鼈の独り言(妄想編)

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マラッカのエンリケ ~世界一周を最初に達成したかもしれない男~

 1519年8月10日、スペインのセビリアを出向したフェルディナンド・マゼラン率いる5隻の船団は三年以上の航海の末、一隻のみがスペインに帰りつき、史上最初の世界一周航海に成功する。この帰りついた船「ビクトリア号」に乗船していた18名の船乗り(ほかに航海途中から乗船したものが3人いた)が初めて世界一周を果たしたとなっている。しかし、これより以前に世界一周を果たした、可能性のある人物が存在する。今回はその人物「マラッカのエンリケ」を考察してみたい。

 世界周回に出発する以前のマゼランは、ポルトガル王国の臣下として一度東南アジアに赴任した経験があった。1511年ポルトガルはマレー半島のマラッカを攻略しているが、その前後にエンリケはマゼランの奴隷となっている。奴隷になった経緯はマラッカ攻略の報償として与えられたとも、マゼラン自身が買い取ったとも言われている。エンリケはキリスト教の洗礼を受けており、また頭脳明晰な人物だったようで、ポルトガル語を覚え通訳を勤めるまでになる。マゼランもエンリケには信頼を置き、ポルトガル宮廷を追われスペインに雇われ派遣艦隊の司令官に就任する際にもエンリケを手元に残している。マゼランは艦隊出発に際し遺書を認めているが、自分の死後エンリケは奴隷身分から解放して自由の身となることを保証し、自分の遺産からエンリケに分けるように指示している。当時の奴隷に対する扱いとしては破格で、如何にマゼランがエンリケを信頼していたか、またエンリケがマゼランに忠実に使えていたかが読みとれる。

 艦隊は苦難の航海の末1521年にフィリピンに到達する。そしてレイテ島付近で試しに島の住人にエンリケが母国語であるマレー語で呼びかけると、それに答える住人が住んでいた。さらにリマサワ島では島の酋長がマレー語を解し、マゼランはエンリケを通訳に友好関係を結ぶことに成功する。この「マレー語が通じる所に戻ったことにより、エンリケの世界一周は達成された」と幾人かが主張している。

 ただ、よく考えてみるとエンリケはマゼランの遺書によればマラッカの出身、マゼランの航海に同行した記録者ピガフェッタによればスマトラの出身であり、フィリピンが彼の故郷ではない。彼の見識の高さから奴隷になる以前にフィリピンに行ったことがある可能性は否定できないが、かなり可能性は低いだろう。この時点ではまだ世界一周は完遂されていないとみるべきであろう。

 フィリピン到着から一ヶ月後、マゼランは現在のフィリピン・マクタン島で戦死する。このときエンリケは最後までマゼランに従い、負傷するが艦隊に無事帰還している。しかし主人を失ったエンリケは失望感からか、それとも奴隷身分の解放感からか通訳の仕事を放棄していた。そこに艦隊の指揮を次いだバルボサが「マゼランの遺言は有効ではなくお前は帰国後マゼラン未亡人に仕えることになる」と告げる。さらにセブ島の酋長との交渉を命じた。これに怒ったエンリケはセブ酋長と計り、宴会と称してマゼラン残存艦隊の幹部を誘いだし、謀殺してしまう。これ以降エンリケの事は記録に残っていない。

 残ったマゼラン艦隊は船員の不足により1隻をセブ島に放棄し、二隻で航行を再開、モルッカ諸島にたどり着く、しかしモルッカでさらに一隻が航行不能になり(結局ポルトガルに拿捕される。3人の船員が後にスペインに帰国)最後の一隻が何とかスペインにたどり着く、モルッカ諸島からはポルトガルの勢力範囲で、補給が出来なかったため壊血病が蔓延し、モルッカ出航時に60人居た船員はわずか18人になっていた。このスペインにたどり着いたビクトリア号に乗っていた指揮官エルカーノ、記録係ピガフェッタ達が世界一周を成し遂げた最初の人物となっている。

 さて、エンリケが無事に彼の故国にたどり着いたかどうかであるが、想像になるが彼がマゼラン残存艦隊よりも先に故郷に帰りついたとは考えづらい。彼が奴隷になったマラッカはセブ島からもかなり離れている。当時の東南アジアは貿易ルートも存在していたが、多くが沿岸域を航海する小規模な航海で乗り継ぎながらセブからマラッカまで到達できたとは考えづらい。彼の出身がボルネオであれば多少は可能性が増すが、それでも彼が帰国を選ぶかどうかはわからない。マゼランの遺書によればエンリケは1519年時点で26歳、逆算すると奴隷になった当時は18歳である。十代後半から二十代前半の時代に世界を駆け回った若者が故郷に旅愁を感じるにはまだ早かったのではなかろうか?何より記録が残っていないのだから、世界一周を初めて成し遂げたのはビクトリア号の18人といっていいだろう。

 しかし、セビリア出航の際の記録によれば、マゼラン船団は5隻、総勢265名であった。帰国時には1隻、18名に激減している。帰還率約6.8%。指揮官マゼランをはじめとする大多数の船員は帰れなかった壮絶な航海であった。
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by narutyan9801 | 2013-03-29 09:14 | 妄想(冒険家) | Comments(0)

アルフレート・ヴェーゲナー ~グリーンランドに倒れた大陸移動説の提唱者~

 現在地球上の大陸はユーラシア(ヨーロッパ含む)、アフリカ、オーストラリア、南北アメリカ、南極と分裂しているが、古生代には一つの巨大な大陸があり、それらが分裂したというのが現在の通説である。この「大陸移動説」は二十世紀に入ってから提唱され、1960年代に支持されるようになった比較的新しい学説である。この学説を初めて唱えた人物、アルフレート・ヴェーゲナー、今回は彼を考察してみたい。

