鼈の独り言(妄想編)

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カテゴリ:妄想(歴史)( 15 )

ノルマン人の北方開拓 ~コロンブスに先んじた冒険開拓者達~

 学校の歴史の授業ではヨーロッパ人のアメリカ大陸発見をコロンブスの航海によるものと教えているが、現在ではヨーロッパ人のアメリカ大陸発見はそれ以前に行われ、入植も行われていたことが分かっている。この入植は最終的には定着せず、入植地は人々から忘れられ消滅していった。今回はこの「ノルマン人のグリーンランド及び北アメリカ入植」を考察したい。

 ノルマン人によるグリーンランド入植が記録上に搭乗するのは西暦980年頃からである。入植したのは「赤毛のエイリーク」と呼ばれた男で、この男の物語である「赤毛のエイリークのサガ」によれば彼は殺人を犯し3年間の国外追放になった際現在のグリーンランドを冒険し、帰国後この地への入植を熱心に説いて回ったという。この際入植希望者を引きつけるためこの地を緑溢れる地「グリーンランド」と名付けたと言われている。
 現在グリーンランドは氷に覆われた極寒の地であるが、赤毛のエイリークの命名は決して膨張とはいえない。この時代は「中世の温暖期」と呼ばれる温暖な気候が続き、たとえば日本の記録では温暖化が顕著化した現在とほぼ同じ頃に「桜」の開花が始まったことが記録されている(この時代の「桜」は「ソメイヨシノ」ではなくエゾヤマザクラだったことを考えると現在よりも温暖だった可能性が高い)北極付近でも気温が上がりグリーンランドでも森林が広がっていた可能性が高い。エイリークの入植活動は成功し、グリーンランドでは最盛期に二カ所の入植地に8,000人が暮らす規模にまで発展する。

 グリーンランドの入植から数年後、さらに西に陸地があることが発見される。サガの記録によると985年、グリーンランド入植へ向かう船が嵐で航路を外れ、西に流された際に陸地を目撃したというのが最初の記録である。その目撃談を元にレイフ・エリクソンという男がその地の探索を行い、15年後にはヴィンランドと名付けられた地に小規模の開拓地を持ったという記録が残っている。さらに記録によるとこのほかに小石に覆われた「へッルランド」、森林が多い「マルクランド」という二つの地を発見したと記録されている。グリーンランドでは入手できない木材を産するマルクランドは重要な発見であった。

 しかしヴィンランドの入植地を含め、この新たに発見された地は恒久的な入植は行われなかった。原因の一つとして考えられるのは先住民との対立があったからだろう
と思われる。「サガ」の記録にも「スクレリング」と呼ばれる先住民との闘争が記録されており、先住民との争いが当初からあったことが記録されている。また推測であるが、グリーンランドの入植地も結局は「交易地」に止まっていたことも関係してくるかもしれない。入植を行ったとはいえグリーンランドの気候は厳しく農作物は自給自足がやっとではなかったと思われ、重要物品はおそらく交易によって得られていたのではないかと思われる。時代が下って1261年にグリーンランドの住民はノルウェー王国の支配を比較的すんなりと受け入れたのは交易の安定した継続を望んだことが背景にあるかもしれない。新たな土地に無理に入植して負担を増やすよりも交易品となるもの(毛皮等)を入手するために新たな土地へ行き来すればいいと判断があったと思われる。それでも北アメリカ大陸とグリーンランドとの行き来は数百年続き、ノルウェー王国の硬貨やヨーロッパで製造された物品が後に北アメリカで発見されている。

 14世紀に入るとグリーンランドの入植地は衰退してゆく。「中世の温暖期」が終わり地球は小氷河期と呼ばれる低温時代を迎える。グリーンランド周辺は海が結氷する時期が長くなり海氷も増えたため航海に危険が伴うようになり交易は衰え、農作物の収穫も激減したと考えられている。寒冷化が入植地衰退の最大の原因であろうが、それに加えてヨーロッパでの商貿易の中心が地中海へ移りアフリカから大量に毛皮、象牙などが輸入されグリーンランドの物品の取引が衰退したことも一つ要因となったとも考えられる。
 グリーンランドに二つあった入植地の一つは1350年頃に放棄、1378年には入植地の司祭も居なくなり1408年に一件の婚姻があったことを最後にグリーンランドの入植地の記録は途絶えてしまう。1450年頃にはグリーンランドからヨーロッパ人は姿を消したと考えられている。

 しかしヨーロッパではグリーンランドの記録は忘れられた訳ではなかった。連絡が途絶えて約300年後、ノルウェーからグリーンランドへ探検隊を派遣する。この探検隊の主な目的は中世の「カトリック」がグリーンランドに残っているかどうかの調査であったことは興味深い。探検隊が発見したのは廃墟と化し、氷に埋もれた入植地の跡であった。さらに1960年代にニューファンドランド島で開拓地が発見され、ノルマン人がアメリカ大陸周辺に到達したことが確実視されるようになった。この地はサガの記録に登場する「ヴィンランド」と推定されている。残る「ヘッルランド」はバフィン島、「マルクランド」はカナダのラブラドール地方と推定されているが、その証拠となる遺跡はまだ見つかっていない。

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 グリーンランドに入植を行った「赤毛のエイリーグ」後年に書かれた想像の肖像画で生前の彼の風貌を描いた絵画は見つかっていない。
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by narutyan9801 | 2013-09-27 15:27 | 妄想(歴史) | Comments(0)

ウルバンの大砲 ~千年以上不落の城壁に挑んだ大砲~

 大砲という兵器は通常「戦術兵器」として分類される。大砲の運用目的は普通敵の戦術兵器を攻撃しその撃破が目的だからである。だが状況によっては大砲が戦略兵器となることもある。第一次大戦中ドイツ陸軍が使用した「パリ砲」などは戦略兵器となるだろう。さらに敵国の重要な都市の攻略になると、攻撃側の大砲は敵守備隊の撃滅としての戦術兵器、敵重要拠点の破壊としての戦略兵器を兼ねることもある。今回は千年以上も国家を守り続けた城壁を破壊し、戦術・戦略両面から国家を崩壊させることを狙った大砲「ウルバンの大砲」を考察したい。

 ウルバンの大砲が用いられたのは1453年のコンスタンチティノープルの攻防戦の際である。コンスタンティノープルは395年のローマ帝国の東西分裂の際に東ローマ帝国の首都となるが、分裂直後の410年、時の皇帝テオドシウスⅡ世がフン族の侵略を防御する目的でコンスタンティノープルの周囲に築いたのが「テオドシウスの城壁」である。テオドシウスⅡ世以降も度々改修が行われ、三重の城壁となり実に千年以上もコンスタンティノープル防衛の要となっており、コンスタンティノープル攻略はこの城壁を如何に突破するかが鍵になっていた。コンスタンティノープルはローマ分裂後外部勢力に二度攻略されているが、いずれも城壁を軍事力で突破したのではなく混乱に乗じて戦わずに突破しており、その意味でテオドシウスの城壁は千年以上不落を誇ってきたのである。

