鼈の独り言(妄想編)

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カテゴリ:妄想(天文)( 5 )

褐色矮星 ~軽すぎて光ることができない星たち~

 恒星は宇宙空間に存在する星間物質が集まり、その質量がエネルギーとなって核融合反応を起こし今度はエネルギーを放出するようになる。しかし集まった物質がある程度の量を満たさないと核融合反応を起こすことができず、恒星になることができない。今回は恒星になることができなかった星「褐色矮星」を考察したい。

 星の内部が重力のエネルギーにより高温になり軽水素(1H)が核融合反応を起こすためには太陽の質量の8%の質量が必要である。これよりも質量が少ない場合軽水素の核融合反応は起こらないが、水素分子の中に中性子が一つ組み込まれている重水素(2H)は軽水素よりも低温で買う融合反応を起こすので、重水素の核融合反応でエネルギーを放出することができる。しかし重水素の存在比率は低い(地球上では軽水素と重水素の比率は99.985%と0.015%)ので短期間で重水素の核融合反応は終わってしまい、エネルギーを放出しなくなってしまう。これが褐色矮星と呼ばれる天体である。

 褐色矮星は重水素の核融合反応での余熱で表面がある程度の温度に保たれている期間があり、高温に保たれている状態であれば赤外線での観測が可能であるが余熱を放出してしまい冷えてしまった状態になると観測は困難になってしまう。このため褐色矮星は観測数が少なくまだわからないことも多い。宇宙全体の物質の中ででまだその正体がよくわかっていないいわゆる「暗黒物質」と呼ばれる物質の内のいくつかはこの褐色矮星が占めている可能性も高く今後の観測で宇宙の謎をいくつか解明できるヒントが隠されているといえる天体である。

 最近発見された褐色矮星で面白い性質を持つ星がある。こと座の方向36.5光年離れたところにWISEPA J182831.08+265037.5という長ったらしい名前の褐色矮星が存在するが、この天体は観測された太陽系外天体のうち表面温度がもっとも低い天体として知られている。その表面温度は約300K(ケルビン)摂氏にすると約25~30℃と地球とそう変わらない温度である。この温度だと液体の水が存在する可能性もあり、生命の誕生の可能性も0ではない。むろんこの温度は一過性のものであり、また非常に観測しにくい天体でもあるので測定結果が正確かどうかはわからない。しかし従来惑星上でしか生命の誕生の余地はないと思われていたところに新たな可能性を見いだせた楽しい発見であると思える。
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by narutyan9801 | 2013-05-17 10:38 | 妄想(天文) | Comments(0)

日食が変えた戦いの行方 ~ハリュス川の戦いと水島の戦い~

 古来、人間の営みは太陽を基準にしてきた。そのためほとんどの文明は太陽を神として崇めてきた。太陽が月の陰に隠れてしまう天体現象「日食」は古代の人々にとって重大な出来事であった。日本でも古事記の「天の岩戸」伝説もおそらく日食現象を表したものだろう。この「日食」がよりによって戦場で起きてしまったとしたら…。今回はそんな事象を二つ考察してみたい。

 紀元前6世紀頃、現在のイラン・イラク地域ではメディア王国が栄えており、西方のリュディア王国としばしば争いを起こしていた。メディア王キャクサレスはリュディア併合を求めリュディアに進撃し、リュディア王アリュアッテスが迎え撃つ形で両軍は紀元前585年5月28日(グレコリオ歴)国境のハリュス川で激突する。その戦いの最中に驚愕すべき事が起こる、太陽が徐々に隠れてしまい、やがて完全に陰に隠れてしまい、戦場は薄闇に包まれたという。自然に戦闘は止み、奇妙な静寂があたりを包んだという。
 この時ちょうどハリュス川地域は皆既日食が起こっていた。両軍はこの事象を神の啓示ととらえ、ハリュス川を国境に定め、双方の王が存命のうちは争うことがなかったという。ちなみにこの日食、ギリシャの歴史家ヘロドトスによると事前にタレースが予言した日食であったということである。

