鼈の独り言(妄想編)

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マラリア ~蚊が媒介する病原体は元植物プランクトン~

 蚊が媒介する病気は沢山あるが、代表的な病気としては「マラリア」を上げることになるだろう。今回は人類に大きな影響を与えてきたマラリアを考察したい。

 マラリアの語源はイタリア語で「悪い空気」の意味の「mal aria」から来ている。明治期の日本医学会はドイツを模範としたため、ドイツ語の「Malaria」がそのまま病名として日本語に定着している。マラリアは熱帯の病気と思われがちであるが、日本にも古来から「瘧(おこり)」として土着していた病であり、明治期には北海道の屯田兵の間で流行した記録もあり、熱帯地域だけに発生する病気とはいいきれない。

 マラリアは単細胞生物であるマラリア原虫がハマダラカによって媒介、感染する病気である。マラリア原虫を媒介する蚊はハマダラカ属の蚊およそ460種のうち100種類前後が知られており、そのうち40種類ほどが人間に媒介させる要因となっているとみられている。マラリア原虫は元々植物プランクトンであったらしく体内に光合成を行った葉緑素の跡が見つかっている。この元植物プランクトンが何らかの原因で動物の体内に入り込み寄生生活を送るようになったらしい。蚊の唾液から進入した原虫は肝臓の細胞にたどり着き細胞内で分裂を繰り返し、ある程度の数になると肝臓の細胞を突き破って血液中に侵入し、今度は赤血球に侵入してまた分裂→赤血球に取り付くを繰り返すようになる。マラリアに感染すると周期的に発熱を繰り返す症状が現れるが、原虫が赤血球細胞を破壊して外に飛び出す時のショックで発熱が起こる(発熱が周期性ではない種類のマラリアも存在する)数回の発熱後合併症として脳マラリア(マラリア原虫が脳の毛細血管を閉塞してしまう)や黒水症(血液中の赤血球が融解して黒い血尿や黄疸が起こる)を起こして死亡することも多い。助かってもマラリア原虫が体内に残り慢性化して数年後に再発を起こす可能性がある。

 マラリアは19世紀まで根本的な治療法が無く対処療法を行うしかなかったが、特効薬キニーネの発見によりようやく治療法が確立した。このため人工的にマラリアに感染させ、高熱に弱い梅毒トレポーマを死滅させ梅毒治療を行う「マラリア療法」という治療法も編み出され1927年にはこの治療法の発明者ユリウス・ワーグナー=ヤウレックがノーベル生理学賞を受賞している。最も現在ではより安全な抗生物質「ペニシリン」の開発によりマラリア療法は行われていない。

 マラリアは赤血球に寄生する伝染病のため、赤血球に何らかの異常があるとマラリアに対して免疫を持つことがある、鎌状赤血球症は遺伝性の病気で赤血球が鎌状に変形してしまう病気であるが、この赤血球は短時間で壊れてしまうためマラリア原虫が生育できず、この病気の人にマラリアは感染しないと言われている。実は古代エジプトの王ツタンカーメンはこの病気であり、一説に彼はマラリアで死亡したという説があるが、おそらくマラリア以外の原因で死亡したと思われる(現在は足の骨折状況から、この怪我が元で死亡したという説が有力である)

 現在日本では土着のマラリア原虫は存在しないと言われているが、かってはマラリアで命を落とした人々も多かった。歴史上の人物では平清盛が富士川の合戦後にマラリアで急死している。清盛の死で平氏の没落が加速化が進んだのは周知の通りである。
 また太平洋戦争終戦直後、反乱を起こした小園安名大佐は外地で感染したマラリアの再発により人事不詳に陥り反乱は終結、マッカーサーが厚木飛行場に降り立つことになる。歴史の節目で思わぬ影響をマラリアは起こしているのである。
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by narutyan9801 | 2013-04-30 08:51 | 妄想(病気) | Comments(0)

ファラオの呪い ~呪いの真実は「捏造?」~

 1922年11月4日、エジプト、ルクソール近くの古代エジプト第18王朝のファラオ「ツタンカーメン」の墓が発掘され、黄金のマスクを始め数々の副葬品が発掘されている。しかしその発掘後、発掘に携わった人々は次々と奇怪な死を迎えてしまった…。というのが「ファラオの呪い」と呼ばれる「事件」である。今回はこの「ファラオの呪い」の真実を考察したい。

 ツタンカーメンの墓を発見したのはハワード・カーター率いる調査隊で、イギリスの資産家ジョージ・ハーバード(第五代カーナヴォン伯爵、以後カーナヴォン卿と記す)が発掘資金を提供していた。カーナヴォン卿自信もアマチュアながらエジプト考古学の研究家として有名で、彼のツテで多くの研究家がこの探索に参加していた。カーナヴォン卿は1907年からハワード・カーターの発掘調査に経済面や政治的な問題解決(発掘に伴う許可などを取り付けるのに「卿」という立場は有効だったと思われる)に尽力してきた。1917年頃からカーターはツタンカーメンの墓の発見に尽力してきたが、なかなか発見に至らず、カーナヴォン卿とツタンカーメンの墓の発見に関する一切の権利をカーナヴォン卿が得るという条件で一年間の発掘延長の資金を出してもらって発掘を続け、ついに発見に至ったという経緯がある。

 さて、ファラオの呪いであるが、まず墓の入り口に「偉大なるファラオの眠りし墓に触れたものには死の翼が襲いかかるであろう」という警告の文字が記されており、墓を暴いた関係者が次々と呪いで謎の死を遂げたという。しかし入り口には警告の言葉などは記されていなかったというのが事実で、この警告の言葉は完全にでっちあげである。

