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鼈の独り言(妄想編)

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窒素 ~大気の8割を占める気体は「声」も支配する~

 地球の大気の組成は季節の変動が大きいが乾燥した状態(水蒸気を大気に含まない状態。水蒸気は大気中の1~4%を占める)酸素が約21%、アルゴンが約1%、二酸化炭素が約0.04%である。近年温室効果で増加が注視されている二酸化炭素であるが現在のところは大気中に占める割合はごく小さい。そして大気中の約8割を占める気体が窒素である。今回はこの窒素を考察したい。

 現在の大気の大部分を占める窒素であるが、地球が誕生した当初割合でいえばごく微量であった。誕生したばかりの地球の大気は非常に高温高圧で大部分が水素とヘリウムで太陽の構成に近いものだったと考えられている。水素やヘリウムは軽く誕生したばかりで活動が活発だった太陽からもたらされる太陽風で吹き飛ばされてしまい数千万年後にはほとんど無くなってしまったらしい。代わって地球の大気の大部分を占めたのが地球の火山活動で地球内部から噴出してきた二酸化炭素とアンモニアであった。誕生から少し時間がたった海が出来る以前の地球の大気は現在の金星の大気に似ており大気中の二酸化炭素の温室効果で温度は400℃を超え100気圧ほどの高圧状態、言い換えれば濃い大気濃度だったと思われている。そしてこの時微量の窒素分子が地中より排出されたりアンモニアが分解されて発生し大気に含まれることになる。しかし密度の濃い古代地球の大気成分の中で窒素の割合はこの時点でもごく微量だったと思われている。やがて地球の表面温度が冷え大気中に含まれていた水蒸気が雨になりついには海を形成する。誕生したばかりの海は酸性だったが岩石が解かされ中和された海に大量の二酸化炭素が溶け込み大気中の二酸化炭素濃度が急激に下がってゆき相対的に窒素が大気中に占める割合が増えていく。そして生命が誕生し生命の光合成活動により海洋に溶け込んだ二酸化炭素が光合成で消費され酸素が生み出されることにより現在の大気組成になったと考えられているのである。

 1772年、スコットランドの化学者ダニエル・ラザフォードにより窒素は「発見」される。当時二酸化炭素は発見されていたが密閉容器の中で火を点し酸欠によって自然鎮火した空気から二酸化炭素を取り除いた気体では火が点らないことが分かっていた。当時の化学では燃焼という化学反応には「フロギストン」(燃素)という物質が形成され密閉容器の中ではフロギストンが飽和状態になるため燃焼できないという説が信じられていた。ラザフォードは燃焼で酸素が消費され二酸化炭素を取り除いた気体はフロギストンが飽和状態になった気体と思い発表したのである。なお日本語の窒素という文字の由来はラザフォードが生物の生命活動でも燃素を発生させており窒素のみの気体中にマウスを入れてみると死んでしまったことからフロギストン飽和状態では生物は息ができないと考えnoxious air(有毒空気)と命名し、それがドイツ語訳ではStickstoff(シュティクシュトフ,窒息に至らしめる物質)と訳されそのドイツ語をそのまま日本語に訳したものである。マウスを死に至らしめのは窒素そのものではなく酸素の欠乏が原因ではあったのだが。

 その後フランスのアントワーヌ・ラヴォアジェによりフロギストン説が否定され、さらにラヴォアジェ自身が窒素が元素であることを発見すると窒素の研究が飛躍的に進み窒素と生物・化学の関連性が分かってきたのである。
 生物を形成するアミノ酸やタンパク質などはほぼすべてが窒素の化合物で形成されている。特に植物の生育には窒素は不可欠で他の必須要素であるリン・カリウムと共に肥料の三大要素と言われている。ところが窒素分子(N2)は非常に安定した物質で生物がこれを利用するためには微生物が空気中の窒素をアンモニアなどに変化させる窒素固定と呼ばれるプロセスを経ないと利用できなかったのである。窒素酸化物は水に溶けやすく継続的に施肥をする必要があり空気中にほぼ無尽蔵にある窒素を微生物の力によらず固定する方法が研究され1903年にフリッツ・ハーバーとカール・ボッシュにより窒素を人工的に固定する方法が発明されたのである。この発明により人類の農業生産量は飛躍的に増大した。他方窒素酸化物は火薬の原料にもなる。それまでの天然鉱物を利用しての火薬生産から人工的に火薬を生成することも可能になった。実際に第一次世界大戦では火薬の原料となる窒素酸化物系の鉱物を産しないドイツがほぼすべての火薬を人工的に窒素固定した窒素酸化物から生産している。

