鼈の独り言(妄想編)

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メガロドン ~新生代の海に君臨した王者~

 パニック映画「ジョーズ」シリーズは巨大な鮫が次々と人間を襲い、人間が感覚として失ってしまっている非捕食者の恐怖を思い出させる映画である。この映画に出てくる真の主人公「ジョーズ」は現在も生息する「ホホジロザメ」をモデルにしている。ホホジロザメは人間を襲う可能性のある鮫の中では最も大きくなる鮫で全長6mに達する個体も存在するが、過去にはそれを遙かに凌駕する巨大が鮫が地球上に存在した。今回はその巨大ザメ「メガロドン」を考察したい。

 メガロドンは約1,800万年前から200万年前に生息した巨大ザメである。その大きさは最大個体で13mから20mと諸説あるが、実際のところどれぐらいまで大きくなったかは定かではない。サメの仲間は歯を除いた骨格が軟骨で形成されており、非常に化石が残りにくい。メガロドンの化石も現在のところ歯以外の化石はほとんど発見されておらず、体長についても歯の化石から現世のホホジロザメの大きさと比較して推測した値である。そもそもメガロドンとホホジロザメが系統的に近縁種であるという確証はなく、将来より完全な化石が発見された場合メガロドンの体長は大きく変わる可能性がある。

 メガロドンは絶滅した魚の中では一般的な知名度は高い方だと思われるが、実際のところ詳しい生態はほとんど分かっていない謎の魚である。どんなサメから進化したのか?どのような生活を送っていたのか?なぜ絶滅したのか?等々ほとんどはっきりとしたことは分かっていない。現世のホホジロザメの生態から推測するしかないのが現状である。

 現在のホホジロザメの主な獲物は海生ほ乳類である。これは軟骨魚類であるサメは硬い骨を持つ硬骨魚類を補食するには身体能力が不足しているためであると言われている。おそらくメガロドンの主な獲物も海生ほ乳類、特に鯨を獲物としていたと思われる。同じ時代の鯨の化石の中にはメガロドンに食いつかれた跡が骨に残っている化石が複数見つかっている。現在のホホジロザメのように状況によっては死骸など腐肉食もおこなったであろうが、メガロドンは最大のサメに相応しくクジラを襲うどう猛な捕食者として第三紀の海に君臨していたのであろう。
 「ジョーズ」でホホジロザメは狡猾かつ獰猛なイメージを与えられてきたが実際のホホジロザメは同種間でコミュニケーションをとることが分かっており、他の個体に餌を分け与える習性があることが観察されている。メガロドンにそうした習性があるかどうかは確かめようがないが、史上最大の肉食魚類に仲間を認識する知性があったとしたらなかなか楽しいことである。

 メガロドンの絶滅の原因としては様々な要因が挙げられている。メガロドンの生息する大陸棚の海水温が低下し生息域が狭まったためという説。主な獲物であった鯨が寒冷海域に適応し獲物が少なくなったためという説。そして最近有力視されているのが強力なライバルである「シャチ」の出現によるという説である。
 少なくとも体長10mは越えるであろうメガロドンと体長では半分ほどの大きさのシャチでは体力においては勝負にならないような感があるが、実際のところメガロドンは俊敏さにおいてシャチにはかなわなかったと思われる。現世のホホジロザメは6mもの体を水面上からジャンプさせることができる身体能力をもっているが、それでも瞬間的な最大遊泳速度は時速40kmに届かない。身体構造と抵抗を考えるとメガロドンはホホジロザメより鈍重であったことは間違いなく、時速60km以上を発揮でき小回りも利くシャチに遊泳能力ではかなわなかっただろう。
 そしてメガロドンの身体自体に大きな弱点があったことが指摘されている。彼らは「軟骨魚類」である。硬い骨を持たない彼らの身体は衝撃を受けると内蔵組織にまで衝突の衝撃が伝わってしまう弱点を持っていた。現世のホホジロザメも子供のイルカを襲おうとして母イルカの反撃の体当たりを受け死亡してしまった例が観察されている。またシャチがホホジロザメを補食する例も知られており、成体はともかく幼体のメガロドンは直接シャチに補食されていたと考えられている。シャチとの競合と狭まった生息環境の圧迫がメガロドンを絶滅に追いやったというのが現在のところメガロドン絶滅の理由として最も有力視されている。

 メガロドンの歯の化石は日本でも発見され、「天狗の爪」と思われてきた。海の王者であったメガロドンの歯が神通力を持つ天狗の爪とされたことは、メガロドンにとっては名誉なことだろうか、はたまた迷惑なことだろうか?ちょっと興味を引かれるところである。

