鼈の独り言(妄想編)

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夫婦添い遂げる虫 シロアリ

 世間ではバレンタインデーも過ぎ、ホワイトデーまで恋のお話は小休止といったところだろうが、この間隙を突いてある昆虫の深く、そして不思議な恋物語を考えたい。

 通常、昆虫の生殖行為は複数回行われることは少ない。多くの昆虫の雄にとって生殖行為は一回だけ、それも選ばれた雄だけに許されることであり、それだけに昆虫の雄は縄張りを持ったり、カラフルな色を纏ったり、力比べをして雌を獲得しようと文字通り命を張ることになる。
 それでは雌の場合はどうかと見てみると、やはり多くの雌も生殖行為に関しては複数回行う種類は少ない。特に単独で生活し社会制を持たない昆虫はほとんどが一回の産卵で生涯を終えてしまい、複数の交尾、産卵を行う昆虫はごく少数である。
 ところで昆虫の中には高度な社会制を持つものも知られている、蟻や蜂では女王を中心とした社会制をもって生活している。これらの昆虫の女王は通常の個体よりも長生きであるが、生殖行為の機会に関してはやはり結婚飛行の際の一度きり(複数の雄との交尾を行うことはある)である。その時交尾で得た雄の精子を、女王は体内に保存し、それを使って産卵を行ってゆく。この精子の保存は高性能で、女王の寿命までは精子の受精能力を保存でき、これによりグループのメンバー供給は女王が健在ならば問題にならないことが多い。

 ところで、高度な社会制を持つ昆虫は蟻や蜂だけではない。それよりも古い時代に誕生した種類でも社会制を持つ昆虫が存在する「シロアリ」である。シロアリは昆虫の系統でもっとも古い「ゴキブリ」に近い昆虫である。実際家の中に入ってくるゴキブリは全体からみるとごく少数派で多くのゴキブリは未だにシロアリと同じく朽ち木や落ち葉を食べて生活している。そしてゴキブリの中でもヨロイモグラゴキブリなどは巣穴を掘り、その中で卵を生み孵った幼虫に餌を運ぶなど、家族単位の社会制を持つことが知られている。こうしたゴキブリの習性を引き継ぎ発展していったのがシロアリであるとも言える。

 ところが、蟻や蜂が発達させた「精子の保存機能」をシロアリは発達させることができなかった。というより発達させなかった。シロアリが取った戦術は「雄も長生きすればいいじゃん」ということ、つまり、シロアリは雄の王アリと雌の女王アリが頂点に君臨する社会を構築させた社会制昆虫なのである。

 この「王アリと女王アリ」の夫婦制をシロアリが選んだのは「精子の保存機能」が発達できなかっただけではない可能性もある。シロアリは外部からの感染に非常に弱く、お互いがグルーミングしあって唾液の殺菌力により感染を防いでいる。シロアリを単独で飼育しても感染を防げず程なく死んでしまうほどである。「ウサギは独りぼっちにすると寂しくて死ぬ」と言われているがこれは迷信、しかし「シロアリは独りぼっちにすると感染症で死ぬ」は事実である。結婚飛行でペアを組んだシロアリの若き王と女王は小さな巣穴を作り、そこでお互いをグルーミングしつつ卵を生み育てるのである。生まれた子供がやがて夫婦の餌やグルーミングを果たすようになり、巣が安定してくるとシロアリの王や女王は生殖に専念するようになる。

 シロアリが蟻や蜂の社会制と違うのはもう一点、王や女王が寿命やアクシデントで死んでしまったとき、それに変わる副王や副女王が存在し、バックアップできるシステムが存在することである。蟻や蜂の社会制では女王にもしものことがあればそのファミリーは社会制を保てず散り散りになってしまう。ミツバチなどでは新女王が群の何割かを引き継ぐ「巣別れ」などで社会制を維持するが、順調な場合でありアクシデントに対処することはできない。人を死に至らしめることもあるオオスズメバチにしても、女王の寿命が尽きてしまえばそのファミリーは霧散し、社会システムを次代に引き継ぐことはできない。この「システムを次代に引き継ぐ」というものでおもしろいお話を最後に一つ。

 日本にすむヤマトシロアリを研究すると、王アリと女王アリの寿命に差があることが分かっってきた。王アリが20~30年も生きるのに対し、女王アリの寿命は7~8年という。女王は自分の死後王アリとファミリーを引き継ぐ新女王を用意するのであるが、これがなんと「未受精の卵から孵った自分のクローン」であるらしい。ヤマトシロアリは単為生殖も可能で、その場合女王アリと同じ遺伝子を持つクローンが新女王となる…。男からみるとちょっと背筋が寒くなるような話であるが、おそらく血族結婚での劣性遺伝子の影響を防ぐ目的があるのではなかろうか?自然の摂理というものは不思議で面白いものである。
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by narutyan9801 | 2013-02-25 09:00 | 妄想(生物) | Comments(0)

昨日の夜空

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 今の時期夜空では一等星が条件によっては七つ同時に見ることができます。ベテルギウス、リゲル、プロキオン、シリウス、アルデバラン、ボルックス、条件によってはカノープス(水平線近くの星なので見ることは難しい)今年は木星も加わって賑やかな星空です。

