鼈の独り言(妄想編)

suppon99.exblog.jp
ブログトップ

カテゴリ:妄想(オカルト)( 6 )

人体自然発火事件 ~人が灰になる事件の意外な要因~

 「北斗の拳」を知っている方なら「炎のシュレン」の名を覚えている人も多いだろう。いきなり涙を流しながら登場し拳王ラオウに挑むも攻撃は全く通じず逆に片手片足を折られ、最後に己が身を炎に包んでラオウを焼き尽くそうとするも頸椎をねじ切られて絶命する姿には何か忘れられないインパクトがあった。この炎のシュレンの技は作中では語られなかったが両手から炎を発し相手に打撃と共に火傷を負わせるというものであった。人間の体から炎を発するのは物理上は不可能なことなのだが、不思議なことに人体から自然発火したかのような事件が何件か起こっている。今回はこの「人体自然発火事件」を考察したい。

 成人の人間の体は約70%が水分でできており通常は炎にかざしたりしても燃え上がることはない。しかし「人体自然発火事件」では人体が自然に燃え上がったような状態で発見され、通常の火災では残る骨までも灰になって発見されることがほとんどである。さらに人体を完全に灰にするまで燃焼させたにもかかわらず人体の四肢の先端が完全な形で残ったり、延焼した部分が燃焼した人物の周辺だけに留まるなど通常人体を燃やした状況に収まらないことが多い。たとえば第二次大戦末期に自殺したアドルフ・ヒトラーの遺体は焼却し灰にするよう遺言されガソリン150リットルが用意されたのだがそれでも遺体を完全に灰にはできずに燃え残った遺体はソ連軍に回収されたとされている。人体を灰にするには相当な火力が必要であるにも関わらず、燃焼範囲が極めて狭い範囲に留まることがこの事件を不可解なものにしていたのである。

 具体的な人体自然発火事件を上げてみると
 ・ベントレー事件
 1965年12月5日に発生。当時92歳のジョン・ベントレーが焼死体で発見される。ベントレーは片足だけを残し(頭蓋骨なども残っていたと言われる)完全に灰となっていた。発見場所はバスルームで火の気は無く、彼の身体の周囲以外に燃えた形跡はなかった。

 ・メアリー・リーサー(リーザー)事件
 1951年7月1日に発生。当時67歳のメアリー・リーサーが焼死体で発見される。遺体は燃焼し萎縮した頭蓋骨といくつかの骨片を残して灰となったものの、彼女の周囲以外には延焼しなかった。

 この他にもいくつかの事件が発生しているが、その多くに共通することは
  ・犠牲者は比較的高齢で一人暮らしの場合が多い、
  ・遺体は高温で燃焼したように灰化しているが、遺体の周辺以外には延焼していない。
  ・犠牲者の体型は肥満体が多い。

 などが上げられる。発火の要因としてはタバコの不始末などの失火が考えられるが人体を灰化させるほどの熱を発生させる原因とは考えにくく、そのため原因として人体内部に含まれるリンが発火したという説、プラズマの発生による燃焼説、などが考えられてきたが具体性には欠けていた。ところが近年新たな説「人体ロウソク燃焼説」が浮かんできたのである。

 後漢を実質的に滅ぼした人物、董卓が誅殺後その亡骸のへそにロウソクの灯心を置いて灯したところ数日間燃えたという伝承がある。人体が熱に晒されると体内の脂肪が分解され液化する。通常この状態では燃えることは無いのだが灯心状のものがあると液化した脂肪分は毛細管現象により吸い上げられ、結果濾過された液化脂肪分は燃焼を続けることができるのである。燃焼自体は弱いものであり近くに可燃物が無い場合延焼が起こることは無いと考えられる。
 燃焼が弱いのであれば骨まで灰化することは不可能と当時は思われていたが、実際には比較的低温の炎に長時間晒されたほうが骨の灰化は進むという実験結果が示されている。さらに犠牲者の多くが高齢だったことも不可解な事件発生の一つの要因であったと思われる。人体の含水率は年齢を重ねると低くなり成人では70%だった含水率も高齢者になると50%程度まで落ちてくる。さらに骨密度の低下も人体灰化を促進させる要因と考えられるのである。また「人体ロウソク燃焼説」により衣服を被っていない四肢の先端が燃え残っているという謎も説明できるのである。
 