 次に発掘に携わった人が次々に謎の死を遂げたということであるが、やはり呪いで死に至ったとなれば期間的なリミットを考えねばならないだろう。数十年かかって呪いで死んだとなると自然死と変わらないだろう。発掘から一年以内に死亡した人は実はただ一人、スポンサーのカーナヴォン卿だけである。発掘から五年後まで範囲を広げてみても考古学者のアーサー・メイスが加わるだけで、他の発掘者は皆発掘から10年以上生存している。特に最初に墓の中に入った4人(ハワード・カーター、カーナヴォン卿、アーサー・キャレンダー、カーナヴォン卿の娘イヴリン・ハーバード)のうちイヴリン・ハーバードに至っては1980年まで生存しており主立った発掘関係者26名の平均寿命は70歳を越えている(88歳まで生きた人もいる)のが真相である。

 その他にも「カーターの飼っていたカナリアが発掘の日にコブラに食べられた」とか「カーナヴォン卿の飼っていた犬がカーナヴォン卿の死亡時刻に急死した」という話も伝わるが、いずれも時間的に合わず、事実だった証拠もない噂話の範疇と言える。

 なぜ事実と異なることが世間に吹聴され現在まで「ファラオの呪い」となっているかであるが、一つの仮説にカーナヴォン卿の存在がある。彼はカーターとの協定でツタンカーメンに関する権利を持っていたが、自分の気に入ったマスコミにだけ発見の報をリークしたという話もあり、彼が発見から5ヶ月後に急死しているので彼をよく思わなかったマスコミが「ファラオの呪い」として報じたのが発端とも言われている。彼は確かに急死したが、死因は虫さされの後をひげ剃りの際に傷つけてしまい、そこから最近が体内に入り込んで肺炎を引き起こしたのが原因とされている。今だったらおそらく抗生物質で直る病気だったろうし、カーナヴォン卿は1901年に交通事故で重傷を負い、後遺症に悩まされていた。エジプト考古学に興味を持ったのもイギリスの冬の気候が彼の体質に合わなく転地療養のため冬場エジプトに滞在したのがきっかけであり、普通の人よりも体力や免疫力は弱っていたと思われる。臨終は家族に看取られて亡くなっており「狂気に陥りホテルの一室でファラオのミイラの幻影におびえつつ死亡した」とかはちょっと彼には酷な扱いといえるかもしれない。

 ただ「ファラオの呪い」には不確実要素が一つある。実はツタンカーメンの墓の副葬品のいくつかからはめ込まれた宝石が抜き取られた跡があり、おそらく一回はカーターの発見以前に盗掘されたと言われている。「ファラオの呪い」はカーター以前の盗掘者に向けられた可能性が…、無いでもない…。
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by narutyan9801 | 2013-04-29 09:29 | 妄想(オカルト) | Comments(0)

サンジェルマン伯爵 ~近世ヨーロッパ最大と言われる謎の人物~

 ある時は優雅な紳士、ある時は博識な科学者、ある時は怪しげな錬金術師、ある時は有能な音楽家、ある時は時空を越えるタイムトラベラー、ある時は不老不死の道師、これらすべての顔を持つ人物が実在したら…。現在では間違いなく狂人扱いされるだろう。しかしこれらすべての顔を持つ人物が18世紀には存在したのである。今回は謎の人物「サンジェルマン伯爵」を考察したい。

 サンジェルマン伯爵はスペイン王妃マリー=アンヌ・ド・ヌブールとスペイン貴族メルガル伯爵との私生児といわれているが、この説に確証はない。そもそも「伯爵」号も私称であるといわれている。20代にはイタリアに滞在していたといわれ、その当時の彼に面会した人も存在するが具体的になにをやっていたのかは不明である。その後1749年までロンドンに滞在していたことになっているが、ここでも彼の足跡はほとんど残っておらず、その後12年間も失踪している。彼の足跡が次に明らかになるのは1758年初頭にパリに現れてからである。

 彼の生年は1691年と言われているが、本当のところ定かではない。1758年であれば満で数えて彼は67歳の老人であったはずである。しかし彼に出会った人々は「サンジェルマン伯爵は40代に見えた」と語っている。さらには彼が「20代」の時にイタリアで出会った人物、作曲家のジャン=フィリップ・ラモーやシェルジ伯爵夫人などは40年ぶりに再会したサンジェルマンが昔と変わらない姿だったことに驚嘆している。前回会ったときは20代だったはず人物が40代に見えたのもちょっといかがわしいが…。こうしてパリの社交界でサンジェルマンは評判の人物になり、このツテでフランス国王ルイ15世の知遇を得、空き城だったシャンポール城に自らの研究室を設置する許可を受けている。
 フランス王宮内ではこの得体の知れない人物の出現に反発が起こり、特にルイ15世に仕えていたショワズール公爵はサンジェルマンを失脚させようと道化師を雇いサンジェルマンに変装させ、社交界に出入りさせほら話を吹聴させサンジェルマンを貶めようとする。しかしかえってサンジェルマンの神秘性を高めてしまう結果となりショワズール公の目論見は失敗する。しかし王宮内の反発は強く、結局サンジェルマンは1760年にスパイの嫌疑を受け、フランス王宮を追われることになる。

 フランスを追われたサンジェルマンはフランスの宿敵ドイツ・プロイセン王国に現れ、フリードリヒⅡ世の庇護を受けるがここも一年ほどで辞去し、ヘッセン領主の元で顔料の研究を行う。そしてその地で1784年2月27日に93歳で亡くなったと記録上では記されている。

