鼈の独り言(妄想編)

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カテゴリ:妄想(冒険家)( 7 )

デイヴィッド・リヴィングストン ~アフリカで冒険と布教に燃え尽きた男~

 19世紀初め、アフリカ大陸はヨーロッパ人にとって沿岸付近までしか分からない土地で「暗黒大陸」と呼ばれていた。このアフリカの地に布教を目的に訪れた一人の青年の探検によってアフリカ大陸の内陸部の様子が初めて明らかにされたのである。アフリカを探検したその人物の真の目的は奴隷貿易の廃止であった。今回はアフリカ内陸部を冒険しその生涯もアフリカ大陸で終えることになった探検家、デイヴィッド・リヴィングストンを考察したい。

 デイヴィッド・リヴィングストンはスコットランドで1813年に生まれている。生家は貧しくリヴィングストンは10歳から紡績工場で働かなければならなかった。だが向学心が強かったリビングストンは工場で働きながら本を読む工夫を考え、仕事を終えてからは夜間学校で学び、神学や聖書について勉強を続ける。やがてリヴィングストンはドイツの宣教師カール・ギュツラフの著書を目にし、彼が行った東洋での布教活動を志し1936年にグラスコー大学に入学。働きながら宣教師を目指し1838年にはロンドン宣教師会に入会し布教活動の機会を待つが、1840年のアヘン戦争により東洋の布教活動は断念しなければならなかった。
 東洋での布教活動を諦めたリヴィングストンは同じスコットランドの宣教師ロバート・モファットと知り合い、彼が布教活動を行ったアフリカ大陸の話を聞き、アフリカでの布教活動を目指すことになる。1840年末、イギリスを発ったリヴィングストンは当時イギリス領だった南アフリカを経由して現在のボツアナで布教を進めるための活動拠点を探して各地を移動する。その最中夜間にリヴィングストンはライオンに襲われて重傷を負ってしまい傷が癒えた後も左手には大きな傷跡が残ることになる。

 1844年、ボツアナのクルマンで布教を行っていたリヴィングストンにイギリスからモファットが合流、モファットに同行していた彼の娘メアリーとリビングストンは結婚する。リヴィングストン夫妻は奥地での布教を目指してアフリカ大陸を北上し1849年にはヨーロッパ人で初めてヌガミ湖に到達し、さらにザンベジ川まで到達するが、子供が病に倒れたのを機にリヴィングストンは婦人と子供をイギリスに帰し自らはアフリカ大陸の探検を続けることにする。
 布教活動がいつからか探検に変化してしまったのはリヴィングストンがアフリカで見た奴隷貿易の悲惨さからだと言われている。リヴィングストンは奴隷が売買されるのは産業が無く交易するものが奴隷しかないため奴隷貿易が行われると考え、交易ルートを確立すれば産業が興り労働力として人が必要になり結果的に奴隷貿易が無くなると考えたらしい。産業革命下のイギリスで育ったリヴィングストンらしい考え方である。
 家族と別れたリヴィングストンは西に向かい、食糧不足と病気に苦しみつつもついに大西洋沿岸の都市ルアンダにたどり着く、ここでイギリス王立地理協会に自分の探検内容を記した手紙を書き、体力の回復を待って今度はアフリカ大陸を東に横断する冒険の準備を行う。1年半の冒険の結果1856年3月にインド洋沿岸のモザンピーク・キリマネにリビヴィングストンは到着、ヨーロッパ人として初めてアフリカ大陸横断に成功する。

 この年12月にイギリスに16年ぶりに帰ったリヴィングストンはアフリカ冒険の英雄として扱われる。しかし冒険を重視し途中で布教活動を中止したため、イギリス宣教協会からは除名処分が下される。1858年にリヴィングストンはキリマネ駐在大使を拝命し、同時にザンベジ周辺の探索を命じられ、妻子を連れて再びアフリカへへ向かうことになる。
 南アフリカのケープタウンで妻子と別れリヴィングストンはマラウィ湖の探索を行う。妻のメアリーはいったんイギリスに戻ったのち1862年にリヴィングストンに合流するが、マラリアのため1862年4月27日に亡くなる。妻の死後もリヴィングストンは探検を続けるが、翌年イギリスからの召還を受けイギリスに帰国する。二度目のアフリカ探検は学術的にな成果が上がったが、一度目の「アフリカ横断」のような具体的な結果を得られず、失敗と見られリビングストンの評価は厳しいものとなる。しかしアフリカに魅せられたリヴィングストンは三度目のアフリカ探検に意欲を燃やし、講演や本の出版などで旅費の捻出を目指ざしている。出版された本には奴隷商人の蛮行が生々しく画かれ、この結果イギリスの世論は奴隷貿易の廃止に傾くことになる。

 1865年、リヴィングストンにイギリス王立地理協会からナイル川源流調査の依頼が入る。ナイル川のうち支流である青ナイル川は源流が判明していたが、白ナイル川については源流地が判明していなかった。具体的には白ナイル川の源流はビクトリア湖か否かを調査することになり、リビングストンは同年8月14日、三度目のアフリカ探検に旅立つ。
 リビングストンは1866年1月16日にインド洋沿岸のザンジバルに到着し、4月4日に内陸部へ出発する。しかし今回の冒険は難航し。数十人いたポーターも脱落者が相次ぐ。さらにリヴィングストンが奴隷貿易廃止論者であるため、地域の奴隷商人から有形無形の妨害を受けることになりついには買収されたポーターがリヴィングストンの医薬品を盗んで逃亡する事態も起きリヴィングストン自身もも病に苦しむことになってしまう。
 イギリスではリヴィングストンからの連絡がないことを憂い、現地に連絡員を派遣してリヴィングストンの消息を探る探検隊が組織され、ジャーナリストで探検家でもあるヘンリー・スタンレーがリヴィングストン探索にアフリカに派遣される。