 このように人類に恩威をもたらす窒素であるが、圧力がかかる状態で窒素を吸引してしまうと人体に牙をむくことがある。いわゆる「減圧症」という症状である。圧力がかかって体積が小さくなった状態で血液中に溶け込んだ窒素分子が圧力が下がると気泡になり人体に様々な影響を与える障害である。窒素は空気中に多量に含まれ潜水病の主要な要因となる。また血液中に窒素が多量に溶け込むとアルコール酩酊に近い状態になる「窒素酔い」を起こすこともありダイビングをする際に窒素はやっかいな存在となっているのである。
 この減圧症を防ぐために大深度潜水などではより安全な(100%安全ではない)ヘリウムと酸素の混合気体を用いるが、ヘリウムは音の伝播が早く(空気中の伝播のおよそ3倍)この気体を吸引した人の声が変わってしまう。管理者も30年ほど前のテレビ番組で愛川欽也氏がこの気体を吸って声を発した時の衝撃を今でも覚えているが声が変わっただけで人全体の印象も変わってしまうものだと考えさせられたものである。窒素は「声」という人の個性を決める重要な部分を担っている気体でもあるのである。

# by narutyan9801 | 2018-01-26 04:49 | 妄想(その他)

ミイデラゴミムシ ~昆虫のロケットマン、幼虫は偏食家~

 「ロケットマン」現在某超大国の大統領が某国の最高指導者を揶揄した言葉である。しかしこちらのロケットマンは国家が作り出したロケットを操ることはできても自分ではロケットを生み出すことはできない(権力で造ったロケットは自ら建造したと言えないという定義ならば)ロケットそのものを考えるにはこの人物よりも我々の足下に優れたロケット技術を持つ「昆虫」が存在する。今回は体内にロケット技術を隠し持つ昆虫「ミイデラゴミムシ」を考察したい。

 そもそもロケットとはなんぞや?というと「自らの質量を噴射して推力を得るもの」となる。簡単なロケットとなるとゴム風船を膨らまして口を結ばずに手を離せばゴムの縮む力で風船内の空気が押し出され風船が動く。これもロケットといえるのである。しかし普通に質量を噴出しただけでは自らを動かすまでの推力は得られない。このため物質の化学変化で噴出させる物質の体積を増やすなどしてより大きな推力を得ようとしたものがロケットエンジンである。

 ロケットの定義はこれぐらいにしてミイデラゴミムシの方に戻ろう。ミイデラゴミムシは沖縄諸島を除く日本全国、朝鮮、中国に分布するゴミムシの仲間(ホソクビゴミムシ科)で頭と胸がオレンジがかった黄色。腹部上羽は黒で中央付近に頭や胸と同色の切れ込み模様が入り、警告色なのかこの種の虫としてはかなり派手な色をしている昆虫である。
 ミイデラゴミムシの生態の特色はなんといっても「おなら」である。ミイデラゴミムシは敵に襲われると「おなら」をして敵を撃退する防御方法を持っているのである。この特徴から「ヘッピリムシ」や「ヒヘリムシ」の方言で呼ばれる地方も多い。ちなみに管理者の出身地では「ヘッピリムシ」はカメムシのことを指していてミイデラゴミムシはさしたる呼び名はなかった。実のところミイデラゴミムシが含まれるホソクビゴミムシ科の昆虫は「おなら」をする虫が多い。ミイデラゴミムシはこの仲間では大型で餌を求めて徘徊する習性があり目立つため「ヘッピリムシ」の名前を頂戴したと思われる。

