鼈の独り言(妄想編)

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景浦將 ~『初代』ミスタータイガース、フィリピンより帰還せず~

 今年完結した水島新司の野球漫画「あぶさん」あぶさんの主人公景浦安武は「景浦」という比較的珍しい姓である。景浦安武は実在の野球選手のモデルが複数存在すると言われているが、大きな影響を受けたモデルの姓を名乗ったと思われる。今回はあぶさんのモデルの一人となった「景浦將」を考察したい。

 景浦將は1915年(大正四年)愛媛県松山市で生まれている。松山は野球に縁の深い正岡子規の故郷で野球が盛んな地域であるが、少年時代の景浦は体格が小さく剣道に打ち込んでいた。松山商業学校(現在の松山商業高等学校)に入学後も剣道部に所属していたが景浦が三年の時に野球部員の数が不足する事態となり景浦は野球部にスカウトされる。野球部に編入してすぐに景浦は才能を認められレギュラーに抜擢、甲子園大会に四回出場してすべてベスト8以上、優勝1回、準優勝1回という成績を収めるのである。

 松山商業学校卒業後景浦は立教大学に進学し野球部の中心メンバーとして活躍する。1936年景浦は立教大学を中退、大阪タイガース(現在の阪神タイガース)に入団するのである。この年は日本プロ野球設立初年でありチームとしての順位は決めず短期間のリーグ戦やトーナメント方式の試合を行うなど変則的なシーズンであったが景浦は持ち前の長打力だけではなく投手としても活躍している。このシーズンの個人成績を見ると投手としての景浦の成績は際立っていて最高勝率と防御率の二冠を達成している。特に最多勝率は6勝0敗で勝率10割でありこの記録は1リーグ時代の1937年に御園生崇男、2リーグ制になってからは1981年の間柴茂有、2013年の田中将大の4人しか達成していない大記録である。

 翌年から景浦は打者中心の出場となり38年の二年間で首位打者1回、打点王二回を記録している(但し当時は年複数シーズン制)1937,38年は大阪タイガースが日本一を連覇しており景浦の存在が阪神連覇の原動力になったことは疑いようがない。また日本プロ野球史上最優秀防御率と首位打者の双方を記録した選手は景浦しかおらず、おそらく今後も現れないだろう。同じ頃ライバルチームのジャイアンツには大投手沢村栄治が在籍しており、ライバルの対決にファンは熱狂したといわれている。

 その一方で景浦は性格にムラがあり気分が悪いと平凡なフライも取りにゆかなかったという証言もある。球団と給料のことで確執があったとも言われているが、そういった「やんちゃ」な面もファンには魅力に映ったのだろう。実際の景浦は細やかな気配りのできる人物であり、指導者として期待していた識者もいたと言われている。そうした景浦の「指導者」としての可能性を奪ってしまったのはやはり「戦争」であった。

 1940年景浦に一度目の召集がかかり景浦は出征する。1943年に兵役を終えタイガースに復帰した景浦であったが、その体は消耗しきっていた。沢村栄治と同じく重い手榴弾の過度の投擲により肩は壊れ、身体の柔軟さは失われていた。持ち前の長打力は健在であったが守備力は落ち、負担の少ないファーストにコンバートされるが同じく戦地帰りの藤村冨美夫が守るセカンドとの間を狙えとのヤジが飛んだと言われている。1943年のシーズン終了後に景浦は引退を表明、家業を継ぐためという理由からであるが自らの身体を考慮した結果かもしれない。

 1944年景浦に二度目の召集がかかる。景浦の所属した部隊は当初は満州にあったが戦局の推移によりフィリピンに移動、その地で景浦は戦死したとなっている。しかし戦死の公報と実際の部隊の所在地が違っており最後の状況は分かっていない。景浦の最後の消息はマラリアで衰えた体を引きずるようにしながら食糧調達に出かけ、戻らなかったと伝えられている。公報と共に届けられた骨壺にはお骨は入っておらず、石ころが3つ転がっていただけだった。

 1965年景浦の功績を称え野球殿堂入りが発表される。初代「ミスタータイガース」の称号は「代打ワシ」の藤村冨美夫というのが一般的であるが景浦將とする意見もある。そして管理者もこの意見に賛成なのである。

あぶさん 107 (ビッグコミックス)

水島 新司/小学館

戦場に散った野球人たち

早坂 隆/文藝春秋




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# by narutyan9801 | 2014-09-24 00:34 | 妄想(人物) | Comments(0)

沢村栄治 ~南海に消えた不世出の大投手~

 この項を書いているのは九月下旬、そろそろプロ野球のペナントレースの結果も見えてきて興味は個人タイトルの結果に移ってきている。そして実際にはタイトルとは関係がないが「沢村賞」を誰が取るか(はたまた該当者なしになるか)も大きな関心事である。今回は「沢村賞」の由来となった沢村栄治を考察したい。

