鼈の独り言(妄想編)

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カテゴリ:妄想(軍事)( 19 )

給糧艦 伊良湖 ~開戦直前に竣工した二隻目の給糧艦~

 以前このブログでは旧日本海軍の給糧艦「間宮」を書いているが、間宮の竣工が1924年(大正十三年)であり長年日本海軍は給糧艦は間宮一隻のみ運用してきた。しかし日本海軍の規模が大きくなると間宮一隻の供給能力を超える補給の必要性が生じ始め、さらに戦争の足音が聞こえるようになると間宮の喪失という事態も配慮せねばならなくなってきた。日本海軍は間宮建造後も複数回給糧艦の建造計画をしてきたが二隻目の給糧艦が完成したのは太平洋戦争開戦の3日前であった。今回は日本海軍が保有した本格的な、そして最後(徴用による臨時的なものを除く)の給糧艦となった「伊良湖」を考察したい。

 伊良湖とはあまり聞きなれない名前であるが、愛知県にある「伊良湖水道」に因む命名である。渥美半島の先端にある「伊良湖岬」から神島の間の水路で一番狭い部分は幅1,200mほどしかないが、名古屋港など伊勢湾、三河湾と太平洋との海路が通り古くから船の通りが多い水路であった。先輩の「間宮」も間宮海峡からの命名であり正式決定はされてないようであるが給糧艦の命名はは海峡、水路の名前が基準になっていたようである。

 間宮は昭和十二年度からの建艦計画「③(マル3)計画」の追加分として計画されている。この計画は海軍軍縮条約が失効して初めての建艦計画であり、大和型戦艦や翔鶴型航空母艦など大型の新造艦が多く計画されている。ちなみに伊良湖の建造予算は当時の金額で400万円、大和型の予算が約1億800万円(ダミーを使っての流用追加予算もあるので実際はこれより多い)であるから約1/27である。あまりにスケールが違うので伊良湖の価格が高いか低いか評価するのは難しい。

 伊良湖は1940年(昭和十五年)5月30日に起工、翌41年(昭和十六年)12月5日に竣工している。間宮がクリッパー型の垂直な艦首であったのに対し伊良湖は弱いながらも二つのカーブがつながった「ダブルカーブドバウ」を持つ俊敏な外見をしている。外見上のもう一つの特徴は高い煙突である。これは伊良湖が重油を節約するために石炭専用のボイラーを搭載したため、煤煙に煤が入りそれが食料品にかかるのを防ぐための措置であった。これは確かに妙案ではあったろうが通商破壊戦が実行されれば敵に発見されやすくなるという問題点があり、事実後述するが伊良湖は潜水艦の雷撃で沈没に瀕する損害を被っている事実を考えると問題もあったと思える。

 伊良湖は竣工当日に連合艦隊に編入され翌月にはさっそくトラックやマーシャル諸島へ食糧の輸送任務を行っている。その後も輸送任務に従事し特にソロモン方面の戦いが激しくなると伊良湖は本土と前進基地であるトラックを何度も往復するようになる。この働きは敵である米軍にも察知され工作艦「明石」とともに重要目標として狙われるようになってゆくのである。

 工作艦「明石」は原材料の輸送を他艦に任せ自らはトラックに腰を据えて任務にあたれたのであるが、「伊良湖」は前線に食糧を運ぶのが任務であり当然潜水艦が遊弋する海域も航行しなければならなかった。そして1944年(昭和十九年)1月20日、トラックを出港して内地に帰投する「伊良湖」は米潜水艦「シードラゴン」の雷撃を受けてしまい、魚雷一本が右舷前方に命中する。この雷撃で艦首が水没するほどの浸水が生じるが伊良湖は奇跡的に沈没を逃れ内地で修理を行う。8月に修理を終えた伊良湖は再び食糧輸送の任務に就くが、すでに日本近海の航行も危険な状態になっていた。

 1944年9月にフィリピン方面の補給に従事した伊良湖は21日マニラ湾で空襲を受け損傷、コロン湾へ退避するが24日に再度空襲を受け大破着底してしまい、船体は放棄される。しかし放棄後も書類上は健在艦として登録され続けている。伊良湖が正式に除籍されたのは終戦後の1945年(昭和二十年)11月30日で軽巡洋艦北上と同じ日の除籍であった。伊良湖の船体は現在もコロン湾にあり、ダイビングスポットとして人気があるという。
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 米潜水艦「シードラゴン」の雷撃で損傷した伊良湖。艦首はほとんど水面下に没し逆に艦尾は浮き上がっている。沈没寸前のように見えるが奇跡的に内地に帰還し修理の上再就航している。

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by narutyan9801 | 2014-10-01 23:26 | 妄想(軍事) | Comments(1)

軽空母龍鳳 ~時機を逸した大鯨からの改装~

 1922年に締結したワシントン海軍軍縮条約により列強各国海軍は保有する主力艦艇に制限を設け、さらに1930年のロンドン海軍軍縮条約の締結によりそれまで保有に制限のなかった排水量一万トン以下の空母にも制限が設けられることになった。この事態に日本海軍は平時は別の艦種として保有し有事に短期間で軽空母に改装することができる艦艇の整備をすすめることになる。今回は改装軽空母でも数奇な運命を辿った軽空母「龍鳳」を考察したい。

 ロンドン海軍軍縮条約では「一万トン以下の補助艦艇」には制限を設けていなかった。日本海軍はこの補助艦艇のうち、空母に性質が似ている「潜水母艦」と「給油艦」に目をつける。双方とも他艦艇へ補給を行うためのタンクを所有することを前提として建造でき、補給資材のため広い収納スペースを設けることも可能である。この施設は有事に空母に改装する場合そのまま飛行機用燃料タンクや格納庫として利用することが可能であった。このため日本海軍はロンドン海軍軍縮条約に対応した艦艇の建艦計画「①計画」に潜水母艦一隻の建造を計画する。この艦は一度は閣議で建造が見送られるが、緊急性が高い艦艇として昭和八年度の建造計画に追加承認され、建造が決定する。この艦がのちの潜水母艦「大鯨」である。

 実のところこの時期の日本海軍では潜水母艦の整備も急務であった。日本海軍は大正12年に竣工した迅鯨、長鯨の二隻の潜水母艦を所有していたが潜水艦の急速な発達に潜水母艦の能力が追随できず、新規の潜水母艦の速やかな整備も望まれていたのである。このため「大鯨」は一刻も早い竣工、活躍が期待されていた。それを実現するために「大鯨」は新機軸の建造や装備が計画されていたのである。

 従来軍艦の建造では船体の接合には「リベット」が用いられていた。それに対し「大鯨」では船体の接合に全面的に電気溶接が採用されたのである。この試みは世界初と言われている。電気溶接の恩恵により大鯨は起工からわずか7か月で進水までこぎつけている。もっともこの短期間の進水は年度末までに終わらせなければいけなかったことや、進水式の日程が昭和天皇に伝えられていたため半ば強引に挙行されたというのが本当のところらしい。

 大鯨の機関は大型艦としては初のディーゼル機関が採用され、昭和9年3月31日に竣工している。起工からわずか11ヶ月強での竣工であったが、大鯨はそのまま予備艦となり追加工事や整備が行われる。問題となったのはディーゼル機関で異常煤煙や出力不足が問題となった。結局出力は計画の半分ほどしか出せない状態となってしまう。

 どうにか運用可能となった大鯨は翌昭和10年に臨時編成された第四艦隊に編入され三陸沖で行われる演習に参加することになるが演習地点に向かう途中に台風に遭遇、いわゆる第四艦隊事件に巻き込まれることになる。大鯨は防水扉が破壊され浸水、電気系統が故障したため人力での操舵を余儀なくされる。さらに横須賀入港後の調査で船体の電気接合部分に亀裂が生じていることが判明し、船体の強度不足が露呈することになる。この修理と強度不足の補強の末、ようやく潜水母艦の実務に付けたのはそれから三年後の昭和13年9月になってからであった。

 艦隊編入後の大鯨は日華事変に隷下の潜水艦と共に参加する。根拠地から遠く離れた潜水艦の長期の活動には潜水母艦の活躍が不可欠であり新型の潜水母艦は潜水艦部隊からは歓迎された。そして昭和16年に大鯨は日本から遠く離れたクェゼリン環礁に進出する。真珠湾攻撃を計画していた日本海軍はハワイに潜水艦を派遣し米海軍艦艇の監視、攻撃を模索しており、その根拠地にクェゼリン環礁が選ばれたためである。11月に隷下の潜水艦を送り出した大鯨はクェゼリン環礁を出港、空母への改装のため日本に向かうことになる。

