鼈の独り言(妄想編)

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ハリー・オニール ~硫黄島で戦死した元メジャーリーガー~

 今週は太平洋戦争で戦死した四人の日本人野球選手のお話を書いたのだが、日本と戦ったアメリカでの野球選手の戦死者はメジャーリーグ経験者に限っていえばごく少数である。もちろんマイナーリーグや独立リーグ経験者での従軍者数は相当な人数になると思われるが、徴兵対象者を根こそぎ応召した日本と違いある種著名人であるメジャーリーガーを徴兵して戦地に送るリスクや、そもそもそこまでの兵力は必要なかったためと思われる。今回は数少ないメジャーリーガー戦死者の一人、ハリー・オニールを考察したい。

 ハリーは1917年にフィラデルフィアで生まれている。ゲティスバーグ大学時代彼は野球、フットボール、バスケットボールの選手として活躍、卒業後はフィラデルフィア・アスレチックスにマイナー契約で入団する。
 入団した年の7月にメジャー昇格し1939年7月23日のデトロイト・タイガース戦の終盤にキャッチャーのポジションに入りメジャーデビューを果たすことになる。この日の試合はアスレチックスが大差で負けておりいわゆる敗戦処理の出場であった。結局この試合でハリーに打順は回ってこず守備機会もなかったためハリーの出場は記録上は出場しただけの無記録である。そしてこの試合がハリーにとって唯一のメジャー出場になったのである。

 その後二年ハリーはアスレチックに所属するがメジャーリーグへの出場は果たせなかった。1941年にアスレチックスを退団したハリーは翌年海兵隊に入隊するのである。すでに太平洋戦争が勃発しており戦争の波は元メジャーリーガーの運命も左右する大きさになっていた。

 二年間の訓練後海兵中尉となったハリーは第4海兵師団第25海兵連隊に配属され歩兵戦闘の指揮を執ることになる。彼は初陣となるサイパン島の戦いで肩に負傷、後送される。そして傷が癒えたハリーが向かったのは硫黄島であった。 硫黄島の戦いで第四海兵師団は上陸作戦から参加、大きな損害を被る。上陸戦と硫黄島南の擂鉢山攻略で損耗した第四海兵師団はいったん後退し再編成を行った後、北方の日本軍陣地攻略を再開する。そして3月6日歩兵戦闘を指揮していたハリーに一発の銃弾が命中する。ハリーを撃ったのは日本軍の狙撃兵であると言われているが定かではない。この時ハリー・オニール27歳。

 ハリーは太平洋戦争で戦死した唯一のメジャーリーガーと言われている。

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by narutyan9801 | 2014-09-26 23:50 | Comments(0)

嶋清一 ~海防艦と運命を共にした天才投手~

 いわゆる「甲子園大会(高校野球全国大会)」でノーヒットノーランが記録されると大きな話題となる。過去選抜高等学校野球大会では12回(完全試合2試合を含む)、全国高等学校野球選手権大会では23回達成されておりその中でノーヒットノーランを複数回達成した選手が一人だけ存在する。今回は現在まで甲子園大会でノーヒットノーランを二回達成した投手、嶋清一を考察したい。

 嶋清一は1920年(大正九年)に和歌山県生まれ。幼い頃父親から同県出身で甲子園で活躍した小川正太郎の話を聞かされ野球に興味を持ったと言われている。小学校時代から地元の少年野球チームに所属していた嶋は海草中学校に進学すると一年生ながら一塁手として第21回中等学校優勝野球大会(現在の夏の甲子園)に出場する。この時は初戦でこの大会の優勝校松山商と対戦して3対0で敗れている。この大会後監督の指導で嶋は投手にコンバートし以後海草中学校のエースとして活躍することとなる。

 その後も嶋の所属する海草中学校は何度も甲子園に出場しているが、ベスト4が最高であった。ところが嶋にとって最後の甲子園となる第25回全国中等学校優勝野球大会で嶋は前人未到の快投を見せるのである。
 1回戦の対嘉義中戦は5-0、二回戦の対京都商戦が5-0、準々決勝の対米子中戦が3-0、準決勝の対島田商戦が8-0(ノーヒットノーラン)決勝の下関商戦が5-0(ノーヒットノーラン)と五試合すべてに先発し完投、全て完封で内二試合がノーヒットノーランという快挙であった。試合中相手の応援席から「これではとりつく『シマ』がない」という自虐的な駄洒落が漏れ、「海草の嶋か、嶋の海草か」という賛美の言葉がはやったという。大会前から嶋は高い評価を得ていたのだが肝心なところでコントロールを乱すメンタル面の弱点も指摘されていた。メンタル面に関しては後年様々な要因が指摘されているが、それを払しょくできたのは周囲の変化も大きかったが嶋本人の努力も大きかったと思われる。ちなみに嶋は通算6回甲子園に出場しているが、これは当時の中等学校が五年制であったためで規則上最高九回甲子園出場も可能であった。
 嶋の打ち立てた記録のうち、五試合連続完封と45イニング連続無失点は戦後第30回大会で福嶋一雄が達成する。また決勝でのノーヒットノーラン達成は59年後の第80回大会で松坂大輔が達成するが、現在(2014年)でも個人の複数ノーヒットノーラン及び同一大会での複数のノーヒットノーランを達成した人物は嶋ただ一人である。