 アルフレート・ヴェーゲナーは1880年ドイツ生まれ、彼は本当は気象学者であり、地質学は専門外であった。彼は気球を使った気象観測に才能を発揮し、将来を嘱望された逸材でもある。そんな彼が大陸移動説を唱えたのはあるひらめきからである。
 1910年、彼は世界地図を眺めていて、アフリカ大陸西岸と南アメリカ大陸東岸の形がよく似ていることに気づき、この二つの大陸は元は一つではなかったかと思うようになる。誰でも思いつくような何気ないことであるが、彼には何か確信できるひらめきがあったのかもしれない。彼は専門の気象学、そして古生物学などの資料を基に1912年にドイツ地質学会に「大陸移動説」を発表する。
 ヴェーゲナーの大陸移動説は最初「パンゲア」と名付けた巨大大陸が地球上にあり、それが南北に分裂し、さらに両方の大陸が東西に分裂して現在の大陸の配置になったという学説を唱え、その証拠として氷河の痕跡や、同一の生物が各大陸から化石で発見されている事実を上げている。

 この新説に対し、当時の地質学会は批判的であった。古生物の化石が各大陸から発見されるのは大陸間に「陸地の橋」が形成され、生物が移動した後消失したという「陸橋説」で説明した。なにより地質学者達がヴェーゲナーを追求したのは「大陸を移動させたエネルギーはどこにあるのか?」という点であった。ヴェーゲナーの説は物証は確かにあるが、肝心の「なぜ大陸が移動するのか」という点が説明されていなかったのである。現在ではマントルの対流という原動力が分かっているが、当時の地質学では証明できないものであった。実はヴェーゲナーはマントルの対流について著書で言及している。本来気象学者である彼は対流についての理解はあったはずで、観測機器が発達していれば彼の理論は彼自身が証明できたかもしれない。しかし彼に自身の説を証明させるだけの時間は与えられなかった。

 ヴェーゲナーは自身の「大陸移動説」を証明するためにグリーンランドに目を付ける。大陸が動かなければグリーンランドは地球が誕生してからずっと氷に閉ざされたままで動物が生息できる環境にはならなかったはずである。そのグリーンランドで動物の化石が発見されれば「大陸移動説」の証明に繋がるのではないか?と考えたのである。
 ヴェーゲナーのグリーンランド調査は5回に及んだ。そして5回目の調査中、彼は過労によると思われる心臓発作で急死してしまう。彼の遺体は調査に同行していたイヌイットの手により埋葬されるが、そのイヌイットも後日遭難してしまい、ヴェーゲナーは行方不明扱いとなってしまう。翌年捜索隊がヴェーゲナーの遺体を発見し、改めて埋葬されるが、彼の墓標には「偉大な気象学者」と刻まれ、「大陸移動説」については何も記されなかった。

 ヴェーゲナーの死後30年ほど経った1950年代に大陸移動の原動力がマントルの対流によるものだという仮説が唱えられ、また世界中の岩石に残された地磁気の調査から大陸が移動していたという「説」が「事実」であったということが次第に判明し、ヴェーゲナーの学説が正しかったことが認められるようになる。地下のヴェーゲナーは現在の評価を喜んでいるか、それとも「遅すぎた」と嘆息しているか、ちょっと聞いてみたくなる疑問である。
 ちなみにヴェーゲナーの最期の地、グリーンランドではその後プロガノゲリスという淡水産のカメの化石が発見され、このカメの化石は他の地域からも発見されていることから物的証拠でもヴェーゲナーの説が正しかったことを証明している。 
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by narutyan9801 | 2013-03-28 20:03 | 妄想(冒険家) | Comments(0)

スミロドン 特化しすぎた狩人

 今から約300万年前の南北アメリカ大陸には大型の草食性ほ乳類が多数生息していた。それらを狩る肉食動物も大型化する獲物を捕らえるべく進化し、ある肉食獣の中には犬歯を大きく発達させ、それを用いて大きな獲物を狩るものが現れた。いわゆるサーベルタイガーの仲間である。その仲間でも一番最後に現れたスミロドン、今回はこの雄々しくも哀しい獣を考察してみたい。

 スミロドンは約300万年前から10万年前まで南北アメリカ大陸に生息していた。最初北アメリカ大陸で誕生したスミロドンはパナマ地峡の形成により南アメリカ大陸に進出し、南アメリカに渡ったグループの方が体が大きくなったと言われている。体の特徴はなんといっても発達した犬歯で、最大で24センチにも達している。体長は現在のライオンよりも若干小さめではあるが、犬歯の存在のためか模型などを見るとライオンよりも大きくすら見える。前足と肩は現世のネコ科動物と比較するとよく発達しているが、後ろ足は短く、腰が引けたような歩き方をしていたらしい。現世の動物だとハイエナの歩き方が近いといえる。その体勢のため早く走ることができず、獲物を狩る時は待ち伏せが主体であったと考えられる。
 スミロドンの狩りは待ち伏せた獲物に飛びつき、前足で獲物に抱きつき、犬歯を獲物に突き立て獲物に致命傷を負わせる方法だったと考えられる。突き刺した犬歯の内側はステーキナイフのような鋸状になっており、顎を閉じることにより突き刺した部分から引き裂けるようになっていた。この傷が気管や動脈などの重要組織を損傷させ、獲物を死に至らしめるのであるが、獲物が死ぬまでは時間がかかり、その間に反撃を受けることが多かったらしく、スミロドンの化石には骨折などの怪我をした個体が多く見受けられるという。ちなみに現世のネコ科動物は犬歯を脊髄に打ち込み獲物を即死させることができる。スミロドンがもし脊髄に犬歯を打ち込んでもスミロドンの犬歯は強度が弱く、折れてしまったり根本から抜けてしまったといわれている。