 大鯨は1941年12月20日より横須賀海軍工廠で空母への改装に着手する。計画では3か月で空母への改装が完了するはずであったが、大鯨はディーゼル機関の不調から機関を陽炎型駆逐艦に用いられたタービン機関へ換装することになり工期は大幅な延長を強いられていた。さらに新たな不幸が大鯨を見舞うことになる。

 1942年4月18日、米空母ホーネットを発艦したアメリカ陸軍爆撃機B25が日本各地を爆撃する、いわゆる「ドゥーリトル空襲」が決行される。この爆撃に13番機として参加したマックエロイ中尉機が午後一時頃横須賀上空で爆弾を投下、その爆弾が改装中だった大鯨に命中するのである。参加したB25は装備していた高性能のノルデン照準器を防諜(不時着して日本軍に回収されるのを防ぐため)と重量軽減のために取り外し簡易な照準器に変えており、爆弾が命中してしまったのは不運としか言いようがない。この爆撃で大鯨は火災が発生し大きな破孔が生じてしまう。爆撃後大鯨は改装と損傷復旧を突貫で行うが、結局空母への改装が完了したのは南太平洋海戦終了後の1942年11月であった。


 ドゥーリトル空襲の損傷が大鯨の改装にどれほど影響したかは今となってははっきりとしない。爆撃の修理には4ヵ月を要したという資料もあるが、おそらく空母への改装と並行して行われたと思われ、正味4ヵ月の遅延ではなかったろう。ただミッドウェー海戦の敗北後空母の整備には全力を投じたはずであり、約一年を要した瑞鳳、祥鳳よりは時間を短縮できた可能性が高い。

 仮に爆撃の被害が無く工事の短縮ができたとして南太平洋海戦には間に合ったろうか?となると錬成の時間を考えれば難しいと言わざるを得ないが、もし間に合えば海戦の結果はかなり違っていたかもしれない。


 空母への改装が完了した大鯨は「龍鳳」と改名され任務に就くことになる。空母としては先に改装されていた祥鳳型空母の祥鳳、瑞鳳と同型艦と分類されることが多いが、細かい点は相違点も多い。龍鳳は船体が若干祥鳳型よりも大きく、その影響で速力が祥鳳型よりも約1.5ノット低い。このわずかな速力の差がのちに龍鳳の運命を左右することになる。さらに龍鳳の特徴として飛行甲板が強度甲板になっていることがあげられる。

 強度甲板というのは甲板の強度が高められ防御が優れているということではない。かなり端折った説明になるが船という構造物は大きな鋼鉄のお椀に鋼鉄の蓋をしているような構造である。船体は波浪、風などの外力を受け、それにたいして歪みを生じさせないため、蓋の部分に応力に対応した強度を持たせる必要がある。これが強度甲板である。日本海軍の空母は通常格納庫甲板を強度甲板として建造されるが、大鯨は艦橋と一体化した格納庫を建造しその上部を強度甲板とした。龍鳳はその格納庫をそのまま航空機格納庫としたため、格納庫上層の飛行甲板が強度甲板となっているのである。このためたの空母の飛行甲板に見られる応力に対応した継手(ジョイント)がないのが外見上の大きな特徴である。

 空母となった龍鳳に初めて与えられた任務は飛行機輸送任務であった。陸軍の九九式双発軽爆撃機をトラック島まで輸送する任務に就いた龍鳳だが1942年12月12日に八丈島近海で米潜水艦ドラムの雷撃を受け損傷してしまう。急遽横須賀へ引き返した龍鳳はそのまま翌年2月まで修理を行う。その後は瀬戸内海で発着艦訓練を行い一度トラック島に進出するもののその後は輸送任務に就くことになる。

 1944年5月に龍鳳はタウイタウイに進出して空母隼鷹、飛鷹ともに第二航空戦隊を編成する。この時同型艦とされる空母瑞鳳は第三航空戦隊に編入されている。二隻しかない同型艦が違う所属になるのは珍しいことだが、これには両艦の速力の差が影響していると思われる。瑞鳳と共に第三航空戦隊に編入された千歳、千代田は速力29ノットを発揮でき、速度性能がより近い瑞鳳が第三航空戦隊に編入されたのであろう。同じ意味で龍鳳は速度特性が近い飛鷹型と組み合わせたといえる。この編成で龍鳳はマリアナ沖海戦に臨むことになる。1944年6月19日のマリアナ沖海戦で龍鳳は攻撃隊を発艦させるが迎撃態勢を整えていたアメリカ海軍機動部隊に攻撃隊は撃退され多くの搭載機を失ってしまう。さらに翌日米機動部隊は米機動部隊からの攻撃を受け龍鳳は爆弾一発が命中、損傷を受けてしまう。結果的に龍鳳の空母らしい活動は惨敗に終わったマリアナ沖海戦のみであった。

 マリアナ沖海戦後損傷を修復した龍鳳は輸送任務に就くが、10月に行われたレイテ沖海戦では内地待機となる。レイテの前に行われた台湾沖航空戦で空母搭載機まで投入、消耗してしまった日本海軍機動部隊には受け皿となる空母は有っても搭載すべき艦載機は払底してしまっていたのである。わずかに残った艦載機を搭載して囮として出撃していった空母は瑞鶴、千歳、千代田、そして龍鳳の姉妹艦瑞鳳であった。この四隻の定数をも満たせないほど艦載機は不足していたので龍鳳の残留はどうしようもなかったのであるが、龍鳳ではなく瑞鳳が選ばれた理由となるとやはり「速力」の問題であったろう。

 レイテ沖海戦後も龍鳳は輸送任務を遂行しており、1944年年末には特攻兵器「桜花」の輸送のため内海を出撃している。龍鳳は多数の護衛艦を交えた「ヒ87船団」の一員となり台湾まで同行するが、台湾で米機動部隊の来襲を受けそれ以上の航行を断念、ヒ87船団も大損害を受け残存した艦艇は龍鳳を護衛して1945年1月18日に呉に帰投する。この航海が日本空母の戦闘任務での最後の外洋航海となる。

 1945年3月19日に呉は米機動部隊の空襲を受け爆弾三発、ロケット弾二発の命中を受け大破炎上する。幸い搭載機が無かったため火災は鎮火したものの第一ボイラーが破壊され、修理もできないと判断された龍鳳は空母としての使用を諦め、甲板にあいた大穴を塞ぐだけの応急処置だけ施されその後は防空艦として戦艦榛名の前方に係留されていたが、それ以上の損傷を受けることはなく終戦を迎えることになる。機関に損傷があったため復員輸送に用いられずに昭和21年9月25日に解体が完了している。

 龍鳳の生涯はどうしても「不運」が付きまとっている印象がある。大鯨時代の船体強度不足・機関の不調・改装中の爆撃被害等々。もしこれらの要素がなければ太平洋戦争前半には軽空母として竣工できていた可能性が高い。だが龍鳳が不運に付きまとわれた最大の要因は海軍軍縮条約の抜け道をあら捜しして無理な設計を行った日本海軍の体質そのものであったような気がしてならない。国防のための戦力増強は必要なことであるが、戦力増強以外の国防にも目を向けなければいけなかったのではなかろうか?