 海草中学校卒業後嶋は明治大学に進学し野球部に所属するが、野球部の雰囲気に馴染めなかったのか嶋の成績は海草中学時代に比べると見劣りするような状態になる。一時期大学を中退してプロ野球への転身を図るが周囲の説得により断念している。嶋本人はジャーナリストに興味を持ち朝日新聞の記者になりたいという夢を持っていたと伝わるが、その夢は戦争によって潰えてしまう。

 1944年の学徒出陣により嶋も海軍に応召、44年暮れに竣工した「第84号海防艦」乗り組みを命ぜられ南方に出陣、日本への最後の輸送船団となるヒ88J船団を護衛する任務に参加することになる。
 太平洋戦争の戦局はすでにフィリピンを奪還され南シナ海の制空・制海権も連合国側が掌握する状況になっていた。1945年2月の「北号作戦」で航空戦艦二隻を含む戦闘部隊が辛くも日本本土に帰還するが、この作戦の成功を受け南方に残存する稼働輸送船をかき集めて日本に帰還させる作戦が計画された。しかし速力の遅い輸送船が日本本土にたどり着くことはほぼ絶望的といってよく、無謀な作戦であったことは否めない。

 1945年(昭和二十年)3月19日にシンガポールを出港した船団は途中被害を受けつつも北上を続けていたが、3月29日未明にベトナム東方で第84号海防艦は米潜水艦「ハンマーヘッド」の雷撃を受けてしまう。魚雷命中直後に搭載してた爆雷が誘爆し瞬時に轟沈した言われ、嶋を含む乗員全員が戦死している。嶋清一この24歳。応召直前に恋愛結婚をした新妻を残しての戦死であった。

 嶋の記録は半ば忘れられた状況が続いたが、第80回大会の松坂大輔のノーヒットノーランがきっかけで再認知されるようになる。2008年に野球殿堂入り。その年の第90回全国高等学校野球選手権大会(記念大会)に表彰式が行われ、若くして戦死した天才投手が偲ばれている。

嶋清一―戦火に散った伝説の左腕

山本 暢俊/彩流社

嶋清一の真実―松坂大輔をしのぐ伝説左腕の軌跡

富永 俊治/アルマット




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by narutyan9801 | 2014-09-26 00:02 | 妄想(人物) | Comments(0)

石丸進一 ~神風特別攻撃隊で散ったプロ野球選手~

 太平洋戦争中にいわゆる「特別攻撃隊」での戦死者は二千五百人を超えると言われている。戦死者のうち三割以上の人が「予備士官」と呼ばれる学徒出陣の士官たちであった。学業を断念して操縦桿を握りしめ、大空に散っていった約600名の中に元プロ野球選手の姿があった。今回は特攻に散ったプロ野球選手、石丸進一を考察したい。 

 石丸進一は1922年(大正十一年)佐賀県に生まれている。兄の影響を受け石丸は野球に打ち込む少年時代を過ごすが甲子園への出場はできなかった。石丸の実兄藤吉は名古屋軍に所属するプロ野球選手で石丸は出征先の兄にプロ野球選手への思いを血判を押して綴って送り、それを見た藤吉の推薦によりプロ野球名古屋軍に入団することになる。名古屋軍は石丸を兄藤吉の代わりとして内野手で起用、藤吉の復帰後も内野手としてプレーしていたが、藤吉の戦地帰りの影響からか連係プレーの息が合わず、グラウンド外では仲のいいこの兄弟が試合中に限っては喧嘩が絶えなかったといわれている。 

 連携の影響があったのか石丸は二年目には本来のポジションである投手としてプレーすることになる。一年目のシーズンは17勝19敗と負けが先行する内容だったが、当時の名古屋軍の全勝利数が39勝であったことを考えると立派にエースといえる働きをしていたと言えるのではないだろうか。翌1943年(昭和十八年)にはノーヒットノーランを記録、これは終戦前最後のノーヒットノーランとなる記録であった。10月7日の試合で石丸は4回を無失点に抑え降板、これが石丸のプロ野球選手最後の試合となる。

