鼈の独り言(妄想編)

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毛利小平太 ~真相を語ることがなかった「最後の脱盟者」~

 元禄十五年一二月一四日(以下今回の投稿は暦を旧暦にて表記する)に決行された赤穂浪士の吉良邸討ち入りは総勢47名で行われている。しかし討ち入り当日までは48名で行われることが予定されていた。今回は討ち入り直前に逐電してしまった「毛利小平太」を考察したい。

 毛利小平太の生年は不詳である。記録では小平太は浅野家では大納戸役を勤めている。石高は二十石五人扶持で微禄といっていいが仇討ちの盟約には積極的に参加している形跡がある。特に堀部安兵衛とは親しかったようである。

 討ち入り直前に作成された討ち入り手配によれば毛利小平太は裏門組に組み入れられていた。このころ小平太は堀部安兵衛が借りた借家に入り木原武右衛門の変名で探索を行い、どういう伝かは不明だが吉良家内部に潜入して見取り図を作成している。探索に関して小平太は大きな功績を残しているのである。

 しかし討ち入り当日、小平太は集合場所に現れなかった。小平太は討ち入り前に翻意し逐電してしまうのである。大石らが小平太の翻意を知ったのは討ち入りの直前であり、手配を変更して小平太の代わりに三村包常を裏門に配置している。

 毛利小平太は「最後の脱盟者」と言われるが、時系列や諸資料を見る限り「最後」では無いようである。小平太が翻意し逐電する旨を認めた書き置きの日付は一二月一一日と記されている。一方一二日に脱盟した瀬尾孫左衛門、矢野伊助の両名は伝言という能動的な連絡で脱盟を伝えており書き置きという受動的な連絡方法を小平太が採ったため情報の伝達の遅れで「最後の脱盟者」が毛利小平太になってしまったのである。時間的なタイミングを見るとあるいはこの三人は連絡を取っていて示し合わせて脱盟したかもしれない。

 小平太の脱盟の原因は不明である。有力な説では小平太の兄が大垣新田藩に仕えており討ち入り参加で兄の主君に累が及ぶのを懸念した兄に説得されたためというのがあるが確証はない。このあたりは様々な人の興味をそそるようでドラマ等では様々な毛利小平太像が描かれている。東映の「忠臣蔵 櫻花の巻・菊花の巻」や年末時代劇の「忠臣蔵」では上記の説の通り兄に説得されて討ち入りに参加できなかった毛利小平太が討ち入りを終えて引き上げる赤穂浪士の一行に土下座をして詫びようとし、大石に声をかけられるシーンがある。2004年のテレビ朝日ドラマ「忠臣蔵」では小平太は病に冒され、死期が迫る中討ち入りに参加しようとするが途中で力尽き倒れ、助け起こした人に自分は病で大事に参加できぬ、臆病ではないのだと伝言を頼むが、肝心の伝言先は討ち入りの秘匿のため伝えられず、ジレンマに悩みつつ息を引き取る小平太が描かれている。中には討ち入り当日に騒動に巻き込まれ斬殺される小平太なども描かれているようである。

 討ち入りを決行したとき小平太は江戸を既に売っていたか、はたまた江戸に居たか、江戸に居たとしたら討ち入り後の一行を陰から見送ったろうか、想像は尽きない。脱盟後の毛利小平太のその後の消息はいっさい伝わっていない。おそらくは名を捨て、変名を使いひっそりと暮らしたのであろう。討ち入りに参加した四七士(切腹したのは四六人)を弔いつつ生涯を過ごしたであろう小平太の心情は常人の理解を超えたものがあったのではなかろうか。
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by narutyan9801 | 2013-07-25 10:05 | 妄想(人物) | Comments(0)

毛利新助 ~信長に殉じた「一介のもののふ」~

 永録三年五月十九日(1560年6月12日)に行われた桶狭間の戦いで今川義元は織田信長自身に率いられた軍勢に討ち取られるが、義元に一番槍をつけたのは服部一忠である。義元は服部の膝頭を切り打ち倒すがそこに加勢に入った者に義元は組み伏せられ首級を挙げられることになる。今回は今川義元の首級を挙げた男、毛利新助を考察したい。

 毛利新助の出自はよく分かっていないが、幼少の頃から織田信長の小姓や馬廻を勤めていたといわれるからある程度の身分の出であることが想像できる。そして義元を討ち取った後の信長の処置を考えるとかなり親しく仕えることができた人物でなかったろうか。

 桶狭間の戦いにおいて義元の本陣に打ちかかった信長軍に義元の旗本は崩され、義元はまず前述の服部一忠は撃退するものの毛利新助に後ろから組み伏せられる。このとき新助はおそらく義元の顎に右手をかけ、後ろに打ち倒したのであろう。この際義元は新助の右手人差し指を噛みちぎったと言われる。新助はこれに屈せず、義元の首を掻ききって首級を挙げることになる。毛利新助の生年は分かっていないが、このとき二十歳前後であったと推察される。

 信長は義元を討ち取ると追撃を行わず軍を引き、首実験を行うがここで一悶着が起こる。義元に一番槍をつけた服部と首級を挙げた新助が功を譲らず、双方が険悪な空気になったのを信長が察して双方同等の手柄とする裁定をおこなったのである。信長にしてみれば譜代の家臣はいわば目付役として父の代から付帯されていた者たちであった。本当に信頼する家臣は自らが選んだ馬廻りなどの近従たちであり、その者たちの無用な争いは押さえる必要があったと思われる。もっとも桶狭間の戦いで功第一級とされたのは義元の休息場所を探知した梁田政綱であり、序列でその次とされた服部と新助はその鬱憤晴らしのため示し合わせていがみ合った可能性もある。この首実験の際も新助の指は義元の口の中にあったと言われている。

 桶狭間の戦い後、毛利新助は黒母衣衆に抜擢される。黒母衣衆には川尻秀隆、佐々成政などの蒼々たる顔ぶれがそろっており、また同格であるが格式がやや劣るとされた赤母衣衆には前田利家がいる。この若きエリートたちに仲間入りした新助であるが、他の母衣衆が城持ち武将に出世していくのに対し、新助は信長の旗本として大きな出世をすることなく年月を重ねてゆくのである。
 これは様々な要因があると思われる。有力な説に新助には文章の才があり、他の戦国大名との折衝に当たる能力を生かすため手元に置いていたことにより結果的に出世が遅れてしまったというのがある。一理ある説であるが、個人的にはこれだけで説明するには不十分だと思う。どうも真相は「信長個人が新助を気に入っていて、手元に残しておきたかった」と思えるのである。
 信長は桶狭間を自らの目で見ており義元の旗本の混乱ぶりを目の当たりにしている。信長自身もまた混乱した戦場で本陣の襲撃こそ受けなかったが鉄砲による狙撃を幾度か受け、負傷もしている。本陣が襲撃されたとき最後に頼りになるのは強い忠誠心と卓越した武力を持つ旗本であり、その信頼に応えられるのが毛利新助ではなかったろうか?無論「今川義元の首級を挙げた男」が陣中にいるという効果を期待した面もあったろうとは思える。しかし信長が期待したのは「過去の勲章」ではなく危急の際の働きであったろう。そして新助自身も自らの役割を理解していたのではないだろうか。かつての同僚たちが立身出世してゆくのを見つつ、黙々と馬廻りを勤める理由を求めるとなると自分にはこれぐらいしか思いつかないのである。そして信長が期待した新助の働き場所は、皮肉にも信長の死後に来ることになる。