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 昭和21年4月30日、解体中の龍鳳。前部飛行甲板が取り払われ空母改装後の艦橋構造がよく解る珍しい写真。後部飛行甲板にあいている大きな破孔は昭和20年3月19日の呉空襲時の損傷。この破孔から炎が百メートル以上吹き上がったと言われている。復旧はただ破孔を塞ぐだけで、飛行機の離着艦能力は完全に失われていた。



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by narutyan9801 | 2014-06-06 20:53 | 妄想(軍事) | Comments(1)

駆逐艦 子日 ~ 今日は何の日? ネノヒダヨー ~

 旧日本海軍の艦艇の命名には規定があり、例外もあるがおおむね規定に則って命名されている。このうち駆逐艦の命名は気象現象や気候、潮流に関するものとされており、それに加えて睦月や如月といった月を表す古語も艦名として用いられている。ところが日本語には「二十四節季」など特定の「日」を表す言葉が多数あるのに対し、駆逐艦の名前として用いられたのはただ一つの例を除いて存在しない。今回はその一つだけの例となった駆逐艦「子日」を考察したい。

 暦でいう「子日」とは立春後最初の十二支の「子」の日のことをいう。古来この日は「子の日の遊び」という。この日人々は野外に出て長寿を祝う催しを行った日であり「子日」はその目出度い日を艦名としたのである。
 最初に書いたように艦名が特定の日を示す名前を付けられたのは日本海軍では子日が唯一の例と言っていいが、諸外国特にスペインの影響を受けた国々では多くの例が見られる。たとえばアルゼンチン海軍が保有した重巡洋艦、及び航空母艦に命名された「ペインティシンコ・デ・マヨ」(Vainticinco de Mayo)はそのものズバリ「五月二十五日」である。これはアルゼンチンの独立記念日を記念しての命名であるが、日本人にはこの命名、ちょっと馴染みにくいといえる。
 
 「子日」を艦名とした艦艇は二隻ありいずれも駆逐艦だった。初代の子日は明治三十八年10月1日に竣工した神風型(初代)に属する駆逐艦であった。当時日露戦争開戦に伴う海軍増強計画での建造で、起工から竣工までわずか3ヶ月という短時間で建造されている。それでも初代子日は日露戦争には間に合わなかった。第一次世界大戦の青島攻略に参加したのが唯一の実戦参加で、大正一三年に掃海艇に転籍、昭和三年に除籍されている。

 二代目子日は初春型駆逐艦の二番艦として昭和六年12月15日に起工、昭和八年9月30日に竣工したとなっている。しかし子日が実際に竣工したのは昭和12年に入ってからであり、それまで多くの改正工事が行われたのである。

 そもそも初春型駆逐艦はロンドン海軍軍縮条約で駆逐艦の保有トン数が定められ、さらに1500トンを越える大型駆逐艦が占める割合が駆逐艦の保有トン数の16%とされた日本海軍が1400トンの排水量で特型駆逐艦と同等の武装と速度を持たせようとした艦で設計に無理があり、ネームシップの初春の竣工前の公試の旋回試験で転覆しかかるなどの問題点の改正のため一旦竣工した上でそのまま改正工事に入ったのである。この改正工事の最中に水雷艇友鶴の転覆事故が起こり初春型駆逐艦にはさらに抜本的な改正が行われることになった。この改正工事で艦橋の縮小、魚雷発射管の一部撤去、備砲の位置改正、重心の低下工事及びバラストの装着などの追加工事が行われ、三年の工事の末子日は初春と共にようやく実務に服せるようになる。速力は3ノット低下、魚雷発射管は特型駆逐艦の2/3となったが、その後の運用実績は良好で子日は艦隊所属後直ちに日華事変に従軍している。武装が縮小されたとはいえ初春型の駆逐艦の武装は当時の列強海軍の駆逐艦の武装と遜色は無く、速度がやや劣るものの運用面では十分な実力を備えていた。限られた排水量で無理な武装を装備させようとした設計思想が根本的な問題であり、身の丈にあった装備にしていれば3年間の改正工事は必要なかったと言える。この初春型の経験があったからこそ日本海軍は艦隊決戦に用いる実力を備えた「甲型駆逐艦」を建造できたともいえ、初春型は理想の駆逐艦を建造するための試金石の役割を担ったと言えよう。

 太平洋戦争勃発時子日は国内に残っていたが、1942年初頭から行われた蘭印攻略作戦に参加、その後北方部隊に転じアッツ島攻略部隊に加わる。アッツ島攻略後は同島の哨戒を行っていたが昭和十七年(1942年)7月5日、アガッツ島北方で米潜水艦トライトンの雷撃を受けて沈没する。初春型駆逐艦では初の戦没艦であった。

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竣工直後の二代目子日、特型と比べて高く大きい印象のある艦橋、艦前方に二基三門配置された備砲(特型駆逐艦は艦前方には一基二門)が精悍な印象を与える。この艦型で完成した初春型は初春、子日の二隻だけであり、両艦とも竣工後すぐ改正工事に入ったためこの艦型であったのは短い時間であった。



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by narutyan9801 | 2013-11-07 14:11 | 妄想(軍事) | Comments(0)

初代剣埼 ~浦風型駆逐艦に搭載されなかったディーゼル機関のその後~

 以前このブログでは「浦風型駆逐艦」を取り上げた。浦風型駆逐艦はディーゼル機関を搭載予定していたが、第一次大戦の勃発によりドイツから部品の調達が出来ずディーゼル機関搭載を断念した経緯を書いたのだが、実はこのディーゼル機関には後日談があり別の艦の運命にも深く関わっている。今回はそのディーゼル機関と関わった艦「初代剣崎」を考察したい。

 第一次大戦の勃発により浦風型がディーゼル機関搭載を取りやめた後もドイツ側では発注に基づいた製品の製作を行っており、完成したディーゼル機関を律儀にも中立国を通じて日本に送ってきていたのである。すでに浦風はタービン機関を搭載して完成しており機関の日本到着時には搭載は不可能な状態だった。日本海軍は考慮の末このディーゼル機関を搭載する別の艦艇の建造を行うことになったのである。

 当時日本海軍の保有するタンカーは「志自岐」一隻だけだった。海外からの輸入は民間のタンカーを徴用して賄うことができるが、軍港間の輸送を行う比較的小型のタンカーを保有しておらず、海軍は浦風型の余剰ディーゼル機関を再利用する形で大正六年に小型タンカーを一隻建造する。これが初代剣崎である。
 初代剣崎は排水量1970トン、速力11ノットの小型タンカーであったが、こうした小型タンカーを持っていなかった海軍に便利がられ、瀬戸内海の各根拠地の重油輸送に用いられることになった。また目立たないが日本海軍初のディーゼル機関搭載艦艇であった。

 しかし日本海軍はディーゼル機関の扱いが不得手であり、またディーゼル機関そのものが開発から年月が経っておらず機械的信頼性に乏しいこともあり昭和に入ると呉軍港内に係留したまま放置されるようになる。そして昭和八年9月1日に剣埼は除籍となってしまい、海軍初のディーゼル機関搭載艦は海軍籍を離れるのである。まもなく「剣崎」の名称は別の新造艦艇に引き継がれる。この艦艇はその後数回の遍歴を重ね、軽空母「祥鳳」として太平洋戦争で戦没することになる。

 一方、除籍された初代「剣崎」も船としての生涯を終えた訳ではなかった。船体自体はまだ十分使用できる状態であった初代剣崎は農林省に移管され機関の換装という大改造を施した上で漁業取締兼指導船「快鳳丸」として再就役することになる。快鳳丸は主に北方の漁業取り締まりを行っていたが、太平洋戦争勃発後は農林省に籍を置いたまま海軍に徴用され幌筵を根拠地とした第五艦隊付属の哨戒兼気象観測船として用いられる。さらに昭和二十年になると艦艇が不足した海軍は快鳳丸を特設砲艦とし、12年ぶりに日本海軍艦艇に復帰することになる。すでに二代目剣崎・祥鳳は三年前に珊瑚海海戦で戦没していた。そして初代剣崎・快鳳丸も昭和二〇年4月19日に北海道日高沿岸を航行中に米潜水艦の雷撃により沈没する。剣崎として完成してから29年の生涯であった。

 初代剣崎建造の直接の原因となったのはディーゼル機関であるが、その初代剣崎、そして二代目剣崎も悩まされたのがディーゼル機関の不調であった。結局両者とも機関換装という大工事を行っているのは奇妙な偶然と言えるかもしれない。
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by narutyan9801 | 2013-10-23 11:31 | 妄想(軍事) | Comments(0)

アンカラの戦い ~イスラム圏の覇者を賭けた巨大帝国同士の死闘~

 国同士の「戦争」の勝敗のつき方には色々とあるが、もっとも端的な勝敗のつき方はその国の組織・権力を戦闘で破壊することであろう。その国が専制君主制をとっていればその専制君主を戦死させるか、捕らえるかすることである。今回はイスラムの強国の君主が合間見え、一方が捕虜になった「アンカラの戦い」を考察したい。

