鼈の独り言(妄想編)

suppon99.exblog.jp
ブログトップ

<   2013年 08月 ( 13 )   > この月の画像一覧

デスポーズ ~恐竜たちの奇妙な断末魔の姿~

 動物が化石になる場合、全身の骨格が生きている時そのままに繋がったまま化石化する事はごく希な例であり、たいていはバラバラになった状態で化石になる。しかし条件が整うと全身の間接が繋がったまま化石化することもある。そんな珍しい全身骨格の化石が、奇妙にも同じようなポーズを取っていたら、学者でなくとも不思議がることだろう。今回は恐竜や鳥の全身骨格化石が時折見せる不思議なポーズ「デスポーズ」を考察したい。

 デスポーズの代表的な化石は「始祖鳥」である。始祖鳥の化石は教科書にも載っているぐらいおなじみであるが、始祖鳥の体は不自然に首が背中側に反り返り、反面尾は直線上に延ばされている。顎は判然としないが。多少口が開いているようにも見える。始祖鳥の化石は羽毛の痕跡も残っていることから、死後まもなく土に埋まったか、あるいは生きているうちに土砂災害に巻き込まれ、苦しみながら死を迎えた可能性が高い。

 動物は死を迎えると当然体の運動機能は失われる。しかし全く動かない訳ではない。死直後には反射神経の反応による「脊髄反射」により筋肉組織が動くことがあり、脊髄反射が失われた後も死後硬直や硬直の解除、筋肉組織の収縮や崩壊により死体が動くことがある。このため化石となった始祖鳥の姿は断末魔の際の姿であるとは必ずしも言えない。しかし始祖鳥以外にも恐竜化石や鳥類化石にこのポーズを取ったまま化石となったものが多数発見され、この不思議なポーズが「デスポーズ」と呼ばれるようになり。死の際、または死んだ後に何らかの原因でこのポーズを取っているのではないかと考えられるようになったのである。

 デスポーズには様々な説が唱えられている。死骸が水に押し流されているうちに自然にこのポーズを取ったのではないかという偶然説、死後背中側の靱帯が感想し収縮によって体が弓なりになったのではないかという説、最近は死後硬直の一種である弓なり緊張による生じたものであるという説が唱えられている。以前は破傷風菌による収縮痙攣で死亡し、そのまま化石になったという説もあったが現在支持は受けていないようである。

 しかしどの説も今一つ説得力に欠けるようである。水流によってこのポーズにされたというのはかなり無理が有るし、死後硬直というものは長くても数日程度で終わってしまいそのタイミングで死体が埋没して化石になったというのは出来過ぎた話に聞こえる。靱帯の収縮も相当な時間を要するはずで、その当時現在のハイエナ以上に強力な顎を持った「掃除屋恐竜」が見逃すことはそうそうないと思われる。

 前記したとおり全身の関節が繋がったままの状態の化石ができる条件は「死後直後に埋没したか、生きているときに土砂災害に巻き込まれて死んでしまったか」しか考えられない。しかし埋没後に死後硬直や靱帯の収縮であのようなポーズが取れるかはかなり疑問である。とすれば、もしかしたら「デスポーズ」を取った恐竜や鳥たちは土砂災害に巻き込まれて死んでしまった不幸な動物たちの最後の姿なのかもしれない。そう考えるとデスポースで化石化した恐竜や鳥たちの化石からはなにやら悲しい雰囲気が漂ってくるようである。

e0287838_14452343.jpg

                         デスポーズの始祖鳥の化石

e0287838_14461188.jpg

                 デスポーズのティラノサウルスの化石(Black Beauty)
[PR]
by narutyan9801 | 2013-08-29 14:49 | 妄想(生物) | Comments(0)

破傷風菌 ~自らの痙攣で自分の骨が砕ける病~

 先日このブログではボツリヌス菌を取り上げたが、その際比較として破傷風菌の名前を出した。最強の毒素の片一方を出しておいてもう一方を取り上げないのはなんなので、今回は破傷風菌を考察したい。

 破傷風菌も酸素を嫌う嫌気性の真正細菌で、世界中の土壌や汚泥に芽胞の形で存在している。芽胞の段階では無害であるのもボツリヌス菌と同様で、活動体になってから出す毒素が人間に害を与えるのも共通であるが、この毒素が人間に与える影響はボツリヌストキシンとは正反対の性質を持っている。

 破傷風菌の作り出す毒素はテタノスパスミンと命名されている。致死量はボツリヌストキシンとほぼ同量であるが、テタノスパスミンが神経細胞に取り込まれると神経の伝達組織を逆流し中枢神経に進入、抑制性シプナスを遮断してしまう。
 抑制性シプナスとは人間の運動能力を抑制させる神経系統のことである。人間は過剰な運動により組織の破壊を防ぐために中枢神経が運動神経にリミッターをかけているが、テタノスパスミンはこのリミッターを取り外してしまう。さらにテタノスパスミンは興奮性シプナスも遮断する。興奮性シプナスは感情などの高ぶりで過剰な運動を取らないようにするリミッターである。こうして運動を抑制するリミッターを蓮されてしまうと人体の筋肉は肉体の制御能力を失い「自らの筋肉の収縮で骨折をしてしまう」ほどの痙攣を起こしてしまう。ボツリヌス菌のボツリヌストキシンが筋肉を弛緩させる効果を持つのに対し、破傷風菌のテタノスパスミンは筋肉を収縮させる効果を持つのである。さらに破傷風菌は溶血効果のあるテタノリジンも生成するが、その効果は低く、テタノスパスミンへの対処に重点を置かなければならないため実際の治療上はほとんど問題にならないと言われている。

