鼈の独り言(妄想編)

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ノルマン人の北方開拓 ~コロンブスに先んじた冒険開拓者達~

 学校の歴史の授業ではヨーロッパ人のアメリカ大陸発見をコロンブスの航海によるものと教えているが、現在ではヨーロッパ人のアメリカ大陸発見はそれ以前に行われ、入植も行われていたことが分かっている。この入植は最終的には定着せず、入植地は人々から忘れられ消滅していった。今回はこの「ノルマン人のグリーンランド及び北アメリカ入植」を考察したい。

 ノルマン人によるグリーンランド入植が記録上に搭乗するのは西暦980年頃からである。入植したのは「赤毛のエイリーク」と呼ばれた男で、この男の物語である「赤毛のエイリークのサガ」によれば彼は殺人を犯し3年間の国外追放になった際現在のグリーンランドを冒険し、帰国後この地への入植を熱心に説いて回ったという。この際入植希望者を引きつけるためこの地を緑溢れる地「グリーンランド」と名付けたと言われている。
 現在グリーンランドは氷に覆われた極寒の地であるが、赤毛のエイリークの命名は決して膨張とはいえない。この時代は「中世の温暖期」と呼ばれる温暖な気候が続き、たとえば日本の記録では温暖化が顕著化した現在とほぼ同じ頃に「桜」の開花が始まったことが記録されている(この時代の「桜」は「ソメイヨシノ」ではなくエゾヤマザクラだったことを考えると現在よりも温暖だった可能性が高い)北極付近でも気温が上がりグリーンランドでも森林が広がっていた可能性が高い。エイリークの入植活動は成功し、グリーンランドでは最盛期に二カ所の入植地に8,000人が暮らす規模にまで発展する。

 グリーンランドの入植から数年後、さらに西に陸地があることが発見される。サガの記録によると985年、グリーンランド入植へ向かう船が嵐で航路を外れ、西に流された際に陸地を目撃したというのが最初の記録である。その目撃談を元にレイフ・エリクソンという男がその地の探索を行い、15年後にはヴィンランドと名付けられた地に小規模の開拓地を持ったという記録が残っている。さらに記録によるとこのほかに小石に覆われた「へッルランド」、森林が多い「マルクランド」という二つの地を発見したと記録されている。グリーンランドでは入手できない木材を産するマルクランドは重要な発見であった。

 しかしヴィンランドの入植地を含め、この新たに発見された地は恒久的な入植は行われなかった。原因の一つとして考えられるのは先住民との対立があったからだろうと思われる。「サガ」の記録にも「スクレリング」と呼ばれる先住民との闘争が記されており、先住民との争いが当初からあったことが推察できる。また憶測であるが、グリーンランドの入植地も結局は「交易地」に止まっていたことも関係してくるかもしれない。入植を行ったとはいえグリーンランドの気候は厳しく農作物は自給自足がやっとではなかったと思われ、重要物品はおそらく交易によって得られていたのではないかと思われる。時代が下って1261年にグリーンランドの住民はノルウェー王国の支配を比較的すんなりと受け入れたのは交易の安定した継続を望んだことが背景にあるかもしれない。新たな土地に無理に入植して負担を増やすよりも交易品となるもの(毛皮等)を入手するために新たな土地へ行き来すればいいと判断があったと思われる。それでも北アメリカ大陸とグリーンランドとの行き来は数百年続き、ノルウェー王国の硬貨やヨーロッパで製造された物品が後に北アメリカで発見されている。

 14世紀に入るとグリーンランドの入植地は衰退してゆく。「中世の温暖期」が終わり地球は小氷河期と呼ばれる低温時代を迎える。グリーンランド周辺は海が結氷する時期が長くなり海氷も増えたため航海に危険が伴うようになり交易は衰え、農作物の収穫も激減したと考えられている。寒冷化が入植地衰退の最大の原因であろうが、それに加えてヨーロッパでの商貿易の中心が地中海へ移りアフリカから大量に毛皮、象牙などが輸入されグリーンランドの物品の取引が衰退したことも一つ要因となったとも考えられる。
 グリーンランドに二つあった入植地の一つは1350年頃に放棄、1378年には入植地の司祭も居なくなり1408年に一件の婚姻があったことを最後にグリーンランドの入植地の記録は途絶えてしまう。1450年頃にはグリーンランドからヨーロッパ人は姿を消したと考えられている。

 しかしヨーロッパではグリーンランドの記録は忘れられた訳ではなかった。連絡が途絶えて約300年後、ノルウェー王国はグリーンランドへ探検隊を派遣する。この探検隊の主な目的は中世の「カトリック」がグリーンランドに残っているかどうかの調査であったことは興味深い。探検隊が発見したのは廃墟と化し、氷に埋もれた入植地の跡であった。さらに1960年代にニューファンドランド島で開拓地が発見され、ノルマン人がアメリカ大陸周辺に到達したことが確実視されるようになった。この地はサガの記録に登場する「ヴィンランド」と推定されている。残る「ヘッルランド」はバフィン島、「マルクランド」はカナダのラブラドール地方と推定されているが、その証拠となる遺跡はまだ見つかっていない。

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 グリーンランドに入植を行った「赤毛のエイリーグ」後年に書かれた想像の肖像画で生前の彼の風貌を描いた絵画は見つかっていない。
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by narutyan9801 | 2013-09-27 15:27 | 妄想(歴史) | Comments(0)

アンカラの戦い ~イスラム圏の覇者を賭けた巨大帝国同士の死闘~

 国同士の「戦争」の勝敗のつき方には色々とあるが、もっとも端的な勝敗のつき方はその国の組織・権力を戦闘で破壊することであろう。その国が専制君主制をとっていればその専制君主を戦死させるか、捕らえるかすることである。今回はイスラムの強国の君主が合間見え、一方が捕虜になった「アンカラの戦い」を考察したい。

 アンカラの戦いは1402年7月20日、現在のトルコ共和国の首都アンカラ近郊でオスマン帝国とティムール帝国との間で行われた戦闘である。戦闘の規模は当時最大級といわれ、双方併せて30万人を越える人員が投入されている(号数だと100万人を越える)。戦闘の規模もさることながら、双方の君主が直接戦闘を指揮し、一方の君主が捕虜になるという決着の仕方でも注目される戦いである。

 オスマン帝国は1299年、オスマン・ベイが建国して以来小アジアで勢力を拡大してきたが、三代目君主のムラトⅠ世は東ローマ帝国の重要都市だったアドリアノープルを奪いヨーロッパ方面でも勢力を拡大してゆく、ムラトⅠ世はセルビア王国をコソヴォの戦いで破った直後暗殺されるが、嫡男であったバヤズィトⅠ世が戦場で即位しその指揮の元で数度に渡るコンスタンティノプール包囲を行うなどバルカン半島の多くをその領土としていた。

 一方のティムール帝国は1370年に成立したといわれている。建国したティムールは元々サマルカンド周辺の強盗集団の頭目であったが次第に頭角を現し、一代にして大帝国を築き上げた傑物であった。

