鼈の独り言(妄想編)

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タサダイ族 ~「愛の民族」は本物か捏造か~

 人間には「生善説」と「生悪説」の両論が唱えられている。生まれた時は悪事を知らず、生まれた後に悪事を覚えていくという説と、生まれながらにして悪事を知っているという説である。「生善説」が正しければ、悪事を知らずに人間が成長すれば、争い事が起こらない社会が形成されることになる。今回はそんな人間の根幹に関わるような事象をはらんだ謎と疑惑の民族「タサダイ族」を考察したい。

 タサダイ族はフィリピン・ミンダナオ島に暮らしているとされる民族である。1960年代後半、ミンダナオのハンター、ディファルによって「発見された」となっている。彼らは6家族27人の極めて小規模な民族であるが、タサダイ語と命名された独自の言語を用い、外界との接触を全く行わないで生活を行ってきた民族と紹介された。彼らの用いるタサダイ語には「武器」や「敵」といった単語が無く、全く争い事を行わない習慣を持つ極めて特異な民族ということでフィリピン政府に報告されたのである。

 当時のフィリピンはフェルディナンド・マルコスが大統領職を長期にわたって勤めている独裁体制であった。そのマルコス政権で環境大臣を務めていたマヌエル・エルザルデJrが調査団を派遣、その存在を確認しマルコス大統領に報告。その後アメリカのCBSやイギリスのBBCなどの報道によってタサダイ族の存在が世界に知られるようになる。これは大きな反響を生み、当時存命だったチャールズ・リンドバーグやジョン・ロックフェラー4世などの「名士」が保護に賛同し、多額の寄付が寄せられたのである。1974年にはマルコス大統領によってタサダイ族の居住地域への立ち入りが禁止され、タサダイ族は保護されることになったのである。この措置によりタサダイ族と外部の接触は断たれ、その後フィリピンの政治的混乱もありタサダイ族の消息は長い間不明であった。ちなみに水曜スペシャルの「川口弘探検隊シリーズ」の第一作はこのタサダイ族との接触であった(1978年3月15日放送)が、「猿人バーゴン」と同様のものであったことが想像できる。

 アキノ政権が成立し政治的混乱も収まってきた1986年、タサダイ族の保護地にオズワルド・イデンとジョーイ・ロザノの二人のジャーナリストが潜入する。二人の目的はタサダイ族のスクープであったが、二人が目撃したタサダイ族は意外な姿をしていた。
 石斧や弓矢を使う狩猟生活を送っているとされた彼らは、紙巻きタバコを吸いオートバイで疾走しTシャツやジーンズを着こなし普通の家に住むごく普通の人々だったのである。二人は早速このスクープを報道する。これに対しフィリピン政府も調査団を派遣し「タサダイ族は実在する」との声明を発表するが疑惑は収まらなかった。真相を知るであろう当時の環境大臣、マヌエル・エリザルデJrはフィリピン革命の後国外逃亡を続けていたが1988年にフィリピンに帰国、しかし彼は重度の薬物中毒に犯され、心神喪失状態であった。結局真相を明らかにすることなく彼は1997年に死亡、マルコス大統領も1989年に沈黙のまま世を去ってしまっている。マヌエル・エリザルデJrには寄付された基金の着服の疑惑の声もあるが、マルコス政権下の国庫の不明金の疑惑の解明は困難で、真相は闇の中である。

 ミンダナオ島はフィリピンの島々の中でも比較的早くにイスラム教が入ってきた地域で、1500年代前半にマゼランが世界一周の旅の際に立ち寄り(マゼランは近くのアクタン島で戦死)16世紀からのスペインの植民地化にもイスラム勢力が抵抗し、ミンダナオ島全島にスペインの勢力が及ぶのは1800年代半ばになってからである。20世紀には日本人の移民も多くダバオに住んでいた時代もあり、かなり外部との交流も盛んな島で地勢的にみて外部との接触をしない少数民族が20世紀後半まで存在できた可能性は低いと言わざるを得ない。

 今現在、タサダイ族がどうなっているかはよくわかっていない。ミンダナオ島にはイスラム原理主義組織のいくつかが拠点を作り、それを駆逐すべくフィリピン軍と援助する米軍との間で激しい戦闘が行われたこともあり未だに不穏な地域で渡航注意地区とされている。こうした血なまぐさい地域では「愛の民族」タサダイ族の生活する余地はなくなってしまっているのかもしれない。

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       発見当初発表されたタサダイ属の一家団欒の写真。これも「やらせ」だったのだろうか?
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by narutyan9801 | 2013-06-24 10:00 | 妄想(事件・事故) | Comments(0)

崇禎帝 ~猜疑心を押さえられなかった悲劇の皇帝~

 組織の改革が成功するか失敗するか、それの鍵を握るのは「既得権を持っている者の反発をどうなだめるか」にかかっていると思える。組織が巨大化すればその流れで多くの利潤を得るものができるのは人が集団として行動する限り避けようがないものであろう。では反発を権力で抑えた場合、成功の可能性は広がるだろうか?権力を掌握した者が改革を断行すれば成功の可能性はやはり高いだろう。しかし権力を掌握した人が個人の場合、所謂「独裁者」となってしまう。改革が成功するか否かは権力を掌握した「独裁者」の資質に大きく依存すると言えそうである。今回は国家の改革を目指したものの、己の猜疑心を押さえられず滅亡に追いやってしまった悲劇の皇帝「崇禎帝」を考察したい。

 崇禎帝は明第一五代皇帝泰昌帝の第五子として1611年に生まれている。11歳の時兄の天啓帝により信王に封じられ、その7年後天啓帝の急死、及び天啓帝の男子が皆夭折していたことにより明第一七代皇帝に即位することになる。

 このころの明帝国は崇禎帝の祖父万暦帝の治世後半からの政治の乱れ、父泰昌帝、兄天啓帝の急死(泰昌帝は在位わずか一ヶ月であった)、宦官・魏忠賢の専横により混乱を呈していた。崇禎帝は即位するとまず魏忠賢を誅殺し政治体制を一新、人材を登用して国勢改革を断行する。

 崇禎帝は明の現状を認識し、それに対応するための改革、人材登用をする能力に長け、自らを律し質素倹約に励むなど皇帝としての資質は十分に備えていた。しかし彼には「猜疑心」という大きな「心の闇」を抱いていたのである。
 即位直後に魏忠賢を誅殺したのは客観的にみて必要な判断だったと思えるし、世間としても改革の断行というパフォーマンスとして捉えられ効果は高かったと思われる。しかし崇禎帝はこの後もことある毎に臣下を誅殺し続けることになる。この行動の動機は「猜疑心」と一般的に言われているが、「猜疑心」だけでは説明できない行動に見える。「皇帝たる朕がここまでやっているのに卿等は何をやっているか」という一種のヒステリックな感情もあったのではないだろうか?こうして崇禎帝には佞臣は集まらないが、賢臣も集まらなくなるという孤独な皇帝となってゆく。