 ただ、テタノスパスミンは基本的に外傷に破傷風菌が侵入して増殖した場合にのみ毒性を示すものであり、さらに予防ワクチンも開発されているので医療先進国では予防が進んでいるが、発展途上国では未だ死亡率が高い病気である。

 破傷風の発症は傷口より破傷風菌が体内に侵入、増殖しないと発病しないためいわゆる細菌兵器としては使用が難しい。しかし衛生概念が今よりも低かった時代、破傷風菌は恐ろしい病気であり、いわゆるブービートラップに排泄物を付着させたのは破傷風菌の感染を狙った部分もあり、意図していないとは言え実用された細菌兵器のひとつと言えよう。

 破傷風菌は1889年に北里柴三郎が発見、純粋培養に成功しており、北里が設立した北里大学の校章及び法人のシンボルマークには破傷風菌の芽胞を図案化(マッチ棒状のもの)したものであり、北里の研究に由来して制定されたものである。
[PR]
by narutyan9801 | 2013-08-28 12:00 | 妄想(病気) | Comments(0)

宇野勝 ~「ヘディング事件」から本塁打王を獲得した名?選手~

 人間誰でも「ミス」は起こすものである。時として人生を左右しかねない重大な場面でミスをしてしまう人も多い。特にスポーツ選手などは一つのミスが選手生命を左右しかねないということもある。しかし中にはそんなミスを逆手にプロスポーツ選手として長年活躍してゆくきっかけを掴む選手も存在する。今回は「世紀の珍プレー」を演出した宇野勝元選手を考察したい。

 宇野勝は1958年生まれ、1977年のドラフト三位で中日に入団し入団二年目の1979年には12本塁打を放ち頭角を現すが、この年25個のエラーを記録し、自身初の失策王に輝いているのである。ボールやグラブの質が悪かった時代ならばともかく、近代のプロ野球、それも内野の守備の要であるショートではかなりのエラー数と言える。それでも宇野のバッティングは評価され、中日のレギュラーとして定着する。そして1981年8月26日、後楽園球場で伝説の珍プレーを演出してしまうのである。

 この日中日のマウンドに立ったのは現在東北楽天イーグルスの監督を務める星野仙一。この日星野は並々ならぬ決意を秘めてマウンドに上がっていた。この時の巨人は前年8月4日の試合から158試合完封負けが無く、星野は同僚のの小松辰雄とどちらが巨人を完封するか勝負しており、気迫の投球を行っていたのである。星野の前に巨人打線は沈黙、6回まで二安打と完封ペースで試合は進んでいた。

 巨人の7回裏の攻撃も二死二塁となり、ここで巨人は代打に山元功児を送るが、山元は打ち上げてしまいショート後方にフライが上がったのである。
 ピッチャーの星野は討ち取ったとベンチに引き上げかけ、レフトを守っていた大島康徳も宇野に捕球を任せていた。一方ツーアウトだったため一塁走者の柳田俊郎はスタートを切っており、落下地点に入ろうとしていた宇野の脇を駆け抜けようとしていた。そして宇野本人はおぼつかない足取り(本人によるとスパイクが人工芝に引っかかりそうになっていたそうである)で落下地点に入ったものの、照明の明かりでボールを見失ってしまいあろうことかおでこ(右側頭部)でボールを受けてしまう。ボールは宇野の背後に居た大島の頭上を越えてレフトフェンスまで転がっていきその間に走者の柳田がホームインしてしまう。慌てて本塁のカバーに入った星野はこの状況を見てグラブを叩きつけてしまう。

 この試合は結局星野が完投し、2-1で中日が勝利している。星野には自責点は付かなかったが、完封は出来なかった。巨人の連続得点試合が止まるのはそれから一ヶ月後、星野の賭の相手だった小松投手が完封勝利を挙げるまで173試合連続得点を続けることになる(現在の日本記録は215試合連続得点)

 宇野はこの試合後、星野に「飯でも食いに行くか」と誘われるがちょうど田舎から兄が上京しており誘いを断っている。この話に尾ひれが付いて「食事に誘われて車で移動中、星野の車に宇野の車が追突した」などという伝説が生み出されることになる。それでも宇野本人はこのエラーは(本人なりに)相当気にしていたそうである。

 しかし、そこはさすがに宇野勝、この翌年の4月24日、大洋戦でユニホームを忘れてしまった宇野は飯田幸夫コーチの77番のユニホームを借り(当時の宇野の背番号は7番、事前に審判団と大洋側に近藤貞夫監督が了承を取り付けている、後年宇野がコーチとして中日のユニホームを着たときには77番の背番号となった)野次の飛び交う中ホームランを打つ「ユニホーム忘れ事件」を起こし、1984年5月5日には満塁で打席がまわってきた宇野が打ち上げたライトフライをライトが落球し、フライで自重していた一塁走者(大島康徳)を勢い余って追い越してしまいアウトになってしまう「大島追い越し事件」を起こしている。

 しかし宇野には天性のバッティングセンスがあり、1984年には37本塁打で本塁打王を獲得している(掛布雅之と同数)この際10打席連続四球という当時の日本記録(現在は11連続四球)を樹立している。また翌1985年には41本塁打に記録を伸ばしている。この年は阪神のバースが54本塁打を放ち本塁打王はバースになったが、遊撃手としての1シーズン本塁打数41本は最高の記録である。