 アンカラの戦いは1402年7月20日、現在のトルコ共和国の首都アンカラ近郊でオスマン帝国とティムール帝国との間で行われた戦闘である。戦闘の規模は当時最大級といわれ、双方併せて30万人を越える人員が投入されている(号数だと100万人を越える)。戦闘の規模もさることながら、双方の君主が直接戦闘を指揮し、一方の君主が捕虜になるという決着の仕方でも注目される戦いである。

 オスマン帝国は1299年、オスマン・ベイが建国して以来小アジアで勢力を拡大してきたが、三代目君主のムラトⅠ世は東ローマ帝国の重要都市だったアドリアノープルを奪いヨーロッパ方面でも勢力を拡大してゆく、ムラトⅠ世はセルビア王国をコソヴォの戦いで破った直後暗殺されるが、嫡男であったバヤズィトⅠ世が戦場で即位しその指揮の元で数度に渡るコンスタンティノプール包囲を行うなどバルカン半島の多くをその領土としていた。

 一方のティムール帝国は1370年に成立したといわれている。建国したティムールは元々サマルカンド周辺の強盗集団の頭目であったが次第に頭角を現し、一代にして大帝国を築き上げた傑物であった。

 当初両帝国の間には直接的な接点はなかったが、お互いの領土拡張の結果領土が接するようになる。最初に接触を行ったのはティムール側で国境を設定しようという提案がなされたが、バヤズィトは提案に関心を示さなかった。さらにバヤズィトが滅ぼした小アジアの小君主がティムールを、ティムールの滅ぼした黒羊朝のカラ・ユーフスがバヤズィトをそれぞれ頼るようになり、両者の対立は深まっていったのである。

 1400年ティムールは西方遠征を決意し、オスマン領に攻め込みスィヴァスを占領するが、エジプトのマムルーク朝討伐を優先しエジプトに向かったため両者の激突は一時回避される。二年後再びオスマン領に侵入したティムールはバヤズィトに臣従を進める書簡を送るが、バヤズィトはそれを拒絶、両軍はアンカラの地で激突することになる。

 戦力はティムール軍20万、オスマン軍12万と言われておりティムール側がが戦力的には優勢だった。さらにオスマン軍はコンスタンティノプール包囲から急遽駆けつけたため疲労した状態で戦いは始まる。開戦後オスマン軍に加わっていた征服間もない部隊が寝返りを起こすがオスマン軍は奮戦し昼間に始まった戦いは夜半になるまで続いた。しかし結局はオスマン軍が敗走、退却しようとしたバヤズィトは落馬し(通風を患っていたと言われる)ティムール軍の捕虜になってしまう。

 戦闘ではティムールを・バヤズィト双方ともひけを取らない采配を見せたが、人心掌握術ではどうやらティムールの方が上手だったようである。バヤズィトは勇猛であるが、意固地になることもあったという。また彼はムスリムでありながらワインを愛飲していたと言われている。ワインはヨーロッパ遠征をしているうちに味を覚えたらしいが、イスラム教の戒律では飲酒は禁忌でありアンカラの戦いではムスリム教徒の裏切りの一因になった可能性は否定できない。一方のティムールもムスリムであるが、状況によってスンニ派になったりシーア派になったりと状況に応じた立場をとっている。建国初期の段階ではモンゴル帝国の血筋にあたるものを擁立するなど抜け目のない振る舞いをしており両君主の人柄が戦闘に与えた影響は無視できないのではなかろうか。ちなみにティムールも飲酒はしていたと言われている。

 バヤズィトは捕虜となった当初は丁重に扱われていたが、脱走を計って失敗した後、厳しい監視下に置かれるようになる。サマルカンドに護送される際には格子のついた籠に入れられ、馬に引かせて護送されている。こうした扱いが元なのか、アンカラの敗戦から8ヶ月後、バヤズィトⅠ世は死亡する。死因には病死説(前述の通風など)のほかに指輪に仕込んでいた毒薬を飲んでの自殺説もある。彼の死後オスマン帝国は彼の息子たちがそれぞれ君主を名乗り分裂、内乱状態に陥ってしまう。

 一方のティムールはアンカラの戦いの2年後、東方の大国明への遠征を決意しサマルカンドを発つが、遠征中に発病する。400キロの道のりを一ヶ月以上かけてオトラルに到着しここで遠征に参加する将兵へ労いの宴会を開くが、この宴会の後症状が悪化しそのまま帰らぬ人となってしまう。生涯の多くを戦場で過ごしたティムールにとってアンカラの戦いは最後の勝利となったのである。

 ティムール・バヤズィト両者の死後、分裂したオスマン帝国はバヤズィトの息子メフメットⅠ世が再統一し、やがてヨーロッパ諸国を震撼させる大帝国に成長する。それに対しティムール帝国はティムールの死後徐々に領土が縮小してゆき約一世紀後に滅亡する。一代の英雄という点ではティムールが勝っていたが、国の組織・機構という点では破れたオスマン帝国側が反省を踏まえて再構築し、それが長期の繁栄に繋がったというべきであろう。

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 アンカラの戦いで敗れ、捕虜となりほどなく病死したバヤズィトⅠ世。肖像画には描かれていないが、彼は隻眼、もしくは片目が極端に小さい「藪睨み」だったという。
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by narutyan9801 | 2013-09-26 17:45 | 妄想(軍事) | Comments(0)

浦風型駆逐艦 ~完成しなかったタービン・ディーゼルハイブリット駆逐艦~

 近世以降国同士の戦争は直接交戦を行わなくても様々な面で他国に影響を及ぼすようになる。日本でも第四次中東戦争で「オイルショック」が起こったことは人々の脳裏に刻まれているはずである。今回は戦争により予定していた部品が届かず、その後数奇な運命を辿った二隻の駆逐艦「浦風型駆逐艦」を考察したい。

 日露戦争末期の日本海海戦で魚雷搭載の駆逐艦が夜戦で活躍したことにより日本海軍は駆逐艦の整備拡張に力を入れることになる。明治四十四年(1911年)に竣工した海風型駆逐艦はイギリスのトライバル級駆逐艦を参考にした大型駆逐艦で計画速力33ノットを実現すべくそれまでのレシプロ機関からタービン機関を採用するなど様々な新機軸を取り入れた駆逐艦であった。特に機関出力は当初の見込みよりも出力が増え、実際の運用では速力35ノットを出すことができたという。
 反面駆逐艦としては神風型は建造にコストがかかり、維持費もかかることが問題になった。駆逐艦は数を揃えることが重要で、維持費の増大は大きな問題であった。特にタービン機関の燃費が悪いのが問題視されたのである。神風型はタービンと機関を直結しており、戦闘時の出力に合わせた設計をされていた。機関は巡航用1軸、戦闘時用はそれに2軸を加えて3軸での運転としたのであるが、それでも巡航運転時の燃費が悪く、次世代の駆逐艦では巡航運転時の燃費改善が重要な問題とされたのである。

 当初はタービンとレシプロ機関との併用が検討されたが、レシプロ機関は廃熱のためのスペースが大きくなり、艦体が大きくなることから除外された。苦慮する日本海軍に英国の造船会社ヤーロー社が「タービンとディーゼル機関の併用」を持ちかけてきたのである。
 当時ディーゼル機関は開発されてまだ日が浅く、艦船への搭載は本格的に始まっていなかったが内燃機関で廃熱処理にさほどのスペースを要さず、重油を燃料として使用できるなどのメリットもあり、日本海軍はこの提案に乗り、ヤーロー社に二隻の駆逐艦を発注することにする。これが後の「浦風型」である。しかしヤーロー社、そしてその後ろに控えるイギリス海軍としてはタービンとレシプロの併用艦の実験として他国が金を出してくれるといった面持ちではなかったろうか。

 ところが浦風型建造中に第一次大戦が勃発し困ったことが起こってしまう。浦風型に搭載する予定だったディーゼル機関に必要なフルカン式継手(流体継手)はドイツのフルカン社の製品で、ドイツとイギリスが交戦国となってしまい入手できなくなってしまったのである。やむなくヤーロー社は浦風型に従来通りのタービン機関を搭載し完成させざるを得なくなってしまった。
 これには日本海軍の落胆も大きかったと思える。これより少し早い時期に日本海軍は英ビッカース社に巡洋戦艦「金剛」を発注し、その図面を譲り受け「榛名」「比叡」「霧島」を建造している。おそらくは浦風型駆逐艦も図面を譲り受け、国内で量産しようという目論見だったのではなかろうか。しかし浦風型が既存の技術のみで建造された艦となってしまい、その目論見は外れることになった。
 ただ、浦風型は日本駆逐艦としては初めて重油専燃ボイラーを搭載し、53cm魚雷を搭載するなど当時の日本駆逐艦よりも進んだ技術を持っていた点もある。しかし最大速力は30ノットと平凡で浦風型の竣工から二年後に日本国内で建造された磯風型よりも劣り(ただ磯風型のボイラーは重油と石炭の混合缶)燃費も従来型と変わらなければ浦風型の建造は徒労に終わったと感じても仕方のないところだろう。