 スタンレーは1871年にタンガニーカ湖にたどり着き、当地で静養していたリヴィングストンに面会する。病で衰えた体を引きずるようにタンガニーカ湖周辺を探索するリヴィングストンにスタンレーは4ヶ月間付き添い探索の手助けを行う。その間スタンレーはリヴィングストンにイギリスに帰るよう勧めるが、リヴィングストンのナイル源流探索の意志は固く翻意させることは出来なかった。スタンレーは翌1872年3月にイギリスに帰国するが、スタンレーの報告によりイギリスから増援物資が送られる。この増援を得てリヴィングストンは白ナイル源流探索を再開するが、リヴィングストンの体はすでに病に蝕まれ手遅れの状態となっていた。翌年4月29日にバングウェル湖に到達、この湖の畔のチタンポという小さな村でリヴィングストンは息を引き取る。死因は赤痢とマラリアの合併症といわれている。彼を慕っていたポーターは彼の遺体を埋葬せず、内蔵を抜き取り防腐処理を施した上でザンジバルまで運び出すことに成功する。ザンジバルからイギリスへ船によって運ばれたリヴィングストンの遺体は左腕のライオンに襲われた傷跡から本人と確認されウエストミンスター寺院に葬られている。

 リヴィングストンの目指した交易ルートの開拓でもっとも利益を得たのは、実は彼が廃絶しようとした奴隷商人だった。さらに一回目の冒険で彼を助け、冒険を成功させた要因の一つは奴隷商人の援助によるものであり、このことはリヴィングストンを生涯悩ませていたと言われている。しかし彼の努力は決して無駄ではなく彼の三度目の冒険中イギリスの影響下にあったザンジバルでは奴隷貿易が廃止されている。
 リヴィングストンは著書の中で冒険は依頼内容はともあれ自分にとっては布教の為の拠点を探すことだと述べている。最後の冒険も布教の拠点を探すためだったのだろうか?白ナイル川の源流で布教を行う予定だったのか?それは彼自身にしかわからないことである。

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by narutyan9801 | 2013-05-03 09:25 | 妄想(冒険家) | Comments(0)

パーク・ウィルズ探検隊 ~オーストラリア大陸縦断に挑んだ悲運の探検隊~

 19世紀半ば、オーストラリアのメルボルンでは金鉱脈の発見によりゴールドラッシュが起こっていた。メルボルンには多大の資本が投入され、文化的にも発展を遂げていった。そしてメルボルンの人々は「オーストラリア大陸の内陸部はどうなっているのか?」という関心を持つようになる。今回はオーストラリア内陸部を探検し、隊長以下多くの犠牲者を出した「パーク・ウィルズ探検隊」を考察してみたい。

 オーストラリア大陸の内陸部は長らく未調査のままであった。世界一乾燥した大陸と言われるオーストラリア内陸を探索するためには、物資の輸送を行える使役動物(馬など)が乾燥のため生きていけず、このため本格的な調査が行えずにいた。しかしメルボルンのゴールドラッシュは内陸部調査のために必要な資金を供給できるまでになっていた。メルボルンで設立された王立ヴィクトリア学会は公的な探検隊を組織すべく、砂漠でも活動可能なヒトコブラクダをインドから調達するなどし、1860年遂に探検隊を組織する。
 この探検隊の隊長に任命されたのがロバート・オハラ・バーグであった。彼は元オーストリア士官で、その後警察官になった人物だが、探検の経験は無かった。副隊長にはラクダの買い付けにインドまで出向いたジョージ・J・ランドルフ、そして補佐にウィリアム・ジョン・ウィルズを任命する。ウィルズは測量技師で気象学者でもあり、多少の野外活動の経験はあった。副隊長のランドルフは途中で隊を離脱しウィルズが副隊長を引き継ぐので後年この探検隊は「バーク・ウィルズ探検隊」と呼ばれることになる。探検隊は総勢19人、6台の荷馬車、27頭のラクダを引き連れていた。このような大きな探検隊が組織されたのはオーストラリア植民政府がオーストラリア縦断に成功した者に2,000ポンドの報奨金を出すと示したことや、オーストラリアの内陸には内海、もしくは湖が存在するという仮説があり、それが本当なら更なる入植が可能になることなどがあった。もちろん「金」がさらに採掘できるなら申し分ないというところだったろうが…。こうして探検隊は1860年8月20日、メルボルン市民の歓声の元出発する。ところがメルボルンの街を隊列が出きらないうちに荷馬車の一つが壊れてしまう。不吉な旅の前兆だったかもしれない。

 その後も荷馬車の故障は続く。出発の前に隊員から、途中地点まで荷物を船に乗せ、川を遡上させて中継地点で受けとるべきという意見を隊長のバークが握りつぶし、すべての荷物を持って出発したツケであった。探検隊は予定よりも遅れつつ、北へ向かう。このときバークの心中は他の探検隊に先を越されるのではないかという気持ちに満ちていた。2,000ポンドの報奨金で、複数の私立探検隊が出発の準備を整えつつあるという情報をバークは入手していたのである。10月初旬、中継地のビルバーカでバークと副隊長ランドルズが積み荷のラム酒で口論となる。探検隊はラクダの体調管理の為大量のラム酒を輸送していたのだが、バークはそれを捨てて移動を早めようとし、ランドルフが抗議したのである。結局ラム酒は捨てられることになり、ランドルフは隊を離れてメルボルンに戻ってしまう。このため補佐役だったウィルズが副隊長に昇格し、メンバーの中からウィリアム・ライトが新たに補佐役に抜擢される。