 ところが、サンジェルマンはその後も幾度か姿を現したという証言がある。ルイ15世が亡くなりルイ16世統治のフランスでは革命前後にサンジェルマンが現れたと複数の人が発言しており、ルイ16世と王妃マリーアントワネットに面会して退位を勧めたとの証言もある。さらにその後エジプト遠征中のナポレオンの前に現れたという話や、南北戦争中のアメリカに現れたとの証言、さらに1939年、ナチスドイツが興味を持っていたチベットでアメリカ人の飛行士がサンジェルマンと名乗る西洋人の僧侶に出会ったとの話もある。

 さて、数世紀に渡って世界中に現れたサンジェルマン伯爵というのはどんな人物だったのだろう。少なくとも18世紀に実在した人物であるというのは確実なようである。ただ、「一人とは限らない」という条件付きであるが…。大胆に推理してみようか。
 まず18世紀初頭にイタリアに現れたサンジェルマン伯爵と中盤にフランスに現れたサンジェルマン伯爵は別人と考えた方が辻褄があいそうである。後者が前者になりすましていると考えれば時間的な疑問点(外見が変わらない)は解決が可能であろう。40年の歳月は記憶の細かい部分が薄れるには十分であるから、服装や髪型を似せて相手の話に合わせれば何とかなる可能性が高い。こうして不老不死の神秘性を備えた「サンジェルマン伯爵」がパリで誕生したと考えるのがもっとも自然であろう。
 舞踏会で執事に「彼は本当に数千年生きているのですか?」と訪ね「お答えできません、なにしろ私は旦那様に仕えて300年しか経っておりませんので」という問答や「自分は不老不死の妙薬とカラス麦しか口にしない」という発言も自らの神秘性を高めるための演技であったと思われる。

 ただ、それにしても分からないのが彼の目的である。彼はルイ15世やフリードリヒ2世など当時のヨーロッパの王侯貴族に接近したが、それほどの見返りは受けていないようである。ルイ15世からシャンポール城の使用許可は受けているが、領地などを受け取ったという具体的な話は伝わっていない。フリードリヒからも同様である。それ以前に彼の出で立ちや膨大な知識を得るためには相当の財産がないと身につけられないと思われるが、そんな財産を持っていてなおかつ各地を流浪し「ペテン師まがい」のことを続けていたのか?その動機がはっきりしない。サンジェルマンの正体の一つの説に「多重スパイ」だったという説がある。確かに社交界に出入りして情報を得るというスパイならあり得そうであるが、フランスでは追放に遭っているようにこれも今一つ確証にかけるような感じがする。
 こんな疑問を感じた人物はほかにもいて、フランス皇帝ナポレオンⅢ世はサンジェルマン伯爵に関する情報を集めていたが、1871年にテュイルリー宮殿の火災の際ほとんどが焼失してしまっている。もしこの資料が残っていれば、サンジェルマン伯爵の正体の一端が見えたかもしれないと思うと残念ではある。

 余談ではあるが、サンジェルマン伯爵の研究家によれば彼は1984年から日本に滞在しているらしい。この翌年、日本はプラザ合意を受けて「バブル景気」が始まっている。この「現在の錬金術」はサンジェルマン伯爵の好奇心を大いに満たしただろう。だがそろそろ日本にも飽きられたころではないだろうか?もし次なる研究のテーマが見つかって旅立つときには、是非一言声をかけてほしいものである。

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サンジェルマン伯爵を描いたとされる肖像画。壮年の男性に見えるが、実年齢ははたして何歳なのだろうか?
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by narutyan9801 | 2013-04-26 09:06 | 妄想(オカルト) | Comments(0)

戦艦スラヴァ ~日露戦争に間に合わなかった旧式露戦艦の奮戦~

 日露戦争の結果、ロシア帝国海軍は所有主力艦のほとんどを喪失する近代海軍が経験したことのない大打撃を被る。その中で完成が間に合わず結果的に喪失を逃れた戦艦が一隻だけあった。このロシア帝国海軍生き残りの戦艦は戦闘能力が尽きるまで祖国の為に戦い抜くことになる。今回はロシア帝国海軍で最後まで戦艦らしい戦闘を行った「スラヴァ」を考察してみたい。

 戦艦「スラヴァ」はボロジノ級戦艦の5番艦として1902年に起工されている。当時ロシア海軍では仮想敵国である日本海軍が40口径30.5cm主砲を搭載する戦艦を六隻整備する計画(いわゆる六六艦隊計画)を実行していたため対抗できる30.5cm主砲搭載の戦艦の建造を急いでいた。しかしボロジノ級最終艦スラヴァの竣工は1905年6月12日、その半月前に日本海海戦でスラヴァの姉妹艦4隻は3隻が沈没、1隻が日本海軍に捕獲され(後の戦艦石見)ロシア帝国海軍は戦艦が一隻しかない状況に陥る。
 さらに1906年にイギリスでドレットノートが竣工するとスラヴァは竣工わずか1年半で「旧式艦」になってしまう。ドレッドノート出現は列強の海軍主力艦の新たなスタートラインといえるもので、むしろロシア帝国海軍にとってはチャンスとなるべきものであったが、ロシア帝国は建艦競争に加われない台所事情があった。元々ロシア帝国は広大な領土を有する国家で、軍備は陸軍主体で行うことが国家として利に叶っていた。また戦艦を必要とした極東地域の情勢も日露戦争後の日本や英国との協商関係樹立で必ずしも軍備によらない形で安定し、対外的に戦艦を建造する熱意が冷めても仕方がない状況となっていた。それでもヨーロッパのパワーバランスから戦艦の建造は細々と行われていたが、建艦能力が低いロシア帝国海軍は弩級戦艦をすぐに建造することができず、ボロジノ級前弩級戦艦の改良型の建造を行うにとどまっていた。そして建造された新造艦も黒海艦隊へ編入されロシア帝国の首都の海の守りであるバルチック艦隊はスラヴァのほか日露戦争の黄海海戦で青島に抑留され戦後返還された戦艦ツェザレーヴィチなど旧式艦が勤めるしかなかった。1912年にようやく新造戦艦アンドレイ・ペルヴォズウォーンヌィイがバルチック艦隊に編入されるが、戦力になるにはほど遠かった。すでにロシア帝国内では革命の機運が高まっており、士気は乱れ訓練もままならない状況になっていたのである。それでも艦歴が古いスラヴァとツェザレーヴィチは高い士気と練度を保つことができた。この状況でロシア帝国は第一次大戦を迎えるのである。