 そんな星空を撮影。一応木星、レグルス、ベテルギウス、シリウス、そして月が写っているはずですが、目で見えるのは月を除けば木星とシリウスだけですね。拡大してみればリゲルとベテルギウスも見えますが、やっぱりデジイチと天体望遠鏡欲しいな。
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by narutyan9801 | 2013-02-22 20:44 | 写真 | Comments(0)

宥和に賭けた男 ~ネヴィル・チェンバレン~

 近代史を学ぶ際、第二次大戦の勃発は1939年9月3日のイギリス・フランスの対ドイツ宣戦布告からであるとどの教科書にも載っている。事実はその通りであるが、状況によっては勃発が数年遡ることも有り得たと自分は思う。この「開戦が遅れた理由」の中心人物が冒頭で上げたイギリス第60代首相、ネヴィル・チェンバレンである。

 チェンバレンは1869年生まれ。父ジョセフ・チェンバレンは実業家から政界に転じた人物で、父の死後チェンバレンは実業家からバーミンガム市長を経て政治家の道に入る。大蔵大臣などの要職を歴任したチェンバレンは1937年首相の座に就くのである。チェンバレンの政策の特徴は子供や女性の労働時間の規制、有給休暇に関する法制定など労働者の保護政策が多かった。これは父の実業家時代に労働条件を優遇し業績を上げたことを間近で見ていた影響も大きいが、一方ではイギリス経済の停滞も影響していたと思われる。世界恐慌の影響により世界の経済は流通通貨単位のブロック経済化が進んでいた。海外貿易よりも内需により経済活動を維持しようとする政策であるがイギリス国内の需要ではブロック内経済の維持は困難で行き詰まりを見せていた。しかしより大きな影響を受けていたのは海外の植民地を第一次大戦で失っていたドイツである。このとき政権を掌握していたヒトラーはアウトバーンに代表される大規模な公共事業を起こし失業者問題をを一時的にしろ解決したのち積極的な海外進出によりドイツ経済圏を広げ経済問題を解決しようとしていた。

 1935年、再軍備を宣言したドイツは翌年非武装地帯であったラインラントに進駐、隣接するフランスは何も対処せず、イギリスも結局は黙認する。両国の反応に気をよくしたヒトラーは更なる領土獲得を模索する。1938年ヒトラーはオーストリアを併合、さらにチェコスロバキアのズデーテン地方の割譲を要求、一旦はドイツがフランス・イギリスとの戦争を危惧し緊張が解かれるが世論が「チェコスロバキアがドイツの要求を突っぱねた」と反応し、ヒトラーはチェコスロバキアへの圧力を強めてゆく。
 この事態を打開すべくチェンバレンは自らドイツに乗り込みヒトラーと直談判を行うが交渉は難航、イタリアのムッソリーニの仲介によるミュンヘン会談でズデーテン地方の割譲その他が合意に達し、世界大戦の勃発は一旦避けられることになった。

 会談に参加したチェンバレン、フランスのダラティエ、ムッソリーニは戦争を回避した英雄とされ、ヒトラーは軍事的恫喝の有効性に自信を深めていた。一方の当事者のチェコスロバキアは会議に参加すらできず、会議の結果のみチェンバレンから伝え聞くことしかできなかった。そしてこの半年後、残されたチェコスロバキアもドイツその他周辺国に分割併合され、ミュンヘン会談の意義は失われてしまう。さらに1939年9月3日、ポーランドに侵攻したドイツに対しイギリスは宣戦布告、以後6年に及ぶ第二次世界大戦に至るのである。

 チェンバレンの宥和政策は結果としては無に帰すものだった。ただ、第一次大戦から20年もたっておらず、戦争の記憶が生々しく残っており「戦争回避」を念頭に置いた外交を行うことこそがチェンバレンの信念だったろう。チェンバレンの誤算は交渉の相手が「海外領土獲得」に信念を持つ人物で、その真意を何度も顔を合わせたものの見抜けなかったことであろう。
 1939年9月3日のドイツ宣戦布告後、チェンバレンはラジオ演説でドイツへの宣戦布告を英国民に報告し、ドイツと戦争状態なることを告げる。戦争の初期ではドイツとフランス・イギリス間には大きな戦闘は起こらなかった。チェンバレンは密使をドイツに送り交渉を続けるが翌年ドイツがノルウェーを占拠、ノルウェー王室がイギリスに亡命すると本格的戦闘は避けられない事態となり、チェンバレンは首相を辞任、跡を継いだチャーチル内閣は挙国一致内閣としてチェンバレンも枢密院議長として政府に残ることを要請されたが、程なく病のため辞任、バトル・オブブリテンの闘いの中、1940年11月9日に胃癌で亡くなっている。