 その東ローマ帝国も衰退しコンスタンティノープル周辺のわずかな領土を有するだけの小国家となった1452年頃、一人のマジャール人が自らの考案した巨砲の売り込みにコンスタンティノープルを訪れていた。その名はウルバン、彼を接見した時の皇帝コンスタンティノス11世は彼の考案に興味を示し、彼を召し抱える。しかし衰退した帝国では彼に約束した禄を与えることができなかったため、ウルバンは他国にこの発案を売り込もうとするが、それを皇帝が許すわけもなくウルバンは拘束されそうになり、亡命同然で彼が向かったのは東ローマ帝国の仇敵であるオスマン帝国であった。

 ウルバンが東ローマ帝国で拘束されそうになったもう一つの理由として彼が「マジャール(ハンガリー)人」であった可能性は否定できない。ローマ帝国という名前とは裏腹にギリシャ人、正教徒国家となっていた東ローマ帝国とマジャール人・カトリック教徒は相容れない関係になっていた。そういった相互不信がこの契約に亀裂を生じさせた一因となったかもしれない。

 ウルバンの考案した兵器は時のオスマン皇帝メフメトⅡ世によって実用化される。砲身は青銅製で長さ8m、直径75cm以上というもので重さ544kgの花崗岩製の石弾を1.6km先まで飛ばすことができたと言われている。
 しかし前例のない巨砲はその運用も大変であった。まず石弾に使える花崗岩はコンスタンティノープル付近にはなくわざわざ黒海沿岸の産地から運び込み、それを加工して使用していた。装填から発射までに最低でも3時間かかり、発射の衝撃で砲身が痛みその都度小修理を行い、再度発射を続けている。しかし最終的に発射の反動により大砲自身が壊れてしまい発射不能になってしまった。
 戦火の方は運用コストに見合うものであったかというとそうではなかったようである。ウルバンの大砲は滑空砲であり命中精度は相当低く、また一撃で城壁を崩すだけの威力は無かった。結局7週間に渡りウルバンの大砲は連日砲撃を繰り返していたが、テオドシウスの城壁を崩壊させることはできなかった。しかし連日の砲撃で城壁の一部が崩れ内部に通じる通路ができていた。ここにオスマン軍が攻撃を集中し、守備兵がそこの防備に集中している隙に施錠し忘れた城門からオスマン軍が侵入し、これがコンスタンティノープル陥落に繋がることになる。

 ウルバンの大砲は結果としてコンスタンティノープル攻略に寄与したとはいえ、運用の困難さからすれば効果は限定的だったと言える。しかしウルバンの大砲は「直立した城壁は連続した砲撃には耐えられない」という重要な戦訓を残すことになる。この戦い以降ヨーロッパの要塞では直立の城壁は廃れ稜堡式城郭が建造されることになる。ウルバンの大砲はその威力よりも戦争の一側面を変化させたことの方が戦史的には重要なのである。

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現在のイスタンプールの航空写真にテオドシウスの城壁の位置を表したもの。赤い線がテオドシウスの城壁。ウルバンの大砲の砲撃は青い四角の位置にあった聖ロマノス門付近を砲撃し、攻城戦もここを中心に行われている。その最中ケルコポルタ門(緑の四角)の通用口が施錠ないまま守備隊が居なくなってしまい、ここからオスマン軍が侵入、コンスタンティノープルは陥落する。施錠されなかったのは内部の裏切りがあったものとの説もある。
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by narutyan9801 | 2013-09-12 11:43 | 妄想(歴史) | Comments(0)

車輪 ~人類の定住が普及の鍵となった発明品~

 人類が「発明」した物品はそれこそ無数にあるが、発明の多くは他の発明を原型としたものや応用した「派生系発明」で、たとえば「言語」のように原理そのものの発明は数えるほどしかない。原理そのものの発明はその後の発明の下地になってゆくのであるが、「派生系発明」の中にもその後の発明の下地になっていったものがある。今回は「派生系」発明の中でも多くの発明の下地になった発明品「車輪」について考察したい。

 人間が自ら、または道具を使っても持ち上げられない重量物を運ぶ際に問題になるのが、接地面の摩擦である。摩擦を低減させるには接地面を少なくするか、摩擦抵抗を少なくすることが必要である。古代の人々は重量物の下に転がりやすい丸太などを入れ、転がりを利用して重量物を運んでいた。古代の巨大石建造物の石材の運搬などはこれを使ったものだと思われる。その後橇を用いて重量物を運搬する方法が考案されたが、それでも摩擦は大きかった。その後人類は円盤状に加工した木版の中央に軸を固定し、重量物を乗せる台の下に軸受けを介して軸を固定し、運搬する方法を考案することになる。

 この「車輪」の発明は今から約7000年前の古代メソポタミア地方だったことがわかっている。車輪の原型は土器を製造する「ろくろ」だったと思われている。非常に便利な発明であったがその後の「青銅器」や「鉄器」の発明と比べると周辺地域への伝達のスピードはゆっくりで、北西インドのインダス文明に到達するまでに約2~3000年の歳月がかかっている。

 この伝達の遅さは車輪の運用と当時の人々の生活に関連があると考えられている。ある程度の人口がまとまって定住していなければ車輪を使っての物資運搬は必要とされず、平坦に整備された「道路」がなければ車輪を用いることは困難である。つまり車輪を用いるには、人類が定住を始め、ある程度の土木技術を持っていることが必要だったのである。

 さらに考察すれば、牧畜技術の向上が車輪の普及に拍車をかけた可能性が高い。車輪を使っても人力での運搬では、量はともかく時間的には手で持ったのと大差はない。車輪輸送の効率を上げるためには使役動物の利用が必要であった。ユーラシア大陸で馬の家畜化が始まったのがおよそ6000年前と推定されており車輪の普及が広まり始めたのとほぼ同じ時なのは非常に興味深い。

 車輪が世界四大文明発祥の地中国に入ってきた時期は諸説ある。確実なのは紀元前1200年前には戦車(チャリオット)が用いられているが一説には紀元前2000年頃には存在したとも言われている。いずれにしてもインダス文明に車輪が到達してからさらに数千年の時間が経過しているが車輪そのものが伝わったのか、中国で独自に発明されたのかは分かっていない。車輪が日本に伝わったのはさらに時代が下って紀元後5世紀、古墳時代後期だろうといわれている。日本で一番古い車輪は飛鳥時代(七世紀後半)の出土品で直径1.1mの車輪に12本のスポークが入ったかなり洗練されたものが発掘されている。