 第一次大戦開戦直後のタンネンベルク会戦でドイツ陸軍に惨敗したロシア帝国陸軍は各地で守勢に周り、バルト海にもドイツ海軍がしばしば侵入を試みるようになる。そして開戦2年目にドイツ海軍はリガ湾に多くの海軍兵力を投入する。これを迎え討ったロシア海軍との間に第一次リガ湾海戦と呼ばれる戦闘が行われる。ドイツ海軍は戦艦7隻からなる強力な艦隊であったが、ロシア海軍は地の利を生かし激しい抵抗を見せ、ドイツ海軍はリガ湾から撤退を余儀なくされる。この戦闘の中核となったのは戦艦スラヴァだった。1915年8月16日にはドイツ戦艦ナッサウ及びポーゼンの二隻の弩級戦艦を相手に奮戦している。ドイツ艦隊撤退後は陸上支援の艦砲射撃や揚陸作戦にも従事しロシア軍のリガ湾防衛の要となっていた。1916年には修理をかねて艦砲の仰角を25度まで上げる改装を行っている。

 1917年にロシアで二月革命が発生、スラヴァは臨時政府の管轄に入り、9月には正式にロシア共和国の所有になる。情勢の変動で多くの旧ロシア帝国海軍艦艇が戦闘不能に陥るがスラヴァは高い士気を維持し続けていた。そして再度リガ湾制圧を目指すドイツ海軍を迎え討つことになる。

 1917年10月ドイツ海軍は再度リガ湾へ突入、スラヴァは僚艦グラジュダーニン(ツェザレーヴィチから改名、ツェザレーヴィチはロシア語で「皇太子」の意味のため)と迎撃を行うが、自国が設置した機雷を避けるため沿岸から離れて航行し沿岸砲台の援護が受けられず、グラジュダーニンからも離れてしまい(グラジュダーニンはこの時機関不調だった)単艦でドイツ艦隊と戦闘を行わざるをえなかった。戦力では圧倒していたドイツ海軍ではあったがなかなか有効な射撃を加えられず、一時ドイツ海軍掃海部隊は撤収を行っている。しかしこの時スラヴァの前部砲塔は故障し、スラヴァは戦力を半減させていた。体制を立て直したドイツ海軍の砲撃は徐々にスラヴァを捉え、スラヴァは退却しつつも残った後部主砲は射撃を続け、スラヴァの高角砲はドイツ軍の爆撃機一機を撃墜している。

 遅れて戦場に現れた戦艦グラジュダーニンとロシアバルト艦隊旗艦の装甲巡洋艦バヤーンはスラヴァの脱出を援護しようと砲撃に加わり、両艦ともドイツ側の砲撃で損傷を受けている。ドイツ海軍は積極的な追撃を避けたため三隻は戦場を脱することができたが、スラヴァの損傷は大きく、浸水のため座礁する危険が生じていた。このためスラヴァ艦長アントーノフ大佐は安全海域でスラヴァを浅瀬に乗り上げ、乗員の脱出を決意、浅瀬への乗り上げに成功したスラヴァから乗員が脱出、その後スラヴァは後部弾薬庫が火災により誘爆を起こし、戦力を完全に喪失する。翌年5月29日除籍。

 スラヴァは日露戦争には間に合わず、第一次大戦ではドイツの新型戦艦多数と戦闘を行わなければならなかった。しかし最後までロシア海軍戦艦として戦ったその勇姿は日本海海戦で沈んだ他の姉妹たち(および日本戦艦となった石見)の分も十分に働いたといえるのではないだろうか。

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by narutyan9801 | 2013-04-25 08:23 | 妄想(軍事) | Comments(0)

熊谷直実 ~悩める鎌倉武士、出家の本当の理由~

 平家物語で語られる平敦盛を討った熊谷直実はこのことにより世の無常を感じ、出家したように描かれている。実際に源平の戦いが終わった後直実は出家するのだが、出家の理由は敦盛を討ったことではなく、もっと世知辛い事情だった。今回はいろいろと苦労した熊谷直実を考察したい。

 熊谷直実は武蔵国大里郡熊谷郷の出身。父の代から熊谷郷を領有したため熊谷を名乗るようになる。その父は早くに他界したため、幼い直実は母に連れられ伯父の久下直光に養われる。保元・平治の乱で源氏側で参戦した後、平氏に仕えている。後に伯父直光の代理で京に上り、朝廷に仕えるが、待遇に不満を持った直実は伯父に無断で役目を辞し、平知盛に仕える。この直実の独断に直光は怒り、後の出家事件の伏線になるのである。

 源頼朝の挙兵の直前、直実は大庭景親の配下として東国に下り石橋山の合戦では平氏方として参戦するが、その後頼朝の関東制圧では源氏方に鞍替えしこの時に父の旧領を安堵される。このこともまた伯父との確執を深める要因となる。

 その後頼朝の弟義経の寄騎となった直実は一ノ谷の合戦に参加、この戦いで直実は義経の鵯越の奇襲に参加しているが、一番乗りを争った平山季重と共に平氏の武者に囲まれ危うく討ち死にするところであった。この際直実の息子直家は負傷している。
 窮地を脱した直実は敗走に移った平氏を追撃し、敦盛を討ち取り「小枝」の笛を送り返すくだりとなる。この事件は直実に世の無常を感じさせることになったには違いないが、直実はその後も合戦に出ており、平氏滅亡まで戦場に赴いている。