 ミイデラゴミムシのロケット機構は過酸化水素水(H2O2)とヒドロキノン(C6H4(OH)2)の反応を利用したものである。ミイデラゴミムシは肛門近くの袋にこの二つの物質を収納しておきいざというときに二つの物質を同時に肛門へ押し出すとこの二つの物質は反応を起こすのである。過酸化水素水は強力な酸化剤でかのロケット戦闘機メッサーシュミット Me163や日本版Me163「秋水」にも利用されてきた物質でありヒドロキノンも強力な還元剤として利用される物質である。この二つが混じり合うと
  ヒドロキノン(C6H4(OH)2)+過酸化水素水(H2O2)
  →p-ベンゾキノン(C6H4O2)+水(H2O)
という反応を起こし、また反応熱が発生する。この熱で水は蒸発して水蒸気となり急激に体積が膨張してミイデラゴミムシの体外に放出されるのである。この発生ガスの温度は100℃を超えており捕食者へ火傷を負わせることでミイデラゴミムシは敵から逃れることが出来るのである。またヒドロキノン、ペンゾキノン共にタンパク質と結合する性質があり人体に直接触れると皮膚が褐色を帯びてしまうことがある。人体に大きな影響は与えないがミイデラゴミムシの捕食者には科学的に有害な成分になっている。さらにたとえ捕食されたとしてもミイデラゴミムシの有毒ガスは捕食者の胃腸を刺激し獲物を丸呑みにするカエルなどはこの刺激により飲み込んだミイデラゴミムシをはき出してしまうことがある。実験では飲み込まれて二時間後にはき出され生還したミイデラゴミムシもいたそうである。カエルは獲物が危険かどうかの学習能力が高く一度ミイデラゴミムシの屁の洗礼を浴びたカエルはミイデラゴミムシの捕食を避けるようになりミイデラゴミムシの捕食圧を軽減する効果も期待できる。
 ミイデラゴミムシの肛門は伸縮性がありまたフレキシブルに動かせるので背中側にガスを噴射させることもできる。ただ残念ながらミイデラゴミムシの噴射力では空を飛ぶことは不可能なようである。

 ミイデラゴミムシの成虫の特徴だけでも非常に興味深いのだが幼虫時代は更に特異な生態を持っている。ミイデラゴミムシの幼虫はふ化した直後は体長2~2.8mmほどで移動能力が高く地中に潜って暮らしているケラという昆虫の産卵した卵の塊に侵入してそれを食べて成長する。移動の必要が無くなったミイデラゴミムシの幼虫は脱皮して二令幼虫になると足が無くなり蛆状の形になってしまう。この他の昆虫の卵塊などにたどり着きそれを食べて成長するのはホソクビゴミムシ科全体の特徴であるがほとんどのホソクビゴミムシ科の昆虫は宿主が分からず日本産のホソクビゴミムシ科で宿主が判明しているのはミイデラゴミムシだけである。このように研究が進んでいるのはやはり「ペッピリムシ」という知名度だからであろうか?

 上で「発がん性が指摘されている」と書いたミイデラゴミムシのおならの成分「ヒドロキノン」であるが実は美容品に使用されている。近年よく耳にする「美白効果」これにヒドロキノンが一役買っている。ヒドロキノンの強力な還元力は漂白効果もあり肌のシミや黒ずみを消す効果があると言われている(含有量2%までは無規制)美女の白肌を造る成分が実は「ヘッピリムシ」の屁の原料と同じ(もちろん合成で製造されていてミイデラゴミムシから抽出するわけではない)と考えると笑いがこみ上げてくるのである。