 天正十年六月二日の本能寺の変の際、新助は多くの供廻衆と同じく洛内の宿所で休んでいた。騒ぎを聞きつけて信長の供廻衆は本能寺に向かう。幾人かは混乱に乗じて本能寺に入り信長に殉じたものもいたが、新助は明智勢に阻まれ本能寺に到達することができなかった。
 ここでもし新助が織田家に見切りをつけ洛内から出奔しようとすれば、それは可能であったと思われる。しかし新助は逃れる道を選ばず、同じく洛内に残った信長の嫡男信忠が籠もった二条城に入り最後の一戦を戦い、激戦の中で落命する。はっきりした享年は不明だが一説には43歳であったと言われている。人生のすべてを信長に捧げた生涯であった。

 仮に本能寺の変の最中の毛利新助の立場に他の信長配下の有力武将がおかれた場合、はたして何人が脱出の道を選ばず新助と同じ行動を取ったであろうか?それを考えると信長の判断は間違っていなかったと思えるのである。

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by narutyan9801 | 2013-07-25 10:01 | 妄想(人物) | Comments(0)

ロードハウナナフシ ~絶滅から救ったのはたった一本の灌木だった~

 「絶滅したと思われていた動植物が人知れず生き残っていた」という例はいくつかある。そのほとんどが人が踏み入ったことのない所で生き残っていたというものである。今回はそんな事例でもかなり特殊な例と思われる「ロードハウナナフシ」を考察したい。

 ロードハウナナフシはオーストラリア大陸の東にあるロード・ハウ島に生息していたナナフシの仲間である。ロード・ハウ島はオーストラリアの東岸から約600キロ離れており、他の陸地と地続きになったことはない。このため島の生態系は独自の進化を遂げており数々の固有種が生息していた。ロードハウナナフシも独自の進化を遂げた昆虫である。
 ロードハウナナフシは雌の体長が約15cmで雄はこれを若干下回る。体長15cmはナナフシの仲間では飛び抜けて大きいわけではないが、他のナナフシが擬態の為木の枝に似せた細い脚を持つのにたいしロードハウナナフシは太短い脚であり、その姿から「陸のザリガニ」と呼ばれていた。また天敵がほとんどいない環境のため飛翔の必要がなくなり翅が退化している。

 かってはロード・ハウ島ではどこでも見られたというロードハウナナフシであるが、二十世紀初頭に急速に数を減らしてしまう。原因は人間が持ち込んだクマネズミであった。第一次大戦中ロード・ハウ島にも複数の船が立ち寄っておりこの船に「密航」していたクマネズミが島に「不法上陸」してしまったらしい。元々ロード・ハウ島にはほ乳類はコウモリしかおらず、全く天敵を知らなかったロードハウナナフシは瞬く間に喰い尽くされてしまう。最後に個体が観察されたのは1920年。わずか数年でロードハウナナフシは地上から消えてしまったと思われていた。

 ロード・ハウ島から南に約16キロの海上に「ボールズ・ピラミッド」と呼ばれる小さな島がある。島というのは名ばかりで海上に塔のように高さ551mの岩が突き出している岩場といったところである。1960代にこのボールズ・ピラミッドを制覇しようとしたロッククライマーのパーティーが奇妙な昆虫の死骸を発見して持ち帰る。詳しく調べてみるとそれは絶滅したはずのロードハウナナフシであった。さらに数年調査が行われ、数体の死骸を発見することができたが、生きた個体は見つからず生存の確証はつかめなかった。

 ボールズ・ピラミッドにロードハウナナフシが生存するかどうか本格的な調査が行われたのは最初の死骸が発見されてから40年近くが経過した2001年になってからであった。岩場にはほとんど平坦なところがなく、学者といえどもロッククライミングに熟練していなければ調査ができないほどであり、自然保護団体からロッククライミングの熟練者がサポーターとして参加しようやく調査が可能になったのである。この調査で生きたロードハウナナフシが80数年ぶりに確認されることになる。

 ロードハウナナフシはボールズ・ピラミッドの岩場の間に生えていたフトモモ科の灌木の下にかろうじて数十個体が生息していたのである。2年後再び調査が行われ、たまたま交尾を行っていた二組の個体を採集し、人工繁殖を試みることになる。ロードハウナナフシの生態はほとんど知られていなかったので試行錯誤の連続であったが、現在は飼育下での繁殖が順調に進み、卵から孵化する様子も動画で見ることができる。

 それにしてもロードハウナナフシがボールズ・ピラミッドで生存していたことは様々な偶然が重なった結果だと思われる。前述したようにロードハウナナフシは翅が退化しており、自分が飛翔してボールズ・ピラミッドに到達するのは不可能である。鳥の羽毛に卵かごく初期の幼虫が付いてたまたまボールズ・ピラミッドのさらに食草であるフトモモ科の木に到達する可能性は0ではないだろう。しかしこれだけでは「繁殖する」ことはできない。ナナフシの仲間の中には雌のみで単為生殖を行うものも存在するが、ロードハウナナフシは雌雄異体である。昆虫の短い「繁殖可能期間」中にたまたま雌雄がボールズ・ピラミッドで出会えたのか?それとも何らかの原因で妊娠した体長15cmの雌が16キロの海上を旅してボールズ・ピラミッドに到達できたのか?謎は尽きない。自然は時にはこんな奇跡を生み出すこともできるのである。

ロードハウナナフシの孵化の様子(YouTube)

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現在野生のロードハウナナフシが唯一生息する島、ボールズ・ピラミッド。平坦な場所はほとんど無く樹木に大きく依存するナナフシが生息できたことは奇跡的である。
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by narutyan9801 | 2013-07-24 10:54 | 妄想(生物) | Comments(0)

トリニティ実験 ~人類が核兵器と関わり始めた日~

 人類が原子核分裂を発見したのは1938年、オットー・ハーンが発見しリーゼ・マイトナーが原子核分裂の概念を提唱したことによる。オットー・ハーンはドイツ人であり当時ドイツの政権を握っていたナチス・ドイツは原子核分裂を兵器に応用することを模索する。これに危機感を抱いたイギリスとアメリカはナチスドイツに先んじて核兵器を開発すべくマンハッタン計画を起こし1945年夏には核爆弾の開発に成功するが、実戦投入の前に核爆弾が計画通り爆発するか実験する必要が生じており、アメリカ、ニューメキシコ州のアラモゴード爆撃試験場を使って人類初の核爆弾の炸裂が行われた。今回はこの「トリニティ実験」を考察したい。

 核爆弾という爆弾を起爆させることを簡単にいうと、爆薬に当たる核分裂性物質同士を衝突させ、原子核内に中性子を吸収させて核分裂を起こし、分裂した際に生じた中性子が別の原子核に取り込まれ次の核分裂を起こすということを連鎖的に起こさせることである。ところが核分裂性物質の密度が大きいと自然に核分裂反応が起こってしまい、密度が小さいと核分裂反応が連鎖的に起こらないという問題を抱えている。マンハッタン計画では兵器化を急ぐため、様々な核反応性物質の兵器応用を考えており、爆弾として具体化したのはウラン235を使用するものと、プルトニウムを使用するものであった。

 ウラン235は比較的連鎖反応が制御しやすいが、天然ウランに対するウラン235の含有率が0.7%と低いため大量製造が難しい特性がある。プルトニウムは原子炉の副産物として製造が容易な反面、密度が高いと自然核分裂反応を起こしてしまうため、通常は密度を低くしておき使用時に核分裂連鎖反応を起こすように圧縮する必要がある。