 チェンバレンの評価はやはり第二次大戦を避けられなかったことで低いままである。しかし第二次大戦の勃発をチェンバレンが避けえたかどうかとなると「No」であろう。ヒトラー自身も述べているが、ラインラント進駐の際フランスの介入があればドイツは撤収せざるをえず、その後の歴史の流れも変わっていたであろう。この時の当事者はフランスであり、チェンバレンにはフランスの出方次第の対応しか術はなかった。ミュンヘン会談時もイギリス・フランスからみれば対岸の火事であり、国民が命を懸けて他国民の危機を救う意識はほとんど無かった。だからこそチェンバレンは会談後戦争回避の英雄とされたのである。現在の評価はやはり不当に低いものではなかろうか?
 最近、イギリスのチェンバレン評価で面白いものを耳にしている。曰く「チェンバレンが一年間戦争を遅らせてくれたため、スピットファイアが間に合いバトル・オブ・ブリテンに勝つことができた」というものである。なるほど。そういう評価もできると感心させられた。スピットファイアを含め、バトル・オブ・ブリテンが好転するところまでをチェンバレンが見届けたかは定かではない。「我有利になりつつあり」ということを知ってから旅立ったものであると思いたい。
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by narutyan9801 | 2013-02-22 04:50 | 妄想(人物) | Comments(0)

彼は登頂を果たしたのだろうか? ~ジョージ・マロリー~

 世界最高峰、エベレスト、その初登頂は1953年5月29日、ニュージーランド出身のエドモンド・ヒラリーとネパール人シェルパテンジン・ノルゲイによって成し遂げられている。しかし、それ以前にエベレスト頂上に「辿り着いたかもしれない」人物が存在する。ジョージ・マロリーである。

 ジョージ・マロリーは1886年生まれ、教師や作家業の傍ら著名な登山家として数々の山に登っていた。彼の残した有名な言葉に、何故エベレストに登るかという問いに「そこに山があるからさ」というものがある。ただ彼を知るものの多くが「彼は言葉を選んで発言するタイプで、彼らしくない言葉だ」と語っている。

 マロリーがエベレストに初めて挑むのは1921年になる。イギリスは地球の両極点到達に敗れ(北極点1909年アメリカ人ピアリー到達、南極点1911年ノルウェー人アムンゼン到達)エベレスト登頂を「第三の極地制覇」と位置付け初登頂に国家の威信を賭けていた。一回目の遠征ははエベレスト周辺の地形の測量や登頂ルートの選定に当てられ、本格的なエベレスト登頂は行われなかったが、マロリーはエベレストそのものに初めて足を踏み入れた西洋人となる。

 1922年に第二次遠征が行われ、エベレスト山頂へのアタックが敢行される。第一次アタックに参加したマロリーは無酸素登頂で8,225mまで到達するが、日没が近づいたため登頂は断念される。第二次アタックにマロリーは参加しなかったが、酸素ボンベを携行したアタック隊は前回マロリーが記録した高さを超え8,321mまで到達する。残念ながら酸素ボンベの不調で第二次アタック隊は登頂を断念、第二次アタック隊の帰還後雪崩の影響で遠征隊は登頂を断念、撤退することを余儀なくされるがエベレスト山頂へはもう一歩という段階まで近づいたと思われた。

 第三次遠征は2年後の1924年に実施された。一回目のアタックは失敗し、1924年6月6日マロリーは弱冠22歳のアンドリュー・アーヴィンと共に頂上アタックを敢行する。途中に設けた二つのキャンプ地を経由し、頂上到着は6月8日を予定していた。頂上到着予定日のその日、二人をサポートする登山家で地質学者のノエル・オデールは最終キャンプで二人を出迎えるべく単身8,230mの最終キャンプを目指していた。途中地質学者らしく化石を発見し大喜びしつつ、雲に覆われた山頂を臨むと、一瞬雲が切れ、二人の姿が確認できたとのちに述べている。これが二人の最後の消息になった。ノエルは最終キャンプに到着し二人を待ちつつ、天候の悪化で二人が最終キャンプを見失う恐れを感じたノエルは口笛を吹いたりしたが二人からの反応は帰ってこなかった。最終キャンプには三人を収容出来る余裕がなかったため、ノエルは後ろ髪を引かれる思いで下のキャンプに下がる。翌朝再び最終キャンプを訪れるが、そこに2人の姿はなかった。ノエルは二人の安否を確かめるべく標高8,500m付近まで探したが(しかも無酸素で)結局二人は見つからず、登頂できたかも不明であった。エベレスト初登頂は第二次大戦での中断もあり、二人の行方不明からおよそ30年後に成し遂げられることになる。

 二人の捜索はその後の頂上アタックと平行して続けられ、1933年には標高8,340m付近で二人のいずれかのピッケル(後にアーヴィンのものと断定)が発見され、少なくともこの地点までは到達していたことが判明した。そして二人が消息を絶ってから約50年後、中国人登山家王洪宝がエベレストの標高8,100m付近で西洋人の遺体を見たと日本の登山隊に語っている。王自身も証言直後に雪崩で死亡してしまい、詳しい場所は分からなかったが後に別の中国人登山家から遺体はエベレスト北壁にあるとの情報が入り、1999年に北壁で調査が行われる。そして5月1日に古い遺体を発見。マフラーに書かれているイニシャルからマロリーの遺体と確認されたのである。実に行方不明から75年ぶりの発見であった。

 マロリーの遺体や衣服は極度の低温と乾燥により驚くほどよく保たれていた。彼の腰にはザイルが巻いてあり、ザイルの付近の彼の皮膚は擦り切れ、出血の跡があった。また彼の額や足には損傷が見られたという。このことから彼は滑落し、その際のの額の損傷で死亡した可能性が高いと思われている。