 王朝の創世期には、誅殺を繰り返し孤独に陥る皇帝という存在も時には現れる、漢の高祖劉邦や崇禎帝の祖先朱元璋なども即位後はかっての部下を誅殺してまわった皇帝であった。創世の後、戦うこと以外特段の能力を持たない人物や野心を秘めた人物をを誅殺するのは王朝の創始者の責任として必要なのかも知れない。しかしこの時期明は内部に李自成の反乱、外部には後金(後の清)の侵攻と内患外憂の極みという状態であり、臣下を誅殺してまわる状況が許されるはずがなかった。もはや明王朝は末期状態であり、それに拍車をかけたのが崇禎帝が行った誅殺の連続である。崇禎帝がいくら皇帝として国の立て直しに努力してももうどうにもならない状況になってしまっていた。
 誰も意見を言わなくなった崇禎帝は遂に後金の侵攻を山海関で食い止めていた名将袁崇煥をも謀反の噂を信じ込み(後金のホンタイジの策略によるもの)誅殺してしまう。(ただ、山海関自体はこの後も清の侵攻は食い止めている)明の群臣は崇禎帝の猜疑心を恐れ紫禁城に近寄らなくなり、反乱を起こした李自成軍への討伐軍の編成のために課せられた重税で民心も崇禎帝から離れてしまう。

 1644年、李自成率いる反乱軍は遂に明の首都北京に侵攻する。崇禎帝は警鐘を鳴らして群臣の召集を計ったが、臣下はほとんどが逃亡してしまい、馳せ参じたのは宦官の王承恩ただ一人という有様であった。絶望した崇禎帝は皇子たちを北京から逃し、側室と娘は自ら剣を振るって命を絶ってゆく。一番愛情を注ぎ、輿入りまで決まっていた娘の長平公主朱徽媞を斬る際、「そなたはなぜ皇帝の娘に生まれてしまったのか!」と泣きながら斬ったと言われている。これは自らの運命も含めての絶望の言葉だったのではなかろうか。
 すべての側室、娘を斬り、皇后の自害を見届けた崇禎帝も縊死をとげ、その生涯を閉じる。享年34歳、才覚を持ちながらその能力を発揮することができなかった悲劇の皇帝といえよう。
 
 なお、崇禎帝に斬られた愛娘朱徽媞であるが、崇禎帝の振るった剣は悲しみのあまり手元が狂い、腕を傷つけただけだった。気を失った朱徽媞を王承恩が機転を利かせ、死んだことにして北京から脱出させることに成功する。生き長らえた朱徽媞は李自成を破った清の順治帝に保護され、婚約者の元に嫁ぐことができたが、ほどなく病死したと言われる。

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                             崇禎帝の肖像画
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by narutyan9801 | 2013-06-21 09:52 | 妄想(人物) | Comments(0)

トーロンマン ~2400年保存されていた古代人の遺体~

 動物は死亡してしまうと骨以外の組織は腐敗、分解され人工的に保存処理を行わないと残らないものであるが条件が整えば骨以外の組織も長期間残ることがある。こうした死体の多くは乾燥地域で遺体が腐敗前に乾燥してしまう「ミイラ」化したものであるが、湿潤状態でも遺体の脂肪分が変質し蝋のような状態になった「死蝋」と呼ばれる状態で長期間保存されることがまれにある。今回はデンマークで発見された紀元前400年前の人物「トーロンマン」を考察したい。

 「トーロンマン」の発見は1950年5月6日、デンマークのトーロン村に住んでいた住民が近くの渓谷に堆積していたピートを切り出して運搬中、その中に遺体が埋まっているのを偶然発見したことによる。トーロンマンの顔が余りによく保存されていたため発見者は最初近年殺害され遺体が埋められていたと思ったそうである。このためトーロンマンは最初殺人事件の被害者として警察に届けられている。しかし警察はトーロンマンが皮の帽子と腰に巻いたベルトしか付けていない状態であることと、ピートが近年掘り返された跡がないことからかなり古い年代の人物と断定し、考古学者を呼んで鑑定を依頼する。そしてこの遺体がおそらく2000年以上前の遺体と断定され、ひとまず近年の殺人事件でないことが立証されたのである。後に放射性炭素年代測定法によりこの遺体はおよそ2400年前のものであることが分かっている。

 トーロンマンは発見時に首に縄がかたく巻き付いており、他殺であることが推察されていた。しかしトーロンマンの発見時遺体は足が折り曲げて体の前に揃えられ、体の左側面を下にして丁寧に埋葬された状態で発見され、目立った外傷は発見されなかった。そこでトーロンマンの死因を探るべくX線検査と内蔵の状態が検査されることになった。
 X線の調査では特に目立った外傷は発見されなかったが舌が膨張しており、これは絞首刑を受けた受刑者にみられる特徴であった。なお現代の絞首刑受刑者にみられる頸椎の損傷はトーロンマンには見られなかった。これは現在の絞首刑が窒息による死ではなく、頸椎損傷による死を起こすために受刑者の落下距離などを決めているのに対し、トーロンマンはさほど落下距離がない状態で絞首刑を受けたためと思われる。頸動脈の圧迫で意識はさほど長くない時間で途切れただろうが、それまでトーロンマンは苦痛に耐えなければならなかったことが推察される。

 トーロンマンの内蔵の調査では、内蔵の内容物からトーロンマンはその死の12時間以上前から何も食べていなかったことが推察されている。内容物からは大麦などの穀類、タデやナズナなどの野菜、カモミールなどのハーブの類まで20種類を越える植物質のものが発見されているが、動物質のものは発見されなかった。内蔵の状態からも動物質のものを食べていた痕跡は発見できず、トーロンマンは本人の意志はどうあれ、状況として「ベジタリアン」だった可能性が高い。トーロンマンの最後の食事は植物質だけのものであるが、様々なものが入れられ当時の生活状況から推察すると特別に作られた料理である可能性が高い。

 その他の特徴としてはトーロンマンの年齢であるが、親知らずが生えており、20代以上であることが推察されている。身長は約161cmで、これは当時の人々としても小柄なほうである。ただ身長は長い年月で縮んでしまった可能性もある。トーロンマンの髪は短く切りそろえられており、顎には1mm程度の「無精髭」が生えていた。トーロンマンは毎日髭を剃っていたが死の当日は髭を剃らずに死に臨んだことが推察される。

 これらの特徴からトーロンマンは宗教的儀式の「生け贄」それも戦争捕虜などを無理矢理生け贄にしたわけではなく、時間をかけて準備された「生け贄」であることが推察される。生け贄になることがトーロンマンの意志であったことかは推察することはできないが…。