 獲物を倒してもスミロドンは獲物を十分に堪能することができなかった。あまりに巨大な犬歯はスミロドン自身の顎の噛み合わせすら阻害し、スミロドンは完全に上顎と下顎をかみ合わせることができなかったと言われている。そのためスミロドンは内蔵などの柔らかい組織だけを食べ、硬い筋肉などは食べられなかったと思われている。

 スミロドンの犬歯は、自分よりも大型の獲物を捕らえることを可能にすることができた素晴らしい武器ではあった。しかし、その大型の獲物が居なくなっては「諸刃の剣」でもある。約10万年前、地球が寒冷化に向かい、大型の草食動物が絶滅し、生き残った大型草食獣もマンモスのように群を作りスミロドンの狩りに不向きなものとなっていった。そしてオオカミやジャガーなど、環境により適応したライバルたちの出現がスミロドンの衰退に拍車をかける。せめてその牙が大型獣以外も狩れる利便性を兼ね備えていたらスミロドンはより洗練された肉食獣へ進化できたかもしれないが、スミロドンの牙は特化しすぎ、後戻りできない状態まで進んでしまっていたのである。

 北アメリカ大陸、現在のカリフォルニア州には地表にタールが湧きだし、大きな沼となっていたタールピットと呼ばれる地形がある。タールは粘性が高く、多くの動物がここで足を取られ死んでしまい、後年発掘されている。このタールピットで多くのスミロドン(推定2,000体以上)が発見されている。足を取られた動物を狩ろうとして自らも死んでしまったと思われ、そのためか「スミロドンは愚かだった」という説も存在する。
 確かに知能は後から現れた肉食獣には劣っていた点もあっただろう。しかしスミロドンには怪我をして動けなかった仲間に餌を運ぶ「感情」が存在していた(脊髄を損傷したスミロドンがしばらく生存していた化石が発見されている)その感情を考えると「飢餓感」という感情が「危険を察知する」本能を上回ってしまったのではないか?とも感じることができる。「牙」の存在で生き「牙」の存在で滅んでしまったスミロドン。進化の袋小路に陥った動物の姿はどことなく哀愁が漂う。
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by narutyan9801 | 2013-03-27 09:13 | 妄想(生物) | Comments(11)

春分の日 その定義と実態

 昨日3月20日は春分の日でした。たしか一昨年の春分の日は21日だったような…。調べてみると以外と面白い春分の日が見えてくる。今回はそんな春分の日を考察したい。

 天文学で春分は「太陽が春分点を通過した瞬間」となる。黄道の説明がメンドクサいのではしょって言うと「太陽の高さが赤道で天頂にくる瞬間」のことになる。太陽や地球は常に動いているので春分は「瞬間」の現象である。「春分の日」は春分が起こった日のことになる。

 この春分の日、今現在は3月20日と21日が二年ごとに入れ替わる状態になっているが、これは地球の公転と自転が関係している。地球の公転時間は365.242194…と切りのいい数字ではないので春分点に地球が戻ってくる時間は端数の0.242194…だけ遅れてゆく。それを修正するために4年に一度の閏年があり、そこでリセットがかかるので現在のところ20日→20日→21日→21日→20日の繰り返しになっている。だがそれでも誤差は残るので、春分の日になる日の幅は思ったよりも大きい。過去をみると明治から大正にかけては3月22日が春分の日という時代もあったし、先の話になるが今世紀終わりには19日が春分の日という時期も来る。

 年ごとに変わる春分(及び秋分)の日は毎年2月1日に翌年の祝日として閣議決定され、官報で発表される。記念日的な祝日ではなく、天文学に基づいた祝日というのは世界的に見ても珍しいらしい。キリスト教圏の復活祭は春分の日から数えて一番近い満月の日とするが、この場合春分の日は3月21日と固定されているので日本の春分の日とあわせるとずれが生じる可能性がある。ちなみに日本式の春分の日の設定は日本時での日付が基準になるので、時差の関係で春分の日がずれてしまう地域も生じる。

 さて、春分の日は昼と夜の時間が同じになると思われがちだが、いろいろな理由で昼の方が長くなる。
 第一に日の出と日の入りの定義、日の出は太陽が水平線に顔を出した瞬間、日の入りは太陽が水平線に完全に没した瞬間になるので太陽の大きさ分昼が長くなる。
 第二に空気の屈折による見かけと実際の差、空気の屈折により太陽は実際よりも高度が高く見える。このため実際には水平線下の太陽が見えてきてしまう。逆に夕方は水平線に沈んでいるはずの太陽がまだ見えているので昼間の時間が長くなるのである。
 その他、地球の日周視差、春分点からの移動によるずれなども加わり、春分の日は昼間の方が平均で14分長くなる。

 調べてみるとなかなか面白い春分の日であるが、それを芸術の域にまで昇華させたのはマヤ人であろう。マヤ人のチチェン・イッツァのピラミッド「カスティーヨ」では毎年春分・秋分の日にピラミッドの陰で祭られているククルカンの姿が映し出される。マヤ文明では一年の周期が365.2420日と知られていたので、ククルカンの細工もお手のものだったのだろう。一度実物を見てみたいものである。
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by narutyan9801 | 2013-03-21 05:10 | 妄想(天文) | Comments(0)

フローレス島 最も小さいヒト属がかって暮らし、最も大きなクワガタが暮らす島

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 インドネシアのフローレス島は東西に細長い島である。熱帯気候のこの島は様々な生物が生息するが、かってここには身長1mあまりの人類が暮らしていた。他方この島には世界最大のクワガタムシが現在も生息している。そんな不思議なフローレス島を今回は考察してみたい。