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メガロドンの歯の化石。長さこそ地上最強の肉食動物ティラノサウルスには及ばないが幅はティラノサウルスを凌駕する。歯の縁はノコギリのギザギザがあるが、これはティラノサウルスの歯にも共通する特徴である。
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# by narutyan9801 | 2013-11-01 12:27 | 妄想(生物) | Comments(0)

日付変更線 ~人間の都合でねじ曲げられる昨日・今日・明日~

 人類が「時間」の基準として利用してきたものは「地球の自転周期」である。すなわち地球が一回転時点する時間を「一日」という単位で捉え、「一日」を細分化することにより「時分秒」という時間単位を得たのである。人類の活動範囲が大きくない時代は日付の基準を設ける必要は無かったが、人類の活動が地球規模にまで拡大すると移動により起こる日付の矛盾を防ぐための基準が必要とされるようになる。今回はこの日付の基準「国際日付変更線」を考察したい。

 地球は球形をしている。地球上を移動し一周して元の位置に戻ったとすると移動者は物理的運動で暦の進みを自転方向に順方向なら+1、逆方向ならー1していることになる。しかし移動者には暦のずれは自覚できないため移動者には暦の方がずれたと自覚してしまうことになる。この問題は人類が初めて世界一周を成し遂げたマゼランの航海ですでに起こっていた。マゼラン艦隊では暦を正確に記録していたがスペインに帰還した際に照会したところ彼らの暦は一日遅れていたことが判明したのである。彼らは自らの暦の方が正確であると主張し、ついにはローマ教皇に使者を出し審議を依頼するという騒動にまで発展したのである。彼らは自らの航海で彼らが本来受けたであろう地球の自転を一回減らしたことに気づかなかったのである。

 原因が分かってしまえば笑い話ですむ問題であったが、いざ海外に領土を持ち頻繁に行き来する大航海時代を迎えるとこの日付の問題は無視できない事態となる。そこで陸地のない太平洋上で線引きを行い、西から東に越えた場合には日付を一日戻し、逆に東から西に越えたときは日付を一日進めることにしたのである。日付変更線の始まりであるが、現在のように国家間の調整により線引きをしたわけは無く悪く言ってしまえば利用する国の都合で現在から見ればかなり強引な線引きが行われていたこともある。

 たとえばスペイン統治時代のフィリピンは日付変更線の東側とされていた。スペインはフィリピン統治の権限の多くをメキシコのアカプルコにおいた総督が握っており統治上メキシコとフィリピンの日付が同じ方が都合が良かったのである。この場合日付変更線はベーリング海峡から千島列島、日本列島の側を通り、パシー海峡から南シナ海にはいり、ミンダナオ島の南からニューギニア、ソロモン諸島の北を通って南極に向かうような線引きになる。江戸時代初期にローマに赴いた支倉常長は日本を出航してすぐ日付変更線を跨ぎ、帰りは日本よりも西にあるフィリピンに居るにも関わらず、日本より一日遅い日付で時を過ごしていたことになる。この場合日本とフィリピンの時差はー25時間に達していた。もっとも当時の日本は太陽太陰暦、フィリピンはグレコリオ歴だったので日付変更線による暦のずれは暦そのもののずれを修正する時点で解決してしまい、問題にならなかったようである。

 同じような問題がロシア統治時代のアラスカでも起こっている。アラスカの日付は当時のロシア帝国の日付に併せて英領アメリカ(現在のカナダ)との国境沿いに設定されていた。またこの当時ロシアはユリウス歴を使っていたので隣接する英領アメリカとは日付、そして時間も若干ずれが生じていたのである。1867年アメリカはアラスカを買収するが、アメリカに権限が移譲される際アラスカではユリウス歴1867年10月6日の翌日がグレコリオ歴1867年10月18日とする少々強引な暦の変更が行われている。この変更は午前0時に行われたので、日付変更線がベーリング海峡に移されたことによる日付の一日戻すことと、10月6日が終わったことが打ち消しあい暦のずれのみの修正だけが行われたのである。

 近年でもこうした日付変更線の見直しによる暦の移動は行われている。1979年にイギリスから独立したキリバスは国土が日付変更線で分割されており国土間で曜日が違うという問題を抱えていた。これを解決するために1995年1月1日に日付変更線を国土の東側まで移動させ、国内の曜日を統一されることになった。この措置によりキリバス最東端のカロリン島が日付変更線の東側に最も近い地点となった。ちなみ日付変更線の西側に最も近い地点は太平洋戦争中に日本が占領したこともあるアリューシャン列島のアッツ島である。