 彼の遺体の状況から、幾つかのことが推測される。マロリーは雪の照り返しを避けるために登山中はサングラスを付けていたが、彼の遺体からサングラスはポケットに入った状態で発見されている。このことは彼が日差しが弱まった夕方以降に行動していたことを示唆している。また、彼は娘にエベレスト登頂が成功したら妻の写真を山頂に置いてくると語っていたが、その写真は遺体からは発見できなかった。そして現在に至っても山頂から写真は発見されていない。

 二人が登頂できていたかの可否は現在の状況では断定できないのだが、登頂を証明できるかもしれない所持品が未発見のままである。二人は登頂に際してコダックのカメラを所持していたことがわかっており、このカメラにもしかしたら何か残されているかもしれない。また、行方不明のままのアーヴィンの消息を探るべく衛星写真を解析してアーヴィンの所在を探す試みもなされているらしい。

 マロリーの息子、ジョン・マロリーは「父さんは帰ってこなかった。これはやり遂げたと言えないのです」と語っている。この言葉と同じ趣旨の言葉をヒラリー卿、そして植村直己も語っている。マロリーは冒険の一歩先まで足を踏み入れてしまったのかもしれない。

 世界最高峰、エベレスト。2012年現在で216人が登頂中に死亡行方不明となり、150人以上の遺体が回収できていない。エベレストは世界最高峰であると共に、世界最大の墓標でもあるのである。

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発見時のジョージ・マロリーの遺体。遺体はこの後埋葬されている。

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by narutyan9801 | 2013-02-21 05:03 | 妄想(人物) | Comments(0)

海で損をしている山

 さて、問題です。地球で高い山は?

 「エベレスト」または「チョモランマ」ですね。

 では、「エベレストの標高は何m?」

 ちょっと物知りならば「8,848m」って出てきますよね。

 んでは、「どこから測ってエベレストの頂上は8,848mなのか?」

 これも分かりますよね。「海面から測った高さ」です。こちらは正確には「干潮時と満潮時の平均の高さ」が基準になります。この平均の海水面から何m高いかが山の高さになります。富士山だと「3,776m」になりますね。(一応富士山検定3級者)

 んでは、「海がない火星での山の高さは?」と疑問に思いました。火星には太陽系最大の山「オリンポス山」があります。その高さは約27,000mと言われています。これは周囲の平原から山頂までの高さが27,000mであるからだそうです。地球のように海水面という基準がないので周囲との相対的な高さの比較の値を標高にしていることになります。

 この「周囲との相対的な比較標高」であれば、実は地球上でエベレストよりも高い山があるかもしれないのです。

 太平洋の真ん中。ハワイ島にある「マウナ・ケア山」その標高は海抜4205mで富士山よりも高いハワイ諸島最高峰の山で、現在も活動している活火山である(火山の寿命としては晩年に入っている)冬には熱帯気候にも関わらず山頂に雪が積もります。マウナ・ケアとはハワイ語で「白い山」の意味です。

 このマウナ・ケア山、海抜こそ4,205mですが、周囲の海底は水深約6,000mの深さがあり、海底からの相対標高は10,000mを超えます。研究では相対標高は「10,203m」とも言われており、山体自体の高さではエベレストを凌ぐ山になります。地球では海水面が高さの基準になるために損をしてしまった残念な山なのです。

 マウナ・ケア山はあと数十万年で火山としての寿命が尽きます。火星のオリンポス山はひとところで噴火を繰り返し他が故に大きく成長を続けたがのですが、地球ではプレート運動があり、マグマの噴出点からもう少しでずれてしまう(とはいっても数十万年というスパンですが)死火山となったマウナ・ケア山は徐々に浸食され、やがては現在のミッドウェー諸島のような姿となり海底に没することになります。
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by narutyan9801 | 2013-02-20 23:56 | 妄想(その他) | Comments(0)

冥王星 ~分類の変更と発見命名者たちのその後~

 先日の冥王星のお話の続き、後半は冥王星の分類の変化と、関わった人たちのその後のお話など

 1930年2月18日にトンボーにより発見された冥王星ですが、それまでに発見された惑星とは異なった特徴が多く、当初から惑星への分類に疑問を投げかける声もありました。特に既知の惑星が太陽の黄道面に対しほとんど傾かずに公転しているのに対し、冥王星は約17.01度傾いた軌道で公転しているのは際だった特徴でしたが、「最遠の変わった惑星」という解釈で惑星の仲間に入れられ「太陽系第九惑星」となりました。子供の頃「水金地火木土天海冥」と惑星の名前と太陽からの距離を覚えた人も多いでしょう。冥王星は公転の軌道が海王星の内側に入り、一時的に海王星より太陽に近い位置に位置することがあります。最近では1979年から1999年の間、冥王星が海王星の公転軌道の内側に入り「水金地火木土天冥海」となっていました。ちなみにブログ管理者、現在42歳ですが、この文章を打っている現在、人生の半分弱ぐらい冥王星が海王星の軌道の内側に存在したことになります。

 さて、冥王星の発見から約50年後の1978年、冥王星に衛星があることが分かり「カロン」と名付けられます。このカロンの存在が最終的に冥王星を惑星の地位からおろしてしまうことになるのです。