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 ミイデラゴミムシは朝鮮半島にも生息しているがかの「ロケットマン」の国ではミイデラゴミムシが切手になっていたそうである。


# by narutyan9801 | 2018-01-24 04:03 | 妄想(生物)

「春の目覚め」作戦 ~ハンガリーからソ連軍を駆逐しようとしたヒトラーの賭~

1945年4月時点でナチスドイツの敗勢は誰の目にも明らかであった。既にソ連軍はドイツの首都ベルリンから約80kmのオーデル川に到達し準備ができ次第ベルリン攻略に乗り出す体勢を整えつつあった。この情勢でもヒトラーの目はドイツ国外に向いていたのである。今回は第二次大戦ドイツの最後の攻勢と言われる「春の目覚め」作戦を考察したい。

 1944年6月のパグラチオン作戦終了後ドイツ正面では戦線整理と前線部隊の補充再編成を行っていたソ連軍であったがドイツと同盟関係にあった東欧諸国への攻勢は続けていた。ドイツの同盟国だったハンガリーは一時枢軸国側からの離脱を計るがドイツが支援するクーデターがあり引き続きドイツ側に留まっていた。ソ連軍はハンガリー領内に侵入し1944年10月29日にはハンガリーの首都ブダペストを包囲する。約4ヶ月の包囲の後ブダペストは陥落しハンガリーの大部分はソ連占領下に置かれたのである。
 この状況下でヒトラーはハンガリー国内のソ連第3ウクライナ方面軍を一掃し軍事的脅威を除く攻勢を計画する。すでにソ連がドイツ国内に進軍しておりベルリンへの攻勢も間近と思われたこの時期に戦局には直接関与しないと思われた地域への攻勢は無意味とほとんどのドイツ軍首脳は考え作戦へ反対したがヒトラーは強引に作戦準備を推し進める。ヒトラーからすればハンガリーはドイツ国内では算出しない石油を供給する地であり何より中央・東ヨーロッパ最大の都市であるブダペストの領有は政治家ヒトラーの信念でもあった。軍事力が激減し軍事的に保持占領が不可能となっているブダペストを奪回しようとするヒトラーの信念はもはや狂気と言ってもいい状態だったといってもいいかと思う。

 作戦はブダペスト南西、バラトン湖周辺で計画された。当時この地域にソ連第3ウクライナ方面軍の主力が展開しハンガリー西方に残るドイツ軍を攻撃すべく準備を行っていた。ドイツ軍は東西に細長いバラトン湖の東側と西側から同時に攻勢をかける作戦を立案する。主攻勢は東側でバラトン湖東岸を進撃しその後北東と東南の二方向に分かれて進軍し北東側はブダペストへ進撃、南東側はドナウ川西岸を制圧しつつ第3ウクライナ方面軍の撃滅を計る予定であった。西側の攻勢はバラトン湖を迂回進撃し東側南東攻勢と呼応して第3ウクライナ方面軍を攻撃する手はずになっていた。これとは別にハンガリーとユーゴスラヴィアの国境付近から同地に駐屯するE軍集団の二個軍団が北進して包囲網に加わることが計画された。計画の上では壮大な包囲殲滅作戦が展開される予定であった。
 「春の目覚め」作戦の主役となるバラトン湖から出撃する兵力は南方軍集団隷下の第6SS装甲軍と第6軍が投入されることとなった。しかし参加兵力のほとんどがフランスで行われた「ラインの守り」作戦(バルジの戦い)やハンガリー国内の戦闘で消耗し再編成を行った部隊であった。既にドイツの国力は払底しており親衛隊全国指導者ヒムラーの権限で優先的に装備を補充されたSS部隊もほとんどが部隊定数を満たすことが出来ていない状況であった。人員の補充はさらに困難で歩兵の一部にはドイツ海軍の水兵を即席訓練を行って充当させている。南から北上するE軍集団は元々が占領地区などに駐屯してパルチザン討伐などに当たる部隊であり本来なら攻勢に投入すべきではない部隊で更に度重なる戦闘に従事しており部隊は損耗、疲弊した状態になっていた。このような問題を抱えては居たがドイツ側は約14万人の兵員が集められ作戦に投入されている。対するソ連第三ウクライナ方面軍は45万人の兵力を保持しており戰車などの数量も圧倒していた。さらに諜報活動によりソ連軍はドイツ軍がハンガリーで攻勢を計画していることを察知しており防備を整えて待ち構えていたのである。兵力が拮抗する戦線でドイツ軍の攻撃が予想された戦線でソ連軍はドイツ軍に先だって攻勢をかけ主導権を奪おうとする奇襲戦術を採る場合もあったがハンガリー戦線はソ連軍には二次的な戦線であり投機的な戦術を採用する必要は無かったといえる。ソ連軍はSS装甲軍への対抗のため「パックフロント」と呼ばれる対戦車陣地を構築してドイツ軍を待ち構えていたのである。