 「人体ロウソク燃焼説」によりいくつかの事件は推察が可能になっている。上記の事件例の二人の犠牲者は愛煙家であり度々タバコの灰を衣服に落としていたことが目撃されている。ジョン・ベントレーの場合はおそらくタバコの火が衣服(ローブ)に引火した後、バスルームへ消火に行きバスタブへ火のついたローブを投げ込んだ時点で力尽き、その遺体は消火できなかった火によって焼き付くされたのだと思われる。メアリー・リーサーは睡眠薬を服用しておりおそらく寝タバコが原因で衣服に引火、ロウソク現象により身体のほとんどが燃えてしまったものであろう。現在の鑑識能力からするとこれらの事件は「特異な失火による事故」で済まされてしまうかもしれない。
 しかし近年映像の保存技術が進歩し、様々な映像が残されるようになると人体発火の瞬間などをとらえた映像もネット上に上がるようになってきている。トリック映像であるものも少なくないと思われるが、もしかしたら人体には自然に発火するような謎めいた力を秘めているのかもしれない。


e0287838_00554019.jpg
 ベントレー事件の状況写真、燃え残ったジョン・ベントレーの片足と焼け落ちたバスルームの床。穴の上部に残っているフレーム状のものはベントレーが使っていた歩行補助器具である

謎 戦慄の人体発火現象―世界各国で事件続発 (サラ・ブックス)

ラリー アーノルド/二見書房

謎解き超常現象DX

ASIOS/彩図社

超怪奇現象の謎 (ほんとうにあった! ? 世界の超ミステリー)

並木伸一郎(監修)/ポプラ社




[PR]
by narutyan9801 | 2014-09-03 01:00 | 妄想(オカルト) | Comments(0)

恐竜土偶 ~恐竜と人類の共存を伝える遺物?~

 恐竜が絶滅したのは今から6,500万年前と言われている。そして人類が生存以外の表現方法、いわゆる芸術を行い始めたのはクロマニョンの出現からと言われているからおよそ3万数千年前ほど前からと思われる。両者の間には膨大な時間の差があり、共存したなどと考える人は普通は居なかった。しかしその両者が共存したという証拠が20世紀中頃メキシコで発見されている。今回はその共存の証拠「恐竜土偶」について考察したい。

 恐竜土偶は1945年7月にドイツ人実業家ワルデマール・ユルスルートによりメキシコのアカンバロ郊外で発見されている。考古学に興味があったユルスルートは使用人のティナヘロ親子に発掘を命じ、膨大な量の土偶が発掘される。それは総数37,000点にも及んだ。これを見たユルスルートは周囲の本格的な発掘調査を望み、考古学者チャールズ・ディ・ペソに話を持ちかけるが、チャールズはこの土偶を贋作と断定する。この断定に熱意を失ったユルスルートは発掘を止めてしまう。
 ユルスルート死後彼の友人であったチャールズ・ハプグッドが恐竜土偶の年代調査を依頼し、放射性炭素年代測定の測定紀元前1000年から紀元前4000年という評価が得られ、さらにこの一年後熱ルミネッセンス法という別な測定を実施しこちらでは製造年が紀元前2500年±250年の評価が得られるが、現在も恐竜土偶の真贋は確定されていないのである。

 発見当初から贋作という声が上がった恐竜土偶、客観的に見ればかなり不自然な点が目立つ。まずは37,000点にも及ぶ土偶が発見されたのであれば、それに見合う規模の他の遺跡が発見されてしかりであるが、そういった類のものは発見されていない。これだけの土偶が製造され、無傷で残っているのであれば遺跡が存在しない方がおかしいといえる。さらにモチーフにも疑問点がある。発見当時、二足歩行の恐竜は首を上に持ち上げ、身体を垂直にして歩行したと考えられていて、恐竜土偶もそのデザインを踏襲しているがその後恐竜研究が進み、二足歩行の恐竜は身体を水平にし、頭と尻尾のバランスをとって歩行したらしいということが分かっている。もし恐竜を直に見て土偶を書いたのであれば当然正しい歩行スタイルで製作されたはずである。