 すでに太平洋戦争の激化でプロ野球選手といえども召集は避けられず、たとえ戦地から帰還しても戦地での生活はプロ野球を続けられないほどに消耗してしまう現状から名古屋軍は石丸の召集を避けようとある奇策を採用する。それは石丸を大学生(日本大学法科夜間部)へ在籍させることであった。当時大学生には兵役が免除されており石丸が戦地に送られることは一旦は回避されたのである。

 しかし1944年からの学徒出陣により石丸も召集。予備士官となった石丸は海軍飛行科を希望する。その先に待つものは「特攻」であった。厳しい訓練中石丸はよく「鉄拳制裁」を喰らっていたという。これは「元プロ野球選手」だったという目につく存在だったからかもしれない。石丸はこの仕打ちに耐えていたが訓練の最中に行われた野球の試合で投手を務めた石丸は上官チームに対し本気の勝負を行い全く打たせなかったという。

 1945年いよいよ石丸にも特攻の前進基地である鹿屋に移動する命令が下る。石丸は出陣に際しての寄せ書きに「葉隠武士 敢闘精神」としたためたたあと「日本野球は」と書いている。寄せ書きを頼んだ同僚が「この期に及んでもまだ野球か!」と告げると石丸は「俺には野球しかないんじゃ!」と言い残して鹿屋に出発していった。
 5月11日、出撃の直前法政大学野球部に所属し、同じく特攻隊員となっていた本田耕一を相手にキャッチボールを行い、10球を投げ終えるとグラブを捨て笑顔で機上の人となり南に飛び立って行ったという。この日沖縄では航空母艦バンガーヒルが特攻機2機の命中を受け大破炎上した他複数の特攻機の突入が確認されているが、石丸の最後は定かではない。

 日本プロ野球選手のうち、特攻で戦死したのは石丸進一ただ一人である。

消えた春―特攻に散った投手石丸進一 (河出文庫)

牛島 秀彦/河出書房新社


戦場に散った野球人たち

早坂 隆/文藝春秋




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by narutyan9801 | 2014-09-25 00:17 | Comments(0)

景浦將 ~『初代』ミスタータイガース、フィリピンより帰還せず~

 今年完結した水島新司の野球漫画「あぶさん」あぶさんの主人公景浦安武は「景浦」という比較的珍しい姓である。景浦安武は実在の野球選手のモデルが複数存在すると言われているが、大きな影響を受けたモデルの姓を名乗ったと思われる。今回はあぶさんのモデルの一人となった「景浦將」を考察したい。

 景浦將は1915年(大正四年)愛媛県松山市で生まれている。松山は野球に縁の深い正岡子規の故郷で野球が盛んな地域であるが、少年時代の景浦は体格が小さく剣道に打ち込んでいた。松山商業学校(現在の松山商業高等学校)に入学後も剣道部に所属していたが景浦が三年の時に野球部員の数が不足する事態となり景浦は野球部にスカウトされる。野球部に編入してすぐに景浦は才能を認められレギュラーに抜擢、甲子園大会に四回出場してすべてベスト8以上、優勝1回、準優勝1回という成績を収めるのである。

 松山商業学校卒業後景浦は立教大学に進学し野球部の中心メンバーとして活躍する。1936年景浦は立教大学を中退、大阪タイガース(現在の阪神タイガース)に入団するのである。この年は日本プロ野球設立初年でありチームとしての順位は決めず短期間のリーグ戦やトーナメント方式の試合を行うなど変則的なシーズンであったが景浦は持ち前の長打力だけではなく投手としても活躍している。このシーズンの個人成績を見ると投手としての景浦の成績は際立っていて最高勝率と防御率の二冠を達成している。特に最多勝率は6勝0敗で勝率10割でありこの記録は1リーグ時代の1937年に御園生崇男、2リーグ制になってからは1981年の間柴茂有、2013年の田中将大の4人しか達成していない大記録である。

 翌年から景浦は打者中心の出場となり38年の二年間で首位打者1回、打点王二回を記録している(但し当時は年複数シーズン制)1937,38年は大阪タイガースが日本一を連覇しており景浦の存在が阪神連覇の原動力になったことは疑いようがない。また日本プロ野球史上最優秀防御率と首位打者の双方を記録した選手は景浦しかおらず、おそらく今後も現れないだろう。同じ頃ライバルチームのジャイアンツには大投手沢村栄治が在籍しており、ライバルの対決にファンは熱狂したといわれている。