 宇野は1992年にロッテに移籍するが、出場機会減により1994年に現役を引退する。実際は中日への復帰が内定していたが、中日側の監督人事の変更により立ち消えとなってしまってる。翌年から星野仙一が監督に復帰する予定で、宇野の中日復帰も星野の人事の一貫であったが、高木監督が留任になり、宇野の中日復帰は幻となってしまった。また宇野は落合博満とバッティングに関して数日徹夜で話し込んだ事もあり、落合が中日の監督に就任する際宇野にコーチ就任を要請している。決して「珍プレー」だけの選手ではなかったのである。しかし我々が思い浮かべる「宇野勝」はやはり「ヘディング事件」の宇野勝である。どこか憎めない、そんな人柄を形成したのは「ヘディング事件」があったからであろう。宇野本人も著書で「ヘディング事件」に関してこう語っている「やって良かった。感謝している」と。
[PR]
by narutyan9801 | 2013-08-27 11:00 | 妄想(人物) | Comments(0)

イギリス・ザンジバル戦争 ~ギネスにも登録されている最も短時間で終結した戦争~

 国家間の武力衝突はかなり大雑把に分けると「武力紛争」と「戦争」に二分する事ができる。「戦争」は一方、またはお互いが「最後通牒」を交わし戦争状態に入ることを宣言するのに対し「武力紛争」はお互いの軍隊が「戦争しますよ」と宣言せずに戦い始めることと定義できる(紛争が始まった後、最後通牒を出して戦争になる場合も多い)
 戦争は宣言をするだけに国内の意志疎通や準備などが必要なことが多く、それだけに武力紛争と違い一度最後通牒を出したのち戦争状態になるとすぐに終結させることは難しい。しかし人類の長い戦史には戦争開始後わずか40分で集結した「戦争」も存在する。今回は史上最も短い戦争とギネスにも記載されている「イギリス・ザンジバル戦争」を考察したい。

 アフリカ東岸に位置するザンジバルは19世紀初頭にはインド洋に面するアフリカ東岸を支配する一大帝国であったが、その後ヨーロッパ列強のアフリカ分割により衰退し19世紀末にはアフリカ沿岸の権益をすべて失い、本領であるザンジバル諸島のみを支配する小国となっていた。そのザンジバル諸島もイギリスとドイツの権益が入り込み、アフリカ東岸の両国の植民地支配のための緩衝地帯といっていい存在になっていた。ザンジバル・スルタン国は1890年イギリスの保護国となって名目上の独立を維持しており、当時のスルタン、ハマド・ビン・トゥワイニはイギリスに協力的でイギリスも半ば植民地としていたザンジバルのスルタンの面目を潰さないよう配慮していた。しかしスルタン国内にはイギリスの姿勢に不満を持つ勢力もあり、その急先鋒がスルタンの甥ハリド・ビン・バルガシュであった。
 1896年8月25日、バルガシュは突如クーデターを敢行しスルタンを殺害、自らが新しいスルタンになると宣言する。しかしイギリスは別のスルタン候補であったハムード・ビン・ムハンマドを擁立し、ムハンマドの名でバルガシュに退位要求、及び退位しなかった場合の最後通牒を突きつけるのである。バルガシュはこの最後通牒を黙殺し海に面したザンジバル王宮に陸兵2800人を集結させ、ムハンマド及び背後のイギリス勢力に対し全面戦争も辞さない構えを取っていた。

 当時ザンジバルは西インド洋のイギリス海軍の根拠地の一つであり、イギリス海軍の艦艇が数隻停泊していた。これらの艦艇は戦闘態勢を整えるとともに乗組員から陸戦隊が組織される。イギリスは当時最新鋭だったエドガー級防護巡洋艦「セント・ジョージ」を含む5隻の艦艇が集結する。対するバルガシュ側の海軍力は旧式の武装艦である「グラスゴー」一隻のみ、それも名前が示すとおり元々イギリスが譲与したスルタンの遊覧船に大砲を積んだだけの代物であった。ただ陸兵の兵数に関してはバルガシュ側が有利でありムハンマド派の陸兵も状況によっては寝返る可能性もあったため、ムハンマド側はイギリスの戦力に全面的に頼らねばならない状況だった。

 最後通牒回答の期日である1896年8月27日午前9時、直前に行われたアメリカ仲介の和平交渉も進展せず、ムハンマド側は攻撃を開始する。まずグラスゴーが集中砲火を浴び数分で撃沈、その後王宮への砲撃が始まり数十分でザンジバル王宮は廃墟と化してしまう、バルガシュ側の兵士は多くが逃亡してしまい、バルガシュ自身もドイツ領事館に逃げ込み保護を要請することになる。こうして戦闘は約40分(37分23秒という記録がある)で終結し、戦史史上最も短い戦争は幕を閉じることになる。イギリス側に死者は出ず、軍艦一隻に軽微な損傷があっただけであった。バルガシュ側の兵士は約500人が戦死している。

 イギリスは戦争後ハムード・ビン・ムハンマドをスルタンに推戴したが、スルタンは完全に名目上の存在になりイギリスはザンジバルの植民地化を進める。ザンジバル・スルタン国は1963年にザンジバル王国として独立を回復するがわずか一か月でクーデターにより王国は崩壊、その後アフリカ大陸のタンガニーカ共和国と合併、現在はタンザニア共和国に属している。
 一方ドイツ領事館に逃れたバルガシュはその後アフリカ大陸のドイツ領に亡命するが第一次大戦でイギリスがドイツ領アフリカに侵攻した際に逮捕され、一時はセントヘレナに流刑になる。後に赦免されアフリカに戻ることを許されるが故郷に帰ることは許されず1927年ケニアで波乱の生涯を閉じている。
e0287838_1027051.jpg

      戦闘後のザンジバル市街の惨状。数十分とはいえ相当の砲弾が市街に打ち込まれている。
[PR]
by narutyan9801 | 2013-08-26 10:29 | 妄想(軍事) | Comments(0)

