鼈の独り言(妄想編)

suppon99.exblog.jp
ブログトップ

カテゴリ:妄想(事件・事故)( 16 )

陸上自衛隊機乗り逃げ事件 ~前代未聞の飛行機乗り逃げ事件~

 酒を嗜むものは大小の程度あれど酒が過ぎて失敗をやらかした経験があると思う。軽微なものであれば「酒が度を過ぎた」で済まされるが刑法に抵触するようなことに発展する場合もある。今回は「度を過ぎた」では済まされない「陸上自衛隊機乗り逃げ事件」を考察したい。

 昭和48年(1973年)年6月23日午後9時頃、栃木県宇都宮市にある陸上自衛隊北宇都宮駐屯地の滑走路から突如一機の飛行機が離陸を始めた。すでに空港には人はおらず、制止する間もなく飛行機は離陸、南に飛び去ってしまう。突然の事態に駐屯地内は騒然となり直ちに隊員の点呼と飛び去った飛行機の特定が行われた。その結果駐屯地飛行場に駐屯していた航行学校宇都宮分校所属整備士の三等陸曹の行方が分からず、格納庫の扉が開かれ、中に駐機していたLM-1連絡機が消えていたことが判明し、この三等陸曹が操縦して飛び立ったと思われたのである。

 三等陸曹はこの日酒を飲んでいたと言われており、酒に酔った三等陸曹が飛行機を操縦したいという衝動に駆られ、非常時に備えて施錠せず閂をかけただけの格納庫の扉を開きそのまま飛び立ったのではないかという推測がされた。
 しかし三等陸曹は整備員であり正規の操縦訓練を受けてはいない。整備士として搭乗を行ってはいるが乗り逃げの機体であるLM-1への搭乗は合計で2時間強であり見よう見まねで操縦を行えたとしても酒が入った状態でベテランパイロットでも難しい夜間離陸と低空飛行を行えたかはかなり疑問が残る。

 宇都宮を離陸したLM-1はその後も低空飛行を続けたらしくレーダーでの捕捉は出来なかった。無線連絡も応答が無く、搭載されていた燃料が尽きる5時間20分後までに着陸したという情報は得られなかった。この間1300kmの飛行が可能で、カタログ上では北はサハリン、北方領土、西では北朝鮮、南西であれば奄美大島、南であれば硫黄島まで到達できる距離である。自衛隊は翌日から一ヶ月にわたり行方不明機の捜索を行ったが、手がかりは全く掴めなかった。その後も乗り逃げされた機体、三等陸曹の行方は全く不明のままである。

 それにしても酒に酔った人物が警戒が厳重(と思われた)自衛隊基地内を誰にも気づかれずに格納庫まで到達し、飛行機を動かせたという事は驚愕ではある。この事故を巡り関係者の管理不足が指摘され処罰が行われている。当の三等陸曹は行方不明のまま懲戒免職処分になっている。
 しかしこの事件、件の三等陸曹が乗り逃げしたという客観的な証拠は見つかっておらず、ただ飛行機と三等陸曹が同時に消えてしまったという事だけからの「推測」である。もしかしたら真実はもっと複雑怪奇なものである…可能性はあるかもしれない…。

e0287838_9433876.jpg

飛び去ったLM-1の飛行可能範囲(赤丸の内側)実際は空気抵抗の高い低空飛行をしたため燃料消費が大きく、到達可能地域はこれよりも小さくなると思われる。この範囲のどこかに今もLM-1は眠っているかも知れない。
[PR]
by narutyan9801 | 2013-09-23 09:47 | 妄想(事件・事故) | Comments(0)

谷川岳宙づり遺体収容 ~宙づりの遺体収容の為取られた非常手段~

 人が同胞の遺体を「葬る」ことを始めたのは10万年前のネアンデルタール人にまで遡れるという。現世人類のホモ・サピエンスも出現直後から遺体を埋葬していた事が遺跡から分かっている。遺体の埋葬は最初は遺体の腐臭が肉食動物を呼び寄せてしまいそれを防ぐためという危険防止からだと言われているが、人間の精神世界の成長により遺体を葬るという行為には死者の尊厳を守るという要素も付加されるようになった。遺体は時がたてば腐敗、分解が進み正視できない状況になる。古代から近世での刑罰には遺体を「晒す」という刑罰があった。遺体が人目に晒されるのは遺体となった個人の尊厳に関わることと人は捉えるようになったのである。一方で遺体に故意に損傷を加えることは「死体損壊」という罪に問われることになる。この遺体を「晒される」ことと「損傷を加える」ことのどちらか一方を選択しなければならない場合、人はどちらを選択することになるだろう?今回はそんな疑問の回答の一つとなった「谷川岳宙づり遺体収容事件」を考察したい。

 群馬県と新潟県の県境に位置する谷川岳は知名度が高く標高も2,000mに満たない山であるが、複雑な地形と急峻な岩場、めまぐるしく変わる気象条件から登山の難航度の高い山として知られている。記録が残っている昭和六年(1931年)から平成一七年(2005年)までの遭難死者数は781人に上る。単純な比較はできないがこの死者数は世界の8,000m級の登頂を目指し、遭難死した死者数を上回る。群馬県では谷川岳遭難防止条例を施行し入山届の義務化、入山前の事前情報の講習など遭難防止対策を行っているほどである。

 昭和三十年9月19日、群馬県警察谷川岳警備隊に「一の倉沢で助けを呼ぶ声を聞いた」という通報が入る。警備隊は一の倉沢に急行し、衝立岩と呼ばれる岸壁に宙づりになっている二人の男性を発見した。
 二人の男性は前日に入山した神奈川県の山岳会の会員で、発見時の呼びかけに反応が無く、双眼鏡からの観察によりすでに死亡していることが確認された。遭難原因は不明だが何らかの理由で滑落し、オーバーハングした岩場にザイルが引っかかり宙づりとなった時点では両名、またはどちらは意識もあったが、その後吹きさらしの風に当てられての低体温症、またはザイルの圧迫により死亡したものと思われる。
 状況は一人が第一ハングと呼ばれるオーバーハングで、もう一人がその上の第二ハングと呼ばれるオーバーハングで宙づりとなっていた。二人の身体はザイルで繋がっており、お互いの体重が釣り合い引っかかった状態になっていると推察された。