 ハリュス川の戦いから約1800年後、遙か東方の島国日本では源平合戦の重要な戦いが行われていた。俗に水島の戦いと言われる戦である。
 都に乗り込んだ源義仲は平家追討のため兵力を瀬戸内に進めたが、瀬戸内は平氏の勢力が強く、兵糧の調達に支障をきたし士気は落ちていた。それでも四国、屋島の平家を討つべく水島で渡海の準備をしている陣に、グレコリオ歴1183年11月24日、平氏が攻撃を掛けたのがこの戦いである。
 ハリュス川の戦いから長い時間が過ぎ、天文観測の結果から日食はある程度の予測ができるまでになっていた。そしてこの日食予想が戦術的に取り入れられたである。
 平氏は都落ちの際朝廷の陰陽師たちを伴っていた。元々陰陽師は天文観測が主な仕事で、日食の予想は重要な仕事であった。天皇は天照大神の子孫であり、天皇が重要な祭事を行っている最中に日食が起こってはまずいので、日食が起こりそうな日時をあらかじめ予測しておき、祭事を行う日取りを決めるのは重要なことであった。このため平氏側は合戦に先立ち、将兵に日食が起きるかもしれないことを伝えておいたと記録されている。一方の源氏側はこのことを知らずに攻撃を受けたと思われる。
 合戦はまず水上で両軍の水軍が激突したが、水軍に長けた平氏が源氏を圧倒したらしい。そして陸上へ敵前上陸を敢行するまさにその時に日食が始まったようである。陰陽師たちの予測ではこの日食は太陽の半分ぐらいが欠ける部分日食だったらしいが、実際は95%が隠れる金環食であった。合戦の地水島は金環食になる東のへりに位置していた。
 平氏はこの戦いで完全武装した馬を船に乗せ、騎馬武者がそのまま陸地に上陸できるよう準備を整えていたのに対し、源氏は兵糧不足が深刻で合戦もままならなかったようである。日食がどれだけ合戦に影響したかは定かではないが、源氏は合戦を指揮した足利義清、海野幸広の両大将以下指揮官のほとんどが討ち取られる惨敗を喫してしまう。
この敗戦を期に源義仲は勢力を失い、翌年源頼朝が派遣した義経らに討たれ、源氏の主役が入れ替わる。一方の平氏は一時勢力を回復し、旧都福原を奪還し、一の谷の決戦へつながってゆくのである。

 現在はコンピューターの発達により、日食の発生は数百年単位でその日時が予想されており、人々を畏怖させることはないといえる。そのかわり日食は人間が直接感じることのできる天文ショーとしてこの先も人々を楽しませつづけることだろう。
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by narutyan9801 | 2013-04-01 10:17 | 妄想(天文) | Comments(0)

春分の日 その定義と実態

 昨日3月20日は春分の日でした。たしか一昨年の春分の日は21日だったような…。調べてみると以外と面白い春分の日が見えてくる。今回はそんな春分の日を考察したい。

 天文学で春分は「太陽が春分点を通過した瞬間」となる。黄道の説明がメンドクサいのではしょって言うと「太陽の高さが赤道で天頂にくる瞬間」のことになる。太陽や地球は常に動いているので春分は「瞬間」の現象である。「春分の日」は春分が起こった日のことになる。

 この春分の日、今現在は3月20日と21日が二年ごとに入れ替わる状態になっているが、これは地球の公転と自転が関係している。地球の公転時間は365.242194…と切りのいい数字ではないので春分点に地球が戻ってくる時間は端数の0.242194…だけ遅れてゆく。それを修正するために4年に一度の閏年があり、そこでリセットがかかるので現在のところ20日→20日→21日→21日→20日の繰り返しになっている。だがそれでも誤差は残るので、春分の日になる日の幅は思ったよりも大きい。過去をみると明治から大正にかけては3月22日が春分の日という時代もあったし、先の話になるが今世紀終わりには19日が春分の日という時期も来る。

 年ごとに変わる春分(及び秋分)の日は毎年2月1日に翌年の祝日として閣議決定され、官報で発表される。記念日的な祝日ではなく、天文学に基づいた祝日というのは世界的に見ても珍しいらしい。キリスト教圏の復活祭は春分の日から数えて一番近い満月の日とするが、この場合春分の日は3月21日と固定されているので日本の春分の日とあわせるとずれが生じる可能性がある。ちなみに日本式の春分の日の設定は日本時での日付が基準になるので、時差の関係で春分の日がずれてしまう地域も生じる。

