鼈の独り言(妄想編)

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カテゴリ:妄想(人物)( 47 )

管仲 ~斉の桓公を覇者にした男~

 「水魚の交わり」という言葉がある。三国志で諸葛亮を迎え日ごとに親密になる劉備に不安を覚えた劉備の義兄弟関羽・張飛が劉備に不満を述べた際に劉備が口にした言葉が元になっていると言われている。中国において魚は多産の故男性の隠語として用いられることが多く、水と魚の仲は男女の仲であり、自分と義兄弟の仲には何も問題ないというのが水魚の交わりと言う言葉の持つ本当の意味であるが次第に意味合いが変化し現在では主従の親密さを表す言葉の意味も持っている。しかし人間の間柄というものは面白いもので主従の間が親密ではなくても大きな功績を残せる場合も多い。今回は以前取り上げた「斉の桓公」を覇者にした人物、管仲を考察したい。

 管仲は滁州(現在の安徽省滁州市)の出身、生年は詳しくは分かっていないが桓公より若干年上と思われる。生家は貧しかったが学問に秀でていた。若い頃に鮑叔と知り合い親密な仲となってゆく。後に管仲自身が述懐したところによると人生様々な岐路で鮑叔は管仲の為を思い管仲を立てることを第一に考えてくれた。鮑叔は自分の父母以上に私のことを理解してくれていたと語っている。やがて二人は斉に入り管仲は公子小白(後の桓公)鮑叔は公子糾に仕えることになるが二人の友情は変わらなかった。
 二人の公子と管仲・鮑叔の斉公を巡ってのいきさつは「斉の桓公」で述べた通りである。しかし鮑叔の取りなしで管仲を宰相に抜擢した桓公ではあったが管仲に対しては含むところがあったように見受ける。

 桓公の逸話にこのような話がある。
{桓公が家臣から詰問を受けると常に「それは管仲に聞け」と答えるので、ある家臣(宮中に侍らせた道化とも言われる)が「君主は楽ですね。すべて管仲任せで済むんですから」というと桓公は「あいつを宰相にするまでは苦労したのだから宰相にしたあとは楽をしてもいいだろう」と答えたという}
 聴きようによっては管仲に信頼を置いているようにもとらえ得るがどうも桓公と管仲の間にはしこりが最後まで残っていたように思える。桓公にとってみれば管仲は一度は自分を殺そうとした人物でありやはり「水魚の交わり」という訳にはいかず、それを管仲も感じ取っていたのではないだろうか?後年周王が管仲の功績を称え上卿に迎えようとしたが管仲が固持したのももしかしたら桓公との間を考えてのことかもしれない。

 しかし「水魚の交わり」というものにも弊害がある。劉備と諸葛亮の間でも国家戦略に背く劉備の私怨ともいえる夷陵の戦いを諸葛亮は防止することはできなかった。個人的な親密さは国家運営という点では弊害も生じる可能性があるのである。
 管仲が宰相に抜擢され最初に託された仕事は内政改革を断行することにあった。斉は始祖である太公望呂尚が封じられた際には民心を安定させることを優先し国内政策はかなり旧来のやり方を取り入れていたのである。塩の専売法など優れた点もあったが国内産業は伸び悩んでおり内乱での混乱がそれに拍車をかけていた状況であった。管仲は斉の国内の行政区を21に分割しその土地土地にあった産業の育成に取り組むよう行政整備を行う。併せて法の整備、賞罰の厳格化、住民の相互監視など厳しい統治も行っている。この改革が平和が保たれていた状態で断行されていたら怨嗟の声も上がったろうが混乱した斉にはこうした劇薬での治療が最も効果的だった。この改革で急速に国力を回復した斉は国内が安定すると積極的な外交活動を行う。鮑叔が言ったとおり管仲でなければなし得なかったことであったろう。しかし桓公はしばしば他の諸侯や周王朝をないがしろにした行動をとろうとする悪い癖があった。そんなとき管仲の意識は桓公その人よりも斉の国益の方に常に向けられており心証が悪くなるような讒言も時には厭わなかった。そして桓公も多少は疎ましく思いながらも管仲の讒言に正当性を見いだして従っていたのではないだろうか。私的な好意を加えないからこそ桓公と管仲は覇道の道を歩めたのだと個人的には考えている。

 宰相として桓公を補佐して約四十年、管仲は紀元前645年に亡くなっている。鮑叔との友情は終生変わらなかったといわれている。

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by narutyan9801 | 2016-09-10 03:50 | 妄想(人物) | Comments(0)

宋の襄公 ~「宋襄の仁」に隠された思い?~

 日露戦争初期に日本軍の補給路を攻撃したウラジオストク巡洋艦隊は何度も日本軍の追跡を振り切っていたが1904年8月1日の蔚山沖海戦でついに日本海軍第二艦隊に補足される。この海戦でウラジオストク巡洋艦隊は巡洋艦リューリクが撃沈されロシア、グロモボーイも大破し艦隊としての行動能力を失うことになった。しかし日本海軍としては遁走した二隻の状態をすぐに把握できなかったこともあり戦果としては不満で、特に第二艦隊が追跡をあきらめた後リューリクの救助に向かったことが非難の対象になった。当時連合艦隊作戦参謀であった秋山真之中佐は第二艦隊のリューリク救助の行動を「宋襄の仁」という言葉を使って非難していることが司馬遼太郎著「坂の上の雲」に書かれている。この「宋襄の仁」は敵に対し無用の情けをかけることであるが、別に第二艦隊は戦闘を中止してまでリューリクの救助を行ったわけではない。しかし戦争全体の勝利に全身全霊を傾けていた秋山中佐にとっては腹に据えかねる行動だったのだろう。今回は「宋襄の仁」の古語を残した宋の襄公を考察したい。

 襄公の正確な生年は分かっていないがおそらく前回取り上げた斉の桓公よりも多少年下と思われる。彼は宋公である桓公(斉の桓公とは別の人物)の公子として生まれているが彼には異母兄の公子目夷(のちに子魚と名乗る)が居た。襄公は宋公を継ぐ際に兄に宋公の位を譲ろうとしたが父の桓公の反対を受け断念している。父の死後襄公は兄を宰相に就け政治の補佐役に抜擢している。このことから襄公は序列を重んじる性格だったように思える。