 事故現場となった衝立岩はロッククライミングの難所中の難所として知られ、事故当時ここの登頂成功者は合計15名しかかなかった。二人が所属した山岳会のメンバーは衝立岩を登坂し下の方の遭難者の脇まで到達、ここから何らかの方法でザイルを切断し二人を落下収容させることを検討したが二次災害の危険性も考慮され、山岳会の救助は断念されることになった。そして非常手段として自衛隊の狙撃部隊がザイルを銃撃して切断、遺体を落下させて収容することとなったのである。

 9月24日、陸上自衛隊相馬原駐屯地から第一偵察中隊の狙撃部隊が現場に到着する。当初狙撃部隊は狙撃ライフルでザイルを狙撃して切断することとしていたが、射撃地点からザイルまでの距離は有効射程距離外で、さらに沢の複雑な地形から発生する気流により狙撃で命中させることはできなかった。自衛隊部隊は作戦を変更し軽機関銃の射撃でザイルを切ることを試みるが、約1,000発の射撃でもザイルを切ることができなかった。
 そこで自衛隊部隊は作戦を変更、ザイルが引っかかっている岩場を銃撃することにする。狙撃点が固定されていることに加え、岩場を銃撃することによりザイルが移動し、岩盤がザイルを削り取る効果も加わって約300発の射撃によりザイルは切断、二人の遺体は沢に落下、滑落後ようやく遺族の元に返ってきたのである。この一部始終は写真や映像に記録され、今でも目にすることがある。

 この事件は色々な意味で反響の大きな事件であった。遺体は落下後滑落し相当大きな損傷が加わることが予想される。それでもなお遺体が「晒される」ことは耐えられないという遺族の気持ちはよく分かる。その点で当時の映像技術はいい意味で「荒かった」と言える(編集カットの部分も存在する)。仮に現在同様の事件が起これば犠牲者の尊厳がどれだけ保てるか…。Youtubeやtwitterに投稿され問題視される画像を見る度この事件が脳裏に浮かぶのである。

 事件を伝えるニュースフィルム(Youtubeより)

e0287838_9224945.jpg

                    Google Earthより谷川岳、一の倉沢
[PR]
by narutyan9801 | 2013-09-19 09:26 | 妄想(事件・事故) | Comments(0)

洞爺丸の見た青空 ~ベテラン船長や気象庁職員も惑わした特異な気象~

 昭和二九年9月26日午後5時頃、台風15号の接近により運行を見合わせていた青函連絡船上り4便の洞爺丸は風雨が止み晴れ間が見えたため定刻より4時間遅れの18時30分に出航することを決定、出航したものの港外で暴風雨に巻き込まれ、午後10時45分頃に沈没する。「洞爺丸事故」と呼ばれるこの事故では午後5時頃に見えたつかの間の晴れ間が事故の大きな要因となっている。今回はベテランの船長だけではなく、気象台すらも間違えた洞爺丸台風の「目」について考察したい。

 洞爺丸台風は昭和二九年(1954年)9月26日未明に九州南部に上陸、九州から中国地方を縦断して日本海に入り、時速約110km/時という猛烈なスピードで北上していた。このままの速度で進んだ場合、青森に再上陸、17時頃に函館にもっとも接近しその後急速に離れてゆくと思われていたのである。
 洞爺丸の近藤平市船長は天気に詳しく、自ら天気図を描いて天気予報をするため「天気図」のあだ名を持っていた。当初近藤船長は14時40分出航予定であった上り4便は台風接近前には陸奥湾に入れると予測していた。ところが他の連絡船が運行休止しその乗客を洞爺丸に移乗させるのに手間取り、また断続的に起こった停電で船内に通じる可動橋が動かなくなって鉄道車両の積載に時間を要するうちに風雨が強くなり15時10分に出航を延期、函館湾内で台風をやり過ごすことを決意したのである。

 17時頃風雨が弱まり空には青空も見え、海鳥が飛んでいる姿を目撃した近藤船長は函館港が「台風の目」に入ったことを確信し、この後一度吹き返しの風があるものの台風は急速に離れていくと判断、18時40分の出航を決意する。同じ頃函館海洋気象台も台風の目に入ったことを札幌管区気象台に通報している。気象のプロから見ても函館は台風の目に入ったと思われた。しかしこのつかの間の青空は台風の目の通過では無かったのである。

 日本海に入った台風15号は前線を伴い、函館に近づく頃には温帯低気圧になっていたと推測される。台風(熱帯低気圧)と温帯低気圧は勢力を維持するエネルギーの供給方法が違う。台風は中心付近に空気を凝縮し、その潜熱をエネルギーとするのに対し温帯低気圧は温度の違う空気が接触し熱の変換をエネルギーとしている。台風から温帯低気圧に性質が変換されたことにより台風15号(この時点ではすでに温帯低気圧になっていたと考えられるが、便宜上台風15号のままで話を進めたい)は勢力が再発達したと考えられている。さらに台風の中心から東南東に閉塞前線が延び、閉塞前線が温暖前線と寒冷前線に分かれるところに低気圧、といえないまでも気圧が低い部分が発生したと思われる。この部分が「疑似的な台風の目」となっていた可能性が高い。
 ここから先は自分の想像であることをお断りして話を進めたい。「疑似的な台風の目」に南から乾燥した空気が入り込み一時的な晴れ間を作っていたと思われる。この「南からの乾燥した空気」は「白神山地からのフェーン現象」であったのでは思う。台風15号、及び「疑似的な台風の目」へ向けて南から吹き寄せた風は白神山地の南斜面で降雨をもたらし、山地を乗り越えた風がフェーン現象となって疑似台風の目付近に吹き込んだのではなかろうか?温暖前線が形成された付近では冷たい空気が持つ水蒸気が暖かい空気とぶつかり降雨をもたらすが、温暖前線が通り過ぎてしまえば一時的に晴れ間が見えるという状況は十分説明できると思う。