 沢村栄治は1917年(大正六年)三重県で生まれている。京都商業学校(現在の京都学園高等学校)在籍中に全国中等学校野球大会(現在の甲子園大会)に出場し活躍を見せる。沢村は京都商業学校卒業後慶應義塾大学への進学の話がほぼまとまっていたが日本プロ野球の設立を計画していた読売新聞社が獲得に動き沢村は京都商業学校を中退、1934年(昭和九年)にメジャーリーグ選抜選手を招いて開催された日米野球では五試合に先発登板する。浜松で行われた試合ではルー・ゲーリックのホームランによる失点1に抑える好投を見せるが、それ以外の4試合では撃ち込まれてしまっている。ともあれ日米野球の開催により日本でも職業野球チーム結成の機運が高まり12月には「大日本東京野球倶楽部(のちの読売ジャイアンツ)」が結成され、沢村は主力投手として所属することになる。

 職業野球チームは結成されたものの日本にはプロ野球経営のノウハウもなく、さらなる問題として対戦チームが存在しなかった。そこで東京巨人軍はアメリカへ武者修行の遠征を行う。沢村は主力投手として活躍、そのピッチングに注目があつまりサインをせがまれるようになる。遠征も終盤に差し掛かったある日、試合前の練習中外野席から場内に飛び降りてサインをせがんだ男に沢村は何気なしにサインをしてしまう。ところが試合後その男が巨人軍のベンチにやってきて沢村のサイン入りの書類を見せ「沢村はいつ引き渡してもらえるのか?」と詰め寄ってきたのである。けっきょくこの椿事は巨人軍はアメリカの野球団体に加入していないのでサインは無効ということで決着したが、それ以降沢村はこの種の事件に巻き込まれないため(この事件は新聞に掲載され話題となっていた)サインには当時の有名女優の名前「田中絹代」を漢字は分からないだろうということで書いていたという。また酔っ払いに絡まれてサインをした際には「馬鹿野郎」とサインしたという話もある。

 翌年から開催された日本プロ野球リーグで沢村はジャイアンツのエースとして君臨、1937年までの4期(当時は年二リーグ制)で47勝、二度のノーヒットノーランを記録し日本プロ野球の絶対的エースとなるのである。

 しかし沢村にも戦争の影が忍び寄る。1938年に沢村は陸軍に徴兵される。プロ野球選手として鍛えられた肩は模擬の手榴弾を投げさせると演習場敷地の柵を越えて飛んでいったという伝説が伝わるがそれは投手生命である肩を酷使させざるを得ない状況に立たされるということであった。当時の日本軍には砲兵の火器支援が少なく、敵の防御抵抗線に対するもっとも有効な攻撃手段は手榴弾の投擲であった。より遠くに手榴弾を投げ込める人間が居れば投擲は任せたほうが部隊全体の安全に繋がるだろう。しかし当時の九七式手榴弾の重量は455g、硬式ボールの重量は約148g。三倍近い重量の手榴弾を投げ続ければ肩が壊れてしまうことは明白である。さらに沢村は徐州会戦で左腕を負傷、さらにマラリアに感染するなど満身創痍となってしまう。兵役満了で除隊した沢村はもう全力で投げられない状態であった。

 それでも沢村は投球ホームをオーバースローからサイドスローへ変化させ、コントロールを重視する技巧派のピッチャーとしてマウンドに帰ってきた。復帰後の1940年の勝率は0.875でこれは沢村のリーグ勝率としては最高の値である。さらに三度目のノーヒットノーランも達成している。

 しかし1941年に沢村は二度目の徴兵をうけ出征、フィリピン攻略戦に参加する。満期で除隊しジャイアンツに復帰するが、すでにピッチングが不可能なほど体は擦り減ってしまっていた。サイドスローからアンダースローへ再度フォームを変更するが制球は定まらず出場は試合途中の代打出場が主なものになる。沢村の現役最後の出場は1943年(昭和18年)10月24日の阪神戦の代打出場であった。

 戦局の悪化にも関わらず日本プロ野球は1944年(昭和十九年)も開催されることになったが、そのシーズン前に沢村は巨人から解雇される。本人は移籍も考えたが周囲の「巨人で終わるべきだ」の説得に現役を引退することを決意したといわれている。この時沢村27歳、戦争に削り取られてしまった選手生命と言えるだろう。

 現役を引退した沢村に三度目の召集令状が届いたのは昭和十九年十月のことである。第十六師団に配属された沢村はフィリピンに向かうがその途中で乗船した輸送船が12月2日に潜水艦に撃沈され戦死したとされる。享年27歳。
 沢村の死ははっきりしないところがある。沢村の所属は第十六師団であるがすでに師団はフィリピンに上陸しており沢村は充当で師団を追ったものであると推察される。12月2日にフィリピン近海で撃沈された輸送船は安芸川丸とはわい丸があるがそのどちらに沢村が乗っていたのかは分かっていない。日本野球史上に名を遺した大投手が最後を迎えた輸送船は特定できないのである。

 戦後、戦死した沢村の功績を称えジャイアンツは沢村の背番号「14」を永久欠番とする。これが日本プロ野球最初の永久欠番である。同年野球雑誌が私的に制定した「沢村賞(沢村栄治賞)」が現在も戦争に散った大投手の名を現在にも伝えているのである。

終戦のラストゲーム―戦時下のプロ野球を追って

広畑 成志/本の泉社



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# by narutyan9801 | 2014-09-23 00:39 | 妄想(人物) | Comments(0)

