鼈の独り言(妄想編)

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ルドルフ・ディーゼル ~謎の死を遂げたディーゼルエンジンの生みの親~

 内燃機関にはいろいろな種類があるが、現在高トルク低回転数が必要で機関自体が大型でも構わない用途に使われる内燃機関で主流となっているのは「ディーゼルエンジン」である。今回はこのディーゼルエンジンの発明者「ルドルフ・ディーゼル」を考察したい。

 ルドルフ・クリスチアン・カール・ディーゼルは国籍はドイツ人であるが、生まれはフランス・パリである。ディーゼルの両親はバイエルンからパリに移住したドイツ人でありディーゼルは幼少時代をフランスで過ごすが、普仏戦争で一家はフランスから退去させられることになる。一家はロンドンに移住するが、ディーゼルは母国ドイツに移り工業を学ぶ道を選択する。1880年にミュンヘン工科大学を主席で卒業後、ディーゼルはパリに戻り製氷工場の設計・建設を手がけるようになる。ディーゼルはフランス語とドイツ語両方に堪能で、両国から技術特許を取得することができ、このことは単に仕事上の利点だけでなく両国の技術を同時に学べるという利点もディーゼルにもたらすことになる。

 ディーゼルは冷凍に関する仕事の関係上熱効率の向上に着目していた。この頃のエンジンは蒸気機関のみといってよく、水を沸騰させ水蒸気とし膨張した容積を利用してピストンを動かすという蒸気機関の仕組みにディーゼルは改良を加えようとする。彼は水より沸点が低いアンモニアに着目しアンモニアを使った蒸気機関を開発するが試運転で爆発事故を起こしディーゼルは重傷を負ってしまう。この事故でディーゼルは既存の蒸気機関の改良ではなく、新たな動力機関を開発することを決意することになる。
 努力の結果1893年にディーゼルは新しい内燃機関の論文を発表しこの機関の特許を1893年に取得する。彼の研究にドイツの企業マンAGが興味を示し、内燃機関の熟成のバックアップを行い、1900年にはパリ万博に開発された内燃機関を出展する。当初この内燃機関は「オイルエンジン」と呼ばれていたが発明者の名前を取り「ディーゼルエンジン」と呼ばれるようになるのである。

 ディーゼルエンジンの特徴は圧縮して高温になった空気に燃料を噴射して自然発火させ、その膨張を動力にすることでほぼ同時期に実用化されたガソリンエンジンと違い発火装置(プラグ)を必要としないことであった。さらに燃料に関しても液体燃料であればかなり広範囲の燃料が使用できる利点があった。パリ万博ではピーナッツから取った油を使用してエンジンを動かしている。この特徴がディーゼルの人生を左右することになるのである。

 ディーゼルエンジンは蒸気機関に勝る効率と、常温下では発火しにくい燃料を使用できることから軍用としても有用なエンジンであった。軍用として使用されるエンジンとなれば機密事項扱いとなる場合も多い。しかしディーゼルは自らの発明が機密扱いになることを好まなかった。彼が残した言葉に「偉人は自分一人のためではなく、多くの人々のために、この世に生を受けたのである」というものがある。彼自身は自らの発明であるエンジンで名声を得ることはできる。しかし自らの発明したエンジンは多数の人々に使われてこそ有為のものである。そんな気持ちを込めて語った言葉にも聞こえる。しかしイギリスとディーゼルの母国ドイツは次第に対立してゆき、ディーゼルは苦悩するようになる。

 1913年9月29日夕方、ディーゼルはイギリスで会議に出席するために船に乗り込み、翌朝起こしてくれるよう手配して自室に戻ったが、翌朝には船のどこにも彼の姿は無かった。失踪から10日後、ノルウェーの沖合で浮かんでいる遺体をオランダ船が発見する。遺体は痛みがひどく回収することもできなかったが、遺体が身につけていたものは回収され、ディーゼルの父親がディーゼル本人のものと確認、彼は死亡した…、となっている。彼の死は自殺、他殺様々な憶測があり、現在に至っても真相は分かっていない。そして永遠に謎のままだろう。ディーゼルの死の翌年、ディーゼルエンジンを装備したドイツのUボートが参加する第一次世界大戦が勃発している。
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by narutyan9801 | 2013-05-29 09:29 | 妄想(人物) | Comments(0)

岩内大火 ~洞爺丸沈没の影に隠れてしまった大火災~

 1954年(昭和二十九年)9月26日夜、北海道函館湾で洞爺丸が台風15号の暴風雨に巻き込まれ沈没した当日のほぼ同じ時刻、同じ北海道内の岩内町で火災が発生し、市街の8割が消失するという大火災が発生している。今回は一般にはあまり知られていないこの大火「岩内大火」を考察したい。

 北海道岩内郡岩内町はニシン漁で栄えた町で、港にはニシンの加工品を保管する倉庫が隣接し、その外側に住宅が建ち並ぶ街であった。大火の起きる当日は接近していた台風15号を避けほとんどの漁船が港内に避難していた。
 火災の発生時刻は午後8時15分頃、市街南西部のアパートの一室が火元である。この部屋に住んでいた住人は台風の被害を避けるために避難していたが、火鉢の火を消火せずに避難し、それが何かに燃え移ったのが出火原因とされている。木造だったアパートは瞬く間に炎に包まれ、隣家や近くの倉庫群にも飛び火して延焼範囲はどんどん広がっていった。

 火災発生直後から消火活動は行われていた。台風の警戒のため当時岩内町内にあった消防車は市内を巡回しており、火災発生の報が伝わるとすぐ現場に駆けつけて消火に当たったのだが、台風の影響で南からの強風が吹き荒れており、放水も風にあおられて飛散してしまい効果的な放水ができず、さらには消火に当たる消防士が風で吹き倒されるなど消火活動がとれないほどの風になり、消火活動は事実上放棄されてしまう。