 こうしてユーラシア大陸の東の果てにまで到達した車輪であるが、おもしろいことに南北アメリカでは発明されなかった。南米のインカ文明は領内の隅々にまで「インカ道」と呼ばれる街道を建設したことが知られているが、車輪は用いられていない。インカ帝国を始め南米、中米の文明は山地が多く、車輪が使いにくい地形であったことが車輪が発達しなかったことの原因と言われている。「マチュピチュ」の建設に車輪が用いられなかったということは車輪を普段から使っている自分には非常に奇異に思える。なお子供の玩具と思われる出土品に車輪を付けた代車に似た構造のものが南米では出土しており、車輪そのものの発想は南米でもあったことがわかっている。

 車輪は平面の移動を回転運動を介して可能にするという発見で画期的である。人間を含め動物には回転運動が出来る筋肉組織は無く、回転運動は「無期質的な動き」である。この回転運動が平面的な移動に変換できるという発見は人類にとって最大級の発見といっていい。回転運動はギアを通しての回転数やトルクの調節が比較的容易で様々な用途にあったパワーを供給するのに優れている。基本的に人間が機械的に作り出した「動力」は回転を伴わないものはないと言っていい。それを発見する手がかりとなった車輪は見慣れているだけに地味であるが、人類の発展には不可欠なものだったのである。

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   車輪は時として権力の象徴として用いられることもあった。図は「車裂きの刑」に処せられる人々
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by narutyan9801 | 2013-09-06 09:39 | 妄想(歴史) | Comments(0)

ポーハタン号 ~幕末の日本とアメリカを繋いだ軍艦~

 嘉永六年(1853年)ペリーが開国要求で最初に来訪した際、率いてきた艦艇は4隻であった。翌年条約締結へ再度来訪した際、艦艇の数は7隻に増強されていた。ペリー自身は日米和親条約の締結後は表舞台を去りほどなく亡くなっているが、二度目のペリー来訪でやってきた軍艦はその後も長く日米の架け橋として活躍している。今回はその軍艦「ポーハタン号」を考察したい。

 ポーハタン号は1847年8月6日に起工、五年の歳月をかけて建造された外輪式フリゲート艦である。排水量3765トン、速力は最大11ノット、備砲は大小16門が装備されていた。これは少し時代が下がっての建造である江戸幕府軍艦「開陽丸」と比べると艦体は大きいが、反面備砲数はかなり少ない。これは開陽丸が戦闘を重視したのに対しポーハタン号は遠洋航海と海外駐留を重視したためと思われる。特徴的なのが外輪走行方式をとっていることである。外輪走行方式は推進軸が水面上にあり、推進軸からの浸水がないことや機関が艦中央に位置するので艦のバランスをとりやすいなどのメリットもあるが、戦闘時に破壊されやすいことや艦からの転落者が外輪に巻き込まれやすいなどのディメリットも多い。さらに外用航行では波浪の影響で外輪の水車が空回りしたり、機関の位置が高くトップヘビーで揺れが大きいなどの問題が多く、アメリカ以外の国では外洋船舶の推進にはあまり取り上げられなかった推進方法である。アメリカでは国内大河川での外輪船運用の経験が多く軍艦にも応用した例があるが、ポーハタン号以降は外輪船の軍艦建造は下火になる。

 竣工後訓練を行ったポーハタン号はアメリカ海軍東インド艦隊に編入される。東インド艦隊といっても任地は極東であり、本来は中国駐留の予定であった。任地に向かう途中ポーハタン号はペリー艦隊に加わり、東京湾に入港することになる。東京湾入港後ペリーは旗艦をサスケハナ号からポーハタン号に変更、日米和親条約調印はポーハタン号の船上で調印されたのである。

 調印を終えたポーハタン号は条約の細部の交渉を行うため下田に移り、ここで停泊を行っていたが、この停泊中のある日一人の若者が闖入してくる事件がある。この若者の名は吉田寅次郎、のちの吉田松陰であった。松蔭はアメリカへの密航を訴えるが条約の交渉中に密航者を受け入れるわけにもいかず、ポーハタン号はこの願いを拒否、松蔭は国元で投獄されることになる。

 ポーハタン号はこの任務終了後一度アメリカに帰国している。ペリー・吉田松陰が亡くなった後、日米修好通商条約の調印が行われ、日本側の使節がアメリカに出向くことになったが、総員77人の使節を乗せる船が日本には無く、ポーハタン号が使節の移動を担うことになる。それでもポーハタン号の艦内の宿泊設備では使節全員を収容するには足りず、正規の使節随員以外の人(従者など)は甲板に仮小屋を建てそこで寝起きしていたと言われる。
 1859年9月に再来日したポーハタン号は翌1860年2月13日(安政七年一月二十二日、ちなみに便宜上日本使節側もグレコリオ歴を使用していた)、日本の使節を乗せ横浜を出航する。ポーハタン号には幕府の軍艦「咸臨丸」が護衛に付くことになっていたが、艦体はポーハタン号の方が遙かに大きく、咸臨丸の実際の操船はアメリカ海軍のブルック大尉以下のアメリカ人11人が行っており咸臨丸は「予備の外交使節」という役割だったろう。この二隻は一緒に行動せず咸臨丸はサンフランシスコに直行してポーハタン号より先に到着。一方のポーハタン号は燃料と水の不足でハワイに補給のため寄港している。水の不足は正規の乗組員の他に幕府使節が乗り込んだため消費量が多くなってしまったためである(特に洗濯で真水を使ったためと言われている)。またこの航海は嵐が多く、外輪が波浪の谷に入って空回りするため燃料の消費が多く、燃料不足はこのためであったと言われる。3月28日にサンフランシスコに到着したポーハタン号は休養後、パナマまで再度使節を送り大任を果たしている。

 翌年から始まる南北戦争にもポーハタン号は参加している。しかし前線で放火を交えるということは少なかった。南北戦争の海戦は北軍の封鎖作戦、それを南軍が突破を計るというのが主な作戦であり、また沿岸海域で行われるため、ポーハタン号の航行能力が発揮されるような作戦は少なかった。それでもカリブ海での哨戒任務などに活躍しており、また大きな艦体を生かした旗艦任務にしばしば就いている。

 南北戦争終了後もポーハタン号は現役にとどまり、1868年には南太平洋艦隊旗艦、1869年と1879年には本国艦隊旗艦を務めている。ただこれはポーハタン号の能力の優秀さもあろうが、それ以上にアメリカ海軍の懐事情もあるだろう。極東への権益確保がポーハタン号の建造目的であったと思われるが、南北戦争という内戦を行ったアメリカは東アジア進出への熱意が失われてしまったようであった。このため海軍の新造艦建築も下火になり、外輪艦のポーハタン号が長期間現役にとどまる結果になったといえる。

 ポーハタン号は1886年に退役し、翌年解体され、日米の架け橋となった艦艇は姿を消すことになる。アメリカが極東方面に再度興味を示し始めるのは1898年の米西戦争の勝利でグァム島、フィリピンの権益を獲得して以降のことになる。