 恐竜土偶の科学的根拠になっている年代測定方法にも疑問がある。測定を行った際の検証結果やサンプルの扱いと行った実験がきちんと行われたかの手順が残っておらず、実験方法と結果のみが現在残っている状態であり、測定数値が正しいかどうかははっきりしない。
 放射性炭素年代測定は生物の体内に含まれる炭素の同素体C14の残存量を計って年代を測定する方法である。生物が生きているうちはC14の量はほぼ一定に保たれるが、死後C14は崩壊してゆき、その残存量からその生物の死後何年が経過したか分かる測定方法である。この方法では土器である土偶が製作された年代を直接知ることはできず、付着物や含有物、あるいは同時に出土した生物の遺骸などから測定する(土偶そのものがサンプルになっているから付着物か含有物の測定だろう)ことになるが、当然土偶が作られたと同時にその生物が死んだわけではなく、かなり以前に死んでしまった生物を測定してしまっている可能性は否定できない。
 別の熱ルミネッセンス法は石英や長石などが放射線に晒されると電子が放出されるが、この電子は結晶内に閉じ込められる。この電子に熱や強い光を晒すと、エネルギーを得た電子が結晶外に飛び出すが、この際特定の波長の光を出す。つまり焼き物など一度強い熱を帯びたものに含まれる石英や長石は火入れの際すべての電子を放出しその後放射線を浴びて再度電子を蓄積してゆく、その蓄積量を測定できれば焼き物が焼かれた年代を測定できるため、焼き物の年代測定が可能になるのである。
 しかし、熱ルミネッセンス法で石英や長石の蓄積電子が完全にリセットされるには500℃以上の熱が必要で、例えば熾火などの数百度の熱で焼成されたものは完全にリセットされず、古い年代の測定結果がえられることもある。恐竜土偶の表面は素焼きのざらつきが目立ち、含まれるガラス質が解けて表面がなめらかにはなっておらず、低温で焼かれたようであり測定結果には疑問が残るのである。

 結局、今ある恐竜土偶では真贋はっきりせず、改めて発掘を行わないと答えは出ないのであるが、現在はそれも不可能になっている。発見場所には後年ダムが建設され、恐竜土偶の発見場所はダム湖の底に沈んでしまい、発掘は行えない状態である。

 ただ、全くの贋作というのも不自然な点がある。発見者のユルスルートは実業家ではあったが、37,000点もの贋作を製作するのは資金的に大変だろうし、それだけの数を秘密裏に作成するのは不可能に近いだろう。盗難などがあり数は減ったものの現在も発見地のアカンバロの博物館には20,000点を超える恐竜土偶が保管されている。真贋はともあれ、誰が何の目的で作ったのか?その理由は当の恐竜土偶達だけがしっているのかもしれない。
[PR]
by narutyan9801 | 2013-05-13 10:04 | 妄想(オカルト) | Comments(0)

アッピンの赤い本 ~不注意から人間に取り上げられた魔書~

 キリスト教が誕生する以前の地中海世界で崇められた偉大なる神、時を経てキリスト教が広まった世界では一転して地獄の大公爵の地位を得ることになる。今回は偉大なる古代の神にして醜悪なる悪魔でもある「バアル」の持ち物「アッピンの赤い本」を考察したい。

 バアルは地中海世界で嵐と恵みをもたらす雨の神であり様々な民族が神として祭っていた。なかでもフェニキア人は最高神「バアル・ハンモン」としている。しかし豊穣をもたらす神の常としてバアルにも「生け贄」が捧げられるのが常であった。特にフェニキア民族とポエニ戦争を戦ったローマ人にとってバアルは最悪の神であったに違いない。生け贄として捧げるにしても同国民を捧げるのは抵抗があり、生け贄は戦争捕虜が捧げられることが多かった。特に第三次ポエニ戦争ではカルタゴ側が包囲中のローマ軍に生け贄の様を見せつけて戦意を衰えさせるために残忍な方法で生け贄を捧げたためにローマ軍内ではバアルを憎む感情が強かった。第三次ポエニ戦争の終結後カルタゴが完全に破壊され、耕作ができないよう耕作地に塩を撒かれた要因の一つに豊穣神バアルの存在もあったろう。

 ローマがキリスト教を国教に定めたのはカルタゴ戦争から数百年の時を経ておりすでにバアル信仰は消え去っていたが、ローマ人の記憶からバアルの恐怖は消えておらず、それが具象化したのが悪魔としてのバアルである。
 悪魔としてのバアルはルシファーの腹心であり、ソロモンの72将の筆頭を務め、他の将を凌ぐ66師団の軍を率いる地獄の大元帥である。具体的には管理者もよく分からないのだが…。面白いことにバアルは「偉大な」という意味の「ゼブル」という冠詞をつけて「バアル・ゼブル」と呼ばれていた。これが旧約聖書でゼブルをゼブブ(ヘブライ語で蝿の意味)と変化させ「蝿のバアル」と嘲笑する言葉が造語されたのだがこれがいつの間にか「ベルゼブブ」と巨大なハエの姿をした別な悪魔を誕生させてしまう。それだけバアルが持っていたネームバリューが大きかったということだろうか。