 その一方で景浦は性格にムラがあり気分が悪いと平凡なフライも取りにゆかなかったという証言もある。球団と給料のことで確執があったとも言われているが、そういった「やんちゃ」な面もファンには魅力に映ったのだろう。実際の景浦は細やかな気配りのできる人物であり、指導者として期待していた識者もいたと言われている。そうした景浦の「指導者」としての可能性を奪ってしまったのはやはり「戦争」であった。

 1940年景浦に一度目の召集がかかり景浦は出征する。1943年に兵役を終えタイガースに復帰した景浦であったが、その体は消耗しきっていた。沢村栄治と同じく重い手榴弾の過度の投擲により肩は壊れ、身体の柔軟さは失われていた。持ち前の長打力は健在であったが守備力は落ち、負担の少ないファーストにコンバートされるが同じく戦地帰りの藤村冨美夫が守るセカンドとの間を狙えとのヤジが飛んだと言われている。1943年のシーズン終了後に景浦は引退を表明、家業を継ぐためという理由からであるが自らの身体を考慮した結果かもしれない。

 1944年景浦に二度目の召集がかかる。景浦の所属した部隊は当初は満州にあったが戦局の推移によりフィリピンに移動、その地で景浦は戦死したとなっている。しかし戦死の公報と実際の部隊の所在地が違っており最後の状況は分かっていない。景浦の最後の消息はマラリアで衰えた体を引きずるようにしながら食糧調達に出かけ、戻らなかったと伝えられている。公報と共に届けられた骨壺にはお骨は入っておらず、石ころが3つ転がっていただけだった。

 1965年景浦の功績を称え野球殿堂入りが発表される。初代「ミスタータイガース」の称号は「代打ワシ」の藤村冨美夫というのが一般的であるが景浦將とする意見もある。そして管理者もこの意見に賛成なのである。

あぶさん 107 (ビッグコミックス)

水島 新司/小学館

戦場に散った野球人たち

早坂 隆/文藝春秋




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by narutyan9801 | 2014-09-24 00:34 | 妄想(人物) | Comments(0)

沢村栄治 ~南海に消えた不世出の大投手~

 この項を書いているのは九月下旬、そろそろプロ野球のペナントレースの結果も見えてきて興味は個人タイトルの結果に移ってきている。そして実際にはタイトルとは関係がないが「沢村賞」を誰が取るか(はたまた該当者なしになるか)も大きな関心事である。今回は「沢村賞」の由来となった沢村栄治を考察したい。

 沢村栄治は1917年(大正六年)三重県で生まれている。京都商業学校(現在の京都学園高等学校)在籍中に全国中等学校野球大会(現在の甲子園大会)に出場し活躍を見せる。沢村は京都商業学校卒業後慶應義塾大学への進学の話がほぼまとまっていたが日本プロ野球の設立を計画していた読売新聞社が獲得に動き沢村は京都商業学校を中退、1934年(昭和九年)にメジャーリーグ選抜選手を招いて開催された日米野球では五試合に先発登板する。浜松で行われた試合ではルー・ゲーリックのホームランによる失点1に抑える好投を見せるが、それ以外の4試合では撃ち込まれてしまっている。ともあれ日米野球の開催により日本でも職業野球チーム結成の機運が高まり12月には「大日本東京野球倶楽部(のちの読売ジャイアンツ)」が結成され、沢村は主力投手として所属することになる。

 職業野球チームは結成されたものの日本にはプロ野球経営のノウハウもなく、さらなる問題として対戦チームが存在しなかった。そこで東京巨人軍はアメリカへ武者修行の遠征を行う。沢村は主力投手として活躍、そのピッチングに注目があつまりサインをせがまれるようになる。遠征も終盤に差し掛かったある日、試合前の練習中外野席から場内に飛び降りてサインをせがんだ男に沢村は何気なしにサインをしてしまう。ところが試合後その男が巨人軍のベンチにやってきて沢村のサイン入りの書類を見せ「沢村はいつ引き渡してもらえるのか?」と詰め寄ってきたのである。けっきょくこの椿事は巨人軍はアメリカの野球団体に加入していないのでサインは無効ということで決着したが、それ以降沢村はこの種の事件に巻き込まれないため(この事件は新聞に掲載され話題となっていた)サインには当時の有名女優の名前「田中絹代」を漢字は分からないだろうということで書いていたという。また酔っ払いに絡まれてサインをした際には「馬鹿野郎」とサインしたという話もある。

 翌年から開催された日本プロ野球リーグで沢村はジャイアンツのエースとして君臨、1937年までの4期(当時は年二リーグ制)で47勝、二度のノーヒットノーランを記録し日本プロ野球の絶対的エースとなるのである。