 マンハッタン計画ではこの二種類の爆弾を平行して生産を行っている。ウラン235使用の爆弾は二つに分けたウラン235を含む物質を筒の中に入れ、爆薬を爆発させて二つをぶつけ核分裂連鎖反応を起こさせる起爆方式(ガンパレル式、または砲身方式)を採用したが、プルトニウム使用のものは低濃度のプルトニウム含有物質を球状にし、その周りから爆薬の爆発で均等に爆風をおこして圧縮させ、核分裂連鎖反応を起こさせる方式(インプロージョン式、または爆縮方式)を採用することになった。

 ウラン235使用原爆は元々の製造数が少なく(一個しか製造できなかった)、爆発実験を行うことなく実戦に投入され、広島に甚大な損害を与えることになったが、プルトニウム使用原爆は起爆のための調整が難しく、実験を行う必要が生じていた。このため1945年7月16日に世界初の原爆実験が行われることになったのである。

 この実験は「トリニティ」という秘匿名称が与えられたが、なぜこの名称が与えられたかは諸説ある。Trinityとはキリスト教における三位一体説の意味であるが、当時マンハッタン計画の責任者であったロバート・オッペンハイマーの知人であったジョン・ダンの詩から取られたもの、さらにトリニティは地名によく使われる名称だったために秘匿名としてふさわしかったなどが上げられている。

 実験に先立って観測機器のテストを兼ね、TNT火薬による模擬実験が行われた後、原子爆弾が近くの牧場で組み立てられる。この原始爆弾には「ガジェット」というニックネームがつけられていた。さらに万が一核分裂反応が起こらなかった場合、プルトニウムの回収を容易にするために「ジャンボ」と名付けられた巨大な鍋状の容器も用意されていた。高さ20mに吊された「ガジェット」が不発に終わった場合、周囲にプルトニウムが飛散するが、それを鍋で受け止めようというのである。実際には核分裂連鎖反応成功への自信からこの巨大な鍋は使用されず、爆発の威力のテストのために爆心地から約700mの位置に置かれ、爆風と熱線にさらされることになる。もしも核分裂連鎖反応が不発に終わった場合プルトニウム回収作業は果たして可能だったかどうか…。

 1945年7月16日現地時間5時29分45秒、「ガジェット」は爆破される。実験は成功を収め、爆発の衝撃波は160キロ先でも感じることができ、爆発の際生じたキノコ雲は高さ12キロにまで達したという。爆心地には深さ3m、直径330mのクレーターができ、その表面には見たこともない薄い緑色をしたガラス状の物質で覆われていた。これは核爆発の熱で砂漠の砂が溶けてできた物質で「トリニダイト」と名付けられている。現在トリニティ実験場は年に2回解放され、爆心地を示す記念のタワーや実験後もそのまま放置された「ジャンボ」を巡るツアーが盛況だという。
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                  トリニティ実験 起爆直後の巨大な火の玉の写真
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by narutyan9801 | 2013-07-17 11:51 | 妄想(軍事) | Comments(0)

天野八郎 ~幕末維新を真っ直ぐに突き抜けた男~

 幕末期は旧来の家柄による階級序列が崩れ、武士階級以外から政治や軍事に参加するものがでてくる。武士階級出身者は長年の「忠節」癖を払拭することが難しく、明治期に至ってからも武士であったことの弊害に悩まされるものが多かったが、武士階級以外のものはこの弊害がなく思い切った行動をとるものも多かった。今回は「武士」の」出身ではないものの幕府に最後まで忠節を尽くした天野八郎を考察したい。

 天野八郎は天保二年(1831年)上野国甘楽郡磐戸村の名主の息子として生まれている。磐戸村の属している小幡藩の領主松平家の四代目(最後の)当主松平忠恕は幕府寺社奉行を勤めるなど幕府の政策に関与する傍ら、領内の猟師に名字帯刀を許し、その見返りに選抜して鉄砲隊を組織するなど軍事増強を計る一面も見せており。天野の人格形成はかなり藩の姿勢の影響を受けていると思われる。

 幼少から学問や武道を学んだ八郎であったが、自身は次男であり家を継ぐことはできなかった。八郎は武士へのあこがれもあったのだろうか、江戸町火消し与力の広浜喜之助の養子となり武士階級身分となる。しかし折り合いはよくなかったのかこの養子縁組を一年で解消した八郎は、なんと自ら旗本天野氏を自称し、自ら将軍の直臣を宣言するのである。

 この直臣自称は身分階級が秩序になっていた時代であればむろん処罰されていたろうが、八郎は別段処罰を受けていない。それどころか将軍家茂の上洛の際には警護のため上洛すらしている。天野にとっては得意満面であったかもしれないが、それは幕府権力の失墜の象徴でもあった。

 1868年、鳥羽伏見の戦いで幕府軍が敗北し将軍慶喜が江戸に帰還すると幕府内は恭順派と抗戦派に分かれて争いが起こる。八郎は抗戦を唱え、渋沢成一郎が結成した彰義隊に参加、その副頭取に就任する。

 4月に江戸城は無血開城した後、彰義隊は今後の方針を巡って内部対立が起こる。将軍家が降伏したのだから帰順すべきという頭取の渋沢の主張に対し天野等の抗戦派は徹底抗戦を撤回せず、渋沢等帰順派は彰義隊を脱退する。残った彰義隊は天野が統率し、5月15日(太陽暦7月4日)の上野戦争を迎えることになる。

 上野戦争は官軍側の指揮を大村益次郎が取り、江戸城で懐中時計を見つつ、「そろそろ勝利の頃合いだな」と戦闘終結の時間を読み当てたと言われるほど官軍主導の戦闘であり、わずか一日で彰義隊は壊滅している。彰義隊は江戸で結成されており、上方での幕末期の動乱を知らない人々で編成されていたため、実際の戦闘になると弾丸が飛び交う中で冷静さを失い、一方的に破れてしまったと言える。この戦闘で八郎は敵の攻撃が集中した黒門口(現在は円通寺に移築)に隊員40人を連れて駆け、いざ突撃しようと後ろを振り返ったら誰もいなかったという話を後に獄中で記しており「徳川氏の柔極まれるを知る」と嘆息しているが、戦の実状を知らずに戦略的に無意味な戦をした彰義隊にも幾分かの責任はあるかと感じる。

 上野戦争後、八郎は上野を脱出し本所石川町の炭屋に潜伏する。大村益次郎は彰義隊の退路をも読み窮鼠になることを避けるため退路のひとつを空けており脱出した隊士は少なくなかった。脱出した隊士の幾人かは東北の幕府勢力に合流したり、彰義隊に擁立された輪王寺宮と共に榎本艦隊に乗り込んだものもおり、八郎も脱出の機会はあったかに思えるが、八郎は江戸に潜伏することを選ぶ。江戸の町民は彰義隊に同情的であり、また短期間ながら町火消し同心の養子だった頃の縁もまだあったのかもしれない。そして想像だが八郎は江戸の町が好きだったのだろう。
 潜伏とはいうものの、別段八郎は変装するというわけでもなく江戸の町を歩き、同士たちと再挙の相談などをしていたというからなかなか大胆である。しかしやがて新政府にその動きは察知され、天野は捕縛されてしまう。捕縛の日天野は訪ねてきた同士と朝食を取っていたところを踏み込まれ、屋根づたいに逃げようとしたところ弾丸が面前をかすめ、目が眩んで落ちたところを捕縛されたという。

 捕縛された天野はそれから約3ヶ月後の明治元年11月8日に獄死する。当時の獄舎は環境が劣悪で、さらに想像であるが、彰義隊などの状況を聞き出すための拷問が行われた可能性がある。彰義隊結成時の頭取渋沢成一郎はもともと一橋家の奥右筆であり、彰義隊と慶喜の繋がりがあれば徳川家の廃絶などの処遇もあり得た。おそらく八郎はそういったことに対しては口をつぐんだろうし、数ヶ月での獄死は何かを物語っているような感じがする。