 これからちょっと話がややこしくなるので、簡単に「惑星の定義」を書いておきます。

 惑星は
  1 太陽の周りを回っている
  2 天体自体の自己重力により球体に近い形をしている。
  3 太陽の周りを回る軌道の近くに他の天体が存在しない(自己重力で取り込むか、衛星とするか、軌道周辺から弾きとばしている)

 と定義されています。

 カロンの調査が進むと、冥王星とカロンの関係がそれまでの惑星と衛星の関係を覆す可能性があることが分かってきました。カロンの直径は約1,200Km、冥王星とカロンの質量比は約7:1で、一番の問題は冥王星とカロンの公転の力の中心点が冥王星の外側に位置することでした。惑星と衛星はお互い引っ張り合うことで公転しているのですが、その力が釣り合う地点が惑星の内側にある場合、惑星と衛星と定義されます。これが惑星の外側にでてしまうと惑星と衛星の関係ではなく、連星、または二重惑星となってしまうのではないか?ということになってしまいました。
 冥王星とカロンが連星の関係となると、惑星の定義の3つ目「惑星はその公転軌道にある他の天体を排除した天体である」という定義からは外れてしまいます。しかし惑星の定義は「今までそれからはみ出したものがなかったからこれでいいんでは?」的な決め方でしたから、その定義の意義について論争が起こります。

 カロンが発見されたことで冥王星自体の構成物質も分かってきました。当初冥王星はかなり「重い」星と予想されていたのですが、星を形成するかなりの部分がメタン、窒素、一酸化炭素などの氷で形成されているらしいことが判明しています。冥王星の構成は実は彗星に近いものでした。

 そして観測技術の発達により、冥王星の付近、さらにより遠い所を公転している似たような天体がまだ存在していることも分かってきました。こうした天体が多数存在するのであれば、冥王星は惑星として分類するよりも別なカテゴリーに分類し直すべきではないかとの意見が出されます。冥王星発見者のトンボーはそうした議論が起こってきた1997年に世を去りますが、彼は「冥王星は惑星に分類され続けるべき」と考えていたそうです。

 冥王星をどのように定義するかについて2006年に開催された第26回国際天文学連合総会で議論が交わされました。当初は冥王星に加え冥王星の衛星カロン、火星と木星の間の小惑星帯最大の天体ケレス、21世紀に発見された太陽系外縁天体で冥王星よりやや大きいと見積もられた2003UB313(後にエリスと命名)が惑星と認められ、太陽系惑星が12個になるということが提案されますが、多数の反対意見が出され、ついに8月24日、冥王星は惑星から外され「準惑星」(dwarf planet)に再分類されることになります。この時のニュースは自分も以前管理していた(現在は消滅)ブログに「悲劇」と書いていた記憶があります。

 この「降格」を一番悲しんだのはアメリカの天文学者及び天文ファンでした。冥王星は長く「アメリカ人が発見した唯一の惑星」であり、ある意味誇りでした。冥王星が発見されたその年に誕生したディズニーの「プルート」は冥王星から名前をもらったと言われています。それだけに冥王星の降格は痛恨事だったと言えます。日本でも冥王星の惑星降格は大きな反響を呼び、作品中に多く冥王星を登場させた(宇宙戦艦ヤマトではまだ未発見だった冥王星の月=カロンも登場している)松本零士氏も失望に近い発言をしています。

 一天文ファンに過ぎない自分が冥王星の分類をどうこういうのは分を過ぎていると思いますが、思いを載せておきます。この文の最初の方に載せている「冥王星以外の惑星は太陽の横道面にほぼ水平の軌道で公転している」という一文。この事実は単なる偶然ではないでしょう。これは太陽が形成されたとき、太陽の自転の遠心力で宇宙空間の物質が集まる際遠心力が強く作用する一面が太陽の横道面となり、そこに集まった残存物質が水星から海王星までの各惑星を形成したのだと思います。これからすれば水星から海王星までは太陽の形成が誕生の経緯に繋がったと言え、同じカテゴリーに分類するのは自然ではないでしょうか。

 これに対して冥王星は公転の軌道がかなりずれ、公転も真円からはかなり歪んだ形になっています。これは冥王星が太陽の形成とは別に誕生し、後に太陽の重力に取り込まれて公転するようになったことを示唆しているのではないでしょうか?こう考えると冥王星はやはり惑星は区別すべき天体ということは納得がいきます。ただ、似たような存在のエリス、マケマケ、ハウメアと同類になるのは理解できますが、小惑星帯に存在ずるケレスと軌道や形状の類移点だけで一緒のカテゴリに分類されるのは疑問です。このためにもやはり探査機による調査が必要だと思います。

 実はNASAの探査機ボイジャー1号は木星の観測を終えた後、スイングバイの調整により冥王星へ向かうことも可能でした。しかしNASAは軌道調整が失敗した時や、運用が長期間になるリスクを考え、ボイジャー1号を木星の衛星タイタンへ接近させ、冥王星の接近調査はキャンセルします。もしこの接近調査が行われていたら、様々な観測結果が得られ、惑星問題も早くに決着が付いていたかもしれません。現在ボイジャーの後継機種とも言える「ニュー・ホライズンズ」が冥王星へ向けて航行中です。2015年に冥王星へ接近し観測を行うこの機体には、冥王星の発見者グライト・トンボーの遺灰も乗せられています。もし将来「ニュー・ホライズンズ」が地球外生命体に回収されたとき、その生命体は地球人の死生感について何らかの感想をもつかもしれません。