 襄公が宋公に就いた時期は現在の湖南・湖北付近に「楚」が建国し中原諸国を脅かしていた。楚が中原諸国に侵攻してくると当時覇を唱えていた斉の桓公が諸国に会盟を呼びかけ楚を迎撃することが常になっていた。宋も襄公の父の代から会盟に加わっていたが襄公は父の喪中でも会盟に参加するほど積極的であった。
 紀元前643年に斉の桓公が死去すると斉は後継者を巡り内乱状態となってしまう。この混乱に襄公はかって宋に滞在したことがある斉の公子昭を擁立し孝公として即位させ斉の内乱を収めることに成功するのである。この成功から自信を深めたのか四年後宿敵楚王を含めた会盟を執り行い覇者となることを楚王に認めさせている。この行為に兄である宰相目夷は国力が伴わないことであると反対したが襄公は聞き入れなかった。さらにこの年多くの諸侯を集めて会見を執り行おうとしたが、襄公の覇権を内心では認めていなかった楚の成王の意を受けた使者に監禁されてしまうのである。この時は諸侯の取りなして軟禁は解かれ襄公は帰国することができたが、この恥を注ぐべく襄公は楚討伐の準備を進め、この動きを察した楚が先に宋討伐へ動くことになる。
 楚の侵攻を受け襄公は泓水のほとりで楚軍を迎撃、やがて楚軍が現れ泓水を渡り始める。宰相の目夷は楚軍の渡河終了前に攻撃することを進言するが襄公はこの進言を退け楚軍が渡河を終えて陣容を整えた時点で攻撃を命じている。戦いは兵力に勝る楚軍の圧勝に終わり襄公自身も太ももに矢を受け負傷するほどの惨敗であった。
 合戦後襄公はなぜ楚軍の渡河終了前に攻撃を始めなかったのかとの問いに「君子は人が困窮しているときにつけ込んだりはしない」と答えたという。この答えを聞いた目夷は「戦いの道理が分かっていない。戦時と平時では道理が違う」と嘆息したという。

 相手の弱みにつけ込まないと言っているところを見るとおそらく襄公も上陸前後の陣容が整っていない状況で攻撃すれば有利だったことが分かっていたのだろう。それを行えなかったのには襄公の血筋が多少影響しているのではないか?と管理者は思うのである。
 襄公の生国宋は周王朝から封じられた斉、王朝の枠外から建国した楚とは違った成り立ちでできた国である。宋は前王朝である「殷」王朝の血筋(報じられたのは殷の最後の王紂王の子供だが謀反に荷担したため紂王の異母兄が改めて封じられた)を始祖としている。このため周王朝が封じた国とは思想、習慣が相容れないことが多く差別の対象になっていたと思われる節が見受けられる。たとえば北原白秋の詩に山田耕筰が曲を付けた唱歌「待ちぼうけ」。この歌詞は韓非子の旧来の伝承にしがみついている人を批判する説話を元にしているがこの場面は宋の国でのこととされている。他の中原の国からすれば宋は異質な国だったという印象を感じとれる逸話である。
 管理者の想像ではあるが、襄公は覇を唱える以上宋の国の印象を変える必要性を感じていたのではないだろうか?国の印象を変えるために敢えて不利な戦いを挑んでいったように思えるのである。しかしそれでも宋の印象を変えることはできずかえって「宋襄の仁」という異質さを強調される言葉を生んでしまったことは襄公も残念だったろう。

 泓水の戦いの後、晋の公子重耳が宋を訪れている。襄公は敗戦直後ではあったが重耳を手厚くもてなしている。しかし襄公は泓水の戦いで受けた傷が元で重耳の来訪後ほどなく亡くなってしまう。襄公の死後宋は泓水の戦いでの損害も回復せず国力が低下し襄公の死の五年後再び楚の侵攻を受けることになる。この時宋を救ったのが晋に帰国し晋の文公となっていた重耳の救援であった。その後もたびたび宋は楚の侵攻を受けることになるが晋は襄公から受けた恩義を忘れず援軍を送り続けそれは晋が内乱で分裂するまで続くことになる。襄公の思いは後世には伝わらなかったかもしれないが、文公にだけは伝えることができたのかもしれない。

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by narutyan9801 | 2016-09-09 02:52 | 妄想(人物) | Comments(0)

斉の桓公 ~覇者の人生につきまとったのは棺桶だった~

 マカロニ・ウェスタン映画の傑作「荒野の用心棒」のラストシーン、宿敵ラモンを倒したクリント・イーストウッド演じる流れ者ガンマンのジョーがサン・ミゲルの町を去ってゆく…。銃撃戦後の殺伐とした雰囲気であるがそんな雰囲気をいい意味でぶち壊すのは射殺された男たちの棺桶を作るために身長を測って読み取る棺桶屋の声であった。棺桶はほとんどの人間が人生を終えた際に入る器であるが死者を抱くが故に色々と感情をかき立てる品物でもある。フランスの伝説的な女優サラ・ベルナールは就寝する際には棺桶の中に入って眠っていたと言われるし、江戸時代の演出家四代目鶴屋南北は作中によく棺桶を登場させている。今回は棺桶で覇者となり棺桶に入るのに難渋した覇者、斉の桓公を考察したい。

 桓公を語る前に覇者という言葉を説明しておきたい。我々の世代であれば世紀末覇者拳王を思い出す御仁も多いと思うが覇者とは中国の春秋時代、周王朝下の諸侯に与えられる尊号である。初期は周王朝を夷狄から守った者に対して授けられた称号であったが春秋時代になると国力を背景に他の覇者を周王の元に集め、合議を行う「会盟」を取り仕切った者を「覇者」と呼ぶようになる。斉の桓公は初めて「会盟」を取り仕切った覇者である。

 斉の桓公の生年は詳しく分かっていないがおそらく紀元前710年頃の生まれと思われる。諱は小白、彼には二人の兄がいて長兄が襄公として斉公の位に就くが、この襄公は性格が荒々しく気に入らない人物を次々と殺害したため小白と次兄の公子糾はそれぞれ莒国と魯へ亡命する。やがて襄公は従兄弟の公孫無知に暗殺されるが、公孫無知もまもなく暗殺され斉公の座が空白になってしまう。このため斉の貴族たちは亡命していた二人の後継者のうち早く帰国した方に斉公についてもらうという、いわば斉公の椅子取りゲームを二人にしてもらうことにしたのである。
 
 小白の兄の公子糾は腹心の管仲を小白の帰路に待ち伏せさせ矢で射殺すよう命じ命令通り管仲は小白を射、小白は矢を腹に受けて倒れるのを確認して公子糾へ報告する。しかし小白は幸運にも帯の留め金に矢が当たり無事であった。小白と彼の師である鮑叔はこの状態を利用し護衛の兵を次の宿場で帰国させ、鮑叔牙は棺桶を用意させ小白の棺を一人で運んでいるよう偽装したのである。この策に公子糾はかかり帰国の足取りを緩め、その隙に棺桶に潜んでいた小白は先んじて帰国、斉公の地位に就き桓公と称することとなる。

 斉公に就いた桓公は帰国中の公子糾の一行を待ち伏せして急襲し撃退する。公子糾は魯国に逃げ込んだものの桓公の圧力で魯は公子糾を処刑、管仲は生け捕りにされ斉に連行されることになる。