 天野八郎は将棋を好み、特に「香車」の駒を愛していたという。ただ真っ直ぐに突き進み退くことを知らない香車を己の人生になぞらえていた節がある。獄中で記した「斃止録」に「東征軍に一敗すといえども、職掌を尽くして他に譲らず。決して香車に恥じず」と書き残している。敗れたといえども己の意地を貫き通したのだと言いたかったのだろう。八郎の遺体は回向院に埋葬されたが、後に八郎が救援に向かった黒門が移築された円通寺に改装され、現在も八郎はそこで眠っている。

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                         円通寺に移築された黒門
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by narutyan9801 | 2013-07-12 11:03 | 妄想(人物) | Comments(0)

簫何 ~劉邦を影で支え続けた男~

 古代から近代にかけて政治体制を中国から取り入れた国家は「臣下の最高位」の称号として「相国」の称号を与えることが多い。日本でも太政大臣の唐名は「相国」としている。元々相国は「相邦」と表記されていたが、中国の漢王朝が成立した際「相邦」の邦の字が劉邦の諱に触れることになるので「相国」と改められている。今回は歴史上初めて「相国の称号を与えられた簫何を考察したい。

 簫何は沛県(現在の中国江蘇省徐州市)の出身で地元の下級役人を勤めていた。仕事ぶりは評価されていたが、出世街道にはほど遠い役職であった。漢の高祖劉邦も同じ沛県の出身で侠客を生業としていたが、たまたま縁があって亭長の役職に就き、仕事柄劉邦と簫何は顔見知りになる。簫何は劉邦の不真面目な仕事ぶりに呆れるが、劉邦に人を引き付ける魅力を感じ色々と面倒を見てやるようになる。
 ある時名士で名高い呂公が仇討ちを避けて沛県に逗留することになった。名士を歓待する宴を簫何が取り仕切ったが、簫何は呂公に劉邦を引き合わせる。劉邦は事前に呂公に銭一万銭を進呈すると伝えていたが、劉邦が銭を持っていないことを知っていた簫何は「劉邦は大風呂敷を広げる男だ」と呂公に取りなし、実際に劉邦は一銭も持たずに宴会に参加している。呂公は劉邦を気に入り、娘を娶らせたのである。

 秦の始皇帝が亡くなり陳勝・呉広の乱が勃発するなど世の中が騒然とする中、沛県の県令が反乱で殺害される事件が起こり、住民の支持で劉邦が県令になる。この時劉邦を推挙したのは簫何であった。劉邦は近隣を制圧してゆくが、その間後方のことはすべて簫何に任せており、簫何もその期待に答え、必要な兵力、資金の調達に奔走する。やがて劉邦は秦の都咸陽を攻め落とすが、略奪に走る武将の中で簫何だけは秦の省庁を巡り各地の戸籍、人口、地籍などの資料を押収する。遅れて咸陽に到着した項羽は一番乗りを逃した腹いせに咸陽に火を放ってしまい、咸陽は灰になってしまうが、簫何の持ち出したはこの後膨大な資料はこの後の楚漢戦争で大いに役立つことになる。

 劉邦は項羽の臣下となり、漢中王に封じられると簫何も劉邦に同行し漢中に赴ことになる。ここで簫何は韓信と知り合い、その才能を高く評価して劉邦に推挙する。韓信が与えられた役職が不満で出奔すると後を追いかけ「次も駄目ならば私も国を捨てる」とまで言い切り劉邦を説得、韓信を大将軍の地位につけることを納得させている。やがて楚漢戦争が勃発すると簫何は再び後方支援を行い劉邦の軍勢を支え続ける。劉邦は項羽に対して百戦して百敗したともいわれる連戦連敗ぶりであったが、簫何は失った兵力と必要な食料を常に補充し続けた。一方の項羽軍は食料の供給を略奪に頼ったので民心は次第に項羽から離れ、これが最終的な勝敗に大きく寄与することになる。
 楚漢戦争が劉邦の勝利に終わると劉邦は戦いの最大の功績者を簫何とする。前線で命がけで戦った武将たちから不満の声が挙がると劉邦は「お前たちはいわば猟犬、簫何は猟師である。猟師の指示があって初めて猟犬は働ける。猟犬は猟犬の功績しか与えられない」と諸将を納得させる。

 しかし劉邦は次第に猜疑心の強い男に変貌してゆく。毎年の様に臣下に謀反を起こされ、心理的に追いつめられたせいもあるだろう。簫何の説得で漢に止まった韓信も謀反で処刑されているが、韓信を捕縛したのは簫何の計略によるものである。この功績で簫何は「相国」を地位を賜るが、劉邦の疑いの目は簫何にも向けられていた。それを察知した簫何はわざと田畑を買いあさって暴利を得たり、不公平な取り決めを裁可したりして評判を下げ、劉邦の疑いを解こうとしている。かって秦の武将王翦は楚を討伐中もしつこく後の始皇帝、秦王政に「褒美は何をくださるか?」と使者を送り続け、政の猜疑心を和らげたが、簫何は実際に行動を起こして劉邦の猜疑心を和らげるしか方法が無かった。猜疑心という点では劉邦は始皇帝を上回っているかもしれない。

 それでも簫何は劉邦が亡くなった後までも「相国」として漢王朝に尽くさねばならなかった。同僚だった張良は引退して仙人になろうとし、時々劉邦に会いに来て話をするだけの隠遁生活を送っていたが、実務官僚だった簫何には国を立ち上げる仕事が残っていた。劉邦の死から二年後、死の床に伏した簫何は後任には沛県の役人時代の部下であった曹参(血の繋がりはないが三国志の曹操の祖先に当たる人物)を指名し、簫何は静かに息を引き取った。

 簫何の死後指名により相国の地位に就いた曹参は政務そっちのけで酒ばかり飲んでおり、政務上の小さなミスはもみ消し、大きな問題は簫何の行った事例にならって処理を行っていた。漢の二代皇帝恵帝は曹参のこの態度を職務怠慢と見、曹参を呼び出して詰問を行ったことがある。曹参は恵帝に「先代(劉邦)と陛下はどちらが上と思われていますか」と問い恵帝が「もとより朕は先代の足下に及ばない」と答えると次に「では先代の相国(簫何)と私とではどちらが勝っていると考えますか?」と問うと恵帝は「どうもそなたの方がすこし劣っているようだ」と答える。「ならば先代の取り決めたことを我々は遵守してゆけばそれでよいのではありませんか?」との曹参の答えに恵帝も納得している。

 曹参の死後、漢では「相国」の称号を臣下に与えることを控えるようになる。相国の称号が復活し再び使われるようになるのは後漢末期に実質上後漢を滅ぼした男、董卓が拝命して以降のことになる。

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by narutyan9801 | 2013-07-11 10:38 | 妄想(人物) | Comments(0)

フリードリヒⅡ世 ~つかの間のエルサレム共同統治を実現させた皇帝~

 「エルサレム」ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖地であり、現在もその領有を巡って争いが絶えない地である。歴史的に見てみると古くはこの都市を首都としたエルサレム王国が栄えた時代もあるが、エルサレムは周辺の国家に領有される立場にあることが多かった。8世紀にイスラム勢力がエルサレムを占拠し、11世紀に第一次十字軍により数十年エルサレムはキリスト教国家が奪還を果たすが、12世紀後半に再度エルサレムはイスラム勢力が占拠する。ところが13世紀半ばに短期間ながらキリスト教、イスラム教双方の共同統治が実現した時代があった。今回はエルサレム共同統治の立役者、神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒⅡ世を考察したい。