 それでも出火場所の北側は岩内港になっており、このまま延焼しても港より先には燃え広がらず、自然鎮火が見込まれたが、当時の気象条件と港内の状況からさらに延焼がすすんでしまうことになる。
 当時台風15号は北海道西方海上にあり、岩内町で吹いていた南からの強風は台風の東側を中心に向かって反時計回りに吹き込む風であった。しかしこのとき台風の中心からは閉塞前線が東に延びており(このため現在の台風の定義ではこの時点で台風15号は温帯低気圧に変わったと判定されるかもしれない)この閉塞前線が北海道南部を横切り津軽海峡の東で温暖前線と寒冷前線に分かれていた。この境目に隠れた低気圧が存在し、台風・閉塞前線・低気圧が複雑に作用して風がめまぐるしく変わることになる。
 さらに当時岩内港内には来春のニシン漁のために多量の燃料が備蓄されていた。重油やガソリンはその多くがドラム缶で貯蔵されており、それらに火が引火したため被害が拡大することになる。

 火災が港に迫ってくる頃、風向きは南西、さらに西風に変わり、それにあおられて火も港の南側を北西に進み始める。そして火災が港に貯蔵された燃料に引火し、爆発を起こしてしまう。この爆発で火のついたドラム缶が吹き飛んで延焼を広げてしまい、さらに港内に停泊していた漁船にも火が移ってしまう。火のついた漁船は係留していたロープが焼き切れると風に煽られて港内を東に流され、港の東岸に流れ着きそこからさらに火が燃え移る状況となる。

 日付が変わると今度は逆に東からの風に変わり、港東岸から西に火が延焼してゆく。結局翌朝東岸からの火災が初めに燃え広がった港の南まで達し自然鎮火するまでに岩内町内の8割、3298戸が消失する大火災となってしまった。この火災での死者は35人、うち二人は火災で逃げ場を失い海に飛び込んで溺れてしまった人である。さらに3人の安否が現在でも不明のままである。これだけの火災(戦後地震以外の出火では3番目の規模)であるにも関わらず、同時に起こった洞爺丸事件に世間の目が向いてしまい、ほとんど知られることがなかった大火災であった。なお火元の住人は後に罰金3万円の略式判決を受けている。
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by narutyan9801 | 2013-05-28 10:16 | 妄想(事件・事故) | Comments(0)

オンセンクマムシ ~発見者以外誰も見ていない謎のクマムシ~

 「宇宙でも生存できる動物」としてよく名前が挙がる「クマムシ」その種類は全世界で約800種と言われている。様々な環境に生息するクマムシだが、この中でただ一種、日本の温泉から採集され、記載されたクマムシがいる。しかしそのクマムシは発見者しかその姿を見ておらず、様々な疑惑がもたれている。今回はその「オンセンクマムシ」を考察したい。

 オンセンクマムシは1937年、スイス人のラウムによって記載されたクマムシで、日本の雲仙の温泉湯垢内から採集されたとなっている。その形状は他の様々なクマムシの特徴を兼ね備え、さらに既知のクマムシには見られなかった三角形の突起が背中についていたと記録されている。ラウムは新たに「中クマムシ目」を創設させて記載を行っている。現在中クマムシ目は「中クマムシ綱」に格上げされ、オンセンクマムシは中クマムシ綱に分類されているただ一つの種となっている。
 このクマムシは温泉に生息するという特性が生物学的にみても珍しく、多くの学者が採集すべく雲仙に赴いているが、発見者のラウム以外は誰も発見することができなかった。その後発見地とされる温泉は枯れてしまい、その存在を証明する手がかりは消えてしまっている。さらに様々な状況から、オンセンクマムシの発見自体が疑わしいことが分かってきている。

 発見者のラウムは元々線虫の研究者でクマムシ研究に関しては専門分野外の人物であった。彼は十数年に渡り専門の線虫研究と平行してクマムシの論文も発表している。この間8種類のクマムシの発見を報告しているが、現在まで有効な種類はそのうちオンセンクマムシを含む3種類にとどまっている。現在も有効とされている種類もオンセンクマムシ以外の二種は南米や南極周辺で別の研究者が採集した種を彼はヨーロッパで採集したと主張し記載されたもので実在は疑問視されている。そしてオンセンクマムシに関しても彼以外は実物を発見できず、標本も残っていないので実在を証明できる決定的な証拠は無いと言ってよい。

 どうもラウムという人物は風変わりな人物であったらしく、オンセンクマムシの発表に関してもほぼ同時期に日本とドイツの学術誌に記載するということを行っている。学術論文の発表の形式ではこれはかなり「常識外れ」の行動なのだそうである。さらに日本で発表した論文では同時期に東アジアで活動していたクマムシ研究家を罵るような内容の記述を行っており(ただし罵られた研究家のクマムシ同定能力は相当低く、彼が発見したクマムシはその後すべて存在が確認されていない)、この論文の作成に関してはどうも感情的に均衡を保ち得ない心情であったようである。そのような状況でオンセンクマムシの実在は疑問視され、捏造すら疑われるようになっていた。

 ところが、1978年にイタリアで小川に棲むクマムシの新しい種が発見され、そのクマムシの背部にオンセンクマムシと同じ三角形の突起物があることが1986年に指摘され、オンセンクマムシの存在が架空のものではない可能性が出てきたのである。ラウムの発表から約60年後の新たな展開であった。

 こうしてオンセンクマムシの存在に光明が指してきたが、肝心の温泉は枯れており、さらに雲仙普賢岳の火山活動により広域的な調査ができない状況で、オンセンクマムシの調査は進んでいない状況である。