 桓公は鮑叔牙の功績を評価し宰相の位に就くよう求めるが、鮑叔牙は「公がただ斉の君主だけでよいならば自分でも務まりますが、天下に覇を唱えるならば異才の人物を宰相につけなければなりません」と友人であり罪人として魯から連行されてきた管仲を宰相に推挙するのである。管仲を宰相にするのに桓公はかなり迷いがあったようであるが鮑叔牙の熱心な推挙もあり管仲を宰相に任命することになる。

 管仲を宰相に迎えた斉は政治、経済面の改革を行い国力の増大に成功する。元々斉は太公望呂尚が封じられた国であり他の国から人目置かれた国であった。斉の国力はすでに衰退を見せていた周王朝を凌ぎ諸侯は国家間の諸問題を桓公に裁定してもらうようになる。折しも長江流域では楚が建国され南方から周王朝や諸侯に圧力をかけ始めていた。桓公は諸侯に働きかけ楚を討ち、紀元前651年周王臨席の下諸侯を集め会盟を行い、歴史上初の覇者となったのである。桓公が会盟を行えた大きな理由に約定を違えない姿勢があったと言われている。公子糾をかくまった魯国と斉は国境を接している隣国同士であり魯の始祖は周王朝の始祖武王の甥である伯禽、斉の始祖は武王の軍師太公望とライバル同士、さらに公子をかくまっていたとなると国家間がしっくりするわけもなく桓公の即位後は何度も争っていたが国力は斉の方が上で魯は次第に追い詰められ、土地の割譲による講話を結ぶことになった。しかし講和締結の席上、魯の将軍曹沫が桓公に掴みかかり短剣を突きつけ割譲された土地の返還を求める椿事が起こったのである。その場ではこの条件を呑んだ桓公であるが後になってこの講和を破棄し土地の返還を拒否しようとしたのである。これを諫めたのは管仲であった。彼の考えでは脅しの結果であっても約定を違えない姿勢をとることが諸侯たちへ信頼を与えることにになり結果的に斉に利益をもたらすであろうという読みがあったのである。桓公も熟慮の末管仲の考えが正しいと思い直し土地の返還に応じたのである。この結果が会盟の成功に大いに貢献したと思われる。

 会盟を行った桓公は次第に増長し君子だけが執り行えるという封禅の儀式を行おうとするがこれを諫めたのも管仲であった。桓公と管仲の間は堅い信頼で結ばれていた訳ではなさそうであるが桓公は管仲をその死まで宰相の位に留まらせている。

 紀元前645年に管仲がなくなると桓公を諫める者はいなくなり桓公は放蕩に明け暮れ後継者の選定も曖昧になる。管仲の死から二年後桓公も病に倒れるが国内は後継者争いの混乱に突入してしまい病床の桓公を顧みる者はいなかった。桓公は紀元前643年10月8日に亡くなるが死後67日間も遺体は病床に横たえられたまま放置されたという。納棺後も翌年8月に息子太子昭が斉公に就くまで埋葬されず、ついには蛆虫が棺桶から這い出してきたと言われる。桓公の人生は花開くときも終焉も棺桶に左右された人生といっても過言ではないだろう。
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   斉の桓公。春秋五覇と言われる覇者の中でも晋の文公と並んで上位に置かれることが多い。

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by narutyan9801 | 2016-09-07 03:36 | 妄想(人物) | Comments(0)

嶋清一 ~海防艦と運命を共にした天才投手~

 いわゆる「甲子園大会(高校野球全国大会)」でノーヒットノーランが記録されると大きな話題となる。過去選抜高等学校野球大会では12回(完全試合2試合を含む)、全国高等学校野球選手権大会では23回達成されている。そしてノーヒットノーランを複数回達成した選手が一人だけ存在する。今回は現在まで唯一甲子園大会でノーヒットノーランを二回達成した投手、嶋清一を考察したい。

 嶋清一は1920年(大正九年)に和歌山県で生まれている。父親から同県出身で甲子園で活躍した小川正太郎の話を聞かされ野球に興味を持ったと言われている。小学校時代から地元の少年野球チームに所属していた嶋は海草中学校に進学すると一年生ながら一塁手として第21回中等学校優勝野球大会(現在の夏の甲子園)に出場する。この時は初戦でこの大会の優勝校松山商と対戦して3対0で敗れている。大会後監督の指導で嶋は投手にコンバートされている。

 その後も嶋の所属する海草中学校は何度も甲子園に出場しているが、ベスト4が最高であった。ところが嶋にとって最後の甲子園となる第25回全国中等学校優勝野球大会で嶋は前人未到の快投を見せるのである。
 1回戦の対嘉義中戦は5-0、二回戦の対京都商戦が5-0、準々決勝の対米子中戦が3-0、準決勝の対島田商戦が8-0(ノーヒットノーラン)決勝の下関商戦が5-0(ノーヒットノーラン)と五試合すべてに先発し完投、全て完封で内二試合がノーヒットノーランという快挙であった。試合中相手の応援席から「これではとりつく『シマ』がない」という自虐的な駄洒落が漏れ、「海草の嶋か、嶋の海草か」という賛美の言葉がはやったという。大会前から嶋は高い評価を得ていたのだが肝心なところでコントロールを乱すメンタル面の弱点も指摘されていた。メンタル面に関しては後年様々な要因が指摘されているが、それを払しょくできたのは周囲の変化も大きかったが嶋本人の努力も大きかったと思われる。ちなみに嶋は通算6回甲子園に出場しているが、これは当時の中等学校が五年制であったためで規則上最高九回甲子園出場も可能であった。
 嶋の打ち立てた記録のうち、五試合連続完封と45イニング連続無失点は戦後第30回大会で福嶋一雄が達成する。また決勝でのノーヒットノーラン達成は59年後の第80回大会で松坂大輔が達成するが、現在(2014年)でも個人の複数ノーヒットノーラン及び同一大会での複数のノーヒットノーランを達成した人物は嶋ただ一人である。

 改装中学卒業後嶋は明治大学に進学し野球部に所属するが、野球部の雰囲気に馴染めなかったのか嶋の成績は改装中学時代に比べると見劣りするような状態になる。一時期大学を中退してプロ野球への転身を図るが周囲の説得により断念している。嶋本人はジャーナリストに興味を持ち朝日新聞の記者になりたいという夢を持っていたと伝わるが、その夢は戦争によって潰えてしまう。