 最後に、2006年の冥王星の準惑星への定義が決定する直前、冥王星発見・命名に関わった人々で唯一存命していた「Pulto」の命名者ヴェネチア・バーニー・フェアは高まる議論に対し「私は議論に加わることはもう無理、しかし私自身は冥王星は惑星のままであることを望んでいます」と語っています。彼女は冥王星の分類変更の顛末を見届け2009年に亡くなっています。彼女にとっておそらく分類の議論など馬鹿げていたでしょう。人類が一つの星を発見し、それにふさわしい名前をつけれる文化と歴史があったこと、おそらく「Pulto」「冥王星」は人類が存在する限り永遠に使われ続けつでしょう。それだけで十分かもしれません。その一方でやっぱり冥王星をよく知りたいという欲求も人類共通のものだと思います。人間とは本当に欲張りな生き物なのですね。
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by narutyan9801 | 2013-02-20 09:16 | 妄想(天文) | Comments(0)

冥王星 ~発見から命名まで~

 今日も興が乗ったので、本日は夜空のお話をひとつ

 これがブログに乗る頃は日付が変わってしまっていると思いますが、本日2月18日は「冥王星」が発見された日です。20世紀になってからの発見、発見後の遍歴などなかなか興味をそそられるお星様です。

 冥王星は実際の発見よりもそれ以前に発見されていた海王星の軌道計算と観測記録による実際の軌道とのずれにより存在が予想され、何人かの天文学者が未知の天体の発見を目指していた。そのうちの一人、パーシヴァル・ローウェルは自ら天文台を設立、未知の天体発見に熱意を燃やしていた。ローウェル天文台の観測で、遠方の銀河か地球から遠ざかっていくことが分かる(宇宙膨張論の物理的証拠となり、冥王星発見よりも意義は大きいかもしれない)など多くの発見があったが未知の天体の発見を待たずしてローウェルは1916年に亡くなっている。

 未知の天体発見の意志はローウェルの弟子、グライト・トンボーに託される。トンボーの天体発見の手法は同じ位置を撮影した二枚の写真を比べ、その写真に写っている星に変化があるか比べるというものであった。遠距離の恒星は数週間のスパンではほとんど位置的な変化はないものの、太陽の周りを回る天体は数週間で位置が変わり、この変化を目で確認していくという根気のいる作業である。そうした地道な作業の末、1930年2月18日、トンボーは1月23日と1月29日に撮影された写真を見比べ、動きのある天体を発見する。トンボーは発見の確証を得るため過去に撮影した写真を検証後、同年3月13日にハーバード大学天文台へ未知の天体発見の報告を電報で行っている。このため発見の日にちは定義によって変わるのだが、一般的には2月18日が冥王星発見の日とされている。

 冥王星発見には多くの「偶然」が含まれている。冥王星発見はローウェルが生前予測した位置を重点的に調査した成果からであった。発見された冥王星はローウェルの予想とほぼ同じ位置ではあったが、のちの調査で冥王星の大きさは海王星の軌道のずれを起こすには小さすぎたのが分かる。この原因は海王星の実際の質量の見積もりが違っており、軌道計算が根本的に誤っていたためであり、冥王星がローウェルの予想とほぼ同じ所にあったのは全くの偶然であった。この偶然はもしかしたらローウェルの執念が生み出したものかもしれない。

 発見された天体の命名権はローウェル天文台、及びその所長であったヴェスト・スライファーにあったがなかなか妙案が浮かばなかった。太陽系惑星及びその衛生の多くがギリシャ神話やローマ神話の神の名前をとっているが、アメリカではあまりギリシャ・ローマ神話に馴染みがなく、ヨーロッパ系の天文学者の支持を得られる名前をつけることは容易ではなかったようである。命名者となったのは当時11歳だったイギリス人、ヴェネチア・バーニー・フェアである。天文学と神話に興味があった彼女はオックスフォード大学図書館で司書をつとめたことのある祖父に新発見天体の名前をローマ神話の冥府の神の名「Pluto」と提案、発見者のトンボーも「Pluto」の頭2文字が恩師パーシヴァル・ローウェルのイニシャルと一致することから気に入り、「Pluto」が正式名称になる。ちなみに日本語の「冥王星」は英文学者であり、天文民族学の創始者でもある野尻抱影が発見から半年後、雑誌「科学画報」に発表し定着したものである。読み方は様々だが東アジアでの表記はほとんどが「冥王星」の使用言語にあわせた表記になっている。肉眼で見えていた星と違い、直接目で見ることのできない星の名前は命名されたものがそのまま伝わるからかもしれないが、「冥王星」という独特の響きが印象をあたえるのではないかな、とも思えるのである。

 発見及び命名で長くなっちゃったので、この続きはまた
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by narutyan9801 | 2013-02-19 08:45 | 妄想(天文) | Comments(0)