糸瓜忌の翌日に ~ロンドンでの明治期日本人二つの別れ その2~

 昨日、子規と漱石の話が長くなって書けなかったもう一つの「別れ」
 
 子規の死の一か月前の明治三十五年八月、テムズ川河口に停泊する貨物船「若狭丸」で二人の日本人が対面を果たしている。一人は病を得て日本に帰国する作曲家瀧廉太郎、もう一人はイギリス留学中の詩人土井晩翠であった。二人にとって生涯最後の対面となった情景を綴ってみたい。


 瀧廉太郎は明治十二年東京で生まれている。父が内務省の地方官で転勤が多く、瀧も転校を繰り返す学生生活を送ることになる。この幼き日に各地の様々な抒情風景を感じたことはのちの作曲に大きな影響を与えたのかもしれない。15歳で東京音楽学校に入学した瀧は才能を認められ将来を嘱望される存在となる。

 一方の土井晩翠は明治四年の生まれで滝より八歳年上になる。晩翠の生家は質屋であったが父親は趣味で俳諧、和歌などを嗜み中国の歴史書も愛読していた。父の影響で晩翠も文学に興味を持つが家業を継ぐ立場から進学は諦め、今でいう英語の通信教育を受けていた。この成績が優秀だったため学業を許され現在の東北大学に入学し外国語を学ぶ。一方で文学の道でも詩集を発表するなど多方面で活動する文化人となってゆくのである。


 明治時代前半の日本は様々な外国文化を取り入れ、定着させることに躍起になっていた時代である。もちろん音楽もその一つであった。しかし外国の歌詞を日本語に訳し、それを原曲にはめ込んだ唱歌は歌いづらく馴染めないものであった。学校の音楽の唱歌としてふさわしい曲を作るべく当時の文部省はまず詩の作詞を土井晩翠に依頼、明治三十一年に「荒城月」が完成する。文部省は「荒城月」の作曲の公募を行い、滝廉太郎の作戦が選ばれることになる。こうして初の日本人による作詞、作曲の唱歌が旧制中学の「中学唱歌集」に収められたのである。「荒城の月」は現在で言うところの「詩先」で作られた曲だった。また「荒城の月」のイメージとして晩翠は故郷の仙台にある青葉城、または戊辰戦争で攻城戦を受けた会津の若松城、さらに青森県の九戸城をイメージしたと言われているが、滝のほうは幼い日に見た大分県竹田市の岡城、または富山県富山市の富山城をイメージしたと言われている。両者全く違う城をイメージしたのであるが、情景として荒城に浮かぶ月が容易に連想できる一体感がこの曲にはある。

 土井晩翠の妻は東京音楽大学出身であり瀧廉太郎の後輩にあたるのだが、「荒城の月」の完成まではお互いに意識したことは無かったようである。そして「荒城の月」の完成後も多忙な二人が出会う機会は訪れなかったが、手紙のやり取り等連絡を取り合っていたと思われる。程なく瀧廉太郎は留学生としてドイツに留学する。しかし瀧は到着わずか二カ月で肺結核を病み、静養につとめるが病状は悪化、無念の帰国を余儀なくされる。その帰国の途上で「荒城の月」の作詞者、作曲者は初めて顔を合わせることになったのである。対面は滝の病気もあり短時間で終わったようであり、また一対一の対面ではなく二人(もう一人は宗教学者の姉崎正治)で見舞いにいったと晩年の晩翠は語っている。



 帰国した瀧廉太郎は父の故郷で静養するが病状は悪化してゆき晩翠との対面から10か月後の明治三十六年六月二十九日に死去する。享年二十三歳、死の直前に作曲した「憾」(うらみ)が遺作となる。「憾」は「恨み」の意味とは違い「心残り」や「未練」といった意味であり若くして死んでゆく自分の心情を込めた題目だったのだろう。

 一方の土井晩翠は太平洋戦争後まで長命するが晩年は家族に先立たれ空襲で家も焼かれてしまい蔵書を焼失するなど苦労も多かった。昭和27年に青葉城址に「荒城の月」の詩碑が建立され、その落成式に出席するがその後体調を崩し二か月後に死去している。晩翠にとっても「荒城の月」はかけがえのない作品だったのだろう。

荒城の月―土井晩翠と滝廉太郎

山田 野理夫/恒文社

嗚呼!瀧廉太郎―知られざるその家族とふる里

財津 定行/日本文学館



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# by narutyan9801 | 2014-09-21 02:41 | 妄想(人物) | Comments(0)

糸瓜忌の日に ~ロンドンでの明治期日本人二つの別れ その1~

 本日九月十九日は「糸瓜忌」正岡子規の命日である。明治三十五年九月十九日没、享年36歳。病魔に苦しめられながらも「俳句」という文化、それだけに留まらない日本の近代文学に大きな足跡を残した人物として知られている。

 他方今日はイギリス(大ブリテンおよび北アイルランド連合王国)からのスコットランド独立の是非を問う住民投票が行われ、スコットランドの独立は否決されている。連合王国からのスコットランドの「別れ」は今回は否決されたが、正岡子規の死の前後イギリスでは印象に残る日本人の二つの別れがあった。今回はその「別れ」を記してみたい。