 1944年の学徒出陣により嶋も海軍に応召、44年暮れに竣工した「第84号海防艦」乗り組みを命ぜられ南方に出陣、日本への最後の輸送船団となるヒ88J船団を護衛する任務に参加することになる。
 太平洋戦争の戦局はすでにフィリピンを奪還され南シナ海の制空・制海権も連合国側が掌握する状況になっていた。1945年2月の「北号作戦」で航空戦艦二隻を含む戦闘部隊が辛くも日本本土に帰還するが、この作戦の成功を受け南方に残存する稼働輸送船をかき集めて日本に帰還させる作戦が計画された。しかし速力の遅い輸送船が日本本土にたどり着くことはほぼ絶望的といってよく、無謀な作戦であったことは否めない。

 1945年(昭和二十年)3月19日にシンガポールを出港した船団は途中被害を受けつつも北上を続けていたが、3月29日未明にベトナム東方で第84号海防艦は米潜水艦「ハンマーヘッド」の雷撃を受けてしまう。魚雷命中直後に搭載してた爆雷が誘爆し瞬時に轟沈した言われ、嶋を含む乗員全員が戦死している。嶋清一この24歳。応召直前に恋愛結婚をした新妻を残しての戦死であった。

 嶋の記録は半ば忘れられた状況が続いたが、第80回大会の松坂大輔のノーヒットノーランがきっかけで再認知されるようになる。2008年に野球殿堂入り。その年の第90回全国高等学校野球選手権大会(記念大会)に表彰式が行われ、若くして戦死した天才投手が偲ばれている。

嶋清一―戦火に散った伝説の左腕

山本 暢俊/彩流社

嶋清一の真実―松坂大輔をしのぐ伝説左腕の軌跡

富永 俊治/アルマット




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by narutyan9801 | 2014-09-26 00:02 | 妄想(人物) | Comments(0)

景浦將 ~『初代』ミスタータイガース、フィリピンより帰還せず~

 今年完結した水島新司の野球漫画「あぶさん」あぶさんの主人公景浦安武は「景浦」という比較的珍しい姓である。景浦安武は実在の野球選手のモデルが複数存在すると言われているが、大きな影響を受けたモデルの姓を名乗ったと思われる。今回はあぶさんのモデルの一人となった「景浦將」を考察したい。

 景浦將は1915年(大正四年)愛媛県松山市で生まれている。松山は野球に縁の深い正岡子規の故郷で野球が盛んな地域であるが、少年時代の景浦は体格が小さく剣道に打ち込んでいた。松山商業学校(現在の松山商業高等学校)に入学後も剣道部に所属していたが景浦が三年の時に野球部員の数が不足する事態となり景浦は野球部にスカウトされる。野球部に編入してすぐに景浦は才能を認められレギュラーに抜擢、甲子園大会に四回出場してすべてベスト8以上、優勝1回、準優勝1回という成績を収めるのである。

 松山商業学校卒業後景浦は立教大学に進学し野球部の中心メンバーとして活躍する。1936年景浦は立教大学を中退、大阪タイガース(現在の阪神タイガース)に入団するのである。この年は日本プロ野球設立初年でありチームとしての順位は決めず短期間のリーグ戦やトーナメント方式の試合を行うなど変則的なシーズンであったが景浦は持ち前の長打力だけではなく投手としても活躍している。このシーズンの個人成績を見ると投手としての景浦の成績は際立っていて最高勝率と防御率の二冠を達成している。特に最多勝率は6勝0敗で勝率10割でありこの記録は1リーグ時代の1937年に御園生崇男、2リーグ制になってからは1981年の間柴茂有、2013年の田中将大の4人しか達成していない大記録である。

 翌年から景浦は打者中心の出場となり38年の二年間で首位打者1回、打点王二回を記録している(但し当時は年複数シーズン制)1937,38年は大阪タイガースが日本一を連覇しており景浦の存在が阪神連覇の原動力になったことは疑いようがない。また日本プロ野球史上最優秀防御率と首位打者の双方を記録した選手は景浦しかおらず、おそらく今後も現れないだろう。同じ頃ライバルチームのジャイアンツには大投手沢村栄治が在籍しており、ライバルの対決にファンは熱狂したといわれている。

 その一方で景浦は性格にムラがあり気分が悪いと平凡なフライも取りにゆかなかったという証言もある。球団と給料のことで確執があったとも言われているが、そういった「やんちゃ」な面もファンには魅力に映ったのだろう。実際の景浦は細やかな気配りのできる人物であり、指導者として期待していた識者もいたと言われている。そうした景浦の「指導者」としての可能性を奪ってしまったのはやはり「戦争」であった。

 1940年景浦に一度目の召集がかかり景浦は出征する。1943年に兵役を終えタイガースに復帰した景浦であったが、その体は消耗しきっていた。沢村栄治と同じく重い手榴弾の過度の投擲により肩は壊れ、身体の柔軟さは失われていた。持ち前の長打力は健在であったが守備力は落ち、負担の少ないファーストにコンバートされるが同じく戦地帰りの藤村冨美夫が守るセカンドとの間を狙えとのヤジが飛んだと言われている。1943年のシーズン終了後に景浦は引退を表明、家業を継ぐためという理由からであるが自らの身体を考慮した結果かもしれない。

 1944年景浦に二度目の召集がかかる。景浦の所属した部隊は当初は満州にあったが戦局の推移によりフィリピンに移動、その地で景浦は戦死したとなっている。しかし戦死の公報と実際の部隊の所在地が違っており最後の状況は分かっていない。景浦の最後の消息はマラリアで衰えた体を引きずるようにしながら食糧調達に出かけ、戻らなかったと伝えられている。公報と共に届けられた骨壺にはお骨は入っておらず、石ころが3つ転がっていただけだった。

 1965年景浦の功績を称え野球殿堂入りが発表される。初代「ミスタータイガース」の称号は「代打ワシ」の藤村冨美夫というのが一般的であるが景浦將とする意見もある。そして管理者もこの意見に賛成なのである。

あぶさん 107 (ビッグコミックス)

水島 新司/小学館

戦場に散った野球人たち

早坂 隆/文藝春秋




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by narutyan9801 | 2014-09-24 00:34 | 妄想(人物) | Comments(0)

沢村栄治 ~南海に消えた不世出の大投手~

 この項を書いているのは九月下旬、そろそろプロ野球のペナントレースの結果も見えてきて興味は個人タイトルの結果に移ってきている。そして実際にはタイトルとは関係がないが「沢村賞」を誰が取るか(はたまた該当者なしになるか)も大きな関心事である。今回は「沢村賞」の由来となった沢村栄治を考察したい。