 洞爺丸にとって不幸だったのは台風15号の進路上に高気圧があり、移動速度が急に遅くなったことと、台風の中心の予想到達時間にたまたま「疑似的な台風の目」が通過してしまったという偶然が重なったことも大きい。当時はまだ気象衛星もなく、現在のように分刻みで台風の状況が掴める気象観測状態ではなかった。限られた情報を補うのは知識と経験でしかなく、その知識と経験も台風15号の特異な状況を判別することは不可能であったろう。

 洞爺丸沈没による死者は1,155人と言われているが、犠牲者の数は諸説あって未だにはっきりとわかっていない。この日函館港外では他にも4隻が沈没しており合計で1,430人が犠牲になったと言われている。日本の気象予報は現在世界でもトップクラスであるが、その技術はこうした大勢の災害犠牲者を出した経験から成り立っているのである。
e0287838_1248473.jpg

洞爺丸台風の目と「擬似的な目」の位置関係を非常にざっくりと表してみました。本文には書かなかったのですが洞爺丸台風の進路が予想と違い北海道の西を通ったのも誤認してしまうファクターになってしまったと思われます・
[PR]
by narutyan9801 | 2013-09-17 12:50 | 妄想(事件・事故) | Comments(0)

紫雲丸 ~次々と起こる事故は名前が由来だったのだろうか?~

 言葉には本来の意味とは異なる別の意味を持たせる「隠語」という使用方法がある。この「隠語」はたいてい直接表現すると色々と不都合が起こるため別の言葉で柔らかく表現することを目的とするか、特定の人物、集団に理解されるような使い方をする。時として「隠語」は発生した事象への原因や結果への相乗として用いられることがある。「ジンクス」や「運・不運」に結びつけられたりして用いられる「隠語」は数多い。今回は度々事故を起こし、名前が事故の原因ではないかと言われ続けた船「紫雲丸」を考察したい。

 紫雲丸が航行していたのは現在の岡山県玉野市と香川県高松市間を航行していた宇高連絡船である。宇高連絡船は旧国鉄の宇治駅と高松駅とを接続する鉄道連絡船であった。戦前より宇高連絡船は輸送量の増大への対応を進めていたが太平洋戦争勃発により計画は中断、昭和一七年(1942年)に九州ー本州を結ぶ関門トンネルの開通により余剰となった関門連絡船を転属させて応急的な対応をするに留まっていた。
 戦後も更なる輸送量の増大が見込まれ、また本格的な鉄道車両の船舶輸送を行うため新造の連絡船建造の機運が高まり、これに応える形で建造されたのが「紫雲丸型」三隻で紫雲丸はそのネームシップに当たる。

 紫雲丸はほぼ同時期に建造されていた青函連絡船「洞爺丸型」と似たような外見を持ち、船尾から車両を積み降ろしを行うため大きな扉を設けていた。ただ大きさは洞爺丸の半分以下である。当時の燃料事情からボイラーは石炭を燃料とするものが搭載されており、新造時には監視用レーダーは搭載されていなかったが当時としてはまず標準的な装備を備えた客船であった。

 しかし紫雲丸は建造当初から「縁起が悪い」という噂が出ていた曰く付きの船であった。名前は高松市にある「紫雲山」から命名したのであるが「紫雲」は臨終の際仏が死者の魂を迎えるために乗ってくる雲の名前であり、また「しうん」という読みは「死運」に通じるものである。そして紫雲丸は竣工後次々に事故を起こすのである。

 1度目の事故
 昭和二五年(1950年)3月25日、姉妹船の「鷲羽丸」と衝突して沈没、死者7人を出す。船体は引き上げられ修理、再就役。

 2度目の事故
 昭和二六年(1951年)高松港内で「第二ゆず丸」と衝突、事故後に監視レーダーを装備。

 3度目の事故
 昭和二七年(1952年)高松港内で護岸捨て石に衝突、この後安定性を高めるためジャイロコンパスを装備。

 4度目の事故
 昭和二七年高松港内で「福浦丸」と接触

と3年間で4度の事故を起こしており、一度は沈没しているというのはやはり尋常ではない。そして5度目の事故となったのが、国鉄戦後五大事故の一つと言われる「紫雲丸事故」である。

 昭和三〇年(1955年)5月11日早朝、紫雲丸は高松港を出航しようとしていた。当時瀬戸内海には濃霧警報が出ていて視界は50m以下の場所もあるという予報が出ていたが紫雲丸船長はブリッジから前方500m程度の視界があることを確認し午前6時40分に出航、宇野港へ向けて航行を始めた。その30分前には衝突の相手側になる「第三宇高丸」が宇野港を出航している。
 「第三宇高丸」はその後濃霧警報に伴いレーダー使用・霧中信号の発信を開始、午前6時51分船首方向2500m先にレーダーの反応を確認している。第三宇高丸は衝突を回避するべく転舵し、そのまま通り過ぎようとしたが、6時56分頃紫雲丸が突然舵を切り接近したため機関停止、左舷に舵を切ったが間に合わず、紫雲丸の右舷船尾付近に第三宇高丸の船首が突っ込む形で衝突してしまう。

 紫雲丸が衝突した箇所は機関室で紫雲丸側の動力は衝突と同時に失われ、電気も止まってしまう。照明の消えた紫雲丸船内では真っ暗の中乗組員が水密扉を手動で閉めようとしたが作業は不可能で、紫雲丸船内はあっという間に浸水が広がってしまう。
 衝突した第三宇高丸の船長は衝突回避のため一旦は機関停止を指示したが衝突後船体が離れてしまうと紫雲丸が急速に浸水、転覆するとの判断で全速力での直進を指示、その間に接触している部分から紫雲丸乗客が第三宇高丸に乗り移るのを助けるなど救助作業を行っている。
 
 紫雲丸の乗客には多数の児童が含まれていた。この日の紫雲丸には小学校3校中学校1校の児童が乗船していたのである。愛媛県から中国方面への修学旅行に出かける小学校が一行、その他は中国地方から四国地方への修学旅行へ出かけ、帰る学校であった。事故後照明が点かず傾斜のため船内から多くの生徒が脱出できず取り残されてしまう。一旦第三宇高丸に待避したものの生徒の救助に紫雲丸に戻ってしまった先生やおみやげを持ってゆこうとして逃げ遅れた生徒もいたという目撃談もある。
 紫雲丸船長は一度ブリッジから離れ衝突箇所を確認した後ブリッジに戻ってくる。途中すれ違った船員に「やった…」と一言伝えた後ブリッジから動こうとしなかった。