 正岡子規の交友関係は司馬遼太郎著「坂の上の雲」前半で描かれた日本海軍将校の秋山真之との関係が有名であり二人は子規の死まで交流があったことは事実である。しかし両人の成人後その交流はお互いの「立場」を配慮しなければいけない間柄になる。秋山真之は日本海軍の参謀として作戦を統括する立場になり、子規も「ホトトギス」主宰としての立場がある。会えばまずお互いの近況報告からになり心情を語り合うゆとりは無かったような気配がある。「真さん」「升さん」という交流は成人後はできなかったのではないだろうか。子規には他にも学生時代多くの友人がいたがそれらの人々も多くは自分の「立場」を持ち心情を吐露できるような人物はほとんどいなかったと思える。そんな中唯一子規が心情を吐露できたであろう人物が「夏目漱石」であった。

 子規と漱石は東京大学予備門からの付き合いでいわゆる「幼馴染」ではない。しかし幼馴染の付き合いはお互いの家庭状況の影響を受けるのに対し家庭から離れた「学生」同士の付き合いはこの弊害を受けずに生涯の友となれることも多い。そして子規と漱石は「ウマが合う」友だったようである。
 学生時代ほとんど学校に出ることが無かった子規は生真面目にノートを取っていた漱石に度々ノートを借りて試験だけは合格していた。ノートを貸しに来た漱石に子規は寄宿舎の食事を出していたがいつもおかずが鮭だけだったので文句を言うと次の機会に子規は西洋料理の店に漱石を連れてゆき大盤振る舞いを行っている。これ以外にも何度か漱石に食事を奢っていて漱石は子規は相当金持ちの家の息子だと勘違いしていたらしい。
 しかし漱石が松山中学に赴任していたころ、日清戦争従軍後肺結核が悪化して故郷松山に戻ってきた子規が漱石の下宿先に勝手に上がり込み、勝手に出前を取っては勘定を漱石に払ってもらっている。挙句には東京に帰る旅費も漱石に工面してもらい、その旅費も奈良で使い果たし(柿食えばの句を作った所である)漱石に残りの旅費を送ってもらっているのである。漱石の性格を見透かしていたという子規の一人勝ちといったところだが、それだけに自分のわがままを受け入れてくれる漱石に強い友情を抱いていただろう。

 子規と漱石の手紙のやり取りは百通を超えていると言われている。子規の漱石へ宛てた最後の手紙は日付が明治三十四年十一月六日となっている。この手紙で子規は「僕が君に会うことはもう無いだろう」と死期の近いことを伝え「生きているのが苦しいのだ」と病の苦痛を隠すことなく漱石に伝えている。それでありながら「僕の目の明るいうち(現代風に言うなら「目の黒いうちに」となるか)もう一通よこしてくれぬか」と漱石からの手紙を心待ちにしている心境も吐露している。漱石は以前の手紙に留学先のロンドンの情景を面白おかしく子規に書き綴っており、病床の子規楽しませていた。すでに床を離れることなどできない子規に外国の情景を書き綴ることは通常は憚れることだろうが、それを敢えて書き綴った漱石に子規が伝えたかった感謝の表現かもしれない。

 考えてみると晩年の子規は「対等の友人」というものがほとんど居なかったように思う。献身的に看護してくれる家族、門人はいたのであるが、看護してくれる人に近い将来間違いなく訪れるであろう「自らの死」を語るわけにはいかない。家族には病の痛さで泣き叫ぶ姿を晒せても「自らの死」は語れないだろう。「立場」を持っている友人では心中を吐露しても「立場」というフィルターを通した答えが帰ってくる。子規にとって漱石とは「立場」の無い得難い無二の親友であった。そういう感じがするのである。

 いや~。あんまりに子規と漱石の話面白くてもう一つの「別れ」書けなくなっちゃったなぁ。
 書けるんだったら明日もう一つのほう書きましょうかね。

漱石・子規往復書簡集 (岩波文庫)

和田 茂樹(編集)/岩波書店

ノボさん 小説 正岡子規と夏目漱石

伊集院 静/講談社

正岡子規

夏目 漱石/null





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# by narutyan9801 | 2014-09-20 01:24 | 妄想(人物) | Comments(0)

人体自然発火事件 ~人が灰になる事件の意外な要因~

 「北斗の拳」を知っている方なら「炎のシュレン」の名を覚えている人も多いだろう。いきなり涙を流しながら登場し拳王ラオウに挑むも攻撃は全く通じず逆に片手片足を折られ、最後に己が身を炎に包んでラオウを焼き尽くそうとするも頸椎をねじ切られて絶命する姿には何か忘れられないインパクトがあった。この炎のシュレンの技は作中では語られなかったが両手から炎を発し相手に打撃と共に火傷を負わせるというものであった。人間の体から炎を発するのは物理上は不可能なことなのだが、不思議なことに人体から自然発火したかのような事件が何件か起こっている。今回はこの「人体自然発火事件」を考察したい。

 成人の人間の体は約70%が水分でできており通常は炎にかざしたりしても燃え上がることはない。しかし「人体自然発火事件」では人体が自然に燃え上がったような状態で発見され、通常の火災では残る骨までも灰になって発見されることがほとんどである。さらに人体を完全に灰にするまで燃焼させたにもかかわらず人体の四肢の先端が完全な形で残ったり、延焼した部分が燃焼した人物の周辺だけに留まるなど通常人体を燃やした状況に収まらないことが多い。たとえば第二次大戦末期に自殺したアドルフ・ヒトラーの遺体は焼却し灰にするよう遺言されガソリン150リットルが用意されたのだがそれでも遺体を完全に灰にはできずに燃え残った遺体はソ連軍に回収されたとされている。人体を灰にするには相当な火力が必要であるにも関わらず、燃焼範囲が極めて狭い範囲に留まることがこの事件を不可解なものにしていたのである。

