砲は滑空砲であり命中精度は相当低く、また一撃で城壁を崩すだけの威力は無かった。結局7週間に渡りウルバンの大砲は連日砲撃を繰り返していたが、テオドシウスの城壁を崩壊させることはできなかった。しかし連日の砲撃で城壁の一部が崩れ内部に通じる通路ができていた。ここにオスマン軍が攻撃を集中し、守備兵がそこの防備に集中している隙に施錠し忘れた城門からオスマン軍が侵入し、これがコンスタンティノープル陥落に繋がることになる。

 ウルバンの大砲は結果としてコンスタンティノープル攻略に寄与したとはいえ、運用の困難さからすれば効果は限定的だったと言える。しかしウルバンの大砲は「直立した城壁は連続した砲撃には耐えられない」という重要な戦訓を残すことになる。この戦い以降ヨーロッパの要塞では直立の城壁は廃れ稜堡式城郭が建造されることになる。ウルバンの大砲はその威力よりも戦争の一側面を変化させたことの方が戦史的には重要なのである。

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現在のイスタンプールの航空写真にテオドシウスの城壁の位置を表したもの。赤い線がテオドシウスの城壁。ウルバンの大砲の砲撃は青い四角の位置にあった聖ロマノス門付近を砲撃し、攻城戦もここを中心に行われている。その最中ケルコポルタ門(緑の四角)の通用口が施錠ないまま守備隊が居なくなってしまい、ここからオスマン軍が侵入、コンスタンティノープルは陥落する。施錠されなかったのは内部の裏切りがあったものとの説もある。
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# by narutyan9801 | 2013-09-12 11:43 | 妄想(歴史) | Comments(0)

駆逐艦 島風 ~日本海軍水雷戦隊の理想の結晶~

 兵器というものは個々の性能も重要であるが使用数という要素も実際に戦場で用いられる際には重要な要素になる。たとえ能力的にずば抜けていても戦術的に連携が重視される兵器ではその能力が発揮されず宝の持ち腐れになることが多い。今回は能力的には既存の兵器を凌駕したものの量産が見送られその能力を発揮できなかった駆逐艦「島風」を考察したい。

 日本海軍は1920年代に「特型」駆逐艦を竣工させ水雷戦隊の能力は世界レベルを凌駕することになった。これはワシントン条約で主力艦(戦艦)の保有数が制限され、補助艦艇である程度の敵主力艦を撃滅する必要が生じたためであるが、続くロンドン軍縮条約で補助艦艇にも制限が設けられてしまう。日本海軍は制限された範囲内で特型に匹敵する攻撃力を持たせようと努力するがその設計には無理があり満足する駆逐艦は建造できないでいた。
 昭和一二年のマル三拡張計画の際、日本海軍はロンドン条約の失効を踏まえて条約に縛られない駆逐艦の建造を目指す。この時の要求の大綱は
 ① 速力36ノット以上
 ② 航続距離18ノットで5,000海里以上
 ③ 兵装、艦型は特型と同程度
という要求を出すが、特型と同程度の艦型では速力を35ノットに押さえるか、航続距離を18ノット4,500海里に押さえないと実現は不可能ということになり、速力を35ノットに押さえて建造を行うことになった。こうして建造されたのが陽炎型である。ロンドン条約失効で自由な設計を行えた日本海軍であったが、自らの制限により理想の駆逐艦は今回も建造できなかった。さらに陽炎型の建造を察知した仮想敵国である米海軍は新型の駆逐艦「フレッチャー級」を建造する。すでに米海軍駆逐艦フレッチャー級の前型であるリヴァモア級で37.5ノット、フレッチャー級でも37ノットの高速性能を有しており陽炎型では対抗できず、日本海軍は次世代駆逐艦には速力の向上が望まれたのである。

 昭和14年のマル四計画において陽炎型の改良型である夕雲型の建造と共に一隻の駆逐艦の建造が承認される。これが後の島風である。島風は陽炎型の一隻である天津風や隼鷹型に装備された高温高圧缶を装備し速力40ノットを実現するべく計画された試験的な艦として計画されたのである。その能力は
 ① 基準排水量2,567トン、満載3,048トンと従来の駆逐艦より大型
 ② 速力40ノット
 ③ 航続距離18ノットで6,000海里
となっていた。 

 日本海軍はかって峯風型駆逐艦の初代島風が40.7ノットの速力を発揮しており、「島風」の命名も初代にあやかっての命名であったろう。初代島風は二代目の建造が決まった後駆逐艦籍から哨戒艇籍に転籍となり「第一号哨戒艇」となっていた。第一号哨戒艇は二代目島風の竣工直前に米潜水艦の雷撃で沈没している

 二代目島風(以後島風で統一する)のもう一つの特色は重雷装であった。従来の日本駆逐艦は中心軸上に魚雷を装備し射線は3×3の九門ないし4×2の八門であったが、島風は一気に5×3の一五門を装備している。魚雷の発射は敵艦隊に肉薄して行い、さらに乱戦になってしまうと魚雷は使用が難しくなってしまう兵器である。魚雷の命中を期待するには発射できるタイミングでなるべく多くの魚雷を発射できるのが望ましくそのため島風は合計一五門の発射管を装備したのである。当初発射管は7連装2基の14門の予定であったが、重量が重くなり非常時の人力操作が難しくなることと、島風が従来の駆逐艦より大きくなりプラットホームに余裕があったため5連装3基に改められている。
 さらに特色として竣工時から22号対水上用電探を装備していた。これは建造途中に装備が決まったものであったろう。竣工時にレーダーを装備していたことは後に島風の運用に大きな影響を与える。