 「春の目覚め」作戦は1945年3月6日に発動される。バラトン湖東岸を進撃する部隊は当初は順調に進撃できたがソ連側の激しい抵抗と折り悪く雪解け水の泥濘が発生し次第に進軍速度は低下し3月15日に20㎞ほど前進したシモントルニャに到達したところで完全に停止してしまう。またバラトン湖西岸部隊と南方のE軍集団はソ連側の抵抗でほとんど前進できない状態であった。
 3月16日ソ連側はブダペストの西から逆に進撃を開始する。この進撃はハンガリー国境を超えてオーストリア国内に侵入しようとした野心的な計画であった。この攻勢はバラトン湖東岸進撃部隊の後背を扼するもので包囲の危険を察知したドイツ軍部隊はヒトラーの死守命令を無視して西へ後退、ついにはハンガリー国境を超えオーストリアまで撤退してしまい「春の目覚め」作戦は完全に破綻、ヒトラーの賭けは失敗に終わるのである。

 「春の目覚め」作戦の失敗の原因は根本的に言ってしまえば「攻勢に出るには兵力不足であった」に尽きよう。兵力差を考えれば作戦の成功は万に一つも無かったと言える。結果的に見れば「春の目覚め」作戦は消耗していたとはいえ貴重な機甲師団を敵の前面に投入してすり減らせるだけの作戦だった。しかし春の目覚め作戦で進軍したわずか20㎞はドイツ機甲師団が見せた最後の進撃であったことはおそらく間違いないだろう。

 ドイツの同盟国とはいえ第二次大戦でハンガリーが被った戦災は多大なものであった。現在ハンガリーでは公の場での「鍵十字」(ナチスの紋章)「矢十字」(ナチスに同調してクーデターを起こした矢十字党の紋章)だけでなく「鎌と槌」「赤い星」(両方とも共産主義の象徴)の使用を刑法で禁止しているのである。

# by narutyan9801 | 2018-01-22 00:51 | 妄想(軍事)

ウェンティゴ症候群 ~姿の見えない精霊が導く人肉食病~

 本日極夜の下の街でしばらく滞在する紀行番組を見ていたがその中で極夜で暮らす人は自殺率が上がると放送されていた。この情報でまた妙な感覚が刺激されたので今回は「ウェンディゴ症候群」を考察したい。

 ウェンディゴとはカナダ北部の先住民に信じられていた精霊で姿をみることが出来ない。一人でいる人や一人旅の人に近づき付きまとう。近づかれた人はウェンティゴの姿を見ることは出来ないが気配を常に感じることになる。そのような状態がしばらく続きそのうちウェンティゴは小さな言葉にならない声で話しかけてくるようになるという。ウェンティゴ自身はこれ以上の危害を加えないのだが付きまとわれた人はその不気味さのあまり自分がウェンティゴになってしまうという不安に駆られそのうちウェンティゴの気配に心が支配されてしまうと人肉を食べたくなる衝動に駆られてしまうという。この状態に陥った人は普通の食事を一切受け付けなくなり意思の疎通や日常の身だしなみも行わなくなる。最終的には自殺したり処刑されてしまうという。