 さて、春分の日は昼と夜の時間が同じになると思われがちだが、いろいろな理由で昼の方が長くなる。
 第一に日の出と日の入りの定義、日の出は太陽が水平線に顔を出した瞬間、日の入りは太陽が水平線に完全に没した瞬間になるので太陽の大きさ分昼が長くなる。
 第二に空気の屈折による見かけと実際の差、空気の屈折により太陽は実際よりも高度が高く見える。このため実際には水平線下の太陽が見えてきてしまう。逆に夕方は水平線に沈んでいるはずの太陽がまだ見えているので昼間の時間が長くなるのである。
 その他、地球の日周視差、春分点からの移動によるずれなども加わり、春分の日は昼間の方が平均で14分長くなる。

 調べてみるとなかなか面白い春分の日であるが、それを芸術の域にまで昇華させたのはマヤ人であろう。マヤ人のチチェン・イッツァのピラミッド「カスティーヨ」では毎年春分・秋分の日にピラミッドの陰で祭られているククルカンの姿が映し出される。マヤ文明では一年の周期が365.2420日と知られていたので、ククルカンの細工もお手のものだったのだろう。一度実物を見てみたいものである。
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by narutyan9801 | 2013-03-21 05:10 | 妄想(天文) | Comments(0)

冥王星 ~分類の変更と発見命名者たちのその後~

 先日の冥王星のお話の続き、後半は冥王星の分類の変化と、関わった人たちのその後のお話など

 1930年2月18日にトンボーにより発見された冥王星ですが、それまでに発見された惑星とは異なった特徴が多く、当初から惑星への分類に疑問を投げかける声もありました。特に既知の惑星が太陽の黄道面に対しほとんど傾かずに公転しているのに対し、冥王星は約17.01度傾いた軌道で公転しているのは際だった特徴でしたが、「最遠の変わった惑星」という解釈で惑星の仲間に入れられ「太陽系第九惑星」となりました。子供の頃「水金地火木土天海冥」と惑星の名前と太陽からの距離を覚えた人も多いでしょう。冥王星は公転の軌道が海王星の内側に入り、一時的に海王星より太陽に近い位置に位置することがあります。最近では1979年から1999年の間、冥王星が海王星の公転軌道の内側に入り「水金地火木土天冥海」となっていました。ちなみにブログ管理者、現在42歳ですが、この文章を打っている現在、人生の半分弱ぐらい冥王星が海王星の軌道の内側に存在したことになります。

 さて、冥王星の発見から約50年後の1978年、冥王星に衛星があることが分かり「カロン」と名付けられます。このカロンの存在が最終的に冥王星を惑星の地位からおろしてしまうことになるのです。

 これからちょっと話がややこしくなるので、簡単に「惑星の定義」を書いておきます。

 惑星は
  1 太陽の周りを回っている
  2 天体自体の自己重力により球体に近い形をしている。
  3 太陽の周りを回る軌道の近くに他の天体が存在しない(自己重力で取り込むか、衛星とするか、軌道周辺から弾きとばしている)

 と定義されています。

 カロンの調査が進むと、冥王星とカロンの関係がそれまでの惑星と衛星の関係を覆す可能性があることが分かってきました。カロンの直径は約1,200Km、冥王星とカロンの質量比は約7:1で、一番の問題は冥王星とカロンの公転の力の中心点が冥王星の外側に位置することでした。惑星と衛星はお互い引っ張り合うことで公転しているのですが、その力が釣り合う地点が惑星の内側にある場合、惑星と衛星と定義されます。これが惑星の外側にでてしまうと惑星と衛星の関係ではなく、連星、または二重惑星となってしまうのではないか?ということになってしまいました。
 冥王星とカロンが連星の関係となると、惑星の定義の3つ目「惑星はその公転軌道にある他の天体を排除した天体である」という定義からは外れてしまいます。しかし惑星の定義は「今までそれからはみ出したものがなかったからこれでいいんでは?」的な決め方でしたから、その定義の意義について論争が起こります。

 カロンが発見されたことで冥王星自体の構成物質も分かってきました。当初冥王星はかなり「重い」星と予想されていたのですが、星を形成するかなりの部分がメタン、窒素、一酸化炭素などの氷で形成されているらしいことが判明しています。冥王星の構成は実は彗星に近いものでした。