 しかし沢村にも戦争の影が忍び寄る。1938年に沢村は陸軍に徴兵される。プロ野球選手として鍛えられた肩は模擬の手榴弾を投げさせると演習場敷地の柵を越えて飛んでいったという伝説が伝わるがそれは投手生命である肩を酷使させざるを得ない状況に立たされるということであった。当時の日本軍には砲兵の火器支援が少なく、敵の防御抵抗線に対するもっとも有効な攻撃手段は手榴弾の投擲であった。より遠くに手榴弾を投げ込める人間が居れば投擲は任せたほうが部隊全体の安全に繋がるだろう。しかし当時の九七式手榴弾の重量は455g、硬式ボールの重量は約148g。三倍近い重量の手榴弾を投げ続ければ肩が壊れてしまうことは明白である。さらに沢村は徐州会戦で左腕を負傷、さらにマラリアに感染するなど満身創痍となってしまう。兵役満了で除隊した沢村はもう全力で投げられない状態であった。

 それでも沢村は投球ホームをオーバースローからサイドスローへ変化させ、コントロールを重視する技巧派のピッチャーとしてマウンドに帰ってきた。復帰後の1940年の勝率は0.875でこれは沢村のリーグ勝率としては最高の値である。さらに三度目のノーヒットノーランも達成している。

 しかし1941年に沢村は二度目の徴兵をうけ出征、フィリピン攻略戦に参加する。満期で除隊しジャイアンツに復帰するが、すでにピッチングが不可能なほど体は擦り減ってしまっていた。サイドスローからアンダースローへ再度フォームを変更するが制球は定まらず出場は試合途中の代打出場が主なものになる。沢村の現役最後の出場は1943年(昭和18年)10月24日の阪神戦の代打出場であった。

 戦局の悪化にも関わらず日本プロ野球は1944年(昭和十九年)も開催されることになったが、そのシーズン前に沢村は巨人から解雇される。本人は移籍も考えたが周囲の「巨人で終わるべきだ」の説得に現役を引退することを決意したといわれている。この時沢村27歳、戦争に削り取られてしまった選手生命と言えるだろう。

 現役を引退した沢村に三度目の召集令状が届いたのは昭和十九年十月のことである。第十六師団に配属された沢村はフィリピンに向かうがその途中で乗船した輸送船が12月2日に潜水艦に撃沈され戦死したとされる。享年27歳。
 沢村の死ははっきりしないところがある。沢村の所属は第十六師団であるがすでに師団はフィリピンに上陸しており沢村は充当で師団を追ったものであると推察される。12月2日にフィリピン近海で撃沈された輸送船は安芸川丸とはわい丸があるがそのどちらに沢村が乗っていたのかは分かっていない。日本野球史上に名を遺した大投手が最後を迎えた輸送船は特定できないのである。

 戦後、戦死した沢村の功績を称えジャイアンツは沢村の背番号「14」を永久欠番とする。これが日本プロ野球最初の永久欠番である。同年野球雑誌が私的に制定した「沢村賞(沢村栄治賞)」が現在も戦争に散った大投手の名を現在にも伝えているのである。

終戦のラストゲーム―戦時下のプロ野球を追って

広畑 成志/本の泉社



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by narutyan9801 | 2014-09-23 00:39 | 妄想(人物) | Comments(0)

糸瓜忌の翌日に ~ロンドンでの明治期日本人二つの別れ その2~

 昨日、子規と漱石の話が長くなって書けなかったもう一つの「別れ」
 
 子規の死の一か月前の明治三十五年八月、テムズ川河口に停泊する貨物船「若狭丸」で二人の日本人が対面を果たしている。一人は病を得て日本に帰国する作曲家瀧廉太郎、もう一人はイギリス留学中の詩人土井晩翠であった。二人にとって生涯最後の対面となった情景を綴ってみたい。


 瀧廉太郎は明治十二年東京で生まれている。父が内務省の地方官で転勤が多く、瀧も転校を繰り返す学生生活を送ることになる。この幼き日に各地の様々な抒情風景を感じたことはのちの作曲に大きな影響を与えたのかもしれない。15歳で東京音楽学校に入学した瀧は才能を認められ将来を嘱望される存在となる。

 一方の土井晩翠は明治四年の生まれで滝より八歳年上になる。晩翠の生家は質屋であったが父親は趣味で俳諧、和歌などを嗜み中国の歴史書も愛読していた。父の影響で晩翠も文学に興味を持つが家業を継ぐ立場から進学は諦め、今でいう英語の通信教育を受けていた。この成績が優秀だったため学業を許され現在の東北大学に入学し外国語を学ぶ。一方で文学の道でも詩集を発表するなど多方面で活動する文化人となってゆくのである。