 日付変更線の大きな問題は最初に書いたとおり移動している人物には自覚できないことである。たとえばジュール・ヴェルヌの「80日間世界一周」では主人公たちは賭をした80日では戻れず81日かかってしまったが、日付変更線を跨いでいて日付が戻されて80日間の世界一周が完遂されたりという落ちで結ばれている。赤松健のマンガ「ラブひな」では架空の島パララケルス島を日付変更線が通っており、島の西側では消印有効の期限の翌日になっていても島の東側では期日内だったというトリックが描かれている。実際問題日付変更線の西側から深夜離陸した飛行機が日付変更線を越え翌朝着陸した地点では出発から二日後だったという路線もあり、おそらく地球の自転が何らかの変化を見せない限り永遠に旅行者を惑わすことになるであろう。

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日付変更線の東側に最も近い陸地、カロリン島。地球上で最も早く一日が始まる島ということで観光客が訪れる美しい珊瑚礁であるが基本的に無人島である。キリバスは観光PRのため島の名前を「ミレニアム島」と変更している。
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# by narutyan9801 | 2013-10-25 14:25 | 妄想(その他) | Comments(0)

初代剣埼 ~浦風型駆逐艦に搭載されなかったディーゼル機関のその後~

 以前このブログでは「浦風型駆逐艦」を取り上げた。浦風型駆逐艦はディーゼル機関を搭載予定していたが、第一次大戦の勃発によりドイツから部品の調達が出来ずディーゼル機関搭載を断念した経緯を書いたのだが、実はこのディーゼル機関には後日談があり別の艦の運命にも深く関わっている。今回はそのディーゼル機関と関わった艦「初代剣崎」を考察したい。

 第一次大戦の勃発により浦風型がディーゼル機関搭載を取りやめた後もドイツ側では発注に基づいた製品の製作を行っており、完成したディーゼル機関を律儀にも中立国を通じて日本に送ってきていたのである。すでに浦風はタービン機関を搭載して完成しており機関の日本到着時には搭載は不可能な状態だった。日本海軍は考慮の末このディーゼル機関を搭載する別の艦艇の建造を行うことになったのである。

 当時日本海軍の保有するタンカーは「志自岐」一隻だけだった。海外からの輸入は民間のタンカーを徴用して賄うことができるが、軍港間の輸送を行う比較的小型のタンカーを保有しておらず、海軍は浦風型の余剰ディーゼル機関を再利用する形で大正六年に小型タンカーを一隻建造する。これが初代剣崎である。
 初代剣崎は排水量1970トン、速力11ノットの小型タンカーであったが、こうした小型タンカーを持っていなかった海軍に便利がられ、瀬戸内海の各根拠地の重油輸送に用いられることになった。また目立たないが日本海軍初のディーゼル機関搭載艦艇であった。

 しかし日本海軍はディーゼル機関の扱いが不得手であり、またディーゼル機関そのものが開発から年月が経っておらず機械的信頼性に乏しいこともあり昭和に入ると呉軍港内に係留したまま放置されるようになる。そして昭和八年9月1日に剣埼は除籍となってしまい、海軍初のディーゼル機関搭載艦は海軍籍を離れるのである。まもなく「剣崎」の名称は別の新造艦艇に引き継がれる。この艦艇はその後数回の遍歴を重ね、軽空母「祥鳳」として太平洋戦争で戦没することになる。

 一方、除籍された初代「剣崎」も船としての生涯を終えた訳ではなかった。船体自体はまだ十分使用できる状態であった初代剣崎は農林省に移管され機関の換装という大改造を施した上で漁業取締兼指導船「快鳳丸」として再就役することになる。快鳳丸は主に北方の漁業取り締まりを行っていたが、太平洋戦争勃発後は農林省に籍を置いたまま海軍に徴用され幌筵を根拠地とした第五艦隊付属の哨戒兼気象観測船として用いられる。さらに昭和二十年になると艦艇が不足した海軍は快鳳丸を特設砲艦とし、12年ぶりに日本海軍艦艇に復帰することになる。すでに二代目剣崎・祥鳳は三年前に珊瑚海海戦で戦没していた。そして初代剣崎・快鳳丸も昭和二〇年4月19日に北海道日高沿岸を航行中に米潜水艦の雷撃により沈没する。剣崎として完成してから29年の生涯であった。

 初代剣崎建造の直接の原因となったのはディーゼル機関であるが、その初代剣崎、そして二代目剣崎も悩まされたのがディーゼル機関の不調であった。結局両者とも機関換装という大工事を行っているのは奇妙な偶然と言えるかもしれない。
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# by narutyan9801 | 2013-10-23 11:31 | 妄想(軍事) | Comments(0)