 フリードリヒⅡ世は1194年12月26日にイタリア中部の町イェージで神聖ローマ皇帝ハインリヒⅥ世とシチリア王女コンスタンツェとの間に誕生している。母コンスタンツェは出産の際40歳という当時では超が付くぐらいの高齢出産であった。このため偽の出産ではないかという疑惑を生じさせないため町の有力者の婦人が出産に立ち会い誕生したと言われている。

 当時シチリア王国では跡取りの男子がおらず、ハインリヒⅥ世は婚姻によりシチリア王位も兼ねることになったがフリードリヒの誕生から3年後に遠征先で病死してしまう。フリードリヒはシチリア王位を継ぐことになるが、後ろ盾となる有力者がおらず、摂政を務めていた母コンスタンツェはローマ教皇に嘆願しこれによりローマ教皇がフリードリヒの後見人を務めることになる。1198年11月に母コンスタンツェも病死するが、フリードリヒはローマ教皇の後ろ盾を受け幼いシチリア国王として成長してゆく。

 当時のシチリアは貿易によりイスラム文化、東方のビサンティン文化、メッシーナ海峡を挟んですぐ隣のイタリア文化が融合して独特の文化を持っていた。幼いフリードリヒは様々な文化を目の当たりにして成長する。4歳にしてラテン語を話し、成人するまでに6つの言語を使いこなすようになるマルチリンガルぶりを発揮する。また科学や生物学に強い関心を抱き、武術も一通りこなすなど文武両道の青年に成長してゆく。

 その頃フリードリヒの父の母国神聖ローマ帝国領内ではフリードリヒの父ハインリヒⅥ世死後の後継者争いが続き混乱していた。ドイツの混乱はローマ教皇の地位も揺るがしかねない事態であり、時の教皇インノケンティウスⅢ世はフリードリヒに神聖ローマ皇帝就任を要請する。これを受けてフリードリヒは生まれたばかりの嫡男ハインリヒにシチリア王位を譲り、1212年にドイツに赴き神聖ローマ皇帝の戴冠を行い、フリードリヒⅡ世となる。時にフリードリヒ16歳であった。

 神聖ローマ皇帝となったフリードリヒはドイツの諸侯の自治権を大幅に認め諸侯の支持を得る。ドイツ国内に平穏が戻るとフリードリヒは本領であったシチリアに戻り、留守の間に乱れたシチリアを再統治する。嫡男ハインリヒをドイツに置き、シチリア島の敵対勢力を武力討伐しシチリア全土を掌握したフリードリヒに今度はエルサレム問題という難題がふりかかる。

 第一次十字軍が奪還しエルサレム王国の首都となっていたエルサレムはイスラム勢力の反撃に遭い奪還されていた。エルサレム王国は領地すべて奪われ、時のエルサレム王ジャン・ド・ブリエンヌは海路ドイツに亡命していた。ローマで行われたヨーロッパ諸侯のイスラムに対する会合にフリードリヒも参加し、エルサレム王位のフリードリヒへの譲位、十字軍の派遣が決議される。
 しかし当時のフリードリヒにはエルサレム遠征を行える余力は無く、十字軍派遣を先延ばしにする。時の教皇グレゴリウスⅨ世は派遣を強要し1228年にようやく十字軍は派遣されるがこの十字軍は進軍途中で疫病が発生してしまう。自身も疫病を罹患したフリードリヒはエルサレムへの進撃を諦め帰国し、これを仮病と判断したグレゴリウスⅨ世はフリードリヒに破門を宣告する。破門された状況の中、フリードリヒは十字軍を再度編成し中東に赴くことになる。

 当時エルサレムを占拠していたのはアイユーブ朝の第5代スルタン、アル・カミールであった。キリスト教側が一枚岩で無かったのと同様、イスラム教側も内部権力抗争に明け暮れていた。アル・カミールには噂で聞く神聖ローマ帝国皇帝の人柄を見極めようとフリードリヒに書簡を送る。書簡の内容は政治的な話ではなく自然科学に関することだったという。送られてきた返書はフリードリヒ直筆のアラビア語で書かれたものであった。フリードリヒに興味を抱いたアル・カミールはその後もフリードリヒと書簡のやり取りを継続する。二人の手紙のやり取りで次第にお互いの政治状況も話し合われ、エルサレムの平和的割譲が取り決められ1229年にヤッファ条約が締結されることになる。
 条約の内容は岩のドームを除くエルサレム全地域と周辺の諸都市をキリスト教側に割譲すること休戦することとし、休戦期間は10年に定められた。しかしキリスト教側は破門されたフリードリヒが戦わずにエルサレムを奪還(これには略奪ができなかったという心情も多分にあろう)したことに不満であった。エルサレムにフリードリヒが入場する日、エルサレムのイスラム教徒は遠慮してコーランの詠唱を控えていた。静かなエルサレムに入場したフリードリヒが「エルサレムのコーランの詠唱が聞きたかった」と話すとたちまち四方からコーランの詠唱が聞こえてきたという話があるが、後生の創作かもしれない。直属のドイツ騎士団のみが立ち会い自らエルサレム王の戴冠式を行ったフリードリヒは5月にドイツに帰還する。

 帰還したフリードリヒを待っていたのは「キリスト教国」からの攻撃だった。フリードリヒの留守の間に教皇グレゴリウスⅨ世の策謀により南イタリアのフリードリヒ領に教皇側の軍勢が攻勢をかけていたのである。帰国後この軍勢を討ったフリードリヒは教皇側と和睦を結び、破門を解かれることになる。

 イタリアの諸問題を解決したフリードリヒに更なる試練が加わる。ドイツに赴任させていた息子ハインリヒはフリードリヒが交わした諸侯と協約を撤廃し王権の拡大をねらったが諸侯の反発を招きこの試みは挫折する。この失敗を父フリードリヒの政策のせいと思いこんだハインリヒは反乱を考え、教皇グレゴリウスⅨ世がそれを後援する事態になる。しかし企みはフリードリヒの知るところとなり、ドイツに赴いたフリードリヒによりハインリヒは逮捕され、後にハインリヒは投身自殺してしまう。

 その後も教皇とフリードリヒの対立は続き、グレゴリウスⅨ世の死後在位17日で死亡したケレスティヌスⅣ世を挟んで教皇に選出されたインノケンティウスⅣ世とフリードリヒの対立は続く。エルサレムの10年の和平期間は過ぎ、アル・カミールは和平期間更新を待たずして世を去っていた。1243年にはエルサレムに残してあったフリードリヒの代官が反乱を起こされ、エルサレムにおけるフリードリヒの影響は無くなってしまうが、すでにフリードリヒにはエルサレムでイスラム教国と敵対する状態ではなく、ヨーロッパで同じキリスト教国と戦わねばならない事態になっていたのである。

 フリードリヒの圧力によりローマからリヨンに逃れていた教皇インノケンティウスⅣ世はリヨンで開かれた公会議でフリードリヒを再び破門にする。これに対しフリードリヒは徹底抗戦の意志を示し、宗教権力と世俗の皇帝権力が全面戦争を行う事態になる。制圧下にあったイタリアでも反乱が起き、1249年には侍医による暗殺計画が発覚する。しかし戦局は次第にフリードリヒ側が優位な状況となり、フランス国王ルイⅨ世もフリードリヒを支持するようになる。

 戦局の安定を見たフリードリヒは1250年冬に鷹狩を催すが、その鷹狩の最中に激しい腹痛に襲われる。季節外れではあるが赤痢のような感染症によるものであろう。死期を悟ったフリードリヒは重臣たちと付き添っていた庶子マンフレーディに遺言を託し没する。享年55歳、フリードリヒの遺体は防腐処理を施し故郷のシチリア島に運ばれ、遺言に従いカデドラル内の棺に埋葬された。