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使節一行をパナマまで送ったポーハタン号。ちなみにアスペンゥオール(パナマの大西洋側)からワシントンまで送ったのはロアノウク号(3,400トン)ニューヨークから大西洋、インド洋を横断して日本まで送り届けたのはナイアガラ号(4,800トン)である。参考までに咸臨丸の排水量は292トンだった。
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by narutyan9801 | 2013-09-05 11:50 | 妄想(歴史) | Comments(0)

第二次ウィーン包囲 ~オスマン帝国最後のヨーロッパ攻勢とキリスト教国の反撃~

 前回考察した第一次ウィーン包囲から約150年後の1683年、オスマン帝国は再びオーストリア大公国の首都ウィーンを包囲する。攻撃側・守備側は150年前とまったく同じであるが、両者とも前回とは大きく異なる状況下で戦局は推移し、結局のところこの戦いはオスマン帝国の没落の兆しになるものであった。今回はこの「第二次ウィーン包囲」を考察したい。

 第一次ウィーン包囲はウィーン攻略こそならなかったもののオスマン帝国の東欧における優位を示す戦いであった。1571年のレパントの海戦で西地中海の制海権こそ失っていたが、オスマン帝国の国威はヨーロッパ諸国を圧倒していた。しかし時代を経るにしたがい帝国の勢いは徐々に削がれていたのである。
 オスマン帝国の軍事力は中央集権化とそれを皇帝が掌握、直接指揮することによって発揮されていた。しかし中央集権化というものは端的に言ってしまえば権力のシステム化というものであり、皇帝自身が掌握することは必ずしも必要とはされないものである。メフメットⅡ世やスレイマンⅠ世のような有能な皇帝で、征服の意志があれば軍隊は有能に機能するが、スレイマンⅠ世以降オスマン帝国の歴代皇帝は政治的関心が薄い皇帝が続き、経済的な理由もあるが皇帝自身の意志による領土拡張は行われておらず、帝国は内部から弱体化の兆しを見せていた。この危機を未然に防いだのはオスマン帝国内の貴族キョブリュリュ家の当主であるキョブリュリュ・メフメト・パシャである。彼はヨーロッパ方面で小規模な軍事行動を行いそれに勝利することにより帝国の威信を回復することに成功する。彼と息子のアメフト・パシャの努力によりオスマン帝国の領土はこのころ最大規模に達することになる。しかしかって中央集権と皇帝の権威によって作られた強大な軍隊による国家は、次第に強大な軍隊により国家が維持されるという逆転現象にみまわれていたのである。

 一方のオーストリア大公国はそれ以上に軍事的弱体化を見せていた。オーストリア・ドイツ連邦は17世紀初頭の「30年戦争」により国土は荒廃し、17世紀後半になってもその痛手は癒えていなかった。そして隣国のフランスでは太陽王ルイ14世の統治で絶対王政の絶頂期を迎えていた。第一次ウィーン包囲時と同じくフランスはオスマン帝国寄りの外交を行っており、オーストリアに対し絶えず牽制を行っていた。そして第一次ウィーン包囲の時と同じく、ハンガリーが今回も戦端の原因となる。

 1664年にハンガリーへ侵攻したオスマン帝国に対しオーストリアは軍隊を送り、戦いに勝利するがフランスの牽制でオーストリアは不利な和平を結ばざるを得ず、オーストリア国内貴族の間に不満が広がり、1683年にはハンガリー系住民が反乱を起こす事態になる。オスマン帝国ではキョプリュリュ家に婿入りし大宰相に就任したカラ・ムスタファ・パシャが好機と判断、大規模な攻勢を行うことを決意する。時の皇帝メフメットⅣ世は攻勢の是非を決める意志は無く、ムスタファ・パシャの思惑のままオスマン帝国群はヨーロッパ遠征を行うことになる。

 一方のオーストリア側であるが、第一次ウィーン包囲の時と同じように野戦でオスマン軍を撃退する戦力は無かった。ウィーンから退去した時の神聖ローマ皇帝レオポルドⅠ世はヨーロッパ各国に援軍を求めることになる。
 第一次ウィーン包囲と様相が違うのはこの要請に多くのヨーロッパ諸侯が立ち上がったことである。第一次ウィーン包囲はキリスト教国内では宗教改革運動のまっただ中であり、キリスト教国内でも対立があったが、この時は宗教的な危機感を共通することができた。ヨーロッパ各国からウィーンに向けて援軍が出発する。フランスは国としての支援は行わなかったが、フランス国内の諸侯の中には自発的にウィーンに赴く者もあった。また度重なるオスマン帝国の領土拡張で、カトリックの大国ポーランドとオスマン帝国が領土争いを行い、ポーランド国王ヤンⅢ世がオーストリア救援に動いたのは戦局に決定的な影響を与えることになる。

 オスマン帝国軍は1683年7月13日にウィーンに到着し攻囲を開始するが、前回と同じく進撃を急いだため攻城兵器を欠く装備で攻城戦は捗らなかった。前回の包囲の経験からウィーンの城壁は強化され、築城方法も進歩していたことも大きく、ウィーン守備兵は善戦ししばしば城外に打って出ることもあった。オスマン軍は地下道を掘り城壁の爆破も試みるが失敗し、徒に時が流れ、士気も低下していった。

 包囲開始から約二ヶ月後の9月12日、ウィーン郊外にキリスト教国の援軍が到着する。当初援軍は翌13日に一斉にウィーン包囲軍に攻撃を開始することを予定していたが事前に偵察を行いオスマン軍の弱体化を掴んでいたポーランド国王ヤンⅢ世の判断により到着日の夕刻に攻勢を開始する。到着早々の攻勢はないと判断していたオスマン軍は対応できず、包囲網を寸断され総崩れになってしまう。夜になったために追撃は断念されたが、救援軍の到着当日にウィーンは解放されることになった。

 ベオグラードに退却したムスタファ・パシャは反撃を企図するが、首都イスタンブルのメフメットⅣ世から派遣された使者によりムスタファ・パシャは処刑されてしまう。強権を握っていた大宰相に敵対する勢力が皇帝を動かし、戦局の判断ができない皇帝は処刑の使者を送ってしまったのである。まとめ役を失ったオスマン帝国にキリスト教連合軍は各地で攻勢を仕掛け、東ヨーロッパの領土は次々ど奪われてしまう。1689年にキョプリュリュ家出身のキョプリュリュ・ムスタファ・パシャが登用され、一時的に領土を回復するが、彼は1691年に戦死してしまい戦局の挽回には至らなかった。一方のキリスト教国も足並みが乱れ、大規模な戦闘が行われなくなる。1697年にゼンダの戦いでキリスト教国側が勝利を収めたのが契機となり、1699年にカルロヴィッツ条約が締結される。オスマン帝国のヨーロッパにおける領土は大きく縮小し、イスラム教国家のヨーロッパへの脅威は大きく減少することになったのである。