 当初両帝国の間には直接的な接点はなかったが、お互いの領土拡張の結果領土が接するようになる。最初に接触を行ったのはティムール側で国境を設定しようという提案がなされたが、バヤズィトは提案に関心を示さなかった。さらにバヤズィトが滅ぼした小アジアの小君主がティムールを、ティムールの滅ぼした黒羊朝のカラ・ユーフスがバヤズィトをそれぞれ頼るようになり、両者の対立は深まっていったのである。

 1400年ティムールは西方遠征を決意し、オスマン領に攻め込みスィヴァスを占領するが、エジプトのマムルーク朝討伐を優先しエジプトに向かったため両者の激突は一時回避される。二年後再びオスマン領に侵入したティムールはバヤズィトに臣従を進める書簡を送るが、バヤズィトはそれを拒絶、両軍はアンカラの地で激突することになる。

 戦力はティムール軍20万、オスマン軍12万と言われておりティムール側がが戦力的には優勢だった。さらにオスマン軍はコンスタンティノプール包囲から急遽駆けつけたため疲労した状態で戦いは始まる。開戦後オスマン軍に加わっていた征服間もない部隊が寝返りを起こすがオスマン軍は奮戦し昼間に始まった戦いは夜半になるまで続いた。しかし結局はオスマン軍が敗走、退却しようとしたバヤズィトは落馬し(通風を患っていたと言われる)ティムール軍の捕虜になってしまう。

 戦闘ではティムールを・バヤズィト双方ともひけを取らない采配を見せたが、人心掌握術ではどうやらティムールの方が上手だったようである。バヤズィトは勇猛であるが、意固地になることもあったという。また彼はムスリムでありながらワインを愛飲していたと言われている。ワインはヨーロッパ遠征をしているうちに味を覚えたらしいが、イスラム教の戒律では飲酒は禁忌でありアンカラの戦いではムスリム教徒の裏切りの一因になった可能性は否定できない。一方のティムールもムスリムであるが、状況によってスンニ派になったりシーア派になったりと状況に応じた立場をとっている。建国初期の段階ではモンゴル帝国の血筋にあたるものを擁立するなど抜け目のない振る舞いをしており両君主の人柄が戦闘に与えた影響は無視できないのではなかろうか。ちなみにティムールも飲酒はしていたと言われている。

 バヤズィトは捕虜となった当初は丁重に扱われていたが、脱走を計って失敗した後、厳しい監視下に置かれるようになる。サマルカンドに護送される際には格子のついた籠に入れられ、馬に引かせて護送されている。こうした扱いが元なのか、アンカラの敗戦から8ヶ月後、バヤズィトⅠ世は死亡する。死因には病死説(前述の通風など)のほかに指輪に仕込んでいた毒薬を飲んでの自殺説もある。彼の死後オスマン帝国は彼の息子たちがそれぞれ君主を名乗り分裂、内乱状態に陥ってしまう。

 一方のティムールはアンカラの戦いの2年後、東方の大国明への遠征を決意しサマルカンドを発つが、遠征中に発病する。400キロの道のりを一ヶ月以上かけてオトラルに到着しここで遠征に参加する将兵へ労いの宴会を開くが、この宴会の後症状が悪化しそのまま帰らぬ人となってしまう。生涯の多くを戦場で過ごしたティムールにとってアンカラの戦いは最後の勝利となったのである。

 ティムール・バヤズィト両者の死後、分裂したオスマン帝国はバヤズィトの息子メフメットⅠ世が再統一し、やがてヨーロッパ諸国を震撼させる大帝国に成長する。それに対しティムール帝国はティムールの死後徐々に領土が縮小してゆき約一世紀後に滅亡する。一代の英雄という点ではティムールが勝っていたが、国の組織・機構という点では破れたオスマン帝国側が反省を踏まえて再構築し、それが長期の繁栄に繋がったというべきであろう。

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 アンカラの戦いで敗れ、捕虜となりほどなく病死したバヤズィトⅠ世。肖像画には描かれていないが、彼は隻眼、もしくは片目が極端に小さい「藪睨み」だったという。
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by narutyan9801 | 2013-09-26 17:45 | 妄想(軍事) | Comments(0)

大田正一 ~人知れず戦後を生きた特攻兵器「桜花」の発案者~

 人によって強弱の差はあるが、自らの死後自分の評価を気にするものである。例を挙げてみるとダイナマイトの発明者、アルフレッド・ノーベルは自分が発明したダイナマイトが戦争に使用されることに悩み、ダイナマイトその他の爆薬で築いた財産を有価証券に投資しその利子を人類の発展に貢献した人物に分配することを遺言しいわゆるノーベル賞を設立する。この遺言を起草する動機になったのは実の兄が亡くなった際ノーベルが亡くなったと取り違えた新聞が「死の商人ノーベル死す」と記事にし、自らの死後自分がどのように語られるかを考えた末の答えだったという。自分の死後の評価を気にするあまり時として人は「失踪」という選択肢をとってしまうことがある。今回は「失踪」という形で自分の行ったことの評価を消そうとした人物、特攻兵器「桜花」の発案者、「大田正一特務少尉」を考察したい。

 大田は大正元年(1912年)山口県の生まれで昭和三年(1928年)海軍に志願、通信兵を志しやがて攻撃機の偵察員(通信兼任)となり昭和一五年(1940年)に予備役編入、即日召集となり太平洋戦争時は輸送機の機長(偵察員兼任)を勤め、昭和一九年五月には第1081海軍航空隊に所属していた。太田が特攻兵器と関わりを深めるのは1081航空隊発足直後からである。大田は陸軍で開発中の爆撃機に牽引され目標へ投下、誘導され突入する有翼爆弾の構想を耳にする。この兵器の難点は確実な誘導装置がないことであると耳にした大田は「人が搭乗し操縦を行い突入する」という案を1081航空隊司令に発案し、航空技術廠への仲介を依頼する。
 航空技術廠では搭乗する人間はいないという意見が大半であったが、大田は「自分が乗ってゆく」と発言したためについに採用になったと言われている。当時ドイツでは報復兵器フィーゼラーFi103(V-1号)が実用段階に達していたが誘導方法に問題があり有人誘導を行う案が検討されていた(搭乗員は突入直前に脱出する事になっていたが計画は中止になる)この研究は日本にも情報として伝わっており有人爆弾の研究はある程度は進んでいたと思われる。ただ最終的に「人間が乗ったまま突入」という兵器を開発することに躊躇いがあり、それの後押しに大田が一役買ったというところではなかったろうか。

 実際に兵器を運用する責任がある軍令部でも人が乗ったまま突入する兵器への承認は中々出なかったが、大田は自らが所属する1081航空隊の隊員の署名を集め、ついに軍令部も折れ、有人爆弾は軍から正式に開発許可が降りることになった。