 オンセンクマムシの一番の特徴である背中の突起は何であろうか。専門外がこんなことを言うのは筋違いかもしれないが、イタリアのクマムシとオンセンクマムシの生息域が水の流れがある所である。とするとこれは水に流されないようにする一種の整流板の役割をしているのではないだろうか?と勝手に想像してしまう。いずれにしても肝心の「オンセンクマムシ」が再発見できなければなにも分からないのである。現地での調査が進むことを期待したい。
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by narutyan9801 | 2013-05-27 12:18 | 妄想(生物) | Comments(0)

アルシノイテリウム ~宮殿側で見つかった謎多き巨獣~

 20世紀初め、エジプトのプトレマイオス朝の遺跡の近くからサイに似た動物のほぼ全身化石が発掘された。当初はサイの仲間と考えられていたこの動物は調査の結果現在では絶滅してしまった系統の動物であることが判明する。今回は謎の多いこの動物「アルシノイテリウム」を考察したい。

 アルシノイテリウムを日本語に訳すると「アルシノエの獣」となる。アルシノイという言葉は実は人の名前で、プトレマイオス王朝の女王「アルシノエⅡ世」の宮殿のそばで初めて化石が発掘されたために名付けられたためである。この化石は全身の骨格がほぼ完全にそろった化石で、状況からかなり若い個体の様である。何らかの事故に巻き込まれて土砂に埋まり、そのまま化石になった可能性が高い。
 アルシノイテリウムの特徴はなんといっても頭部の角である。現世のサイの角は実は「毛の固まり」であり、骨は無いので死んでしまうと腐敗してしまい、化石としては残らない。これに対してアルシノイテリウムの角は頭蓋骨そのものが隆起して角を形成しており、化石となって残ったのである。視覚的には相当重量感があるが、実際には骨の中は空洞で見た目よりは軽いものであった。

 アルシノイテリウムは外見上はサイに似ているが、分類上はかなりかけ離れている。現世のサイの仲間は分類では奇蹄類に属し、大ざっぱに言えば馬の仲間であり、その期限はヨーロッパとアジア大陸が分離する前のローラシア大陸で誕生したほ乳類である。それに対してアルシノイテリウムはアフリカ大陸で誕生したほ乳類(アフリカ獣上目)で、近蹄類と呼ばれる類に分類される重脚目という目に属する。近蹄類には長鼻目(象の仲間)や海牛目(ジュゴンの仲間)などが含まれ、アルシノイテリウムはこれらに近い動物ではあるが、相当古くに分化したらしい。

 アルシノイテリウムは最初に発見された完全骨格の化石個体以外に近年まで化石の発見例がなく、その分布はアフリカ大陸の一部のごく狭い地域に限られていると考えられてきたが、近年ではアフリカ東部や中東でも断片的ながら化石が発見され相当広範囲に生息域をもっていた動物であることが判明している。生態は現在のサイが主に草原を生息場所に選ぶのに対し、アシシノイテリウムは湿地帯やマングローブ帯などの湿潤な地域を好んだらしい。大きな体と角を考えるといささか不釣り合いな生息環境であるが、他の動物との棲み分けがあったのかもしれない。

 アルシノイテリウムは当時まださほど大きい動物ではなかったゾウを圧する体格を誇っていたが、その生息期は動物史としては短く約2300年前には絶滅している。原因としては地球環境の寒冷化・乾燥化が進み生息地域が無くなったためと言われているが、正確なところは不明である。実のところアルシノイテリウムがどんな動物から進化したのかはその中間となる動物化石が発見されていないためほどんど分かっておらず、系統を残さず滅んでしまっている。今のところアルシノエⅡ世神殿遺跡のそばから掘り出された完全な骨格化石以外は断片的な化石しかなく、本当に謎だらけの動物なのである。今後研究が進んで、彼らの謎が解明されてゆくことを期待したい。

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アルシノイテリウムの全身骨格化石。ほぼ全身の骨格が揃った化石は現在の所唯一の化石である。
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by narutyan9801 | 2013-05-24 10:04 | 妄想(生物) | Comments(0)

素数ゼミ ~発生周期を数学的に選んだ蝉~

 蝉は非常に幼虫期間の長い昆虫である。日本の代表的な蝉であるアブラゼミは6年もの長い幼虫期間を持つ。自分は子供の頃学研の「昆虫のひみつ」という本を読み、その中で「アメリカでは幼虫の期間が17年という『17年ゼミ』というセミがいる」という記載に心引かれた記憶があるが、この蝉の「17年」という長い幼虫期間には種の生き残り戦略への執念が込められていた。今回は北アメリカ大陸に生息する「素数ゼミ」を考察したい。

 「17年ゼミ」という蝉は実は一種類ではなく三種類いることが知られている。さらに幼虫期間が若干短い「13年ゼミ」も4種類が確認されている。お互いの蝉は生息地域が分かれており17年ゼミは北部、13年ゼミは南部に生息していて分布域はほとんど重ならない。
 この蝉の最大の特徴が長期間に及ぶ幼虫期間と成虫発生の周期化である。たとえばAの区域にすむ17年ゼミは17年ごとに一斉に成虫に羽化し、その年以外は全く発生しないと正確な発生周期を保っているのである。成虫の寿命は一月足らずですべての蝉が短期間に一斉に発生するために木々にセミが鈴なりになってしまうという状況になる。ちなみに発生のグループは北米大陸に分散しているので、たとえば今年はA地区で発生し、翌年はB地区、そのまた翌年はC地区と順番に発生しているので、全米が17年に一度セミに埋め尽くされるということはない。

 このセミの長い幼虫期間は氷河期に寒冷化した生息環境で成熟までに時間がかかるようになったためと言われている。ではなぜ13年や17年といった周期で一斉に成虫が発生するのかという謎には面白い仮説で説明がなされている。