 ラム酒を捨てた後も旅路は思ったほど進まず、しびれを切らしたバークは隊を二つに分け、とりあえず8人を先行させ、白人がたどり着いたもっとも奥地、クーパーズ・クリークにベースキャンプを設置し、そこから北部へ遠征を行い、併せて残してきた部隊がクーパーズ・クリークへ物資を輸送し、北部の探検を終えた部隊を収容して帰途につく計画を立てる。残留部隊は輸送と共に他の探検隊の監視と捕縛をするよう命令する。この命令からバークの探検の目的は報奨金をせしめることにウェイトがおかれていたことが推察できる。ともかくもバークは先行隊8名と残留部隊を率いるライトを引き連れ11月11日クーパーズ・クリークに到着する。到着前にライトは隊から別れ、残留部隊へ引き返し物資の輸送を指揮することになる。

 クーパーズクリークに到着した一行はベースキャンプを設営する。すでに季節は夏に向かっていた(南半球なので11月は春の終わりである)乾期である夏場に砂漠を探検するのは危険であったが、他の探検隊に先を越されることを恐れたバークは探検を強行することにする。ベースキャンプにウィリアム・ブラーエ以下4名を残し、バーク、ウィルズ、ジョン・キング、チャールズ・グレイの4名は12月16日北へ出発する。普通ならベースキャンプには副隊長であるウィルズが残るべきであるが、冒険に不慣れなバークが手元に置いたのか、はたまた別の事情があったかは定かではない。バークは3ヶ月の食料を携帯し、残留するブラーエに三ヶ月ここで待つよう指示を出している。

 バーク一行は翌1861年2月9日オーストラリア北岸の海岸線付近まで到達するが、マングローブに覆われた湿地帯を踏破することができず、ここで引き返すことを決断する。しかしこの時点でベースキャンプを出発して2ヶ月近く、すでに食料はベースキャンプまで持たない状態であった。報奨金にかられ無理な旅程が招いた結果である。一行は食事の量を減らしつつベースキャンプへの帰路を歩き続けたが空腹は隊のモラル低下を招き、空腹に耐えかねてグレイが食料をくすね一人で食事をしていたところをバークに発見され殴られる事件が発生する。グレイは赤痢を患い、体力も低下していてこの事件の後ほどなく死亡している。一行はグレイの埋葬と自らの体力回復のため一日休息をとっているが、この休息が思わぬ事態を招くことになる。一行が4月21日夕刻にようやくの思いでベースキャンプにたどり着いたとき、そこはもぬけの殻だったのである。

 ベースキャンプを守っていたブラーエは約束の3ヶ月を過ぎても留まっていた。後から物資を持ってくるはずの別働隊はいくら待っても姿を見せず、ベースキャンプでも次第に食料が欠乏して隊員たちにも疲労の色が濃くなっていった。四月下旬ブラーエは遂に後退を決断し、多少の食料をベースキャンプに生えていたユーカリの木の根本に埋めたのちに全員が後退したのである。残留部隊がベースキャンプを去ったのが4月21日朝、この九時間後にバークたちがベースキャンプに戻ってきたのであった。

 先にブラーエたちの動きを書いてしまうが、ブラーエたちが後退の途中、ライト率いる別働隊と出会う。ライトの別働隊は輸送能力の不足(使役動物の不足と荷馬車の故障など)と資金の枯渇により輸送手段がとれない状態が続き、さらにアボリジニとの対立や輸送隊の食料が不足し三人が栄養失調で亡くなるなどしたために到着が遅れたのである。後に冒険隊の遭難の検証を行った学会は遭難の原因の多くをライトの行動と統率が起因したとしている。ともあれ別働隊と合流できたブラーエは隊をそこに留め、ライトと二人でベースキャンプに戻ることにする。5月8日にベースキャンプに二人は到着したが、ベースキャンプに人影は無く、バーク以下4名は戻ってこれなかったと確信した二人は隊に戻り、メルボルンに帰ることを決断する(帰還途中で隊員一名が病死している)。この時二人はわずかの時間しかベースキャンプに留まらずに帰路についたが、実はバーク等が到着して、手紙を残していたのを見落としていたのである。

 話をバーク隊のほうに戻す。空っぽになったベースキャンプに到着したバーク達3名はブラーエが残した食料を回収し、とりあえず一番近い人の住む町マウント・ホープレスを目指すことにする。そこまでの道のりは240キロだったが、砂漠を横断する厳しい道のりであった。バークは食料を埋めてあったユーカリの木の根本に手紙を残し、再び出発する。
 しかし、ホープレスに向かった直後、残っていた最後のラクダが死亡し備品の輸送ができない状況になり、バーク一行は5月30日ベースキャンプに再び戻ってくる。バークが埋めた手紙はそのままでありブラーエ達が戻って来ていたことに三人は気づかなかったのである。
 すでに体力を消耗しきった三人は、ベースキャンプに留まり救援を待つことにした。幸いベースキャンプ周囲のアボリジニ達は親切で時折食料を持ってきてくれたが、弱りきった三人が体力を回復することはできなかった。6月下旬、バークは救援隊が来るかどうか見にゆくと言い出したが、副隊長のウィルズは衰弱しきって旅にでるのを拒否しベースキャンプに留まった。ベースキャンプを出て程なくしてバークは倒れ、再び起きあがることができずにそのまま息を引き取った。バークに随行したキングはバークを埋葬するとベースキャンプに戻ったが、そこにはすでに息絶えたウィルズの亡骸が横たわっていた。ウィルズを埋葬したキングはアボリジニに保護され、9月に捜索隊に発見され救出されることになる。オーストラリア北岸にたどり着いた(もっともキングは海岸付近まではたどり着いていないが)ただ一人の生き残りのキングはメルボルンに帰還することができたが、健康を回復することはできず、9年後に病死している。