 衝突から6分後の午前7時2分、双方の船員の努力も実らず紫雲丸は沈没する。犠牲者は紫雲丸の乗員が船長以下2名、乗客が166名の計168名に上った。特に修学旅行中の児童の犠牲者は100人に達し、さらに児童犠牲者の81人が女子児童だったという。

 この事故の海難審判は難航を極めた。事故の主な原因は紫雲丸側の航行、特に衝突直前の転舵が重要な原因とされたが、双方の船ともに霧中では過大な速度で航行しているなど責任について審議を行わなければならない部分もあったが、紫雲丸側は船長が死亡しており、事故原因の究明は困難であった。結局海難審判は紫雲丸側の操船に問題があったとしたものの、操船そのものの理由については船長死亡のため推測の域を出ないという曖昧な表現になっている。一方刑事裁判では紫雲丸航海長、第三宇高丸船長に有罪が言い渡されている。

 紫雲丸事故は思わぬ方面に影響を与えている。当時の学校教育では水泳の授業はほとんど行われず、プールが設置されている学校はごく僅かでしかなかった。この事故後体育の授業に水泳が取り入れられ、全国の小中学校にプールが設置されるようになるのである。

 またこの紫雲丸事故と前年の洞爺丸事故を受けて連絡船による交通から鉄道が直接連絡する輸送ルートの整備計画が持ち上がり宇高連絡船のルートには本州四国連絡橋、青函連絡船のルートには青函トンネルが40年ほどの歳月をかけて建設されることになる。

 沈没した紫雲丸はその後サルベージ・修理が行われ再々就役することになるが、度重なる事故を嫌ってか「瀬戸丸」と改名されている。しかしそれでも事故はやまず昭和三五年(1960年)に中央栄丸と高松港入り口で衝突し中央栄丸が沈没する事故が起こっている。昭和四一年(1966年)に瀬戸丸は宇高連絡船を引退、一部解体の後船体は宇品で浮きドックとして使用される。平成三年(1991年)に役目を終え解体されるが、本州四国連絡橋児島・坂出ルート(通称瀬戸大橋)の開通を見届けられたことは「紫雲丸」にとって本望であったろう。

e0287838_9483159.jpg

上空から見た紫雲丸沈没地点。写真左端には本州四国連絡橋児島・坂出ルートも写っている。三本の本州四国連絡橋のうち児島・坂出ルートが最初に着工、完成したのは紫雲丸事故のためと言われている。
[PR]
by narutyan9801 | 2013-09-16 09:51 | 妄想(事件・事故) | Comments(2)

ボストン糖蜜災害 ~甘い物に破壊されたボストン~

 多くの人々にとって「甘いもの」というものは人生を通じての「友」となっている。管理者もやはり甘いものには目がない(飲酒も状況によっては嗜むので、俗に言う両刀使いである)。人間と深く結びついている甘いものであるが、特殊な条件下では町を破壊する「凶器」に変貌することがある。今回は甘味料が引き起こした災害「ボストン糖蜜災害」を考察したい。

 糖蜜とはちょっと聞きなれない言葉であるが、砂糖を精製した際に生じる副産物の液体である。現在甘いものの基準となるものは精製された砂糖になっているが、砂糖が貴重品だった時代は糖蜜が長く標準的な「甘いもの」として利用されてきた。さらにサトウキビの精製後の糖蜜は「ラム酒」の原料となり、副産物とはいえ多くの需要があったのである。当時のボストンは糖蜜の生産が盛んで、生産された糖蜜はマサチューセッツ州の蒸留工場へ輸送されていた。このためボストンの貨物駅に高さ17.7m、長さ27mの巨大なタンクが建造され、大量の糖蜜がここに貯蔵されていた。それが1919年1月15日、大音響と共に突然破裂し貯蔵されていた糖蜜が一気に流れ出したのである。

 糖蜜は粘度が高く流れにくいものであるが、逆に粘度が高いせいで流れ出た先端部では2~4mもの高さになった糖蜜が高い圧力で押し出され時速60キロメートルのスピードで家々に突進し、なぎ倒してしまう。駅にあった蒸気機関車も糖蜜の圧力によって流されるほどの圧力であり、この津波に衝突され、その衝撃で即死した人もいるほどであった。結局糖蜜の津波に巻き込まれたり、建物の倒壊により21人が死亡する大惨事になってしまう。ボストンの町に溢れでた糖蜜の処理には半年以上の時間がかかり、町に染み着いた糖蜜の香りは30年後でもとれなかったと言われている。

 この事故は様々な要因が重なって発生している。そもそもの原因は糖蜜を詰めたタンクの強度が容量(950万リットル)を支えるには不十分であったことが裁判で証明され、建造した企業は賠償金を原告の住民に支払っている。
 根本的な原因は設計ミスであるが、崩壊に繋がるまでタンクに糖蜜を詰め込んだ要因には「禁酒法」という要因も指摘されている。事故発生当日は禁酒法が承認される前日であり、それまでになるべく多くのアルコールを精製しようと生産された糖蜜が容量いっぱいにまで入れられていた可能性が高い。そこへ気温の上昇が重なってしまった。ボストンでは事故の3日前にマイナス30度を記録する寒波に見舞われたが、それが事故当日にはプラス8度まで上昇していたと言われている。冷え込んで容積が減った糖蜜をタンクに詰め、温度の上昇で容積が増えたため圧力がかかり崩壊に繋がったという説。また糖蜜の分解が進み発生したガスの圧力で崩壊したという説もあげられている。いずれにしても設計ミスと運用ミスが重なっての事故であることに間違いはないだろう。