 さて、バアルがなぜそこまでの実力者なのかというと彼が持つ「アッピンの赤い本」という魔書がその力の所以である。このアッピンの赤い本には世の万物すべての「真の名前」が記されていると言われている。この「真の名前」はそれを唱えられると唱えたものに絶対服従してしまうという効力を持っている。これを持っているがためにバアルはルシファーすら軽々しく扱えない存在になっていたのである。しかしあろうことかバアルはこの「アッピンの赤い本」を人間に取り上げられる失態を演じてしまっている。

 14世紀のスコットランド、アーガイルという村に一人の少年が住んでいた。少年の両親は早くに亡くなり、少年は聡明な人物の従者となり羊飼いをして過ごしていたのであるが、その少年に目を付けたバアルが人間に姿を変え自分の従者にならないかと声をかけたのである。少年は身なりは立派だがどこか陰気な人物を疑い、自分の主人に伺いをたてないと返答できないと答え翌日ここで返事をするとバアルを一旦引き取らせる。
 少年は主人にこのことを伝え、その人物が悪魔だと見抜いた主人に一計を授けられ、翌日同じ場所でバアルと再会すると、従者になる前にあなたの持っている赤い本に自分でサインをすると言い張り、ついにバアルから「アッピンの赤い本」を取り上げることに成功する。だまされたと知ったバアルは猛り狂うが、少年の足下には魔法陣が描かれており手が出せない。バアルは一晩中魔法陣の外で暴れるが、結局少年に手を出すことができず、バアルは「アッピンの赤い本」を失ってしまうのである。実は「アッピンの赤い本」には持ち主であるバアルの真の名前も載っており、バアル自身も服従されてしまうものであった…。

 とまあ、こんな訳で中世に比べると現代の悪魔に勢いがないのはもしかしたらこれが原因かもしれない。なお「アッピンの赤い本」はその後行方不明になってしまっている。もしかしたらバアルの手元に戻っているのかもしれないが、たぶん用心したバアルは軽々しく「アッピンの赤い本」を持ち出すことはもうしないだろう。あるいはどこかに秘蔵されているのかもしれない。んで、もしかしたらインデックスが読んでいるかもしれない。他の十万二千九百九十九冊はいいので「アッピンの赤い本」の内容を知っていたら是非教えてほしいものである。

e0287838_1043715.jpg

コラン・ド・プランシーの「地獄の辞典」の挿絵のバアル。醜悪な老人、ガマガエル、猫の顔に蜘蛛の足を持った怪物の姿で描かれているが、人間の前に出るときは長身の男性の姿をすることが多いと言われている。
[PR]
by narutyan9801 | 2013-05-09 10:10 | 妄想(オカルト) | Comments(0)

テカムセの呪い ~アメリカ大統領を死に追いやるのは偶然か「呪い」か~

 1840年のアメリカ大統領選挙で勝利したウィリアム・H・ハリソンは就任からわずか一月で病死する。そしてハリソンが大統領選挙に当選した1840年以降20で割り切れる年に当選した大統領は任期途中で死亡することが続いた。人々はいつしかハリソンが1811年のティピカヌーの戦いで殺したインディアン、ショーニー族の酋長テカムセの呪いではないかと噂するようになった。今回はハリソンからケネディまで7人の大統領が倒れたと言われる「テカムセの呪い」を考察したい。

 アメリカ大統領選挙は四年に一回行われる。アメリカ大統領は任期途中で辞任や死亡があっても副大統領が大統領職を前大統領の任期切れまで引き継ぎ、次の大統領選挙が行われるので4年ごとに大統領選挙が必ず行われる仕組みになっている。そして1840年のハリソンから1960年当選のケネディまで、20で割り切れる年に当選した大統領は任期途中で死亡しているのである。

 1840年当選 ウィリアム・H・ハリソン
 1860年当選 エイブラハム・リンカーン
 1880年当選 ジェームス・ガーフィールド
 1900年当選 ウィリアム・マッキンリー
 1920年当選 ウォレン・G・ハーディング
 1940年当選 フランクリン・ルーズベルト
 1960年当選 ジョン・F・ケネディ

以上の7人の大統領が任期途中で死亡している。個々の大統領の死亡原因を見てみたい。

・ウィリアム・H・ハリソン
 第9代アメリカ合衆国大統領。軍人としてインディアンとの戦いで功績があり後に政治家に転身後1840年の大統領選挙で当選。1841年3月4日の大統領就任演説は2時間に及ぶアメリカ史上最も長い大統領就任演説であったと言われている。しかしハリソンはコートを着用せずに演説を行い、風邪を引き、肺炎を併発して就任からわずか一ヶ月で死亡する。就任期間一ヶ月はアメリカ大統領最短であり、あまりのあっけなさと就任期間の短さ、20年周期の最初の人物であることから彼の経歴の「テカムセ殺害」が呪いと受け止められるようになったと思われる。