 この冒険の遭難の原因はかなりの部分隊長のバークに起因するように思われる。確かにライトの仕事もお粗末ではあったが、元々一隊員にすぎなかったライトを輸送部門の責任者にしなければならなかった状況はバークが作り出している。また無謀な北岸への探検強行、特に食料が半分を切っていてもまだ前進を続けた判断は理解しがたいものであり、そのツケはバーク自身の死で償わされたと言える。 ただ、この冒険の結果オーストラリア内部に内海や湖が無いことが分かり、オーストラリア大陸の実状が明らかになったことは事実で、探検隊派遣は決して無駄ではなかったことが亡くなった6名に対するせめてもの鎮魂であろうか。
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by narutyan9801 | 2013-04-11 15:01 | 妄想(冒険家) | Comments(0)

サロモン・アウグスト・アンドリュー ~気球で北の果てを目指した男~

 人類史上初の「有人飛行」を行ったのはフランスのモンゴルフィエ兄弟である。この時用いられたのは燃焼で膨張し比重が軽くなった空気を利用した「熱気球」であったが、ほぼ同じ時期に水素を発生させ、それを浮力に使う水素気球も発明されている。最初の気球の飛行から約110年後、水素気球を利用して世界の果てを目指そうとするものが現れる。その名をサロモン・アウグスト・アンドリューという。今回はこの冒険野郎のチャレンジを考察したい。

 アンドリューはスヴェーデン生まれ、工学を学び技術者として働く傍らバレンツ海のスピッツベルゲン島の探検に参加するなど探検家としても活動し、さらにストックホルム市議会議員を務めるなど政治家でもあった。
 彼が気球に興味を持ったのは1876年のことである。この年訪米したアンドリューは気球家ジョン・ワイズと出会い気球について学ぶ機会を得た。それ以前から気球に着目していたアンドリューは気球での北極点到達への青写真を描き始める。気球での探検のネックは気球の動きは「完全に風任せ」ということであったが、この頃気球につり下げられたゴンドラ内からガイドロープ経由で気球に取り付けた「帆」を操作しある程度動きをコントロールする技術が確立し、アンドレーは北極探検を熱心に説き、冒険への出資者を募る。このとき有力な出資者となったのはノーベル賞制定の立役者、アルフレッド・ノーベルであった。出資金を元にアンドレーはフランスで水素ガス気球を調達し、冒険の準備を整える。

 1896年、アンドリューは最初の探検に出発するが、この時は風向きが悪く探検を断念する。批判を受けつつもアンドリューは二度目の冒険の準備を行い、翌1897年7月11日、かって彼が探検を行ったスピッツベルゲン島から水素気球は出発する。彼の気球には冒険の賛同者でアンドリューと同窓のクヌート・フレンケル、カメラマンのニルス・ストリンドベリが同乗していた。彼らは二度伝書鳩を使った手紙を送るが、その後連絡が途絶え、三人は行方不明となってしまう。

 彼らの出発から33年後の1930年、スピッツベルゲン島の東に浮かぶクヴィト島にアザラシ猟に来ていた漁師が彼らの野営後を発見、ノルウェーから探検隊が送り込まれ、彼らの遺体や遺留品が回収されたのである。
 アンドリューは冒険中の克明な記録を日記にして残していた。それによると彼らの乗った気球は出発から三日後の7月14日に氷上に不時着、彼らは北極圏行きを断念し、氷上を徒歩でスピッツベルゲンへ帰ることにし、その途上の同年10月に三人ともクヴィト島で亡くなったことが判明した(日記の記録は10月17日以降破損が激しく判別不能なため、三人の正確な死亡日は不明)三人の詳しい死亡原因は彼らの遺体がスヴェーデンに戻ってすぐに荼毘に付されたため不明だが、彼らの日記には腹痛、下痢、足の痛みがあったことが記録されており、彼らがホッキョクグマを狩り、その肉を生で食べたことによる寄生虫の旋毛虫症により死亡したことが示唆されている。自分の推論で申し訳ないがホッキョクグマの肝臓にはビタミンAが多量に含まれ、人間が食べるとビタミンA過剰症を起こすことがあり、そちらの可能性もあるのではないかと推察する。

 空からの北極点到達はその後1926年5月11日にロアール・アムンゼンらが飛行船で到達しているが、飛行船はプロペラ動力を持ち自力航行が可能なので、気球での到達とは言い難い。科学の進歩による北極の気流の調査結果では北極の複雑な気流下は気球での北極点到達は困難であり、2000年にデヴィット・ヘンプルマン=アダムス(7大陸最高峰と両極点を制覇したグランドスラム達成者)が極点まで20キロ地点に到達するまでは100年以上アンドリューの北緯83度、東経24度到達が最高記録であった。彼らの死から100年後、クヴィト島に彼らの記念碑が建てられ、冒険に殉じた彼らの足跡を伝えている。そして気球不時着から3ヶ月間、帰還へ執念を燃やし続け、病に倒れた三人には最高の敬意を表したい。
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by narutyan9801 | 2013-04-04 09:36 | 妄想(冒険家) | Comments(0)

マラッカのエンリケ ~世界一周を最初に達成したかもしれない男~

 1519年8月10日、スペインのセビリアを出向したフェルディナンド・マゼラン率いる5隻の船団は三年以上の航海の末、一隻のみがスペインに帰りつき、史上最初の世界一周航海に成功する。この帰りついた船「ビクトリア号」に乗船していた18名の船乗り(ほかに航海途中から乗船したものが3人いた)が初めて世界一周を果たしたとなっている。しかし、これより以前に世界一周を果たした、可能性のある人物が存在する。今回はその人物「マラッカのエンリケ」を考察してみたい。