 具体的な人体自然発火事件を上げてみると
 ・ベントレー事件
 1965年12月5日に発生。当時92歳のジョン・ベントレーが焼死体で発見される。ベントレーは片足だけを残し(頭蓋骨なども残っていたと言われる)完全に灰となっていた。発見場所はバスルームで火の気は無く、彼の身体の周囲以外に燃えた形跡はなかった。

 ・メアリー・リーサー(リーザー)事件
 1951年7月1日に発生。当時67歳のメアリー・リーサーが焼死体で発見される。遺体は燃焼し萎縮した頭蓋骨といくつかの骨片を残して灰となったものの、彼女の周囲以外には延焼しなかった。

 この他にもいくつかの事件が発生しているが、その多くに共通することは
  ・犠牲者は比較的高齢で一人暮らしの場合が多い、
  ・遺体は高温で燃焼したように灰化しているが、遺体の周辺以外には延焼していない。
  ・犠牲者の体型は肥満体が多い。

 などが上げられる。発火の要因としてはタバコの不始末などの失火が考えられるが人体を灰化させるほどの熱を発生させる原因とは考えにくく、そのため原因として人体内部に含まれるリンが発火したという説、プラズマの発生による燃焼説、などが考えられてきたが具体性には欠けていた。ところが近年新たな説「人体ロウソク燃焼説」が浮かんできたのである。

 後漢を実質的に滅ぼした人物、董卓が誅殺後その亡骸のへそにロウソクの灯心を置いて灯したところ数日間燃えたという伝承がある。人体が熱に晒されると体内の脂肪が分解され液化する。通常この状態では燃えることは無いのだが灯心状のものがあると液化した脂肪分は毛細管現象により吸い上げられ、結果濾過された液化脂肪分は燃焼を続けることができるのである。燃焼自体は弱いものであり近くに可燃物が無い場合延焼が起こることは無いと考えられる。
 燃焼が弱いのであれば骨まで灰化することは不可能と当時は思われていたが、実際には比較的低温の炎に長時間晒されたほうが骨の灰化は進むという実験結果が示されている。さらに犠牲者の多くが高齢だったことも不可解な事件発生の一つの要因であったと思われる。人体の含水率は年齢を重ねると低くなり成人では70%だった含水率も高齢者になると50%程度まで落ちてくる。さらに骨密度の低下も人体灰化を促進させる要因と考えられるのである。また「人体ロウソク燃焼説」により衣服を被っていない四肢の先端が燃え残っているという謎も説明できるのである。
 
 「人体ロウソク燃焼説」によりいくつかの事件は推察が可能になっている。上記の事件例の二人の犠牲者は愛煙家であり度々タバコの灰を衣服に落としていたことが目撃されている。ジョン・ベントレーの場合はおそらくタバコの火が衣服(ローブ)に引火した後、バスルームへ消火に行きバスタブへ火のついたローブを投げ込んだ時点で力尽き、その遺体は消火できなかった火によって焼き付くされたのだと思われる。メアリー・リーサーは睡眠薬を服用しておりおそらく寝タバコが原因で衣服に引火、ロウソク現象により身体のほとんどが燃えてしまったものであろう。現在の鑑識能力からするとこれらの事件は「特異な失火による事故」で済まされてしまうかもしれない。
 しかし近年映像の保存技術が進歩し、様々な映像が残されるようになると人体発火の瞬間などをとらえた映像もネット上に上がるようになってきている。トリック映像であるものも少なくないと思われるが、もしかしたら人体には自然に発火するような謎めいた力を秘めているのかもしれない。


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 ベントレー事件の状況写真、燃え残ったジョン・ベントレーの片足と焼け落ちたバスルームの床。穴の上部に残っているフレーム状のものはベントレーが使っていた歩行補助器具である

謎 戦慄の人体発火現象―世界各国で事件続発 (サラ・ブックス)

ラリー アーノルド/二見書房

謎解き超常現象DX

ASIOS/彩図社

超怪奇現象の謎 (ほんとうにあった! ? 世界の超ミステリー)

並木伸一郎(監修)/ポプラ社




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# by narutyan9801 | 2014-09-03 01:00 | 妄想(オカルト) | Comments(0)

軽空母龍鳳 ~時機を逸した大鯨からの改装~

 1922年に締結したワシントン海軍軍縮条約により列強各国海軍は保有する主力艦艇に制限を設け、さらに1930年のロンドン海軍軍縮条約の締結によりそれまで保有に制限のなかった排水量一万トン以下の空母にも制限が設けられることになった。この事態に日本海軍は平時は別の艦種として保有し有事に短期間で軽空母に改装することができる艦艇の整備をすすめることになる。今回は改装軽空母でも数奇な運命を辿った軽空母「龍鳳」を考察したい。