 反面備砲は夕雲型と同じ50口径三年式12.7センチ連装砲D型3基であった。この砲は駆逐艦用主砲として日本海軍が採用し続けてきたもので、D型は仰角75度までが可能であり、一応対空射撃も可能であった。しかしこの砲は弾頭と装薬が別々であり、装填の際に砲身を水平に戻す必要があった。このため対空射撃は事実上困難であり、この点は従来の日本駆逐艦と同様であった。同時期には乙型(秋月型駆逐艦)の建造も決まっており日本海軍は防空用に秋月型、水雷戦隊用に島風型と使い分けるつもりだったと思われる。

 島風は昭和16年8月8日に起工、昭和18年5月10日に竣工する。竣工に先立つ公試で40.9ノットを記録する。しかしこの公試は従来の駆逐艦が行っていた2/3状態(燃料と弾薬を2/3積んだと同じ重量の状態)ではなく1/2状態で行われており、実際に2/3状態で40ノットを超えたかどうかは疑問であると言われている。いずれにしてもこの時点で日本海軍はかって手にしたことのない高速重雷装駆逐艦を入手したことになる。

 しかし戦局はすでに高速重雷装の島風を必要としなくなっていた。日本駆逐艦が本来の任務としてきた水雷戦はガダルカナル島を巡る攻防を境にほとんど行われなくなり、実施されてもレーダーを装備した米軍に先手を取られることが多くなっていた。日本駆逐艦は戦前には想定していなかった護衛任務に就くことが多く、不得手な対空、対潜戦闘で消耗していったのである。そしてその消耗した駆逐艦の補充に当てられるのは島風の量産を中止して建造されることになった丁型と名付けられた駆逐艦であった。丁型は島風の半分の排水量、1/4の出力、12ノット(時速約22km)も遅い駆逐艦だったが小さいながらもそれまでの駆逐艦がボイラーと機関を独立させていてどちらか一方が破壊されると航行不能になるのに対し、ボイラーと機関を1セットごとに独立させた丁型は損傷してもしぶとく戦場から生還することも多かった。また丁型は3門ではあるが高角砲を主砲に採用し対空戦闘もこなせた。戦局は島風の能力を生かせる局面では無くなっていたのである。

 もし日米開戦が6年ほど遅れ、昭和22年頃に開戦になっていれば蘭印を巡る海戦で名を馳せたのは量産された島風型だったかもしれない。水雷戦隊は複数の艦が隊列を組んで突撃し、敵艦隊に多数の魚雷を発射することで多くの命中を得ることが基本である。このためには艦の能力が揃っていないと戦力として成り立たない。島風が数ノットスピードを落として陽炎型等たの水雷戦隊に加入することは不可能で、量産を見送られたことで島風が水雷戦隊に加わり、雷撃戦を行うことは不可能になってしまったのである。

 竣工後島風は幌筵島への護衛任務に就く、この時目に留まったのか、はたまた電探装備なのが聞こえたのか護衛任務を終了し呉に帰投した島風はキスカ島撤収作戦に投入されるため再度幌筵島にトンボ帰りする。作戦参加中キスカ島到着直前に島風はレーダーに艦影を捕らえ、巡洋艦阿武隈と共に魚雷を発射する。この艦影は実は岩礁であった。結局は無駄打ちに終わったが、島風にとっては最初で最後の「敵へ向けての魚雷発射」であった。
 キスカ撤収作戦終了後北方部隊の指揮を離れ島風は呉へ帰投する。この作戦の最中に島風は第二水雷戦隊に編入されるが単艦での付属扱いであり、任務は護衛任務ばかりであった。11月にはラバウルに進出し、そこで米機動部隊の空襲に遭遇するが被害無く切り抜け、損傷艦の護衛を行いトラックに帰投、その後も護衛任務に明け暮れる。

 昭和19年5月に米軍がビアク島に米軍が上陸しビアク島の戦いが始まると島風は第三次渾作戦に「大和」「武蔵」と共に参加するが、サイパン島に米軍上陸の報が伝わり渾作戦は中止、島風はマリアナ沖海戦に参加するが無事に帰還する。

 マリアナ沖海戦後島風はリンガ泊地に進出し、訓練を行う。10月のレイテ沖海戦では栗田艦隊に所属するがシブヤン海で沈没に瀕した武蔵に乗っていた摩耶の乗員を移乗させ、そのままサマール沖海戦に参加する。サマール沖海戦で大和の護衛に回った島風は雷撃を行う機会は訪れなかった。

 レイテ沖海戦後マニラ湾に退いた島風に旗艦能代が沈没した第二水雷戦隊が乗艦し島風は旗艦となる。同型艦が無く水雷戦を行い得ない島風にはむしろ旗艦任務の方が好都合だったろう。しかし島風はせいぜい駆逐隊司令部程度のスペースしかなく水雷戦隊旗艦任務ではかなり手狭であったと思われる。

 レイテ沖で相当の損害を米軍に与えたと誤認していた日本海軍は陸軍のレイテ島増援を支援する「多号作戦」を実行する。島風は第三次多号作戦で輸送船を護衛する任務を命ぜられ、最後の任務に出撃することになる。
 昭和19年11月11日昼前に輸送部隊は揚陸場所であるレイテ島オルモック湾にさしかかるが、島風のレーダーは多数の米軍機をキャッチする。これは輸送部隊を援護するために出撃してきた大和などを攻撃するために出撃した米海軍の第38任務部隊の艦載機で、大和らを発見できなかったために輸送船団攻撃に廻ってきたものであった。