 世界周回に出発する以前のマゼランは、ポルトガル王国の臣下として一度東南アジアに赴任した経験があった。1511年ポルトガルはマレー半島のマラッカを攻略しているが、その前後にエンリケはマゼランの奴隷となっている。奴隷になった経緯はマラッカ攻略の報償として与えられたとも、マゼラン自身が買い取ったとも言われている。エンリケはキリスト教の洗礼を受けており、また頭脳明晰な人物だったようで、ポルトガル語を覚え通訳を勤めるまでになる。マゼランもエンリケには信頼を置き、ポルトガル宮廷を追われスペインに雇われ派遣艦隊の司令官に就任する際にもエンリケを手元に残している。マゼランは艦隊出発に際し遺書を認めているが、自分の死後エンリケは奴隷身分から解放して自由の身となることを保証し、自分の遺産からエンリケに分けるように指示している。当時の奴隷に対する扱いとしては破格で、如何にマゼランがエンリケを信頼していたか、またエンリケがマゼランに忠実に使えていたかが読みとれる。

 艦隊は苦難の航海の末1521年にフィリピンに到達する。そしてレイテ島付近で試しに島の住人にエンリケが母国語であるマレー語で呼びかけると、それに答える住人が住んでいた。さらにリマサワ島では島の酋長がマレー語を解し、マゼランはエンリケを通訳に友好関係を結ぶことに成功する。この「マレー語が通じる所に戻ったことにより、エンリケの世界一周は達成された」と幾人かが主張している。

 ただ、よく考えてみるとエンリケはマゼランの遺書によればマラッカの出身、マゼランの航海に同行した記録者ピガフェッタによればスマトラの出身であり、フィリピンが彼の故郷ではない。彼の見識の高さから奴隷になる以前にフィリピンに行ったことがある可能性は否定できないが、かなり可能性は低いだろう。この時点ではまだ世界一周は完遂されていないとみるべきであろう。

 フィリピン到着から一ヶ月後、マゼランは現在のフィリピン・マクタン島で戦死する。このときエンリケは最後までマゼランに従い、負傷するが艦隊に無事帰還している。しかし主人を失ったエンリケは失望感からか、それとも奴隷身分の解放感からか通訳の仕事を放棄していた。そこに艦隊の指揮を次いだバルボサが「マゼランの遺言は有効ではなくお前は帰国後マゼラン未亡人に仕えることになる」と告げる。さらにセブ島の酋長との交渉を命じた。これに怒ったエンリケはセブ酋長と計り、宴会と称してマゼラン残存艦隊の幹部を誘いだし、謀殺してしまう。これ以降エンリケの事は記録に残っていない。

 残ったマゼラン艦隊は船員の不足により1隻をセブ島に放棄し、二隻で航行を再開、モルッカ諸島にたどり着く、しかしモルッカでさらに一隻が航行不能になり(結局ポルトガルに拿捕される。3人の船員が後にスペインに帰国)最後の一隻が何とかスペインにたどり着く、モルッカ諸島からはポルトガルの勢力範囲で、補給が出来なかったため壊血病が蔓延し、モルッカ出航時に60人居た船員はわずか18人になっていた。このスペインにたどり着いたビクトリア号に乗っていた指揮官エルカーノ、記録係ピガフェッタ達が世界一周を成し遂げた最初の人物となっている。

 さて、エンリケが無事に彼の故国にたどり着いたかどうかであるが、想像になるが彼がマゼラン残存艦隊よりも先に故郷に帰りついたとは考えづらい。彼が奴隷になったマラッカはセブ島からもかなり離れている。当時の東南アジアは貿易ルートも存在していたが、多くが沿岸域を航海する小規模な航海で乗り継ぎながらセブからマラッカまで到達できたとは考えづらい。彼の出身がボルネオであれば多少は可能性が増すが、それでも彼が帰国を選ぶかどうかはわからない。マゼランの遺書によればエンリケは1519年時点で26歳、逆算すると奴隷になった当時は18歳である。十代後半から二十代前半の時代に世界を駆け回った若者が故郷に旅愁を感じるにはまだ早かったのではなかろうか?何より記録が残っていないのだから、世界一周を初めて成し遂げたのはビクトリア号の18人といっていいだろう。

 しかし、セビリア出航の際の記録によれば、マゼラン船団は5隻、総勢265名であった。帰国時には1隻、18名に激減している。帰還率約6.8%。指揮官マゼランをはじめとする大多数の船員は帰れなかった壮絶な航海であった。
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by narutyan9801 | 2013-03-29 09:14 | 妄想(冒険家) | Comments(0)

アルフレート・ヴェーゲナー ~グリーンランドに倒れた大陸移動説の提唱者~

 現在地球上の大陸はユーラシア(ヨーロッパ含む)、アフリカ、オーストラリア、南北アメリカ、南極と分裂しているが、古生代には一つの巨大な大陸があり、それらが分裂したというのが現在の通説である。この「大陸移動説」は二十世紀に入ってから提唱され、1960年代に支持されるようになった比較的新しい学説である。この学説を初めて唱えた人物、アルフレート・ヴェーゲナー、今回は彼を考察してみたい。

 アルフレート・ヴェーゲナーは1880年ドイツ生まれ、彼は本当は気象学者であり、地質学は専門外であった。彼は気球を使った気象観測に才能を発揮し、将来を嘱望された逸材でもある。そんな彼が大陸移動説を唱えたのはあるひらめきからである。
 1910年、彼は世界地図を眺めていて、アフリカ大陸西岸と南アメリカ大陸東岸の形がよく似ていることに気づき、この二つの大陸は元は一つではなかったかと思うようになる。誰でも思いつくような何気ないことであるが、彼には何か確信できるひらめきがあったのかもしれない。彼は専門の気象学、そして古生物学などの資料を基に1912年にドイツ地質学会に「大陸移動説」を発表する。
 ヴェーゲナーの大陸移動説は最初「パンゲア」と名付けた巨大大陸が地球上にあり、それが南北に分裂し、さらに両方の大陸が東西に分裂して現在の大陸の配置になったという学説を唱え、その証拠として氷河の痕跡や、同一の生物が各大陸から化石で発見されている事実を上げている。