 沢村栄治は1917年(大正六年)三重県で生まれている。京都商業学校(現在の京都学園高等学校)在籍中に全国中等学校野球大会(現在の甲子園大会)に出場し活躍を見せる。沢村は京都商業学校卒業後慶應義塾大学への進学の話がほぼまとまっていたが日本プロ野球の設立を計画していた読売新聞社が獲得に動き沢村は京都商業学校を中退、1934年(昭和九年)にメジャーリーグ選抜選手を招いて開催された日米野球では五試合に先発登板する。浜松で行われた試合ではルー・ゲーリックのホームランによる失点1に抑える好投を見せるが、それ以外の4試合では撃ち込まれてしまっている。ともあれ日米野球の開催により日本でも職業野球チーム結成の機運が高まり12月には「大日本東京野球倶楽部(のちの読売ジャイアンツ)」が結成され、沢村は主力投手として所属することになる。

 職業野球チームは結成されたものの日本にはプロ野球経営のノウハウもなく、さらなる問題として対戦チームが存在しなかった。そこで東京巨人軍はアメリカへ武者修行の遠征を行う。沢村は主力投手として活躍、そのピッチングに注目があつまりサインをせがまれるようになる。遠征も終盤に差し掛かったある日、試合前の練習中外野席から場内に飛び降りてサインをせがんだ男に沢村は何気なしにサインをしてしまう。ところが試合後その男が巨人軍のベンチにやってきて沢村のサイン入りの書類を見せ「沢村はいつ引き渡してもらえるのか?」と詰め寄ってきたのである。けっきょくこの椿事は巨人軍はアメリカの野球団体に加入していないのでサインは無効ということで決着したが、それ以降沢村はこの種の事件に巻き込まれないため(この事件は新聞に掲載され話題となっていた)サインには当時の有名女優の名前「田中絹代」を漢字は分からないだろうということで書いていたという。また酔っ払いに絡まれてサインをした際には「馬鹿野郎」とサインしたという話もある。

 翌年から開催された日本プロ野球リーグで沢村はジャイアンツのエースとして君臨、1937年までの4期(当時は年二リーグ制)で47勝、二度のノーヒットノーランを記録し日本プロ野球の絶対的エースとなるのである。

 しかし沢村にも戦争の影が忍び寄る。1938年に沢村は陸軍に徴兵される。プロ野球選手として鍛えられた肩は模擬の手榴弾を投げさせると演習場敷地の柵を越えて飛んでいったという伝説が伝わるがそれは投手生命である肩を酷使させざるを得ない状況に立たされるということであった。当時の日本軍には砲兵の火器支援が少なく、敵の防御抵抗線に対するもっとも有効な攻撃手段は手榴弾の投擲であった。より遠くに手榴弾を投げ込める人間が居れば投擲は任せたほうが部隊全体の安全に繋がるだろう。しかし当時の九七式手榴弾の重量は455g、硬式ボールの重量は約148g。三倍近い重量の手榴弾を投げ続ければ肩が壊れてしまうことは明白である。さらに沢村は徐州会戦で左腕を負傷、さらにマラリアに感染するなど満身創痍となってしまう。兵役満了で除隊した沢村はもう全力で投げられない状態であった。

 それでも沢村は投球ホームをオーバースローからサイドスローへ変化させ、コントロールを重視する技巧派のピッチャーとしてマウンドに帰ってきた。復帰後の1940年の勝率は0.875でこれは沢村のリーグ勝率としては最高の値である。さらに三度目のノーヒットノーランも達成している。

 しかし1941年に沢村は二度目の徴兵をうけ出征、フィリピン攻略戦に参加する。満期で除隊しジャイアンツに復帰するが、すでにピッチングが不可能なほど体は擦り減ってしまっていた。サイドスローからアンダースローへ再度フォームを変更するが制球は定まらず出場は試合途中の代打出場が主なものになる。沢村の現役最後の出場は1943年(昭和18年)10月24日の阪神戦の代打出場であった。

 戦局の悪化にも関わらず日本プロ野球は1944年(昭和十九年)も開催されることになったが、そのシーズン前に沢村は巨人から解雇される。本人は移籍も考えたが周囲の「巨人で終わるべきだ」の説得に現役を引退することを決意したといわれている。この時沢村27歳、戦争に削り取られてしまった選手生命と言えるだろう。

 現役を引退した沢村に三度目の召集令状が届いたのは昭和十九年十月のことである。第十六師団に配属された沢村はフィリピンに向かうがその途中で乗船した輸送船が12月2日に潜水艦に撃沈され戦死したとされる。享年27歳。
 沢村の死ははっきりしないところがある。沢村の所属は第十六師団であるがすでに師団はフィリピンに上陸しており沢村は充当で師団を追ったものであると推察される。12月2日にフィリピン近海で撃沈された輸送船は安芸川丸とはわい丸があるがそのどちらに沢村が乗っていたのかは分かっていない。日本野球史上に名を遺した大投手が最後を迎えた輸送船は特定できないのである。

 戦後、戦死した沢村の功績を称えジャイアンツは沢村の背番号「14」を永久欠番とする。これが日本プロ野球最初の永久欠番である。同年野球雑誌が私的に制定した「沢村賞(沢村栄治賞)」が現在も戦争に散った大投手の名を現在にも伝えているのである。

終戦のラストゲーム―戦時下のプロ野球を追って

広畑 成志/本の泉社



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by narutyan9801 | 2014-09-23 00:39 | 妄想(人物) | Comments(0)

糸瓜忌の翌日に ~ロンドンでの明治期日本人二つの別れ その2~

 昨日、子規と漱石の話が長くなって書けなかったもう一つの「別れ」
 
 子規の死の一か月前の明治三十五年八月、テムズ川河口に停泊する貨物船「若狭丸」で二人の日本人が対面を果たしている。一人は病を得て日本に帰国する作曲家瀧廉太郎、もう一人はイギリス留学中の詩人土井晩翠であった。二人にとって生涯最後の対面となった情景を綴ってみたい。


 瀧廉太郎は明治十二年東京で生まれている。父が内務省の地方官で転勤が多く、瀧も転校を繰り返す学生生活を送ることになる。この幼き日に各地の様々な抒情風景を感じたことはのちの作曲に大きな影響を与えたのかもしれない。15歳で東京音楽学校に入学した瀧は才能を認められ将来を嘱望される存在となる。

 一方の土井晩翠は明治四年の生まれで滝より八歳年上になる。晩翠の生家は質屋であったが父親は趣味で俳諧、和歌などを嗜み中国の歴史書も愛読していた。父の影響で晩翠も文学に興味を持つが家業を継ぐ立場から進学は諦め、今でいう英語の通信教育を受けていた。この成績が優秀だったため学業を許され現在の東北大学に入学し外国語を学ぶ。一方で文学の道でも詩集を発表するなど多方面で活動する文化人となってゆくのである。