イチジク ~実の部分は実は花である果物~

 名将ハンニバルとスキピオが戦った第二次ポエニ戦争後、勝者であるローマ国内ではかって戦ったカルタゴに対して融和してゆくか、敵対し滅ぼすかの方針が定まらずにおり、元老院でカルタゴに対する政策の議論が交わされていた。議論の最後に登場したカルタゴ滅亡論者の首領である大カトーは懐から数個の果物を取り出し「かの地ではこのような芳醇な果物を産する豊かな土地を持っている。ローマから船でわずか三日で行ける所にこのような国が存在するのは危険ではないか?」と説き、この演説がローマのカルタゴ滅亡方針を決定づけたと言われている、今回はローマがカルタゴを滅ぼす動機となった果物、イチジクを考察したい。

 イチジクはクワ科に属する植物で原産国はアラビア地方と考えられ、乾燥地域に適応した植物である。非常に甘い味がする実を付けることから古くから栽培が行われていた。少なくとも六千年前の古代メソポタミアで栽培が行われていたことが分かっているが、近年ヨルダンの新石器時代の遺跡から炭化したイチジクの果実が発見され、放射能測定の結果一万年以上前のものであることが分かり、人類がもっとも古くから栽培を行っていた植物である可能性も出てきている。

 イチジクはなんといってもその甘い果実を付けるのが特徴であるが、通常果物は花が咲き受粉が行われた後種子の周りを覆う果肉が肥大してそこが食用になるのであるが、イチジクの場合は通常花びらが付く花軸が肥大化し花嚢と呼ばれる組織を形成する。イチジクの花はこの花嚢に包まれ、内部で開花することになる。イチジクの果実を割ってみると中に無数のひだ状の部分があるが、ここが花弁、普通の植物でいう花びらの部分でありイチジクの可食部は実は花そのものなのである。花の部分が包まれて外部から見えなくなっており、イチジクが「無花果」と表されるのはこのためである。
 イチジクの野生種は実の内部に咲く花にイチジクコバチという小さな蜂が入り込み、蜜を得る代償として受粉を行い、繁殖を行う。一方多くの栽培品種は受粉を行わなくても果実が成熟する品種であり、挿し木や接ぎ木で増やすことが一般的である。
イチジクは実のほかにも樹液に薬効成分が含まれており、葉を煎じて飲むと寄生虫の駆虫効果があるとされており、漢方薬としての利用もある。

 イチジクの利用の歴史は古いが、日本にイチジクが入ってきたのは比較的新しく江戸時代に入ってからと言われている。しかし挿し木接ぎ木で容易に増やせることと味が好まれたため各地で栽培されている。現在日本はイチジクの生産では世界第14位の位置にある。日本ではイチジクは基本的に生食であるが、多くの国では果実を乾燥させた「乾燥イチジク」として出荷することが一般的である。

 ところで旧約聖書では「禁断の果実」を食べてしまったアダムとイブが羞恥心を持ち腰蓑を身につけたとされるが、その腰蓑はイチジクの葉から作られたとされている。大カトーもカルタゴ滅亡の本心をイチジクを使って婉曲に表現しており人間はなにか隠し事をする際、イチジクを利用してきたような感がある。それだけイチジクと人間の関わりが古いことを示す証拠なのかもしれない。
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# by narutyan9801 | 2013-10-21 15:37 | 妄想(生物) | Comments(0)

シガテラ ~捕食魚すべてが毒魚になるかもしれない毒~

 いわゆる「有毒生物」と言われる生物が「毒」を得る方法は大きく分けると二つの方法がある。一つは消化酵素などから自ら毒を作り出す方法である。毒グモや毒蛇と呼ばれる動物がこれに該当する。もう一つが他の生物が作り出す毒を利用する生物である。これには先日書いた「テトロドトキシン」を利用するフグ類やある種のアリから毒を得て利用しているといわれるヤドクガエルなどが該当する。この類の生物は他の生物の毒を食物連鎖の過程での「生物濃縮」によって取り込むことが多い。フグ類やヤドクガエルは毒を「積極的に利用するため」捕食者は警戒することになるが、自然界に存在する毒の中には生物濃縮により「捕食者がいつの間にか毒を蓄積し、食中毒を起こしてしまう」という種のものがある。今回は自然界での生物濃縮毒の一つ、「シガテラ」について考察したい。