2月17日の気象歳時記

 今日も興が乗ったので、気象に関する妄想を。

 この投稿が終わる頃には日付も変わってしまっているだろうが、2月17日は稀な気象現象が観測された日である。

 ※沖縄に雪が降った日 1977年2月17日
 近代的な気象観測が始まって唯一の沖縄県内での降雪が1977年2月17日、沖縄の久米島で観測されている。琉球王朝時代は沖縄でも稀に雪が降ったことが記録されており、久米島や伊平屋島では積雪があったことも記録されているが、気象庁の公式記録ではこの日が沖縄県内で唯一の降雪記録である。この時の降雪は実際には霙であったが、気象庁の記録では霙も「降雪」と記録されるとのことである。久米島の観測史上最低温度は1963年1月20日に観測された摂氏2.9℃、この気温ならば気象条件によっては雪が降ることは十分に考えられる。温暖化が進む中、また雪が降るか興味深いところですが。

 PS 2016年1月24日に沖縄本島の名護市で霙が観測されている。沖縄本島で降雪が観測されたのは初めてとなる。同じ日に久米島でも39年ぶりに霙が観測されている。このため1977年の降雪が唯一の記録ではなくなった。
 
 ※日本での観測史上最低温度を記録した?日 1978年2月17日
 この日、北海道幌加内町母子里の北海道大学雨竜演習林内の観測所で、水銀柱温度計で-41.2℃、デジタル式の温度計で-44.8℃が観測された。もしデジタル温度計の温度が正確であれば、現在の日本国内で観測された史上最低気温になる。しかしデジタル温度計は補正が必要なため、デジタル温度計の観測データは参考値とされ、正式なデータとはならない。また、気象庁の公式データは「気象庁の職員が観測したデータ」でなければならず、こちらも気象庁の公式データでは参考記録扱いとなる。この他にも美深町で1931年1月27日に-41.5℃(委託職員が観測)個人の観測記録では名寄市で1953年1月3日に-45.0℃という記録もあるが、気象庁の公式記録では1902年1月25日に旭川市で観測された-41.0℃が日本での観測史上最低温度を記録した日である。
 因みにこの気象庁観測最低記録が観測された日を含む1902年1月23日から27日にかけて青森県八甲田山で雪中行軍訓練が実施され、多数の凍死者を出している。気象条件だけが原因ではないが、巡り合わせの不運というものを感じずにはいられない。
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by narutyan9801 | 2013-02-18 00:38 | 季節 | Comments(0)

アル・カポネとエリオット・ネス 最後の会話

 今日も興が乗ったので妄想を一つ書いてみよう。

 アル・カポネとエリオット・ネス、映画「アンタッチャブル」でケヴィン・コスナーとロバート・デ・ニーロの両名優が魅力的な二人を演じているのを知っている人も多いだろう(余談ではあるが管理者は携帯の着信音を数年間アンタッチャブルのテーマ曲にしていた)映画の終盤デ・ニーロ演じるカポネが陪審員の有罪の評決に激昂し、そこにコスナー演じるネスが高らかに勝利宣告するシーンは印象的だが、こちらは映画の脚色で、二人の最後の会話はまったく違った形で交わされていたのである。映画のような派手さはないものの、こちらもなかなか印象的な話である。

 カポネの有罪の評決は、映画と同じように買収された陪審員を入れ替えられての評決であった。ただし、買収が分かったのはネスの活躍ではなくカポネの部下の密告からである。カポネ側は買収という最終手段があるため弁護に手を抜いていたらしく、後に状況を再現した模擬審判ではカポネ側が無罪を勝ち取っている。

 有罪の判決を聞いたカポネは、激昂しそうな感情を抑え表面上は冷静さを保ったといわれている。彼にはまだ再審請求により審議をやり直せるという望みがあったからかもしれない。しかし1932年5月2日に再審請求が却下されると彼は観念する。翌日カポネはアトランタ刑務所に向かうが、その途中でネスと出会うのである。

 この出会いは偶然ではなく、有罪が確定したカポネの姿を確かめようとネスが出向いたといわれている。二人はお互いの姿を認めると少し立ち話を交わしたという。映画のようなつかみ合い寸前の様なことはなく、静かな会話だったらしい。この会話ののち、二人が出会うことはなかったのである。

 カポネはアトランタ刑務所、後にアルカトラズ刑務所に収監される。刑務所ではギャングのボスだった面影は消え失せ、従順な囚人として過ごしている。囚人のストライキにも参加せず、他の囚人の恨みを買いハサミで刺されるなどのトラブルに巻き込まれたりもしたが、まず模範囚といえる囚人だったという。しかし次第に彼の言動は常軌を逸してくる。彼は梅毒を患っており、脳が病に冒されていったのである。1939年にカポネは出獄するが、病魔におかされた彼が暗黒街に帰ることはなかった。フロリダに移住したカポネは梅毒治療のため民間人として初めてペニシリンを投与されるなど治療につとめたが1947年1月25日に息を引き取った。晩年の彼は病魔に冒されたものの家族と過ごし、日本風に言えば畳の上で死ねたことに関しては望外の幸せではなかったろうか?