 第二次ウィーン包囲は戦局的にはヨーロッパへのイスラム教国家の脅威を取り除いたという大きな意義があったが、食文化においてはヨーロッパに大きな影響を与えたものとなる。クロワッサンはこの戦いの際にオスマン帝国の旗印であった「三日月」を意匠して作られたものという伝承がある(あくまで伝承で、現在クロワッサンとされているもののレシピが出来たのは20世紀に入ってからである)また「ウィンナーコーヒー」(ただしホイップクリームを浮かべて飲む習慣は彼の地にはないが)に代表されるコーヒー文化はオスマン軍撃退後オスマン帝国の物資を払い下げられた者がその中にあったコーヒー豆を元に店を始めたことがきっかけと言われている。もし第二次ウィーン包囲が無かったとしたら「クロワッサンとカプチーノ」という朝食は存在しなかったかもしれない。
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by narutyan9801 | 2013-07-05 09:02 | 妄想(歴史) | Comments(0)

第一次ウィーン包囲 ~複雑に絡み合う二大国の攻防~

 1529年9月27日、オスマン帝国のスレイマンⅠ世(大帝)はオーストリア大公国の首都ウィーンを包囲する。約3週間の攻囲ののちオスマン帝国軍は撤退を行うのであるが、戦闘としては大規模な攻城戦があったわけでもなく、目新しい戦術や調略は行われず、非常に「地味」な戦闘であった。しかしこの戦闘は歴史上重要な意味を持つ戦闘であり、その後数百年に渡りヨーロッパの情勢に影響をあたえるものであった。今回はその「第一次ウィーン包囲」を考察したい。

 まずオスマン帝国側の情勢を見てみると、1520年に即位したスレイマンⅠ世が「征服王」メフメットⅡ世の征服できなかったベオグラード、ロードス島を制圧し領土を拡大していた。1526年にモハーチの戦いでハンガリー王ラヨシュⅡ世を戦死させたオスマン帝国はオーストリア大公国と領土を接することになる。

 対するオーストリア大公国であるが、当時オーストリア大公の地位にあったのはフェルデナント、その兄は神聖ローマ皇帝であったカールⅤ世であった。カールⅤ世は同時にスペイン王も兼ねており、強大な領土を保有していたが、領内は様々な状況で混乱していた。
 神聖ローマ皇帝領内では元々封建社会で各地の諸侯が独立状態にあり、加えて宗教改革の混乱が続いていた。スペインと神聖ローマ帝国に挟まれたフランス王国はカールⅤ世の勢力に挟まれているのを嫌い、オスマン帝国寄りの外交を展開する。この情勢でカールⅤ世がさらに背負い込んでしまったのがハンガリー王継承権であった。

 戦死したラヨシュⅡ世の後を継ぐ国王の選出で多くのハンガリー帰属はトランシルヴァニア候のサポリア・ヤノシュを推していたが、カールⅤ世は弟のフェルデナントを推挙していた。フェルデナントの妻はハンガリー王の娘であり王位継承権があると主張したのである。結局はフェルデナントが王位を継承することになる。
 これに対して怒ったのがスレイマンⅠ世であった。ヤノシュの王位継承はスレイマンⅠ世の意向でもあったのである。やがてオーストリアの圧力によりヤノシュはオスマン帝国に亡命、オスマン帝国とオーストリア大公国は対立状態になる。

 第一次ウィーン包囲は俗世間での勃発原因はハンガリー王位継承の争いである。しかし宗教面からみるとキリスト教とイスラム教を奉ずる二大勢力の争いでもある。さらに歴史的観点からみるとローマ帝国の統一戦争と見ることもできる。神聖ローマ皇帝は名目上は古代ローマ皇帝を引き継ぐ存在である。対するオスマン帝国も東ローマ帝国を「引き継いだ皇帝」であり、ローマ皇帝統一戦争の色彩も帯びてくるといった非常に複雑な装いを持つのが第一次ウィーン包囲の特徴であった。

 1529年5月、数度の外交交渉が決裂しスレイマンⅠ世はオーストリアへ遠征を決意する。彼の号令の元、総勢12万といわれる大軍はイスタンブル(当時も正式な都市名は『コンスタンチノープル』であった。イスタンブルと正式に改名するのはオスマン帝国が滅んだ後である)を出立、ヨーロッパ遠征に向かう。
 しかしこの遠征軍は大雨に祟られ、ベオグラードに到着したのは7月に入ってからであった。その後も悪天候に悩まされつつオーストリア勢力下のブダを攻略する。すでに季節は秋に入っておりスレイマンⅠ世は攻城兵器を投棄して進撃を急ぎ、9月27日にウィーンに到着、攻囲を行うことになる。
 オスマン帝国軍の到着前にウィーンからカールⅤ世とフェルデナントは避難し、ウィーンはニコラス・サルム伯率いる2万の軍勢が籠城する。オスマン帝国の進撃が鈍かったこともあり、城壁の改修整備や食料の備蓄も進んだが、国内の諸情勢に対応するため軍勢はオスマン軍よりも過小で野戦は回避し籠城戦に徹する方針であった。

 ほどなく攻城戦が開始されたが、オスマン軍は攻城兵器を途中で投棄してきたため城壁そのものを破壊することができず、攻撃は守備隊により撃退される。そして長距離の遠征による疲労、食糧不足が重なり冬の到来も近いことからスレイマンⅠ世は攻城を断念、10月15日にウィーンを撤収する。オスマン軍は秩序を維持し撤退したため、オーストリア軍は追撃を行うことができなかった。

 この戦いの勝者は判別が難しい。戦術的に見れば攻撃軍を撃退したオーストリア軍ということになるが実質的な損害は両軍とも軽微なものであった。戦略的に見れば首都にまで兵を進められたオーストリア軍の方が深刻な影響を受けたと考えていいだろう。

 この三年後、スレイマンⅠ世は再度ヨーロッパ方面へ遠征を行い、オーストリア国内にも侵入するが、オーストリア軍は野戦を回避し決戦を望むスレイマンⅠ世の目的は達成されなかった。翌1533年、オーストリア大公フェルデナントはスレイマンに使者を送り、自らのハンガリー国王継承権を放棄することを条件に和平を提案、スレイマンⅠ世もこれを了承し、両国はとりあえず戦闘の継続を回避することになる。少々の小競り合いはこの後も度々起こるが本格的な戦争には至らなかった。両国が再び雌雄を決することになるのは約150年後になる。


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by narutyan9801 | 2013-07-04 10:33 | 妄想(歴史) | Comments(0)

ニカイア帝国 ~亡命政権が本領へ復帰を果たした希有な例~

 戦争やクーデターにより政権が崩壊した際、崩壊した政権内の人物、ないし国民が崩壊した政権を引き継ぎ、他の地域で政権を立てることがある。こうした「亡命政権」は政権基盤が薄く、他国の援助などがなければほとんどの場合正統政権として復権することはかなわないのであるが、今回はそんな亡命政権が正統政権に独力で復権した希有な例「ニカイア帝国」を考察したい。