 明治時代前半の日本は様々な外国文化を取り入れ、定着させることに躍起になっていた時代である。もちろん音楽もその一つであった。しかし外国の歌詞を日本語に訳し、それを原曲にはめ込んだ唱歌は歌いづらく馴染めないものであった。学校の音楽の唱歌としてふさわしい曲を作るべく当時の文部省はまず詩の作詞を土井晩翠に依頼、明治三十一年に「荒城月」が完成する。文部省は「荒城月」の作曲の公募を行い、滝廉太郎の作戦が選ばれることになる。こうして初の日本人による作詞、作曲の唱歌が旧制中学の「中学唱歌集」に収められたのである。「荒城の月」は現在で言うところの「詩先」で作られた曲だった。また「荒城の月」のイメージとして晩翠は故郷の仙台にある青葉城、または戊辰戦争で攻城戦を受けた会津の若松城、さらに青森県の九戸城をイメージしたと言われているが、滝のほうは幼い日に見た大分県竹田市の岡城、または富山県富山市の富山城をイメージしたと言われている。両者全く違う城をイメージしたのであるが、情景として荒城に浮かぶ月が容易に連想できる一体感がこの曲にはある。

 土井晩翠の妻は東京音楽大学出身であり瀧廉太郎の後輩にあたるのだが、「荒城の月」の完成まではお互いに意識したことは無かったようである。そして「荒城の月」の完成後も多忙な二人が出会う機会は訪れなかったが、手紙のやり取り等連絡を取り合っていたと思われる。程なく瀧廉太郎は留学生としてドイツに留学する。しかし瀧は到着わずか二カ月で肺結核を病み、静養につとめるが病状は悪化、無念の帰国を余儀なくされる。その帰国の途上で「荒城の月」の作詞者、作曲者は初めて顔を合わせることになったのである。対面は滝の病気もあり短時間で終わったようであり、また一対一の対面ではなく二人(もう一人は宗教学者の姉崎正治)で見舞いにいったと晩年の晩翠は語っている。



 帰国した瀧廉太郎は父の故郷で静養するが病状は悪化してゆき晩翠との対面から10か月後の明治三十六年六月二十九日に死去する。享年二十三歳、死の直前に作曲した「憾」(うらみ)が遺作となる。「憾」は「恨み」の意味とは違い「心残り」や「未練」といった意味であり若くして死んでゆく自分の心情を込めた題目だったのだろう。

 一方の土井晩翠は太平洋戦争後まで長命するが晩年は家族に先立たれ空襲で家も焼かれてしまい蔵書を焼失するなど苦労も多かった。昭和27年に青葉城址に「荒城の月」の詩碑が建立され、その落成式に出席するがその後体調を崩し二か月後に死去している。晩翠にとっても「荒城の月」はかけがえのない作品だったのだろう。

荒城の月―土井晩翠と滝廉太郎

山田 野理夫/恒文社

嗚呼!瀧廉太郎―知られざるその家族とふる里

財津 定行/日本文学館



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by narutyan9801 | 2014-09-21 02:41 | 妄想(人物) | Comments(0)

糸瓜忌の日に ~ロンドンでの明治期日本人二つの別れ その1~

 本日九月十九日は「糸瓜忌」正岡子規の命日である。明治三十五年九月十九日没、享年36歳。病魔に苦しめられながらも「俳句」という文化、それだけに留まらない日本の近代文学に大きな足跡を残した人物として知られている。

 他方今日はイギリス(大ブリテンおよび北アイルランド連合王国)からのスコットランド独立の是非を問う住民投票が行われ、スコットランドの独立は否決されている。連合王国からのスコットランドの「別れ」は今回は否決されたが、正岡子規の死の前後イギリスでは印象に残る日本人の二つの別れがあった。今回はその「別れ」を記してみたい。

 正岡子規の交友関係は司馬遼太郎著「坂の上の雲」前半で描かれた日本海軍将校の秋山真之との関係が有名であり二人は子規の死まで交流があったことは事実である。しかし両人の成人後その交流はお互いの「立場」を配慮しなければいけない間柄になる。秋山真之は日本海軍の参謀として作戦を統括する立場になり、子規も「ホトトギス」主宰としての立場がある。会えばまずお互いの近況報告からになり心情を語り合うゆとりは無かったような気配がある。「真さん」「升さん」という交流は成人後はできなかったのではないだろうか。子規には他にも学生時代多くの友人がいたがそれらの人々も多くは自分の「立場」を持ち心情を吐露できるような人物はほとんどいなかったと思える。そんな中唯一子規が心情を吐露できたであろう人物が「夏目漱石」であった。

 子規と漱石は東京大学予備門からの付き合いでいわゆる「幼馴染」ではない。しかし幼馴染の付き合いはお互いの家庭状況の影響を受けるのに対し家庭から離れた「学生」同士の付き合いはこの弊害を受けずに生涯の友となれることも多い。そして子規と漱石は「ウマが合う」友だったようである。
 学生時代ほとんど学校に出ることが無かった子規は生真面目にノートを取っていた漱石に度々ノートを借りて試験だけは合格していた。ノートを貸しに来た漱石に子規は寄宿舎の食事を出していたがいつもおかずが鮭だけだったので文句を言うと次の機会に子規は西洋料理の店に漱石を連れてゆき大盤振る舞いを行っている。これ以外にも何度か漱石に食事を奢っていて漱石は子規は相当金持ちの家の息子だと勘違いしていたらしい。
 しかし漱石が松山中学に赴任していたころ、日清戦争従軍後肺結核が悪化して故郷松山に戻ってきた子規が漱石の下宿先に勝手に上がり込み、勝手に出前を取っては勘定を漱石に払ってもらっている。挙句には東京に帰る旅費も漱石に工面してもらい、その旅費も奈良で使い果たし(柿食えばの句を作った所である)漱石に残りの旅費を送ってもらっているのである。漱石の性格を見透かしていたという子規の一人勝ちといったところだが、それだけに自分のわがままを受け入れてくれる漱石に強い友情を抱いていただろう。

 子規と漱石の手紙のやり取りは百通を超えていると言われている。子規の漱石へ宛てた最後の手紙は日付が明治三十四年十一月六日となっている。この手紙で子規は「僕が君に会うことはもう無いだろう」と死期の近いことを伝え「生きているのが苦しいのだ」と病の苦痛を隠すことなく漱石に伝えている。それでありながら「僕の目の明るいうち(現代風に言うなら「目の黒いうちに」となるか)もう一通よこしてくれぬか」と漱石からの手紙を心待ちにしている心境も吐露している。漱石は以前の手紙に留学先のロンドンの情景を面白おかしく子規に書き綴っており、病床の子規楽しませていた。すでに床を離れることなどできない子規に外国の情景を書き綴ることは通常は憚れることだろうが、それを敢えて書き綴った漱石に子規が伝えたかった感謝の表現かもしれない。