 成虫が一斉に発生するのは捕食によるリスクを軽減させる効果があると思われている。セミは大型の昼行性昆虫であるが、多くの捕食性動物の餌になり単独では狙われやすい。そのため一斉に羽化することにより単独でいる場合よりも捕食率が下がる効果があると思われ、まとまって羽化をするようになったと思われている。

 次に13年や17年と言った周期性の羽化を行うかであるが、こちらには二つの説がある。いずれも「13」や「17」が素数であることに着目した説である。

 一つ目は天敵との遭遇機会を減らすためという説である。捕食者やセミを媒介とする寄生者も周期的に発生する能力を身につけた場合、たとえば周期が3年や5年といった場合、発生周期がずれていても近い将来同じ発生年数にぶつかる可能性が高い。これに対して「素数」の13年や17年であればかなり長期間発生年数が重なることがなく、生存に有利であるという説である。

 もう一つが交雑による自然淘汰である。たとえば12年周期と14年周期でセミが発生した場合、最小公倍数の84年ごとに同じ時期に違う種類のセミが発生し、多くのセミが交雑を起こしてしまうことになる。雑種は多くの場合子孫を残す能力が欠如しており、結果的に双方の発生周期のセミの個体数が減ってしまい、捕食圧で絶滅してしまう。だが13年や17年といった「素数」であれば交雑が生じるリスクが無く、結果としてこの周期のセミが生き残れたというものである。

 双方とも鍵となっているのが生物活動にはほとんど縁の無いような「素数」であることが面白い。ちなみに10の位の素数には「11」や「19」もあるのだが、11年では成虫の生育期間までには短すぎ、19だと今度は長すぎるようである。実際17年ゼミの研究では二令幼虫の際自主的に摂食制限を課して生育期間を4年延ばしているということを示唆する研究結果もでている。

 ちなみに17年ゼミはかって13通りの発生グループがあったのだがそのうちXIと呼ばれたグループは1954年の成虫発生を最後に絶滅が確認されている。原因は現在のところ究明されていないのだが、この年なにがあったのか調べてみると


  3月 第五福竜丸が死の灰を浴びる
  6月 旧ソ連で世界初の原発が稼働開始
  9月 洞爺丸事故
  11月 映画「ゴジラ」封切

と、なんか気分が暗くなるような出来事が起こっている。本当の真相は、絶滅したセミにしかわからないことなのだろう。
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by narutyan9801 | 2013-05-23 09:20 | 妄想(生物) | Comments(0)

土木の変 ~中国史上野戦で皇帝が捕虜になった唯一の戦闘~

 15世紀の中国は明王朝の成立によりモンゴル民族の支配体制から解放されていた。一方北方に追われたモンゴル族は各部族間の争いを経て、オイラト族出身のエセンが統一を果たしていた。明王朝は永楽帝の死後北方遊牧民族との朝貢貿易を行い一応の修好関係を結んでいたが、朝貢貿易を巡る対立から明とオイラトは戦うことになり、その結果中国正当王朝の皇帝が野戦で捕虜になるという事件が起こっている。今回はこの「土木の変」を考察してみたい。

 明とエセンの争いの直接の原因は貿易の増大を望むエセンとそれに抑制しようとする明の対立からである。明王朝の対外貿易は基本的に朝貢貿易であった。これは皇帝に使節を送った他国へ明王朝が金品を「下賜」する形で行われていたが、下賜される量は使節の人数に比例しており、より多くの人数を送ればそれだけ品物が下賜されていた。むろん無限大に品物を下賜させるわけにはいかないので、オイラトの場合使節の人数を「五十人」にすると決められていたのだが、エセンはその決まりを無視し1,000人以上の使節を送り続けていた。
 1448年冬、翌年の使節の人数をエセンは「3,598人」とすると明に連絡を行う。さすがにこの人数分の下賜を行うには負担が大きく、さらに内偵の結果使節の人数は相当数割増しされていることが判明し、この年の下賜品目は「3,598人」分の二割ほどに押さえられた。さらにエセンが望んでいた明の皇女の降嫁も拒絶され、エセンは面目を失う羽目になる。

 エセンにとって朝貢貿易の縮小は統治体制の根幹に関わるものであり、降嫁の拒絶は威信の低下につながるものであった。エセンは対明外交の失点を軍事力行使によって補おうと決意する。明領内に侵入し略奪によって朝貢貿易で得られなかった金品を強奪し、降嫁取り消しの報復を同時に行うという軍事行動であった。エセンとしてはこれまで自分の行動を黙認してきた明は軍事侵攻により再び軟化し宥和政策を採るだろうという読みがあったのかもしれない。しかし明はその思惑と正反対の行動を採ったのである。

 1449年夏、エセンは名目上の主君であるモンゴルの大ハーン、トクトア・ブハ・ハーンを伴い、二万の騎兵を率いて明領に侵攻を開始する。この事態に当時明王朝内の権力者、宦官の王振は時の皇帝正統帝に親征を上奏する。朝廷内には反対意見も多かったが、王振の権威に反対者は沈黙せざるを得なかった。こうして正統帝は五十万と号する軍勢を率いて北京を出撃する。

 8月16日に明の前線基地大同に到着した明軍は前線部隊がオイラト軍によりほとんど壊滅的な打撃を受けていることを知る。大同までの行軍は大雨に祟られ、さらに補給能力の不備が露呈し士気も低下していた明軍はこれ以上の前進を諦め「勝利」を宣言し撤退を決定する。しかし撤退中も雨や悪路の為時間を要し、騎兵中心のオイラト軍の追撃を許してしまう。奇襲と撤退を繰り返すオイラト軍に明軍は有効な手段を打てず、王振は防御に有利な土木堡に全軍を集結させオイラト軍の奇襲を避ける作戦を立てる。