 このウェンティゴに取り憑かれた人を特定の地域、文化、民族内で発生する精神疾患としてウェンティゴ症候群と呼ぶ。原因としては冬期のビタミン不足、極夜による身体バランスの欠如などが上げられる。治療方法は患者にスプーン一杯の動物の脂肪を与えると治ると言われている。実際に視聴した番組では鱈の肝臓から取られた肝油をビタミン不足を補うという目的で摂取していることが紹介されていた。

 番組で紹介された街はロングイヤービエン、このブログでも何度か名前が出てきている北大西洋のスピッツベルゲン島にある町で番組ではトナカイの姿が写されていたがホッキョククマも生息していることが紹介されている。スピッツベルゲン島ではトナカイは定住しているが大陸に住むトナカイ(カナダ圏ではカリブーと呼ばれる)は季節によって移動する動物であり冬期は居なくなってしまう地域もあると思われる。そしてホッキョクグマはさほど移動しない動物であるがホッキョクグマの肝臓はビタミンAが過剰に含まれ人間が食べると過剰摂取により中毒を起こすことが知られていてその他の臓器も含まれる酵素などで長期保存が難しいものが多い。主な狩猟動物であるカリブーとホッキョクグマが居なかったりビタミンが豊富な内臓が食用に適さないとなるとビタミン不足に陥る可能性は高いと言える。
 ビタミン不足で不安定な精神環境に陥るのはなんとなく分かるがそこからカニバリズムに陥るのは何故だろうか。想像力を膨らまして妄想してみると過去に飢餓により人肉食に走ってしまった人が居たのかもしれない。その人物の犯した人肉食をその人のせいにせず姿が見えない「ウェンティゴ」という精霊のせいにし人肉食というタブーを犯した人の人権を守ったという可能性は高そうである。そうして生み出されたウィンディゴは変調をきたした人に「自分もウィンディゴになる」という恐怖を与え、その感情がウィンディゴ症候群を生み出すことになった…。そんな感じがする。

 ビタミン不足の認識と流通状況が発達した現在、ウェンティゴ症候群の発症は報告されていないようである。しかし食生活の欧米化が進み冬場は加工食品のみの食事でビタミンを補給できる伝統食が廃れてしまった現在再びビタミン不足に陥ってしまう可能性も指摘されている。ウェンティゴは今は態を潜めているが再び地上に出る日を待っているのかもしれない。

# by narutyan9801 | 2018-01-20 01:49 | 妄想(病気)

広南従四位白象 ~位階を賜ったゾウさん~

 日光東照宮、上神庫に二頭の象の彫り物がある。江戸初期の画家狩野探幽が下絵を描き彫られたものとされている。この彫り物の象は生きている象を知っている我々の目から見れば足の爪の形状など違和感があることは事実であるが、描いた狩野探幽自身は象を見たことがなく想像で描いたことを考えると実在の象にかなり近いものと言える。また象の表情は東照宮にたくさん存在する空想上の動物に比べるとどことなくユーモラスな雰囲気を漂わせている(同じ東照宮表門にも象の彫り物があるがこちらは厳めしい表情をしている)。これは「象」という動物が当時の日本人にはまったく馴染みの無い動物ではなくごくわずかの人であるが実際の象を見たり、見た話を聞いた経験があることに関係があるかもしれない。探幽が下絵を描いた半世紀前には同じ狩野派の狩野内膳が実際に目にした象を描いている。こちらは実際の象の姿をかなり忠実に描いておりもしかしたら象の姿が狩野派の中で語り継がれていたかもしれない。内膳が描いた象は安土桃山時代に輸入された象であるが、今回は江戸時代に輸入され長崎から江戸まで歩いて旅をした「広南従四位白象」を考察したい。