 「シガテラ」とは熱帯地方に生息する植物プランクトンが生成する毒素である。特に渦鞭毛藻類の仲間が多く分泌するが、他のプランクトンの毒もあり一般的には複数の植物プランクトンの毒素が混じり合っているものである。「シガテラ」の語原はキューバに移住したスペイン人が現地で「シガ」と呼ばれていた貝を食べて食中毒を起こしたことから名付けられたという説がある。
 シガテラによる食中毒の特徴は食中毒の原因となる食べ物が特定できないところにある。海水中にある植物プランクトンは動物プランクトンに食べられ、その動物プランクトンを小魚が食べ…という属目連鎖の過程で捕食者に蓄積していくため海水中の捕食者であればシガテラの影響を受けている可能性がある。また植物プランクトンの生息密度は濃淡があるため、ある地点では無毒の魚が別の地点では有毒魚になっていることもあり、食中毒の原因を特定するのは非常に困難であった。中世から知られていたシガテラ中毒の原因が植物性プランクトンによるものであると分かったのは1970年代になってからである。

 シガテラ中毒を起こす原因物質は現在20種類以上が知られている。これらの物質が複合的に作用することになるが、主な作用は神経伝達の阻害である。中毒を起こした患者は消化器官の不調やめまい、頭痛などの神経症状、重篤な場合には血圧の異常降下、神経伝達の異常(特に冷たさに対する異常反応)などを起こす。ただ、現在までに日本で起こった中毒事件での死亡例は無いと思われる(熱帯地方では死亡例も報告されている)

 ただ今後、地球温暖化による海水温上昇の影響で日本での発生件数増加の可能性が高まっている。日本での発生は1980年代までは沖縄県での発生例しか知られていなかったが、1990年代には宮崎県、千葉県など黒潮が通る沿岸地域での発生が報告されている。シガテラの怖い点は発生する魚種が特定できない点である。千葉県の発生例では発生源となった魚はイシガキダイであった。イシガキダイは商業的な漁獲は少ないが磯釣りの人気魚でありなかなか旨い魚である。普段食中毒の発生源と考えられない魚が毒に犯されているという事は考えてみると恐ろしいことである。シガテラの簡易的な検査器具はすでに販売されているが、現状の対策としては漁協などで出す注意情報などを参考にするしかないと言える。
 毒を積極的に利用する生物は大抵派手な「警戒色」を持っているものである。まったく毒を感じさせないところに毒がある。シガテラとはそんな不気味な雰囲気を持った異質な毒である。

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 オニカマス。英名のバラクーダの方がよく知られている。ゲームフィッシュとして知られるこの魚は日本で唯一シガテラ中毒の危険性のため食用が禁止されている魚である。
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# by narutyan9801 | 2013-10-08 08:51 | 妄想(その他) | Comments(0)

テトロドトキシン ~フグの体内に潜む猛毒~

 幕末の侠客、新門辰五郎が死に臨んで残した辞世は「思いおく 鮪の刺身鰒汁 ふっくりぼぼにどぶろくの味」である。江戸っ子である辰五郎の好物は鰹ではなく鮪だったことにも興味を引かれるが、辰五郎は死に臨んでも「フグ」の味は忘れられなかったらしい。大好物というからにはそれなりの頻度で辰五郎はフグを食していたと思われる。
 日本人がフグを食し始めたのは縄文時代からと言われており、縄文人のゴミ捨て場だった貝塚からフグの骨が出土している。しかしフグの体には毒があり、多くの人々がフグの毒で命を落としてきた。その毒が解明されたのは数千年に及ぶフグ食の歴史から見れば最近、20世紀に入ってからである。今回はフグに含まれる猛毒「テトロドトキシン」を考察したい。

 テトロドトキシンの化学式はC11H17N3O8になる。テトロドトキシンは主に真正細菌が生成するアルカイロイドであり、フグにはこの毒を生成する能力はない。食物連鎖の過程で捕食者が被捕食者の体内に含まれる物質を蓄積してゆく「生物濃縮」により毒を持つものと考えられている。この毒はフグのほかにもイモリなどの両生類、スベスベマンジュウガニなどの甲殻類、ヒョウモンダコなどの軟体動物、魚類ではツムギハゼなどが持つことが知られている。これらの動物はテトロドトキシンに対して強い耐性を持つが、完全に無毒化することはできず、多量のテトロドトキシンを投与されると中毒症状を起こし死んでしまうことが分かっている。

 テトロドトキシンの研究は19世紀後半に東京帝国大学(現在の東大)で始まり、1909年に田原良純により単体分離に成功している。しかし田原の分離法では抽出率が低く、化学的に安定しない状態での分離であり、構造は判別できなかった。テトロドトキシンの構造が判別したのは約50年後、1970年になってからである。