 しかし海軍中央を動かせたことに大田は慢心になっていたようで、有人爆弾の具体案を航空本部2課長の伊東祐満中佐が持って行ったところ、大田は「また新しい発明を考えて持って行きます」と言い放ち伊東中佐を鼻白ませている。
 1944年10月1日に桜花専門部隊である第721航空隊(神雷部隊)設立、大田もこの部隊に所属する。翌1945年3月21日に初の実戦投入がされるが、護衛戦闘機の不足、母機の能力不足により出撃した一式陸攻18機がすべて未帰還となり戦果は全くないという惨敗を喫することになる。その後も桜花は散発的に出撃するが、米機動部隊中枢までたどり着くことは困難で、機動部隊前面に展開するレーダーピケット艦に体当たりするのが精一杯という状況であり体当たりしても装甲の薄い駆逐艦では貫通してしまってから信管が作動してしまうということが続き結局桜花が上げた戦果は駆逐艦一隻沈没という状況であった。あまりの戦果に日本海軍も7月以降桜花の出撃を見合わせることになる。

 この頃大田は新聞の取材に応じ「将兵の命など考えるべき時期ではない」と発言したり海軍の方々を回って桜花での攻撃再開を訴えたが、大田の話に耳を傾けるものはすでにいなかった。さらに自ら桜花隊員になるべく偵察員から搭乗員へ異例の配置転換を認めてもらったが搭乗員となるには「能力不足」の判定が下され、仮に桜花攻撃が再開されたとしても自らの出撃はかなわない状況になったのである。

 やがて8月15日の終戦を迎えると大田は精神不安定となり隊内で軟禁状態とされる。戦時中の態度から同僚に報復を受けるのではないかと感じていた、または自分の発案した桜花で犠牲者が出た連合軍が「戦犯」として処刑するのではないか?と不安になったと言われている。大田は軟禁から隙を見て脱出、零式練習戦闘機に乗り込みそのまま飛去ってしまう。机に遺書めいた走り書きを残しておりそのまま海に突入、死亡したとして殉職扱いとなり大尉に昇進し、大田の軍歴はここで終わっている。

 ところが大田は死にきれず、戦後の混乱期知り合いを訪ね無心を行ったことが分かり、生存していることが確認されたのである。その後の調査で大田は変名で戸籍を取得、家庭を持ち1994年に亡くなったことが分かっている。

 大田の生涯を考えるのは非常に難しい面がある。大田の存在は桜花の開発のキーパーソンになったことは間違いないが、大田の発案前に有人爆弾の構想はかなりまとまっており、大田が居なくても実用化された可能性は大いにある。下士官上がりの将校をわざわざ「特務」という冠詞を付けて差別していた日本海軍が一特務士官の進言で兵器を開発したといのは通常では考えられず、大田の存在が無くても「桜花」は正式採用されていたのではないだろうか。
 大田に非があるとすれば自分の発言で特攻兵器が正式採用になったという慢心や、どこか人事のように構えてしまっていた点だろう。よく比較されるところだが同じ特攻専門兵器「回天」の発案者仁科関夫中尉は回天の初回攻撃に同じ発案者で訓練中殉職した黒木大尉の遺骨とともに搭乗し戦死している。単純な比較はできないが、やはり大田の態度には不遜な面もあったといえるのではないだろうか?

 それだけに太田の戦後には非常に興味があるところであるが、大田が自ら本名を名乗ったのは死の直前、入院した病院の看護婦であったといい、戦後の大田の心情を知るものは家族を含めて居ないと言われている。桜花の発案者の戦後は、過去をすべて捨て去っての新たな人生だったか?はたまた贖罪の人生だったか?それを知るのはおそらく大田その人のみであろう。

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 沖縄、読谷飛行場で米軍に鹵獲され調査を受ける「桜花」米軍は桜花の非人道性を嫌い「BAKA-BOMB」(馬鹿爆弾)と蔑みを込めて呼んでいた。
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by narutyan9801 | 2013-09-25 09:37 | 妄想(人物) | Comments(0)

ラウル・ワレンバーグ ~在ハンガリーユダヤ人を救い続けた男~

 ナチスドイツによるユダヤ人迫害は第二次大戦前から開始されていたが、連合国側が救済に乗り出すのは戦局が有利に傾いてきた1944年以降である(個人的な行動では日本の外交官杉原千畝の活動の方が時期的に早い)
 独ソ戦の形勢がソ連有利となり、ドイツの同盟国であるハンガリーが動揺するとナチスドイツはハンガリーを同盟につなぎ止めるためにハンガリーを武力占領する。当時のハンガリーにはユダヤ人が多く住んでおりナチスドイツのハンガリー占領は在ハンガリーユダヤ人の生命を脅かす出来事であった。そこに危険を承知で一人の人物が出向き、多くのユダヤ人を救うことになる。今回はその人物「ラウル・ワレンバーグ」を考察したい。

 ラウル・ワレンバーグはスウェーデン出身で1912年8月4日ストックホルムで生まれている。彼の父は彼の生前に亡くなっており、彼は父の名前を贈られ銀行家だった祖父に養育される。彼の曾祖父は外交官で日本への赴任経験もある人物で、祖父も世界各国を巡るやり手の銀行家であった。ミシガン大学に留学し建築学を学んだワレンバーグは祖父の「世界を見てほしい」という助言を聞き入れ、各国の貿易商や銀行へ就職し見聞を広める。第二次大戦の直前彼はハンガリー在住ユダヤ人コロマン・ラウアーの元で働くことになり、この出会いが彼を後に導くことになる。

 第二次大戦の勃発後、ナチスドイツは1942年に「ユダヤ人問題の最終解決」計画を打ち出し、ユダヤ人の絶滅計画を進める。当初ドイツと交戦中の国を含めてこの計画に異を唱える国はほとんど無かったが、戦局が連合国側有利となるとユダヤ人を救う機運が高まってくる。特にアメリカは多くのユダヤ人が国内に住んでおり、その声を無視できなくなったルーズベルト大統領が「戦時亡命者委員会」を作り、国家としてユダヤ人救済に乗り出すことになる。

 1944年3月にハンガリー王国がドイツに占領され、在ハンガリーユダヤ人に危険が迫ると「戦時亡命者委員会」はハンガリーに人員を派遣し、外交権でユダヤ人を救済するべぐ人選を進めていた。この時在ハンガリーのユダヤ人の中にコロマン・ラウナーがおり、彼の推薦でワレンバーグにハンガリーへの赴任が要請されたのである。

 ワレンバーグは世界各国を見てきており、その窮状を救うべく外交官としてハンガリーに赴くことを承知する。1944年7月にハンガリーに入ったワレンバーグは精力的な活動を開始するのである。
 彼はただ単に正義感溢れる紳士ではなく、大胆な言い方をすれば「有能な策士」であった。彼が使ったユダヤ人救済の小道具に「シュッツパス」がある。これはスウェーデン名義の保護証書でこれを持ったユダヤ人はスウェーデンの保護下にあるという証書であったが、実は国際法的にはなんら権限のないものであった。しかしワレンバーグはドイツ人が形式主義で何事も形式を重んじることを長年の経験から知っておりこうした「ハッタリ」も有効と判断して利用している。またスウェーデン国旗を掲げた即席のスウェーデン国家事務所を設置し、多くのユダヤ人を受け入れている。ユダヤ人を強制収容所に護送する責任者のスキャンダルを掴み、護送中のユダヤ人を解放するなどの汚れ仕事もこなしており、彼は多くの業績を積み重ねていた。