 対空戦闘直前、第二水雷戦隊司令の早川幹夫少将は島風の搭載魚雷を投棄する命令を出す。水雷戦隊の誇りでもある魚雷を捨てざるを得ないだけの苦闘を覚悟したのであろう。輸送船団は揚陸地に向かう途中で全滅し、多数の攻撃隊(総数347機)が残った島風等の護衛艦隊に襲いかかった。オルモック湾は狭く島風は最大戦速を発揮できなかったがそれでも必死に操艦を行い、島風は投下された爆弾の直撃を被ることはなかった。しかし多くの至近弾及び機銃掃射を受けついには航行不能に陥る。救援しようとした他の駆逐艦も激しい攻撃で接舷を断念せざるをえなかった。夕刻、島風の命であったボイラーが加熱により爆発、島風は後部からオルモック湾に沈んでいった。島風の乗員の多くは戦死したが艦長以下数十人はレイテ島にたどり着き12月2日に入港した駆逐艦「竹」に便乗しマニラへの帰途に就く。その途上に島風乗組員が見たものは夜戦の中竹の魚雷を受けて沈没する米駆逐艦「クーパー」の最後だった。日本海軍海上艦艇最後の魚雷戦戦果を島風は見せたかったのかもしれない。

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        公試中の島風、艦首から湧き上がっているダイナミックな艦首波が印象的である。

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昭和19年11月11日、オルモック湾で最後を迎える直前の島風、多数の至近弾、機銃掃射により艦上の魚雷発射管、主砲は損害を被り戦闘能力は失われ、速力も衰えている。舳先が至近弾により折下しており、艦首波が不自然な形状になっている。この写真の直後島風は加熱したボイラーに浸水し水蒸気爆発を起こし沈没する。
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# by narutyan9801 | 2013-09-11 11:28 | 妄想(軍事) | Comments(0)

エゾゼミ

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 久々に妄想以外の投稿

 写真のセミは「エゾゼミ」、エゾと付いているけど別段北国に生息しているわけではなく、九州にも生息している。それどころかこのセミの起源は南方系でクマゼミに近い仲間と言われてる。

 しかしこのセミ、大の「人間嫌い」というより森林を好むので、結構派手な外見の割には知られていないセミ。自分も相双地域に居たのは知っていたけど初めて見たのは30年以上前の上栃窪の森林で。

 でも今年は結構開けた場所でも見るようになった。この個体は灯火に引き寄せられて来た個体。去年は見かけなかったので何か原因がありそう。悪いことでなければいいが。

 エゾゼミについて詳しくはこちらで
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# by narutyan9801 | 2013-09-10 09:42 | 写真 | Comments(0)

車輪 ~人類の定住が普及の鍵となった発明品~

 人類が「発明」した物品はそれこそ無数にあるが、発明の多くは他の発明を原型としたものや応用した「派生系発明」で、たとえば「言語」のように原理そのものの発明は数えるほどしかない。原理そのものの発明はその後の発明の下地になってゆくのであるが、「派生系発明」の中にもその後の発明の下地になっていったものがある。今回は「派生系」発明の中でも多くの発明の下地になった発明品「車輪」について考察したい。

 人間が自ら、または道具を使っても持ち上げられない重量物を運ぶ際に問題になるのが、接地面の摩擦である。摩擦を低減させるには接地面を少なくするか、摩擦抵抗を少なくすることが必要である。古代の人々は重量物の下に転がりやすい丸太などを入れ、転がりを利用して重量物を運んでいた。古代の巨大石建造物の石材の運搬などはこれを使ったものだと思われる。その後橇を用いて重量物を運搬する方法が考案されたが、それでも摩擦は大きかった。その後人類は円盤状に加工した木版の中央に軸を固定し、重量物を乗せる台の下に軸受けを介して軸を固定し、運搬する方法を考案することになる。

 この「車輪」の発明は今から約7000年前の古代メソポタミア地方だったことがわかっている。車輪の原型は土器を製造する「ろくろ」だったと思われている。非常に便利な発明であったがその後の「青銅器」や「鉄器」の発明と比べると周辺地域への伝達のスピードはゆっくりで、北西インドのインダス文明に到達するまでに約2~3000年の歳月がかかっている。

 この伝達の遅さは車輪の運用と当時の人々の生活に関連があると考えられている。ある程度の人口がまとまって定住していなければ車輪を使っての物資運搬は必要とされず、平坦に整備された「道路」がなければ車輪を用いることは困難である。つまり車輪を用いるには、人類が定住を始め、ある程度の土木技術を持っていることが必要だったのである。

 さらに考察すれば、牧畜技術の向上が車輪の普及に拍車をかけた可能性が高い。車輪を使っても人力での運搬では、量はともかく時間的には手で持ったのと大差はない。車輪輸送の効率を上げるためには使役動物の利用が必要であった。ユーラシア大陸で馬の家畜化が始まったのがおよそ6000年前と推定されており車輪の普及が広まり始めたのとほぼ同じ時なのは非常に興味深い。

 車輪が世界四大文明発祥の地中国に入ってきた時期は諸説ある。確実なのは紀元前1200年前には戦車(チャリオット)が用いられているが一説には紀元前2000年頃には存在したとも言われている。いずれにしてもインダス文明に車輪が到達してからさらに数千年の時間が経過しているが車輪そのものが伝わったのか、中国で独自に発明されたのかは分かっていない。車輪が日本に伝わったのはさらに時代が下って紀元後5世紀、古墳時代後期だろうといわれている。日本で一番古い車輪は飛鳥時代(七世紀後半)の出土品で直径1.1mの車輪に12本のスポークが入ったかなり洗練されたものが発掘されている。

 こうしてユーラシア大陸の東の果てにまで到達した車輪であるが、おもしろいことに南北アメリカでは発明されなかった。南米のインカ文明は領内の隅々にまで「インカ道」と呼ばれる街道を建設したことが知られているが、車輪は用いられていない。インカ帝国を始め南米、中米の文明は山地が多く、車輪が使いにくい地形であったことが車輪が発達しなかったことの原因と言われている。「マチュピチュ」の建設に車輪が用いられなかったということは車輪を普段から使っている自分には非常に奇異に思える。なお子供の玩具と思われる出土品に車輪を付けた代車に似た構造のものが南米では出土しており、車輪そのものの発想は南米でもあったことがわかっている。