 テトロドトキシンの毒性は細胞の伝達物質の働きを抑制することである。人間の細胞の表面には電位依存性ナトリウムチャンネルが存在し、これが神経からの電気的な信号を捉え体の各機能を制御しているのであるが、テトロドトキシンはこのナトリウムチャンネルの働きを抑制してしまうのである。このためテトロドトキシンを接種したものは麻痺を伴う様々な症状を起こすことになり、最終的には呼吸を司る神経も麻痺し、呼吸困難により死亡することになる。テトロドトキシンは細胞自体には影響を与えず、体内で少しずつ分解されるので呼吸を持続する事ができれば毒に当たっても助かる可能性はある。だが実際には呼吸が止まってから人工呼吸器に切り替えるタイミングは難しく(呼吸がある間に人工呼吸器をつけるのは気管に異物混入の拒否反応をされ取り付けることは出来ない)呼吸停止状態になった中毒患者の救命は現在の医療でも難しい部類に入るという。

 人間がテトロドトキシン中毒になるのは、ごく稀にヒョウモンダコに噛まれる事例をのぞけばほぼすべてがフグを食べてのことである。近年になってからも大相撲力士の沖ツ海福雄・福柳伊三郎、歌舞伎俳優の板東三津五郎がフグ中毒で亡くなっている。板東三津五郎の場合はフグ調理師免許を持った人物が調理したもの(三津五郎が特に毒性の高いフグの肝を数人前出すように強制したとも言われている)であるが、ほとんどの場合フグ食中毒は自分で調理したものや、免許の無い人が調理した者を食べて中毒を起こしている。資格を持った人物が捌けばフグは決して危険な食材ではないが、フグは高級料理でなかなか庶民では食べられずつい素人が料理してしまうというところにフグ食中毒の危険性がある。
 フグに含まれるテトロドトキシンはフグの腸内細菌が供給源ではないかとも言われ、完全に隔離し餌を調整して毒の含まないフグを育てても、天然フグと一緒に泳がせただけで毒を生成してしまうとの研究結果もありフグの無毒化にはまだ成功していない段階である。たとえ無毒化されたとしてもコスト面を考えると免許者が調理したフグに値段的に拮抗するかは微妙なところであろう。

 「フグは食いたし命は惜しし」という狂歌があるが、現在でも年間十数件の食中毒事件が起こり、数年間隔で犠牲者も出ている。そのほどんどすべてが無免許料理者による調理で起こっている現実を考えると前記の狂歌は決して昔のことではないと実感せざるを得ないのである。

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 テトロドトキシンを持つ動物、アカハライモリ。ただ毒の量はごく微量で仮にアカハライモリを食べて自殺しようとすると、約五キロのアカハライモリを食べなければならないという自殺に匹敵する苦行を体験せねばならない。
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# by narutyan9801 | 2013-10-06 20:44 | 妄想(その他) | Comments(0)

ノルマン人の北方開拓 ~コロンブスに先んじた冒険開拓者達~

 学校の歴史の授業ではヨーロッパ人のアメリカ大陸発見をコロンブスの航海によるものと教えているが、現在ではヨーロッパ人のアメリカ大陸発見はそれ以前に行われ、入植も行われていたことが分かっている。この入植は最終的には定着せず、入植地は人々から忘れられ消滅していった。今回はこの「ノルマン人のグリーンランド及び北アメリカ入植」を考察したい。

 ノルマン人によるグリーンランド入植が記録上に搭乗するのは西暦980年頃からである。入植したのは「赤毛のエイリーク」と呼ばれた男で、この男の物語である「赤毛のエイリークのサガ」によれば彼は殺人を犯し3年間の国外追放になった際現在のグリーンランドを冒険し、帰国後この地への入植を熱心に説いて回ったという。この際入植希望者を引きつけるためこの地を緑溢れる地「グリーンランド」と名付けたと言われている。
 現在グリーンランドは氷に覆われた極寒の地であるが、赤毛のエイリークの命名は決して膨張とはいえない。この時代は「中世の温暖期」と呼ばれる温暖な気候が続き、たとえば日本の記録では温暖化が顕著化した現在とほぼ同じ頃に「桜」の開花が始まったことが記録されている(この時代の「桜」は「ソメイヨシノ」ではなくエゾヤマザクラだったことを考えると現在よりも温暖だった可能性が高い)北極付近でも気温が上がりグリーンランドでも森林が広がっていた可能性が高い。エイリークの入植活動は成功し、グリーンランドでは最盛期に二カ所の入植地に8,000人が暮らす規模にまで発展する。