 土木堡は小高い丘になっており防御には有利であったが水源が少なく、さらに近傍の河川の周辺をオイラト軍に占拠され、明軍は水不足に陥ってしまう。オイラト軍は明軍が疲弊するのを見計らい攻勢をかけ、一方的な勝利を収める。明軍は士気の低下で防戦も満足に行えず、混乱の中王振は暗殺されてしまい、正統帝は逃れることができず、オイラトの捕虜になってしまう。この戦いで明軍の半数が戦死したと言われている。

 正統帝を捕虜にしたことはエセンにとっても意外であったろう。エセンとしては明の外交変化を望んでの侵攻であり、遠征軍に打撃を与えれば目的としては十分で、捕虜とした皇帝の扱いには苦慮したようである。ともあれエセンは正統帝をつれて明の首都北京へ向かう。

 北京では遠征軍が破れ皇帝が捕虜になるという事態に動揺が走るが、正統帝の異母弟を景泰帝として即位させ民心の動揺を押さえることに成功する。さらにエセンより正統帝の身代金要求を突っぱね、攻勢に出たオイラト軍から北京を守ることに成功する。オイラト軍はこの侵攻での攻城戦は想定しておらず、兵力も北京を落とすには過小だった。結局エセンは正統帝を引き連れたまま北方に戻らざるを得なかった。

 エセンの軍を撤退させた明朝廷はエセンの主君であるトクトア・ハーンや他の遊牧民族の族長らと交渉を行い、エセンの孤立化を計る。こうした圧力のためエセンは正統帝を無条件で解放、帰国させざるを得なかった。

 土木の変は軍事的にはオイラトの大勝利ではあるが、その勝利は必ずしもオイラトに利益をもたらすものではなかった。変後明と個別交渉を行ったトクトア・ハーンとエセンは対立関係になり、変の4年後エセンはトクトア・ハーンを殺害し自らハーンを名乗るが、チンギス・ハーンの血を引かないエセンのハーン自称は他部族の反発を招き翌年エセンは部下に暗殺され、オイラトは没落することになる。

 帰国した正統帝は監禁され、権力を手放すことになるが、異母弟の景泰帝の太子(跡継ぎ)には正統帝の実子を立太子し正統帝の血筋が皇帝に付くことで政治上の妥協が成立する。しかし後に景泰帝がこの約束を反故にしたことに正統帝は不満を持ち、景泰帝が病に倒れるとクーデターを起こし権力を再掌握する(奪門の変)。景泰帝が病死すると重祚を行い、天順帝として再度帝位に即くのである。この時自らが捕虜になった際景泰帝を即位させた者たちの多くを処刑し、さらに奪門の変で自分を支持した者たちが権力を掌握し専横な振る舞いを行うと今度はその臣下達を粛正する。晩年天順帝は粛正を断行したことを悔やみ、自らの死の際殉死を禁ずる詔を発して亡くなる。享年38歳。中国皇帝で唯一野戦で捕虜になった皇帝はどのような思いを胸に秘めていたのだろうか。
 
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by narutyan9801 | 2013-05-22 10:17 | 妄想(歴史) | Comments(0)

ダンクルオステウス ~頭部だけが化石になった古生代最強の魚~

 今から約3億6千万年前。デボン紀と呼ばれる時代、両生類が出現し生物が陸に活動の場を広めていった時期であるがそのころの海は巨大な魚が支配していた。今回はデボン紀の海の生態系の頂点に君臨した「ダンクルオステウス」を考察したい。

 我々40代前後の古代生物に興味のある世代では「ダンクルオステウス」と言われてもピンとこない人々も多いと思う。この巨大魚、以前は「ディニクチス」と呼ばれ図鑑などでもこの名前が載っていたのである。「ディニクチス」はダンクルオステウスが含まれる「科」の名前でディニクチス科ダンクルオステウス属ダンクルオステウスというのが正式な分類名である。

 この巨大魚、今までのところ化石は巨大な頭部のみしか発見されていない。というのもこの魚は真の「骨」を得ておらず頭部以外は「軟骨」で形成されており化石として残りにくかったようである。当時同じ軟骨で骨格が形成されている鮫などは内蔵の様子まで保存された化石も発見されており今後の発見に期待したいところである。現在のところダンクルオステウスの身体がどういう形になっていたのかは想像の範疇でしか復元できていないが、鮫に似た体型だったという意見と現生するポリプテルスのような背鰭が複数枚有り、胸鰭・腹鰭が身体から腕状のものを介して独立した形をしたものの二通りの想像復元があるようである。

 ダンクルオステウスの特徴はなんといってもその装甲に覆われた頭部である。当時の海では「甲冑魚」と呼ばれる頭部に装甲を備えた魚が存在したが、「甲冑魚」と呼ばれる魚は多くが顎のない「無顎類」であった。しかしダンクルオステウスは強靱な顎を備えており、しかも下顎だけでなくある程度上顎も動かすことが可能であったと思われる。口には真の意味での「歯」はなかったが顎の骨格そのものが鉈の刃状に発達しており、強靱な顎で獲物を食いちぎっていたようである。一方この顎には咀嚼能力はなく、食いちぎった食物はそのまま消化器官に送り込まれたが、獲物としていた甲冑魚の装甲の部分はダンクルオステウスには消化できず、未消化の部分は現在の猛禽類の「ペレット」と同じように吐き戻して捨てていたようでその痕跡の化石も発見されている。