 車輪は平面の移動を回転運動を介して可能にするという発見で画期的である。人間を含め動物には回転運動が出来る筋肉組織は無く、回転運動は「無期質的な動き」である。この回転運動が平面的な移動に変換できるという発見は人類にとって最大級の発見といっていい。回転運動はギアを通しての回転数やトルクの調節が比較的容易で様々な用途にあったパワーを供給するのに優れている。基本的に人間が機械的に作り出した「動力」は回転を伴わないものはないと言っていい。それを発見する手がかりとなった車輪は見慣れているだけに地味であるが、人類の発展には不可欠なものだったのである。

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   車輪は時として権力の象徴として用いられることもあった。図は「車裂きの刑」に処せられる人々
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# by narutyan9801 | 2013-09-06 09:39 | 妄想(歴史) | Comments(0)

ポーハタン号 ~幕末の日本とアメリカを繋いだ軍艦~

 嘉永六年(1853年)ペリーが開国要求で最初に来訪した際、率いてきた艦艇は4隻であった。翌年条約締結へ再度来訪した際、艦艇の数は7隻に増強されていた。ペリー自身は日米和親条約の締結後は表舞台を去りほどなく亡くなっているが、二度目のペリー来訪でやってきた軍艦はその後も長く日米の架け橋として活躍している。今回はその軍艦「ポーハタン号」を考察したい。

 ポーハタン号は1847年8月6日に起工、五年の歳月をかけて建造された外輪式フリゲート艦である。排水量3765トン、速力は最大11ノット、備砲は大小16門が装備されていた。これは少し時代が下がっての建造である江戸幕府軍艦「開陽丸」と比べると艦体は大きいが、反面備砲数はかなり少ない。これは開陽丸が戦闘を重視したのに対しポーハタン号は遠洋航海と海外駐留を重視したためと思われる。特徴的なのが外輪走行方式をとっていることである。外輪走行方式は推進軸が水面上にあり、推進軸からの浸水がないことや機関が艦中央に位置するので艦のバランスをとりやすいなどのメリットもあるが、戦闘時に破壊されやすいことや艦からの転落者が外輪に巻き込まれやすいなどのディメリットも多い。さらに外用航行では波浪の影響で外輪の水車が空回りしたり、機関の位置が高くトップヘビーで揺れが大きいなどの問題が多く、アメリカ以外の国では外洋船舶の推進にはあまり取り上げられなかった推進方法である。アメリカでは国内大河川での外輪船運用の経験が多く軍艦にも応用した例があるが、ポーハタン号以降は外輪船の軍艦建造は下火になる。

 竣工後訓練を行ったポーハタン号はアメリカ海軍東インド艦隊に編入される。東インド艦隊といっても任地は極東であり、本来は中国駐留の予定であった。任地に向かう途中ポーハタン号はペリー艦隊に加わり、東京湾に入港することになる。東京湾入港後ペリーは旗艦をサスケハナ号からポーハタン号に変更、日米和親条約調印はポーハタン号の船上で調印されたのである。

 調印を終えたポーハタン号は条約の細部の交渉を行うため下田に移り、ここで停泊を行っていたが、この停泊中のある日一人の若者が闖入してくる事件がある。この若者の名は吉田寅次郎、のちの吉田松陰であった。松蔭はアメリカへの密航を訴えるが条約の交渉中に密航者を受け入れるわけにもいかず、ポーハタン号はこの願いを拒否、松蔭は国元で投獄されることになる。

 ポーハタン号はこの任務終了後一度アメリカに帰国している。ペリー・吉田松陰が亡くなった後、日米修好通商条約の調印が行われ、日本側の使節がアメリカに出向くことになったが、総員77人の使節を乗せる船が日本には無く、ポーハタン号が使節の移動を担うことになる。それでもポーハタン号の艦内の宿泊設備では使節全員を収容するには足りず、正規の使節随員以外の人(従者など)は甲板に仮小屋を建てそこで寝起きしていたと言われる。
 1859年9月に再来日したポーハタン号は翌1860年2月13日(安政七年一月二十二日、ちなみに便宜上日本使節側もグレコリオ歴を使用していた)、日本の使節を乗せ横浜を出航する。ポーハタン号には幕府の軍艦「咸臨丸」が護衛に付くことになっていたが、艦体はポーハタン号の方が遙かに大きく、咸臨丸の実際の操船はアメリカ海軍のブルック大尉以下のアメリカ人11人が行っており咸臨丸は「予備の外交使節」という役割だったろう。この二隻は一緒に行動せず咸臨丸はサンフランシスコに直行してポーハタン号より先に到着。一方のポーハタン号は燃料と水の不足でハワイに補給のため寄港している。水の不足は正規の乗組員の他に幕府使節が乗り込んだため消費量が多くなってしまったためである(特に洗濯で真水を使ったためと言われている)。またこの航海は嵐が多く、外輪が波浪の谷に入って空回りするため燃料の消費が多く、燃料不足はこのためであったと言われる。3月28日にサンフランシスコに到着したポーハタン号は休養後、パナマまで再度使節を送り大任を果たしている。

 翌年から始まる南北戦争にもポーハタン号は参加している。しかし前線で放火を交えるということは少なかった。南北戦争の海戦は北軍の封鎖作戦、それを南軍が突破を計るというのが主な作戦であり、また沿岸海域で行われるため、ポーハタン号の航行能力が発揮されるような作戦は少なかった。それでもカリブ海での哨戒任務などに活躍しており、また大きな艦体を生かした旗艦任務にしばしば就いている。