 有史以前には日本列島にもナウマン象、マンモスなどの長鼻目(象の仲間)が闊歩していたのだが日本人が歴史を記録できる時代にはすでに絶滅していた。象は居なくなっていたものの化石化した象の骨は「竜骨」として珍重されていて正倉院にはナウマン象の臼歯が五色龍歯という名で二つ奉納されている。海外では象は飼い慣らせば使役動物として有用で特別な訓練を施せば「戦象」として兵器としても取り扱える動物であり人間と象のつながりは他の野生動物に比べれば深かった。中国では殷の首都であった殷墟から飼育されていた象が埋葬された状態で発掘されており馴染みのある動物だったと思われる。そして遣唐使などで中国を訪れた日本人の中にも象を見た人物は存在したろう。こうした人々からの伝聞で日本でも象がどのような動物か漠然とながら知られていたようである。12~13世紀の「鳥獣人物戯画」には象と思われる動物が登場している。

 日本に生きた象が持ち込まれた最も古い記録は応永十五年(1408年)東南アジアからの献上品と思われる。当時は足利幕府四代将軍足利義持の時代であった。義持は父義満の政策を支持しておらずこの贈り物も父への贈り物と受け取ったようでありほどなく朝鮮へ贈ってしまったと記録されている。
 戦国時代から安土桃山時代にかけてはヨーロッパのポルトガル、スペインとの直接貿易が始まりまた中央政府の監督が行き届かなくなり地方の有力者が貿易を自由に行えたため数度象が来日している。慶長年間には二度象が日本に送られており狩野内膳が描いた象はこの二例のどちらかの象を描いたものであろう。
 その後江戸幕府は鎖国政策を取り海外の品物は輸入が規制されてしまう。この規制が緩むのは八代将軍徳川吉宗の時代である。吉宗は様々な政策を行っているがその中に洋書の輸入解禁がある。キリスト教関連以外の書物の輸入を許可したがただ単に本を輸入していいとって言っても庶民にまでその意図は伝わらないだろう。それならば海外の文物を持ち込み海外に庶民が興味を持つようにするのがいい。この際インパクトがあって入手も現実的な象がいいんじゃないだろうか?と吉宗が考えたか、はたまた単に象が見てみたいと思ったかどうか?詳しい心情は分からないが将軍の直接注文の形でベトナムに象を注文しているのである。

 注文された象は雌雄二頭で中国人貿易商の手配で享保十三年(1728年)六月に長崎に到着、雌象は長崎到着から三ヶ月後に死んでしまうが雄象は無事に冬を越し翌年3月、江戸へ向けて出発することになる。通訳、象使い、随行の役人など14名とハンニバルの長征に比べるとだいぶん規模が小さいが間違いなく前代未聞の旅出であった。
 当初象を江戸に送るには海路での輸送も検討されていた。しかし幕府の禁令により大型船の建造が禁止されており輸送に適した大型船が無いことと遭難の可能性からより安全な陸路を取ることになったと言われる。一行が翌日通るであろうルート沿いは犬猫を外に出さず、号令や鐘など敏感な象を刺激する音を出さないよう、餌と水の準備(成獣の象は一日150リットルの水が必要である)、沿道沿いには縄を張り道路や橋の補強等々、これが地元の負担で行われたのである。とんだインフラ整備を強いられたものであるが異国の珍獣が通るというだけで当時の人々は文句も言わず従ったのである。小倉では藩主小笠原忠基が見物に訪れるなど当時の人々も興味津々で象を見たことだろう。
 関門海峡は石を運ぶ船に乗せられて渡り西国街道を進んだ一行は4月20日に大阪に到着する。ここで思わぬ話が一行に飛び込む、時の天皇中御門天皇が象を見たいといったというのである。象の一行が江戸へ下るというのは朝廷内でも話題持ちきりだったのか、それとも中御門天皇の祖父である霊元上皇が歌会にでも出て噂を仕入れてきたか、中御門天皇に象の噂が伝わり是非とも見てみたいと希望を伝えてきたのである。御所に出入りするには位階が必要である。しかし天皇自らが見物に出るとなれば「行幸」という大げさな話になる。おそらく朝廷の武家伝奏と京都所司代は協議を行ったであろうが江戸幕府成立時や幕末のやりとりに比べれば平和な話し合いだったろう。結局象は「広南従四位白象」という立派な名前と従四位という位を賜ることになる。ちなみに従四位という位、日露戦争で日本海軍の作戦を立案した秋山真之が死後贈られた位でありかなり高い位である。
 4月26日に「広南従四位白象」は御所にて中御門天皇、霊元上皇に拝謁。このとき象は象遣いが背に乗るときに調教された前足を折って体を低くする姿勢を見せたらしい。これを見た中御門天皇は象にも拝跪の礼があるのかと感銘し次の歌を詠んだという