 一方のエリオット・ネスのその後であるが、彼はカポネ収監後FBIに入ることを望んだが採用されなかった。一説にはFBI長官フーバーがFBIが逮捕できなかったカポネを捕らえたネスに嫉妬したとも言われているが定かではない。FBIに入れなかったネスはクリーブランド公共治安本部長の職に就く。ここでも違法クラブ摘発などに辣腕を振るうが、事件を未然に防ぐという名目でスラム街を破壊するなど強引な手法に批判を受けるようになる。

 私生活では1938年に妻と離婚し、その年のうちに別の女性と結婚するなどこちらも落ち着かない日々を過ごしていたが、数年後とんでもないスギャンダルを起こしてしまう。1942年、ネスは酒気帯びの状態で車を運転し、当て逃げ事故を起こしてしまう。かって禁酒法時代に酒を取り締まった捜査官が酒で事故を起こしてしまったのである。

 この事故の一件でネスは公共治安本部長を辞任、民間の警備会社の会長職に収まる。今で言う天下りだが敏腕捜査官の天下り先としてはやはり不釣り合いな感じがする。1947年にクリーブランド市長に立候補するが、対立候補よりも潤沢な資金を集めながら二倍の大差をつけられての惨敗であった

 1956年会長職を解任されたネスにカポネの逮捕に至るまでを出版しようという話が持ちかけられる。本の題名は「アンタッチャブル」(The Untouchables)になるが、本の出版直前にネスは心臓発作で倒れ、帰らぬ人となり、出版を見届けることはできなかった。

 ギャングのボスから転落したものの、最後は家族に看取られたアル・カポネ、功績に比べれば不遇ともいえる人生を送ったエリオット・ネス。あの世で二人が会話を交わすとしたらどんなことを話すだろうか?興味は尽きない。
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by narutyan9801 | 2013-02-15 02:15 | 妄想(人物) | Comments(0)

フランツ・シュミット ~ある死刑執行人の生涯~

 今日も興が乗ったので膨らんだ妄想を一つ書いてみよう。

 死刑執行人…、非常に陰湿な感じのする職業名である。事実古い時代この職業は差別の対象となり、代々特定の一族が受け継ぐ世襲制であることも多かった。日本でも歴代の「山田浅右衛門」が死刑執行を勤めているのは有名である(ただし日本刀での斬首は技量を必要とするので、実子が跡を継げないと当代浅右衛門が判断した場合弟子に継がせていた。実子が山田浅右衛門を継いだことは一度しかない)その裏で死刑執行人は人の命を絶つ職業であり、人体に精通していなければ勤まらない職業で死刑執行人は医業を副業とするもいた。また執行後の遺体は執行人の「もの」とされることも多く、それを販売することによって収入を得ることも多かった。日本でも「解体新書」を発行した杉田玄白、前野良沢が見学した解剖の被験者は刑死した罪人であった。このように経済面では恵まれていた死刑執行人ではあるが忌み嫌われる職業であることには変わりはなく、当時死刑囚が処女である場合、死刑執行人の求婚を受け入れることで刑を免れる免罪手段を拒否し執行を選ぶ人も少なくなかったという。

 16世紀後半にドイツ・ニュルンベルグにフランツ・シュミットという死刑執行人がいた。彼は父から執行人を引き継いだが、見識の高い人物で執行人を勤めている間は手元が狂うということでいっさい酒を口にしなかった。ある時彼の義弟が罪を犯し、車裂きの刑に処せられることになった。車裂きの刑は色々とやり方があるが、この処刑では車輪で罪人の身体を砕いていくという苦痛を伴うものが採用され、状況を考慮した執行官は「二回で死なせていい」と伝えたが、フランツは31回で義弟を絶命させている。当時死刑は公開され、民衆は死刑を見学することができた。私情で死刑を簡単にすませてはいけないというプロ意識が彼にはあったのだろう。
 当時ヨーロッパでは魔女狩りが盛んに行われていた。ニュルンベルグでも魔女として告発され、死刑を執行されようとする人々がおり、執行人として裁判の調書に目を通していたフランツはある疑問を感じた。調書は皆一様に自分を魔女と告白しているが、議論や経緯などが一切書かれていない、捏造なのではないか?そう思ったフランツは刑の執行の中止を要請する。当時死刑執行人の給与は歩合制で、死刑の執行がなければ収入を得ることができない。それでも刑の執行中止を要請するフランツの意見は聞くべきものがあるという判断、そして何よりフランツの人格が執行官にも認められていたのだろう。ニュルンベルグの魔女裁判は審議が差し戻され、遂には死刑の執行が中止された。のみならず不当な告発をしたものが鞭打ちの刑に処せられている。この結果ニュルンベルグは魔女裁判で刑死者が出なかった都市として歴史に名を残すことになるのである。

 フランツは67歳で死刑執行人を引退、息子に後を譲り自身は死刑執行人の経験を生かして外科医となり1635年85歳で亡くなっている。彼は自分が関わったすべての刑について詳細な記録、そして日記を残している。それは死刑執行人として自分が殺めてしまった人々を後世の人々に知ってもらいたいという気持ちからなのだろうか?
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by narutyan9801 | 2013-02-14 01:35 | 妄想(人物) | Comments(0)