 南北戦争終了後もポーハタン号は現役にとどまり、1868年には南太平洋艦隊旗艦、1869年と1879年には本国艦隊旗艦を務めている。ただこれはポーハタン号の能力の優秀さもあろうが、それ以上にアメリカ海軍の懐事情もあるだろう。極東への権益確保がポーハタン号の建造目的であったと思われるが、南北戦争という内戦を行ったアメリカは東アジア進出への熱意が失われてしまったようであった。このため海軍の新造艦建築も下火になり、外輪艦のポーハタン号が長期間現役にとどまる結果になったといえる。

 ポーハタン号は1886年に退役し、翌年解体され、日米の架け橋となった艦艇は姿を消すことになる。アメリカが極東方面に再度興味を示し始めるのは1898年の米西戦争の勝利でグァム島、フィリピンの権益を獲得して以降のことになる。

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使節一行をパナマまで送ったポーハタン号。ちなみにアスペンゥオール(パナマの大西洋側)からワシントンまで送ったのはロアノウク号(3,400トン)ニューヨークから大西洋、インド洋を横断して日本まで送り届けたのはナイアガラ号(4,800トン)である。参考までに咸臨丸の排水量は292トンだった。
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# by narutyan9801 | 2013-09-05 11:50 | 妄想(歴史) | Comments(0)

駆逐艦 天津風 ~半身を失った駆逐艦の奮戦~

 船という乗り物は想像以上に損傷に対しての回復力が大きい乗り物である。船は多くのブロックに分けられて建造され、それらを鋲接や溶接で組み合わせるので各パーツごとの取り替えが可能なこと、船体そのものよりも機関の建造の方が手間やコストがかかり、これらが再使用可能であれば極力流用するためなどが要因としてあげられる。この特性は損傷を受けることが前提条件である軍用艦ではさらに顕著で普通の感覚では全損で当然と思われる損傷を受けた艦が再生されることも多い。今回は遠く南方で損傷し修理のため日本帰還を目指し果たせなかった駆逐艦「天津風(二代目)」を考察したい。

 天津風と命名された駆逐艦は二隻存在する。今回考察する天津風は陽炎型駆逐艦九番艦の二代目「天津風」である。天津風は昭和十四年(1939年)二月に起工されている。天津風の大きな特徴として、実艦装備実験のため他の陽炎型よりも高温高圧のボイラーを装備したことがあげられる。日本海軍は次世代の駆逐艦として最大速力40ノットの駆逐艦の建造を計画しており、それに装備する予定だったボイラーを試験的に天津風に装備したのであった。従来の陽炎型のボイラーの蒸気は圧力30kgf/cm2、温度350℃であったが天津風装備のボイラーは圧力40kgf/cm2、温度400℃の高温高圧ボイラーだった。蒸気を受けるタービン機関は従来の陽炎型と同等なので他の姉妹艦と速力に違いは無かったが(そうしないと戦隊が組めない)燃費に関しては13%ほど天津風が勝っていたと言われている。昭和一五年(1940年)10月26日に竣工した天津風は他の陽炎型姉妹艦(初風、時津風、雪風)と第16駆逐隊を編成、太平妖怪戦後フィリピン攻略、蘭印攻略作戦、ミッドウェー海戦等に参加した後ガダルカナル攻防戦に加わることになる。

 1942年11月12日の第三次ソロモン海戦第一夜戦で天津風は奮戦するものの米駆逐艦主砲が第二缶室を直撃し、さらに小口径弾多数が命中、戦死傷者70人以上を出す損害を受ける。損傷修理のため呉に回航された天津風は翌年一月まで修理を行い、2月にはトラックに進出するが、この後はもっぱら輸送護衛任務に就くことになる。これはガダルカナル攻防と3月のビスマルク海海戦で多くの駆逐艦を失った日本海軍は駆逐戦隊の再編成を行う余裕が無く前線に出ていた駆逐艦同士で臨時編成をして出撃をさせていたため、編成からあぶれていた天津風が入り込む余地がない状況になってしまったためと思われる。かって編入されていた第二水雷戦隊旗艦「神通」が戦没した「コロンバンガラ島沖海戦」、僚艦だった初風が戦没したブーゲンビル島沖海戦にも参加できなかった。

 昭和十八年中盤頃から米潜水艦による輸送船を狙った通商破壊作戦の損害が大きくなり日本海軍では対応に迫られていた。天津風はソロモンの戦いから帰還した僚艦雪風とともに「ヒ31船団」の輸送任務に当たることになる。この輸送任務では軽空母「千歳」が初めて船団護衛に加わるなどかなり強力な護送船団であったが昭和十九年(1944年)1月16日、天津風は浮上していた米潜水艦「レッドフィン」を攻撃するが、レッドフィンの反撃の魚雷が左舷中央に命中、艦橋直後で艦は二つに折れ、間もなく前部は沈没してしまう。艦前部で配置に付いていた乗組員は数人が分離前に後部に移動することができたが、駆逐隊司令古川大佐以下74名が戦死する。残された艦後部は一週間の漂流したのち発見されサイゴンに入港、長期間に渡る修理を行う。

 しかし実際には天津風はほとんど放置されていたと言っていい状態だったと思われる。すでにトラック空襲を受け戦場は中部太平洋に移っており艦体が断絶した損傷艦に目を配ることは難しくなっていたのではないだろうか?そうでなければ十ヶ月も天津風を放置しておく理由が見つからない。