 グリーンランドの入植から数年後、さらに西に陸地があることが発見される。サガの記録によると985年、グリーンランド入植へ向かう船が嵐で航路を外れ、西に流された際に陸地を目撃したというのが最初の記録である。その目撃談を元にレイフ・エリクソンという男がその地の探索を行い、15年後にはヴィンランドと名付けられた地に小規模の開拓地を持ったという記録が残っている。さらに記録によるとこのほかに小石に覆われた「へッルランド」、森林が多い「マルクランド」という二つの地を発見したと記録されている。グリーンランドでは入手できない木材を産するマルクランドは重要な発見であった。

 しかしヴィンランドの入植地を含め、この新たに発見された地は恒久的な入植は行われなかった。原因の一つとして考えられるのは先住民との対立があったからだろうと思われる。「サガ」の記録にも「スクレリング」と呼ばれる先住民との闘争が記されており、先住民との争いが当初からあったことが推察できる。また憶測であるが、グリーンランドの入植地も結局は「交易地」に止まっていたことも関係してくるかもしれない。入植を行ったとはいえグリーンランドの気候は厳しく農作物は自給自足がやっとではなかったと思われ、重要物品はおそらく交易によって得られていたのではないかと思われる。時代が下って1261年にグリーンランドの住民はノルウェー王国の支配を比較的すんなりと受け入れたのは交易の安定した継続を望んだことが背景にあるかもしれない。新たな土地に無理に入植して負担を増やすよりも交易品となるもの(毛皮等)を入手するために新たな土地へ行き来すればいいと判断があったと思われる。それでも北アメリカ大陸とグリーンランドとの行き来は数百年続き、ノルウェー王国の硬貨やヨーロッパで製造された物品が後に北アメリカで発見されている。

 14世紀に入るとグリーンランドの入植地は衰退してゆく。「中世の温暖期」が終わり地球は小氷河期と呼ばれる低温時代を迎える。グリーンランド周辺は海が結氷する時期が長くなり海氷も増えたため航海に危険が伴うようになり交易は衰え、農作物の収穫も激減したと考えられている。寒冷化が入植地衰退の最大の原因であろうが、それに加えてヨーロッパでの商貿易の中心が地中海へ移りアフリカから大量に毛皮、象牙などが輸入されグリーンランドの物品の取引が衰退したことも一つ要因となったとも考えられる。
 グリーンランドに二つあった入植地の一つは1350年頃に放棄、1378年には入植地の司祭も居なくなり1408年に一件の婚姻があったことを最後にグリーンランドの入植地の記録は途絶えてしまう。1450年頃にはグリーンランドからヨーロッパ人は姿を消したと考えられている。

 しかしヨーロッパではグリーンランドの記録は忘れられた訳ではなかった。連絡が途絶えて約300年後、ノルウェー王国はグリーンランドへ探検隊を派遣する。この探検隊の主な目的は中世の「カトリック」がグリーンランドに残っているかどうかの調査であったことは興味深い。探検隊が発見したのは廃墟と化し、氷に埋もれた入植地の跡であった。さらに1960年代にニューファンドランド島で開拓地が発見され、ノルマン人がアメリカ大陸周辺に到達したことが確実視されるようになった。この地はサガの記録に登場する「ヴィンランド」と推定されている。残る「ヘッルランド」はバフィン島、「マルクランド」はカナダのラブラドール地方と推定されているが、その証拠となる遺跡はまだ見つかっていない。

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 グリーンランドに入植を行った「赤毛のエイリーグ」後年に書かれた想像の肖像画で生前の彼の風貌を描いた絵画は見つかっていない。
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# by narutyan9801 | 2013-09-27 15:27 | 妄想(歴史) | Comments(0)

アンカラの戦い ~イスラム圏の覇者を賭けた巨大帝国同士の死闘~

 国同士の「戦争」の勝敗のつき方には色々とあるが、もっとも端的な勝敗のつき方はその国の組織・権力を戦闘で破壊することであろう。その国が専制君主制をとっていればその専制君主を戦死させるか、捕らえるかすることである。今回はイスラムの強国の君主が合間見え、一方が捕虜になった「アンカラの戦い」を考察したい。

 アンカラの戦いは1402年7月20日、現在のトルコ共和国の首都アンカラ近郊でオスマン帝国とティムール帝国との間で行われた戦闘である。戦闘の規模は当時最大級といわれ、双方併せて30万人を越える人員が投入されている(号数だと100万人を越える)。戦闘の規模もさることながら、双方の君主が直接戦闘を指揮し、一方の君主が捕虜になるという決着の仕方でも注目される戦いである。

 オスマン帝国は1299年、オスマン・ベイが建国して以来小アジアで勢力を拡大してきたが、三代目君主のムラトⅠ世は東ローマ帝国の重要都市だったアドリアノープルを奪いヨーロッパ方面でも勢力を拡大してゆく、ムラトⅠ世はセルビア王国をコソヴォの戦いで破った直後暗殺されるが、嫡男であったバヤズィトⅠ世が戦場で即位しその指揮の元で数度に渡るコンスタンティノプール包囲を行うなどバルカン半島の多くをその領土としていた。