 ロンドン海軍軍縮条約では「一万トン以下の補助艦艇」には制限を設けていなかった。日本海軍はこの補助艦艇のうち、空母に性質が似ている「潜水母艦」と「給油艦」に目をつける。双方とも他艦艇へ補給を行うためのタンクを所有することを前提として建造でき、補給資材のため広い収納スペースを設けることも可能である。この施設は有事に空母に改装する場合そのまま飛行機用燃料タンクや格納庫として利用することが可能であった。このため日本海軍はロンドン海軍軍縮条約に対応した艦艇の建艦計画「①計画」に潜水母艦一隻の建造を計画する。この艦は一度は閣議で建造が見送られるが、緊急性が高い艦艇として昭和八年度の建造計画に追加承認され、建造が決定する。この艦がのちの潜水母艦「大鯨」である。

 実のところこの時期の日本海軍では潜水母艦の整備も急務であった。日本海軍は大正12年に竣工した迅鯨、長鯨の二隻の潜水母艦を所有していたが潜水艦の急速な発達に潜水母艦の能力が追随できず、新規の潜水母艦の速やかな整備も望まれていたのである。このため「大鯨」は一刻も早い竣工、活躍が期待されていた。それを実現するために「大鯨」は新機軸の建造や装備が計画されていたのである。

 従来軍艦の建造では船体の接合には「リベット」が用いられていた。それに対し「大鯨」では船体の接合に全面的に電気溶接が採用されたのである。この試みは世界初と言われている。電気溶接の恩恵により大鯨は起工からわずか7か月で進水までこぎつけている。もっともこの短期間の進水は年度末までに終わらせなければいけなかったことや、進水式の日程が昭和天皇に伝えられていたため半ば強引に挙行されたというのが本当のところらしい。

 大鯨の機関は大型艦としては初のディーゼル機関が採用され、昭和9年3月31日に竣工している。起工からわずか11ヶ月強での竣工であったが、大鯨はそのまま予備艦となり追加工事や整備が行われる。問題となったのはディーゼル機関で異常煤煙や出力不足が問題となった。結局出力は計画の半分ほどしか出せない状態となってしまう。

 どうにか運用可能となった大鯨は翌昭和10年に臨時編成された第四艦隊に編入され三陸沖で行われる演習に参加することになるが演習地点に向かう途中に台風に遭遇、いわゆる第四艦隊事件に巻き込まれることになる。大鯨は防水扉が破壊され浸水、電気系統が故障したため人力での操舵を余儀なくされる。さらに横須賀入港後の調査で船体の電気接合部分に亀裂が生じていることが判明し、船体の強度不足が露呈することになる。この修理と強度不足の補強の末、ようやく潜水母艦の実務に付けたのはそれから三年後の昭和13年9月になってからであった。

 艦隊編入後の大鯨は日華事変に隷下の潜水艦と共に参加する。根拠地から遠く離れた潜水艦の長期の活動には潜水母艦の活躍が不可欠であり新型の潜水母艦は潜水艦部隊からは歓迎された。そして昭和16年に大鯨は日本から遠く離れたクェゼリン環礁に進出する。真珠湾攻撃を計画していた日本海軍はハワイに潜水艦を派遣し米海軍艦艇の監視、攻撃を模索しており、その根拠地にクェゼリン環礁が選ばれたためである。11月に隷下の潜水艦を送り出した大鯨はクェゼリン環礁を出港、空母への改装のため日本に向かうことになる。

 大鯨は1941年12月20日より横須賀海軍工廠で空母への改装に着手する。計画では3か月で空母への改装が完了するはずであったが、大鯨はディーゼル機関の不調から機関を陽炎型駆逐艦に用いられたタービン機関へ換装することになり工期は大幅な延長を強いられていた。さらに新たな不幸が大鯨を見舞うことになる。

 1942年4月18日、米空母ホーネットを発艦したアメリカ陸軍爆撃機B25が日本各地を爆撃する、いわゆる「ドゥーリトル空襲」が決行される。この爆撃に13番機として参加したマックエロイ中尉機が午後一時頃横須賀上空で爆弾を投下、その爆弾が改装中だった大鯨に命中するのである。参加したB25は装備していた高性能のノルデン照準器を防諜(不時着して日本軍に回収されるのを防ぐため)と重量軽減のために取り外し簡易な照準器に変えており、爆弾が命中してしまったのは不運としか言いようがない。この爆撃で大鯨は火災が発生し大きな破孔が生じてしまう。爆撃後大鯨は改装と損傷復旧を突貫で行うが、結局空母への改装が完了したのは南太平洋海戦終了後の1942年11月であった。


 ドゥーリトル空襲の損傷が大鯨の改装にどれほど影響したかは今となってははっきりとしない。爆撃の修理には4ヵ月を要したという資料もあるが、おそらく空母への改装と並行して行われたと思われ、正味4ヵ月の遅延ではなかったろう。ただミッドウェー海戦の敗北後空母の整備には全力を投じたはずであり、約一年を要した瑞鳳、祥鳳よりは時間を短縮できた可能性が高い。

 仮に爆撃の被害が無く工事の短縮ができたとして南太平洋海戦には間に合ったろうか?となると錬成の時間を考えれば難しいと言わざるを得ないが、もし間に合えば海戦の結果はかなり違っていたかもしれない。


 空母への改装が完了した大鯨は「龍鳳」と改名され任務に就くことになる。空母としては先に改装されていた祥鳳型空母の祥鳳、瑞鳳と同型艦と分類されることが多いが、細かい点は相違点も多い。龍鳳は船体が若干祥鳳型よりも大きく、その影響で速力が祥鳳型よりも約1.5ノット低い。このわずかな速力の差がのちに龍鳳の運命を左右することになる。さらに龍鳳の特徴として飛行甲板が強度甲板になっていることがあげられる。