 平氏滅亡、鎌倉幕府が成立し戦乱が収まると、直実と伯父直光との領地争いが起こる。争い自体は領地境界の争いであるが、両者の確執は根が深かった。直光から見れば直実は幼少時から縁者として養ってきた経緯があり、一族として遇するべき立場の者であるという認識があり、直実から見れば自らの領地は「鎌倉殿」から戦功を認められ与えられた領地であるとの認識がある。両者の言い分は平行線をたどり、ついには頼朝の前で口頭弁論が行われることになった。直実は口下手で自分の主張を十分に論ずることができず、自然直実が被告のような質問攻めを受けることになる。これを直実は事前に直光が頼朝の周囲(具体的に名前を挙げると梶原景時)に根回しをしたためと合点してしまい、ついには「これ以上なにを言っても無駄なことよ」と現在風に言えば「キレて」しまい、突如自らの髷を切り証拠書類を引き裂くとそのまま出奔してしまう。あまりのプッツンぶりに頼朝以下みなあっけにとられ、叱責することすらできなかったという。ただ、直実の合戦での功が認められたか、それとも直実の言い分が通じたのか、これだけの無礼を働いたものの家督は無事息子の直家に継承されている。

 直実は京に上り浄土宗の開祖法然の元で出家し蓮生と名前を変える。出家はしても気持ちは東国武士の気概を持っていたようである。ある時関白九条兼実の屋敷で師法然の法話が行われたが、蓮生は屋敷内に入れず庭先で聞くことになったが法然の法話は遠くて聞き取れず「こんな差別があるか、ありがたいお話もここまでは声が伝わりませんぞ」と騒ぎ集まった公家たちも閉口したという話が伝わっている。
 法然の元で修行した蓮生は建久6年(1195年)鎌倉に下る。馬に乗って鎌倉に下る際、浄土があるという西方に背を向けるのは失礼と馬の尻の方を向いて東海道を下った法然は鎌倉で頼朝に再会する。あの事件があっても頼朝には恩を感じていたらしく再会の席で感涙しつつも法話を語る蓮生の変わりように人々は驚いたという。頼朝もかっての直実には好意を持っていたらしく、蓮生が退去する際には鎌倉にとどまるよう引き留めたと言われている。関東の各地に寺院を建立した蓮生はいったん京に戻った後、本領の熊谷郷に帰り庵を結ぶ。この庵を結んだ地が現在の熊谷寺となる。この地で蓮生は亡くなるまで念仏三昧の日々を送る。菩提を弔っていたのは手にかけた敦盛だったか、髷を投げつけた頼朝だったか、もしかしたら両者とも弔っていたかもしれない。 
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by narutyan9801 | 2013-04-24 11:23 | 妄想(人物) | Comments(0)

ジェームズ・パーキンソン ~パーキンソン病の発見者でありメガロサウルスの命名者~

 このブログでは何度か取り上げているが、19世紀の地質学はまだ学問的に成立してから時間が浅く、専門の研究者だけでなく、いうなればアマチュアの研究者の活躍の余地が十分あった学問だった。今回取り上げる人物もそんなアマチュア地質学者なのであるが、その人物は生前評価が低く、亡くなって半世紀以上歴史に埋もれた存在であった。現在では知らない人はあまりいないであろう病「パーキンソン病」の発見者、ジェームズ・パーキンソンの知られざる業績について考察したい。

 ジェームス・パーキンソンは1755年生まれ、本業は医者であったが、趣味で地質学も研究していた。彼が受け持った原因不明の患者6名の克明な症状を研究し、これが特定の病気が原因ではないかと考え、この病気を「振戦麻痺(shaking palsy)」と命名し1817年学会に発表する。だが当時の医療技術では人間の脳の状態を把握することは難しく、彼の報告は残念ながら証明することができずに半世紀以上省みられなかったのである。
 パーキンソンの発表から70年以上経過した1888年、フランスのジャン=マルダン・シャルコーが同様の症例を研究中にパーキンソンの論文を発見し、再評価を行ったことにより世に認められるようになったのである。シャルコーは再評価に当たりこの病気の名称を「パーキンソン病」と命名することを提案し了承されている。これは発見者のパーキンソンに敬意を表したことも一因であるが、パーキンソン病は真の「麻痺」は起こらず、またすべての患者に必ずしも振戦(手足の震え)が見られないことも理由とされている。ともかくパーキンソンの業績は彼の死後60年以上(1824年没)経って初めて評価されたのであった。

 そしてパーキンソンのもう一つの業績は「最初の恐竜の命名者」というものである。以前書いた「イグアノドン」の発見の前からイギリスでは大型動物の骨と思われる化石が発見されていた。地質学に興味があったパーキンソンは巨大な歯の化石を入手し、研究を行った結果「巨大な肉食性のトカゲのもの」ではないかとの結論に達し、これを知人の聖職者で地質学者でもあったウィリアム・バックランドに話している。このときパーキンソンが考えていた学名が「メガロサウルス(巨大なトカゲという意味)」というものであった。その後バックランドはこの動物を記載するときにパーキンソンの考えた学名をそのまま使用している。

 メガロサウルスが記載されたのは1824年、パーキンソンが亡くなった年であった。想像になるがパーキンソンは研究の途中で自分の命の限界を感じ、研究をバックランドに託したのではないだろうか。「振戦麻痺」と「メガロサウルス」両方ともパーキンソンが晩年になって手がけた研究で、彼に残された時間は少なすぎた。生前「振戦麻痺」に関しては証明が不十分で評価されなかったが、研究三昧の日々を送った生涯は満ち足りたものではなかったろうか。
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by narutyan9801 | 2013-04-23 09:23 | 妄想(人物) | Comments(0)