 ちなみにタンクを運用した会社は裁判でタンクの破裂は無政府主義者のテロによる爆破であると主張しているが認められなかった。この主張そのものは会社の責任逃れのいいわけにすぎないが、考えてみると人々に幸福感をもたらす「甘いもの」がテロに利用できるというのはちょっと怖い気持ちもする。

e0287838_1044910.jpg

                   災害直後のボストン駅周辺の惨状を写した写真
[PR]
by narutyan9801 | 2013-08-20 10:08 | 妄想(事件・事故) | Comments(0)

ハリファックス大爆発 ~史上最大規模の火薬爆発事故~

 人間が「火薬」を発明したのは中国・唐の時代と言われている。火薬の発明までにはおそらく多くの事故が起こったろうし、発明以降も多くの事故が起こっている。今回は火薬の爆発としては史上最大級の規模になった爆発事故「ハリファックス大爆発」を考察したい。

 事件が起こったのは1917年12月6日早朝のことである。カナダ・ノバスコシア州ハリファックス港はこの当時第一時世界大戦の軍需品の積み出しが盛んに行われており、爆発した火薬もヨーロッパに送られるものであった。当時ドイツのUボートが夜間港内に進入するのを防ぐため船の夜間港内進入は禁止されており(港の入り口は夜間防潜網で塞がれていた)朝港を出港する船と入港する船が湾の入り口に殺到するという危険な状態がが日常化していた。そして起こってしまった衝突事故が史上最大の爆発事故に繋がってしまう。

 事故当日、衝突事故の一方の当事者になるノルウェー船籍の貨物船イモ(5,043トン)は前日給炭の積み込みが遅れ出港できず、港内に停泊して夜を過ごし、港口がらニューヨークへ向けて出港するところであった。ニモは空船でニューヨークで荷物を積載することになっていた。一方の当事者フランス船籍のモンブラン(3,121トン)は逆に到着が遅れ、港外に停泊して朝入港すべく港口に進入してきた船である。モンブランの船長は交代したばかりであったがベテランの水先案内人がガイドについていた。モンブランの積荷は火薬類とベンゼンであった。火薬類はすべて船倉に納め木材を内張りしてしっかりと固定し、木材を固定する際には静電気のスパークを考慮して銅製の釘を用いたほど入念な荷造りをしていたが、ベンゼンの積載に問題があった。

 ベンゼンは日本の消防法で第四類に指定される引火性液体(管理者は甲種危険物取扱者免許取得)であるが、このベンゼンは船倉に収まりきれず220トンものベンゼンはドラム缶に入れた上でデッキに縛り付けて固定していた。さらにモンブランは危険物を取扱中であるという国際信号機をUボートの標的になるからと掲げていなかったのである。

 朝7時30分に防潜網が開くとこの二隻以外も数隻の船が入出港すべく動き出す。ハリファックス港は北から南に開いた湾の西岸に埠頭が作られていた。船の航行は原則右側通行であるがハリファックス港は右側(東側)を通ると距離が遠くなるため原則を破って左側(西側)を通る船が黙認常態になっていた。通い慣れていたニモはそれを知っていて左側を航行し、港に入港するため同じく規則違反で左側を航行していた二隻の船とすれ違う。
 そして三隻目のモンブランが視界には行ってきたが、モンブランの船長は初めての入港であり規則通りに右側を航行しており、モンブランの船長はイモに「通常航行(右側航行)に戻れ」と汽笛で信号を送るが、ニモは「直進する」と信号を返し、進路を変更しなかった。信号のやりとりをしている間に二隻はあっという間に近づいてしまい、ついには接触してしまう。

 接触したといっても舷側を擦った程度であり通常であてば重大な事故にはならなかったがモンブランのデッキに積んであったベンゼンのドラム缶が倒れ、漏れたベンゼンが引火しモンブランはたちまち炎に包まれてしまう。積み荷の危険性を知っていたモンブランの乗員はほとんど消火作業を行わずボートで脱出してしまう。モンブランの乗員はボートで避難する際航行する船に「逃げろ」と警告したのだが、発した言葉はフランス語でほとんどの人は理解することができなかった。そして無人となったモンブランは衝突の回避のために舵を切った状態で航行を続け、ハリファックス港の第六埠頭に漂着し、付近の倉庫にも火が燃え広がってしまう。

 もしモンブランに危険物取扱中の信号旗が掲げられていたら人々は近寄らなかったかもしれないが、延焼をくい止めようとした人々や野次馬たちが集まる中、午前9時4分35秒に積み荷へ引火し、モンブランは大爆発を起こしてしまう。
 爆発の衝撃でモンブランの船体は四散し、武装商船として装備していた大砲が4キロ先まで吹き飛ばされているのが後に発見されている。爆発の衝撃でモンブランから半径2キロの建物はほぼ破壊され、同時にハリファックス湾には爆発の衝撃で津波が発生し爆発で直接被害を被らなかった地域にまで犠牲者がでてしまっている。この爆発の衝撃波はもう一方の当事者ニモにも襲いかかり船長や水先案内人が死亡、このためニモの事故当時の航行記録を証言する者がいなくなったことは後の裁判に影響を及ぼしている。

 この爆発で約2,000人が死亡、9,000人が負傷したと言われている、当時ハリファックスの総人口は5万人と言われているので人口の約1/5が死傷したことになる。負傷者の内200人が失明を伴う負傷を負っていた。これは寒い時期で窓ガラス越しに事故を見物して爆発の衝撃で割れた窓ガラスが顔面に直撃してしまったためである。また建物の倒壊も深刻で6,000人が冬の寒空の中家を失ってしまったのである。
 事故当日より近隣の諸都市からの救助隊がハリファックスに向かい、事故翌日にはアメリカの大西洋岸の都市から医療品や医師を乗せた船がハリファックス入りし被災者の救護を行っている。特にボストンからはハリファックスに直通する鉄道が通っていたこともあり大量の支援物資が届けられた。この支援に感謝したハリファックスの市民は以後毎年ボストンに巨大なクリスマスツリーを送っている。