 こうしてデボン紀の海の王者として君臨したダンクルオステウスであるが、その栄華は長く続かなかった。デボン紀末に地球を襲った大量絶滅によりダンクルオステウスを含む大部分の「甲冑魚」の仲間たちが絶滅してしまう。大量絶滅を乗り越えられたものは重い甲冑を脱ぎ捨てていたサメやエイの軟骨魚類、そして真の骨を獲得した硬骨魚類の仲間であった。現在言葉通りの甲冑魚はすべて絶滅してしまったが、多くの甲冑魚が含まれた「無顎類」のうちヤツメウナギの仲間とヌタウナギの仲間がわずかに現存している。
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by narutyan9801 | 2013-05-21 08:41 | 妄想(生物) | Comments(0)

ザマの戦い ~騎兵数が勝敗を決めた第二次ポエニ戦争最後の戦闘~

 紀元前3世紀後半の第二次ポエニ戦争の末期、イタリア半島に攻め込んだカルタゴの名将ハンニバルの活躍もローマ軍のしぶとさで勢いを失い、戦線は膠着状態となる。その後ローマにスキピオ(後の大スキピオ、スキピオ=アフリカヌス)が現れカルタゴの植民地であった現在のスペインを攻略、カルタゴの同盟国だったシラクサやマケドニアもローマに屈し、ハンニバルもイタリア半島南部に逼塞する状況となり戦いはローマ軍に有利な状況となってきていた。ローマ軍はハンニバルを制圧するよりもほとんど戦いの行われていないカルタゴ本国を制圧する方を選び紀元前204年春にカルタゴへ上陸を敢行する。カルタゴは同盟関係にあったヌミディア王国と共同でローマ軍に2度挑むが、二度とも敗北しヌミディア王シファックスはローマ軍の捕虜となる。そして内紛からローマに亡命していたヌミディア皇族のマシニッサを新しいヌミディア王に即位させることに成功する。この戦況にカルタゴはイタリア半島からハンニバルを呼び戻し、カルタゴに戻ったハンニバルはローマ軍に決戦を挑むことになる。今回は第二次ポエニ戦争最後の戦いとなった「ザマの戦い」を考察したい。

 ハンニバルを呼び戻している間、カルタゴとローマは和平交渉も行っていたが交渉は決裂する。交渉の間も軍備は増強され、カルタゴに到着したハンニバルには

 歩兵 50,000
 騎兵  3,000
 戦象   80

が用意されていた。一方のローマ軍は

 重装歩兵   20,000
 軽装歩兵   14,000
 ローマ騎兵   2,700
 ヌミディア騎兵 6,000

の兵力であった。

 歩兵の数はカルタゴ側が有利であるが、歩兵の過半数は傭兵及び経験の浅いカルタゴ市民兵であり経験を積んだローマ歩兵には戦意、戦力とも劣っていた。残りの歩兵はハンニバルがイタリア半島から退却する際に選抜された歩兵であり、事実上この戦いの主力をなすものであった。戦象の存在感は圧倒的であるが、前進以外軍事行動を取れる兵器ではなく扱いにくいものであった。

 一方のローマ軍の歩兵はポエニ戦争を戦ってきた経験のあるものが多く、また歩兵の携帯武器として両刃のグラディウスが採用され格闘戦でも強みを発揮できた。

 両軍の戦力の中核を担ったのが騎兵戦力である。ハンニバルが過去に戦ったすべての大規模会戦では歩兵戦力が敵歩兵を束縛している間に相手方騎兵を駆逐した味方騎兵が後方を遮断し包囲殲滅を行うのが常套手段となっており、その前提が騎兵戦力が敵を圧倒していることであった。しかしザマの戦いでは今まで騎兵戦力の供給源であったヌミディア王国がローマ側についておりハンニバルは初めて劣勢の騎兵戦力で戦わねばならない状況に追い込まれたのである。旧ヌミディア王国の敗残兵を取り込んだもののローマ・ヌミディア騎兵の数の半分にも満たない騎兵をハンニバルはある作戦に使うことにする。

 戦いを翌日に控え、ハンニバルとスキピオは会見を持つ、二人とも通訳だけを連れての会談だった。ハンニバルはローマが現在占領している地域の領有を認めた上での和平を提案するが、スキピオは拒絶する。会談は物別れに終わったが、両者とも相手に多大な興味を抱いて顔を合わせたことだろう。国の代表同士の会談であろうからおそらく発言は母国語を使ったろうが、通訳は当時の国際言語であるギリシャ語を介した可能性が高い。両人ともギリシャ語を学習したと言われておりおそらく通訳の口から漏れるギリシャ語でお互いの主張は伝わったのではなかろうか。

 翌日、陣容を整えた両軍はついに激突する。先手を打ったのはハンニバルの方であった。ハンニバルは手持ちの戦象すべてを横一列にローマ軍に突入させる。初めて戦象をみる軍隊はこれで恐慌が生じたろうが、エピロス王ピュロスとの戦い等でローマ軍は戦象と戦っておりその対策も講じていた。スキピオはあらかじめローマ軍の陣型の間隔を大きく取っており陣形の隙間から戦象を素通りさせてしまう作戦を採用していた。陣型の隙間を抜けた戦象はその後軽装歩兵の手槍の餌食になってしまう。戦象の突撃が失敗したとみるとハンニバルは騎兵部隊に後退を命令、続けて歩兵部隊に前進を命令する。
 騎兵部隊の後退は偽装で、ローマ&ヌミディア騎兵を釣るための餌であった。この偽装工作にローマ軍騎兵は引っかかり戦場から遙か離れたところまで追撃を行い、その間主戦場では騎兵の脅威のない状況下で歩兵の決戦が行われれる。