ボツリヌス菌 ~最も強い「毒」を作り出す細菌~

 人間が摂取すると物理的・化学的に影響を与え、体調を悪化させ時には死に至らしめる物質を「毒」と言う。毒には様々な物質があるが、生物が合成する物質も多い。今回は生物が作り出す「毒」でも最も毒性が強いと言われる毒を作り出す細菌「ボツリヌス菌」を考察したい。

 ボツリヌス菌はクロストリジウム属に含まれる細菌で酸素を嫌う嫌気性細菌である。語原はラテン語の「botulus」(ソーセージ)から取られている。これはソーセージを食べた人がよく中毒を起こすことから名付けられたものである。ボツリヌス菌自体は1896年にベルギーの医学者エミール・ヴァン・エルメンゲムによって発見されている。

 ボツリヌス菌自体は世界各国の土中に普通に存在する細菌である。土中ではボツリヌス菌は「芽胞」と呼ばれる形態で存在し、この場合はほとんど無害である。ボツリヌス菌は嫌気性細菌であり酸素がある環境では芽胞状態を保ったままであるが、酸素が無い環境になると芽胞状態から増殖状態へと移行し増殖する。その際に「ボツリヌストキシン」というタンパク質を分泌する。このボツリヌストキシンが人に極めて有害な物質となるのである。

 ボツリヌストキシンが体内に入り神経筋接合部に到達するとボツリヌストキシンと反応して神経伝達物質が破壊され、神経命令の伝達が遮断されてしまい呼吸などの生命維持反応が阻害され死に至ってしまう。その致死量は極めて少量で、ボツリヌストキシン500gで人類を滅亡させることができると言われているほどである。これは多細胞生物であるハワイ産イワスナギンチャクが分泌するパリトキシンのおよそ五倍、破傷風菌が分泌するテタヌストキシンとほぼ同じ致死量だと言われている。ただテタヌストキシンが脳神経まで影響を及ぼすのに対しボツリヌストキシンの影響は末端神経に留まる。しかし錯乱状態に陥る破傷風菌の毒性よりも精神そのものは影響を受けないボツリヌス菌の方が悪質な死に方とも言える。

 人間に対し極めて強い毒性を示すボツリヌストキシンであるが、タンパク質なので熱処理を施したりアルカリに晒してしまうと毒性は消失する。しかしボツリヌス菌の芽胞は高熱にも耐えるので、一度熱処理をし、その後真空パックなどで処理していると内部が酸欠状態になり、ボツリヌス菌が増殖している場合がある。語原となったソーセージでの中毒はまさにその典例であり、日本でも1981年に「辛子蓮根食中毒事件」が起こっている。ボツリヌス中毒に対しては現在血清による抗毒素はあるが、ボツリヌストキシンは神経の伝達組織自体を破壊するので呼吸困難などに陥っている場合、伝達組織の修復まで人工呼吸などを続ける必要がある。

 通常ボツリヌス菌自体は人体に影響を及ぼさないが、ボツリヌス菌の芽胞を乳児が摂取すると体内でボツリヌス菌が増殖して中毒を起こす「乳児ボツリヌス症」を起こすことがある。特に「蜂蜜」による発病が分かっており1歳未満の乳児には蜂蜜は厳禁である。

 ボツリヌストキシンは極めて少量で人を殺めることができるため、生物兵器として各国で研究されてきた。しかし毒性が強すぎて散布する側も危険であり、またタンパク質の変性により安定した効果を期待することは難しく兵器としては現在まで確実に使用されたという証拠はない。またボツリヌストキシンは筋弛緩作用を持ち医薬品としての利用や、最近では皮膚の皺をとる効果があることも分かり美容にも利用されつつある。正に「毒は使いようによっては薬にもなる」のである。
[PR]
by narutyan9801 | 2013-08-23 13:51 | 妄想(生物) | Comments(0)

給糧艦 間宮 ~日本海軍の胃袋を支え続けた殊勲艦~

 人間が生きていくために必要不可欠な欲求の一つに「食欲」がある。特に束縛される状況では「食欲」は重要な娯楽となり、たとえ「食欲」が満たされるだけの食事量が有ったとしても単調な食事が続くと心理面の荒廃が起こってしまうと言われている。束縛が常態化する軍隊、特に人間の活動の場から切り離されてしまう海軍艦艇勤務者にとって食事の「質」は士気を維持する上で重要な要素である。今回は日本海軍の胃袋を支え続け、日本海軍艦艇乗組員に最も愛された給糧艦「間宮」を考察したい。

 間宮は「給糧艦」という艦種に属する。給糧艦は艦隊に食料を補給することを任務とする艦種であるが、創生期から大正中期までの日本海軍には「給糧艦」は存在しなかった。これは初期の日本海軍が日本沿岸を防衛するために整備された海軍であり、長期間の洋上活動は考慮されていなかったためである。第一次大戦で連合軍の一員として参戦した日本海軍は初めて長時間の洋上作戦行動を行うが、このときは同盟国である英国の支援を受けることができたのである。

 第一次大戦後、日本の仮想敵国であるアメリカとの海軍力から、日本海軍の戦略が「日本沿岸まで引き寄せた後の決戦により撃滅」から「日本へ進撃途中に戦力を削り取ったのちに撃滅」と変化し、日本海軍が長期間洋上で行動できる必要性が生じるようになる。また日英同盟の解消により日本海軍は日本から離れた所での食料供給能力を自前で行なわなければならなくなり、給糧艦の建造が考えられるようになったのである。