・エイブラハム・リンカーン
 第16代アメリカ合衆国大統領。1860年の大統領選挙で当選。1864年再選される。南北戦争終結直後の1865年4月14日フォード劇場でジョン・ウィルクス・ブースに頭部を拳銃で撃たれ昏睡状態となり、翌15日早朝死亡。ブースの動機や背後関係などは諸説あり今もわからないことが多い。リンカーンは大統領就任のためスプリングフィールドからワシントンに発つ日、見送りの人に「再びこの地に帰れるかどうかは分かりません」という言葉を残している。またこの8ヶ月前にも狙撃を受けこのときは被っていた帽子を弾丸が貫通している。アメリカ大統領が暗殺された初めてのケースである。

・ジェームス・ガーフィールド
 第20代アメリカ合衆国大統領。1880年の大統領選挙で当選。当選から四ヶ月後の1881年7月2日にチャールズ・J・ギトウに拳銃で背後から二発発射され、腕と腰をに弾丸が命中。腰に入った弾丸は貫通せず体内に留まったため、医師たちが手探りで探ったり消毒が不十分だったために感染症を併発し約80日後に死亡。ガーフィールドの体内に残った弾丸の位置を特定するため発明家グラハム・ベルは金属探知機を開発して調査するが、ガーフィールドが寝ていたベッドのフレームは当時まだ珍しかった金属性であったため誤作動を起こしてしまい見つけることができなかった。また狙撃された現場ではガーフィールドの二人の息子とともに暗殺されたエイブラハム・リンカーンの息子であるロバート・トッド・リンカーンも立ち会っていた。犯人のギドウは大統領選挙の選挙運動の見返りが無かったことに恨みをもったらしいが、彼が行ったのは自分の論説を書いたビラを配っただけであった。後にギトウは絞首刑に処せられている。

・ウィリアム・マッキンリー
 第25代アメリカ合衆国大統領。1900年の大統領選挙で当選。二十世紀最初のアメリカ大統領である。1901年9月6日にパン・アメリカン博覧会で群衆との握手を行っている最中に観衆に紛れてマッキンリーの前に立ったレオン・チェルゴッシュに拳銃で撃たれる。弾丸の一発は肋骨で止まっており軽傷ですんだが二発目は胃を貫通し腎臓と脾臓を傷つけ背中の筋肉に達していた。治療に当たった医師団は弾丸の場所を特定できず傷はそのまま縫合されている。当初マッキンリーには回復の兆しがあったが、狙撃から6日後容態が急変し9月14日に死亡。死亡原因は感染症と弾丸未摘出による壊疽と言われている。実は博覧会場にはレントゲンの設備があったのだが、医師団はレントゲンを使用した場合の副作用の危険性を考え使用しなかったと言われている。また発明王エジソンがマッキンリーの病室にレントゲンを持ち込んで診察しようと試みているが、こちらも使用には至らなかった。犯人のレオン・チェルゴッシュには背後関係や政治的な意図等はなく、無政府主義者の演説に感化されて衝動的な行動を採ったものと思われるが、彼は3日間の裁判で死刑を宣告され、電気椅子で死刑を執行されている。

・ウォレン・G・ハーディング
 第29代アメリカ合衆国大統領。1920年の大統領選挙で当選。新聞の出版業から政界に転じた人物で能弁家として知られていた。大統領選挙では民主党候補だったジェームズ・M・コックにアメリカ大統領選挙最大差をつけて破っている。しかし選挙運動で尽力した友人や支持者に経済的な見返りを行い、大きな政治スキャンダルとなる。このスキャンダルが発覚する直前の1923年6月ハーディングは全国遊説の旅に出かけ、遊説先のアラスカでスキャンダルの報告を受け大きなショックを受けたと言われる(彼はアラスカを訪れた初めてのアメリカ大統領である)。このショックが原因かは定かではないが7月末アラスカから戻る途中のカナダ・ブリティッシュコロンビア州で重い食中毒を起こし、サンフランシスコに戻った後重体に陥り8月2日に亡くなっている。ハーディングの死後数年間アメリカはこの政治スキャンダルで混乱しマフィアが暗躍する時代が数年続くのである。