 日本海軍は建造した浦風型の扱いに苦慮したが、第一次大戦が勃発したヨーロッパで思わぬ要望が舞い込む。当時連合国側に参戦していたイタリア海軍は駆逐艦の不足に悩んでおり、日本海軍に建造中だった浦風型二番艦の「江風」の購入を申し込んだのである。日本海軍もこれを了承し、「江風」はイタリア海軍駆逐艦「オーダチェ」として完成、第一次大戦で使用されることになる。売却代金を得た日本海軍はその代金を元に新型の駆逐艦を建造、この駆逐艦のボイラーは重油専燃缶でギアを装備したタービン機関を搭載した新駆逐艦は速力39ノットを記録する。この駆逐艦は売却された駆逐艦の名前を継承し「江風型」と名付けられることになる。

 一方日本海軍所属となった浦風は日本に回航されたが、単艦のため水雷戦隊への編入は困難であった。一時的に神風型で編成された駆逐隊へ編入されたが短期間で外されている。浦風に与えられた任務は揚子江での警備任務であった。浦風は昭和一一年に除籍されるが、その間に五藤存知、栗田健男、西村祥治などの太平洋戦争時に水上部隊を率いる提督が駆逐艦長を勤めている。除籍後浦風は横須賀海兵団の練習船を勤めていたが太平洋戦争末期の横須賀空襲で被弾、着底し戦後解体されその生涯を終えている。

 一方イタリアに売却された旧「江風」は第一次大戦を生き延び駆逐艦籍のまま第二次大戦にも参加、イタリア降伏後ドイツ海軍に接収されドイツ海軍水雷艇「TA20」となる。大戦末期の1944年11月1日に連合国水上艦艇と交戦し戦没、その数奇な生涯を閉じている。
 ある意味お荷物として誕生した浦風型であるが、竣工後は長く使用され共に戦闘でその生涯を閉じたことに関しては本望だったのではないだろうか。

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浦風型駆逐艦「江風」→イタリア駆逐艦「オーダチェ」→ドイツ水雷艇「TA20」と歩んだ晩年の姿。アラド Ar 196との2ショットである。
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by narutyan9801 | 2013-09-18 09:09 | 妄想(軍事) | Comments(0)

駆逐艦 島風 ~日本海軍水雷戦隊の理想の結晶~

 兵器というものは個々の性能も重要であるが使用数という要素も実際に戦場で用いられる際には重要な要素になる。たとえ能力的にずば抜けていても戦術的に連携が重視される兵器ではその能力が発揮されず宝の持ち腐れになることが多い。今回は能力的には既存の兵器を凌駕したものの量産が見送られその能力を発揮できなかった駆逐艦「島風」を考察したい。

 日本海軍は1920年代に「特型」駆逐艦を竣工させ水雷戦隊の能力は世界レベルを凌駕することになった。これはワシントン条約で主力艦(戦艦)の保有数が制限され、補助艦艇である程度の敵主力艦を撃滅する必要が生じたためであるが、続くロンドン軍縮条約で補助艦艇にも制限が設けられてしまう。日本海軍は制限された範囲内で特型に匹敵する攻撃力を持たせようと努力するがその設計には無理があり満足する駆逐艦は建造できないでいた。
 昭和一二年のマル三拡張計画の際、日本海軍はロンドン条約の失効を踏まえて条約に縛られない駆逐艦の建造を目指す。この時の要求の大綱は
 ① 速力36ノット以上
 ② 航続距離18ノットで5,000海里以上
 ③ 兵装、艦型は特型と同程度
という要求を出すが、特型と同程度の艦型では速力を35ノットに押さえるか、航続距離を18ノット4,500海里に押さえないと実現は不可能ということになり、速力を35ノットに押さえて建造を行うことになった。こうして建造されたのが陽炎型である。ロンドン条約失効で自由な設計を行えた日本海軍であったが、自らの制限により理想の駆逐艦は今回も建造できなかった。さらに陽炎型の建造を察知した仮想敵国である米海軍は新型の駆逐艦「フレッチャー級」を建造する。すでに米海軍駆逐艦フレッチャー級の前型であるリヴァモア級で37.5ノット、フレッチャー級でも37ノットの高速性能を有しており陽炎型では対抗できず、日本海軍は次世代駆逐艦には速力の向上が望まれたのである。

 昭和14年のマル四計画において陽炎型の改良型である夕雲型の建造と共に一隻の駆逐艦の建造が承認される。これが後の島風である。島風は陽炎型の一隻である天津風や隼鷹型に装備された高温高圧缶を装備し速力40ノットを実現するべく計画された試験的な艦として計画されたのである。その能力は
 ① 基準排水量2,567トン、満載3,048トンと従来の駆逐艦より大型
 ② 速力40ノット
 ③ 航続距離18ノットで6,000海里
となっていた。 

 日本海軍はかって峯風型駆逐艦の初代島風が40.7ノットの速力を発揮しており、「島風」の命名も初代にあやかっての命名であったろう。初代島風は二代目の建造が決まった後駆逐艦籍から哨戒艇籍に転籍となり「第一号哨戒艇」となっていた。第一号哨戒艇は二代目島風の竣工直前に米潜水艦の雷撃で沈没している

 二代目島風(以後島風で統一する)のもう一つの特色は重雷装であった。従来の日本駆逐艦は中心軸上に魚雷を装備し射線は3×3の九門ないし4×2の八門であったが、島風は一気に5×3の一五門を装備している。魚雷の発射は敵艦隊に肉薄して行い、さらに乱戦になってしまうと魚雷は使用が難しくなってしまう兵器である。魚雷の命中を期待するには発射できるタイミングでなるべく多くの魚雷を発射できるのが望ましくそのため島風は合計一五門の発射管を装備したのである。当初発射管は7連装2基の14門の予定であったが、重量が重くなり非常時の人力操作が難しくなることと、島風が従来の駆逐艦より大きくなりプラットホームに余裕があったため5連装3基に改められている。
 さらに特色として竣工時から22号対水上用電探を装備していた。これは建造途中に装備が決まったものであったろう。竣工時にレーダーを装備していたことは後に島風の運用に大きな影響を与える。

 反面備砲は夕雲型と同じ50口径三年式12.7センチ連装砲D型3基であった。この砲は駆逐艦用主砲として日本海軍が採用し続けてきたもので、D型は仰角75度までが可能であり、一応対空射撃も可能であった。しかしこの砲は弾頭と装薬が別々であり、装填の際に砲身を水平に戻す必要があった。このため対空射撃は事実上困難であり、この点は従来の日本駆逐艦と同様であった。同時期には乙型(秋月型駆逐艦)の建造も決まっており日本海軍は防空用に秋月型、水雷戦隊用に島風型と使い分けるつもりだったと思われる。

 島風は昭和16年8月8日に起工、昭和18年5月10日に竣工する。竣工に先立つ公試で40.9ノットを記録する。しかしこの公試は従来の駆逐艦が行っていた2/3状態(燃料と弾薬を2/3積んだと同じ重量の状態)ではなく1/2状態で行われており、実際に2/3状態で40ノットを超えたかどうかは疑問であると言われている。いずれにしてもこの時点で日本海軍はかって手にしたことのない高速重雷装駆逐艦を入手したことになる。