 この新説に対し、当時の地質学会は批判的であった。古生物の化石が各大陸から発見されるのは大陸間に「陸地の橋」が形成され、生物が移動した後消失したという「陸橋説」で説明した。なにより地質学者達がヴェーゲナーを追求したのは「大陸を移動させたエネルギーはどこにあるのか?」という点であった。ヴェーゲナーの説は物証は確かにあるが、肝心の「なぜ大陸が移動するのか」という点が説明されていなかったのである。現在ではマントルの対流という原動力が分かっているが、当時の地質学では証明できないものであった。実はヴェーゲナーはマントルの対流について著書で言及している。本来気象学者である彼は対流についての理解はあったはずで、観測機器が発達していれば彼の理論は彼自身が証明できたかもしれない。しかし彼に自身の説を証明させるだけの時間は与えられなかった。

 ヴェーゲナーは自身の「大陸移動説」を証明するためにグリーンランドに目を付ける。大陸が動かなければグリーンランドは地球が誕生してからずっと氷に閉ざされたままで動物が生息できる環境にはならなかったはずである。そのグリーンランドで動物の化石が発見されれば「大陸移動説」の証明に繋がるのではないか?と考えたのである。
 ヴェーゲナーのグリーンランド調査は5回に及んだ。そして5回目の調査中、彼は過労によると思われる心臓発作で急死してしまう。彼の遺体は調査に同行していたイヌイットの手により埋葬されるが、そのイヌイットも後日遭難してしまい、ヴェーゲナーは行方不明扱いとなってしまう。翌年捜索隊がヴェーゲナーの遺体を発見し、改めて埋葬されるが、彼の墓標には「偉大な気象学者」と刻まれ、「大陸移動説」については何も記されなかった。

 ヴェーゲナーの死後30年ほど経った1950年代に大陸移動の原動力がマントルの対流によるものだという仮説が唱えられ、また世界中の岩石に残された地磁気の調査から大陸が移動していたという「説」が「事実」であったということが次第に判明し、ヴェーゲナーの学説が正しかったことが認められるようになる。地下のヴェーゲナーは現在の評価を喜んでいるか、それとも「遅すぎた」と嘆息しているか、ちょっと聞いてみたくなる疑問である。
 ちなみにヴェーゲナーの最期の地、グリーンランドではその後プロガノゲリスという淡水産のカメの化石が発見され、このカメの化石は他の地域からも発見されていることから物的証拠でもヴェーゲナーの説が正しかったことを証明している。 
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by narutyan9801 | 2013-03-28 20:03 | 妄想(冒険家) | Comments(0)

英国南極横断探検 本隊の顛末

 男たちは南極大陸を目指していた。しかし大陸まで到達しないうちに男たちの乗った船は氷に阻まれ、やがて沈んでしまう。辛くも氷上へ逃れた男たちの運命は…。

 今回は南極横断という冒険を目指し、その途上で遭難した「英国南極横断探検隊」の顛末を考察したい。結構長くなりそうなので二回に分ける予定です。

 1911年12月、南極点に人類史上初めて到達したのはノルウェーの探検家ロアール・アムンゼンであった。極点到達を目指していたイギリスは、北極をアメリカ人に、南極をノルウェー人に先に到達されており雪辱を期していた。当時のイギリスは世界に植民地を所有する世界国家として君臨しており、極地での探検には国家の威信がかかっていたのである。こうして南極大陸を「イギリス国旗が横断する」という壮挙が計画される。

 この「英国南極大陸横断探検隊」の隊長に任命されたのはアーネスト・シャクルトンであった。シャクルトンは過去に二度南極大陸を冒険し、特に二回目の冒険では南極点まであと180キロの地点に到達していた。シャクルトン自身も南極での冒険に意欲を示していた。彼は新聞広告で探検参加を募り、それに応募した人数は5,000人以上に達したという。彼はこの中から56名を選抜し、彼自身が率いる本隊と、南極大陸の反対側から上陸し、補給地点を設営して本隊をサポートするロス海支隊に振り分ける。結果的には両隊とも遭難してしまうのだが、今回は本隊の方の顛末を見ていきたい。

 本隊を載せた船エンデュアランス号はイギリスのプリマスを1914年8月9日に出航している。この一週間前に第一次大戦が勃発しており、本来なら中止の判断をしても良さそうであるが、この時点で第一次大戦の状況を予測できるものはおらず、楽観的な展望で出航してしまったと思える。航海は順調であったが年が改まった1915年1月17日頃から周りを氷に閉ざされ、身動きが取れなくなってしまう。エンデュアランス号は氷に閉ざされたまま西に流され、シャクルトンはこの時点での上陸を断念し船での越冬を決意する。しかし氷は予想もつかない事態を引き起こしてしまう。

 南極に春が訪れた1915年10月、緩み始めた氷がエンデュアランス号にぶつかり徐々に船体が損傷し始めたのである。エンデュアランス号は頑丈な船体をしていたが氷は船を破壊し、船内に浸水が広がってゆく。シャクルトンは船の放棄と出来うる限りの物資の運び出しを命じる。この際一度は放棄されることになったカメラとフィルムが決定を覆し運び出されたことにより多くの貴重な写真が残されることになる。
 一行はとりあえず近くの陸地に避難することにしたが、一つの騒動が起こった。エンデュアランス号には一匹の猫がマスコットとして飼われており、沈む船からは連れ出されたものの、猫を連れての氷上行は不可能とシャクルトンは判断、それに飼い主だった船大工のマクニーシュが猛反対するのである。結局は説得により猫は銃で撃たれ、埋葬されるのであるが、マクニーシュはその後隊長のシャクルトンの命令に従わなくなり、隊員の間でも気まずい雰囲気を作ることになる。
 ともあれ一行は移動を始めたのだが、流氷上は平坦な地形がほとんど無く、犬ぞりの移動はほぼ不可能な状態であった。シャクルトンは氷上の移動を断念し、テントを張ってキャンプを行い、氷が少なくなるのを待つことにし、その間はペンギンやアザラシを捕獲して食いつなぐことにする。付近の獲物を狩り尽くすと犬ぞりの犬が食料となった。残酷なようだが犬ぞりの犬は計画的に食料にしてゆくのはこの当時の冒険では当然のことであった。