 現在トーロンマンはデンマークのシルケボー博物館に展示保存されているが、残念ながら展示されているのは頭部のみが本物で、その他はレプリカである。発見当時トーロンマンをそのまま保存するだけの技術は確立されておらずトーロンマンは遺体の頭部を切断、保存処理を施しそれが現在展示されている。遺体の他の部分は一部がホルマリン保存されるが、体組織のほとんどはその後腐敗し消失してしまっている。なお保存状態のよい右手親指からは指紋が採取され、警察の指紋記録として保管されているそうである。

 それにしても絞首で死んで、死んでから2000年以上後に斬首とは…。トーロンマンもトホホ…と思っているかもしれない。

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                 シルケボー博物館に展示されているトーロンマンの顔
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by narutyan9801 | 2013-06-20 09:51 | 妄想(その他) | Comments(0)

ジャガイモ飢饉 ~社会状況と対策の不備が招いた飢饉~

 「飢饉」は直接的な原因因子は農作物の不作であるが、むしろ不作への対応方法の失敗のため「飢饉」に陥る場合が多い現象と言える。今回は19世紀のアイルランドをおそった「ジャガイモ飢饉」を考察したい。

 アイルランドは1801年にグレートブリテン及びアイルランド連合王国の成立により連合王国に加わることになった。当時イギリスは産業革命のまっただ中であり、工業国として国全体のシステムの変換期を迎えていたが、アイルランドでは依然として農業が基幹産業であった。さらにアイルランドの土地の相続は伝統的に兄弟分散相続であったため農地の細分化が進んでしまい、多くの農民が小規模な自作農か土地を手放しての小作人として生計を立てざるを得ない状況であった。アイルランドの農地では主に小麦が栽培されていたが、細分化された農地では収穫のほとんどを納税や小作代として納めねばならず、小作農の農民は自宅などで生産性の高いジャガイモを栽培して主食に当てるようになっていた。こうして1840年頃にはアイルランドの3割の人々が主食としてジャガイモに依存する状況になっていたと言われている。

 ジャガイモは元々南アメリカの高地が原産で寒冷な気候でもよく育ち、味が良く瞬く間に世界中で栽培されるようになった作物である。栽培方法も受粉による有性栽培ではなく、芋そのものから発芽させて栽培する無性栽培が可能であった。しかしこの無性栽培は栽培されるジャガイモの種類を単一化させ、ひとたび疾病が蔓延すると食い止めようがないという危険もあったのである。

 1845年、ヨーロッパでジャガイモの葉や茎が枯れてしまう奇病が発生する。アイルランドでは9月頃から爆発的に感染が広まり、栽培されていたジャガイモはほぼ全滅してしまう。この病気はジャガイモ疫病と呼ばれる病気で、カビの一種が感染して感染主を枯らしてしまう病気であった。元々このカビはヨーロッパには存在せず、メキシコの限定された地域にのみ存在する植物の風土病のようなものであったが何らかの原因でヨーロッパに持ち込まれ、広まったものと思われる。これによりジャガイモに依存していたアイルランド社会は深刻な打撃を受けてしまうのである。

 この病気はナス科の植物だけが感染する病気で、アイルランドの主要農産物である小麦は影響を受けなかった。しかしアイルランドの貴族や大地主の多くはブリテン島で生活をしているものが多く、その多くが現地の実状を把握できないでいた。そして自らの収益を確保しようと小麦を輸出するものが続出し、アイルランドでは餓死者が続出しているのに小麦は国外に持ち去られるという状況になってしまう。この状況でも連合王国議会は有効な対策を打ちだせず、餓死者の数は増加するばかりであった。被害が拡大してから連合王国議会は救済策を取るが、それは食料を「有償供給」することであった。市場よりは安価ではあるが「食料を売りつける」という救済であったのである。すでに乏しい食料を確保するため財産をほとんど使いきってしまった人々も多く、救済策としてはあまりに現実離れしたものであった。さすがにこれでは救済にならないと連合王国は「土地を持たない者に限り」無償での救済を行うことにしたが、今度は救済を受けるために土地と家を売り払う人々が殺到してしまい、アイルランドの農村は荒廃してしまう。

 折り悪くこの年はベストの流行もあり、アイルランド社会は深刻な打撃を受けてしまう。飢饉を乗り越えた人々も財産を失い、多くの人々が故郷を捨てて移民として他国に移住してしまう。この時アメリカに移民したアイルランド人には後のアメリカ大統領ジョン・F・ケネディやロナルド・ウィルソン・レーガンの曾祖父も含まれている。故郷を失ったアイルランド人はそれこそ身を粉にして働き、一財を成したものも多かった。アメリカ大統領でアイルランドの血筋を引くものは合計20人に上ると言われている。
 
 アイルランドの人口統計は1922年の内戦時に資料が消失してしまい正確な所は分かっていないのだが、1840年代800万人を越えていたアイルランド人口は1851年には650万人を割っている。その後も人口の流出は続き、第二次大戦前には400万人まで減ってしまう。現在の人口は徐々に回復しているが、ジャガイモ飢饉の前の人口までは未だ達していない。さらにジャガイモ飢饉前後で高まった連合王国からの独立運動は長く続き、現在に至るまで様々な問題を抱えているのである。

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                    ダブリンに立つジャガイモ飢饉追憶像
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by narutyan9801 | 2013-06-19 09:28 | 妄想(事件・事故) | Comments(0)

TBU/TBY シーウルフ ~出番が回ってこなかった悲劇の雷撃機~

 以前米海軍雷撃機「TBDデヴァステーター」を取り上げたが、その際太平洋戦争時にはデヴァステーターは旧式化していたと紹介した。米海軍でもこのことは認識しており、太平洋戦争前には新型雷撃機の開発に着手していた。その結果実戦配備されたのが「TBFアヴェンジャー」であるが、実はアヴェンジャーと正式雷撃機の座を争い、性能では上回りながら主力雷撃機の座に就けなった機体が存在する。今回はその悲劇の機体「TBU/TBYシーウルフ」を考察したい。

 太平洋戦争直前アメリカ海軍は次期雷撃機の開発をヴォート社とグラマン社に発注し、両者のコンペティションを経て正式採用することとした。グラマン社の「XTBFー1」は戦争勃発の三ヶ月前に初飛行を行い、同年12月には量産が開始される。遅れること3ヶ月後の1941年12月22日にはシーウルフの試作機「XTBU」が初飛行を行う。XTBUはXTBFに比べてより大型の機体であったが、強力なプラット・アンド・ホイットニー社のR-2800エンジンを搭載したことにより、ほとんどすべての項目でXTBFを上回る性能を示したのである。しかし、シーウルフの量産はすぐには行われず、ようやく量産が開始するのは初飛行から2年近く後の1943年9月に入ってからになってしまう。