 サイゴンでの応急修理は11月8日に一応終了し、天津風は11月15日シンガポールに回航、ここで機関の修理と仮設艦首の装着を行う。残された第二ボイラーと機関の整備により天津風は20ノットの速力を発揮できるようになる。さらに仮設艦首には大きな波を作り出し実際よりも速力が出ている効果を持たせてあったということが様々な資料に書かれている。天津風の最後の戦闘写真を見ると確かに艦首波が過剰に発生していることがわかるが、この効果は狙ったものではなくおそらくは副産物的なものであり、本当の効果は「舵を切れるように水の抵抗をわざと増した」のではなかったろうか?
 元来船の舵というものは船の大きさに合わせて設計されるもので、天津風のように艦体が40mも短くなれば舵のバランスが崩れ、艦の操作が不可能になると思われる。このため艦首の抵抗を大きくし舵のバランスを整え繰艦性能を得るための苦肉の策ではなかったかと思える。しかしそれでも舵の切れは良くなかったのではないだろうか?後の4月6日の戦闘では速力が劣るはずの海防艦の航行に付いていけず落後しているのがその証拠と思える。この日荒天で舵に加えピッチングが激しかったことも落後の原因であったろう。機関は幾分回復したといっても、正直なところ天津風には外海航行能力はかなり減退してしまっていたといっていい状況だったのではなかろうか?

 昭和二十年(1945年)3月17日、日本海軍は「ヒ88J船団」の編成を決定、天津風はこの船団に加わっての日本帰還が命令される。すでにシンガポールに残っていた海軍の有力艦艇は一ヶ月前の「北号作戦」で無事に日本に帰還しており、シンガポールには重巡洋艦「羽黒」「足柄」駆逐艦「神風」、そして損傷で航行できない重巡洋艦「妙高」「高雄」などしか残っていなかった。現地司令部では天津風の状況を考え、シンガポールに残ることを勧めたが新任の森田友幸艦長は内地での修理を望み出航に踏み切ることを申し出た。餞として現地司令部から北号作戦参加艦艇が残していった機銃数基が天津風に装備される。こうして南方からの最後の便となる船団に天津風は加わることになるのである。

 しかし無線傍受で船団の出航を察知していた米軍の攻撃は激しく、船団に加わっていた輸送船はすべて沈没、天津風も海南島に停泊した際に爆撃を受け不発ながら一発が命中している。何とか香港までたどり着いた「ヒ88J船団」生き残りの護衛艦はここで新たに編成された「ホモ03船団」を護衛して門司に向かうことになる。護衛する船舶は二隻、それを護衛する艦艇は天津風、海防艦2隻、駆潜艇2隻であった。しかし香港を出航してまもなく輸送船2隻は航空機の攻撃を受け沈没。駆潜艇二隻は救助した人員を乗せて香港に引き返すことになった。残った天津風と海防艦1号、海防艦134号は日本帰還を目指して航行を続ける。

 三隻は航行を続けたが、次第に天津風と海防艦との距離は離れ、午前11時半頃には二十海里の距離が開いてしまう。そこへ米陸軍のB-25爆撃機が反跳爆撃を行い、先行した海防艦二隻は撃沈、残った天津風にも計18機のB-25が攻撃をかけ、爆弾3発が命中し主砲が破壊、機関も停止し天津風は漂流しはじめる。しかし米軍側も天津風の反撃で3機を撃墜され、追撃を控える。沈没に瀕した天津風は攻撃が止むと懸命の復旧作業が開始されるのである。

 天津風は燃料タンクが破損し、重油タンクに海水が混じったたため乗員は手で浸水した海水を掬って重油を確保し、機関の再起動に成功、出力の調節ができず6ノットの速力に固定された天津風は日本軍がいる廈門を目指して航行する。夕刻にようやく廈門に到着した天津風は機関を停止するが、潤滑油に海水が侵入して焼き付き、機関が使用不能になる。さらに爆撃で錨を失っていた天津風は錨泊が出来ず、潮流に流され夜間に座礁してしまう。さらに現地住民が略奪を仕掛け、これは撃退したもののここに至って艦長は艦の維持は無理と判断、装備などを陸揚げした後4月10日に爆雷の自爆により処分され、天津風は厦門湾でその生涯を閉じることになる。処分の3日前、廈門から千キロ離れた沖縄北方で天津風の姉妹艦「浜風」「磯風」が戦没しており、天津風の沈没時に姉妹艦で生き残ったのは「雪風」一隻のみとなっていた。天津風は陽炎型駆逐艦の太平洋戦争における最後の戦没艦であった。

 天津風の日本回航は無謀な旅だったかもしれない。しかし便乗者のうち161名は廈門までたどり着き生きながらえることができた(戦死者39名)課せられた命令の苛烈さを考えると多くの生存者を味方根拠地まで送り届けたことは功績として評価していいと思える。

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                           公試中の天津風
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天津風の同型艦、不知火の損傷状況。不知火は昭和一七年(1942年)米潜グローリーの雷撃を受け艦体前部切断の損傷を被る。切断箇所は天津風の切断箇所とほぼ同じ部分である。
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B-25の攻撃を受け損傷した天津風。後部主砲は破壊され既に戦闘力は喪失している。行き足は止まっているようだがこの後天津風は機関の応急修理を行い、6ノットで厦門に向けて航行することになる。

25歳の艦長海戦記―駆逐艦「天津風」かく戦えり (光人社NF文庫)
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# by narutyan9801 | 2013-09-04 11:00 | 妄想(軍事) | Comments(0)

立石斧次郎 ~幕末アイドル伝説「プロデューサーさん!シスコですよ!シ・ス・コ!~

 タイトルはあまり深く考えないでください…。

 古今東西を問わず様々な「アイドル」が誕生している。アイドルの誕生要因はいろいろとあるが、要因の一つに「来国した外国人が人気者になる」というものがある。日本でも少々意味合いは異なるかもしれないが火傷の治療のため旧ソ連から来日した「コンスタンチン君」などが例として挙げられるだろう。こうした「来国アイドル」は容姿、性格などの個人的な魅力の他にも人を引きつける要因や意図が働いてアイドルとなることが多い。今回は幕末、日米修好通商条約の批准使節に通訳見習いとして渡米しアイドルとなった「トミー」立石斧次郎を考察したい。