 フローレス島で新種のヒト属の骨が発見されたのは2003年、鍾乳洞の中で七体分の骨格、獲物と思われるステゴドン(象の仲間)の骨、石器などが発見された。骨は大きさから最初子供のものと思われていたが、詳細な研究の結果大人の骨と分かり、新種のヒト属ホモ・フローレシエンシス(Homo floresiensis)と命名された。発見された洞窟では再度の調査で新たに右腕部分と下顎骨が発見された。下顎骨は人間の骨の中でも損なわれやすく、体全体のバランスを見るためには重要な骨で、この骨の発見により小型のヒト属であるという説の重要な証拠となっている。

 動物が島に閉じこめられると、体が矮小化することがある。島嶼化と呼ばれる現象で、たとえばフローレス島に生息していたステゴドン象は肩の高さが1.5mほどにまで矮小化していた(マンモスでは肩高1m前後まで矮小化したコビトマンモスという種類が知られている)フローレス人も島に閉じこめられ、矮小化したのだろうか?それとも何らかの要因で大きくなれなかったのだろうか?その原因は未だに解明されていない。
 フローレス人は約12,000年前の火山活動により獲物だったステゴドン共々滅んだと考えられているが、それより以前にフローレス島(当時は陸続きだったと考えられている)には現世人類のホモ・サピエンスも定着していた。現世人類とフローレス人は数万年ほど共存していたと思われる。そして近世までフローレス島には小人が住んでいる伝説が残っている。もしかしたらフローレス人がまだ生き残っているのかもしれないし、共存した人類が記憶の片隅に焼き付けたものが幻を見せているのかもしれない。

 最小の人類が生息していたフローレス島には現在、世界最大のクワガタムシであるギラファノコギリクワガタ最大亜種であるP.g.keisukeiが生息している。亜種名が日本人の名前(ケイスケ)なのは命名者である日本人がご自身のお子さんの名前を亜種名に付けたからである。このギラファノコギリフローレス亜種、最大♂で121mmのものが見つかっている。自分も昔人工繁殖させ100mmオーバーのものを羽化させたことがあるが、120mm越えとなると梅酒を付けるガラス瓶を使わないと羽化不全になりそうなサイズである。

 さらにフローレス島には世界最大のトカゲであるコモドオオトカゲも生息している。こちらは海を泳いでフローレス島に定着したと思われているが、餌の不足により生息頭数が減っているそうである。最小の人類がかって暮らし、世界最大のトカゲとクワガタムシが今も住み続けるフローレス島、その自然がずっと保全されるよう祈りたい。
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by narutyan9801 | 2013-03-20 08:57 | 妄想(生物) | Comments(0)

太平洋戦争が滅ぼした二種類のクイナ

 太平洋戦争では多くの島々が戦場になり、そこに生息する動物たちも戦火に巻き込まれている。今回は戦火に巻き込まれ絶滅してしまったクイナ科の鳥、ウェーククイナとレイサンクイナ、この2種を考察したい。

ウェーククイナ
 ウェーククイナはウェーク島に生息していたクイナの仲間である。ウェーククイナの生息していたウェーク島は1568年にスペイン人によって発見されたものの珊瑚礁で形成された孤島に植民できる余地は無く、無視されることになる。1796年にイギリス人が再発見しウェーク島と命名しているが、ほとんど放置の状態だった。1841年にアメリカ海軍が占領し、極東とアメリカ本土の中継地点として活用し始め、1899年にアメリカ領として正式に併合される。日本との関係が次第に悪化し、ウェーク島は戦略的に重要拠点となるが、島の軍事拠点化は日本を刺激するとの判断から1940年まで見送られ、1941年の日米開戦時にはウェーク島の軍事施設は未完成であった。1941年末激戦の末ウェーク島は日本軍に占領されるが、この時点ではウェーククイナはまだ島内に生息していた。

 ウェーククイナの祖先は遠い昔、絶海の孤島であるウェーク島に渡ってきて定着したものと考えられている。狭い島内に定着したため飛翔能力が退化して飛べなくなっていた。特に外敵がいなかったため警戒心が薄く、人間が近づいても逃げなかったといわれている。

 戦局が日本不利に傾くとウェーククイナの運命が一変する。ウェーク島は奪回作戦を行わず補給を絶たれ封鎖されてしまう。島内に残る日本軍は食料不足に陥り、飛べないウェーククイナが食料として捕獲されることになる。ウェーククイナはなぜか赤い布をちらつかせると寄ってくる習性があり、容易に捕獲できたという。こうして終戦までにウェーククイナは狩り尽くされ、絶滅してしまうことになる。


レイサンクイナ
 レイサンクイナはハワイ諸島のレイサン島に分布していたクイナの仲間である。ウェーククイナと同様島に定着し飛翔能力が失われた飛べない鳥であった。
 レイサン島には1900年代初頭には相当数のレイサンクイナが生息していたが、島でグアノ(鳥の糞や死骸、餌の魚などが堆積したもの、肥料や火薬の原料になる)の採掘が始まると生息環境が破壊され、また島に持ち込まれたウサギが野生化し生息地域を奪われ、1936年頃にレイサン島では絶滅してしまった。だが絶滅前に捕獲されていた個体が北西のミッドウェイ島に放され、そこで繁殖し数を増やしつつあった。

 だが太平洋戦争勃発後、ミッドウェイ島は日米の勢力が激突する重要拠点になる。1942年のミッドウェイ海戦で日米海軍が戦い、引き続きミッドウェイ島は日本に最も近い軍事拠点として活用される。島には潜水艦の前線基地としての機能が求められ、多くの物資が島に運ばれる。その物資の中に島に生息していなかったネズミが紛れ込んでいたのである。
 天敵を持たなかったレイサンクイナはネズミの襲撃に無力だった。またミッドウェイ島は平坦なさほど広くない島で、軍事拠点を設けるためレイサンクイナの生息地域は狭まっていった。結局ミッドウェイ島のレイサンクイナも1944年には絶滅してしまった。