 ニカイア帝国は1204年、第四回十字軍がコンスタンチノープルを占拠しラテン帝国を樹立する直前、東ローマ帝国皇帝アレクシオスⅤ世ドゥーカスの逃亡により一晩だけ皇帝の地位についたコンスタンティノス・ラルカリスが小アジアに逃亡しニカイア(現在のトルコ共和国イズニク)に落ち延びそこを首都と定めたのが起源である。コンスタンティノス・ラルカリス自身は病弱で、実務は弟のテオドロス・ラルカリスが勤めていた。翌年兄からの譲位を受けてテオドロスⅠ世ラルカリスと称して東ローマ皇帝に即位することを宣言する。

 十字軍はコンスタンチノープルを占拠しラテン帝国を樹立したが、領土を十字軍参加の諸侯に分配した結果領土が細分化され統一した軍隊の維持が困難になり、さらにラテン帝国に加盟した旧東ローマ帝国の支配者層への冷遇、東方教会へのカトリック様式の強要という失政を行い、建国当初から国力の弱体化を招いていた。しかし当時のバルカン半島にはカトリックのブルガリア王国、小アジアにはムスリムのルーム・セルジューク朝、さらに東ローマ帝国からの亡命政権であるトレビゾンド帝国、エピロス専制候国などが存在し、それらが集合離反を繰り返す戦国時代の様相を見せていた。

 その中でもニカイア帝国は国力の点で一歩抜きんでていたと言える。テオドロスⅠ世の政治手腕が優れていた点も大きいが、元々小アジアが豊かな国であったことが大きいだろう。東ローマ帝国は伝統的に小アジア政策を疎かにしてきた過去がある。バルカン半島が複雑な政治状況であったことも大きいが、小アジアは「搾取するところ」といった意識が東ローマ帝国首脳のイメージだった感がある。そのためかコンスタンチノープルを攻撃した勢力は多くが小アジアから侵攻している。ニカイア帝国が東ローマ帝国に復権して200年後、東ローマ帝国を完全に滅亡させたのも東からのオスマン帝国の攻撃だった。

 テオドロスⅠ世の死後彼には男子の子供がおらず(アルメニア王女との間に男子が生まれたが結婚が無効になり廃嫡)婿のヨハネスⅢ世ドゥーカスが後を継ぐ。ヨハネスⅢ世は1235年にコンスタンティノープルを攻撃するが、この時はラテン帝国が防衛に成功している。ヨハネスⅢ世は内政の充実と東で国境を接するルーム・セルジューク朝との交渉で国境を確立し、ニカイア帝国がヨーロッパ方面に全力を傾けられるよう情勢を整えている。ヨハネスⅢ世の治世が無ければニカイア帝国の復権はまだ先に延びていたろう。

 しかしヨハネスⅢ世の跡を継いだテオドロス二世はわずか4年の在位で死去しその子ヨハネスⅣ世8歳で即位すると、大貴族であったミカエル・パレオロゴスが台頭してくる。ミカエルは自らミカエルⅧ世パレオロゴスとして即位ヨハネスⅣ世と共同皇帝となり、事実上ニカイア帝国はミカエルⅧ世に乗っ取られてしまう。

 1261年、ラテン帝国が遠征を行いコンスタンチノープル守備が疎かになった隙をついてニカイア帝国軍がコンスタンチノープルを占拠、57年ぶりに東ローマ帝国が復活することになった。ミカエルⅧ世はヨハネスⅣ世を失明させ、修道院に幽閉し「パレオロゴス朝」を成立させる。東ローマ帝国は復活したが、そこに君臨する皇帝の血筋は変わってしまったことになる。パレオロゴス朝はオスマン帝国に東ローマ帝国が滅ぼされるまで約200年間存続した。これは東ローマ帝国歴代王朝の中では最も長命の王朝となる。パレオロゴス朝は国力としては往年の力を復活させるには至らなかったが、「パレオロゴス朝ルネッサンス」と呼ばれる文化を花開かせることになる。
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by narutyan9801 | 2013-07-01 12:13 | 妄想(歴史) | Comments(0)

鄭和艦隊の航海 ~中国王朝最大の海外艦隊派遣~

 中国明王朝の初期、第三代皇帝永楽帝は大艦隊を編成し宦官の鄭和が艦隊を率い、アラビア海からアフリカ大陸東岸までの大航海を行っている。今回は大艦隊を率いた鄭和とその艦隊について考察したい。

 大艦隊を率いた鄭和は馬三保という名であった。「馬」は中国ではイスラム教の予言者ムハンマドの子孫であることを示しており、彼自身もムスリムであった。彼の祖先はチンギス・ハーンに臣従し元王朝成立後雲南に移住していた。元王朝の崩壊により雲南は明の始祖朱元璋の討伐を受け、まだ少年だった馬三保は捕らえられ、宮刑(去勢)の上当時燕王に封じられていた永楽帝に献上されていた。

 永楽帝が簒奪を行う靖難の変で馬三保は宦官でありながら武功をたて、帝位についた永楽帝から鄭の姓を賜り、宦官の最高位である太監に任じられている。

 永楽帝が大航海を企図したのにはいくつかの説がある。中国は一世紀以上モンゴル族である元王朝の支配を受けていたが、漢民族が主権を回復したことを海外にアピールするためのものや、当時中央アジアに勢力を持っていたティムール帝国を背後から脅かすため、はたまた明建国や永楽帝の簒奪の際に南方に逃れたものを討伐するためのものなど様々である。おそらくは目的は一つではなく、たくさんの要因が複合的に絡み合ってのことだろう。
 鄭和が艦隊を率いることになったのも彼は元々イスラム教徒であり、対外的な交渉で経歴が役立つ点や鄭和その人が軍事的、政治的な才能が優れていた点などがあげられる。ただの軍事派遣とは違い外交交渉を伴うため「提督」としての外交能力を永楽帝は重視したと思われる。それとこれは管理者の想像であるが「宦官」という身体も派遣の要因の一因だったかもしれない。大航海時代の記述をみると「性欲処理」という物心の欲求がかなり航海の弊害になっていることを伺わせる記述が多い。鄭和の不幸な経歴が航海に関してはプラスとなった可能性は否定できない。

 鄭和の航海は合計で7回行われている。第一回の航海では合計62隻の船団を組み、鄭和の乗り込んだ旗艦は全長140mに達するものだったと言われている。後の大航海時代の船がおおむね全長数十mの船で、船団も10隻未満が大半だったことを考えると空前の大船団である。これは大航海時代の船団は基本的に個人出資だったのに対し鄭和艦隊は国家プロジェクトだったこと。沿岸域の航海を想定しており吃水の高い外洋船でなくても良かったことなどが原因であろう。

 第一回から三回までの航海は主に東南アジアからセイロン島、インド亜大陸などを訪れている。現在でもそうであるがマラッカ海峡は海賊が頻繁に出現する危険海域であったが鄭和は大艦隊を率いて海賊を討伐し(討伐した海賊の頭目は漢人であった)この影響は大きく東南アジアの諸国は明王朝に朝貢を行うようになる。大艦隊を派遣した意義は大きかったと言えよう。