メアリー・アニング ~海洋大型爬虫類化石発見のパイオニアは少女~

 中生代、陸上では恐竜が闊歩していた時代に海洋でも大型爬虫類が生息していた。海洋に住んでいた大型爬虫類は恐竜に先んじて化石が発見され、研究が行われている。これら海棲爬虫類の化石を最初に発見したのは12歳の少女だった。今回は海棲爬虫類化石発見で大きな足跡を残した「メアリー・アニング」を考察したい。

 メアリー・アニングは1799年5月21日、イギリス、ドーセット州ライム・リージス村で生まれている。生家は貧しく彼女の父は家具職人の傍ら、化石を採集して観光客に売る副業をしていた。彼女が11歳の時に父親が結核で亡くなると、兄と共に化石の採集、販売を引き継ぐことになる。最初は観光客相手の商売であったが、研究目的に化石を高く買い取ってくれる研究者との取引をするうちに、次第に彼女は化石採集のコツを掴んでゆく。

 彼女の最初の発見は父の死から数ヶ月後であった。一年前彼女の兄がワニに似た動物の頭の骨を発見した地層を嵐の後に訪ねてみると、嵐によって削られた地層から頭骨の主の者と思われる骨が露出しているのを発見する。これが後に「イクチオサウルス」と呼ばれる魚竜の発見であった。
 この骨の発見でメアリーの評判が高まると、彼女の化石採集の能力に目を付けた他の化石採集者が彼女に財政援助を行い、メアリーは家計に左右されることなく化石採集に没頭できるようになる。そしてイクチオサウルスの発見から10年後、彼女は「首長竜」の化石を発見する。こうして二度の巨大海棲爬虫類を発見したメアリーはその後も発掘を続け、イギリスで最初の翼竜の化石を発見するなど、著名な化石ハンターとなってゆくのである。

 メアリーの発見には幸運な要素も確かにある。最初に恐竜「イグアノドン」を発見したギオテン・マンテルはなかなか化石が爬虫類のものと認められず苦労しているが、メアリーの場合は幸運にも全身骨格の状態で発見されたので、分類もすんなりと進んだようである。これはメアリーの住んでいたライム・リージス村付近の地層がジュラ紀にはおそらく酸素の少ない海底だったのだろうと思われる。海底に沈んだ動物の遺体は酸素がほとんど無く分解者もほとんど居ない海底で堆積物に埋まり、全身の骨格が残るという好条件で化石になったと思われる。陸上では大型の腐肉食動物によってバラバラにされ、相当な幸運がないと全身骨格は残らない場合が多い。
 ただ、そうはいってもメアリーの化石発見能力はやはり優れていたと言わざるを得ない。彼女は47歳で亡くなっているが、その生涯で多くの化石を発見している。単純に幸運に恵まれていただけでは無い、おそらく化石発見の経験を積むことによって地層の位置などから化石がある場所を読み取れるようになったのではないだろうか。
 また彼女は分類学者とも比較的良好な関係を持っている。前述のマンテルは分類学者との確執が尾を引き、特にイギリスの分類学者の重鎮、リチャード・オーウェンとの対立は有名であるが、メアリーは生涯の後半にはロンドン地質協会から名誉会員に推されている。これは自分の想像なのであるが、彼女は化石採集が心底「楽しかった」のではなかったかと思う。学問的な興味ももちろんあったのだろうが、古代に生息していた巨大な動物が眠っている。それがどんな姿をしていたか見てみたい。そんな好奇心が彼女を化石採集に駆り立てていた。そんな感じがするのである。
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by narutyan9801 | 2013-04-22 09:45 | 妄想(人物) | Comments(0)

忠犬ハチ公の死

 今から79年前の1934年(昭和9年)の今日4月21日。東京、渋谷駅前に「忠犬ハチ公」の銅像が建てられ、その除幕式が行われている。この時まだ存命中だったハチ公も式に参加し、人間でもまれな生前の銅像建立を経験した希有な犬となったのである。今回は忠犬ハチ公の死について考察したい。

 忠犬ハチ公は1923年(大正12年)11月10日に現在の秋田県大館市で誕生している。生後2ヶ月半で東京帝国大学教授の上野英三郎がペットとして購入、東京に送られている。当時の価格で30円で購入したそうである。世界恐慌などがあって当時の貨幣価値を掴むのは困難だが、東京の大正14年の鰻重が50銭ということからアバウトに換算すると15~20万円といったところであろうか。わざわざ秋田から取り寄せるところから分かるように上野は相当な犬好きで、すでに2匹の犬を飼っていた。そこにハチは貰われていったのである。

 上野はハチを相当可愛がり、ハチ上野に懐いて最寄りの渋谷駅まで見送るなどしていたが、一年ほどで上野は脳溢血で急逝してしまう。ハチは何カ所か住まいを変えるが、二年ほど後上野家に出入りしていた植木職人に貰われてゆく。それからハチの渋谷駅への出迎えが始まったと言われている。
 最初は渋谷駅に現れるハチに悪戯したり、いじめたりした人も居たらしい。ハチが「忠犬」として評判になるのは日本犬保存会初代会長・斎藤弘吉が東京朝日新聞にハチのことを投稿してからである。この投稿が評判になり、日本犬保存会が中心となって募金を行い、銅像が造られることになる。この銅像は初代で、戦時中金属供出のため撤去され、終戦前日の昭和20年8月14日に鋳潰されている。現在の銅像は二代目で昭和23年に造られたものである。