 19世紀にこの棺の内部調査が行われている。フリードリヒの遺体はミイラ化しており、生前の面影を残していた。彼の遺体はイスラム風の衣装を纏っており、その袖にはアラビア語で「友よ、寛大なる物よ、誠実なる者よ、知恵に富める者よ、勝利者よ」と刺繍されていたことが記録されている。おそらくフリードリヒにとって、世俗を忘れアル・カミールと科学について所見を交わす事が一番幸福に満ちていた時間だったのであろう。

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       話し合いを行うフリードリヒⅡ世(左から2番目の人物)とアル・カミール(真ん中の人物)
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by narutyan9801 | 2013-07-10 09:26 | 妄想(人物) | Comments(0)

エドワードⅦ世 ~「愚かな息子」が引き寄せた大英帝国の頂点~

 19世紀にイギリスは多くの植民地を獲得し「日の沈まない」世界帝国として君臨する。しかし植民地から流入する莫大な富の分配は不公平で、大都市には貧民層が暮らすスラムが形成され社会問題化していた。また時の女王ヴィクトリアの夫であるアルバート王配殿下が早くに亡くなり、女王の喪が長く続いたことが社会的な閉塞感をもたらしていた。そんな社会情勢を一気に明るくしたのはヴィクトリア女王から「愚かな息子」と呼ばれ、60歳を過ぎてから即位した王様であった。今回は「最後の王様の時代」を築いた「エドワードⅦ世」を考察したい。

 エドワードⅦ世は1841年11月9日、イギリスのバッキンガム宮殿でヴィクトリア女王とアルバート王配の長男として誕生している。すでにヴィクトリアは女王として即位しており、エドワードは将来の国王として嘱望され、幼少から国王にふさわしい人物になるよう厳格な教育が行われたが、それは時に「虐待」とも言える厳しい教育だったと言われ、その反動から成長するととんでもない問題児になってしまう。
 ヴィクトリア女王とアルバート王配としては威厳のある国王になってほしかったのであろうが、アルバートは奔放で女好きな青年として成長する。1855年のパリ万博に両親とともにパリを訪れたエドワードはフランス皇帝ナポレオンⅢ世に「フランスははすばらしい国ですね。いっそ貴方の養子になりたいぐらいです」と発言する。これでも王太子としては問題とされる発言内容であるが、ナポレオンⅢ世に気に入られたエドワードはパリにしばしば滞在し、遊び好きだったナポレオンⅢ世と共にパリの娼館に入り浸るようになる。また一方では女優好きで、人気女優サラ・ベルナールと浮名を流すなどスキャンダルまみれの青春時代を送ることになる。

 あまりの息子の行状に心配したヴィクトリア女王はエドワードに結婚を勧める。相手はデンマーク国王クリスチャンⅨ世の娘アレクサンドラ。アレクサンドラの容姿を気に入ったヴィクトリアの強い働きかけでエドワードは結婚することになるが、この結婚は二人にとっては不幸な結末をもたらすこととなる。アレクサンドラの首には頸部リンパ節結核の手術痕があり、それをみたエドワードが嫌悪感を持ったためなどさまざまな説があるが、二人の関係は傍から見てもよそよそしいものだった。とはいえ二人は世継ぎのジョージⅤ世をもうけており、エドワードの次期国王としての地位は揺るぎないものになっていた。

 父親であるアルバート王配殿下が腸チフスで急死するとヴィクトリア女王は篭もりがちになり公式行事はエドワードが摂政として務めることも多くなってゆく。1901年に母のヴィクトリアが亡くなるとエドワードは国王に即位、エドワードⅦ世となる。即位時にエドワードⅦ世は60歳になっていた。現在(2013年7月)イギリスのチャールズ皇太子はエドワードの即位時の年齢を超えているが、チャールズ皇太子がイギリス国王に就任するかはまだ未定なので現時点では「もっとも高齢で王太子からイギリス国王に即位した人物」となる。

 国王に就任してからもエドワードⅦ世の奔放な性格はそのままであった。世界各地を訪問する「国王外交」を展開し、世界情勢を把握しつつ積極的な外交政策を行う。「名誉ある孤立」とどこか虚栄の雰囲気が漂う19世紀後半のイギリス外交を改め、急速な南下政策をとっていたロシアに対し日英同盟を結び日本が日露戦争に勝利することによりロシアの南下政策を防止することに成功、また甥に当たるウィルヘルムⅡ世統治下のドイツの力が強まってくるとフランスと英仏協商、日露戦争後のロシアと英露通商を締結しドイツへの牽制を行う。それでもドイツのと決定的な対立は避ける(ウィルヘルムⅡ世は王太子時代のエドワードⅦ世よりもオーストリア皇帝の方が上の地位にあると発言したことがあり、あまり仲は良くなかった)という絶妙なバランス外交を展開する。

 国内でも派手好きなエドワードⅦ世に合わせ、イギリス国内も華やかな雰囲気に包まれる。ヴィクトリア女王はアルバート王配殿下の死後ずっと自らは喪に服しており、イギリス国内もそれに習っていた。このためイギリスの女性は派手な化粧を数十年間避けていたのである。暗黙的に続けられてきたこの習慣を取り払ったのはエドワードⅦ世の派手な装いが刺激となったからであった。またエドワードⅦ世は煙草好きであり、嫌煙家のヴィクトリア女王の存在で公式のパーティーの習慣となっていた禁煙を自らの即位晩餐式で「諸君、大いに喫おうではないか!」と宣言し自ら撤廃させている。競馬にも興味を持ち、多数の競争馬を所有し現在のイギリス王室と競馬のかかわり合いの大本を築いた人物でもある。

 イギリスが世界大国になったのはヴィクトリア女王の時代である。しかしイギリス国内においては貧富の差や人口の都市部への流出、それによるスラム街の形成など様々な社会問題が山積していた。またヴィクトリア朝時代は生真面目な道徳観念が社会の模範とされていたが、それとは裏腹に夜の町には娼婦が立ち、「切り裂きジャック事件」などの陰湿な事件が相次いでいた。この社会の鬱憤を払拭したのはエドワードⅦ世の存在であったといえる。前時代では「問題児」とされたエドワードの感覚が20世紀を迎えたイギリスには必要だったのだろう。エドワードⅦ世の在位は10年に満たない時間であったが後年この時代を「エドワード朝時代」と表現されるようになる。イギリスの時代名称で国王の名前か付けられたのはこれが最後となった。

 その一方でエドワードの女癖の悪さは晩年になっても治らなかった。特にお気に入りの女性アリス・ケッペルには自らの寝室への出入りも自由にさせ、后であるアレクサンドラに見せつけるように振る舞う陰湿とも言える行為を行っている。アレクサンドラも子供たちに「お父様のようになってはいけません」と言い含めるなど、最後まで夫婦仲は険悪なままであった。
 1910年病の床についたエドワードⅦ世は死期を悟り、自らの死水を取らせるためアリス・ケッペルを呼び寄せたが、アレクサンドラは臨終の場からケッペルを追い払ってしまったと言われる。1910年5月6日エドワードⅦ世崩御、享年68歳であった。

 エドワードⅦ世の争議には世界各国から多くの弔問客が訪れる。その中でもとりわけ豪華な顔ぶれになったのはヨーロッパの王族たちであった。彼らは婚姻関係で結ばれており親類同士でもあった。エドワードの死から数年後、第一次世界大戦が勃発しこの親類同士が敵味方に分かれて戦うことになる。彼らの結びつきが途切れてしまった大きな要因にエドワードの死があげられると思う。やはりエドワードⅦ世は「最後の王様」と呼ぶにふさわしい人物だったのではないだろうか?