 以上二種は直接戦火が絶滅に至ったわけではないが、戦争の影響で絶滅してしまったクイナである。そしてこの二種と非常によく似た状況に置かれたものの、現在まで生息しているのが「ヤンバルクイナ」である。ヤンバルクイナの生息している沖縄本島も1945年に戦火に巻き込まれたが、幸運なことにヤンバルクイナは現在まで生息している。ただ開発の影響で近い将来の絶滅が危惧されている。ロードハウクイナのように生息数数十羽から持ち直しつつあるクイナも存在するので、ヤンバルクイナが今後も野生で生存しつつけることを願う次第である。
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by narutyan9801 | 2013-03-19 09:10 | 妄想(生物) | Comments(0)

パンスターズ彗星 撮影は厳しいっすね

パンスターズ彗星が近日点を超えて5日、見頃な筈なんですが残念ながら明るくならないですね。
昨日ちょっと観に行ってきたんですが、肉眼では確認できず…。
当てずっぽうに撮影した写真にそれらしいものは写っていたんですが、あまりにもひどい出来なので
公開できるレベルではなく…。
ロケーション的には最高なんですがね。

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普通のコンデジオート手写しで冬の第三角だけでなくオリオン座のベルトまで写せる環境って滅多にないはず。

あと、案外邪魔なのが航空機、南相馬上空は航空路なので結構頻繁に飛行機が飛びます。

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パンスターズ彗星撮影できたよって騙せそうな写真が何度でも撮れます。

今日も天気が良さそうなので、ちょっと挑戦してみます。あんまり期待できないですがね。
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by narutyan9801 | 2013-03-16 09:37 | 写真 | Comments(0)

英国南極横断探検 本隊の顛末

 男たちは南極大陸を目指していた。しかし大陸まで到達しないうちに男たちの乗った船は氷に阻まれ、やがて沈んでしまう。辛くも氷上へ逃れた男たちの運命は…。

 今回は南極横断という冒険を目指し、その途上で遭難した「英国南極横断探検隊」の顛末を考察したい。結構長くなりそうなので二回に分ける予定です。

 1911年12月、南極点に人類史上初めて到達したのはノルウェーの探検家ロアール・アムンゼンであった。極点到達を目指していたイギリスは、北極をアメリカ人に、南極をノルウェー人に先に到達されており雪辱を期していた。当時のイギリスは世界に植民地を所有する世界国家として君臨しており、極地での探検には国家の威信がかかっていたのである。こうして南極大陸を「イギリス国旗が横断する」という壮挙が計画される。

 この「英国南極大陸横断探検隊」の隊長に任命されたのはアーネスト・シャクルトンであった。シャクルトンは過去に二度南極大陸を冒険し、特に二回目の冒険では南極点まであと180キロの地点に到達していた。シャクルトン自身も南極での冒険に意欲を示していた。彼は新聞広告で探検参加を募り、それに応募した人数は5,000人以上に達したという。彼はこの中から56名を選抜し、彼自身が率いる本隊と、南極大陸の反対側から上陸し、補給地点を設営して本隊をサポートするロス海支隊に振り分ける。結果的には両隊とも遭難してしまうのだが、今回は本隊の方の顛末を見ていきたい。

 本隊を載せた船エンデュアランス号はイギリスのプリマスを1914年8月9日に出航している。この一週間前に第一次大戦が勃発しており、本来なら中止の判断をしても良さそうであるが、この時点で第一次大戦の状況を予測できるものはおらず、楽観的な展望で出航してしまったと思える。航海は順調であったが年が改まった1915年1月17日頃から周りを氷に閉ざされ、身動きが取れなくなってしまう。エンデュアランス号は氷に閉ざされたまま西に流され、シャクルトンはこの時点での上陸を断念し船での越冬を決意する。しかし氷は予想もつかない事態を引き起こしてしまう。

 南極に春が訪れた1915年10月、緩み始めた氷がエンデュアランス号にぶつかり徐々に船体が損傷し始めたのである。エンデュアランス号は頑丈な船体をしていたが氷は船を破壊し、船内に浸水が広がってゆく。シャクルトンは船の放棄と出来うる限りの物資の運び出しを命じる。この際一度は放棄されることになったカメラとフィルムが決定を覆し運び出されたことにより多くの貴重な写真が残されることになる。
 一行はとりあえず近くの陸地に避難することにしたが、一つの騒動が起こった。エンデュアランス号には一匹の猫がマスコットとして飼われており、沈む船からは連れ出されたものの、猫を連れての氷上行は不可能とシャクルトンは判断、それに飼い主だった船大工のマクニーシュが猛反対するのである。結局は説得により猫は銃で撃たれ、埋葬されるのであるが、マクニーシュはその後隊長のシャクルトンの命令に従わなくなり、隊員の間でも気まずい雰囲気を作ることになる。
 ともあれ一行は移動を始めたのだが、流氷上は平坦な地形がほとんど無く、犬ぞりの移動はほぼ不可能な状態であった。シャクルトンは氷上の移動を断念し、テントを張ってキャンプを行い、氷が少なくなるのを待つことにし、その間はペンギンやアザラシを捕獲して食いつなぐことにする。付近の獲物を狩り尽くすと犬ぞりの犬が食料となった。残酷なようだが犬ぞりの犬は計画的に食料にしてゆくのはこの当時の冒険では当然のことであった。