 そして観測技術の発達により、冥王星の付近、さらにより遠い所を公転している似たような天体がまだ存在していることも分かってきました。こうした天体が多数存在するのであれば、冥王星は惑星として分類するよりも別なカテゴリーに分類し直すべきではないかとの意見が出されます。冥王星発見者のトンボーはそうした議論が起こってきた1997年に世を去りますが、彼は「冥王星は惑星に分類され続けるべき」と考えていたそうです。

 冥王星をどのように定義するかについて2006年に開催された第26回国際天文学連合総会で議論が交わされました。当初は冥王星に加え冥王星の衛星カロン、火星と木星の間の小惑星帯最大の天体ケレス、21世紀に発見された太陽系外縁天体で冥王星よりやや大きいと見積もられた2003UB313(後にエリスと命名)が惑星と認められ、太陽系惑星が12個になるということが提案されますが、多数の反対意見が出され、ついに8月24日、冥王星は惑星から外され「準惑星」(dwarf planet)に再分類されることになります。この時のニュースは自分も以前管理していた(現在は消滅)ブログに「悲劇」と書いていた記憶があります。

 この「降格」を一番悲しんだのはアメリカの天文学者及び天文ファンでした。冥王星は長く「アメリカ人が発見した唯一の惑星」であり、ある意味誇りでした。冥王星が発見されたその年に誕生したディズニーの「プルート」は冥王星から名前をもらったと言われています。それだけに冥王星の降格は痛恨事だったと言えます。日本でも冥王星の惑星降格は大きな反響を呼び、作品中に多く冥王星を登場させた(宇宙戦艦ヤマトではまだ未発見だった冥王星の月=カロンも登場している)松本零士氏も失望に近い発言をしています。

 一天文ファンに過ぎない自分が冥王星の分類をどうこういうのは分を過ぎていると思いますが、思いを載せておきます。この文の最初の方に載せている「冥王星以外の惑星は太陽の横道面にほぼ水平の軌道で公転している」という一文。この事実は単なる偶然ではないでしょう。これは太陽が形成されたとき、太陽の自転の遠心力で宇宙空間の物質が集まる際遠心力が強く作用する一面が太陽の横道面となり、そこに集まった残存物質が水星から海王星までの各惑星を形成したのだと思います。これからすれば水星から海王星までは太陽の形成が誕生の経緯に繋がったと言え、同じカテゴリーに分類するのは自然ではないでしょうか。

 これに対して冥王星は公転の軌道がかなりずれ、公転も真円からはかなり歪んだ形になっています。これは冥王星が太陽の形成とは別に誕生し、後に太陽の重力に取り込まれて公転するようになったことを示唆しているのではないでしょうか?こう考えると冥王星はやはり惑星は区別すべき天体ということは納得がいきます。ただ、似たような存在のエリス、マケマケ、ハウメアと同類になるのは理解できますが、小惑星帯に存在ずるケレスと軌道や形状の類移点だけで一緒のカテゴリに分類されるのは疑問です。このためにもやはり探査機による調査が必要だと思います。

 実はNASAの探査機ボイジャー1号は木星の観測を終えた後、スイングバイの調整により冥王星へ向かうことも可能でした。しかしNASAは軌道調整が失敗した時や、運用が長期間になるリスクを考え、ボイジャー1号を木星の衛星タイタンへ接近させ、冥王星の接近調査はキャンセルします。もしこの接近調査が行われていたら、様々な観測結果が得られ、惑星問題も早くに決着が付いていたかもしれません。現在ボイジャーの後継機種とも言える「ニュー・ホライズンズ」が冥王星へ向けて航行中です。2015年に冥王星へ接近し観測を行うこの機体には、冥王星の発見者グライト・トンボーの遺灰も乗せられています。もし将来「ニュー・ホライズンズ」が地球外生命体に回収されたとき、その生命体は地球人の死生感について何らかの感想をもつかもしれません。

 最後に、2006年の冥王星の準惑星への定義が決定する直前、冥王星発見・命名に関わった人々で唯一存命していた「Pulto」の命名者ヴェネチア・バーニー・フェアは高まる議論に対し「私は議論に加わることはもう無理、しかし私自身は冥王星は惑星のままであることを望んでいます」と語っています。彼女は冥王星の分類変更の顛末を見届け2009年に亡くなっています。彼女にとっておそらく分類の議論など馬鹿げていたでしょう。人類が一つの星を発見し、それにふさわしい名前をつけれる文化と歴史があったこと、おそらく「Pulto」「冥王星」は人類が存在する限り永遠に使われ続けつでしょう。それだけで十分かもしれません。その一方でやっぱり冥王星をよく知りたいという欲求も人類共通のものだと思います。人間とは本当に欲張りな生き物なのですね。
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by narutyan9801 | 2013-02-20 09:16 | 妄想(天文) | Comments(0)