 翌年4月9日に氷が緩み、一行は一番近い陸地であるエレファント島に向かう。7日後にエレファント島に上陸したものの、この島は絶海の孤島で周囲を航行する船もなく、シャクルトンはここから改めて救援を呼ぶためにボートに乗って一番近い人が住む島、サウスジョージア島を目指すことを決意する。
 サウスジョージア島はエレファント島から1,500キロ、この距離をわずか7mのボートで航海するのは不可能に近い。さらに周囲の海は船乗りの間で「荒れ狂う60°」と恐れられている海域である。しかしこの島にとどまって発見されるのを待つには何年かかるかわからない。シャクルトンの判断は「船を出す」ことであった。わずかの確率にかけるという判断だったろうが、「食い扶持を減らす」という副次的効果も考慮したかもしれない。
 救援に出発する船に乗る人数は6人、シャクルトン自身が乗り込み、他には優秀な船乗りだったティモシー・マッカーシーとジョン・ヴィンセント、航海士で探検家のトーマス・クリーン、航法はエンデュアランス号の船長だったフランク・ワースリーが務めることになった。残る一人に選ばれたのはハリー・マクニーシュ、猫問題で命令不服従をたびたび起こしてきた本人を敢えてシャクルトンは一行に選んでいる。一般的に考えれば船大工であるマクニーシュはボートに損傷が起きたときの修理要員と思えるが、そもそもぎりぎりの物資しか載せられない小型ボートでは補修用品まで積めたかは疑問である。想像ではあるが、シャクルトンは人間が疎外感を募らせているとついに爆発してしまうことや、島に残ったものの人間関係を考えるとマクニーシュを連れていくことが最善であると思ったのではなかろうか。船に乗っていれば「呉越同舟」という気持ちになれるかもしれないとシャクルトンは経験から感じていたのかもしれない(呉越同舟という言葉は知らないだろうけど)エレファント島には副隊長のフランク・ワイルド以下22人が残った。彼ら全員の望みは7mのボートが1,500キロを航海しサウスジョージア島にたどり着くことだけであった。航海は14日間に及んだが一行は無事にサウスジョージア島に到着、さらに人が住む北岸へ標高2,000mを越える山脈をシャクルトン・クリーン・ワースリーの三人が横断し、ようやく住民と接触することができた。このサウスジョージア島は探検の出発に最後に寄港した地であり、三人は一年半ぶりに戻ってきたことになる。

 エレファント島に残った22人の救助も難航を極めた。サウスジョージア島に到着してわずか3日後には使われていなかった船を借り受け、エレファント島に近づいたが流氷の接近で接岸を断念、一度フォークランド諸島に出向きイギリス政府に援助を求めたが、イギリス本国は第一次大戦で苦戦中であり援助は出来ないと打診、シャクルトンはウルグアイ政府の船、イギリス人から提供された船を使いエレファント島に近づくも救助には失敗、最終的にチリ政府から軍艦の供与を受け、ようやく救助に成功する。シャクルトンがエレファント島をでて4ヶ月後のことであった。

 イギリス本国に帰還した探検隊はイギリス政府から極地探検者に送られる「ポーラーメダル」を授与されるが、その受賞対象からマクニーシュは外されてしまう。シャクルトンは6人での決死行にマクニーシュを連れてゆくといった配慮も見せているが、厳格な彼は規律を乱したマクニーシュを許せなかったのだろう。

 シャクルトンはこれだけの苦難を体験したにも関わらず、新たな南極探検を目指して準備中、サウスジョージア島で心臓発作で急死する。死に際して異郷の地とはいえ思い出の地、サウスジョージア島で人生を終えることに悔いは無かったろう。

 一方のマクニーシュは1925年、ニュージーランドに移住する。彼も南極冒険への想いは生涯忘れられなかったのだろう。せめて終焉の地は南極に近い場所でとの思いだったのかもしれない。マクニーシュは1930年この地で亡くなっている。1958年イギリスはサウスジョージア島の近くの小さな島に「マクニーシュ島」と名付け、彼を偲んでいる。
 2004年にマクニーシュの墓に彼の愛猫「ミセス・チッピー」(雄猫でしたがマクニーシュにいつもくっついていたので「奥さん」にされたそうです)の銅像が造られ、ようやく二人は一緒に眠ることになる。さらにサウスジョージア島を含むサンドイッチ諸島でミセス・チッピーの写真をプリントした切手が発行されている。ミセス・チッピーを肩に載せているのはマクニーシュではなく、探検隊最年少の隊員(実は密航者だった)ブラックボロウ。現在の彼の地ではシャクルトンよりもミセス・チッピーの方が著名なのかもしれない。

 次回は、本隊に劣らない悲劇を迎えたロス海支隊を考察する、予定…。
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by narutyan9801 | 2013-03-15 20:08 | 妄想(冒険家) | Comments(0)