 しかし戦局はすでに高速重雷装の島風を必要としなくなっていた。日本駆逐艦が本来の任務としてきた水雷戦はガダルカナル島を巡る攻防を境にほとんど行われなくなり、実施されてもレーダーを装備した米軍に先手を取られることが多くなっていた。日本駆逐艦は戦前には想定していなかった護衛任務に就くことが多く、不得手な対空、対潜戦闘で消耗していったのである。そしてその消耗した駆逐艦の補充に当てられるのは島風の量産を中止して建造されることになった丁型と名付けられた駆逐艦であった。丁型は島風の半分の排水量、1/4の出力、12ノット(時速約22km)も遅い駆逐艦だったが小さいながらもそれまでの駆逐艦がボイラーと機関を独立させていてどちらか一方が破壊されると航行不能になるのに対し、ボイラーと機関を1セットごとに独立させた丁型は損傷してもしぶとく戦場から生還することも多かった。また丁型は3門ではあるが高角砲を主砲に採用し対空戦闘もこなせた。戦局は島風の能力を生かせる局面では無くなっていたのである。

 もし日米開戦が6年ほど遅れ、昭和22年頃に開戦になっていれば蘭印を巡る海戦で名を馳せたのは量産された島風型だったかもしれない。水雷戦隊は複数の艦が隊列を組んで突撃し、敵艦隊に多数の魚雷を発射することで多くの命中を得ることが基本である。このためには艦の能力が揃っていないと戦力として成り立たない。島風が数ノットスピードを落として陽炎型等たの水雷戦隊に加入することは不可能で、量産を見送られたことで島風が水雷戦隊に加わり、雷撃戦を行うことは不可能になってしまったのである。

 竣工後島風は幌筵島への護衛任務に就く、この時目に留まったのか、はたまた電探装備なのが聞こえたのか護衛任務を終了し呉に帰投した島風はキスカ島撤収作戦に投入されるため再度幌筵島にトンボ帰りする。作戦参加中キスカ島到着直前に島風はレーダーに艦影を捕らえ、巡洋艦阿武隈と共に魚雷を発射する。この艦影は実は岩礁であった。結局は無駄打ちに終わったが、島風にとっては最初で最後の「敵へ向けての魚雷発射」であった。
 キスカ撤収作戦終了後北方部隊の指揮を離れ島風は呉へ帰投する。この作戦の最中に島風は第二水雷戦隊に編入されるが単艦での付属扱いであり、任務は護衛任務ばかりであった。11月にはラバウルに進出し、そこで米機動部隊の空襲に遭遇するが被害無く切り抜け、損傷艦の護衛を行いトラックに帰投、その後も護衛任務に明け暮れる。

 昭和19年5月に米軍がビアク島に米軍が上陸しビアク島の戦いが始まると島風は第三次渾作戦に「大和」「武蔵」と共に参加するが、サイパン島に米軍上陸の報が伝わり渾作戦は中止、島風はマリアナ沖海戦に参加するが無事に帰還する。

 マリアナ沖海戦後島風はリンガ泊地に進出し、訓練を行う。10月のレイテ沖海戦では栗田艦隊に所属するがシブヤン海で沈没に瀕した武蔵に乗っていた摩耶の乗員を移乗させ、そのままサマール沖海戦に参加する。サマール沖海戦で大和の護衛に回った島風は雷撃を行う機会は訪れなかった。

 レイテ沖海戦後マニラ湾に退いた島風に旗艦能代が沈没した第二水雷戦隊が乗艦し島風は旗艦となる。同型艦が無く水雷戦を行い得ない島風にはむしろ旗艦任務の方が好都合だったろう。しかし島風はせいぜい駆逐隊司令部程度のスペースしかなく水雷戦隊旗艦任務ではかなり手狭であったと思われる。

 レイテ沖で相当の損害を米軍に与えたと誤認していた日本海軍は陸軍のレイテ島増援を支援する「多号作戦」を実行する。島風は第三次多号作戦で輸送船を護衛する任務を命ぜられ、最後の任務に出撃することになる。
 昭和19年11月11日昼前に輸送部隊は揚陸場所であるレイテ島オルモック湾にさしかかるが、島風のレーダーは多数の米軍機をキャッチする。これは輸送部隊を援護するために出撃してきた大和などを攻撃するために出撃した米海軍の第38任務部隊の艦載機で、大和らを発見できなかったために輸送船団攻撃に廻ってきたものであった。

 対空戦闘直前、第二水雷戦隊司令の早川幹夫少将は島風の搭載魚雷を投棄する命令を出す。水雷戦隊の誇りでもある魚雷を捨てざるを得ないだけの苦闘を覚悟したのであろう。輸送船団は揚陸地に向かう途中で全滅し、多数の攻撃隊(総数347機)が残った島風等の護衛艦隊に襲いかかった。オルモック湾は狭く島風は最大戦速を発揮できなかったがそれでも必死に操艦を行い、島風は投下された爆弾の直撃を被ることはなかった。しかし多くの至近弾及び機銃掃射を受けついには航行不能に陥る。救援しようとした他の駆逐艦も激しい攻撃で接舷を断念せざるをえなかった。夕刻、島風の命であったボイラーが加熱により爆発、島風は後部からオルモック湾に沈んでいった。島風の乗員の多くは戦死したが艦長以下数十人はレイテ島にたどり着き12月2日に入港した駆逐艦「竹」に便乗しマニラへの帰途に就く。その途上に島風乗組員が見たものは夜戦の中竹の魚雷を受けて沈没する米駆逐艦「クーパー」の最後だった。日本海軍海上艦艇最後の魚雷戦戦果を島風は見せたかったのかもしれない。

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        公試中の島風、艦首から湧き上がっているダイナミックな艦首波が印象的である。

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昭和19年11月11日、オルモック湾で最後を迎える直前の島風、多数の至近弾、機銃掃射により艦上の魚雷発射管、主砲は損害を被り戦闘能力は失われ、速力も衰えている。舳先が至近弾により折下しており、艦首波が不自然な形状になっている。この写真の直後島風は加熱したボイラーに浸水し水蒸気爆発を起こし沈没する。
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by narutyan9801 | 2013-09-11 11:28 | 妄想(軍事) | Comments(0)

駆逐艦 天津風 ~半身を失った駆逐艦の奮戦~

 船という乗り物は想像以上に損傷に対しての回復力が大きい乗り物である。船は多くのブロックに分けられて建造され、それらを鋲接や溶接で組み合わせるので各パーツごとの取り替えが可能なこと、船体そのものよりも機関の建造の方が手間やコストがかかり、これらが再使用可能であれば極力流用するためなどが要因としてあげられる。この特性は損傷を受けることが前提条件である軍用艦ではさらに顕著で普通の感覚では全損で当然と思われる損傷を受けた艦が再生されることも多い。今回は遠く南方で損傷し修理のため日本帰還を目指し果たせなかった駆逐艦「天津風(二代目)」を考察したい。

 天津風と命名された駆逐艦は二隻存在する。今回考察する天津風は陽炎型駆逐艦九番艦の二代目「天津風」である。天津風は昭和十四年(1939年)二月に起工されている。天津風の大きな特徴として、実艦装備実験のため他の陽炎型よりも高温高圧のボイラーを装備したことがあげられる。日本海軍は次世代の駆逐艦として最大速力40ノットの駆逐艦の建造を計画しており、それに装備する予定だったボイラーを試験的に天津風に装備したのであった。従来の陽炎型のボイラーの蒸気は圧力30kgf/cm2、温度350℃であったが天津風装備のボイラーは圧力40kgf/cm2、温度400℃の高温高圧ボイラーだった。蒸気を受けるタービン機関は従来の陽炎型と同等なので他の姉妹艦と速力に違いは無かったが(そうしないと戦隊が組めない)燃費に関しては13%ほど天津風が勝っていたと言われている。昭和一五年(1940年)10月26日に竣工した天津風は他の陽炎型姉妹艦(初風、時津風、雪風)と第16駆逐隊を編成、太平妖怪戦後フィリピン攻略、蘭印攻略作戦、ミッドウェー海戦等に参加した後ガダルカナル攻防戦に加わることになる。

 1942年11月12日の第三次ソロモン海戦第一夜戦で天津風は奮戦するものの米駆逐艦主砲が第二缶室を直撃し、さらに小口径弾多数が命中、戦死傷者70人以上を出す損害を受ける。損傷修理のため呉に回航された天津風は翌年一月まで修理を行い、2月にはトラックに進出するが、この後はもっぱら輸送護衛任務に就くことになる。これはガダルカナル攻防と3月のビスマルク海海戦で多くの駆逐艦を失った日本海軍は駆逐戦隊の再編成を行う余裕が無く前線に出ていた駆逐艦同士で臨時編成をして出撃をさせていたため、編成からあぶれていた天津風が入り込む余地がない状況になってしまったためと思われる。かって編入されていた第二水雷戦隊旗艦「神通」が戦没した「コロンバンガラ島沖海戦」、僚艦だった初風が戦没したブーゲンビル島沖海戦にも参加できなかった。