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エドワードⅦ世の葬儀に参列したドイツ皇帝ウィルヘルムⅡ世、スペイン王アルフォンソ、ベルギー王アルベール1世などヨーロッパの君主達とイギリス国王ジョージ5世との記念写真。第一次大戦勃発はこれから4年後のことである。
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by narutyan9801 | 2013-07-09 08:59 | 妄想(人物) | Comments(0)

イディ・アミン ~「人食い大統領」と呼ばれた男~

 第二次大戦後、ヨーロッパ列強に分割植民地されていたアフリカ諸国に独立の気運が高まり、多くの国々が独立を勝ち取ることになる。しかし多くの国は政権の基盤が脆く、いくつかの国では軍が権力を握り、軍の力を背景に独裁的な政治家が何人も生まれてしまう結果になる。今回はそんなアフリカの独裁者の中でも異彩を放つウガンダの独裁者、イディ・アミンを考察したい。

 イディ・アミンはその生涯を回顧したり、自伝を残したりせずに世を去ってしまったので、彼の出生については不明な点が多い、生年は1925年頃、ウガンダのコボコ、またはカンパラ生まれとする説が多い。第二次大戦後成人した彼はイギリス植民地軍に入隊し、注目を浴びることになる。

 彼は身長2mを越える巨漢で、運動神経も優れておりボクシングのヘビー級東アフリカチャンピオンとなり、また白人しか選手になれなかったラグビーチームに特別に参加を許されたりスポーツ選手として特別待遇を受けていた。昇進も早くイギリスのウィルトシャー歩兵学校に留学し植民地軍中尉にまで昇進する。そしてアミンが青年将校として頭角を現すころにウガンダはイギリスから独立することになるのである。

 ウガンダ独立は少々複雑な経緯をたどっている。元々ウガンダ地域には「プガンダ王国」という小規模な王国が19世紀まで独立を保っており、イギリスはプカンダ王国を含む小王国をまとめて「ウガンダ保護領」として植民地化していたが、小王国にはある程度の自治権を与えられていた。第二次大戦後ウガンダ地域にも独立の気運が高まると当初イギリスは当時のプガンダ国王ムデサⅡ世を逮捕するなど弾圧を行ったが、結局は独立を容認する。そして1962年10月ウガンダは独立するが、王国ごとの独立は経済的理由から見送られ連邦制をとることとし初代大統領にはプカンダ王国国王のムデサⅡ世が就任することになる。併せて議会の選挙も行われ、中央集権化を推進するウガンダ人民会議が第一党となり党首ミルトン・オボデが首相に就任する。
 
 ウガンダ政府はウガンダ人民会議と王党派の連立政権となるが、元々思想的に相入れない両者の対立は避けられなかった。1966年2月、王党派の代議士がオボデ首相を含む閣僚数人が象牙の密輸に関与しているという疑惑を発表する。その疑惑の中心人物とされたのが当時ウガンダ軍司令官になっていたアミン大佐であった。この暴露で窮地に立ったオボデは逆にアミン大佐を中心とする軍のクーデターを起こし政権を掌握する。大統領だったムデサⅡ世は旧宗主国であるイギリスに亡命し、オボデを大統領とする新政府が樹立され、アミンは軍の全権を掌握することになる。

 しかしオボデの政策はすぐ行き詰まりを見せる。オボデは社会主義を標榜し企業の国有化を進めようとするが、その転換の方法すら知らず、経済は混乱してしまう。さらにオボデは政敵を次々と粛正してゆく。粛正には軍の関与もあり、後年アミンが粛正したとされた件の何割かはオボデ指示のものであったと言われている。

 1971年オボデはシンガポールに外遊するが、この隙をついてアミンがクーデターを決行し、ウガンダの全権を掌握する。アミンのクーデター決行は自らの公金横領の疑惑をもみ消すのが直接の原因と言われているが、この公金横領の動機はクーデターの為の傭兵を雇うためと言われており、いつクーデターが起こってもおかしくない状態であったと言える。また軍を掌握しているのにわざわざ傭兵を雇わなければならないというウガンダ軍の状況が後にアミンの失脚の原因となる。

 政権を掌握した直後、アミンは西側寄りの姿勢を示す。オボデ政権が社会主義を標榜して失敗しているため必然的に西側寄りにならざるを得なかったとも言えるが、西側諸国にしてもウガンダの西側寄りの姿勢は歓迎すべきことであり、経済援助も行われるようになる。しかしアミンは次第にオボデ派を弾圧し、国内に強権政治を行うようになる。

 強権政治は次第にアミンの独裁政治に変化してゆく。ウガンダに定住していたインド系住民の強制国外退去、オボデ派の粛正(一説には30~40万人を虐殺)などによりアミンは「黒いヒトラー」などと揶揄され、経済援助も打ち切られてしまう。ついには「政敵の肉を食べた」とまで言われるようになり「食人大統領アミン」という映画まで製作されてしまう。前に述べたようにアミンの虐殺とされたものの何割かは前政権でオボデが行ったものも含まれており、アミン自身は菜食主義で鶏肉しか食べなかったと言われている。「食人」という揶揄は多少割引いてみるべきだろう。しかしウガンダ国内に恐怖政治を強いたことは事実である。

 西側諸国から絶縁されてしまったアミンは当時アメリカと対立していたリビアの独裁者カダフィ大佐に接近、その仲介を受け旧ソ連から援助を受けるようになる。一方1975年にはアフリカ統一機構議長を務めるようになるがウガンダの近隣諸国はイギリスからの独立が多く、独立後も経済的な繋がりが大きくウガンダは孤立化を深めてゆく。掌握していた軍部もアミンの政策に疑問を呈するようになり、アミンの権力は揺らいでゆく。1976年に自国内のエンペデ空港にハイジャックされ着陸したエールフランス機ハイジャック事件ではイスラエル軍の軍事介入を受けてしまい、アミンの威信は大きく傷ついてしまう。これを取り繕うかのように前首相オボデを亡命させ対立していた隣国タンザニアに侵攻を行うが、逆にタンザニア軍に首都カンパラまで攻め込まれてしまい、ついには軍の離反を招いて失脚し、リビアを経由してサウジアラビアに亡命することになる。

 アミンはその巨漢に似合わぬユーモアを持った人物で、場を和ませることも多かったと言われる。失脚で実現しなかったが、日本のプロレスラー、アントニオ猪木と異種格闘技戦を行うことを承諾したり、アフリカ統一機構の会合ではジョークを連発し後に攻め込む相手のタンザニアの大統領ニエレレにも握手を求めたりしている。その一方で彼は経済、それも初歩的な金銭感覚ですら疎かったようで、独立前ケニアの反乱鎮圧に派遣され、そこで小切手を渡されたものの「無限に買い物ができる」と勘違いして使いまくり上司があわてて取り消しに奔走したり、政権を掌握した後湯水のごとく金を使うことを諫めれると「金など刷ればいいじゃないか!」と真顔で答えたと言われる。こうした天衣無縫ともいえる性格は時には「優しき巨人」と慕われ、時には「食人大統領アミン」と恐れられることになる。

 「アミン」という名前の響きになにかしら面白味を感じた人物に日本のシンガーソングライター、さだまさしがいる。彼の楽曲「パンプキンパイとシナモン・ティー」の歌詞の中に喫茶店の店名として「安眠」(あみん)として登場させている。さらにさだのファンであった女性が自らのユニット名にこの名前を冠している。「待つわ」をヒットさせたユニット「あみん」である。