 初飛行で優秀な性能を示したシーウルフではあるが、空母搭載という特殊環境での運用を行うには不適当な箇所も多く、改修を行わなければならない所が多かった。特に主脚は後ろ向きに収納する方式になっていたが、魚雷を搭載してのカタパルト発艦には強度が不十分との判定を受け、改修が行われている。この点は海軍機を多く手がけたグラマン社の方が上手で、アヴェンジャーは設計当初からカタパルト発艦を考慮した強度を持たされており、海軍の実状に合わせた手堅い設計が実を結んだと言えよう。

 シーウルフにとって最大の不幸は、エンジンにP&W社のR-2800エンジンを選んでしまったことである。このエンジンは高性能であるが故に搭載機も多く、陸軍のP-48サンダーボルト、海軍のF6Fヘルキャット、海兵隊のF4Uコルセアと主要単座空冷エンジン戦闘機はすべてR-2800エンジンの搭載を予定していたのである。さすがの工業国アメリカもこれだけのエンジンを供給するのはぎりぎりのところで、要求数が戦闘機に比べて少ないシーウルフへ回す余裕は無かったのである。こうしたエンジンの「かち合い」はよくあるようで、ナチスドイツ空軍(ルフトヴァッフェ)ではフォッケウルフFW190の開発で、メッサーシュミットBf109に搭載するDB601エンジンを搭載しないことという条件をつけている。日本では逆に貧弱なエンジン生産能力を集約しようと開発中の航空機のエンジンを「誉」に統一させようと努力しており、艦上戦闘機烈風の開発はこのため大幅に遅れることになる。

 1943年9月にようやく生産に目処がついたシーウルフであるが、さらに受難は続く。開発メーカーのヴォード社はこの時期F4Uコルセアの生産と空母搭載への改修で手一杯であり、生産を行う余裕が無かったのである。窮余の作として他の航空メーカーであるコンソリーデーデット社が生産を行うことになるが、コンソリーデーデット社も4発爆撃機「B24」の生産で余裕はほとんどなく、吸収合併した「旧」ヴァルティー社でシーウルフを生産することになった。しかしヴァルティー社は艦載機の生産を行ったことがなく生産に手間取り、シーウルフの量産期ロールアウトはさらに遅れ、量産機1号が完成したのは1944年11月になってしまっていた。この頃ライバルの「アヴェンジャー」の生産は順調に進み、エセックス級正規空母から護衛空母まで幅広い運用が可能でサマール沖海戦では護衛空母から発艦したアヴェンジャーが栗田艦隊を撃退しており、実戦での評価も十分なものがあった。この時点でシーウルフの活用はかなり限定されるものであることが予想できたはずである。

 しかし、米海軍はシーウルフの部隊編成を諦めた訳ではなかった。米海軍は1945年4月にシーウルフの量産機で部隊編成を始めている。既にこの時期日本海軍の戦艦「大和」もアヴェンジャーの攻撃で沈み、雷撃隊の必要性はほとんどなくなっていたはずである。それでも部隊編成を行うのは、ミッドウェイ海戦での苦い戦訓のせいかもしれない。ミッドウェイ海戦では米海軍は勝利したものの、制空権のない地域に雷撃隊を出撃させ、当時新型だったアヴェンジャーですら全滅に近い損害を被っている。それに対し日本側は飛龍から発艦した友永隊の九七式艦攻がヨークタウンを大破させる戦果を上げている。太平洋戦争後半に日本海軍が実戦配備した「天山」艦攻は性能でアヴェンジャーを上回っている部分もあり、アメリカ海軍としては「最強の雷撃隊」というものを持ちたかった…。もしかしたらそんな心境があったのかもしれない。


 しかし、1945年8月の日本の降伏によりシーウルフが実戦配備されることはなかった。戦後でももし後継機の目処が立っていなかったら少数でも部隊編成が続けられたかもしれない。しかし既にすべての面でシーウルフを凌駕し、しかもシーウルフよりサイズが小さい後継機ダグラスA-1スカイレーダーの開発が進んでおり、シーウルフにはもう活躍の余地は無かった。生産されたシーウルフは180機、実戦で魚雷を放つことは遂に一度もなかったのである。

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TBY-2シーウルフ コンソリーデーデット社生産の量産機である。主脚の収納が後方なのに注目してほしい。
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by narutyan9801 | 2013-06-18 09:10 | 妄想(軍事) | Comments(0)

鴨川つばめ ~70年代後半を全力疾走で駆け抜けたギャグマンガ家~

 管理者も子供時代は在ったわけで、当然ながらマンガなども読みふけっていた時代がある。管理者の子供時代、一番面白く、そして親たちが読むのを禁止する雑誌というと「少年チャンピオン」であった。今回はいつもとちょっと趣向を変えて、管理者の幼少時代、笑いを一番与えてくれた漫画家、「鴨川つばめ」氏を考察したい。

 鴨川つばめ氏は1957年(昭和二十七年)福岡県大牟田市の生まれである。漫画家を目指し上京、アシスタントを経てデビューするが、デビューは「少年ジャンプ」であった。その後「少年チャンピオン」に移り「ぷるぷるプロペラ」を連載する。「ぷるぷるプロペラ」のストーリーは太平洋戦争末期にエンジンの生産遅延により「首無し」で放置された旧日本陸軍三式戦闘機「飛燕」に戦後エンジンを搭載して飛ばそうという当ブログ管理者の魂を揺さぶらせてしまう展開なのであるが(首無し飛燕はそのうち「五式戦」書くときに取り上げてみたいです)この作品の登場人物を使って新たに連載が始まったのが「ドラネコロック」になる。さらに「週間少年チャンピオン」にも「マカロニほうれん荘」の連載(キャラクタは読み切り「呪われた夜」で登場している)が始まり、氏は一躍ギャグマンガの頂点に立つことになる。当時の田舎の小学生の小遣いでは週刊マンガ雑誌を購入することができず(せいぜい月刊の「コロコロコミック」ぐらい)、各々が決められた雑誌を購入して持ち寄って読んだりしていたが、「チャンピオン」担当は奪い合いになっていたものである。自分は父親がよく雑誌を購入しては家に放置していたのでそれを読んでいたが、「マカロニほうれん荘」が連載されている週間少年チャンピオンがあると嬉しかったものである。

 しかし、氏の「ギャグマンガ」は三年を経ずして破綻してしまう。「マカロニほうれん荘」の破綻はたくさんの人が破綻を予期、または後に破綻の予兆を感じたことをネットで書かれているで、それを習って自分も書いてみたい。