 折しも海軍内では「八八艦隊」の計画が進んでおり、八八艦隊の支援艦艇として能登呂型給油艦の建造が国会で承認されていた。日本海軍は能登呂型給油艦の一隻の予算を給糧艦建造に当てたいと要望し、建造されたのが給糧艦「間宮」である。

 間宮の建造は民間委託され川崎造船所で建造されている。もっとも間宮には戦闘能力は必要なく、海軍にはほぼ無縁である冷蔵、冷凍設備を充実させる必要があったため民間委託での建造が当然であったろう。こうして大正十三年(1924年)海軍唯一の給糧艦間宮は竣工する。

 間宮は18,000人の食料補給能力を有し、艦内で加工食品の製造を行うことも可能であった。第一次大戦でエムデン追撃などに従事した日本海軍将兵はイギリスなどから食料の供給を受けたが、加工食品は西洋風であり洋食に慣れた士官はともかく、下士官兵には不評であった。そのため間宮には和食の食材である豆腐やこんにゃくの加工設備が整備され、また羊羹、饅頭といった和菓子、アイスクリームなどの嗜好品の製造も可能であった。変わったところでは「床屋」も間宮には設けられていた。こうした施設で働く人々は軍属として雇われた「職人」であり、食品の品質は娑婆のものと遜色ないものであったという。艦隊の作業地に間宮が入港すると新鮮な食品が供給され、艦隊の士気がみる間に上がったと言われる。

 間宮は正式な「軍艦」ではない。しかし歴代の間宮艦長には「大佐」が多く配属されている。これは間宮の存在の特殊性が現れている。間宮の任務上海外の港に入港して食料を購入しそれを艦隊に補給するという任務が発生する可能性がある。この場合軍艦を率いれる身分である「大佐」であれば何かと利便性が高い。こうしたことで間宮には大佐が多く配属されたと思われる。

 間宮は竣工以来一貫して艦隊に配属され続けている。通常艦艇は一年おきに予備艦として整備や改装を行うのであるが、日本海軍にただ一隻しか無かった間宮にはその暇を取れる余裕が無かった。間宮の次に建造された給糧艦「伊良湖」が竣工したのは昭和十六年(1941年)12月5日、太平洋戦争開戦3日前である。
 太平洋戦争勃発後も間宮は前線への食料供給に働き続け、二度米潜水艦からの魚雷攻撃により損傷を受けているが沈没は逃れていた。海軍将兵に愛された艦は幸運にも恵まれていたのだろう(米軍の魚雷に不備があったことも事実ではある)。僚艦伊良湖が大破着底し放棄された後も間宮は働き続けるが、昭和十九年十二月二十日にその命運が尽きる。すでに制空権を失ったフィリピン・マニラに食料を補給する任務の途中、海南島東方で米潜水艦「シーライオン」の雷撃を」受け艦長加瀬三郎大佐以下多数の将兵と共に南シナ海に間宮は沈没する。将兵の胃袋を満たすために働き続けた艦の最後であった。

e0287838_11194863.jpg

                       艤装中の大和の背後に停泊する間宮
[PR]
by narutyan9801 | 2013-08-22 11:21 | 妄想(軍事) | Comments(0)

王安石と司馬光 ~政治改革の断行と保守派の反動は必須なのか?~

 先日田沼意次が亡くなった日という事で改めて田沼意次とその後の松平定信の政治形態を考えてみたのであるが、ふとこの二人が行った事象とよく似たことが二人が生きた時代から700年ほど前の中国で起こっていたことを思い出した。今回は中国・北宋時代の二人の政治家、王安石と司馬光を考察したい。

 王安石(1028~1086)と司馬光(1019~1086)はともに若くして科挙の最難関(倍率は3000倍とも言われている)である進士に合格している。司馬光はその名前が示すとおり三国時代の後中国を統一した晋王朝の血筋を引いており(司馬懿の弟司馬孚の子孫と言われている)貴族的な立場であったと言われている。一方の王安石は父は地方官僚を務めていたが一族が多く、暮らしぶりは貧しかったと言われている。このため科挙を合格したものの若いうちは給料がよかった地方官の職を歴任する。おそらくこの経験が王安石の経済観念に影響を与えたと思われる。

 1058年王安石は政治改革を訴える上奏文を提出し、王朝内の注目を集める。この上奏文に関しては後に政敵となる司馬光も激賞している。1067年に宋第五代皇帝英宗が崩御し神宗が即位すると王安石は中央に登用され副宰相として政治改革を断行することになる。

 王安石の政治改革は農業、経済、軍事、政治など社会全般にわたっていた。特徴的なのは無駄な軍人や官僚の首切り、農民や都市在住者への低金利貸付である。さらに自らが合格し政治家になった礎でもある科挙を改革し実務的な人物を合格させるようにしたり、徴兵義務を納金で免除したりするなど当時としてはかなりユニークな改革も行っている。

 しかし王安石の改革はいわば既得権を侵害することが多く、王安石には怨嗟の声も上がる。その急先鋒が司馬光であった。司馬光自身が既得権の侵害を受けた様子はなく、司馬光の怒りは儒学者として修養を積んだ彼には下々の者に手厚い王安石の改革が儒学的観念を覆すものに見えたのだと思われる。しかし王安石の政策は若い神宗に理解され、神宗の元で次々と法案として成立する。司馬光はこの状況に憤慨し、自ら蟄居してしまう。司馬光の才覚も惜しんだ神宗は司馬光が願い出た歴史書の編纂に全面的に協力し、歴史書「資治通鑑」が編纂されることになる。