 時しあれは 人の国なるけたものも けふ九重に みるがうれしさ
 
 この時中御門天皇は29歳。和歌や書道、笛を嗜む天皇は象よりも早くこの六年後に崩御している。

 京都を発した一行は東海道を江戸へ向かう。東海道は桑名から熱田までは海路なので象一行は長良川と木曽川を馬を運ぶ船をつなぎ合わせて三里の渡しと呼ばれた渡し船のルートを通って渡り佐屋街道を通って熱田に至っている。橋の整備が進んでいない天竜川や大井川は泳いで渡り武田氏と徳川氏の間で激戦が行われた三方ヶ原を通過するなど一行は東海道を東へ進むが象は疲労が蓄積していたらしい。浜名湖を北に迂回する本坂道の登り道では急勾配に象が悲鳴をあげ後にこの坂は地元の人々に「象鳴きの坂」と名付けられたという。そして「天下の険」箱根でついに象は疲労のため寝込んでしまうのである。箱根の関所を目の前にして倒れた象に近隣から象の好物が送られ近隣の寺院では病気平癒の加持祈祷が行われたと言われる。この甲斐あってか3日後に象は回復、無事に箱根の関所を超える。そして長崎を出発して二ヶ月半、ようやく江戸城に到着、将軍の上覧をうけることになる。
 上覧を終えた象は浜離宮で飼育されることになり江戸城への登城の際には見物人が鈴なりになったと言われ、瓦版や象の玩具など現代で言うところの「メディア展開」に発展する。この状況をみると江戸時代の人々も現代とあまり変わらない感性をもっていたのだなと感じざるをえない。
 しかし広南従四位白象のブームは長く続かなかった。吉宗は数回象を見ただけで満足してしまい江戸城に登城することはなくなってしまう。そして象にとって不幸なのは象使いが帰国してしまったのか居なくなってしまったことであった。象は引き続き浜離宮で飼育されることになったが象に不慣れな日本人飼育係では世話が行き届かず象にはストレスが溜まってゆく。また象の飼育には莫大な費用が必要であった。倹約を奨励している吉宗政権下では象飼育はお荷物扱いであったろう。そうしているうちに象が飼育員を攻撃し殺してしまうという事件が起こる。厄介者となっていた象は中野村の源助という人物に払い下げられたが寛保二年(1741年)冬に死んでしまったという。推定の年齢は21歳、象の寿命は60年前後と言われるので早死にといっていい最後であった。死亡した象の象牙と皮は幕府に献上され中野宝仙寺に納められた。宝仙寺では宝物として大事に保管していたが昭和二十年五月二十五日の空襲で大部分が消失。現在鼻の皮膚の一部のみが伝えられているという。


 広南従四位白象が江戸城へ登城した際、御用絵師であった四代狩野栄川古信が象を描いている。想像で描いた同派の狩野探幽と違いモデルを見つつ描いた象はさすがに精緻に描かれている。この作品は現在東京国立博物館に収納されており広南従四位白象の姿を現代の我々に伝えているのである。

# by narutyan9801 | 2018-01-14 01:24 | 妄想(生物)