 自分の「マカロニほうれん荘」が破綻の予兆を感じたのは中嶋敦子の失恋(そうじと益田弘美がよりを戻して、それでも邪魔をしようとする中嶋さんにテディ・ボーイズ・ギャング団の伊達兄樹が説教して諦めさせる)の話になる。正直なところ「マカロニほうれん荘」としては面白くなかった。いや、ふつうの学園ラブコメであれば十分面白かったと思うんだが、やはり「マカロニほうれん荘」としては面白くなかったのが正直な感想であった。現在単行本が手元にない(実家にはあったかもしれないが捨てられたか、残っていても津波で流されてしまったはず)のでハッキリとした収録巻は覚えていないのであるが、5巻あたりに収録されていたストーリーで、その後「マカロニほうれん荘」は急速に勢いを失った感がある。

 子供心にこのストーリーがなんか不可解で何度も読んで考えてみたことがあったた。いつものドタバタやっていた方が楽しかったろうに…。後年になって氏と編集部との対立がこの時期既にあったことを知って、このストーリーの存在意味が多少ですが自分なりの解釈をしてみた。氏はすでに「ギャグマンガ」としての「マカロニほうれん荘」としての限界を感じ、連載を終了したいと考えていたが、人気がそれを許さず窮余の策として別仕立のストーリーを考えていたのではないか?そんな感じがする。あくまでも管理者個人の解釈で、間違っている可能性も大きいことをお断りしておく。
 しかし「マカロニほうれん荘」は氏がコントロールできないほど大きくなっており、ギャグマンガからの脱却は許されるものではなかったと思う。限界を超えた鴨川つばめ氏がとった行動は「作品の死」であった。連載に耐えられないサインペンを使った作画、理解されないストーリー…。氏はコントロール出来なくなった「マカロニほうれん荘」を自ら死に追いやってしまったののであろう。このことは氏に深い傷を負わせてしまったのだと思う。

 「マカロニほうれん荘」の連載終了後、氏は「ミス愛子」の連載を経て「マカロニ2」の連載を始める。この「マカロニ2」の連載に自分は喜び、連載されているチャンピオンを入手するが、絵画教室で「ありのまま」を描くという説明に「アリのママ」(エプロン姿の蟻)を1ページ使って描くというギャクにがっかりし、続きを読まなかった記憶がある。氏の心の傷は深く、しかしキャラクターたちの愛情は変わらなかったため、続編として連載はしたものの往年の輝きを見せることができなかったのであろう。「マカロニ2」も短期間で終わり、その後短期間の連載はあるものの氏のギャグセンスは元に戻ることはなかった。
 後年氏は雑誌の対談で「ギャグ漫画家の才能は、神様が一生の中でたった一本だけくれた鰹節のようなもの」と語っている。氏は鰹節を使いきってしまったのかもしれない…。そんな思いがある。3年間という短い時間であったが「マカロニほうれん荘」と「ドラネコロック」、神様がくれた鰹節は40年を経ようとする今でも人々の記憶に残っている。「たった一本だけくれた鰹節」でも氏の鰹節はとびきり大きく、たくさんの人々を満足させられる格別の味であった。

 ひとつだけ往年の読者の希望を書かせてもらうことを許していただきたいのですが、「七味とうがらし先生」は「鴨川つばめ」氏の在る意味分身だったと感じています。「七味とうがらし先生」が編集者との電話の中で「次回作」が「構想はだいたいまとまっている」と話していた構想、それが具体化できればなぁ…。と思います。無理な注文なのは重々承知なのですが…。

マカロニほうれん荘全9巻 完結セット (少年チャンピオン・コミックス)

鴨川つばめ/秋田書店













マカロニほうれん荘 (6) (少年チャンピオン・コミックス)

マカロニほうれん荘 (7) (少年チャンピオン・コミックス)

マカロニほうれん荘 (8) (少年チャンピオン・コミックス)

マカロニほうれん荘 (9) (少年チャンピオン・コミックス)





ありがたいことに「マカロニほうれん荘」及び「マカロニ2」は連載終了30年以上たった現在も絶版にならず単行本が現在でも購入可能である。また、この単行本の印税は今も鴨川つばめ氏に納められているとの事。興味があったら一度読んでもらいたい。
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by narutyan9801 | 2013-06-17 10:24 | 妄想(人物) | Comments(1)

ダグラスTBDデヴァステイター ~勝利の代償の「帰還率10%」~

 第二次大戦時までの航空母艦の運用機に求められた究極の目的は「敵艦を沈めること」にあった。艦船を沈めるには艦内に浸水させることがもっとも手っとり早いが、航空機から投下される爆弾は喫水線の下に損傷を加えることが難しく、第二次大戦中にスキップボミング(反跳爆撃)が考案されるまで航空機で積極的に艦船の喫水線下に損傷を与える攻撃は、航空魚雷を搭載して攻撃を行う「雷撃機」の役割であった。初期の雷撃機は他の航空機と同様布張複葉機であったが、航空技術の発達により雷撃機にも全金属製単葉機が開発されるようになる。今回は世界初の全金属製単葉雷撃機「ダグラスTBDデヴァステイター」を考察したい。

 デヴァステイターの開発は1934年にスタートしている。この年アメリカ海軍は新造される航空母艦「ヨークタウン級」に搭載される次期艦上雷撃機の試作をダグラス社に依頼する。ダグラス社は航空界の推移を鑑み、世界初の艦上全金属単葉雷撃機の開発に挑む。その努力は実を結び試作機は1936年に初飛行、翌年から量産が開始されている。一方日本海軍ではほぼ一年後に九七式艦攻の開発が開始され1937年から量産が始まっている。

 デヴァステイターは新機軸の航空機であるにも関わらず、設計自体は堅実であり、運用面に関しては大きな問題もなく実用部隊からは好評であった。だが日中戦争で「実戦」を経験している日本海軍の九七式艦攻と比べると一年の時間差を考えても性能面で見劣りする点があったのは否めない。

      デヴァステイター     九七式艦攻3型
 最高速度     331km/h        378km/h
 航続距離     約700km        約1,020km

 九七艦攻の航続距離は魚雷を搭載した場合の値なので実際の航続距離はこれよりも大きい。この低速と航続距離の短さが実戦でデヴァステイターに悲劇をもたらすことになる。
 アメリカ海軍でもデヴァステイターの「足の遅さと短さ」は認識しており、1941年12月から新型の「TBFアヴェンジャー」の量産を開始していた。しかしアヴェンジャーの量産と前後して日米は開戦し、デヴァステイターは開戦時には米海軍主力雷撃機として実戦に参加することになる。