・フランクリン・ルーズベルト
 第32代アメリカ合衆国大統領。1932年の大統領選挙で当選。アメリカ大統領は初代のジョージ・ワシントンが3選を固辞したため、慣例として2期務めると引退することになっていたが、第二次大戦の勃発などの有事のため4選されている。現在は憲法改正で大統領の任期は2期8年までと法的に定められている。
 1944年の大統領選でも当選し4期目を務めていたが、世界恐慌から大統領職を務めてきた彼はかなり健康を害していた。一般にはあまり知られていないが彼は1921年にポリオに罹患し、その後遺症で下半身がほとんど麻痺して車いすでの生活を余儀なくされていた。こうした疲労の蓄積が急死に繋がった要因の一つであろう。
 1945年4月12日、ルーズベルトは静養先のジョージア州で趣味の推理小説を読んでいる姿を肖像画に描いてもらっている最中に脳溢血を起こし、午後3時35分に急死している。この日彼は普段は嫌っていてあまり着用しないチョッキと結びネクタイを着ていて脳溢血を起こしたと言われている。彼がもし慣例通り2期で退任できていたら、テカムセの呪いからは逃れられていただろう。

・ジョン・F・ケネディ
 第35代 アメリカ合衆国大統領。1960年の大統領選挙で当選。大統領選で選ばれた最も若い大統領(副大統領からの昇格を含めるとセオドア・ルーズベルトに次いで二番目)である。1963年11月22日に、遊説先のテキサス州ダラスでオープンカーに乗ってパレードを行っている最中に狙撃を受け咽頭部、及び頭部に銃弾が当たり死亡、事件後リー・ハーヴェイ・オズワルドが実行犯として逮捕されるが、オズワルトが一人で後方から射撃を行ったという証言と実際のフィルム映像には食い違いがある等、現在でも謎の部分が多い暗殺である。実行犯とされているオズワルトも事件から二日後にジャック・ルピーに射殺され、動機等が分からないままである。現在のところアメリカ大統領最後の暗殺によって命を落とした大統領で、任期途中で亡くなった最後の大統領でもあり、「テカムセ」の呪いの最後の犠牲者でもある。

 1980年に当選した第40代アメリカ合衆国大統領ロナルド・ウィルソン・レーガンは就任直後に拳銃で撃たれ重傷を負うが一命は取り留め2期8年の任期を全うし140年続いた「テカムセの呪い」に終止符が打たれる。更に2000年に当選した第43代アメリカ合衆国大統領ジョージ・W・ブッシュも数度危険な場面に遭遇したがこちらも8年の任期を全うしており、「テカムセの呪い」がもはや効力が無いことを証明して見せたと言えるだろう。しかし、レーガンは史上最年長で米大統領に就任したこともありこの「テカムセの呪い」を相当意識していた節がある。アメリカ大統領といえどもやはり人知の及ばない「呪い」は防げないものなのだろう。
[PR]
by narutyan9801 | 2013-05-01 10:31 | 妄想(オカルト) | Comments(0)

ファラオの呪い ~呪いの真実は「捏造?」~

 1922年11月4日、エジプト、ルクソール近くの古代エジプト第18王朝のファラオ「ツタンカーメン」の墓が発掘され、黄金のマスクを始め数々の副葬品が発掘されている。しかしその発掘後、発掘に携わった人々は次々と奇怪な死を迎えてしまった…。というのが「ファラオの呪い」と呼ばれる「事件」である。今回はこの「ファラオの呪い」の真実を考察したい。

 ツタンカーメンの墓を発見したのはハワード・カーター率いる調査隊で、イギリスの資産家ジョージ・ハーバード(第五代カーナヴォン伯爵、以後カーナヴォン卿と記す)が発掘資金を提供していた。カーナヴォン卿自信もアマチュアながらエジプト考古学の研究家として有名で、彼のツテで多くの研究家がこの探索に参加していた。カーナヴォン卿は1907年からハワード・カーターの発掘調査に経済面や政治的な問題解決(発掘に伴う許可などを取り付けるのに「卿」という立場は有効だったと思われる)に尽力してきた。1917年頃からカーターはツタンカーメンの墓の発見に尽力してきたが、なかなか発見に至らず、カーナヴォン卿とツタンカーメンの墓の発見に関する一切の権利をカーナヴォン卿が得るという条件で一年間の発掘延長の資金を出してもらって発掘を続け、ついに発見に至ったという経緯がある。

 さて、ファラオの呪いであるが、まず墓の入り口に「偉大なるファラオの眠りし墓に触れたものには死の翼が襲いかかるであろう」という警告の文字が記されており、墓を暴いた関係者が次々と呪いで謎の死を遂げたという。しかし入り口には警告の言葉などは記されていなかったというのが事実で、この警告の言葉は完全にでっちあげである。