 1944年10月にハンガリーではクーデターが起こり、親ナチスの「矢十字党」が政権を握る。さらにワレンバーグの活動に業を煮やしたナチスドイツはハンガリーにユダヤ人迫害の実行中心人物とも言える「アドルフ・アイヒマン」を送り込む。アイヒマンはワレンバーグの活動に国際法上の根拠が無いことを見抜き容赦ないユダヤ人狩りを実行し、さらにはワレンバーグの命を奪うよう画策する。外交官であるワレンバーグは直接逮捕などはできないため、ワレンバーグの自家用車にトラックを突っ込ませるなど数度試みられているが、ワレンバーグは幸運にもその魔手を逃れることができた。

 アイヒマンとワレンバーグの暗闘は三ヶ月間続いたが、1945年1月16日にハンガリーの首都ブダペストはソ連軍に占領され、ワレンバーグとナチスドイツの戦いには終止符が打たれるのである。しかしその直後ワレンバーグは忽然と姿を消してしまう。ブダペストを占領したソ連軍との交渉に一人赴いたワレンバーグは二度と戻らなかったのである。
 ソ連がなぜワレンバーグを拘束したのかという疑問にはいくつかの説がある。まずアメリカのスパイであるという説。スウェーデンの外交官というのは表向きでアメリカの要請でハンガリーに赴いたのは周知だったろうから、ソ連がスパイと疑う根拠はある。また一つの説としては在ハンガリーのユダヤ人を組織して反ソ連の盟主になる可能性を考慮したため拘束を行ったという説。さらに発展して対独戦争終結後、ソ連邦国内や占領地内でユダヤ人を組織しての反共産活動を行うことを危惧したという説。いずれにしてもワレンバーグの行動力を警戒しての拘束であったことはまず間違いないところだろう。

 ワレンバーグに命を救われたユダヤ人が中心となり「国際ワレンバーグ協会」が設立され、ワレンバーグを救うべく活動したが、ワレンバーグの消息はようとしてしれなかった。1957年に当時のソ連外務次官グロムイコは「ワレンバーグは1947年に心臓発作で死亡した」と発表されたがその根拠は示されず、その後もワレンバーグを見たという目撃情報もありソ連軍に赴いた後のワレンバーグがどうなったかは今もなお不明のままである。

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                    ワレンバーグが発行した「シュッツ・パス」
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by narutyan9801 | 2013-09-24 12:44 | 妄想(人物) | Comments(0)

陸上自衛隊機乗り逃げ事件 ~前代未聞の飛行機乗り逃げ事件~

 酒を嗜むものは大小の程度あれど酒が過ぎて失敗をやらかした経験があると思う。軽微なものであれば「酒が度を過ぎた」で済まされるが刑法に抵触するようなことに発展する場合もある。今回は「度を過ぎた」では済まされない「陸上自衛隊機乗り逃げ事件」を考察したい。

 昭和48年(1973年)年6月23日午後9時頃、栃木県宇都宮市にある陸上自衛隊北宇都宮駐屯地の滑走路から突如一機の飛行機が離陸を始めた。すでに空港には人はおらず、制止する間もなく飛行機は離陸、南に飛び去ってしまう。突然の事態に駐屯地内は騒然となり直ちに隊員の点呼と飛び去った飛行機の特定が行われた。その結果駐屯地飛行場に駐屯していた航行学校宇都宮分校所属整備士の三等陸曹の行方が分からず、格納庫の扉が開かれ、中に駐機していたLM-1連絡機が消えていたことが判明し、この三等陸曹が操縦して飛び立ったと思われたのである。

 三等陸曹はこの日酒を飲んでいたと言われており、酒に酔った三等陸曹が飛行機を操縦したいという衝動に駆られ、非常時に備えて施錠せず閂をかけただけの格納庫の扉を開きそのまま飛び立ったのではないかという推測がされた。
 しかし三等陸曹は整備員であり正規の操縦訓練を受けてはいない。整備士として搭乗を行ってはいるが乗り逃げの機体であるLM-1への搭乗は合計で2時間強であり見よう見まねで操縦を行えたとしても酒が入った状態でベテランパイロットでも難しい夜間離陸と低空飛行を行えたかはかなり疑問が残る。

 宇都宮を離陸したLM-1はその後も低空飛行を続けたらしくレーダーでの捕捉は出来なかった。無線連絡も応答が無く、搭載されていた燃料が尽きる5時間20分後までに着陸したという情報は得られなかった。この間1300kmの飛行が可能で、カタログ上では北はサハリン、北方領土、西では北朝鮮、南西であれば奄美大島、南であれば硫黄島まで到達できる距離である。自衛隊は翌日から一ヶ月にわたり行方不明機の捜索を行ったが、手がかりは全く掴めなかった。その後も乗り逃げされた機体、三等陸曹の行方は全く不明のままである。

 それにしても酒に酔った人物が警戒が厳重(と思われた)自衛隊基地内を誰にも気づかれずに格納庫まで到達し、飛行機を動かせたという事は驚愕ではある。この事故を巡り関係者の管理不足が指摘され処罰が行われている。当の三等陸曹は行方不明のまま懲戒免職処分になっている。
 しかしこの事件、件の三等陸曹が乗り逃げしたという客観的な証拠は見つかっておらず、ただ飛行機と三等陸曹が同時に消えてしまったという事だけからの「推測」である。もしかしたら真実はもっと複雑怪奇なものである…可能性はあるかもしれない…。

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飛び去ったLM-1の飛行可能範囲(赤丸の内側)実際は空気抵抗の高い低空飛行をしたため燃料消費が大きく、到達可能地域はこれよりも小さくなると思われる。この範囲のどこかに今もLM-1は眠っているかも知れない。
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by narutyan9801 | 2013-09-23 09:47 | 妄想(事件・事故) | Comments(0)

キノドン類 ~恐竜と哺乳類との生存競争に敗れた?動物~

 動物の分類の一つである哺乳類の起源は古生代石炭紀にまで遡る。デボン紀後期に現れた両生類は産卵及び初期の生活環境は水中であり、成体も長期間の陸上生活は出来ず水辺付近から離れることが出来なかった。この両生類の中から陸上生活に適応できる「有羊膜類」が出現し陸上へ生活環境を広げてゆく、石炭紀にこの有羊膜類は二つに分岐する。一つは現生爬虫類、鳥類、恐竜などが含まれる双弓類。もう一つが哺乳類が含まれる単弓類である。単弓類の系統は現在は哺乳類だけが生存しているが、古生代末から中生代の終盤、ほぼ恐竜が地球上の支配者だった時代にその足下では哺乳類と生存競争を繰り広げた動物が存在したのである。今回は哺乳類との長い間生存競争を繰り広げ、破れ絶滅した「キノドン類」を考察したい。