 神宗の信頼を得ていた王安石であったが、保守層の恨みは深く1074年に起こった干ばつが王安石の政治が天に受け入れられていないという風評が立ち、この声をを神宗も無視できず、解任されてしまう。一度は返り咲いた王安石であったがほどなく自ら辞職し、故郷に隠棲してしまう。王安石としてはまだ若い神宗が自らの改革を引き継いでくれれば改革は成功するという思いがあっただろうが、1085年に神宗は崩御し保守勢力の首領であった皇太后により司馬光が抜擢され、王安石の改革をほとんど廃止し旧来の政策に戻してしまう。このあたりは武士階級の借金を棒引きさせた松平定信の政策を彷彿とさせる。

 この頃王安石は隠居生活を送っており神宗死後司馬光の政治にも特に意見をいうことは無かったが、ただ一つ募役法の廃止に関しては「あれは止めるべきではないなぁ」と感想を述べたと言われている。

 政治の実権を握った司馬光であるが、わずか8ヶ月後には病死してしまい、その政治活動は王安石の政策を覆すのみであった。司馬光にはもしかしたら別の具体的な政策の素案があったかもしれないが、それを実行する時間は無く保守派の溜飲を下げることが唯一の成果であった。同年王安石も隠棲先で亡くなる。二人のライバルは同じ年に世を去っているのである。

 宋王朝はこの後も王安石と司馬光の政策が交互に行われる政治形態が繰り返されることになる。そして金の侵攻により一度宋王朝が滅亡した際に政治の実権を握っていたのは王安石派であったため、後年王安石の政策は否定的な意見が主流となってしまう。そして近年改めて王安石の政策が見直され再評価されつつあるのは田沼意次とよく似ていると自分は思うのである。政治改革が成功するかどうかの鍵は既得権を持つ勢力とどのあたりで妥協するかにかかっているかと思うが、これはなかなかさじ加減が難しいようである。
[PR]
by narutyan9801 | 2013-08-21 10:09 | 妄想(人物) | Comments(0)

ボストン糖蜜災害 ~甘い物に破壊されたボストン~

 多くの人々にとって「甘いもの」というものは人生を通じての「友」となっている。管理者もやはり甘いものには目がない(飲酒も状況によっては嗜むので、俗に言う両刀使いである)。人間と深く結びついている甘いものであるが、特殊な条件下では町を破壊する「凶器」に変貌することがある。今回は甘味料が引き起こした災害「ボストン糖蜜災害」を考察したい。

 糖蜜とはちょっと聞きなれない言葉であるが、砂糖を精製した際に生じる副産物の液体である。現在甘いものの基準となるものは精製された砂糖になっているが、砂糖が貴重品だった時代は糖蜜が長く標準的な「甘いもの」として利用されてきた。さらにサトウキビの精製後の糖蜜は「ラム酒」の原料となり、副産物とはいえ多くの需要があったのである。当時のボストンは糖蜜の生産が盛んで、生産された糖蜜はマサチューセッツ州の蒸留工場へ輸送されていた。このためボストンの貨物駅に高さ17.7m、長さ27mの巨大なタンクが建造され、大量の糖蜜がここに貯蔵されていた。それが1919年1月15日、大音響と共に突然破裂し貯蔵されていた糖蜜が一気に流れ出したのである。

 糖蜜は粘度が高く流れにくいものであるが、逆に粘度が高いせいで流れ出た先端部では2~4mもの高さになった糖蜜が高い圧力で押し出され時速60キロメートルのスピードで家々に突進し、なぎ倒してしまう。駅にあった蒸気機関車も糖蜜の圧力によって流されるほどの圧力であり、この津波に衝突され、その衝撃で即死した人もいるほどであった。結局糖蜜の津波に巻き込まれたり、建物の倒壊により21人が死亡する大惨事になってしまう。ボストンの町に溢れでた糖蜜の処理には半年以上の時間がかかり、町に染み着いた糖蜜の香りは30年後でもとれなかったと言われている。

 この事故は様々な要因が重なって発生している。そもそもの原因は糖蜜を詰めたタンクの強度が容量(950万リットル)を支えるには不十分であったことが裁判で証明され、建造した企業は賠償金を原告の住民に支払っている。
 根本的な原因は設計ミスであるが、崩壊に繋がるまでタンクに糖蜜を詰め込んだ要因には「禁酒法」という要因も指摘されている。事故発生当日は禁酒法が承認される前日であり、それまでになるべく多くのアルコールを精製しようと生産された糖蜜が容量いっぱいにまで入れられていた可能性が高い。そこへ気温の上昇が重なってしまった。ボストンでは事故の3日前にマイナス30度を記録する寒波に見舞われたが、それが事故当日にはプラス8度まで上昇していたと言われている。冷え込んで容積が減った糖蜜をタンクに詰め、温度の上昇で容積が増えたため圧力がかかり崩壊に繋がったという説。また糖蜜の分解が進み発生したガスの圧力で崩壊したという説もあげられている。いずれにしても設計ミスと運用ミスが重なっての事故であることに間違いはないだろう。

 ちなみにタンクを運用した会社は裁判でタンクの破裂は無政府主義者のテロによる爆破であると主張しているが認められなかった。この主張そのものは会社の責任逃れのいいわけにすぎないが、考えてみると人々に幸福感をもたらす「甘いもの」がテロに利用できるというのはちょっと怖い気持ちもする。

e0287838_1044910.jpg

                   災害直後のボストン駅周辺の惨状を写した写真
[PR]
by narutyan9801 | 2013-08-20 10:08 | 妄想(事件・事故) | Comments(0)

ハリファックス大爆発 ~史上最大規模の火薬爆発事故~

 人間が「火薬」を発明したのは中国・唐の時代と言われている。火薬の発明までにはおそらく多くの事故が起こったろうし、発明以降も多くの事故が起こっている。今回は火薬の爆発としては史上最大級の規模になった爆発事故「ハリファックス大爆発」を考察したい。