 考えてみると晩年の子規は「対等の友人」というものがほとんど居なかったように思う。献身的に看護してくれる家族、門人はいたのであるが、看護してくれる人に近い将来間違いなく訪れるであろう「自らの死」を語るわけにはいかない。家族には病の痛さで泣き叫ぶ姿を晒せても「自らの死」は語れないだろう。「立場」を持っている友人では心中を吐露しても「立場」というフィルターを通した答えが帰ってくる。子規にとって漱石とは「立場」の無い得難い無二の親友であった。そういう感じがするのである。

 いや~。あんまりに子規と漱石の話面白くてもう一つの「別れ」書けなくなっちゃったなぁ。
 書けるんだったら明日もう一つのほう書きましょうかね。

漱石・子規往復書簡集 (岩波文庫)

和田 茂樹(編集)/岩波書店

ノボさん 小説 正岡子規と夏目漱石

伊集院 静/講談社

正岡子規

夏目 漱石/null





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by narutyan9801 | 2014-09-20 01:24 | 妄想(人物) | Comments(0)

大田正一 ~人知れず戦後を生きた特攻兵器「桜花」の発案者~

 人によって強弱の差はあるが、自らの死後自分の評価を気にするものである。例を挙げてみるとダイナマイトの発明者、アルフレッド・ノーベルは自分が発明したダイナマイトが戦争に使用されることに悩み、ダイナマイトその他の爆薬で築いた財産を有価証券に投資しその利子を人類の発展に貢献した人物に分配することを遺言しいわゆるノーベル賞を設立する。この遺言を起草する動機になったのは実の兄が亡くなった際ノーベルが亡くなったと取り違えた新聞が「死の商人ノーベル死す」と記事にし、自らの死後自分がどのように語られるかを考えた末の答えだったという。自分の死後の評価を気にするあまり時として人は「失踪」という選択肢をとってしまうことがある。今回は「失踪」という形で自分の行ったことの評価を消そうとした人物、特攻兵器「桜花」の発案者、「大田正一特務少尉」を考察したい。

 大田は大正元年(1912年)山口県の生まれで昭和三年(1928年)海軍に志願、通信兵を志しやがて攻撃機の偵察員(通信兼任)となり昭和一五年(1940年)に予備役編入、即日召集となり太平洋戦争時は輸送機の機長(偵察員兼任)を勤め、昭和一九年五月には第1081海軍航空隊に所属していた。太田が特攻兵器と関わりを深めるのは1081航空隊発足直後からである。大田は陸軍で開発中の爆撃機に牽引され目標へ投下、誘導され突入する有翼爆弾の構想を耳にする。この兵器の難点は確実な誘導装置がないことであると耳にした大田は「人が搭乗し操縦を行い突入する」という案を1081航空隊司令に発案し、航空技術廠への仲介を依頼する。
 航空技術廠では搭乗する人間はいないという意見が大半であったが、大田は「自分が乗ってゆく」と発言したためについに採用になったと言われている。当時ドイツでは報復兵器フィーゼラーFi103(V-1号)が実用段階に達していたが誘導方法に問題があり有人誘導を行う案が検討されていた(搭乗員は突入直前に脱出する事になっていたが計画は中止になる)この研究は日本にも情報として伝わっており有人爆弾の研究はある程度は進んでいたと思われる。ただ最終的に「人間が乗ったまま突入」という兵器を開発することに躊躇いがあり、それの後押しに大田が一役買ったというところではなかったろうか。

 実際に兵器を運用する責任がある軍令部でも人が乗ったまま突入する兵器への承認は中々出なかったが、大田は自らが所属する1081航空隊の隊員の署名を集め、ついに軍令部も折れ、有人爆弾は軍から正式に開発許可が降りることになった。

 しかし海軍中央を動かせたことに大田は慢心になっていたようで、有人爆弾の具体案を航空本部2課長の伊東祐満中佐が持って行ったところ、大田は「また新しい発明を考えて持って行きます」と言い放ち伊東中佐を鼻白ませている。
 1944年10月1日に桜花専門部隊である第721航空隊(神雷部隊)設立、大田もこの部隊に所属する。翌1945年3月21日に初の実戦投入がされるが、護衛戦闘機の不足、母機の能力不足により出撃した一式陸攻18機がすべて未帰還となり戦果は全くないという惨敗を喫することになる。その後も桜花は散発的に出撃するが、米機動部隊中枢までたどり着くことは困難で、機動部隊前面に展開するレーダーピケット艦に体当たりするのが精一杯という状況であり体当たりしても装甲の薄い駆逐艦では貫通してしまってから信管が作動してしまうということが続き結局桜花が上げた戦果は駆逐艦一隻沈没という状況であった。あまりの戦果に日本海軍も7月以降桜花の出撃を見合わせることになる。

 この頃大田は新聞の取材に応じ「将兵の命など考えるべき時期ではない」と発言したり海軍の方々を回って桜花での攻撃再開を訴えたが、大田の話に耳を傾けるものはすでにいなかった。さらに自ら桜花隊員になるべく偵察員から搭乗員へ異例の配置転換を認めてもらったが搭乗員となるには「能力不足」の判定が下され、仮に桜花攻撃が再開されたとしても自らの出撃はかなわない状況になったのである。

 やがて8月15日の終戦を迎えると大田は精神不安定となり隊内で軟禁状態とされる。戦時中の態度から同僚に報復を受けるのではないかと感じていた、または自分の発案した桜花で犠牲者が出た連合軍が「戦犯」として処刑するのではないか?と不安になったと言われている。大田は軟禁から隙を見て脱出、零式練習戦闘機に乗り込みそのまま飛去ってしまう。机に遺書めいた走り書きを残しておりそのまま海に突入、死亡したとして殉職扱いとなり大尉に昇進し、大田の軍歴はここで終わっている。

 ところが大田は死にきれず、戦後の混乱期知り合いを訪ね無心を行ったことが分かり、生存していることが確認されたのである。その後の調査で大田は変名で戸籍を取得、家庭を持ち1994年に亡くなったことが分かっている。

 大田の生涯を考えるのは非常に難しい面がある。大田の存在は桜花の開発のキーパーソンになったことは間違いないが、大田の発案前に有人爆弾の構想はかなりまとまっており、大田が居なくても実用化された可能性は大いにある。下士官上がりの将校をわざわざ「特務」という冠詞を付けて差別していた日本海軍が一特務士官の進言で兵器を開発したといのは通常では考えられず、大田の存在が無くても「桜花」は正式採用されていたのではないだろうか。
 大田に非があるとすれば自分の発言で特攻兵器が正式採用になったという慢心や、どこか人事のように構えてしまっていた点だろう。よく比較されるところだが同じ特攻専門兵器「回天」の発案者仁科関夫中尉は回天の初回攻撃に同じ発案者で訓練中殉職した黒木大尉の遺骨とともに搭乗し戦死している。単純な比較はできないが、やはり大田の態度には不遜な面もあったといえるのではないだろうか?