 単弓類の特徴は頭蓋骨にあいた一対の「穴」と「異歯性」である。「一対の穴」は人間の頭蓋骨では脳の発達により頭蓋骨が膨張したため塞がってしまっているが、こめかみの部分と頬骨のくぼみが穴の痕跡である。異歯性とは歯の生える位置によって形状が異なることで、我々人間も分類上は単弓類に属することになる。
 単弓類は巨大な「帆」を持つエダフォサウルスやディメトロドンが含まれる盤竜目を経て獣弓類に進化し、このころすべての大陸が集まって出来た超大陸「バンゲア」全土に進出するほど繁栄する。この獣弓類は体温を維持する恒温性、体毛など現生哺乳類とほぼ変わらない特徴を備えていた。というよりも現生哺乳類も分類上は獣弓類に含まれるのである。
 獣弓類はディノケファルス亜目、異歯亜目、獣歯類などに分岐してゆく。このうち獣歯類はさらに分岐し、いくつかのグループが出来る。そのグループの中に「キノドン類」が含まれるのである。

 キノドン類は水辺に生息し、現在のカワウソに近い生態を持った動物として現れたらしい。水辺という限られた環境に適応していたので獣歯類のグループでも小さく目立たない存在だった。そのキノドン類に一大転機が訪れる。

 古生代ペルム紀末、超大陸パンゲアは地球のマントル対流に影響を与え、現在のシベリアでマントル対流が地表面まで達し大噴火を起こす。この地球規模の異変はそれまでの生態系を一変させ、地球上の9割の生物が死に絶える大量絶滅が起こるのである。この大量絶滅の後、空白となった生態系に生き残った生物が拡散適応してゆくが、その中にキノドンの仲間も加わっていた。

 キノドン類が生き延びた理由は様々な説が上げられている。キノドンは現生のカワウソのように巣穴を作って生活しており環境の変化に適応できたという説。噴火により酸素濃度が下がったが、横隔膜が発達したキノドンは低酸素に適応できたという説などである。ともかくもキノドンは同じく低酸素状態に気嚢というシステムで対応し大量絶滅を逃れた恐竜の祖先、異歯亜目のディキノドンらと生息環境を奪い合ったのである。そして拡散適応を繰り返すうち、キノドンの仲間から新たなグループが進化してゆく、顎の骨の一部が耳に入り、耳小骨が形成された動物、現生の哺乳類はキノドンから進化した直接の子孫にあたる。

 ペルム期末の絶滅を逃れ繁栄したキノドン類であるが、三畳紀末再び大量絶滅が地球を襲うのである。この大量絶滅でディキノドン類は絶滅、キノドン類も多くの種類が絶滅してしまう。一方恐竜は大量絶滅の影響は小さく、その後他の絶滅動物の生息環境を奪い、中生代末までの繁栄の礎を築くのである。

 キノドンは再び限られた生態系の中で生息する動物になったのであるが、今回は強力なライバルが存在した。自らの直系の子孫である哺乳類である。哺乳類の四肢は胴体から垂直に延び、上腕骨が胴体から斜めにでているキノドン類よりも洗練された体を持っていた。昼間は恐竜の圧迫、夜は哺乳類との生存競争というキノドンの戦いはジュラ紀を通して続けられるが、次第に生息数は減っていった。確実にキノドンの化石と判別されたものは石川県で発見された白亜紀前期のものが最後である。

 ところがカナダで近年、恐竜絶滅後の6,000万年前の地層からキノドンのものではないかと思われる顎の化石が発見されている。この化石がキノドンのものであるかは賛否両方の意見があり謎のままである。「クロノペラテス(時の放浪者)」と名付けられているこの化石の主は、地上の支配を巡って破れた相手である恐竜の最後を見届けた後、絶滅したキノドンが地上に残そうとした証なのかもしれない。

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とある恐竜展のポスターに描かれたキノドン類。表情はあまりにあまりなものがあるが、用途によって形状が違う歯、全身を覆う体毛、それとはうらはらにワニのような形状の前肢とキノドンの特徴をよく捉えている。
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by narutyan9801 | 2013-09-20 09:05 | 妄想(生物) | Comments(0)

谷川岳宙づり遺体収容 ~宙づりの遺体収容の為取られた非常手段~

 人が同胞の遺体を「葬る」ことを始めたのは10万年前のネアンデルタール人にまで遡れるという。現世人類のホモ・サピエンスも出現直後から遺体を埋葬していた事が遺跡から分かっている。遺体の埋葬は最初は遺体の腐臭が肉食動物を呼び寄せてしまいそれを防ぐためという危険防止からだと言われているが、人間の精神世界の成長により遺体を葬るという行為には死者の尊厳を守るという要素も付加されるようになった。遺体は時がたてば腐敗、分解が進み正視できない状況になる。古代から近世での刑罰には遺体を「晒す」という刑罰があった。遺体が人目に晒されるのは遺体となった個人の尊厳に関わることと人は捉えるようになったのである。一方で遺体に故意に損傷を加えることは「死体損壊」という罪に問われることになる。この遺体を「晒される」ことと「損傷を加える」ことのどちらか一方を選択しなければならない場合、人はどちらを選択することになるだろう?今回はそんな疑問の回答の一つとなった「谷川岳宙づり遺体収容事件」を考察したい。

 群馬県と新潟県の県境に位置する谷川岳は知名度が高く標高も2,000mに満たない山であるが、複雑な地形と急峻な岩場、めまぐるしく変わる気象条件から登山の難航度の高い山として知られている。記録が残っている昭和六年(1931年)から平成一七年(2005年)までの遭難死者数は781人に上る。単純な比較はできないがこの死者数は世界の8,000m級の登頂を目指し、遭難死した死者数を上回る。群馬県では谷川岳遭難防止条例を施行し入山届の義務化、入山前の事前情報の講習など遭難防止対策を行っているほどである。

 昭和三十年9月19日、群馬県警察谷川岳警備隊に「一の倉沢で助けを呼ぶ声を聞いた」という通報が入る。警備隊は一の倉沢に急行し、衝立岩と呼ばれる岸壁に宙づりになっている二人の男性を発見した。
 二人の男性は前日に入山した神奈川県の山岳会の会員で、発見時の呼びかけに反応が無く、双眼鏡からの観察によりすでに死亡していることが確認された。遭難原因は不明だが何らかの理由で滑落し、オーバーハングした岩場にザイルが引っかかり宙づりとなった時点では両名、またはどちらは意識もあったが、その後吹きさらしの風に当てられての低体温症、またはザイルの圧迫により死亡したものと思われる。
 状況は一人が第一ハングと呼ばれるオーバーハングで、もう一人がその上の第二ハングと呼ばれるオーバーハングで宙づりとなっていた。二人の身体はザイルで繋がっており、お互いの体重が釣り合い引っかかった状態になっていると推察された。