 立石斧次郎は天保一四年(1843年)の生まれ、西郷従道や品川弥二郎と同年の生まれである。斧次郎は直参旗本の小花和度正の次男として生まれたが、出産時から病弱で成長できないと思われ、幕府には出生届を提出していなかった。このため斧次郎は三歳の時に養子に出され、以後様々な家の養子になり、改性を繰り返す生活を送る。こうした生活の中で斧次郎は新しい環境に早く馴染むため社交的な性格を形成したようであり、このことが後に「トミー」と愛される下地になったと思われる。

 斧次郎は11歳の時に母方の叔父である米田猪一郎の養子となる。斧次郎はここで同じく叔父でオランダ語通弁をしていた立石得十郎からオランダ語を学ぶ機会を得る。立石得十郎が下田奉行所に転属になると斧次郎も下田に同行し、ここで英語を学んでいる。その後長崎に遊学した斧次郎は数少ない英語を通訳できる日本人となっていた。

 安政六年(1859年)幕府は日米修好通商条約を調印していたが、条約批准の為の使節派遣を検討していた。使節には斧次郎の叔父である立石得十郎も通訳として加わっていたが、得十郎も英語の通訳には不安があり斧次郎は得十郎の養子となり使節一行に通訳見習いとして加わることになったのである。時に斧次郎十六歳、この際に改名して「立石斧次郎」と名乗ることになる。

 一行はアメリカ軍艦ポーハタン号に便乗しアメリカを目指すことになる。このポーハタン号を護衛する為に「咸臨丸」が随行するということになっており咸臨丸には勝海舟や福沢諭吉などが乗り込んでいた。アメリカに向かうポーハタン船上で斧次郎はマスコット的な存在となっていた。航海中特にすることのない退屈な日々を送っている船上でも年少で好奇心に溢れる斧次郎少年には興味津々の場であったろうし、そうした姿を見ている大人たちの気持ちも幾分か晴れたことだろう。斧次郎少年は同行者からは幼名の「為八」から「ため」と呼ばれていたようである。アメリカへの航海は嵐に見舞われた苦難の航海であったが無事にサンフランシスコに到着。先着していた咸臨丸一行と再会した使節はアメリカのマスコミに追いかけられることになるが、ここでクローズアップされたのが「立石斧次郎」であった。

 アメリカを訪れた使節一行は熱烈な歓迎を受け、大きく報道されることになる。アメリカでは翌年の大統領選挙を控え、現職のブキャナン大統領肝煎りで大々的な歓迎を行っていた。ブキャナン大統領は現在でも「南北戦争を防げなかった」ということで評価の低い大統領で、特に実績もなく再選に向けてアピールする要素が少なかった。政治家が即効性の低い外交成果を掲げて支持を訴えるのは常套手段と呼べるものであり、使節は「いいダシ」に使われた感がある。しかしそれを報道するマスコミとしては何か象徴的なものが必要であり、それの対象になったのが「トミー」こと立石斧次郎であった。

 立石斧次郎がトミーと呼ばれた時期は「ポーハタン号」船中からかサンフランシスコ上陸後かははっきりしない。養父の得十郎や他の大人たちが遠くから斧次郎を呼ぶときはたぶん抑揚をつけて「たぁめ~!」と呼んだのであろう。それが空耳化し「トミー」となったのだろうと思われる。
 そして斧次郎自身にもアイドルとしての素養が備わっていたのも大きい。他の日本人は英語を解するものがほとんどいないのに対し流暢に英語で話し、臆することなく様々な質問に答えるチョンマゲ姿の少年はマスコミ受けする人材だった。また斧次郎も社交的な性格でリップサービスもうまく、後にサンフランシスコを後にするときには船上で貴婦人から貰ったハンカチを振って別れを告げるなど「キザ」な一面もあり、「トミー」報道は過熱する。使節一行が宿泊するホテルには「トミー」見たさで人々が集まり、使節の出入りも困難になる有様で養父の得十郎は斧次郎に謹慎を命ずるほどであったという。

 この「トミー」報道で安堵した人物もいる「ジョン万次郎」こと中濱万二郎である。漂流後アメリカに渡り数年在住した後日本に帰国、再来米するという数奇な運命を経てきた彼は咸臨丸到着直後はマスコミの取材攻勢に遭い辟易していた。彼は日本の生活で異国人との付き合いが身を滅ぼす可能性もあることを体感し、アメリカに赴く時も常に注意していたという。「トミー」の出現によりマスコミが離れた万二郎は咸臨丸に同乗していた福沢諭吉と連れだってウェブスターの英語辞書を購入しに出かけたりできるようになった。後年の福沢諭吉の教育面での功績を考えると「トミー」の出現は日本の教育にも大きな影響を与えたと言えよう。

 サンフランシスコでの休息を終えた使節一行はパナマ地峡を汽車で走破し(当時パナマ運河は着工すらされていなかった)ワシントンに赴き条約の批准を行う。この感マスコミの関心はもっぱら「トミー」に注がれていた。加熱する報道に養父の立石得十郎はやきもきしたらしいが、使節一行からは特にお咎めは出なかった。この使節が当時の幕府としては外交の一流人物、特に一番うるさくいう立場の監察に小栗忠順が配されていたことが大きかったろう。使節側で斧次郎を咎めたものは(内心苦々しく思っていたとしても表立っては)いなかった。また肝心な所では斧次郎も身の程をわきまえていたのであろう。