 翌年4月9日に氷が緩み、一行は一番近い陸地であるエレファント島に向かう。7日後にエレファント島に上陸したものの、この島は絶海の孤島で周囲を航行する船もなく、シャクルトンはここから改めて救援を呼ぶためにボートに乗って一番近い人が住む島、サウスジョージア島を目指すことを決意する。
 サウスジョージア島はエレファント島から1,500キロ、この距離をわずか7mのボートで航海するのは不可能に近い。さらに周囲の海は船乗りの間で「荒れ狂う60°」と恐れられている海域である。しかしこの島にとどまって発見されるのを待つには何年かかるかわからない。シャクルトンの判断は「船を出す」ことであった。わずかの確率にかけるという判断だったろうが、「食い扶持を減らす」という副次的効果も考慮したかもしれない。
 救援に出発する船に乗る人数は6人、シャクルトン自身が乗り込み、他には優秀な船乗りだったティモシー・マッカーシーとジョン・ヴィンセント、航海士で探検家のトーマス・クリーン、航法はエンデュアランス号の船長だったフランク・ワースリーが務めることになった。残る一人に選ばれたのはハリー・マクニーシュ、猫問題で命令不服従をたびたび起こしてきた本人を敢えてシャクルトンは一行に選んでいる。一般的に考えれば船大工であるマクニーシュはボートに損傷が起きたときの修理要員と思えるが、そもそもぎりぎりの物資しか載せられない小型ボートでは補修用品まで積めたかは疑問である。想像ではあるが、シャクルトンは人間が疎外感を募らせているとついに爆発してしまうことや、島に残ったものの人間関係を考えるとマクニーシュを連れていくことが最善であると思ったのではなかろうか。船に乗っていれば「呉越同舟」という気持ちになれるかもしれないとシャクルトンは経験から感じていたのかもしれない(呉越同舟という言葉は知らないだろうけど)エレファント島には副隊長のフランク・ワイルド以下22人が残った。彼ら全員の望みは7mのボートが1,500キロを航海しサウスジョージア島にたどり着くことだけであった。航海は14日間に及んだが一行は無事にサウスジョージア島に到着、さらに人が住む北岸へ標高2,000mを越える山脈をシャクルトン・クリーン・ワースリーの三人が横断し、ようやく住民と接触することができた。このサウスジョージア島は探検の出発に最後に寄港した地であり、三人は一年半ぶりに戻ってきたことになる。

 エレファント島に残った22人の救助も難航を極めた。サウスジョージア島に到着してわずか3日後には使われていなかった船を借り受け、エレファント島に近づいたが流氷の接近で接岸を断念、一度フォークランド諸島に出向きイギリス政府に援助を求めたが、イギリス本国は第一次大戦で苦戦中であり援助は出来ないと打診、シャクルトンはウルグアイ政府の船、イギリス人から提供された船を使いエレファント島に近づくも救助には失敗、最終的にチリ政府から軍艦の供与を受け、ようやく救助に成功する。シャクルトンがエレファント島をでて4ヶ月後のことであった。

 イギリス本国に帰還した探検隊はイギリス政府から極地探検者に送られる「ポーラーメダル」を授与されるが、その受賞対象からマクニーシュは外されてしまう。シャクルトンは6人での決死行にマクニーシュを連れてゆくといった配慮も見せているが、厳格な彼は規律を乱したマクニーシュを許せなかったのだろう。

 シャクルトンはこれだけの苦難を体験したにも関わらず、新たな南極探検を目指して準備中、サウスジョージア島で心臓発作で急死する。死に際して異郷の地とはいえ思い出の地、サウスジョージア島で人生を終えることに悔いは無かったろう。

 一方のマクニーシュは1925年、ニュージーランドに移住する。彼も南極冒険への想いは生涯忘れられなかったのだろう。せめて終焉の地は南極に近い場所でとの思いだったのかもしれない。マクニーシュは1930年この地で亡くなっている。1958年イギリスはサウスジョージア島の近くの小さな島に「マクニーシュ島」と名付け、彼を偲んでいる。
 2004年にマクニーシュの墓に彼の愛猫「ミセス・チッピー」(雄猫でしたがマクニーシュにいつもくっついていたので「奥さん」にされたそうです)の銅像が造られ、ようやく二人は一緒に眠ることになる。さらにサウスジョージア島を含むサンドイッチ諸島でミセス・チッピーの写真をプリントした切手が発行されている。ミセス・チッピーを肩に載せているのはマクニーシュではなく、探検隊最年少の隊員(実は密航者だった)ブラックボロウ。現在の彼の地ではシャクルトンよりもミセス・チッピーの方が著名なのかもしれない。

 次回は、本隊に劣らない悲劇を迎えたロス海支隊を考察する、予定…。
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by narutyan9801 | 2013-03-15 20:08 | 妄想(冒険家) | Comments(0)

ステラーカイギュウ 滅び去った北の海の優しき巨獣

 その動物は発見からわずか27年で絶滅してしまった。体重10トンを越える巨体を持ちながら、身を守るすべを持たなかった。彼らは仲間意識が強く、傷ついた仲間がいるとそばに寄りそう習性があったという。その優しさが徒となり、ついには人間に狩り尽くされてしまった。その悲劇の動物の名をステラーカイギュウという。今回はこの動物を考察してみたい。

 ステラーカイギュウはジュゴンやマナティと同じ海牛目に属する動物である。ジュゴンやマナティと祖先は同じで、暖かい海でアマモを主食にしていた祖先から、寒冷な海に適応した動物で、ステラーカイギュウは寒冷地適応海牛目の最後の生き残りであった。