 事故現場となった衝立岩はロッククライミングの難所中の難所として知られ、事故当時ここの登頂成功者は合計15名しかかなかった。二人が所属した山岳会のメンバーは衝立岩を登坂し下の方の遭難者の脇まで到達、ここから何らかの方法でザイルを切断し二人を落下収容させることを検討したが二次災害の危険性も考慮され、山岳会の救助は断念されることになった。そして非常手段として自衛隊の狙撃部隊がザイルを銃撃して切断、遺体を落下させて収容することとなったのである。

 9月24日、陸上自衛隊相馬原駐屯地から第一偵察中隊の狙撃部隊が現場に到着する。当初狙撃部隊は狙撃ライフルでザイルを狙撃して切断することとしていたが、射撃地点からザイルまでの距離は有効射程距離外で、さらに沢の複雑な地形から発生する気流により狙撃で命中させることはできなかった。自衛隊部隊は作戦を変更し軽機関銃の射撃でザイルを切ることを試みるが、約1,000発の射撃でもザイルを切ることができなかった。
 そこで自衛隊部隊は作戦を変更、ザイルが引っかかっている岩場を銃撃することにする。狙撃点が固定されていることに加え、岩場を銃撃することによりザイルが移動し、岩盤がザイルを削り取る効果も加わって約300発の射撃によりザイルは切断、二人の遺体は沢に落下、滑落後ようやく遺族の元に返ってきたのである。この一部始終は写真や映像に記録され、今でも目にすることがある。

 この事件は色々な意味で反響の大きな事件であった。遺体は落下後滑落し相当大きな損傷が加わることが予想される。それでもなお遺体が「晒される」ことは耐えられないという遺族の気持ちはよく分かる。その点で当時の映像技術はいい意味で「荒かった」と言える(編集カットの部分も存在する)。仮に現在同様の事件が起これば犠牲者の尊厳がどれだけ保てるか…。Youtubeやtwitterに投稿され問題視される画像を見る度この事件が脳裏に浮かぶのである。

 事件を伝えるニュースフィルム(Youtubeより)

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                    Google Earthより谷川岳、一の倉沢
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by narutyan9801 | 2013-09-19 09:26 | 妄想(事件・事故) | Comments(0)

浦風型駆逐艦 ~完成しなかったタービン・ディーゼルハイブリット駆逐艦~

 近世以降国同士の戦争は直接交戦を行わなくても様々な面で他国に影響を及ぼすようになる。日本でも第四次中東戦争で「オイルショック」が起こったことは人々の脳裏に刻まれているはずである。今回は戦争により予定していた部品が届かず、その後数奇な運命を辿った二隻の駆逐艦「浦風型駆逐艦」を考察したい。

 日露戦争末期の日本海海戦で魚雷搭載の駆逐艦が夜戦で活躍したことにより日本海軍は駆逐艦の整備拡張に力を入れることになる。明治四十四年(1911年)に竣工した海風型駆逐艦はイギリスのトライバル級駆逐艦を参考にした大型駆逐艦で計画速力33ノットを実現すべくそれまでのレシプロ機関からタービン機関を採用するなど様々な新機軸を取り入れた駆逐艦であった。特に機関出力は当初の見込みよりも出力が増え、実際の運用では速力35ノットを出すことができたという。
 反面駆逐艦としては神風型は建造にコストがかかり、維持費もかかることが問題になった。駆逐艦は数を揃えることが重要で、維持費の増大は大きな問題であった。特にタービン機関の燃費が悪いのが問題視されたのである。神風型はタービンと機関を直結しており、戦闘時の出力に合わせた設計をされていた。機関は巡航用1軸、戦闘時用はそれに2軸を加えて3軸での運転としたのであるが、それでも巡航運転時の燃費が悪く、次世代の駆逐艦では巡航運転時の燃費改善が重要な問題とされたのである。

 当初はタービンとレシプロ機関との併用が検討されたが、レシプロ機関は廃熱のためのスペースが大きくなり、艦体が大きくなることから除外された。苦慮する日本海軍に英国の造船会社ヤーロー社が「タービンとディーゼル機関の併用」を持ちかけてきたのである。
 当時ディーゼル機関は開発されてまだ日が浅く、艦船への搭載は本格的に始まっていなかったが内燃機関で廃熱処理にさほどのスペースを要さず、重油を燃料として使用できるなどのメリットもあり、日本海軍はこの提案に乗り、ヤーロー社に二隻の駆逐艦を発注することにする。これが後の「浦風型」である。しかしヤーロー社、そしてその後ろに控えるイギリス海軍としてはタービンとレシプロの併用艦の実験として他国が金を出してくれるといった面持ちではなかったろうか。

 ところが浦風型建造中に第一次大戦が勃発し困ったことが起こってしまう。浦風型に搭載する予定だったディーゼル機関に必要なフルカン式継手(流体継手)はドイツのフルカン社の製品で、ドイツとイギリスが交戦国となってしまい入手できなくなってしまったのである。やむなくヤーロー社は浦風型に従来通りのタービン機関を搭載し完成させざるを得なくなってしまった。
 これには日本海軍の落胆も大きかったと思える。これより少し早い時期に日本海軍は英ビッカース社に巡洋戦艦「金剛」を発注し、その図面を譲り受け「榛名」「比叡」「霧島」を建造している。おそらくは浦風型駆逐艦も図面を譲り受け、国内で量産しようという目論見だったのではなかろうか。しかし浦風型が既存の技術のみで建造された艦となってしまい、その目論見は外れることになった。
 ただ、浦風型は日本駆逐艦としては初めて重油専燃ボイラーを搭載し、53cm魚雷を搭載するなど当時の日本駆逐艦よりも進んだ技術を持っていた点もある。しかし最大速力は30ノットと平凡で浦風型の竣工から二年後に日本国内で建造された磯風型よりも劣り(ただ磯風型のボイラーは重油と石炭の混合缶)燃費も従来型と変わらなければ浦風型の建造は徒労に終わったと感じても仕方のないところだろう。

 日本海軍は建造した浦風型の扱いに苦慮したが、第一次大戦が勃発したヨーロッパで思わぬ要望が舞い込む。当時連合国側に参戦していたイタリア海軍は駆逐艦の不足に悩んでおり、日本海軍に建造中だった浦風型二番艦の「江風」の購入を申し込んだのである。日本海軍もこれを了承し、「江風」はイタリア海軍駆逐艦「オーダチェ」として完成、第一次大戦で使用されることになる。売却代金を得た日本海軍はその代金を元に新型の駆逐艦を建造、この駆逐艦のボイラーは重油専燃缶でギアを装備したタービン機関を搭載した新駆逐艦は速力39ノットを記録する。この駆逐艦は売却された駆逐艦の名前を継承し「江風型」と名付けられることになる。