 強度甲板というのは甲板の強度が高められ防御が優れているということではない。かなり端折った説明になるが船という構造物は大きな鋼鉄のお椀に鋼鉄の蓋をしているような構造である。船体は波浪、風などの外力を受け、それにたいして歪みを生じさせないため、蓋の部分に応力に対応した強度を持たせる必要がある。これが強度甲板である。日本海軍の空母は通常格納庫甲板を強度甲板として建造されるが、大鯨は艦橋と一体化した格納庫を建造しその上部を強度甲板とした。龍鳳はその格納庫をそのまま航空機格納庫としたため、格納庫上層の飛行甲板が強度甲板となっているのである。このためたの空母の飛行甲板に見られる応力に対応した継手(ジョイント)がないのが外見上の大きな特徴である。

 空母となった龍鳳に初めて与えられた任務は飛行機輸送任務であった。陸軍の九九式双発軽爆撃機をトラック島まで輸送する任務に就いた龍鳳だが1942年12月12日に八丈島近海で米潜水艦ドラムの雷撃を受け損傷してしまう。急遽横須賀へ引き返した龍鳳はそのまま翌年2月まで修理を行う。その後は瀬戸内海で発着艦訓練を行い一度トラック島に進出するもののその後は輸送任務に就くことになる。

 1944年5月に龍鳳はタウイタウイに進出して空母隼鷹、飛鷹ともに第二航空戦隊を編成する。この時同型艦とされる空母瑞鳳は第三航空戦隊に編入されている。二隻しかない同型艦が違う所属になるのは珍しいことだが、これには両艦の速力の差が影響していると思われる。瑞鳳と共に第三航空戦隊に編入された千歳、千代田は速力29ノットを発揮でき、速度性能がより近い瑞鳳が第三航空戦隊に編入されたのであろう。同じ意味で龍鳳は速度特性が近い飛鷹型と組み合わせたといえる。この編成で龍鳳はマリアナ沖海戦に臨むことになる。1944年6月19日のマリアナ沖海戦で龍鳳は攻撃隊を発艦させるが迎撃態勢を整えていたアメリカ海軍機動部隊に攻撃隊は撃退され多くの搭載機を失ってしまう。さらに翌日米機動部隊は米機動部隊からの攻撃を受け龍鳳は爆弾一発が命中、損傷を受けてしまう。結果的に龍鳳の空母らしい活動は惨敗に終わったマリアナ沖海戦のみであった。

 マリアナ沖海戦後損傷を修復した龍鳳は輸送任務に就くが、10月に行われたレイテ沖海戦では内地待機となる。レイテの前に行われた台湾沖航空戦で空母搭載機まで投入、消耗してしまった日本海軍機動部隊には受け皿となる空母は有っても搭載すべき艦載機は払底してしまっていたのである。わずかに残った艦載機を搭載して囮として出撃していった空母は瑞鶴、千歳、千代田、そして龍鳳の姉妹艦瑞鳳であった。この四隻の定数をも満たせないほど艦載機は不足していたので龍鳳の残留はどうしようもなかったのであるが、龍鳳ではなく瑞鳳が選ばれた理由となるとやはり「速力」の問題であったろう。

 レイテ沖海戦後も龍鳳は輸送任務を遂行しており、1944年年末には特攻兵器「桜花」の輸送のため内海を出撃している。龍鳳は多数の護衛艦を交えた「ヒ87船団」の一員となり台湾まで同行するが、台湾で米機動部隊の来襲を受けそれ以上の航行を断念、ヒ87船団も大損害を受け残存した艦艇は龍鳳を護衛して1945年1月18日に呉に帰投する。この航海が日本空母の戦闘任務での最後の外洋航海となる。

 1945年3月19日に呉は米機動部隊の空襲を受け爆弾三発、ロケット弾二発の命中を受け大破炎上する。幸い搭載機が無かったため火災は鎮火したものの第一ボイラーが破壊され、修理もできないと判断された龍鳳は空母としての使用を諦め、甲板にあいた大穴を塞ぐだけの応急処置だけ施されその後は防空艦として戦艦榛名の前方に係留されていたが、それ以上の損傷を受けることはなく終戦を迎えることになる。機関に損傷があったため復員輸送に用いられずに昭和21年9月25日に解体が完了している。

 龍鳳の生涯はどうしても「不運」が付きまとっている印象がある。大鯨時代の船体強度不足・機関の不調・改装中の爆撃被害等々。もしこれらの要素がなければ太平洋戦争前半には軽空母として竣工できていた可能性が高い。だが龍鳳が不運に付きまとわれた最大の要因は海軍軍縮条約の抜け道をあら捜しして無理な設計を行った日本海軍の体質そのものであったような気がしてならない。国防のための戦力増強は必要なことであるが、戦力増強以外の国防にも目を向けなければいけなかったのではなかろうか?