 ステラーカイギュウの特徴は歯と前足の指が退化したことにある。ステラーカイギュウの顎の内側は靴底状の板になっており、これと唇で昆布などをちぎって食べていた。咀嚼能力はほとんど無く、丸飲みにした海草は長い消化器官でゆっくりと消化していたらしい。
 さらに特徴的なのが前足の指の退化である。鯨ですら鰭状になった前足に指の骨を残すが、ステラーカイギュウは指の骨が痕跡すら残さず退化してしまい、骨格標本の前足をみると手の甲の骨の先が無く、こん棒のような形状で異様な感じを持つ。これは海洋に適応したというものではなく、むしろステラーカイギュウが陸地から離れられなかった証拠だと思われる。ステラーカイギュウより以前の寒冷地適応海牛目であるピリカカイギュウ、ヤマガタカイギュウなどには指の骨が残っている。最後の種であるステラーカイギュウが指の骨を退化させたのは骨が残ると厄介なことがあったと思われる。ステラーカイギュウの観察記録では彼らはよく岩場にあがって休息しているのが観察されている。おそらく彼らが岩場にあがる際、体重10トンを越える巨体を支えるには指は不要であり、むしろ指を無くしてこん棒のような前足の方が好都合だったのだろう。そしてこれは前足を推進力にしたり舵の役割を必要としない彼らの生態をも表している。彼らはほとんど潜水ができず、常時体の一部の水面から出して生活していたらしい。この「海で生活しながら潜水できない」という彼らの生態が後の悲劇に繋がる。

 ステラーカイギュウはかっては北太平洋に広く分布していた。日本でも北海道、千葉県からステラーカイギュウの化石が発見されている。彼らの生息地域が縮まったのはおそらく氷期と間氷期の海面上昇が起こったことが原因と考えられている。そして人間に発見される頃には現在のベーリング島周辺がステラーカイギュウ最後の生息地になっていた。発見されたときの生息頭数は約2,000頭と言われている。最後の生息地となったベーリング島でも環境は厳しく、流氷に覆われる冬季は餌が採れず、ステラーカイギュウは絶食状態で過ごし、骨が浮き出るまで痩せると記録に残されている。

 そんなステラーカイギュウの最後の生息地に人間がやってきたのは1741年、アラスカ探検を終えたベーリング隊一行だった。ベーリング隊は嵐に遭遇し現在のベーリング島に座礁してしまう。隊員の多くが壊血病を患い、隊長のベーリングを含む半数以上の隊員が死亡するが、生き残った隊員たちは探検に参加していたドイツ人の医師であり動物学者でもあったゲオルグ・ヴィルヘルム・シュテラーの指揮の元難破した船からボートを制作し、島からの脱出に成功、カムチャッカ半島のペトロパブロフスクに生還する。この時隊員たちの命を救ったのがステラーカイギュウであった。ステラーカイギュウ一頭からは3トンもの肉、脂肪、毛皮が採れ、食料や被服、ランプの油などを賄うことが出来た。シュテラー自身もロシアの首都ペテルブルクに帰還途中病死するが、死語遺稿を纏めた手記が発行され、これに自身が観察した巨大な海牛のことが載せられていたため、海牛の名前はシュテラーの名前を冠することになる。しかしその頃当のステラーカイギュウは悲劇に襲われていた。

 捕獲が簡単で大量の肉、皮が得られるステラーカイギュウはすぐさま狩猟のターゲットになる。ステラーカイギュウは岩場で休息していることが多く、たとえ海に逃げても長時間潜水できずすぐに浮いてくるため、しとめるのは容易だったという。しかし死体を運ぶのは容易ではなかったため、猟師はしとめたステラーカイギュウを放置し、海岸に打ち上げられるのを待っていたといわれる。もちろんすべてのステラーカイギュウが打ち上げられるわけはなく、多くのステラーカイギュウの死体はそのまま流されてしまった。またステラーカイギュウは仲間間の絆が強く、仲間が傷つくとその仲間に近寄ってきたといわれ、このため群れ全頭が捕獲されてしまったこともあったという。
 ステラーカイギュウは妊娠期間が長く、出産も一頭だけなので瞬く間に数を減らしてしまう。1768年にベーリングの探検隊に加わっていた隊員の一人が島を訪れ、数頭のステラーカイギュウを殺した記録を最後に、ステラーカイギュウの記録は途絶えてしまう。ステラーカイギュウらしい動物の目撃情報は現在もあるが、体長7mを越える長時間潜水できない巨体動物が数百年間人目につかずに生息しているのは疑わしい。残念ながらステラーカイギュウは発見から27年で狩り尽くされてしまったのである。

 発見時にステラーカイギュウは動物の種としての衰退期にあったことは確かである。さらに人間に狩り尽くされ短時間で絶滅したことは動物史にとっては悲劇だろう。だが当時の猟師たちに絶滅の責任を負わせるのは少々酷な気がする。彼らとしては獲物が居たから狩りをしたにすぎないだろう。今の我々はステラーカイギュウの絶滅までの経緯を知ることができる。現在の地球上では多くの動物が絶滅に瀕している。ステラーカイギュウの絶滅の経緯を知り、それに対処する方法を考えるべきであろう。

 1780年にシュテラーの記録により、ステラーカイギュウに学名(Hydrodamalis gigas)の学名が与えられた。当のステラーカイギュウは絶滅し、発見者のシュテラーも世を去って30年以上過ぎてからのことである。
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by narutyan9801 | 2013-03-13 18:20 | 妄想(生物) | Comments(0)

ニュートンとハレー 同じ時代に出会った二人の科学者

 万有引力の法則の提唱者、アイザック・ニュートンとハレー彗星を発見したエドモント・ハレー。この二人は同時代のイギリスで活躍した人物で、以外とも思える接点がある。お互いの代表的な業績、万有引力の法則とハレー彗星の発見は二人が出会うことがなければ世に出なかった可能性もある。今回はそんな二人の関係を考察したい。