 一方日本海軍所属となった浦風は日本に回航されたが、単艦のため水雷戦隊への編入は困難であった。一時的に神風型で編成された駆逐隊へ編入されたが短期間で外されている。浦風に与えられた任務は揚子江での警備任務であった。浦風は昭和一一年に除籍されるが、その間に五藤存知、栗田健男、西村祥治などの太平洋戦争時に水上部隊を率いる提督が駆逐艦長を勤めている。除籍後浦風は横須賀海兵団の練習船を勤めていたが太平洋戦争末期の横須賀空襲で被弾、着底し戦後解体されその生涯を終えている。

 一方イタリアに売却された旧「江風」は第一次大戦を生き延び駆逐艦籍のまま第二次大戦にも参加、イタリア降伏後ドイツ海軍に接収されドイツ海軍水雷艇「TA20」となる。大戦末期の1944年11月1日に連合国水上艦艇と交戦し戦没、その数奇な生涯を閉じている。
 ある意味お荷物として誕生した浦風型であるが、竣工後は長く使用され共に戦闘でその生涯を閉じたことに関しては本望だったのではないだろうか。

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浦風型駆逐艦「江風」→イタリア駆逐艦「オーダチェ」→ドイツ水雷艇「TA20」と歩んだ晩年の姿。アラド Ar 196との2ショットである。
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by narutyan9801 | 2013-09-18 09:09 | 妄想(軍事) | Comments(0)

洞爺丸の見た青空 ~ベテラン船長や気象庁職員も惑わした特異な気象~

 昭和二九年9月26日午後5時頃、台風15号の接近により運行を見合わせていた青函連絡船上り4便の洞爺丸は風雨が止み晴れ間が見えたため定刻より4時間遅れの18時30分に出航することを決定、出航したものの港外で暴風雨に巻き込まれ、午後10時45分頃に沈没する。「洞爺丸事故」と呼ばれるこの事故では午後5時頃に見えたつかの間の晴れ間が事故の大きな要因となっている。今回はベテランの船長だけではなく、気象台すらも間違えた洞爺丸台風の「目」について考察したい。

 洞爺丸台風は昭和二九年(1954年)9月26日未明に九州南部に上陸、九州から中国地方を縦断して日本海に入り、時速約110km/時という猛烈なスピードで北上していた。このままの速度で進んだ場合、青森に再上陸、17時頃に函館にもっとも接近しその後急速に離れてゆくと思われていたのである。
 洞爺丸の近藤平市船長は天気に詳しく、自ら天気図を描いて天気予報をするため「天気図」のあだ名を持っていた。当初近藤船長は14時40分出航予定であった上り4便は台風接近前には陸奥湾に入れると予測していた。ところが他の連絡船が運行休止しその乗客を洞爺丸に移乗させるのに手間取り、また断続的に起こった停電で船内に通じる可動橋が動かなくなって鉄道車両の積載に時間を要するうちに風雨が強くなり15時10分に出航を延期、函館湾内で台風をやり過ごすことを決意したのである。

 17時頃風雨が弱まり空には青空も見え、海鳥が飛んでいる姿を目撃した近藤船長は函館港が「台風の目」に入ったことを確信し、この後一度吹き返しの風があるものの台風は急速に離れていくと判断、18時40分の出航を決意する。同じ頃函館海洋気象台も台風の目に入ったことを札幌管区気象台に通報している。気象のプロから見ても函館は台風の目に入ったと思われた。しかしこのつかの間の青空は台風の目の通過では無かったのである。

 日本海に入った台風15号は前線を伴い、函館に近づく頃には温帯低気圧になっていたと推測される。台風(熱帯低気圧)と温帯低気圧は勢力を維持するエネルギーの供給方法が違う。台風は中心付近に空気を凝縮し、その潜熱をエネルギーとするのに対し温帯低気圧は温度の違う空気が接触し熱の変換をエネルギーとしている。台風から温帯低気圧に性質が変換されたことにより台風15号(この時点ではすでに温帯低気圧になっていたと考えられるが、便宜上台風15号のままで話を進めたい)は勢力が再発達したと考えられている。さらに台風の中心から東南東に閉塞前線が延び、閉塞前線が温暖前線と寒冷前線に分かれるところに低気圧、といえないまでも気圧が低い部分が発生したと思われる。この部分が「疑似的な台風の目」となっていた可能性が高い。
 ここから先は自分の想像であることをお断りして話を進めたい。「疑似的な台風の目」に南から乾燥した空気が入り込み一時的な晴れ間を作っていたと思われる。この「南からの乾燥した空気」は「白神山地からのフェーン現象」であったのでは思う。台風15号、及び「疑似的な台風の目」へ向けて南から吹き寄せた風は白神山地の南斜面で降雨をもたらし、山地を乗り越えた風がフェーン現象となって疑似台風の目付近に吹き込んだのではなかろうか?温暖前線が形成された付近では冷たい空気が持つ水蒸気が暖かい空気とぶつかり降雨をもたらすが、温暖前線が通り過ぎてしまえば一時的に晴れ間が見えるという状況は十分説明できると思う。

 洞爺丸にとって不幸だったのは台風15号の進路上に高気圧があり、移動速度が急に遅くなったことと、台風の中心の予想到達時間にたまたま「疑似的な台風の目」が通過してしまったという偶然が重なったことも大きい。当時はまだ気象衛星もなく、現在のように分刻みで台風の状況が掴める気象観測状態ではなかった。限られた情報を補うのは知識と経験でしかなく、その知識と経験も台風15号の特異な状況を判別することは不可能であったろう。

 洞爺丸沈没による死者は1,155人と言われているが、犠牲者の数は諸説あって未だにはっきりとわかっていない。この日函館港外では他にも4隻が沈没しており合計で1,430人が犠牲になったと言われている。日本の気象予報は現在世界でもトップクラスであるが、その技術はこうした大勢の災害犠牲者を出した経験から成り立っているのである。
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洞爺丸台風の目と「擬似的な目」の位置関係を非常にざっくりと表してみました。本文には書かなかったのですが洞爺丸台風の進路が予想と違い北海道の西を通ったのも誤認してしまうファクターになってしまったと思われます・
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by narutyan9801 | 2013-09-17 12:50 | 妄想(事件・事故) | Comments(0)

紫雲丸 ~次々と起こる事故は名前が由来だったのだろうか?~

 言葉には本来の意味とは異なる別の意味を持たせる「隠語」という使用方法がある。この「隠語」はたいてい直接表現すると色々と不都合が起こるため別の言葉で柔らかく表現することを目的とするか、特定の人物、集団に理解されるような使い方をする。時として「隠語」は発生した事象への原因や結果への相乗として用いられることがある。「ジンクス」や「運・不運」に結びつけられたりして用いられる「隠語」は数多い。今回は度々事故を起こし、名前が事故の原因ではないかと言われ続けた船「紫雲丸」を考察したい。