 第四回の航海では過去三回の航海の到達地であったインドのカリカットを越え更に西方まで足を延ばすことに成功する。この航海ではペルシャ湾岸の都市ホラズムや紅海の入り口の都市アデンなどを訪れている。これらのイスラム都市を訪れた際は鄭和の経歴が役立ったことだろう。

 第五回の航海は鄭和自身は前回と同じくアデンまでの航海であったが、途中カリカットで分離した支隊はインド洋を西進しアフリカ東岸のマリンディまで到達している。この支隊は多くのアフリカの動物を明本国まで持ち込んでいて、特に永楽帝を喜ばせたのが「キリン」であった。象や犀、ライオンやダチョウなどは当時のユーラシア大陸に生息しており(ダチョウはユーラシア大陸ではその後絶滅)中国でも馴染みのある動物であったが「キリン」はまだ中国では未知の動物だった。「キリン」が中国に持ち込まれた際、この動物が伝説上の動物「麒麟」であるという触れ込みで持ち込まれたので、現在の日本ではあの首の長い動物を「キリン」と呼ぶ。ところが中国ではこのことは広まらなかったらしく現在の中国ではキリンを「長頸鹿」と呼んでいるのである。

 第六回の航海はこれまでの遠征の影響で朝貢に訪れた各国の使者を送る返礼の航海であり、第五回とほぼ同じ経路であった。最後になる第七回の航海は永楽帝の死後に行われている。鄭和自身も60歳を迎えていたが艦隊を率いる者は鄭和以外にいないということで無理をおしての航海であった。この航海で分離した支隊はメッカまで到達している。この航海の無理がたたったのか、帰国後まもなく鄭和は病死している。

 鄭和の死後明王朝は対外貿易を縮小する。これは以前「土木の変」で書いたことでもあるが明王朝の貿易は「朝貢貿易」であり、朝貢に訪れた各国使節の貢ぎ物の数倍~数十倍の返礼を明王朝は送らねばならず大幅な貿易赤字を生み出すことが大きな原因であった。永楽帝と鄭和の行った大事業は中国史においては継続しなかった一時的な事業に終わってしまったが、鄭和が海賊討伐を行ったマラッカ海峡は東南アジアと西洋を結ぶ貿易航路となり、その後も栄えることになる。そのマラッカで奴隷となっていた一少年がのちにマゼランの航海に参加する「マラッカのエンリケ」となり歴史に大きな足跡を残すのである。
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by narutyan9801 | 2013-06-06 10:45 | 妄想(歴史) | Comments(0)

プレスター・ジョン ~希望的観測が生んだ東方のキリスト教国王~

 12世紀のヨーロッパは「十字軍」の開始によりイスラム世界との争いが始まった時代であった。第一次十字軍はエルサレム奪還には成功するもののイスラム側からの圧力を受け続けていた。こうした最中「東方にあるキリスト教国の王がが救援に来てくれる」との「噂」が立ち上り、苦戦していたキリスト教国側は本気で東方のキリスト教国の王の救援を信じることになる。今回はこの幻のキリスト教国の王「プレスター・ジョン」について考察したい。

 イスラム世界の更に東方にキリスト教の国家があるという話は全くの出鱈目ではなかった。正教会(ギリシャ正教)から異端とされたネストリウス派(キリストの存在は神である福音書と人間である肉体に分けられるという教義を信仰する宗派)が東方に布教活動を行っており、中国の唐の都長安にはネストリウス派(唐では景教と呼ばれていた)の教会が建てられ、かなりの信者がいたと言われている。その後中国では廃れてしまうが、北方の遊牧民族ではネストリウス派を信仰する部族が十字軍の時代でもかなり存在していた。しかし遊牧民族はこの時点では統一国家としてまとまっておらず、ましてやキリスト教国として十字軍に参戦することなどまったく考えていなかったと思われる。

 ヨーロッパ世界がプレスター・ジョンについて初めて関心を持ったのは1145年、この年第一回十字軍で建国されたアンティオキア公国からローマ教皇への使者がプレスター・ジョンの消息を伝えたことからである。これによるとプレスター・ジョンはキリスト教国に加勢するためエルサレムに向かったが、ティグリス川が氾濫したために引き返したとある。これは1141年に西遼がセルジューク朝と戦闘を行い破ったことが誤って伝わったものであると比定されているが、「敵の敵は味方」とヨーロッパ世界では大いに期待されたと言われている。

 さらに第五回十字軍がエジプト侵攻を行っている最中に「東方のイスラム教国ホラズム(ホラズム・シャー朝)にプレスター・ジョンが侵攻を開始した」という報が入りキリスト教国側は大いに士気が上がったと言われる。しかしホラズムに攻め入ったのはチンギス・ハーン率いるモンゴル軍であった。モンゴルの諸部族の中にはネストリウス派キリスト教を信仰している部族も実際にいたが、モンゴルはあくまで「単独でホラズムに侵攻した」のであり、キリスト教国側の救援目的ではなかった。さらにこの数十年後、モンゴル軍は東欧世界に侵攻しキリスト教国を苦しめることになる。

 キリスト教国家の十字軍は13世紀末に終わり、大航海時代を迎えイスラム圏より先の世界に行けるようなると各国はこぞってプレスター・ジョンの国を捜し求めたが、発見することはできなかった。実際に東方には「キリスト教国家」としてまとまった国は存在しなかったのである。ただ伝説を否定するにはためらいもあったのか真の「プレスター・ジョンの国」ではないかと新たに比定された国家が存在する。「エチオピア帝国」である。

 中東で誕生したキリスト教の一派は南に伝わり、ナイル川沿いに信仰範囲を広げてゆき、4世紀にはエチオピアに伝わり国教として信仰されていた。「コプト派」と呼ばれるこのキリスト教信仰の国家が存在することは古くから知られていたが、ヨーロッパ世界とはイスラム圏で遮られており直接の接触は長い間無かったのである。1306年にエチオピア帝国から初めてヨーロッパに使者が訪れ、ヨーロッパ世界では「実はプレスター・ジョンの国はエチオピア帝国ではないのか」との議論が持ち上がる。噂の範疇に過ぎない東方の国家よりも、実際に存在が確認される南方の国家の方に伝説を乗せかえようとしたわけで、かなりご都合主義的な考えである。1520年にはキリスト教国家のポルトガルがエチオピア帝国と正式に外交関係を締結するが、この時もエチオピア皇帝はプレスター・ジョンであるという認識の上であった。
 しかしエチオピア帝国はこの扱いに反発する。エチオピア皇帝は「ソロモン王」と「シヴァの女王」の末裔であり、伝説上の胡散臭い人物と一緒にされるのはご勘弁願いたいとのことであった。