 ハンニバルは歩兵を 
   
   一陣目 傭兵部隊
   二陣目 市民兵
   三陣目 イタリア半島以来の古参兵部隊

に編成していた。いわば一陣目と二陣目は敵陣を攪乱するための囮であり、敵陣を攪乱後三陣目が敵陣を突破し包囲に移る作戦をハンニバルは考えていた。しかし一陣目の傭兵部隊は経験が豊富で組織としてまとまっているローマ軍歩兵の敵ではなく、二陣目の市民兵も初めての戦場で興奮して傭兵部隊と同士討ちを行ったり、恐怖で動けない部隊も多くハンニバルはやむなく三陣目を戦線に投入する。三陣目はローマ軍の中央を圧迫していくが、三陣目の歩兵だけでは絶対数が足りず次第にローマ軍が側面に回り込みカルタゴ歩兵の動きを圧迫し始め、さらにカルタゴ側騎兵を駆逐したローマ軍がカルタゴ側の背後から攻撃を開始しカルタゴ歩兵部隊は完全に包囲される形に陥ってしまう。この状況は奇しくもカルタゴ側の大勝利となったカンナエの戦いと攻守逆転した配置となっていた。包囲されたカルタゴ歩兵のうち約20,000が戦死、15,000が捕虜になったといわれている。戦死した歩兵部隊の大半はイタリア戦線からハンニバルとともに帰還した古参兵たちであった。ハンニバル自身は戦場を脱出してカルタゴへ帰還し、降伏やむなしを主張することになる。この戦いの後講和条約が結ばれ、第二次ポエニ戦争は終結するのである。

 海外領土をすべて失い、多額の賠償金を課せられたカルタゴの復興の先頭に立ったのはハンニバル自身であった。ハンニバルの手でカルタゴは目覚ましい復興を遂げるが、ハンニバルの手による復興を望まないローマ側の陰謀か、はたまたカルタゴ内部の不満分子の扇動か、ハンニバルはカルタゴを去りセレウコス朝シリアに亡命しさらに現在のトルコの西部、エフェソスに身を寄せることになる。ここでたまたま友好使節としてエフェソスを訪問したスキピオと再会したと言われている。このときスキピオに「もっとも偉大な指揮官は?」と問われたハンニバルは「第一にアレキサンドロス大王、第二にエピロス王ピュロス、第三はこの私」と答え、さらにスキピオの「もしザマの戦いであなたが私に勝っていたら?」という問いかけに「そうなっていたら私が第一になる」と答えたと言われている。
 現在でも各国の軍隊教練教科書で解説されている理想的な包囲戦「カンナエの戦い」を演出したハンニバル、そのハンニバルの戦術を理解し、得意の騎兵戦力を戦闘外で奪い取り「ザマの戦い」を演出したスキピオ。二人の間には師弟関係にも似た理解し合える感情があったのかもしれない。
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by narutyan9801 | 2013-05-20 11:07 | 妄想(歴史) | Comments(0)

褐色矮星 ~軽すぎて光ることができない星たち~

 恒星は宇宙空間に存在する星間物質が集まり、その質量がエネルギーとなって核融合反応を起こし今度はエネルギーを放出するようになる。しかし集まった物質がある程度の量を満たさないと核融合反応を起こすことができず、恒星になることができない。今回は恒星になることができなかった星「褐色矮星」を考察したい。

 星の内部が重力のエネルギーにより高温になり軽水素(1H)が核融合反応を起こすためには太陽の質量の8%の質量が必要である。これよりも質量が少ない場合軽水素の核融合反応は起こらないが、水素分子の中に中性子が一つ組み込まれている重水素(2H)は軽水素よりも低温で買う融合反応を起こすので、重水素の核融合反応でエネルギーを放出することができる。しかし重水素の存在比率は低い(地球上では軽水素と重水素の比率は99.985%と0.015%)ので短期間で重水素の核融合反応は終わってしまい、エネルギーを放出しなくなってしまう。これが褐色矮星と呼ばれる天体である。

 褐色矮星は重水素の核融合反応での余熱で表面がある程度の温度に保たれている期間があり、高温に保たれている状態であれば赤外線での観測が可能であるが余熱を放出してしまい冷えてしまった状態になると観測は困難になってしまう。このため褐色矮星は観測数が少なくまだわからないことも多い。宇宙全体の物質の中ででまだその正体がよくわかっていないいわゆる「暗黒物質」と呼ばれる物質の内のいくつかはこの褐色矮星が占めている可能性も高く今後の観測で宇宙の謎をいくつか解明できるヒントが隠されているといえる天体である。

 最近発見された褐色矮星で面白い性質を持つ星がある。こと座の方向36.5光年離れたところにWISEPA J182831.08+265037.5という長ったらしい名前の褐色矮星が存在するが、この天体は観測された太陽系外天体のうち表面温度がもっとも低い天体として知られている。その表面温度は約300K(ケルビン)摂氏にすると約25~30℃と地球とそう変わらない温度である。この温度だと液体の水が存在する可能性もあり、生命の誕生の可能性も0ではない。むろんこの温度は一過性のものであり、また非常に観測しにくい天体でもあるので測定結果が正確かどうかはわからない。しかし従来惑星上でしか生命の誕生の余地はないと思われていたところに新たな可能性を見いだせた楽しい発見であると思える。
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by narutyan9801 | 2013-05-17 10:38 | 妄想(天文) | Comments(0)

春秋園事件 ~最大かつ最後の角界分裂事件~

 大相撲は元々興業が主な目的であり、江戸期には引き分けや勝負預かりなども存在していた。明治・大正期に大相撲にもスポーツの要素が取り入れられ、取り組み自体は近代化していったが、興業的な面は根強く残り力士の待遇は低いままだった。このため明治・大正時代には力士が待遇改善を要求してボイコットを起こす事件も何度か起こっている。今回はこうした事件の中で最大かつ最後の事件となった「春秋園事件」を考察したい。