冥王星 ~発見から命名まで~

 今日も興が乗ったので、本日は夜空のお話をひとつ

 これがブログに乗る頃は日付が変わってしまっていると思いますが、本日2月18日は「冥王星」が発見された日です。20世紀になってからの発見、発見後の遍歴などなかなか興味をそそられるお星様です。

 冥王星は実際の発見よりもそれ以前に発見されていた海王星の軌道計算と観測記録による実際の軌道とのずれにより存在が予想され、何人かの天文学者が未知の天体の発見を目指していた。そのうちの一人、パーシヴァル・ローウェルは自ら天文台を設立、未知の天体発見に熱意を燃やしていた。ローウェル天文台の観測で、遠方の銀河か地球から遠ざかっていくことが分かる(宇宙膨張論の物理的証拠となり、冥王星発見よりも意義は大きいかもしれない)など多くの発見があったが未知の天体の発見を待たずしてローウェルは1916年に亡くなっている。

 未知の天体発見の意志はローウェルの弟子、グライト・トンボーに託される。トンボーの天体発見の手法は同じ位置を撮影した二枚の写真を比べ、その写真に写っている星に変化があるか比べるというものであった。遠距離の恒星は数週間のスパンではほとんど位置的な変化はないものの、太陽の周りを回る天体は数週間で位置が変わり、この変化を目で確認していくという根気のいる作業である。そうした地道な作業の末、1930年2月18日、トンボーは1月23日と1月29日に撮影された写真を見比べ、動きのある天体を発見する。トンボーは発見の確証を得るため過去に撮影した写真を検証後、同年3月13日にハーバード大学天文台へ未知の天体発見の報告を電報で行っている。このため発見の日にちは定義によって変わるのだが、一般的には2月18日が冥王星発見の日とされている。

 冥王星発見には多くの「偶然」が含まれている。冥王星発見はローウェルが生前予測した位置を重点的に調査した成果からであった。発見された冥王星はローウェルの予想とほぼ同じ位置ではあったが、のちの調査で冥王星の大きさは海王星の軌道のずれを起こすには小さすぎたのが分かる。この原因は海王星の実際の質量の見積もりが違っており、軌道計算が根本的に誤っていたためであり、冥王星がローウェルの予想とほぼ同じ所にあったのは全くの偶然であった。この偶然はもしかしたらローウェルの執念が生み出したものかもしれない。

 発見された天体の命名権はローウェル天文台、及びその所長であったヴェスト・スライファーにあったがなかなか妙案が浮かばなかった。太陽系惑星及びその衛生の多くがギリシャ神話やローマ神話の神の名前をとっているが、アメリカではあまりギリシャ・ローマ神話に馴染みがなく、ヨーロッパ系の天文学者の支持を得られる名前をつけることは容易ではなかったようである。命名者となったのは当時11歳だったイギリス人、ヴェネチア・バーニー・フェアである。天文学と神話に興味があった彼女はオックスフォード大学図書館で司書をつとめたことのある祖父に新発見天体の名前をローマ神話の冥府の神の名「Pluto」と提案、発見者のトンボーも「Pluto」の頭2文字が恩師パーシヴァル・ローウェルのイニシャルと一致することから気に入り、「Pluto」が正式名称になる。ちなみに日本語の「冥王星」は英文学者であり、天文民族学の創始者でもある野尻抱影が発見から半年後、雑誌「科学画報」に発表し定着したものである。読み方は様々だが東アジアでの表記はほとんどが「冥王星」の使用言語にあわせた表記になっている。肉眼で見えていた星と違い、直接目で見ることのできない星の名前は命名されたものがそのまま伝わるからかもしれないが、「冥王星」という独特の響きが印象をあたえるのではないかな、とも思えるのである。

 発見及び命名で長くなっちゃったので、この続きはまた
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by narutyan9801 | 2013-02-19 08:45 | 妄想(天文) | Comments(0)