 17世紀末、ヨーロッパに脅威を与えていた最後のイスラム国家オスマン帝国が衰退し、ヨーロッパ社会がイスラム圏の脅威を受けなくなると「プレスター・ジョン」の噂も次第に消えてゆくのである。結局の所「プレスター・ジョン」はキリスト教社会が「希望的観測」の元に設定した「幻の王」に過ぎなかったのである。
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    プレスター・ジョンの想像図とその国家の位置。この図ではエチオピア付近にあることになっている。
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by narutyan9801 | 2013-06-05 09:29 | 妄想(歴史) | Comments(0)

土木の変 ~中国史上野戦で皇帝が捕虜になった唯一の戦闘~

 15世紀の中国は明王朝の成立によりモンゴル民族の支配体制から解放されていた。一方北方に追われたモンゴル族は各部族間の争いを経て、オイラト族出身のエセンが統一を果たしていた。明王朝は永楽帝の死後北方遊牧民族との朝貢貿易を行い一応の修好関係を結んでいたが、朝貢貿易を巡る対立から明とオイラトは戦うことになり、その結果中国正当王朝の皇帝が野戦で捕虜になるという事件が起こっている。今回はこの「土木の変」を考察してみたい。

 明とエセンの争いの直接の原因は貿易の増大を望むエセンとそれに抑制しようとする明の対立からである。明王朝の対外貿易は基本的に朝貢貿易であった。これは皇帝に使節を送った他国へ明王朝が金品を「下賜」する形で行われていたが、下賜される量は使節の人数に比例しており、より多くの人数を送ればそれだけ品物が下賜されていた。むろん無限大に品物を下賜させるわけにはいかないので、オイラトの場合使節の人数を「五十人」にすると決められていたのだが、エセンはその決まりを無視し1,000人以上の使節を送り続けていた。
 1448年冬、翌年の使節の人数をエセンは「3,598人」とすると明に連絡を行う。さすがにこの人数分の下賜を行うには負担が大きく、さらに内偵の結果使節の人数は相当数割増しされていることが判明し、この年の下賜品目は「3,598人」分の二割ほどに押さえられた。さらにエセンが望んでいた明の皇女の降嫁も拒絶され、エセンは面目を失う羽目になる。

 エセンにとって朝貢貿易の縮小は統治体制の根幹に関わるものであり、降嫁の拒絶は威信の低下につながるものであった。エセンは対明外交の失点を軍事力行使によって補おうと決意する。明領内に侵入し略奪によって朝貢貿易で得られなかった金品を強奪し、降嫁取り消しの報復を同時に行うという軍事行動であった。エセンとしてはこれまで自分の行動を黙認してきた明は軍事侵攻により再び軟化し宥和政策を採るだろうという読みがあったのかもしれない。しかし明はその思惑と正反対の行動を採ったのである。

 1449年夏、エセンは名目上の主君であるモンゴルの大ハーン、トクトア・ブハ・ハーンを伴い、二万の騎兵を率いて明領に侵攻を開始する。この事態に当時明王朝内の権力者、宦官の王振は時の皇帝正統帝に親征を上奏する。朝廷内には反対意見も多かったが、王振の権威に反対者は沈黙せざるを得なかった。こうして正統帝は五十万と号する軍勢を率いて北京を出撃する。

 8月16日に明の前線基地大同に到着した明軍は前線部隊がオイラト軍によりほとんど壊滅的な打撃を受けていることを知る。大同までの行軍は大雨に祟られ、さらに補給能力の不備が露呈し士気も低下していた明軍はこれ以上の前進を諦め「勝利」を宣言し撤退を決定する。しかし撤退中も雨や悪路の為時間を要し、騎兵中心のオイラト軍の追撃を許してしまう。奇襲と撤退を繰り返すオイラト軍に明軍は有効な手段を打てず、王振は防御に有利な土木堡に全軍を集結させオイラト軍の奇襲を避ける作戦を立てる。

 土木堡は小高い丘になっており防御には有利であったが水源が少なく、さらに近傍の河川の周辺をオイラト軍に占拠され、明軍は水不足に陥ってしまう。オイラト軍は明軍が疲弊するのを見計らい攻勢をかけ、一方的な勝利を収める。明軍は士気の低下で防戦も満足に行えず、混乱の中王振は暗殺されてしまい、正統帝は逃れることができず、オイラトの捕虜になってしまう。この戦いで明軍の半数が戦死したと言われている。

 正統帝を捕虜にしたことはエセンにとっても意外であったろう。エセンとしては明の外交変化を望んでの侵攻であり、遠征軍に打撃を与えれば目的としては十分で、捕虜とした皇帝の扱いには苦慮したようである。ともあれエセンは正統帝をつれて明の首都北京へ向かう。

 北京では遠征軍が破れ皇帝が捕虜になるという事態に動揺が走るが、正統帝の異母弟を景泰帝として即位させ民心の動揺を押さえることに成功する。さらにエセンより正統帝の身代金要求を突っぱね、攻勢に出たオイラト軍から北京を守ることに成功する。オイラト軍はこの侵攻での攻城戦は想定しておらず、兵力も北京を落とすには過小だった。結局エセンは正統帝を引き連れたまま北方に戻らざるを得なかった。

 エセンの軍を撤退させた明朝廷はエセンの主君であるトクトア・ハーンや他の遊牧民族の族長らと交渉を行い、エセンの孤立化を計る。こうした圧力のためエセンは正統帝を無条件で解放、帰国させざるを得なかった。

 土木の変は軍事的にはオイラトの大勝利ではあるが、その勝利は必ずしもオイラトに利益をもたらすものではなかった。変後明と個別交渉を行ったトクトア・ハーンとエセンは対立関係になり、変の4年後エセンはトクトア・ハーンを殺害し自らハーンを名乗るが、チンギス・ハーンの血を引かないエセンのハーン自称は他部族の反発を招き翌年エセンは部下に暗殺され、オイラトは没落することになる。

 帰国した正統帝は監禁され、権力を手放すことになるが、異母弟の景泰帝の太子(跡継ぎ)には正統帝の実子を立太子し正統帝の血筋が皇帝に付くことで政治上の妥協が成立する。しかし後に景泰帝がこの約束を反故にしたことに正統帝は不満を持ち、景泰帝が病に倒れるとクーデターを起こし権力を再掌握する(奪門の変)。景泰帝が病死すると重祚を行い、天順帝として再度帝位に即くのである。この時自らが捕虜になった際景泰帝を即位させた者たちの多くを処刑し、さらに奪門の変で自分を支持した者たちが権力を掌握し専横な振る舞いを行うと今度はその臣下達を粛正する。晩年天順帝は粛正を断行したことを悔やみ、自らの死の際殉死を禁ずる詔を発して亡くなる。享年38歳。中国皇帝で唯一野戦で捕虜になった皇帝はどのような思いを胸に秘めていたのだろうか。
 
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by narutyan9801 | 2013-05-22 10:17 | 妄想(歴史) | Comments(0)