 明治時代前半の日本は様々な外国文化を取り入れ、定着させることに躍起になっていた時代である。もちろん音楽もその一つであった。しかし外国の歌詞を日本語に訳し、それを原曲にはめ込んだ唱歌は歌いづらく馴染めないものであった。学校の音楽の唱歌としてふさわしい曲を作るべく当時の文部省はまず詩の作詞を土井晩翠に依頼、明治三十一年に「荒城月」が完成する。文部省は「荒城月」の作曲の公募を行い、滝廉太郎の作戦が選ばれることになる。こうして初の日本人による作詞、作曲の唱歌が旧制中学の「中学唱歌集」に収められたのである。「荒城の月」は現在で言うところの「詩先」で作られた曲だった。また「荒城の月」のイメージとして晩翠は故郷の仙台にある青葉城、または戊辰戦争で攻城戦を受けた会津の若松城、さらに青森県の九戸城をイメージしたと言われているが、滝のほうは幼い日に見た大分県竹田市の岡城、または富山県富山市の富山城をイメージしたと言われている。両者全く違う城をイメージしたのであるが、情景として荒城に浮かぶ月が容易に連想できる一体感がこの曲にはある。

 土井晩翠の妻は東京音楽大学出身であり瀧廉太郎の後輩にあたるのだが、「荒城の月」の完成まではお互いに意識したことは無かったようである。そして「荒城の月」の完成後も多忙な二人が出会う機会は訪れなかったが、手紙のやり取り等連絡を取り合っていたと思われる。程なく瀧廉太郎は留学生としてドイツに留学する。しかし瀧は到着わずか二カ月で肺結核を病み、静養につとめるが病状は悪化、無念の帰国を余儀なくされる。その帰国の途上で「荒城の月」の作詞者、作曲者は初めて顔を合わせることになったのである。対面は滝の病気もあり短時間で終わったようであり、また一対一の対面ではなく二人(もう一人は宗教学者の姉崎正治)で見舞いにいったと晩年の晩翠は語っている。



 帰国した瀧廉太郎は父の故郷で静養するが病状は悪化してゆき晩翠との対面から10か月後の明治三十六年六月二十九日に死去する。享年二十三歳、死の直前に作曲した「憾」(うらみ)が遺作となる。「憾」は「恨み」の意味とは違い「心残り」や「未練」といった意味であり若くして死んでゆく自分の心情を込めた題目だったのだろう。

 一方の土井晩翠は太平洋戦争後まで長命するが晩年は家族に先立たれ空襲で家も焼かれてしまい蔵書を焼失するなど苦労も多かった。昭和27年に青葉城址に「荒城の月」の詩碑が建立され、その落成式に出席するがその後体調を崩し二か月後に死去している。晩翠にとっても「荒城の月」はかけがえのない作品だったのだろう。

荒城の月―土井晩翠と滝廉太郎

山田 野理夫/恒文社

嗚呼!瀧廉太郎―知られざるその家族とふる里

財津 定行/日本文学館



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by narutyan9801 | 2014-09-21 02:41 | 妄想(人物) | Comments(0)

糸瓜忌の日に ~ロンドンでの明治期日本人二つの別れ その1~

 本日九月十九日は「糸瓜忌」正岡子規の命日である。明治三十五年九月十九日没、享年36歳。病魔に苦しめられながらも「俳句」という文化、それだけに留まらない日本の近代文学に大きな足跡を残した人物として知られている。

 他方今日はイギリス(大ブリテンおよび北アイルランド連合王国)からのスコットランド独立の是非を問う住民投票が行われ、スコットランドの独立は否決されている。連合王国からのスコットランドの「別れ」は今回は否決されたが、正岡子規の死の前後イギリスでは印象に残る日本人の二つの別れがあった。今回はその「別れ」を記してみたい。

 正岡子規の交友関係は司馬遼太郎著「坂の上の雲」前半で描かれた日本海軍将校の秋山真之との関係が有名であり二人は子規の死まで交流があったことは事実である。しかし両人の成人後その交流はお互いの「立場」を配慮しなければいけない間柄になる。秋山真之は日本海軍の参謀として作戦を統括する立場になり、子規も「ホトトギス」主宰としての立場がある。会えばまずお互いの近況報告からになり心情を語り合うゆとりは無かったような気配がある。「真さん」「升さん」という交流は成人後はできなかったのではないだろうか。子規には他にも学生時代多くの友人がいたがそれらの人々も多くは自分の「立場」を持ち心情を吐露できるような人物はほとんどいなかったと思える。そんな中唯一子規が心情を吐露できたであろう人物が「夏目漱石」であった。