 事件が起こったのは1917年12月6日早朝のことである。カナダ・ノバスコシア州ハリファックス港はこの当時第一時世界大戦の軍需品の積み出しが盛んに行われており、爆発した火薬もヨーロッパに送られるものであった。当時ドイツのUボートが夜間港内に進入するのを防ぐため船の夜間港内進入は禁止されており(港の入り口は夜間防潜網で塞がれていた)朝港を出港する船と入港する船が湾の入り口に殺到するという危険な状態がが日常化していた。そして起こってしまった衝突事故が史上最大の爆発事故に繋がってしまう。

 事故当日、衝突事故の一方の当事者になるノルウェー船籍の貨物船イモ(5,043トン)は前日給炭の積み込みが遅れ出港できず、港内に停泊して夜を過ごし、港口がらニューヨークへ向けて出港するところであった。ニモは空船でニューヨークで荷物を積載することになっていた。一方の当事者フランス船籍のモンブラン(3,121トン)は逆に到着が遅れ、港外に停泊して朝入港すべく港口に進入してきた船である。モンブランの船長は交代したばかりであったがベテランの水先案内人がガイドについていた。モンブランの積荷は火薬類とベンゼンであった。火薬類はすべて船倉に納め木材を内張りしてしっかりと固定し、木材を固定する際には静電気のスパークを考慮して銅製の釘を用いたほど入念な荷造りをしていたが、ベンゼンの積載に問題があった。

 ベンゼンは日本の消防法で第四類に指定される引火性液体(管理者は甲種危険物取扱者免許取得)であるが、このベンゼンは船倉に収まりきれず220トンものベンゼンはドラム缶に入れた上でデッキに縛り付けて固定していた。さらにモンブランは危険物を取扱中であるという国際信号機をUボートの標的になるからと掲げていなかったのである。

 朝7時30分に防潜網が開くとこの二隻以外も数隻の船が入出港すべく動き出す。ハリファックス港は北から南に開いた湾の西岸に埠頭が作られていた。船の航行は原則右側通行であるがハリファックス港は右側(東側)を通ると距離が遠くなるため原則を破って左側(西側)を通る船が黙認常態になっていた。通い慣れていたニモはそれを知っていて左側を航行し、港に入港するため同じく規則違反で左側を航行していた二隻の船とすれ違う。
 そして三隻目のモンブランが視界には行ってきたが、モンブランの船長は初めての入港であり規則通りに右側を航行しており、モンブランの船長はイモに「通常航行(右側航行)に戻れ」と汽笛で信号を送るが、ニモは「直進する」と信号を返し、進路を変更しなかった。信号のやりとりをしている間に二隻はあっという間に近づいてしまい、ついには接触してしまう。

 接触したといっても舷側を擦った程度であり通常であてば重大な事故にはならなかったがモンブランのデッキに積んであったベンゼンのドラム缶が倒れ、漏れたベンゼンが引火しモンブランはたちまち炎に包まれてしまう。積み荷の危険性を知っていたモンブランの乗員はほとんど消火作業を行わずボートで脱出してしまう。モンブランの乗員はボートで避難する際航行する船に「逃げろ」と警告したのだが、発した言葉はフランス語でほとんどの人は理解することができなかった。そして無人となったモンブランは衝突の回避のために舵を切った状態で航行を続け、ハリファックス港の第六埠頭に漂着し、付近の倉庫にも火が燃え広がってしまう。

 もしモンブランに危険物取扱中の信号旗が掲げられていたら人々は近寄らなかったかもしれないが、延焼をくい止めようとした人々や野次馬たちが集まる中、午前9時4分35秒に積み荷へ引火し、モンブランは大爆発を起こしてしまう。
 爆発の衝撃でモンブランの船体は四散し、武装商船として装備していた大砲が4キロ先まで吹き飛ばされているのが後に発見されている。爆発の衝撃でモンブランから半径2キロの建物はほぼ破壊され、同時にハリファックス湾には爆発の衝撃で津波が発生し爆発で直接被害を被らなかった地域にまで犠牲者がでてしまっている。この爆発の衝撃波はもう一方の当事者ニモにも襲いかかり船長や水先案内人が死亡、このためニモの事故当時の航行記録を証言する者がいなくなったことは後の裁判に影響を及ぼしている。

 この爆発で約2,000人が死亡、9,000人が負傷したと言われている、当時ハリファックスの総人口は5万人と言われているので人口の約1/5が死傷したことになる。負傷者の内200人が失明を伴う負傷を負っていた。これは寒い時期で窓ガラス越しに事故を見物して爆発の衝撃で割れた窓ガラスが顔面に直撃してしまったためである。また建物の倒壊も深刻で6,000人が冬の寒空の中家を失ってしまったのである。
 事故当日より近隣の諸都市からの救助隊がハリファックスに向かい、事故翌日にはアメリカの大西洋岸の都市から医療品や医師を乗せた船がハリファックス入りし被災者の救護を行っている。特にボストンからはハリファックスに直通する鉄道が通っていたこともあり大量の支援物資が届けられた。この支援に感謝したハリファックスの市民は以後毎年ボストンに巨大なクリスマスツリーを送っている。