 国を追われサウジアラビアに亡命したアミンは亡命後ほとんど表舞台に出ず、2003年に多臓器不全で亡くなる。独裁者に似合わないが幸福ともいえる自然死であった。

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                   第3代ウガンダ大統領 イディ・アミン・ダダ・オウメ
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by narutyan9801 | 2013-07-08 11:27 | 妄想(人物) | Comments(1)

第二次ウィーン包囲 ~オスマン帝国最後のヨーロッパ攻勢とキリスト教国の反撃~

 前回考察した第一次ウィーン包囲から約150年後の1683年、オスマン帝国は再びオーストリア大公国の首都ウィーンを包囲する。攻撃側・守備側は150年前とまったく同じであるが、両者とも前回とは大きく異なる状況下で戦局は推移し、結局のところこの戦いはオスマン帝国の没落の兆しになるものであった。今回はこの「第二次ウィーン包囲」を考察したい。

 第一次ウィーン包囲はウィーン攻略こそならなかったもののオスマン帝国の東欧における優位を示す戦いであった。1571年のレパントの海戦で西地中海の制海権こそ失っていたが、オスマン帝国の国威はヨーロッパ諸国を圧倒していた。しかし時代を経るにしたがい帝国の勢いは徐々に削がれていたのである。
 オスマン帝国の軍事力は中央集権化とそれを皇帝が掌握、直接指揮することによって発揮されていた。しかし中央集権化というものは端的に言ってしまえば権力のシステム化というものであり、皇帝自身が掌握することは必ずしも必要とはされないものである。メフメットⅡ世やスレイマンⅠ世のような有能な皇帝で、征服の意志があれば軍隊は有能に機能するが、スレイマンⅠ世以降オスマン帝国の歴代皇帝は政治的関心が薄い皇帝が続き、経済的な理由もあるが皇帝自身の意志による領土拡張は行われておらず、帝国は内部から弱体化の兆しを見せていた。この危機を未然に防いだのはオスマン帝国内の貴族キョブリュリュ家の当主であるキョブリュリュ・メフメト・パシャである。彼はヨーロッパ方面で小規模な軍事行動を行いそれに勝利することにより帝国の威信を回復することに成功する。彼と息子のアメフト・パシャの努力によりオスマン帝国の領土はこのころ最大規模に達することになる。しかしかって中央集権と皇帝の権威によって作られた強大な軍隊による国家は、次第に強大な軍隊により国家が維持されるという逆転現象にみまわれていたのである。

 一方のオーストリア大公国はそれ以上に軍事的弱体化を見せていた。オーストリア・ドイツ連邦は17世紀初頭の「30年戦争」により国土は荒廃し、17世紀後半になってもその痛手は癒えていなかった。そして隣国のフランスでは太陽王ルイ14世の統治で絶対王政の絶頂期を迎えていた。第一次ウィーン包囲時と同じくフランスはオスマン帝国寄りの外交を行っており、オーストリアに対し絶えず牽制を行っていた。そして第一次ウィーン包囲の時と同じく、ハンガリーが今回も戦端の原因となる。

 1664年にハンガリーへ侵攻したオスマン帝国に対しオーストリアは軍隊を送り、戦いに勝利するがフランスの牽制でオーストリアは不利な和平を結ばざるを得ず、オーストリア国内貴族の間に不満が広がり、1683年にはハンガリー系住民が反乱を起こす事態になる。オスマン帝国ではキョプリュリュ家に婿入りし大宰相に就任したカラ・ムスタファ・パシャが好機と判断、大規模な攻勢を行うことを決意する。時の皇帝メフメットⅣ世は攻勢の是非を決める意志は無く、ムスタファ・パシャの思惑のままオスマン帝国群はヨーロッパ遠征を行うことになる。

 一方のオーストリア側であるが、第一次ウィーン包囲の時と同じように野戦でオスマン軍を撃退する戦力は無かった。ウィーンから退去した時の神聖ローマ皇帝レオポルドⅠ世はヨーロッパ各国に援軍を求めることになる。
 第一次ウィーン包囲と様相が違うのはこの要請に多くのヨーロッパ諸侯が立ち上がったことである。第一次ウィーン包囲はキリスト教国内では宗教改革運動のまっただ中であり、キリスト教国内でも対立があったが、この時は宗教的な危機感を共通することができた。ヨーロッパ各国からウィーンに向けて援軍が出発する。フランスは国としての支援は行わなかったが、フランス国内の諸侯の中には自発的にウィーンに赴く者もあった。また度重なるオスマン帝国の領土拡張で、カトリックの大国ポーランドとオスマン帝国が領土争いを行い、ポーランド国王ヤンⅢ世がオーストリア救援に動いたのは戦局に決定的な影響を与えることになる。

 オスマン帝国軍は1683年7月13日にウィーンに到着し攻囲を開始するが、前回と同じく進撃を急いだため攻城兵器を欠く装備で攻城戦は捗らなかった。前回の包囲の経験からウィーンの城壁は強化され、築城方法も進歩していたことも大きく、ウィーン守備兵は善戦ししばしば城外に打って出ることもあった。オスマン軍は地下道を掘り城壁の爆破も試みるが失敗し、徒に時が流れ、士気も低下していった。

 包囲開始から約二ヶ月後の9月12日、ウィーン郊外にキリスト教国の援軍が到着する。当初援軍は翌13日に一斉にウィーン包囲軍に攻撃を開始することを予定していたが事前に偵察を行いオスマン軍の弱体化を掴んでいたポーランド国王ヤンⅢ世の判断により到着日の夕刻に攻勢を開始する。到着早々の攻勢はないと判断していたオスマン軍は対応できず、包囲網を寸断され総崩れになってしまう。夜になったために追撃は断念されたが、救援軍の到着当日にウィーンは解放されることになった。

 ベオグラードに退却したムスタファ・パシャは反撃を企図するが、首都イスタンブルのメフメットⅣ世から派遣された使者によりムスタファ・パシャは処刑されてしまう。強権を握っていた大宰相に敵対する勢力が皇帝を動かし、戦局の判断ができない皇帝は処刑の使者を送ってしまったのである。まとめ役を失ったオスマン帝国にキリスト教連合軍は各地で攻勢を仕掛け、東ヨーロッパの領土は次々ど奪われてしまう。1689年にキョプリュリュ家出身のキョプリュリュ・ムスタファ・パシャが登用され、一時的に領土を回復するが、彼は1691年に戦死してしまい戦局の挽回には至らなかった。一方のキリスト教国も足並みが乱れ、大規模な戦闘が行われなくなる。1697年にゼンダの戦いでキリスト教国側が勝利を収めたのが契機となり、1699年にカルロヴィッツ条約が締結される。オスマン帝国のヨーロッパにおける領土は大きく縮小し、イスラム教国家のヨーロッパへの脅威は大きく減少することになったのである。

 第二次ウィーン包囲は戦局的にはヨーロッパへのイスラム教国家の脅威を取り除いたという大きな意義があったが、食文化においてはヨーロッパに大きな影響を与えたものとなる。クロワッサンはこの戦いの際にオスマン帝国の旗印であった「三日月」を意匠して作られたものという伝承がある(あくまで伝承で、現在クロワッサンとされているもののレシピが出来たのは20世紀に入ってからである)また「ウィンナーコーヒー」(ただしホイップクリームを浮かべて飲む習慣は彼の地にはないが)に代表されるコーヒー文化はオスマン軍撃退後オスマン帝国の物資を払い下げられた者がその中にあったコーヒー豆を元に店を始めたことがきっかけと言われている。もし第二次ウィーン包囲が無かったとしたら「クロワッサンとカプチーノ」という朝食は存在しなかったかもしれない。
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by narutyan9801 | 2013-07-05 09:02 | 妄想(歴史) | Comments(0)