 銅像完成から約一年後の1935年(昭和10年)3月8日早朝、ハチは渋谷川に架かっていた稲荷橋付近で死亡しているのが発見された。有名な犬ということで病理解剖が行われ、その死因が調べられている。
 ハチは重度のフィラリア(犬糸状虫)に寄生されているのが確認されている。犬糸状虫は蚊を中間宿主とする寄生虫で、犬の右心室や肺静脈に寄生する寄生虫である。ハチの場合寄生した虫体が血流により肝臓に達し、閉塞を起こしていた。このため腹膜内に腹水が溜まっており、心臓の機能低下、多臓器不全などを起こしていた可能性が高い。この時の死亡原因はフィラリアによるものとされている。ハチは剥製にされ、さらにハチの内臓はホルマリン保存されることになった。
 平成22年に保存されていたハチの臓器が再検査され、その結果心臓と肺には重度の癌に冒されていたことが判明する。犬の場合癌は皮膚などの体表面に発生することが多く、心臓に悪性腫瘍が発生する例は少ないとのこと、発生する場合はほとんどが老犬(7歳以上)であり、死亡当時11歳だったハチは癌の多発年齢に入っていたことということになるだろうか。平成の検査結果ではハチの死因はフィラリア、癌どちらも死亡に繋がる状態であり、どちらが原因とは特定できないとなっている。

 さらに、解剖の結果、胃の中から焼き鳥の串と思われる木片が数本でてきたとのこと。おそらくハチに焼き鳥を串ごと与えた人が居たのだろう。虐められていたハチも新聞に出てからは食べ物を上げる人も居て、渋谷駅でも寝泊まりを許すようになったと言われている。焼き鳥を串ごとやるのはちょっといただけないが(それ以前に人間の食べ物を与えてはいけないが、昭和初期のお話だからね)晩年のハチ公はそれなりに幸せな「余生」を送れたに違いない。
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by narutyan9801 | 2013-04-21 11:32 | 妄想(生物) | Comments(0)

マシュー・ホプキンス ~魔女狩りを行った「邪悪なる」男~

 近世ヨーロッパで行われた「魔女狩り」。その中でイングランドは比較的魔女狩りの犠牲者は少ない(約1,000人といわれている)が、その内の約3割、約300人が一人の魔女狩りを生業にしている男の手に掛かって命を落としている。今回は魔女狩り人の悪名を現在にまで残している「マシュー・ホプキンス」を考察してみたい。

 マシュー・ホプキンスは1620年、牧師の息子として生まれている。彼は最初弁護士を開業するが、弁護の腕はあまり良くなかったようで生活を成り立たせることができなかったようである。ただ、自説の主張の仕方や法律の知識はのちに魔女狩りに生かされることになる。
 彼が魔女狩りに手を染めるのはたまたま自分の地元でサバトが開かれ、その後の当局の処置を見たことがきっかけと言われている。彼はイングランド東部を政府公認の魔女狩り人と称し地方を巡回、方々で魔女の告発・裁判を行う。当時のイングランドはチャールズ1世のピューリタン弾圧など政治的混乱期にあり、彼が自称した「政府公認の魔女狩り人」は実際に公認されていたかどうかは不明である。

 彼はまず魔女狩りを行う地域にやってくると某が魔女であるという「告発」を受け付ける。告発を受けたものをホプキンスが尋問し「自白」を取り「魔女を証明」して「処刑」を行うというのが彼の魔女裁判の流れである。
 告発される人は村という「コミュニティ」に参加しない、又は出来ない人々が多かった。告発がない場合にはホプキンス自身が告発することも多かったと言われる。
 当時のイングランドでは被疑者に対する拷問は法により禁止されていた。しかし禁止されていたのは「肉体への拷問」であり心理的な拷問は禁止されていなかったのである。ホプキンスは現在で言うところの「不眠責め」眠らせず精神的な不安定状態に置き告発を引き出すなど当時の法律に抵触しない方法を使用して告発された人々を追い込み、自白を強要したと言われている。

 自白を受け次に魔女としての証明を行うが、照明の方法は何種類も存在した。一つの方法としては手足を縛った「魔女」を川に投げ込み、身体が浮けば「聖なる水に拒絶された」と魔女の証拠にされるというものがある。この方法だとたとえ水に沈んで嫌疑が晴れたとしてもほとんど溺死することになり哀れな犠牲者が助かる見込みはほとんどない。また別の方法では魔女は身体の一部に「印」があり、その印の場所は針を刺しても痛みもなく血も流れないとされ、その部分に針を刺してみるという方法もある。これは針に仕掛けがあり、他の部分を刺す針と同じように外見は造ってあるが、「印」の部分を指す針は柄の部分に針が引っ込むように造ってあったと言われている。要するに最初からでっち上げるためだけに「証明」のふりをしていたのである。

 このような酷いやり方が横行できたのは魔女狩りがホプキンス自身だけではく、周囲の有力者にも「利益」があったためと思われる。魔女狩りの資金は周囲の住民に「臨時徴税」を科して集められ、さらに魔女として処刑された者の財産は教会やコミュニティの管轄になったのである。こうしてホプキンスはイングランドを周り、当時の一般庶民の年収の50倍の報酬を得ていたとも言われている。

 しかし、こうしたホプキンスのやり方は次第に反発を受けることになる。次第にホプキンスは信用を失ってゆき、ついには魔女狩り人としての活動も出来なくなる。ホプキンスが魔女狩り人として活動していた期間は三年弱であった。

 魔女狩り人を引退したホプキンスは「魔女の発見」という本を出版する。自分の魔女狩りが正当だったことを主張するための出版であったとも言われているがこの本の出版後ホプキンスの消息は途絶えてしまう。一説には魔女狩りの恨みを受けて自らが行った「水での証明」をさせられて溺死したとも言われているが、実際は結核を患っての病死というのが本当のところらしい。しかし悪知恵の働く彼のことであるから、案外自分は死んだことにしてのうのうと余生を送った可能性も否定できない。彼は歴史の闇に忽然と消えたが、彼が行ったことはおそらく人類が滅びるまで語り継がれるのではないだろうか?