 それだけに太田の戦後には非常に興味があるところであるが、大田が自ら本名を名乗ったのは死の直前、入院した病院の看護婦であったといい、戦後の大田の心情を知るものは家族を含めて居ないと言われている。桜花の発案者の戦後は、過去をすべて捨て去っての新たな人生だったか?はたまた贖罪の人生だったか?それを知るのはおそらく大田その人のみであろう。

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 沖縄、読谷飛行場で米軍に鹵獲され調査を受ける「桜花」米軍は桜花の非人道性を嫌い「BAKA-BOMB」(馬鹿爆弾)と蔑みを込めて呼んでいた。
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by narutyan9801 | 2013-09-25 09:37 | 妄想(人物) | Comments(0)

ラウル・ワレンバーグ ~在ハンガリーユダヤ人を救い続けた男~

 ナチスドイツによるユダヤ人迫害は第二次大戦前から開始されていたが、連合国側が救済に乗り出すのは戦局が有利に傾いてきた1944年以降である(個人的な行動では日本の外交官杉原千畝の活動の方が時期的に早い)
 独ソ戦の形勢がソ連有利となり、ドイツの同盟国であるハンガリーが動揺するとナチスドイツはハンガリーを同盟につなぎ止めるためにハンガリーを武力占領する。当時のハンガリーにはユダヤ人が多く住んでおりナチスドイツのハンガリー占領は在ハンガリーユダヤ人の生命を脅かす出来事であった。そこに危険を承知で一人の人物が出向き、多くのユダヤ人を救うことになる。今回はその人物「ラウル・ワレンバーグ」を考察したい。

 ラウル・ワレンバーグはスウェーデン出身で1912年8月4日ストックホルムで生まれている。彼の父は彼の生前に亡くなっており、彼は父の名前を贈られ銀行家だった祖父に養育される。彼の曾祖父は外交官で日本への赴任経験もある人物で、祖父も世界各国を巡るやり手の銀行家であった。ミシガン大学に留学し建築学を学んだワレンバーグは祖父の「世界を見てほしい」という助言を聞き入れ、各国の貿易商や銀行へ就職し見聞を広める。第二次大戦の直前彼はハンガリー在住ユダヤ人コロマン・ラウアーの元で働くことになり、この出会いが彼を後に導くことになる。

 第二次大戦の勃発後、ナチスドイツは1942年に「ユダヤ人問題の最終解決」計画を打ち出し、ユダヤ人の絶滅計画を進める。当初ドイツと交戦中の国を含めてこの計画に異を唱える国はほとんど無かったが、戦局が連合国側有利となるとユダヤ人を救う機運が高まってくる。特にアメリカは多くのユダヤ人が国内に住んでおり、その声を無視できなくなったルーズベルト大統領が「戦時亡命者委員会」を作り、国家としてユダヤ人救済に乗り出すことになる。

 1944年3月にハンガリー王国がドイツに占領され、在ハンガリーユダヤ人に危険が迫ると「戦時亡命者委員会」はハンガリーに人員を派遣し、外交権でユダヤ人を救済するべぐ人選を進めていた。この時在ハンガリーのユダヤ人の中にコロマン・ラウナーがおり、彼の推薦でワレンバーグにハンガリーへの赴任が要請されたのである。

 ワレンバーグは世界各国を見てきており、その窮状を救うべく外交官としてハンガリーに赴くことを承知する。1944年7月にハンガリーに入ったワレンバーグは精力的な活動を開始するのである。
 彼はただ単に正義感溢れる紳士ではなく、大胆な言い方をすれば「有能な策士」であった。彼が使ったユダヤ人救済の小道具に「シュッツパス」がある。これはスウェーデン名義の保護証書でこれを持ったユダヤ人はスウェーデンの保護下にあるという証書であったが、実は国際法的にはなんら権限のないものであった。しかしワレンバーグはドイツ人が形式主義で何事も形式を重んじることを長年の経験から知っておりこうした「ハッタリ」も有効と判断して利用している。またスウェーデン国旗を掲げた即席のスウェーデン国家事務所を設置し、多くのユダヤ人を受け入れている。ユダヤ人を強制収容所に護送する責任者のスキャンダルを掴み、護送中のユダヤ人を解放するなどの汚れ仕事もこなしており、彼は多くの業績を積み重ねていた。

 1944年10月にハンガリーではクーデターが起こり、親ナチスの「矢十字党」が政権を握る。さらにワレンバーグの活動に業を煮やしたナチスドイツはハンガリーにユダヤ人迫害の実行中心人物とも言える「アドルフ・アイヒマン」を送り込む。アイヒマンはワレンバーグの活動に国際法上の根拠が無いことを見抜き容赦ないユダヤ人狩りを実行し、さらにはワレンバーグの命を奪うよう画策する。外交官であるワレンバーグは直接逮捕などはできないため、ワレンバーグの自家用車にトラックを突っ込ませるなど数度試みられているが、ワレンバーグは幸運にもその魔手を逃れることができた。

 アイヒマンとワレンバーグの暗闘は三ヶ月間続いたが、1945年1月16日にハンガリーの首都ブダペストはソ連軍に占領され、ワレンバーグとナチスドイツの戦いには終止符が打たれるのである。しかしその直後ワレンバーグは忽然と姿を消してしまう。ブダペストを占領したソ連軍との交渉に一人赴いたワレンバーグは二度と戻らなかったのである。
 ソ連がなぜワレンバーグを拘束したのかという疑問にはいくつかの説がある。まずアメリカのスパイであるという説。スウェーデンの外交官というのは表向きでアメリカの要請でハンガリーに赴いたのは周知だったろうから、ソ連がスパイと疑う根拠はある。また一つの説としては在ハンガリーのユダヤ人を組織して反ソ連の盟主になる可能性を考慮したため拘束を行ったという説。さらに発展して対独戦争終結後、ソ連邦国内や占領地内でユダヤ人を組織しての反共産活動を行うことを危惧したという説。いずれにしてもワレンバーグの行動力を警戒しての拘束であったことはまず間違いないところだろう。

 ワレンバーグに命を救われたユダヤ人が中心となり「国際ワレンバーグ協会」が設立され、ワレンバーグを救うべく活動したが、ワレンバーグの消息はようとしてしれなかった。1957年に当時のソ連外務次官グロムイコは「ワレンバーグは1947年に心臓発作で死亡した」と発表されたがその根拠は示されず、その後もワレンバーグを見たという目撃情報もありソ連軍に赴いた後のワレンバーグがどうなったかは今もなお不明のままである。

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                    ワレンバーグが発行した「シュッツ・パス」
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by narutyan9801 | 2013-09-24 12:44 | 妄想(人物) | Comments(0)