 日本海軍の真珠湾攻撃で被害を受けなかった米海軍航空母艦は散発的な航空攻撃を日本側に加えるが、デヴァステイターは大きな戦果を上げることができなかった。航続距離の問題で遠距離からの奇襲には不向きだったことと元々が雷撃機なので他の攻撃に向かなかったことなどが上げられる。1942年5月の珊瑚海海戦でようやくデヴァステイターは軽空母「祥鳳」に魚雷7本を命中させこれを撃沈している。結果的にこれがデヴァステイターにとって唯一の大型艦撃沈となってしまう。そして翌月のミッドウェイ海戦にもデヴァステイターは空母エンタープライズ、ホーネット、ヨークタウンに搭載され日本艦隊に決戦を挑むことになるのである。

 ミッドウェイ海戦で米空母は合わせて40機のデヴァステイターを搭載していた(エンタープライズ14機、ホーネット14機、ヨークタウン12機)日本時間1942年6月5日、南雲機動部隊から発進した友永大尉率いる攻撃隊がミッドウェーの米軍基地に攻撃を行った。その報告を受けた米艦隊司令フレッチャー少将は第16機動部隊を率いるスプールアンス少将に攻撃隊発進を命ずる。しかし攻撃隊の発艦中に日本軍索敵機に接触されたスプールアンスは攻撃隊に戦爆連合の編隊を組まずに艦戦、艦爆、艦攻それぞれの隊が単独で進撃せよと指示を出す。この指示を出した要因にはデヴァステイターの「足の遅さ」があった思われる。戦闘機であるF4Fワイルドキャットと巡航速度が遅いデヴァステイターが編隊を組めば歩調を合わせたワイルドキャットの燃料が不足する懸念があった。このためエンタープライズとホーネットのデヴァステーイター隊は戦闘機隊と合流せずに単独で攻撃に向かったのである。一方フレッチャー少将直率の第17機動部隊も一時間後に攻撃隊を発艦させる。慎重なフレッチャー少将は攻撃隊を二つに分ける作戦を採っていたが、デヴァステイター隊は第一陣に全機投入されていた。ヨークタウンを発艦したデヴァステイター隊は幸運にも後から発艦した護衛の戦闘機隊と合流でき共に進撃を開始する。かくして全40機のデヴァステイターは日本艦隊攻撃に向かうことになる。

 最初に日本艦隊へ攻撃を行ったのはホーネット所属のデヴァステイター隊であった。ジョン・ウォルドロン少佐率いる14機のデヴァステイターは日本空母に向かっていったが、攻撃態勢を取ろうとした編隊に26機の零式艦上戦闘機が迎撃を行う。そしてあえなくホーネット所属デヴァステイター隊は全機が撃墜されてしまう。一部の機は撃墜前に魚雷を放ったが、命中魚雷は一本もなかった。ホーネットのデヴァステイター隊は撃墜後漂流していて救助された一名を除いて全員戦死している。

 ホーネット隊の攻撃から30分後、エンタープライズ所属のデヴァステイター隊14機が空母加賀を目標に攻撃を行うが、こちらも10機が撃墜(帰艦後一機は破損により海中投棄)、隊長のユージン・リンゼイ少佐以下29名が戦死している。エンタープライズの戦闘機隊は発艦後ディヴァステイター隊に合流することができず空しく帰還していた。海戦後生き残ったデヴァステイター搭乗員は戦闘機隊の詰所に拳銃を持って怒鳴り込む騒ぎを起こしている。

 最後に戦場に到着したヨークタウン所属デヴァステイター隊は珊瑚海海戦で実践を経験したものが多く、さらに6機の戦闘機隊の護衛を受け攻撃を開始している。「サッチ・ウィーブ」を編み出したジョン・サッチ少佐率いる戦闘機隊は奮戦したものの数に勝り技量も上の零戦隊が相手では自らの身を守るのに精一杯であり十分な護衛を行うことは叶わなかった。飛龍を狙ったデヴァステイター隊は10機が撃墜され、残る2機も燃料切れで不時着してしまい帰ってきた機は一機もおらず、隊長のランス・マッセイ少佐を含む21人が戦死している。攻撃隊の発進前サッチ少佐は護衛の戦闘機数が余りに少なく、せめてサッチ・ウィーブを実践させる最低数の8機での出撃をフレッチャー少将に直談判しているが拒絶されている。サッチ少佐はミッドウェイ海戦を振り返り「我々が生還できたのは奇跡としかいいようがない」と語っている。6機で多数の性能、技量ともに上回る零戦に戦いを挑んだ男の本音だろうが、デヴァステイター隊を援護できなかった自責の念も多少込められているかもしれない。

 こうして三隻の空母から発艦したデヴァステイター隊は40機が攻撃を敢行、うち34機が撃墜、2機が帰投中不時着、1機が帰投後海中投棄と残存機3機という結果だけみれば惨憺たる戦闘だった。しかしデヴァステイター隊の来襲により南雲機動部隊の直掩戦闘機隊は低い高度での戦闘を余儀なくされ、この結果SBDドーントレス爆撃機を迎撃することができず急降下爆撃をを許すことになる。間接的ながらミッドウェイ海戦の勝敗の鍵を握ったのはデヴァステイター隊の奮戦だったとも言える。勝利の為に犠牲となったデヴァステイターは計37機。これはデヴァステーター全生産数の実に29%に当たる。一日、それも時間にすると一時間ほどの戦闘で全生産数の3割が失われてしまったことになる。デヴァステイター搭乗員の戦死者数は空母三隻の飛行隊総計で79名(三空母すべての雷撃隊飛行隊長が戦死)、これは奮戦した日本空母「飛龍」の搭乗員戦死者数72名を上回る。

 ミッドウェイ海戦後、デヴァステイターは太平洋戦線の前線から姿を消す。というよりもミッドウェイ海戦で太平洋上にあった空母に搭載していたデヴァステイターはほとんど全部撃墜されてしまったのであるから当然といえば当然である。すでにTBFアヴェンジャーの量産も進んでおり(アヴェンジャーの初陣もミッドウェイ海戦でミッドウェイ基地に配備されていた6機が攻撃を行ったが5機が撃墜されている)ミッドウェイ海戦で生き残ったエンタープライズとホーネットにはすぐにアヴェンジャーが補充され、その後完成する空母にも次々とアヴェンジャーが搭載されていった。ミッドウェー海戦後残っていたデヴァステイターは沿岸哨戒や護衛任務などを細々と行い、機体の老朽化に伴って退役していった。最後のデヴァステイターが退役したのは第二次大戦末期の1944年。この頃には制空権の重要性が認識され、米軍の航空攻撃では制空権の無い無謀な攻撃は行われなくなっていた。一方の日本海軍は制空権を失い、デヴァステイターのライバルであった九七式艦攻は特攻作戦に投入されていた。戦場を去りゆくデヴァステイターはライバルの末路をどう見ていたことだろうか…。

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魚雷を投下するダグラスTBDデヴァステイター。ミッドウェイ海戦では多くの機が魚雷投下前に零戦に撃墜されている。