 アイザック・ニュートンは1642年生まれ、ハレーよりも14歳年上になる。偶然だがニュートンの生年にガリレオ・ガリレイが他界している。ニュートンの父親はニュートンが生まれる前に他界し、母親はニュートンが3歳の時に再婚して家を出、祖母に養育されることになる。後に母親の再婚相手も亡くなり、母親は再婚相手との三人の子供を連れて出戻り、こうした複雑な家庭環境がニュートンを気むずかしい性格にしてゆく。学問好きだったニュートンは家業を継がずケンブリッジ大学に入学する。大学では雑務をする代わりに授業料を免除される学生として入学し、このこともあって同級生とは打ち解けなかったと言われる。大学でニュートンはアイザック・バローという師に巡り会い彼の口添えで奨学生となる。ほぼ同時に大学がペストのため休校となりニュートンは故郷に戻り、自分の思想に耽る時間を得ることになる。奨学金を事前に支給されていたこともあり、約1年半の間故郷で自分の時間を過ごしたニュートンはこの時万有引力の法則、微積分法、光のスペクトル解析という自身の業績のほとんどを発見、証明したと言われている。大学に復学後ニュートンはバローの教授職を引き継ぐ。ニュートンの講義は内容が斬新すぎて生徒が付いていけず、講義を開いても生徒が誰も来ないことがたびたびあったと言われる。
 学者としてのニュートンは順風漫歩な道を歩んでいたが、彼は生まれつき猜疑心が強く、他人を信頼できない性格であった。微分積分法の発見は別にライプニッツが全く別個に発見、先に発表していたがニュートンはライプニッツが自分の研究を盗んだと裁判を起こし25年も争うなど人間関係に悩まされることになる。

 一方のハレーは1656年生まれ、生家は裕福な石鹸製造業者であり、1673年にオックスフォード大学に入学している。在学中に太陽系と太陽黒点に関する論文を発表しており、早くから天文学に興味があったことがわかる。
 大学を卒業後南半球の恒星の研究のためセントヘレナ島にわたる。150年後ナポレオンが流された絶海の孤島である。研究を終え1682年に結婚(ちなみにニュートンは一生独身だった)このころハレーは月の観測を中心に研究を行っていたが、重力にも関心を抱いていた。彼の関心はケプラーの法則の物理学的な証明だった。ケプラーの法則では惑星は楕円運動をしているとなっている。これは実際の観測結果から分かったことであるが、ハレーは何らかの法則があるのではないかと思っていた。
 1884年、ハレーは建築家のレン、「フックの法則」の発見者フックと三人で話をする機会を得、この時に「距離の2乗に反比例するような引力を受けて運動する物体の軌道はどうなるか証明できるか」とフックに訪ねるとフックは「証明可能」と答え、証明した計算式を約束の期日まで届けると語ったが、約束をすぎてもそれは届かなかった。ハレーはケンブリッジのニュートンを訪ね同じ質問をしてみたところ即座に「何年か前に説いてある。その物体は楕円軌道を描く」と答える。翌年ニュートンは完全な証明を示し、驚嘆したハレーはこの結果を出版するよう強く進める。あまり乗り気ではなかったニュートンもハレーの説得に応じ、ニュートン学の集大成ともいえる「プリンキピア」が完成する。しかし出版を約束していたイギリス王立協会が資金難で出版できなくなってしまい、お蔵入りすると懸念したハレーが自費出版として刊行し、ニュートンの業績は広く世に知られるようになる。
 しかしケプラーの法則の証明は先に証明可能と言ったフックの反感を買う。フックとニュートンの対立は次第にニュートンの精神を病み(研究していた錬金術の影響で水銀中毒になっていたという説もある。実際後年ニュートンの毛髪からは水銀が検出されている)、彼は数年間閉じこもり気味になりついには学問の道を捨て、教え子から紹介された造幣局長官に就任し精力的な政務を行う。やがて対立者だったフックが亡くなるとフックの次の王立協会会長の地位につき、イギリスだけでなくヨーロッパの学者の重鎮におさまるのである。

 一方のハレーはその後も研究に没頭している。彼は行動の人であったらしく実地に基づいた研究に多くの生家を残している。終身年金の掛け金を年齢に合わせた掛け金にする論文を発表したり、潜水時間を大幅に延長させる潜水樽を考案したり、地球の磁気の観測のため軍艦の艦長になったりしている。そのなかでも一番の功績はやはりハレー彗星の発見だろう。

 1682年ハレーは巨大な彗星を観測したが、過去にケプラーなどが観測した彗星と特徴が似ており、その彗星が76年の周期で現れることからこれらの彗星は同じもので、76年の周期で公転しており、次回の回帰は1757年になると予言している。木星と土星の影響で実際の回帰はハレーの予言よりも遅れたが、ハレー彗星は1758年12月25日にドイツでパリッチュにより回帰が観測されている。奇しくもこの日はニュートンの誕生日でもあった。ハレーの予言の自信には間違いなくニュートンの研究の後押しがあったろう。

 その後ハリーはグリニッチ天文台長に就任するがその天文台の監察委員長はニュートンが勤めていた。またニュートンが会長を務めている王立協会にはハレーも加わっている。想像の話になるが、ハレーはニュートンにとって心許せる存在とまではいえないかもしれないが、学者仲間では一番話せる相手だったのではなかろうか?

 山田風太郎の人間臨終図鑑のニュートンの項にはニュートンが亡くなる半月前にハレーを叱りつけたという話が載っている。出典が何か分からないのが残念だが、この日からニュートンは体調を崩し、ついには息を引き取る。最後の叱責の時、ハレーは苦笑を堪えつつ、長年の友人(?)の小言を聞いていたのではないだろうか。

 ハレーはその後もグリニッチ天文台長を死ぬまで勤め、1742年に85歳で亡くなっている。この年はニュートンの生誕から100年目の年であった。
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by narutyan9801 | 2013-03-12 08:59 | 妄想(人物) | Comments(1)