 次に発掘に携わった人が次々に謎の死を遂げたということであるが、やはり呪いで死に至ったとなれば期間的なリミットを考えねばならないだろう。数十年かかって呪いで死んだとなると自然死と変わらないだろう。発掘から一年以内に死亡した人は実はただ一人、スポンサーのカーナヴォン卿だけである。発掘から五年後まで範囲を広げてみても考古学者のアーサー・メイスが加わるだけで、他の発掘者は皆発掘から10年以上生存している。特に最初に墓の中に入った4人(ハワード・カーター、カーナヴォン卿、アーサー・キャレンダー、カーナヴォン卿の娘イヴリン・ハーバード)のうちイヴリン・ハーバードに至っては1980年まで生存しており主立った発掘関係者26名の平均寿命は70歳を越えている(88歳まで生きた人もいる)のが真相である。

 その他にも「カーターの飼っていたカナリアが発掘の日にコブラに食べられた」とか「カーナヴォン卿の飼っていた犬がカーナヴォン卿の死亡時刻に急死した」という話も伝わるが、いずれも時間的に合わず、事実だった証拠もない噂話の範疇と言える。

 なぜ事実と異なることが世間に吹聴され現在まで「ファラオの呪い」となっているかであるが、一つの仮説にカーナヴォン卿の存在がある。彼はカーターとの協定でツタンカーメンに関する権利を持っていたが、自分の気に入ったマスコミにだけ発見の報をリークしたという話もあり、彼が発見から5ヶ月後に急死しているので彼をよく思わなかったマスコミが「ファラオの呪い」として報じたのが発端とも言われている。彼は確かに急死したが、死因は虫さされの後をひげ剃りの際に傷つけてしまい、そこから最近が体内に入り込んで肺炎を引き起こしたのが原因とされている。今だったらおそらく抗生物質で直る病気だったろうし、カーナヴォン卿は1901年に交通事故で重傷を負い、後遺症に悩まされていた。エジプト考古学に興味を持ったのもイギリスの冬の気候が彼の体質に合わなく転地療養のため冬場エジプトに滞在したのがきっかけであり、普通の人よりも体力や免疫力は弱っていたと思われる。臨終は家族に看取られて亡くなっており「狂気に陥りホテルの一室でファラオのミイラの幻影におびえつつ死亡した」とかはちょっと彼には酷な扱いといえるかもしれない。

 ただ「ファラオの呪い」には不確実要素が一つある。実はツタンカーメンの墓の副葬品のいくつかからはめ込まれた宝石が抜き取られた跡があり、おそらく一回はカーターの発見以前に盗掘されたと言われている。「ファラオの呪い」はカーター以前の盗掘者に向けられた可能性が…、無いでもない…。
[PR]
by narutyan9801 | 2013-04-29 09:29 | 妄想(オカルト) | Comments(0)

サンジェルマン伯爵 ~近世ヨーロッパ最大と言われる謎の人物~

 ある時は優雅な紳士、ある時は博識な科学者、ある時は怪しげな錬金術師、ある時は有能な音楽家、ある時は時空を越えるタイムトラベラー、ある時は不老不死の道師、これらすべての顔を持つ人物が実在したら…。現在では間違いなく狂人扱いされるだろう。しかしこれらすべての顔を持つ人物が18世紀には存在したのである。今回は謎の人物「サンジェルマン伯爵」を考察したい。

 サンジェルマン伯爵はスペイン王妃マリー=アンヌ・ド・ヌブールとスペイン貴族メルガル伯爵との私生児といわれているが、この説に確証はない。そもそも「伯爵」号も私称であるといわれている。20代にはイタリアに滞在していたといわれ、その当時の彼に面会した人も存在するが具体的になにをやっていたのかは不明である。その後1749年までロンドンに滞在していたことになっているが、ここでも彼の足跡はほとんど残っておらず、その後12年間も失踪している。彼の足跡が次に明らかになるのは1758年初頭にパリに現れてからである。

 彼の生年は1691年と言われているが、本当のところ定かではない。1758年であれば満で数えて彼は67歳の老人であったはずである。しかし彼に出会った人々は「サンジェルマン伯爵は40代に見えた」と語っている。さらには彼が「20代」の時にイタリアで出会った人物、作曲家のジャン=フィリップ・ラモーやシェルジ伯爵夫人などは40年ぶりに再会したサンジェルマンが昔と変わらない姿だったことに驚嘆している。前回会ったときは20代だったはず人物が40代に見えたのもちょっといかがわしいが…。こうしてパリの社交界でサンジェルマンは評判の人物になり、このツテでフランス国王ルイ15世の知遇を得、空き城だったシャンポール城に自らの研究室を設置する許可を受けている。
 フランス王宮内ではこの得体の知れない人物の出現に反発が起こり、特にルイ15世に仕えていたショワズール公爵はサンジェルマンを失脚させようと道化師を雇いサンジェルマンに変装させ、社交界に出入りさせほら話を吹聴させサンジェルマンを貶めようとする。しかしかえってサンジェルマンの神秘性を高めてしまう結果となりショワズール公の目論見は失敗する。しかし王宮内の反発は強く、結局サンジェルマンは1760年にスパイの嫌疑を受け、フランス王宮を追われることになる。