太平洋戦争のTBDデヴァステーター部隊と戦歴 (オスプレイ軍用機シリーズ)

バレット ティルマン/大日本絵画

涙無くして読めない作品

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by narutyan9801 | 2013-06-14 12:47 | 妄想(軍事) | Comments(0)

ティラコレオ ~オーストラリアに君臨した最強の有袋類~

 オーストラリア大陸は早くから他の大陸と切り離され、有袋類が繁栄する独特の生態系が形成されていた。その生態系の頂点に君臨した動物もまた有袋類の仲間であった。今回は絶滅してしまった有袋類の王者「ティラコレオ」を考察したい。

 ティラコレオはオーストラリア大陸のみに生息した大型の肉食有袋類で、現生のクスクスに近い系統の動物であった。2400万年前(新生代漸新世)から5万年前(更新世)にかけて生息していた動物である。体調は1.2mほど、体重は100kgに達したと思われる。体長に関しては肉食のカンガルーであるプロプレオプスに劣るが体重では勝り、オーストラリア大陸に現れた肉食有袋類の頂点に立つ動物と言っていいだろう。

 ティラコレオは20世紀後半までは断片的な化石しか発見できず、想像で補った姿でしか復元できていなかった。しかし南オーストラリアのナラコート洞窟群・ビクトリア洞窟で20万年前に洞窟に落ち、その後餓死したと思われるティラコレオの完全骨格が発見され、ティラコレオのほぼ完全な復元像を作成することが可能になった。

 ティラコレオは現世のネコ科動物と比べると幅広の胸で前足が長く、上半身の筋肉が発達していた。これは獲物に抱きついて噛みつきしとめる狩りを行っていたことを物語る。前肢の親指は他の指に対して人間の指のように直角に近い角度で付いており、握る動作をしたとき親指が他の指の内側になることが可能であった。また親指には巨大な鉤爪があり、獲物に抱きついた際に深く食い込み逃さないようになっていたと思われる。
 特徴的なのは歯の構造で、現在のネコ科動物は「犬歯」(人間でいう糸切り歯)が発達し獲物に止めをさす武器として使用しているが、ティラコレオは切り歯(人間でいう前歯)が発達していた。また奥歯が巨大化しちょうど裁断機のような構造になり、ここで獲物の肉を食いちぎっていたらしい。顎の力は強く試算によると現世のブチハイエナの数倍の力を出せたようで、獲物を骨まで砕いて食べていたことも考えられる。この顎の力から「ティラコレオは実は植物食の動物」という説もあったのだが、ビクトリア洞窟の化石から肉食をしていたためにできた歯の磨耗が発見され、ティラコレオは肉食動物ということが確認されている。

 逞しい上半身に比べ、ティラコレオの下半身は正直「貧弱」な印象を受ける。事実ティラコレオは走るのは苦手であったようであり、狩りはもっぱら待ち伏せ型だったようであり、ティラコレオは待ち伏せに適した森に生息していたようである。

 ティラコレオは2000万年以上にわたってオーストラリア大陸の生態系の頂点に君臨していたが、5万年前ごろに絶滅する。これはオーストラリアに人類が進出した時代とほぼ同じである。ティラコレオ絶滅の原因が人類の進出のためとは断定できないが、おそらく人類の進出による直接の圧迫、人類とともに進出してきたイヌ(現在のディンゴ)との競合、そして乾燥化による森の消失などの複合的な要因でティラコレオは滅んだものと思われる。

 なお、UMAファンの間では「クィーンズランドタイガー」と呼ばれるUMAの正体が実はティラコレオではないかという説が囁かれている。その可能性は現在のオーストラリアの環境等を考えると「きわめて0に近い」と言わざるを得ないが、妄想の世界で「ヨーウィ」と「クィーンズランドタイガー」が並んで歩いていて、その正体が「ギガントピテクス」と「ティラコレオ」だったら…。なかなか楽しい気分にさせてくれる妄想である。

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  ビクトリア洞窟で発見されたティラコレオの全身骨格。切歯の形状と前肢親指に注目してほしい
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by narutyan9801 | 2013-06-13 09:37 | 妄想(生物) | Comments(0)

ベイチモ号 ~20世紀の幽霊船騒動~

 幽霊船という言葉にはどんなイメージがあるだろうか?大きく分けて二つのイメージがあると思う。一つは船そのものが幽霊であり、出会うと不幸になる(出会ってしまった方の船が沈むとか)幽霊船。もう一つが無人の船が漂流しているが発見され、乗員が行方不明になってしまっている船を幽霊船とするものである。後者の例としては有名なメアリー・セレスト号などの実例がある。今回は20世紀に入ってから発生した「無人の幽霊船」ベイチモ号を考察したい。

 ベイチモ号は1914年にドイツで建造された貨物船で最初は「アンゲルマネルフェヴェン」号といった。第一次大戦に入ってからの建造で物資の節約からか蒸気機関を搭載し、巡航速度は10ノットの低速船であった。第一次大戦中はハンブルクと中立国スウェーデンとの貿易に従事し終戦を迎えることになる。戦後の賠償でアンゲルマネルフェヴェン号は賠償艦としてイギリスに引き渡され「ベイチモ」号と改名される。ベイチモ号は民間に払い下げられ、スコットランドとカナダの毛皮貿易に従事することになる。

 毛皮貿易に従事していたベイチモ号は1931年10月8日、叢氷(小さな氷が集まり大きな棚氷に成長したもの)の中に取り残されてしまう。低出力で砕氷能力のないベイチモ号は自力での脱出を諦め、37名の乗組員のうち22名は飛行機で脱出し、残った15名は船から離れたところに小屋を建て、氷の緩むのを待ち、船を脱出させるために待機することになった。一月半後の11月24日に激しい嵐が当地を襲い、嵐が静まったあとベイチモ号の姿は消えてしまったのである。
 当初ベイチモ号は沈没したと思われていたが、数日後イヌイットの漁師がベイチモ号が約70キロ離れた地点に漂着しているのを見たと話し、乗組員はベイチモ号の確認に向かう。発見されたベイチモ号に船員が乗り込み詳細を調べた結果、ベイチモ号の損傷は深く春までには沈没してしまうと判断され積荷を回収してベイチモ号は放棄されてしまう。しかしベイチモ号は沈まず、その後カナダからアラスカにかけての海を彷徨うことになる。

 放棄から二年後の1933年春にはベイチモ号にブリザードで身動きがとれなくなったイヌイットが避難をし、ブリザードをやり過ごして生還している。この夏にはベイチモ号の所有会社であるハドソン社(ゲームメーカーじゃないよ)が回収に乗り出したが、この時ベイチモ号は洋上を漂流して遠方まで流されており費用の面で断念せざるを得なかった。