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 昭和21年4月30日、解体中の龍鳳。前部飛行甲板が取り払われ空母改装後の艦橋構造がよく解る珍しい写真。後部飛行甲板にあいている大きな破孔は昭和20年3月19日の呉空襲時の損傷。この破孔から炎が百メートル以上吹き上がったと言われている。復旧はただ破孔を塞ぐだけで、飛行機の離着艦能力は完全に失われていた。



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# by narutyan9801 | 2014-06-06 20:53 | 妄想(軍事) | Comments(1)

久々の投稿ですが

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こんな画像ですみません。しかもネタ古いし。 でも、この結果にはかなり満足していたりします。 6月からブログ更新再開しようと思います。以前のような週5回更新っていうのは無理かもしれませんが、なるべく多く更新できるようにしたい…。な、と思います。
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# by narutyan9801 | 2014-05-19 00:35 | 日常 | Comments(0)

駆逐艦 子日 ~ 今日は何の日? ネノヒダヨー ~

 旧日本海軍の艦艇の命名には規定があり、例外もあるがおおむね規定に則って命名されている。このうち駆逐艦の命名は気象現象や気候、潮流に関するものとされており、それに加えて睦月や如月といった月を表す古語も艦名として用いられている。ところが日本語には「二十四節季」など特定の「日」を表す言葉が多数あるのに対し、駆逐艦の名前として用いられたのはただ一つの例を除いて存在しない。今回はその一つだけの例となった駆逐艦「子日」を考察したい。

 暦でいう「子日」とは立春後最初の十二支の「子」の日のことをいう。古来この日は「子の日の遊び」という。この日人々は野外に出て長寿を祝う催しを行った日であり「子日」はその目出度い日を艦名としたのである。
 最初に書いたように艦名が特定の日を示す名前を付けられたのは日本海軍では子日が唯一の例と言っていいが、諸外国特にスペインの影響を受けた国々では多くの例が見られる。たとえばアルゼンチン海軍が保有した重巡洋艦、及び航空母艦に命名された「ペインティシンコ・デ・マヨ」(Vainticinco de Mayo)はそのものズバリ「五月二十五日」である。これはアルゼンチンの独立記念日を記念しての命名であるが、日本人にはこの命名、ちょっと馴染みにくいといえる。
 
 「子日」を艦名とした艦艇は二隻ありいずれも駆逐艦だった。初代の子日は明治三十八年10月1日に竣工した神風型(初代)に属する駆逐艦であった。当時日露戦争開戦に伴う海軍増強計画での建造で、起工から竣工までわずか3ヶ月という短時間で建造されている。それでも初代子日は日露戦争には間に合わなかった。第一次世界大戦の青島攻略に参加したのが唯一の実戦参加で、大正一三年に掃海艇に転籍、昭和三年に除籍されている。

 二代目子日は初春型駆逐艦の二番艦として昭和六年12月15日に起工、昭和八年9月30日に竣工したとなっている。しかし子日が実際に竣工したのは昭和12年に入ってからであり、それまで多くの改正工事が行われたのである。

 そもそも初春型駆逐艦はロンドン海軍軍縮条約で駆逐艦の保有トン数が定められ、さらに1500トンを越える大型駆逐艦が占める割合が駆逐艦の保有トン数の16%とされた日本海軍が1400トンの排水量で特型駆逐艦と同等の武装と速度を持たせようとした艦で設計に無理があり、ネームシップの初春の竣工前の公試の旋回試験で転覆しかかるなどの問題点の改正のため一旦竣工した上でそのまま改正工事に入ったのである。この改正工事の最中に水雷艇友鶴の転覆事故が起こり初春型駆逐艦にはさらに抜本的な改正が行われることになった。この改正工事で艦橋の縮小、魚雷発射管の一部撤去、備砲の位置改正、重心の低下工事及びバラストの装着などの追加工事が行われ、三年の工事の末子日は初春と共にようやく実務に服せるようになる。速力は3ノット低下、魚雷発射管は特型駆逐艦の2/3となったが、その後の運用実績は良好で子日は艦隊所属後直ちに日華事変に従軍している。武装が縮小されたとはいえ初春型の駆逐艦の武装は当時の列強海軍の駆逐艦の武装と遜色は無く、速度がやや劣るものの運用面では十分な実力を備えていた。限られた排水量で無理な武装を装備させようとした設計思想が根本的な問題であり、身の丈にあった装備にしていれば3年間の改正工事は必要なかったと言える。この初春型の経験があったからこそ日本海軍は艦隊決戦に用いる実力を備えた「甲型駆逐艦」を建造できたともいえ、初春型は理想の駆逐艦を建造するための試金石の役割を担ったと言えよう。

 太平洋戦争勃発時子日は国内に残っていたが、1942年初頭から行われた蘭印攻略作戦に参加、その後北方部隊に転じアッツ島攻略部隊に加わる。アッツ島攻略後は同島の哨戒を行っていたが昭和十七年(1942年)7月5日、アガッツ島北方で米潜水艦トライトンの雷撃を受けて沈没する。初春型駆逐艦では初の戦没艦であった。

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竣工直後の二代目子日、特型と比べて高く大きい印象のある艦橋、艦前方に二基三門配置された備砲(特型駆逐艦は艦前方には一基二門)が精悍な印象を与える。この艦型で完成した初春型は初春、子日の二隻だけであり、両艦とも竣工後すぐ改正工事に入ったためこの艦型であったのは短い時間であった。



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# by narutyan9801 | 2013-11-07 14:11 | 妄想(軍事) | Comments(0)