 紫雲丸が航行していたのは現在の岡山県玉野市と香川県高松市間を航行していた宇高連絡船である。宇高連絡船は旧国鉄の宇治駅と高松駅とを接続する鉄道連絡船であった。戦前より宇高連絡船は輸送料の増大への対応を進めていたが太平洋戦争勃発により計画は中断、昭和一七年(1942年)に九州ー本州を結ぶ関門トンネルの開通により余剰となった関門連絡船を転属させて応急的な対応をするに留まっていた。
 戦後も更なる輸送量の増大が見込まれ、また本格的な鉄道車両の船舶輸送を行うため新造の連絡船建造の機運が高まり、これに応える形で建造されたのが「紫雲丸型」三隻で紫雲丸はそのネームシップに当たる。

 紫雲丸はほぼ同時期に建造されていた青函連絡船「洞爺丸型」と似たような外見を持ち、船尾から車両を積み降ろしを行うため大きな扉を設けていた。ただ大きさは洞爺丸の半分以下である。当時の燃料事情からボイラーは石炭を燃料とするものが搭載されており、新造時には監視用レーダーは搭載されていなかったが当時としてはまず標準的な装備を備えた客船であった。

 しかし紫雲丸は建造当初から「縁起が悪い」という噂が出ていた曰く付きの船であった。名前は高松市にある「紫雲山」から命名したのであるが「紫雲」は臨終の際仏が死者の魂を迎えるために乗ってくる雲の名前であり、また「しうん」という読みは「死運」に通じるものである。そして紫雲丸は竣工後次々に事故を起こすのである。

 1度目の事故
 昭和二五年(1950年)3月25日、姉妹船の「鷲羽丸」と衝突して沈没、死者7人を出す。船体は引き上げられ修理、再就役。

 2度目の事故
 昭和二六年(1951年)高松港内で「第二ゆず丸」と衝突、事故後に監視レーダーを装備。

 3度目の事故
 昭和二七年(1952年)高松港内で護岸捨て石に衝突、この後安定性を高めるためジャイロコンパスを装備。

 4度目の事故
 昭和二七年高松港内で「福浦丸」と接触

と3年間で4度の事故を起こしており、一度は沈没しているというのはやはり尋常ではない。そして5度目の事故となったのが、国鉄戦後五大事故の一つと言われる「紫雲丸事故」である。

 昭和三〇年(1955年)5月11日早朝、紫雲丸は高松港を出航しようとしていた。当時瀬戸内海には濃霧警報が出ていて視界は50m以下の場所もあるという予報が出ていたが紫雲丸船長はブリッジから前方500m程度の視界があることを確認し午前6時40分に出航、宇野港へ向けて航行を始めた。その30分前には衝突の相手側になる「第三宇高丸」が宇野港を出航している。
 「第三宇高丸」はその後濃霧警報に伴いレーダー使用・霧中信号の発信を開始、午前6時51分船首方向2500m先にレーダーの反応を確認している。第三宇高丸は衝突を回避するべく転舵し、そのまま通り過ぎようとしたが、6時56分頃紫雲丸が突然舵を切り接近したため機関停止、左舷に舵を切ったが間に合わず、紫雲丸の右舷船尾付近に第三宇高丸の船首が突っ込む形で衝突してしまう。

 紫雲丸が衝突した箇所は機関室で紫雲丸側の動力は衝突と同時に失われ、電気も止まってしまう。照明の消えた紫雲丸船内では真っ暗の中乗組員が水密扉を手動で閉めようとしたが作業は不可能で、紫雲丸船内はあっという間に浸水が広がってしまう。
 衝突した第三宇高丸の船長は衝突回避のため一旦は機関停止を指示したが衝突後船体が離れてしまうと紫雲丸が急速に浸水、転覆するとの判断で全速力での直進を指示、その間に接触している部分から紫雲丸乗客が第三宇高丸に乗り移るのを助けるなど救助作業を行っている。
 
 紫雲丸の乗客には多数の児童が含まれていた。この日の紫雲丸には小学校3校中学校1校の児童が乗船していたのである。愛媛県から中国方面への修学旅行に出かける小学校が一行、その他は中国地方から四国地方への修学旅行へ出かけ、帰る学校であった。事故後照明が点かず傾斜のため船内から多くの生徒が脱出できず取り残されてしまう。一旦第三宇高丸に待避したものの生徒の救助に紫雲丸に戻ってしまった先生やおみやげを持ってゆこうとして逃げ遅れた生徒もいたという目撃談もある。
 紫雲丸船長は一度ブリッジから離れ衝突箇所を確認した後ブリッジに戻ってくる。途中すれ違った船員に「やった…」と一言伝えた後ブリッジから動こうとしなかった。

 衝突から6分後の午前7時2分、双方の船員の努力も実らず紫雲丸は沈没する。犠牲者は紫雲丸の乗員が船長以下2名、乗客が166名の計168名に上った。特に修学旅行中の児童の犠牲者は100人に達し、さらに児童犠牲者の81人が女子児童だったという。

 この事故の海難審判は難航を極めた。事故の主な原因は紫雲丸側の航行、特に衝突直前の転舵が重要な原因とされたが、双方の船ともに霧中では過大な速度で航行しているなど責任について審議を行わなければならない部分もあったが、紫雲丸側は船長が死亡しており、事故原因の究明は困難であった。結局海難審判は紫雲丸側の操船に問題があったとしたものの、操船そのものの理由については船長死亡のため推測の域を出ないという曖昧な表現になっている。一方刑事裁判では紫雲丸航海長、第三宇高丸船長に有罪が言い渡されている。

 紫雲丸事故は思わぬ方面に影響を与えている。当時の学校教育では水泳の授業はほとんど行われず、プールが設置されている学校はごく僅かでしかなかった。この事故後体育の授業に水泳が取り入れられ、全国の小中学校にプールが設置されるようになるのである。

 またこの紫雲丸事故と前年の洞爺丸事故を受けて連絡船による交通から鉄道が直接連絡する輸送ルートの整備計画が持ち上がり宇高連絡船のルートには本州四国連絡橋、青函連絡船のルートには青函トンネルが40年ほどの歳月をかけて建設されることになる。

 沈没した紫雲丸はその後サルベージ・修理が行われ再々就役することになるが、度重なる事故を嫌ってか「瀬戸丸」と改名されている。しかしそれでも事故はやまず昭和三五年(1960年)に中央栄丸と高松港入り口で衝突し中央栄丸が沈没する事故が起こっている。昭和四一年(1966年)に瀬戸丸は宇高連絡船を引退、一部解体の後船体は宇品で浮きドックとして使用される。平成三年(1991年)に役目を終え解体されるが、本州四国連絡橋児島・坂出ルート(通称瀬戸大橋)の開通を見届けられたことは「紫雲丸」にとって本望であったろう。

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上空から見た紫雲丸沈没地点。写真左端には本州四国連絡橋児島・坂出ルートも写っている。三本の本州四国連絡橋のうち児島・坂出ルートが最初に着工、完成したのは紫雲丸事故のためと言われている。
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by narutyan9801 | 2013-09-16 09:51 | 妄想(事件・事故) | Comments(2)