 事故後被害状況を調査していくと、実際の爆発よりもより大きな衝撃が生じた痕跡があちこちで確認され、その原因を調べると爆発の衝撃波が地面で反射された「反射波」の影響によりより大きな衝撃が発生することが突き止められた。これを元に初の原爆実験「トリニティ実験」では原爆を地上より高い位置で爆発させ、その効力が実証されている。これだけの大災害でも人間、ただでは起きないというところだろうか。

e0287838_113524.jpg

             湾内を航行していた船から撮影されたハリファックス爆発直後の爆煙
[PR]
by narutyan9801 | 2013-08-19 11:05 | 妄想(事件・事故) | Comments(1)

加藤老事件 ~事件発生から再審無罪まで62年を要した冤罪事件~

 誰かが犯した罪が無関係の他の人物が犯したものと思われ処罰されてしまう「冤罪」現在でも「痴漢冤罪」が問題化するなど、根本的に人間が「罪」というものを犯さなくならない限り無くならないものかもしれない。今回は事件発生から実に62年後に冤罪として認められ「無罪」となった「加藤老事件」を考察したい。

 その事件は1915年7月11日に発生している。この日の朝現在の山口県下関市で男性の遺体が発見される。男性は全身を刃物で切りつけられるという残忍な方法で殺害されていた。この男性は金をため込んでいるという評判が立っており自宅には荒らされた形跡があった。警察は調査を行い、事件当夜に男性と口論をしていたという目撃情報を得、犯人Xを検挙する。

 Xは取り調べに対し自分は殺害を手伝っただけであり主犯は被害者と同業の夫婦であると供述する。警察はこの夫婦も逮捕し拷問を含む取り調べを行ったが、当日夫にアリバイがあることがわかり夫婦は釈放される。夫婦の釈放後Xは同じ村に住むK(実名は伏せる。事件当時24歳)が主犯であると主張、Kは逮捕されることになる。Kは両手の人差し指と腰の骨を折られるほどの拷問を受けながらも容疑を否認するが、血痕のついた父親の服と藁切り刀が物証となりXと共に起訴、大審院(現在の最高裁判所に相当)まで続いた裁判の結果両人ともに無期懲役を言い渡される。

 Xは服役中1918年に獄死し、Kは模範囚として服役し服役中にも関わらず少年刑務所の職業訓練の指導を任されるなどし1930年に出獄する。出獄から三十数年後、Kは吉田岩窟王事件(事件後50年を経て再審無罪判決が出された事件)を聞き、独力で4回再審請求を行ったがいずれも却下されている。1972年に日本弁護士連合会が事件調査を行ったが事件発生から年月が経って新事実が出てくることはないと支援を一度は断念していた。しかし1975年の「疑わしいときは被告の利益に」という白鳥決定があり支援を再開、6回目の再審請求は受理され、事件は60年ぶりに再調査が行われることになった。

 そもそもこの事件は警察が誤認逮捕という不祥事を犯しているにも関わらず再度Xの供述を元にKを逮捕するという不可解な展開から始まった。これは犠牲者の外傷が全身を刃物で切られるという凄惨な殺害方法であり、警察側が「犯人は複数」という先入観を持ってしまっていた可能性が高い。そして杜撰な捜査状況が再調査で明らかになる。
 大きな物証となった凶器の藁切り刀の再調査では遺体の外傷は凶器とされた藁切り刀とは一致しないという鑑定結果が得られている。鑑定を行った上野正吉東京大学名誉教授は「今までに一度も法医学的な再鑑定が行われなかったのは弁護士の怠慢である」と言い切っている。
 さらに事件当時着ていた服の血痕鑑定を行ったとされる医師が証人になったことはないと話し、血痕自体が検察側のでっち上げの可能性が指摘された。しかし裁判の調書は1932年に判決文を除き処分されており、当時の調査の全容を明らかにすることは不可能であった。

 1977年7月7日、広島高裁で判決が言い渡され、共犯者の供述は信用できず、物証の証拠価値はないとKには無罪の判決が言い渡された。事件発生から実に62年、Kは86歳になっていた。Kはその後国に対し国家賠償請求訴訟を起こすが、判決前に89歳で死去、判決も却下されている。
 現在の弁護制度であればまずここまでの冤罪は起こり得ないと思われるが、拷問による自白強要、こうでなければおかしいだろうという先入観が入った捜査など当時の司法のあり方を考えさせられる事件である。
[PR]
by narutyan9801 | 2013-07-03 11:55 | 妄想(事件・事故) | Comments(0)

タサダイ族 ~「愛の民族」は本物か捏造か~

 人間には「生善説」と「生悪説」の両論が唱えられている。生まれた時は悪事を知らず、生まれた後に悪事を覚えていくという説と、生まれながらにして悪事を知っているという説である。「生善説」が正しければ、悪事を知らずに人間が成長すれば、争い事が起こらない社会が形成されることになる。今回はそんな人間の根幹に関わるような事象をはらんだ謎と疑惑の民族「タサダイ族」を考察したい。

 タサダイ族はフィリピン・ミンダナオ島に暮らしているとされる民族である。1960年代後半、ミンダナオのハンター、ディファルによって「発見された」となっている。彼らは6家族27人の極めて小規模な民族であるが、タサダイ語と命名された独自の言語を用い、外界との接触を全く行わないで生活を行ってきた民族と紹介された。彼らの用いるタサダイ語には「武器」や「敵」といった単語が無く、全く争い事を行わない習慣を持つ極めて特異な民族ということでフィリピン政府に報告されたのである。

 当時のフィリピンはフェルディナンド・マルコスが大統領職を長期にわたって勤めている独裁体制であった。そのマルコス政権で環境大臣を務めていたマヌエル・エルザルデJrが調査団を派遣、その存在を確認しマルコス大統領に報告。その後アメリカのCBSやイギリスのBBCなどの報道によってタサダイ族の存在が世界に知られるようになる。これは大きな反響を生み、当時存命だったチャールズ・リンドバーグやジョン・ロックフェラー4世などの「名士」が保護に賛同し、多額の寄付が寄せられたのである。1974年にはマルコス大統領によってタサダイ族の居住地域への立ち入りが禁止され、タサダイ族は保護されることになったのである。この措置によりタサダイ族と外部の接触は断たれ、その後フィリピンの政治的混乱もありタサダイ族の消息は長い間不明であった。ちなみに水曜スペシャルの「川口弘探検隊シリーズ」の第一作はこのタサダイ族との接触であった(1978年3月15日放送)が、「猿人バーゴン」と同様のものであったことが想像できる。