 一方のティムール帝国は1370年に成立したといわれている。建国したティムールは元々サマルカンド周辺の強盗集団の頭目であったが次第に頭角を現し、一代にして大帝国を築き上げた傑物であった。

 当初両帝国の間には直接的な接点はなかったが、お互いの領土拡張の結果領土が接するようになる。最初に接触を行ったのはティムール側で国境を設定しようという提案がなされたが、バヤズィトは提案に関心を示さなかった。さらにバヤズィトが滅ぼした小アジアの小君主がティムールを、ティムールの滅ぼした黒羊朝のカラ・ユーフスがバヤズィトをそれぞれ頼るようになり、両者の対立は深まっていったのである。

 1400年ティムールは西方遠征を決意し、オスマン領に攻め込みスィヴァスを占領するが、エジプトのマムルーク朝討伐を優先しエジプトに向かったため両者の激突は一時回避される。二年後再びオスマン領に侵入したティムールはバヤズィトに臣従を進める書簡を送るが、バヤズィトはそれを拒絶、両軍はアンカラの地で激突することになる。

 戦力はティムール軍20万、オスマン軍12万と言われておりティムール側がが戦力的には優勢だった。さらにオスマン軍はコンスタンティノプール包囲から急遽駆けつけたため疲労した状態で戦いは始まる。開戦後オスマン軍に加わっていた征服間もない部隊が寝返りを起こすがオスマン軍は奮戦し昼間に始まった戦いは夜半になるまで続いた。しかし結局はオスマン軍が敗走、退却しようとしたバヤズィトは落馬し(通風を患っていたと言われる)ティムール軍の捕虜になってしまう。

 戦闘ではティムールを・バヤズィト双方ともひけを取らない采配を見せたが、人心掌握術ではどうやらティムールの方が上手だったようである。バヤズィトは勇猛であるが、意固地になることもあったという。また彼はムスリムでありながらワインを愛飲していたと言われている。ワインはヨーロッパ遠征をしているうちに味を覚えたらしいが、イスラム教の戒律では飲酒は禁忌でありアンカラの戦いではムスリム教徒の裏切りの一因になった可能性は否定できない。一方のティムールもムスリムであるが、状況によってスンニ派になったりシーア派になったりと状況に応じた立場をとっている。建国初期の段階ではモンゴル帝国の血筋にあたるものを擁立するなど抜け目のない振る舞いをしており両君主の人柄が戦闘に与えた影響は無視できないのではなかろうか。ちなみにティムールも飲酒はしていたと言われている。

 バヤズィトは捕虜となった当初は丁重に扱われていたが、脱走を計って失敗した後、厳しい監視下に置かれるようになる。サマルカンドに護送される際には格子のついた籠に入れられ、馬に引かせて護送されている。こうした扱いが元なのか、アンカラの敗戦から8ヶ月後、バヤズィトⅠ世は死亡する。死因には病死説(前述の通風など)のほかに指輪に仕込んでいた毒薬を飲んでの自殺説もある。彼の死後オスマン帝国は彼の息子たちがそれぞれ君主を名乗り分裂、内乱状態に陥ってしまう。

 一方のティムールはアンカラの戦いの2年後、東方の大国明への遠征を決意しサマルカンドを発つが、遠征中に発病する。400キロの道のりを一ヶ月以上かけてオトラルに到着しここで遠征に参加する将兵へ労いの宴会を開くが、この宴会の後症状が悪化しそのまま帰らぬ人となってしまう。生涯の多くを戦場で過ごしたティムールにとってアンカラの戦いは最後の勝利となったのである。

 ティムール・バヤズィト両者の死後、分裂したオスマン帝国はバヤズィトの息子メフメットⅠ世が再統一し、やがてヨーロッパ諸国を震撼させる大帝国に成長する。それに対しティムール帝国はティムールの死後徐々に領土が縮小してゆき約一世紀後に滅亡する。一代の英雄という点ではティムールが勝っていたが、国の組織・機構という点では破れたオスマン帝国側が反省を踏まえて再構築し、それが長期の繁栄に繋がったというべきであろう。

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 アンカラの戦いで敗れ、捕虜となりほどなく病死したバヤズィトⅠ世。肖像画には描かれていないが、彼は隻眼、もしくは片目が極端に小さい「藪睨み」だったという。
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# by narutyan9801 | 2013-09-26 17:45 | 妄想(軍事) | Comments(0)