 子規と漱石は東京大学予備門からの付き合いでいわゆる「幼馴染」ではない。しかし幼馴染の付き合いはお互いの家庭状況の影響を受けるのに対し家庭から離れた「学生」同士の付き合いはこの弊害を受けずに生涯の友となれることも多い。そして子規と漱石は「ウマが合う」友だったようである。
 学生時代ほとんど学校に出ることが無かった子規は生真面目にノートを取っていた漱石に度々ノートを借りて試験だけは合格していた。ノートを貸しに来た漱石に子規は寄宿舎の食事を出していたがいつもおかずが鮭だけだったので文句を言うと次の機会に子規は西洋料理の店に漱石を連れてゆき大盤振る舞いを行っている。これ以外にも何度か漱石に食事を奢っていて漱石は子規は相当金持ちの家の息子だと勘違いしていたらしい。
 しかし漱石が松山中学に赴任していたころ、日清戦争従軍後肺結核が悪化して故郷松山に戻ってきた子規が漱石の下宿先に勝手に上がり込み、勝手に出前を取っては勘定を漱石に払ってもらっている。挙句には東京に帰る旅費も漱石に工面してもらい、その旅費も奈良で使い果たし(柿食えばの句を作った所である)漱石に残りの旅費を送ってもらっているのである。漱石の性格を見透かしていたという子規の一人勝ちといったところだが、それだけに自分のわがままを受け入れてくれる漱石に強い友情を抱いていただろう。

 子規と漱石の手紙のやり取りは百通を超えていると言われている。子規の漱石へ宛てた最後の手紙は日付が明治三十四年十一月六日となっている。この手紙で子規は「僕が君に会うことはもう無いだろう」と死期の近いことを伝え「生きているのが苦しいのだ」と病の苦痛を隠すことなく漱石に伝えている。それでありながら「僕の目の明るいうち(現代風に言うなら「目の黒いうちに」となるか)もう一通よこしてくれぬか」と漱石からの手紙を心待ちにしている心境も吐露している。漱石は以前の手紙に留学先のロンドンの情景を面白おかしく子規に書き綴っており、病床の子規楽しませていた。すでに床を離れることなどできない子規に外国の情景を書き綴ることは通常は憚れることだろうが、それを敢えて書き綴った漱石に子規が伝えたかった感謝の表現かもしれない。

 考えてみると晩年の子規は「対等の友人」というものがほとんど居なかったように思う。献身的に看護してくれる家族、門人はいたのであるが、看護してくれる人に近い将来間違いなく訪れるであろう「自らの死」を語るわけにはいかない。家族には病の痛さで泣き叫ぶ姿を晒せても「自らの死」は語れないだろう。「立場」を持っている友人では心中を吐露しても「立場」というフィルターを通した答えが帰ってくる。子規にとって漱石とは「立場」の無い得難い無二の親友であった。そういう感じがするのである。

 いや~。あんまりに子規と漱石の話面白くてもう一つの「別れ」書けなくなっちゃったなぁ。
 書けるんだったら明日もう一つのほう書きましょうかね。

漱石・子規往復書簡集 (岩波文庫)

和田 茂樹(編集)/岩波書店

ノボさん 小説 正岡子規と夏目漱石

伊集院 静/講談社

正岡子規

夏目 漱石/null





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by narutyan9801 | 2014-09-20 01:24 | 妄想(人物) | Comments(0)

人体自然発火事件 ~人が灰になる事件の意外な要因~

 「北斗の拳」を知っている方なら「炎のシュレン」の名を覚えている人も多いだろう。いきなり涙を流しながら登場し拳王ラオウに挑むも攻撃は全く通じず逆に片手片足を折られ、最後に己が身を炎に包んでラオウを焼き尽くそうとするも頸椎をねじ切られて絶命する姿には何か忘れられないインパクトがあった。この炎のシュレンの技は作中では語られなかったが両手から炎を発し相手に打撃と共に火傷を負わせるというものであった。人間の体から炎を発するのは物理上は不可能なことなのだが、不思議なことに人体から自然発火したかのような事件が何件か起こっている。今回はこの「人体自然発火事件」を考察したい。