 昭和十八年中盤頃から米潜水艦による輸送船を狙った通商破壊作戦の損害が大きくなり日本海軍では対応に迫られていた。天津風はソロモンの戦いから帰還した僚艦雪風とともに「ヒ31船団」の輸送任務に当たることになる。この輸送任務では軽空母「千歳」が初めて船団護衛に加わるなどかなり強力な護送船団であったが昭和十九年(1944年)1月16日、天津風は浮上していた米潜水艦「レッドフィン」を攻撃するが、レッドフィンの反撃の魚雷が左舷中央に命中、艦橋直後で艦は二つに折れ、間もなく前部は沈没してしまう。艦前部で配置に付いていた乗組員は数人が分離前に後部に移動することができたが、駆逐隊司令古川大佐以下74名が戦死する。残された艦後部は一週間の漂流したのち発見されサイゴンに入港、長期間に渡る修理を行う。

 しかし実際には天津風はほとんど放置されていたと言っていい状態だったと思われる。すでにトラック空襲を受け戦場は中部太平洋に移っており艦体が断絶した損傷艦に目を配ることは難しくなっていたのではないだろうか?そうでなければ十ヶ月も天津風を放置しておく理由が見つからない。

 サイゴンでの応急修理は11月8日に一応終了し、天津風は11月15日シンガポールに回航、ここで機関の修理と仮設艦首の装着を行う。残された第二ボイラーと機関の整備により天津風は20ノットの速力を発揮できるようになる。さらに仮設艦首には大きな波を作り出し実際よりも速力が出ている効果を持たせてあったということが様々な資料に書かれている。天津風の最後の戦闘写真を見ると確かに艦首波が過剰に発生していることがわかるが、この効果は狙ったものではなくおそらくは副産物的なものであり、本当の効果は「舵を切れるように水の抵抗をわざと増した」のではなかったろうか?
 元来船の舵というものは船の大きさに合わせて設計されるもので、天津風のように艦体が40mも短くなれば舵のバランスが崩れ、艦の操作が不可能になると思われる。このため艦首の抵抗を大きくし舵のバランスを整え繰艦性能を得るための苦肉の策ではなかったかと思える。しかしそれでも舵の切れは良くなかったのではないだろうか?後の4月6日の戦闘では速力が劣るはずの海防艦の航行に付いていけず落後しているのがその証拠と思える。この日荒天で舵に加えピッチングが激しかったことも落後の原因であったろう。機関は幾分回復したといっても、正直なところ天津風には外海航行能力はかなり減退してしまっていたといっていい状況だったのではなかろうか?

 昭和二十年(1945年)3月17日、日本海軍は「ヒ88J船団」の編成を決定、天津風はこの船団に加わっての日本帰還が命令される。すでにシンガポールに残っていた海軍の有力艦艇は一ヶ月前の「北号作戦」で無事に日本に帰還しており、シンガポールには重巡洋艦「羽黒」「足柄」駆逐艦「神風」、そして損傷で航行できない重巡洋艦「妙高」「高雄」などしか残っていなかった。現地司令部では天津風の状況を考え、シンガポールに残ることを勧めたが新任の森田友幸艦長は内地での修理を望み出航に踏み切ることを申し出た。餞として現地司令部から北号作戦参加艦艇が残していった機銃数基が天津風に装備される。こうして南方からの最後の便となる船団に天津風は加わることになるのである。

 しかし無線傍受で船団の出航を察知していた米軍の攻撃は激しく、船団に加わっていた輸送船はすべて沈没、天津風も海南島に停泊した際に爆撃を受け不発ながら一発が命中している。何とか香港までたどり着いた「ヒ88J船団」生き残りの護衛艦はここで新たに編成された「ホモ03船団」を護衛して門司に向かうことになる。護衛する船舶は二隻、それを護衛する艦艇は天津風、海防艦2隻、駆潜艇2隻であった。しかし香港を出航してまもなく輸送船2隻は航空機の攻撃を受け沈没。駆潜艇二隻は救助した人員を乗せて香港に引き返すことになった。残った天津風と海防艦1号、海防艦134号は日本帰還を目指して航行を続ける。

 三隻は航行を続けたが、次第に天津風と海防艦との距離は離れ、午前11時半頃には二十海里の距離が開いてしまう。そこへ米陸軍のB-25爆撃機が反跳爆撃を行い、先行した海防艦二隻は撃沈、残った天津風にも計18機のB-25が攻撃をかけ、爆弾3発が命中し主砲が破壊、機関も停止し天津風は漂流しはじめる。しかし米軍側も天津風の反撃で3機を撃墜され、追撃を控える。沈没に瀕した天津風は攻撃が止むと懸命の復旧作業が開始されるのである。

 天津風は燃料タンクが破損し、重油タンクに海水が混じったたため乗員は手で浸水した海水を掬って重油を確保し、機関の再起動に成功、出力の調節ができず6ノットの速力に固定された天津風は日本軍がいる廈門を目指して航行する。夕刻にようやく廈門に到着した天津風は機関を停止するが、潤滑油に海水が侵入して焼き付き、機関が使用不能になる。さらに爆撃で錨を失っていた天津風は錨泊が出来ず、潮流に流され夜間に座礁してしまう。さらに現地住民が略奪を仕掛け、これは撃退したもののここに至って艦長は艦の維持は無理と判断、装備などを陸揚げした後4月10日に爆雷の自爆により処分され、天津風は厦門湾でその生涯を閉じることになる。処分の3日前、廈門から千キロ離れた沖縄北方で天津風の姉妹艦「浜風」「磯風」が戦没しており、天津風の沈没時に姉妹艦で生き残ったのは「雪風」一隻のみとなっていた。天津風は陽炎型駆逐艦の太平洋戦争における最後の戦没艦であった。

 天津風の日本回航は無謀な旅だったかもしれない。しかし便乗者のうち161名は廈門までたどり着き生きながらえることができた(戦死者39名)課せられた命令の苛烈さを考えると多くの生存者を味方根拠地まで送り届けたことは功績として評価していいと思える。

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                           公試中の天津風
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天津風の同型艦、不知火の損傷状況。不知火は昭和一七年(1942年)米潜グローリーの雷撃を受け艦体前部切断の損傷を被る。切断箇所は天津風の切断箇所とほぼ同じ部分である。
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B-25の攻撃を受け損傷した天津風。後部主砲は破壊され既に戦闘力は喪失している。行き足は止まっているようだがこの後天津風は機関の応急修理を行い、6ノットで厦門に向けて航行することになる。

25歳の艦長海戦記―駆逐艦「天津風」かく戦えり (光人社NF文庫)
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by narutyan9801 | 2013-09-04 11:00 | 妄想(軍事) | Comments(0)

イギリス・ザンジバル戦争 ~ギネスにも登録されている最も短時間で終結した戦争~

 国家間の武力衝突はかなり大雑把に分けると「武力紛争」と「戦争」に二分する事ができる。「戦争」は一方、またはお互いが「最後通牒」を交わし戦争状態に入ることを宣言するのに対し「武力紛争」はお互いの軍隊が「戦争しますよ」と宣言せずに戦い始めることと定義できる(紛争が始まった後、最後通牒を出して戦争になる場合も多い)
 戦争は宣言をするだけに国内の意志疎通や準備などが必要なことが多く、それだけに武力紛争と違い一度最後通牒を出したのち戦争状態になるとすぐに終結させることは難しい。しかし人類の長い戦史には戦争開始後わずか40分で集結した「戦争」も存在する。今回は史上最も短い戦争とギネスにも記載されている「イギリス・ザンジバル戦争」を考察したい。