 帰国後斧次郎は実家を継いでいた兄から「丈夫届け」が出され晴れて直参旗本としての血筋を認められる。斧次郎は母の性を継ぎ文久三年に「米田桂次郎」と改名する。「立石斧次郎」と名乗っていたのは四年ほどの期間であった(この文章では斧次郎のままで通させていただきたい)。その後斧次郎は戊辰戦争に巻き込まれる。鳥羽伏見の戦いの直前、実兄の小花和重太郎と差し向かいでビールを飲む姿の写真が現存するが、実兄は今市の戦いで戦死、斧次郎も太股を銃弾が貫通する重傷を負う。一時函館に逃れた斧次郎は戦費調達の目的で上海に渡り、ここで出会った渋沢栄一の説得を受け帰国、幕臣だったことを伏せるためか再度性を変える。斧次郎の祖先は戦国時代武田信玄に「業正が居るかぎり上野を取ることはできぬ」と言わせた長野業正との伝承があり、これにあやかっての改性であった。

 長野桂次郎となった斧次郎に明治四年、政府から岩倉使節団に随行するよう命じられる。斧次郎は二等書記官として思い出の地に赴いたが、今回の訪問は前回のような歓迎を受けることは無かった。南北戦争を経たアメリカは戦争の荒廃からの復興が最優先であり、不平等条約の撤廃交渉に来た使節を歓迎する余裕はなかったのである。「トミー」人気に少なからず期待していた明治政府は失望し斧次郎は二等書記官を解任されてしまう。斧次郎は帰国後も明治政府に出仕していたが明治十年に官職を辞任、その後北海道で開拓使を勤めたりハワイの移民監督官を勤めた後、大阪控訴院に勤め、明治末まで勤めた後、伊豆で余生を過ごし大正六年に七十五歳で亡くなっている。晩年は戊辰戦争のことは話すものの、日米修好通商条約で渡米した際のことは口にしなかったと言われている。しかし歴史的な業績を見ればやはり「トミー」と呼ばれた時代が際だっており現在も多くの人々は「トミー」=「立石斧次郎」として認識し続けているのである。

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 有名な「ペリー上陸の図」この絵中央やや左に書かれている父子は大石得十郎、斧次郎親子という説がある。沖には後に幕府使節が便乗するポーハタン号も居るはずであり、もしこの説が本当だったら彼らの関わりはペリーの来航から始まっていたことになる。
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# by narutyan9801 | 2013-09-03 09:35 | 妄想(人物) | Comments(0)

デスポーズ ~恐竜たちの奇妙な断末魔の姿~

 動物が化石になる場合、全身の骨格が生きている時そのままに繋がったまま化石化する事はごく希な例であり、たいていはバラバラになった状態で化石になる。しかし条件が整うと全身の間接が繋がったまま化石化することもある。そんな珍しい全身骨格の化石が、奇妙にも同じようなポーズを取っていたら、学者でなくとも不思議がることだろう。今回は恐竜や鳥の全身骨格化石が時折見せる不思議なポーズ「デスポーズ」を考察したい。

 デスポーズの代表的な化石は「始祖鳥」である。始祖鳥の化石は教科書にも載っているぐらいおなじみであるが、始祖鳥の体は不自然に首が背中側に反り返り、反面尾は直線上に延ばされている。顎は判然としないが。多少口が開いているようにも見える。始祖鳥の化石は羽毛の痕跡も残っていることから、死後まもなく土に埋まったか、あるいは生きているうちに土砂災害に巻き込まれ、苦しみながら死を迎えた可能性が高い。

 動物は死を迎えると当然体の運動機能は失われる。しかし全く動かない訳ではない。死直後には反射神経の反応による「脊髄反射」により筋肉組織が動くことがあり、脊髄反射が失われた後も死後硬直や硬直の解除、筋肉組織の収縮や崩壊により死体が動くことがある。このため化石となった始祖鳥の姿は断末魔の際の姿であるとは必ずしも言えない。しかし始祖鳥以外にも恐竜化石や鳥類化石にこのポーズを取ったまま化石となったものが多数発見され、この不思議なポーズが「デスポーズ」と呼ばれるようになり。死の際、または死んだ後に何らかの原因でこのポーズを取っているのではないかと考えられるようになったのである。

 デスポーズには様々な説が唱えられている。死骸が水に押し流されているうちに自然にこのポーズを取ったのではないかという偶然説、死後背中側の靱帯が感想し収縮によって体が弓なりになったのではないかという説、最近は死後硬直の一種である弓なり緊張による生じたものであるという説が唱えられている。以前は破傷風菌による収縮痙攣で死亡し、そのまま化石になったという説もあったが現在支持は受けていないようである。

 しかしどの説も今一つ説得力に欠けるようである。水流によってこのポーズにされたというのはかなり無理が有るし、死後硬直というものは長くても数日程度で終わってしまいそのタイミングで死体が埋没して化石になったというのは出来過ぎた話に聞こえる。靱帯の収縮も相当な時間を要するはずで、その当時現在のハイエナ以上に強力な顎を持った「掃除屋恐竜」が見逃すことはそうそうないと思われる。

 前記したとおり全身の関節が繋がったままの状態の化石ができる条件は「死後直後に埋没したか、生きているときに土砂災害に巻き込まれて死んでしまったか」しか考えられない。しかし埋没後に死後硬直や靱帯の収縮であのようなポーズが取れるかはかなり疑問である。とすれば、もしかしたら「デスポーズ」を取った恐竜や鳥たちは土砂災害に巻き込まれて死んでしまった不幸な動物たちの最後の姿なのかもしれない。そう考えるとデスポースで化石化した恐竜や鳥たちの化石からはなにやら悲しい雰囲気が漂ってくるようである。

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                         デスポーズの始祖鳥の化石

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                 デスポーズのティラノサウルスの化石(Black Beauty)
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# by narutyan9801 | 2013-08-29 14:49 | 妄想(生物) | Comments(0)