 成人の人間の体は約70%が水分でできており通常は炎にかざしたりしても燃え上がることはない。しかし「人体自然発火事件」では人体が自然に燃え上がったような状態で発見され、通常の火災では残る骨までも灰になって発見されることがほとんどである。さらに人体を完全に灰にするまで燃焼させたにもかかわらず人体の四肢の先端が完全な形で残ったり、延焼した部分が燃焼した人物の周辺だけに留まるなど通常人体を燃やした状況に収まらないことが多い。たとえば第二次大戦末期に自殺したアドルフ・ヒトラーの遺体は焼却し灰にするよう遺言されガソリン150リットルが用意されたのだがそれでも遺体を完全に灰にはできずに燃え残った遺体はソ連軍に回収されたとされている。人体を灰にするには相当な火力が必要であるにも関わらず、燃焼範囲が極めて狭い範囲に留まることがこの事件を不可解なものにしていたのである。

 具体的な人体自然発火事件を上げてみると
 ・ベントレー事件
 1965年12月5日に発生。当時92歳のジョン・ベントレーが焼死体で発見される。ベントレーは片足だけを残し(頭蓋骨なども残っていたと言われる)完全に灰となっていた。発見場所はバスルームで火の気は無く、彼の身体の周囲以外に燃えた形跡はなかった。

 ・メアリー・リーサー(リーザー)事件
 1951年7月1日に発生。当時67歳のメアリー・リーサーが焼死体で発見される。遺体は燃焼し萎縮した頭蓋骨といくつかの骨片を残して灰となったものの、彼女の周囲以外には延焼しなかった。

 この他にもいくつかの事件が発生しているが、その多くに共通することは
  ・犠牲者は比較的高齢で一人暮らしの場合が多い、
  ・遺体は高温で燃焼したように灰化しているが、遺体の周辺以外には延焼していない。
  ・犠牲者の体型は肥満体が多い。

 などが上げられる。発火の要因としてはタバコの不始末などの失火が考えられるが人体を灰化させるほどの熱を発生させる原因とは考えにくく、そのため原因として人体内部に含まれるリンが発火したという説、プラズマの発生による燃焼説、などが考えられてきたが具体性には欠けていた。ところが近年新たな説「人体ロウソク燃焼説」が浮かんできたのである。

 後漢を実質的に滅ぼした人物、董卓が誅殺後その亡骸のへそにロウソクの灯心を置いて灯したところ数日間燃えたという伝承がある。人体が熱に晒されると体内の脂肪が分解され液化する。通常この状態では燃えることは無いのだが灯心状のものがあると液化した脂肪分は毛細管現象により吸い上げられ、結果濾過された液化脂肪分は燃焼を続けることができるのである。燃焼自体は弱いものであり近くに可燃物が無い場合延焼が起こることは無いと考えられる。
 燃焼が弱いのであれば骨まで灰化することは不可能と当時は思われていたが、実際には比較的低温の炎に長時間晒されたほうが骨の灰化は進むという実験結果が示されている。さらに犠牲者の多くが高齢だったことも不可解な事件発生の一つの要因であったと思われる。人体の含水率は年齢を重ねると低くなり成人では70%だった含水率も高齢者になると50%程度まで落ちてくる。さらに骨密度の低下も人体灰化を促進させる要因と考えられるのである。また「人体ロウソク燃焼説」により衣服を被っていない四肢の先端が燃え残っているという謎も説明できるのである。
 
 「人体ロウソク燃焼説」によりいくつかの事件は推察が可能になっている。上記の事件例の二人の犠牲者は愛煙家であり度々タバコの灰を衣服に落としていたことが目撃されている。ジョン・ベントレーの場合はおそらくタバコの火が衣服(ローブ)に引火した後、バスルームへ消火に行きバスタブへ火のついたローブを投げ込んだ時点で力尽き、その遺体は消火できなかった火によって焼き付くされたのだと思われる。メアリー・リーサーは睡眠薬を服用しておりおそらく寝タバコが原因で衣服に引火、ロウソク現象により身体のほとんどが燃えてしまったものであろう。現在の鑑識能力からするとこれらの事件は「特異な失火による事故」で済まされてしまうかもしれない。
 しかし近年映像の保存技術が進歩し、様々な映像が残されるようになると人体発火の瞬間などをとらえた映像もネット上に上がるようになってきている。トリック映像であるものも少なくないと思われるが、もしかしたら人体には自然に発火するような謎めいた力を秘めているのかもしれない。


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 ベントレー事件の状況写真、燃え残ったジョン・ベントレーの片足と焼け落ちたバスルームの床。穴の上部に残っているフレーム状のものはベントレーが使っていた歩行補助器具である

謎 戦慄の人体発火現象―世界各国で事件続発 (サラ・ブックス)

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by narutyan9801 | 2014-09-03 01:00 | 妄想(オカルト) | Comments(0)