 アキノ政権が成立し政治的混乱も収まってきた1986年、タサダイ族の保護地にオズワルド・イデンとジョーイ・ロザノの二人のジャーナリストが潜入する。二人の目的はタサダイ族のスクープであったが、二人が目撃したタサダイ族は意外な姿をしていた。
 石斧や弓矢を使う狩猟生活を送っているとされた彼らは、紙巻きタバコを吸いオートバイで疾走しTシャツやジーンズを着こなし普通の家に住むごく普通の人々だったのである。二人は早速このスクープを報道する。これに対しフィリピン政府も調査団を派遣し「タサダイ族は実在する」との声明を発表するが疑惑は収まらなかった。真相を知るであろう当時の環境大臣、マヌエル・エリザルデJrはフィリピン革命の後国外逃亡を続けていたが1988年にフィリピンに帰国、しかし彼は重度の薬物中毒に犯され、心神喪失状態であった。結局真相を明らかにすることなく彼は1997年に死亡、マルコス大統領も1989年に沈黙のまま世を去ってしまっている。マヌエル・エリザルデJrには寄付された基金の着服の疑惑の声もあるが、マルコス政権下の国庫の不明金の疑惑の解明は困難で、真相は闇の中である。

 ミンダナオ島はフィリピンの島々の中でも比較的早くにイスラム教が入ってきた地域で、1500年代前半にマゼランが世界一周の旅の際に立ち寄り(マゼランは近くのアクタン島で戦死)16世紀からのスペインの植民地化にもイスラム勢力が抵抗し、ミンダナオ島全島にスペインの勢力が及ぶのは1800年代半ばになってからである。20世紀には日本人の移民も多くダバオに住んでいた時代もあり、かなり外部との交流も盛んな島で地勢的にみて外部との接触をしない少数民族が20世紀後半まで存在できた可能性は低いと言わざるを得ない。

 今現在、タサダイ族がどうなっているかはよくわかっていない。ミンダナオ島にはイスラム原理主義組織のいくつかが拠点を作り、それを駆逐すべくフィリピン軍と援助する米軍との間で激しい戦闘が行われたこともあり未だに不穏な地域で渡航注意地区とされている。こうした血なまぐさい地域では「愛の民族」タサダイ族の生活する余地はなくなってしまっているのかもしれない。

e0287838_9563363.jpg


       発見当初発表されたタサダイ属の一家団欒の写真。これも「やらせ」だったのだろうか?
[PR]
by narutyan9801 | 2013-06-24 10:00 | 妄想(事件・事故) | Comments(0)

ジャガイモ飢饉 ~社会状況と対策の不備が招いた飢饉~

 「飢饉」は直接的な原因因子は農作物の不作であるが、むしろ不作への対応方法の失敗のため「飢饉」に陥る場合が多い現象と言える。今回は19世紀のアイルランドをおそった「ジャガイモ飢饉」を考察したい。

 アイルランドは1801年にグレートブリテン及びアイルランド連合王国の成立により連合王国に加わることになった。当時イギリスは産業革命のまっただ中であり、工業国として国全体のシステムの変換期を迎えていたが、アイルランドでは依然として農業が基幹産業であった。さらにアイルランドの土地の相続は伝統的に兄弟分散相続であったため農地の細分化が進んでしまい、多くの農民が小規模な自作農か土地を手放しての小作人として生計を立てざるを得ない状況であった。アイルランドの農地では主に小麦が栽培されていたが、細分化された農地では収穫のほとんどを納税や小作代として納めねばならず、小作農の農民は自宅などで生産性の高いジャガイモを栽培して主食に当てるようになっていた。こうして1840年頃にはアイルランドの3割の人々が主食としてジャガイモに依存する状況になっていたと言われている。

 ジャガイモは元々南アメリカの高地が原産で寒冷な気候でもよく育ち、味が良く瞬く間に世界中で栽培されるようになった作物である。栽培方法も受粉による有性栽培ではなく、芋そのものから発芽させて栽培する無性栽培が可能であった。しかしこの無性栽培は栽培されるジャガイモの種類を単一化させ、ひとたび疾病が蔓延すると食い止めようがないという危険もあったのである。

 1845年、ヨーロッパでジャガイモの葉や茎が枯れてしまう奇病が発生する。アイルランドでは9月頃から爆発的に感染が広まり、栽培されていたジャガイモはほぼ全滅してしまう。この病気はジャガイモ疫病と呼ばれる病気で、カビの一種が感染して感染主を枯らしてしまう病気であった。元々このカビはヨーロッパには存在せず、メキシコの限定された地域にのみ存在する植物の風土病のようなものであったが何らかの原因でヨーロッパに持ち込まれ、広まったものと思われる。これによりジャガイモに依存していたアイルランド社会は深刻な打撃を受けてしまうのである。

 この病気はナス科の植物だけが感染する病気で、アイルランドの主要農産物である小麦は影響を受けなかった。しかしアイルランドの貴族や大地主の多くはブリテン島で生活をしているものが多く、その多くが現地の実状を把握できないでいた。そして自らの収益を確保しようと小麦を輸出するものが続出し、アイルランドでは餓死者が続出しているのに小麦は国外に持ち去られるという状況になってしまう。この状況でも連合王国議会は有効な対策を打ちだせず、餓死者の数は増加するばかりであった。被害が拡大してから連合王国議会は救済策を取るが、それは食料を「有償供給」することであった。市場よりは安価ではあるが「食料を売りつける」という救済であったのである。すでに乏しい食料を確保するため財産をほとんど使いきってしまった人々も多く、救済策としてはあまりに現実離れしたものであった。さすがにこれでは救済にならないと連合王国は「土地を持たない者に限り」無償での救済を行うことにしたが、今度は救済を受けるために土地と家を売り払う人々が殺到してしまい、アイルランドの農村は荒廃してしまう。