 事故後被害状況を調査していくと、実際の爆発よりもより大きな衝撃が生じた痕跡があちこちで確認され、その原因を調べると爆発の衝撃波が地面で反射された「反射波」の影響によりより大きな衝撃が発生することが突き止められた。これを元に初の原爆実験「トリニティ実験」では原爆を地上より高い位置で爆発させ、その効力が実証されている。これだけの大災害でも人間、ただでは起きないというところだろうか。

e0287838_113524.jpg

             湾内を航行していた船から撮影されたハリファックス爆発直後の爆煙
[PR]
by narutyan9801 | 2013-08-19 11:05 | 妄想(事件・事故) | Comments(1)

トリアージ ~修羅場での「救命順位」~

 医療の基本方針は「患者の救命」と言っていいだろう。しかしながら大規模災害などにより医療能力のキャパシティを越える患者が発生した場合、医療効率を上げるために治療の優先度を判定することがある。今回はこの判定「トリアージ」を考察したい。

 トリアージは大規模災害など多数の負傷者が発生した場合救命の順序を判定するための基準であり、直接治療業務に携わらない医療従事者が行うこととされている。負傷者の数や負傷の度合い、治療機関の数や搬送距離などから判定を行うことになる。

 トリアージの歴史はナポレオン戦争の時代、フランスで行われたことが起源とされている。フランス革命頃までは戦争による負傷者は負傷者の地位や能力により優先順位があり、下級兵士への治療の優先度は低かった。フランス革命で国民軍を創設したフランス軍は身分による治療優先度をその成り立ち上撤廃せねばならなかったが、戦場のの負傷の程度には差があり、治療の度合いによる判別が行われるようになる。これがトリアージの始まりとされる。
 その後ナポレオン戦争の激化によりトリアージも次第に変化してゆく事になる。対仏大同盟によりヨーロッパ列強の多くと戦争を行わなければならなくなったフランス軍は早期治療が可能で戦力復帰できるものに治療の優先度を高めるようになる。さらに身分、能力による治療優先度も復活しトリアージは軍隊の戦力回復のための手段と化してゆくのである。クリミア戦争でナイチンゲールが献身的に治療した重傷患者は軍隊のトリアージで治療優先度を下げられた人々であった。

 日本にトリアージの制度が持ち込まれたのは明治21年の事である。後の文豪森鴎外はヨーロッパ視察の際トリアージの概念を知り、陸軍軍医の間に伝えていた。しかし翌年編纂された陸軍衛生教程にはトリアージは取り入れられなかった。この頃の日本は江戸時代末期に結んだ不平等条約撤廃を念願としており、赤十字国際条約に記載された差別的治療にトリアージが抵触するという懸念があったためである。後の日露戦争ではロシア軍捕虜に対しても日本軍側はできうる限りの治療を行っておりこの判断が良い方向に働いたと言える。

 とはいえ実際の野戦病院ではトリアージを前提とした治療を行わなければならず、昭和期には軍医関係者のみが理解できる「隠語」を使ってのトリアージが行われるようになる。日本陸軍におけるトリアージは4段階に分けられており

 1 隊内での治癒が可能なもの
 2 自力歩行が可能なもの
 3 担架による搬送が必要なもの
 4 助かる見込みの無いもの

に分けられていた。判定に「自力歩行」や「担架にによる搬送」があるのは日本陸軍の輸送能力の事情によるものとではないだろうか。

 意外かもしれないがアメリカ軍はトリアージの導入に消極的であった。トリアージの思想は命の選別であり思想的には民主主義に反することである。また十分な医療体制がとれればトリアージを導入する必要性は薄い。第二次大戦までのアメリカ軍は医療設備が(他の国から見れば)充実しており、思想的にトリアージ導入を避けていた。そんなアメリカ軍も戦闘の規模の拡大などから朝鮮戦争以降はトリアージを導入している。

 現在行われている医療トリアージは概念としては戦場のトリアージと同じである。多数の死傷者が発生し救命治療のキャパシティを越える場合治療の優先度を決めるための制度であり、負傷者が少なく救命治療が十分行える状況ではトリアージは行われない。医療トリアージの規格統一は日本が先進的で、阪神・淡路大震災の教訓からトリアージ判定の表記方法として緑・黄色・赤・黒で表示する「トリアージ・タッグ」が考案、実施されている。国単位でトリアージの規格が統一されたのは日本が最初である。

 トリアージは人の生命に関わることであり、まだ歴史的にも浅く問題点も多い。トリアージは救命医療の状況と負傷者の状況から判断するものであり、負傷の度合いから判別できるものではない。たとえばA事故では「赤(緊急治療)」と判定され搬送、救命できたことに対しB事故では同程度の負傷で「黒(救命不能)」と判定され死亡してしまうなどということもありうる。

 また「黒」と判定された負傷者も十分な医療体制が整っていれば救命可能な状況な場合もある。たとえば心肺停止の負傷者が呼吸停止直後から蘇生処置を行えば救命可能な場合もある。しかし救命治療の現場の状況により早期に蘇生措置が行えない状況で、他の負傷者の治療を優先した方が全体の救命効率が上がると思われるならば判定を「黒」とせざるを得ない場合も出てくるだろう。

 この判定をする側の心理的負担、判定をされた側の遺族の心情は双方に深い心の傷を負わせることが懸念される。事実多くのトリアージが実行された「福知山線脱線事故」ではトリアージ判定の苦悩や疑問が判定側、遺族双方に残っていることがテレビ番組で放送されている。

 日本は災害の多い国である。また公共移動方法も多くいつ災害や事故に巻き込まれるか分からない。いつ自分に「トリアージ・タッグ」が付けられても不思議ではないのである。付けられたタッグの色を見て受け入れられるかどうか(タッグは患者に見見えないよう配慮して付けられるそうだが)自分はちょっと自信が無い…。
[PR]
by narutyan9801 | 2013-08-18 10:19 | 妄想(その他) | Comments(0)