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マシュー・ホプキンスの魔女への尋問風景。上部に「Matthew Hopkins Witch Finder Generall」と書かれている「Witch Finder Generall」は意訳すれば魔女狩り将軍となるか。

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by narutyan9801 | 2013-04-19 09:04 | 妄想(人物) | Comments(0)

ピルトダウン人 ~古代人類研究を迷わせた捏造事件~

 捏造事件、これは実際とは違う事柄を示して人々を騙す事件である。その多くは金銭をだまし取ることを目的とするが、中には名誉欲から事件を起こすことも多い。2000年代の旧石器捏造事件や最近のSTAP細胞捏造事件などがそんな例だろう。今回は緻密に準備され、40年もの間捏造の事実が分からず、人類学に悪影響を与え続けた捏造事件「ピルトダウン人」事件を考察したい。

 事の発端は1909年、イギリスのサセックス州、ピルトダウンで発掘された人類の化石が発端だった。弁護士でアマチュア考古学者であったチャールズ・ドーソンにより発見された頭頂骨と側頭骨が大英博物館のアーサー・スミス・ウッドワード卿の研究室に持ち込まれ、古代人の骨と鑑定される。1911年にウッドワード卿は現地に赴き、ドーソンと共に発掘を行い、後頭骨や下顎骨、石器や古代人類が食べたと思われる獣骨などを発掘し、これらを元にウッドワード卿は発見された古代人を「Eoanthropus dawsoni」の学名を与え発表したのである。

 発見された人骨の頭部は現代人に匹敵する脳容量を持ち、形状もほぼ同じである反面、下顎骨は類人猿を思わせる特徴を多く持っていたが、奥歯の磨耗度から同じ人骨と鑑定され、発達した知能と原始的な顎を持つ「現代人に近づきつつある古代人」として現世人類の最古の祖先と判断されたのである。

 当時すでにドイツでネアンデルタール人、インドネシアでジャワ原人などの化石は発見されていたが、古代人類学はまだ過渡期であり、人間がどのように進化したかはほとんど解明されていなかった。ダーウィンの進化論からまだ半世紀であり「ピルトダウン人」があっさりと人類最古の祖先として認められる知識の空白が十分にあったのである。

 その後化石人類は世界各地で発見されるようになる。1920年に中国で北京原人、南アフリカではアウストラロピテクスが発見され次第に人類の進化の流れが解明されてゆくが人類の進化は早い段階で直立二足歩行が確立し、その後脳の発達が起こったことが分かってくると「ピルトダウン人」の進化の矛盾点が指摘されるようになる。直立二足歩行を行うには頸骨が頭骨のほぼ真下から垂直に近い角度に位置していないと難しいが「ピルトダウン人」の原始的で巨大な顎ではそれは不可能ではないかと疑問を呈されるようになる。しかし「ピルトダウン人」の頭骨は「人類発祥の地がイギリスである」ということの証拠でありなかなか科学的な検証を行う機運は高まらず詳しい検証は第二次大戦後まで待たねばならなかった。

 動物の骨はその死後、周囲からフッ素が入り込み蓄積していく性質がある。骨に含有するフッ素の割合を調べればかなり正確な骨の年代測定ができるフッ素測定法は第二次大戦後に確立され、疑問を呈していた「ピルトダウン人」の年代測定が1950年に行われる。その結果「ピルトダウン人」の骨は古くても1500年前のものと判明する。さらに三年後詳しい調査が行われ、頭骨は現代人のもの、下顎骨はオランウータンの骨を精巧に細工、着色した偽物であることが判明したのである。発見から約40年後に判明した真実は「捏造された偽物」であった。

 偽物と判明した「ピルトダウン人」であるが、誰が何の目的で「偽物」をでっち上げたかについて様々な憶測かなされることになる。まず第一発見者のチャールズ・ドーソンであるが、「自宅で骨を造っていた」などの証言もありり疑惑は否定しようがない。ただ、オランウータンの下顎骨と人類の頭骨は自然に整合することはありえず、学者を騙すには双方の骨の形状に精通しているだけではなく、精巧な研磨技術も必要になる。本業が弁護士で「アマチュア」の考古学者であった彼にそれができたかは疑問である。
 むしろドーソンは被害者で、彼を隠れ蓑にして考古学者の誰かが仕組んだのではないかとの説もあり、こちらの方が説得力がある。イギリスの科学紙「ネイチャー」はウッドワード卿に怨恨があった「マーティン・ヒントン」なる人物が真犯人であったという説を掲載している。科学の新発見を掲載する権威ある「ネイチャー」が推理を展開するのはかなり面白い。
 さらに面白い説としては「シャーロック・ホームズ」の作者、アーサー・コナン・ドイルが真犯人ではとの説もある。元々医者であり、SF小説も手がけ、近隣に住んでいたこともあるドイルが怪しい…。とシャーロック・ホームズは推理したであろうか…。関係者がすべて世を去った現在となってはおそらく真相を解明することはできないだろう。

 現在、ピルトダウンの発見現場には記念碑が残されている。もはや誰にも省みられない記念碑ではあるが、「人類史上に残る捏造事件の犯行現場」としてずっと保存してもらいたいものである。
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by narutyan9801 | 2013-04-18 10:31 | 妄想(事件・事故) | Comments(0)