 折り悪くこの年はベストの流行もあり、アイルランド社会は深刻な打撃を受けてしまう。飢饉を乗り越えた人々も財産を失い、多くの人々が故郷を捨てて移民として他国に移住してしまう。この時アメリカに移民したアイルランド人には後のアメリカ大統領ジョン・F・ケネディやロナルド・ウィルソン・レーガンの曾祖父も含まれている。故郷を失ったアイルランド人はそれこそ身を粉にして働き、一財を成したものも多かった。アメリカ大統領でアイルランドの血筋を引くものは合計20人に上ると言われている。
 
 アイルランドの人口統計は1922年の内戦時に資料が消失してしまい正確な所は分かっていないのだが、1840年代800万人を越えていたアイルランド人口は1851年には650万人を割っている。その後も人口の流出は続き、第二次大戦前には400万人まで減ってしまう。現在の人口は徐々に回復しているが、ジャガイモ飢饉の前の人口までは未だ達していない。さらにジャガイモ飢饉前後で高まった連合王国からの独立運動は長く続き、現在に至るまで様々な問題を抱えているのである。

e0287838_9211336.jpg

                    ダブリンに立つジャガイモ飢饉追憶像
[PR]
by narutyan9801 | 2013-06-19 09:28 | 妄想(事件・事故) | Comments(0)

ベイチモ号 ~20世紀の幽霊船騒動~

 幽霊船という言葉にはどんなイメージがあるだろうか?大きく分けて二つのイメージがあると思う。一つは船そのものが幽霊であり、出会うと不幸になる(出会ってしまった方の船が沈むとか)幽霊船。もう一つが無人の船が漂流しているが発見され、乗員が行方不明になってしまっている船を幽霊船とするものである。後者の例としては有名なメアリー・セレスト号などの実例がある。今回は20世紀に入ってから発生した「無人の幽霊船」ベイチモ号を考察したい。

 ベイチモ号は1914年にドイツで建造された貨物船で最初は「アンゲルマネルフェヴェン」号といった。第一次大戦に入ってからの建造で物資の節約からか蒸気機関を搭載し、巡航速度は10ノットの低速船であった。第一次大戦中はハンブルクと中立国スウェーデンとの貿易に従事し終戦を迎えることになる。戦後の賠償でアンゲルマネルフェヴェン号は賠償艦としてイギリスに引き渡され「ベイチモ」号と改名される。ベイチモ号は民間に払い下げられ、スコットランドとカナダの毛皮貿易に従事することになる。

 毛皮貿易に従事していたベイチモ号は1931年10月8日、叢氷(小さな氷が集まり大きな棚氷に成長したもの)の中に取り残されてしまう。低出力で砕氷能力のないベイチモ号は自力での脱出を諦め、37名の乗組員のうち22名は飛行機で脱出し、残った15名は船から離れたところに小屋を建て、氷の緩むのを待ち、船を脱出させるために待機することになった。一月半後の11月24日に激しい嵐が当地を襲い、嵐が静まったあとベイチモ号の姿は消えてしまったのである。
 当初ベイチモ号は沈没したと思われていたが、数日後イヌイットの漁師がベイチモ号が約70キロ離れた地点に漂着しているのを見たと話し、乗組員はベイチモ号の確認に向かう。発見されたベイチモ号に船員が乗り込み詳細を調べた結果、ベイチモ号の損傷は深く春までには沈没してしまうと判断され積荷を回収してベイチモ号は放棄されてしまう。しかしベイチモ号は沈まず、その後カナダからアラスカにかけての海を彷徨うことになる。

 放棄から二年後の1933年春にはベイチモ号にブリザードで身動きがとれなくなったイヌイットが避難をし、ブリザードをやり過ごして生還している。この夏にはベイチモ号の所有会社であるハドソン社(ゲームメーカーじゃないよ)が回収に乗り出したが、この時ベイチモ号は洋上を漂流して遠方まで流されており費用の面で断念せざるを得なかった。

 翌年ベイチモ号の噂を聞いた探検家がベイチモ号の探索を行い、発見後船体に乗り込むことに成功する。翌年にはアラスカ沖で何度もベイチモ号が目撃され「幽霊船」ベイチモ号を捕まえようとする動きが活発になる。1939年にはヒューイ・ポルソンらの回収チームがベイチモ号への接触に成功し回収できるかと思われたが、例年にない流氷の多さと巨大な氷盤が曳航の邪魔をし、結局は回収を放棄せざるを得なかった。

 その後第二次大戦の勃発もあり、ベイチモ号の回収も鎮静化する。大戦終結後もベイチモ号の目撃情報は届いていたが、建造から40年以上経った船体はいつ沈むか分からず、近寄ることも危険であると判断されるようになり回収は断念される。それでもベイチモ号はしばしば人の目に触れ、健在ぶりをアピールするかのように人々の話題に上っていた。

 ベイチモ号の最後の目撃情報は1969年、放棄された時と同じように叢氷の中に閉じこめられているのが目撃されている。建造から実に55年の月日が経っていた。これ以降の目撃情報はなく、人工衛星などを使っての探索でも発見されていないので、おそらく沈没したものと思われる。

 ベイチモ号がこれほど長く北極海で浮かんでいられた決定的な原因は分かっていないが、いくつかの原因があげられると思う。まずベイチモ号が放棄される際に積荷を回収されていたので、吃水が浅くなり氷の圧迫が受けても氷の上に乗り上げることができ、船体破壊に繋がらなかった可能性が高い。また氷に覆われていたので船体へのダメージが緩和された。低温で船体の腐食に時間がかかった。船体を放棄する際に開口部をすべて締め切り水密状態にしたので浸水が局所的で収まり転覆が避けられた等々、様々な要因が複合的に絡まった結果であろう。それに加えて「ベイチモ号自身が幸運だった」という点もあったと言える。もしかしたら今でもベイチモ号は氷に包まれたまま、北極海をさまよっている…可能性もゼロではない。
e0287838_17345869.jpg

「幽霊船」ベイチモ号。有名な写真であるが、よく見ると煙突から煤煙が出ており、機関は動いている状態である。おそらく放棄直前の撮影と思われる。
[PR]
by narutyan9801 | 2013-06-11 17:37 | 妄想(事件・事故) | Comments(0)