 フランスを追われたサンジェルマンはフランスの宿敵ドイツ・プロイセン王国に現れ、フリードリヒⅡ世の庇護を受けるがここも一年ほどで辞去し、ヘッセン領主の元で顔料の研究を行う。そしてその地で1784年2月27日に93歳で亡くなったと記録上では記されている。

 ところが、サンジェルマンはその後も幾度か姿を現したという証言がある。ルイ15世が亡くなりルイ16世統治のフランスでは革命前後にサンジェルマンが現れたと複数の人が発言しており、ルイ16世と王妃マリーアントワネットに面会して退位を勧めたとの証言もある。さらにその後エジプト遠征中のナポレオンの前に現れたという話や、南北戦争中のアメリカに現れたとの証言、さらに1939年、ナチスドイツが興味を持っていたチベットでアメリカ人の飛行士がサンジェルマンと名乗る西洋人の僧侶に出会ったとの話もある。

 さて、数世紀に渡って世界中に現れたサンジェルマン伯爵というのはどんな人物だったのだろう。少なくとも18世紀に実在した人物であるというのは確実なようである。ただ、「一人とは限らない」という条件付きであるが…。大胆に推理してみようか。
 まず18世紀初頭にイタリアに現れたサンジェルマン伯爵と中盤にフランスに現れたサンジェルマン伯爵は別人と考えた方が辻褄があいそうである。後者が前者になりすましていると考えれば時間的な疑問点(外見が変わらない)は解決が可能であろう。40年の歳月は記憶の細かい部分が薄れるには十分であるから、服装や髪型を似せて相手の話に合わせれば何とかなる可能性が高い。こうして不老不死の神秘性を備えた「サンジェルマン伯爵」がパリで誕生したと考えるのがもっとも自然であろう。
 舞踏会で執事に「彼は本当に数千年生きているのですか?」と訪ね「お答えできません、なにしろ私は旦那様に仕えて300年しか経っておりませんので」という問答や「自分は不老不死の妙薬とカラス麦しか口にしない」という発言も自らの神秘性を高めるための演技であったと思われる。

 ただ、それにしても分からないのが彼の目的である。彼はルイ15世やフリードリヒ2世など当時のヨーロッパの王侯貴族に接近したが、それほどの見返りは受けていないようである。ルイ15世からシャンポール城の使用許可は受けているが、領地などを受け取ったという具体的な話は伝わっていない。フリードリヒからも同様である。それ以前に彼の出で立ちや膨大な知識を得るためには相当の財産がないと身につけられないと思われるが、そんな財産を持っていてなおかつ各地を流浪し「ペテン師まがい」のことを続けていたのか?その動機がはっきりしない。サンジェルマンの正体の一つの説に「多重スパイ」だったという説がある。確かに社交界に出入りして情報を得るというスパイならあり得そうであるが、フランスでは追放に遭っているようにこれも今一つ確証にかけるような感じがする。
 こんな疑問を感じた人物はほかにもいて、フランス皇帝ナポレオンⅢ世はサンジェルマン伯爵に関する情報を集めていたが、1871年にテュイルリー宮殿の火災の際ほとんどが焼失してしまっている。もしこの資料が残っていれば、サンジェルマン伯爵の正体の一端が見えたかもしれないと思うと残念ではある。

 余談ではあるが、サンジェルマン伯爵の研究家によれば彼は1984年から日本に滞在しているらしい。この翌年、日本はプラザ合意を受けて「バブル景気」が始まっている。この「現在の錬金術」はサンジェルマン伯爵の好奇心を大いに満たしただろう。だがそろそろ日本にも飽きられたころではないだろうか?もし次なる研究のテーマが見つかって旅立つときには、是非一言声をかけてほしいものである。

e0287838_1081069.jpg

サンジェルマン伯爵を描いたとされる肖像画。壮年の男性に見えるが、実年齢ははたして何歳なのだろうか?
[PR]
by narutyan9801 | 2013-04-26 09:06 | 妄想(オカルト) | Comments(0)