 事件の発端は昭和七年一月六日。この日東京大井町にある春秋園に大相撲出羽海一門の関取衆が食事会という名目で召集される。この席で当時西張出大関の大ノ里や西関脇だった天竜が相撲協会の改革の必要性を論じ、改革の要点十箇条を協会に提出する。この要求に対し相撲協会は春日野、藤島の年寄を派遣して説得するが力士側は納得せず、その後数回のやりとりの末、当時の幕内と十両の西方関取全員と数人の幕下力士が相撲協会から脱退する前代未聞の事態に発展してしまう。

 当時幕内の取り組みは東西に分かれての団体戦が主で、個人優勝はあまり重視されておらず東西同じ側の力士同士は団体戦の仲間内ということもあり結束が堅かった(十両は東西総当たり戦であった)。この騒動で番付の西側力士がすべて相撲協会から脱退してしまうという事態になったのである。さらに脱退した力士は東側の力士にも勧誘を行い。これに同調した東側力士も多くが脱退してしまう。この結果日本相撲協会には幕内が11名、十両が3名しか関取がいないという危機的状態に陥る。このままでは相撲興行は成り立たず、当初1月14日初日の予定だった一月場所を無期延期として、改めて2月22日に本場所を開催することになった。

 力士の大量脱退の背景には力士の待遇改善要求が強まっていたという事実がある。脱退力士の要求の第一は相撲協会の会計の明確化であり、これは相撲協会の幹部が相撲興業の分配を不平等にしているという疑惑がもたれていたためである。その他にも力士の収入安定や力士協会の設立など力士の生活に関することや、相撲茶屋の廃止など現在でも大相撲の問題点とされることの改革も盛り込まれている。この当時相撲協会は関東大震災による国技館の再建で多くの負債を抱えていながら会計は不明瞭なことが多く、入場料が高く空席が目立ち、なおかつ相撲茶屋の存在などで一般客の増加も見込めない状況であり、脱会力士の建白書は核心を突いている。そしてこれが80年前の出来事であり不祥事が相次いだ現在の日本相撲協会と当時の協会の体質がほとんど変わっていないことに驚かされる。

 話を元に戻すと、2月22日に改めて初日を迎えた本場所であるが、少なくなった人数を埋めるために幕下力士の上位5名をいきなり入幕させるなどで埋め合わせ取り組みを組んだため、様々な椿事が起こる。埋め合わせでも人数は足りずそれまでの東西に分かれた力士の団体戦から一門別の総当たり制に組み替えたが、それでも従来の取り組みは行えず興業は11日から8日に短縮され、このため場所の全収入はそれまでの興業の一日分にも満たなかったと言われている。
 この変則場所で新入幕を果たした関取に、後に69連勝を達成した名横綱双葉山がいる。当時の双葉山は小兵力士で大きく勝ち越すことができず十両の番付からなかなか上に上がれなかったが、この騒動で念願の入幕を果たすことができたのである。また、幕下からいきなり新入幕を果たした5人の関取のうち瓊ノ浦は幕内力士のまま引退したため昭和以降で唯一十両の経験のない幕内力士となっている。

 さて、脱退した力士たちは大日本相撲連盟を結成、相撲協会と別な組織を旗揚げし、相撲協会の本場所に先んじて2月4日に興業を行い、こちらは大成功を納める。事件の耳目を浴びて世間が注目していたところと、力士総当たりのリーグ戦の取り組みが目新しく、その後の興業も成功を収めている。しかし同年5月に前頭筆頭だった出羽ヶ嶽が脱退して相撲協会に帰参すると内部の意見が対立し、翌昭和八年一月に元幕内関取12名らが大日本相撲連盟を脱退、相撲協会に帰参してしまう。残された力士たちは天竜が中心となり翌月に関西角力協会を設立し大阪に本拠を構える。このため相撲協会は大阪と名古屋で行ってきた興業を廃止して年二場所東京のみでの開催とすることになる。この年二場所制は双葉山人気で興業日数が15日に延長されても変わらず、戦後場所数が増えるまで固定だった。

 この後相撲協会は双葉山人気で客足が伸びてゆく。双葉山人気はそれまで東西戦という大味な興業から双葉山という横綱個人の成績が興味の対象となり、双葉山の謙虚かつ優しい人格も相まって力士の個性が世間の注目を浴びることになり、これが力士全体の待遇改善に不完全ながら繋がっていった。
 相撲協会を脱会した力士たちのうち、首領格だった大ノ里や天竜たちの師匠五代目出羽ノ海が指導していた力士像に双葉山はかなり近かったのではないかと個人的には想像してしまう。大ノ里や天竜は組織改革により協会全体を変え力士の待遇改善に繋がるよう模索したが実際には双葉山の人気が個々の力士の待遇改善を多少なりとも成し遂げてしまったことは少し皮肉がかっている。

 関西相撲協会は双葉山人気に押されたことも原因で興業自体も不調となり昭和十二年に解散してしまう。おりしも双葉山の69連勝の最中であった。所属力士は相撲協会に編入されたが、相撲協会脱退当初からの力士はほとんどがこの時引退している。
 脱退の首領だった大ノ里は関西相撲協会解散の翌月に亡くなる。死の直前出羽海部屋に編入された弟子たちに激励の手紙を送るなど温厚で多くの人に慕われた人柄は終生変わらなかった。
 一方の天竜は長命し戦後相撲協会の旧守的な体質が国会で問題になった際に国会に参考人として呼ばれ、春秋園事件から25年を経て自らの考えを主張している。天竜は戦後の栃若時代、柏鵬時代、北の湖・千代の富士時代を見とどけ平成元年、86歳で亡くなる。若貴フィーバーが来るのはその死の数年後のことであった。
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by narutyan9801 | 2013-05-16 09:22 | 妄想(事件・事故) | Comments(0)