 翌年ベイチモ号の噂を聞いた探検家がベイチモ号の探索を行い、発見後船体に乗り込むことに成功する。翌年にはアラスカ沖で何度もベイチモ号が目撃され「幽霊船」ベイチモ号を捕まえようとする動きが活発になる。1939年にはヒューイ・ポルソンらの回収チームがベイチモ号への接触に成功し回収できるかと思われたが、例年にない流氷の多さと巨大な氷盤が曳航の邪魔をし、結局は回収を放棄せざるを得なかった。

 その後第二次大戦の勃発もあり、ベイチモ号の回収も鎮静化する。大戦終結後もベイチモ号の目撃情報は届いていたが、建造から40年以上経った船体はいつ沈むか分からず、近寄ることも危険であると判断されるようになり回収は断念される。それでもベイチモ号はしばしば人の目に触れ、健在ぶりをアピールするかのように人々の話題に上っていた。

 ベイチモ号の最後の目撃情報は1969年、放棄された時と同じように叢氷の中に閉じこめられているのが目撃されている。建造から実に55年の月日が経っていた。これ以降の目撃情報はなく、人工衛星などを使っての探索でも発見されていないので、おそらく沈没したものと思われる。

 ベイチモ号がこれほど長く北極海で浮かんでいられた決定的な原因は分かっていないが、いくつかの原因があげられると思う。まずベイチモ号が放棄される際に積荷を回収されていたので、吃水が浅くなり氷の圧迫が受けても氷の上に乗り上げることができ、船体破壊に繋がらなかった可能性が高い。また氷に覆われていたので船体へのダメージが緩和された。低温で船体の腐食に時間がかかった。船体を放棄する際に開口部をすべて締め切り水密状態にしたので浸水が局所的で収まり転覆が避けられた等々、様々な要因が複合的に絡まった結果であろう。それに加えて「ベイチモ号自身が幸運だった」という点もあったと言える。もしかしたら今でもベイチモ号は氷に包まれたまま、北極海をさまよっている…可能性もゼロではない。
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「幽霊船」ベイチモ号。有名な写真であるが、よく見ると煙突から煤煙が出ており、機関は動いている状態である。おそらく放棄直前の撮影と思われる。
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by narutyan9801 | 2013-06-11 17:37 | 妄想(事件・事故) | Comments(0)

コティングリー妖精事件 ~無邪気さが作らせた妖精写真~

 三十代以上の方で幼少からオカルト的な物に興味がある方ならばほとんどの方が白黒写真に少女と「妖精」が写った写真を目にしたことがおありだろう。少女に戯れている「妖精」が白黒写真ということもあり、かなりリアルに「表現」されている。今回は有名作家も巻き込んだ「コティングリー妖精事件」を考察したい。

 問題の写真が撮影されたのは第一次大戦中の1916年7月が最初で、イギリスのコティングリー村に住むフランシス・グリフィスとエルシー・ライトの二人の少女が出会った妖精を撮ったという触れ込みで世間に公表されたのである。二人は従姉妹同士でエルシーまたはフランシスのどちらかと一緒にいる「妖精」を撮影した写真で、1920年までに計5枚の撮影が行われている。妖精は羽の生えたいわゆる「フェアリー」と呼ばれるような妖精が4枚と「ノーム」を撮影したと言われる写真が一枚である。「ノーム」は現在のイメージと違い羽の生えた妖精の姿をしている。
 
 この写真について発表当時から「偽物」説はあがっていた。また当時の写真はまだガラス原板を使う大がかりな写真で、扱いには熟練を要するものであったので子供が撮影したのではなく、他の人間が撮影したものではないかという疑惑もあった。だが撮影者が二人で間違いないと分かると、人々は次第に「本物」であるという意見に傾いてゆく。撮影したのが「子供」であれば逆に複雑なトリックは用いられないのではないかという思いや「子供がこんなトリック写真を撮るはずがない」という考えによるものであった。この考えを支持した人物の中に「シャーロック・ホームズ」の作者、アーサー・コナン・ドイルもいる。ドイルは写真の実物を受け取っており、彼はこの写真を「本物」と断定したことは大きな影響があったと思われる。彼の娘によればドイル自身は写真に疑いを持たないわけではなかったが、撮影した子供が嘘をつき続けることを信じられず「本物」としていたということである。

 撮影から時間が経過し写真撮影技術が進歩し過去の撮影物がどういった状況で撮影されたか推測できるようになると「コティングリー妖精」写真にも科学的なメスが入るようになる。被写体となった妖精には陰影がほとんどなく、平面的なものであること。当時のカメラはシャッタースピードが遅く、人間や風景は多少輪郭がぼやけるのに対し空中を「飛んでいる」妖精の輪郭がシャープなため、固定されている状態で撮影されていることなどが分かってくるとこの写真の真贋の議論が蒸し返され始める。いつしか写真の存在が一人歩きしてしまい、被写体と撮影者の二人の少女のことは忘れ去られ長い時が経ってしまっていた。

 撮影から遙かな後年、老境に達した二人の少女は沈黙を破り、真実を明かす。妖精は実は当時の絵本を真似て絵を描き、ピンで固定して撮影したものであることを告白したのである。ただ五枚の写真のうち、最後に撮影された「日光浴の繭」と名付けられた写真だけは「本物」であると主張しており、テレビ番組でも「偽物という証拠はつかめなかった」とされることも多い。
 写真を撮影した動機であるが、二人は仲が良く一緒に遊んでいたのであるが、いつも服を泥で汚してしまい母親から小言を言われ、言い訳に「妖精を見に行っているの」と言い、妖精がいる写真を撮れば遊んでも怒られないだろうということからエルシーが父親から写真機を借り撮影をしたのである。この写真を見たエルシーの父親が方々に写真を送りつけ(その中の一人が心霊研究家でもあったコナン・ドイルであった)、騒動になってしまい困惑した二人はこの件に関して沈黙することにしたのである。

 タネを明かしてしまうとトリックともいえない単純な方法で撮影された「妖精写真」であった。ネット社会の今であれば発表してすぐに「偽物」と断定されてしまうであろう。こうした写真が人々に「信じ」られるだけ当時はおおらかで懐の大きい時代だったのだろう。

 現在「コティングリー妖精写真」のガラス原板と撮影されたとされる写真機は実は日本にあり「うつのみや妖精ミュージアム」にて展示されている。機会があったら自分も足を運んでみたい。

 それにしても「日光浴の繭」は本物なのだろうか?イギリス人の7人に1人は幽霊やその他不可思議なものを見た経験があるという統計もある。はたして?

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         少女達?がこれだけは「本物」と言い続けた「日光浴の繭」写真
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by narutyan9801 | 2013-06-07 09:26 | 妄想(事件・事故) | Comments(2)