 アフリカ東岸に位置するザンジバルは19世紀初頭にはインド洋に面するアフリカ東岸を支配する一大帝国であったが、その後ヨーロッパ列強のアフリカ分割により衰退し19世紀末にはアフリカ沿岸の権益をすべて失い、本領であるザンジバル諸島のみを支配する小国となっていた。そのザンジバル諸島もイギリスとドイツの権益が入り込み、アフリカ東岸の両国の植民地支配のための緩衝地帯といっていい存在になっていた。ザンジバル・スルタン国は1890年イギリスの保護国となって名目上の独立を維持しており、当時のスルタン、ハマド・ビン・トゥワイニはイギリスに協力的でイギリスも半ば植民地としていたザンジバルのスルタンの面目を潰さないよう配慮していた。しかしスルタン国内にはイギリスの姿勢に不満を持つ勢力もあり、その急先鋒がスルタンの甥ハリド・ビン・バルガシュであった。
 1896年8月25日、バルガシュは突如クーデターを敢行しスルタンを殺害、自らが新しいスルタンになると宣言する。しかしイギリスは別のスルタン候補であったハムード・ビン・ムハンマドを擁立し、ムハンマドの名でバルガシュに退位要求、及び退位しなかった場合の最後通牒を突きつけるのである。バルガシュはこの最後通牒を黙殺し海に面したザンジバル王宮に陸兵2800人を集結させ、ムハンマド及び背後のイギリス勢力に対し全面戦争も辞さない構えを取っていた。

 当時ザンジバルは西インド洋のイギリス海軍の根拠地の一つであり、イギリス海軍の艦艇が数隻停泊していた。これらの艦艇は戦闘態勢を整えるとともに乗組員から陸戦隊が組織される。イギリスは当時最新鋭だったエドガー級防護巡洋艦「セント・ジョージ」を含む5隻の艦艇が集結する。対するバルガシュ側の海軍力は旧式の武装艦である「グラスゴー」一隻のみ、それも名前が示すとおり元々イギリスが譲与したスルタンの遊覧船に大砲を積んだだけの代物であった。ただ陸兵の兵数に関してはバルガシュ側が有利でありムハンマド派の陸兵も状況によっては寝返る可能性もあったため、ムハンマド側はイギリスの戦力に全面的に頼らねばならない状況だった。

 最後通牒回答の期日である1896年8月27日午前9時、直前に行われたアメリカ仲介の和平交渉も進展せず、ムハンマド側は攻撃を開始する。まずグラスゴーが集中砲火を浴び数分で撃沈、その後王宮への砲撃が始まり数十分でザンジバル王宮は廃墟と化してしまう、バルガシュ側の兵士は多くが逃亡してしまい、バルガシュ自身もドイツ領事館に逃げ込み保護を要請することになる。こうして戦闘は約40分(37分23秒という記録がある)で終結し、戦史史上最も短い戦争は幕を閉じることになる。イギリス側に死者は出ず、軍艦一隻に軽微な損傷があっただけであった。バルガシュ側の兵士は約500人が戦死している。

 イギリスは戦争後ハムード・ビン・ムハンマドをスルタンに推戴したが、スルタンは完全に名目上の存在になりイギリスはザンジバルの植民地化を進める。ザンジバル・スルタン国は1963年にザンジバル王国として独立を回復するがわずか一か月でクーデターにより王国は崩壊、その後アフリカ大陸のタンガニーカ共和国と合併、現在はタンザニア共和国に属している。
 一方ドイツ領事館に逃れたバルガシュはその後アフリカ大陸のドイツ領に亡命するが第一次大戦でイギリスがドイツ領アフリカに侵攻した際に逮捕され、一時はセントヘレナに流刑になる。後に赦免されアフリカに戻ることを許されるが故郷に帰ることは許されず1927年ケニアで波乱の生涯を閉じている。
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      戦闘後のザンジバル市街の惨状。数十分とはいえ相当の砲弾が市街に打ち込まれている。
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by narutyan9801 | 2013-08-26 10:29 | 妄想(軍事) | Comments(0)

給糧艦 間宮 ~日本海軍の胃袋を支え続けた殊勲艦~

 人間が生きていくために必要不可欠な欲求の一つに「食欲」がある。特に束縛される状況では「食欲」は重要な娯楽となり、たとえ「食欲」が満たされるだけの食事量が有ったとしても単調な食事が続くと心理面の荒廃が起こってしまうと言われている。束縛が常態化する軍隊、特に人間の活動の場から切り離されてしまう海軍艦艇勤務者にとって食事の「質」は士気を維持する上で重要な要素である。今回は日本海軍の胃袋を支え続け、日本海軍艦艇乗組員に最も愛された給糧艦「間宮」を考察したい。

 間宮は「給糧艦」という艦種に属する。給糧艦は艦隊に食料を補給することを任務とする艦種であるが、創生期から大正中期までの日本海軍には「給糧艦」は存在しなかった。これは初期の日本海軍が日本沿岸を防衛するために整備された海軍であり、長期間の洋上活動は考慮されていなかったためである。第一次大戦で連合軍の一員として参戦した日本海軍は初めて長時間の洋上作戦行動を行うが、このときは同盟国である英国の支援を受けることができたのである。

 第一次大戦後、日本の仮想敵国であるアメリカとの海軍力から、日本海軍の戦略が「日本沿岸まで引き寄せた後の決戦により撃滅」から「日本へ進撃途中に戦力を削り取ったのちに撃滅」と変化し、日本海軍が長期間洋上で行動できる必要性が生じるようになる。また日英同盟の解消により日本海軍は日本から離れた所での食料供給能力を自前で行なわなければならなくなり、給糧艦の建造が考えられるようになったのである。

 折しも海軍内では「八八艦隊」の計画が進んでおり、八八艦隊の支援艦艇として能登呂型給油艦の建造が国会で承認されていた。日本海軍は能登呂型給油艦の一隻の予算を給糧艦建造に当てたいと要望し、建造されたのが給糧艦「間宮」である。

 間宮の建造は民間委託され川崎造船所で建造されている。もっとも間宮には戦闘能力は必要なく、海軍にはほぼ無縁である冷蔵、冷凍設備を充実させる必要があったため民間委託での建造が当然であったろう。こうして大正十三年(1924年)海軍唯一の給糧艦間宮は竣工する。

 間宮は18,000人の食料補給能力を有し、艦内で加工食品の製造を行うことも可能であった。第一次大戦でエムデン追撃などに従事した日本海軍将兵はイギリスなどから食料の供給を受けたが、加工食品は西洋風であり洋食に慣れた士官はともかく、下士官兵には不評であった。そのため間宮には和食の食材である豆腐やこんにゃくの加工設備が整備され、また羊羹、饅頭といった和菓子、アイスクリームなどの嗜好品の製造も可能であった。変わったところでは「床屋」も間宮には設けられていた。こうした施設で働く人々は軍属として雇われた「職人」であり、食品の品質は娑婆のものと遜色ないものであったという。艦隊の作業地に間宮が入港すると新鮮な食品が供給され、艦隊の士気がみる間に上がったと言われる。

 間宮は正式な「軍艦」ではない。しかし歴代の間宮艦長には「大佐」が多く配属されている。これは間宮の存在の特殊性が現れている。間宮の任務上海外の港に入港して食料を購入しそれを艦隊に補給するという任務が発生する可能性がある。この場合軍艦を率いれる身分である「大佐」であれば何かと利便性が高い。こうしたことで間宮には大佐が多く配属されたと思われる。

 間宮は竣工以来一貫して艦隊に配属され続けている。通常艦艇は一年おきに予備艦として整備や改装を行うのであるが、日本海軍にただ一隻しか無かった間宮にはその暇を取れる余裕が無かった。間宮の次に建造された給糧艦「伊良湖」が竣工したのは昭和十六年(1941年)12月5日、太平洋戦争開戦3日前である。
 太平洋戦争勃発後も間宮は前線への食料供給に働き続け、二度米潜水艦からの魚雷攻撃により損傷を受けているが沈没は逃れていた。海軍将兵に愛された艦は幸運にも恵まれていたのだろう(米軍の魚雷に不備があったことも事実ではある)。僚艦伊良湖が大破着底し放棄された後も間宮は働き続けるが、昭和十九年十二月二十日にその命運が尽きる。すでに制空権を失ったフィリピン・マニラに食料を補給する任務の途中、海南島東方で米潜水艦「シーライオン」の雷撃を」受け艦長加瀬三郎大佐以下多数の将兵と共に南シナ海に間宮は沈没する。将兵の胃袋を満たすために働き続けた艦の最後であった。

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                       艤装中の大和の背後に停泊する間宮
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by narutyan9801 | 2013-08-22 11:21 | 妄想(軍事) | Comments(0)