氷原に消えた男達 ジョン・フランクリン冒険隊の遭難

 大航海時代より、海原を航海する者たちの一番の関心事は「どれだけ儲けられるか?」だったろう。船の容積は限りがあるため、航海日数の短縮は船乗りたちにとって重要なことであった。パナマ運河、スエズ運河が無い時代ヨーロッパから極東に向かうためには、東西どちらに向かってもアフリカ大陸、南アメリカ大陸を迂回しなければならず、長い時間をかけねばいけなかった。しかし、北方に目を転じてみると氷に閉ざされている北極海に航行可能な地域があれば、極東への航行日数が大幅に短縮できる。こうして「北西航路」を求めてあまたの探検家が旅立ち、多くの悲劇が生まれている。その中でも最大の悲劇と言われる。「ジョン・フランクリン探検隊の悲劇」を今回は取り上げてみたい。

 探検隊を率いるのはジョン・フランクリン。彼は1786年に生まれ、トラファルガーの海戦にも参加した海軍士官であり、一方で北極探検も数度参加していた。彼が32歳から3年間行った探検では複数の隊員が死亡し、食糧不足から革のブーツを食べようとしたとまで言われている。その後彼は政務官に転じ、1838年にはタスマニア副総督まで上り詰めるが、5年後に失脚している。

 フランクリンが北西航路発見の探検隊の隊長に選ばれたのは彼自身が隊長になることを熱望したためであった。もちろん彼自身の経験も選考対象になったろうが、すでに齢60に近い彼に北極の極限状態で耐えられるかどうかは現在の感覚では疑問である。ただ、この探検は船での航路開拓が主な目的で、隊長自身は船から離れることはほとんどないと思われたための人選であったかもしれない。それだけに船の装備はかなり本格的なものだった。探検に用いられる船はイギリス海軍の二隻の軍艦が使用され、寒さ対策のため居住区にはスチーム暖房が装備された。食料は3年分が積み込まれ、半分は昔ながらの保存食、そして残り半分は缶詰が数千個用意された。さらに長期航海の船乗りの恐怖であった壊血病もキャプテンクックの航海で実証されたレモンジュースで対策しており、当時最新の極地探検装備を備えた探検隊だったろう。しかし、この探検隊の命を預ける艦の名前は「エレバス(地獄)」と「テラー(恐怖)」という、とっても厨二臭溢れる名前だったのは探検隊の先行きを暗示していたのかもしれない。

 フランクリンが隊長を正式に拝命したのは1845年2月7日、そして出航まで数ヶ月しかない中、準備は急ピッチで行われ、同年5月19日、総勢134名の探検隊は出航する。グリーンランドのホワイトフィッシュ湾までは別の軍艦と輸送船船も同行、同地で輸送船から最後の補給を行い、ここで探検隊から5名が外れ、総勢129名となった探検隊は同行した艦と別れ、一路西に向かった。同年7月26日、付近で鯨を追っていた捕鯨船「プリンス・オブ・ウェールズ」と「エンタープライズ」が氷山にもやい綱をかけて仮泊している両艦を目撃している。これが西洋人が見た探検隊の最後の姿になった。

 探検隊の出発から2年、探検隊からの連絡が無いことを心配したフランクリン夫人がイギリス海軍に捜索を依頼するが、海軍は3年間の越冬は予定の行動としてこの年の捜索隊の派遣は見送った。しかし翌年になっても探検隊の消息は掴めず、ようやく重い腰を上げたイギリスは捜索隊を派遣、別にアメリカからも捜索隊が派遣され、民間からも捜索隊、そしてフランクリン夫人も私費で捜索隊を派遣するが、探検隊の消息は掴めず、捜索隊の遭難が相次ぎ、犠牲者が多数出てしまう事態となる。

 1850年になってようやく捜索隊からフランクリン隊の断片的な情報が得られるようになる。フランクリン隊の最初の目標だったビーチー島で三人の隊員の墓が発見されたのである。隊員の遺体は凍土によって保存されており、検死により結核を患っての病死であることが判明した。
 さらに1854年になって他の探検を行っていた探検隊が現地のイヌイットから「数十人の白人が飢えて死んでいた」との情報を得、イヌイットの所持していた持ち物からこの白人たちがフランクリン隊の隊員たちであったと確認できる品物を見つけた。
 この報告を受け、フランクリン夫人は夫の最後を確認すべく、借金を重ね私費探検隊を現地に送り込んだ。そしてこの探検隊により探検隊の最後が明らかになる。

 探検隊は1845~1846年にかけて海が氷に閉ざされたので船内で越冬、越冬中に亡くなった三人を埋葬後、夏に南に開いた海を航行し、キングウィリアム島北方でまた氷に閉ざされてしまう。ここでの氷は夏になっても溶けず、隊員たちは次第に衰弱していく、実は食料として積載した缶詰は準備期間が短く、密封のはんだ付けの作業が荒く内容物にはんだに含まれる鉛が侵入し、隊員たちは鉛中毒に犯されてゆく。さらに缶詰の何割かは悪徳業者によりおがくずなどが積められており、食料自体も不足がちになる。さらに壊血病予防のレモンジュースも効能が無くなっており、隊員たちに壊血病が蔓延する。イヌイットたちが目撃した隊員の姿は皮膚の爛れ、唇の黒色化などの壊血病の典例的な症状を示していた。そしてこうした環境の悪化で最初に倒れたのが隊長のフランクリンであった。隊員が書き残したメモによるとフランクリンは1847年6月11日に死亡したと書き残されている。

 フランクリンの死後も隊員は次々と倒れていったが、元々選りすぐった隊員たちは頑健で、フランクリンの死の翌春の段階でまだ100名以上が存命していた。ここで隊員たちは船を捨て、陸地まで歩いて行く決断をする。隊員たちは食料などの物資のほか、陸地までの歩行には不必要と思われる食器や装飾品も含む荷物を三隻のボートに積んで陸地を目指し歩き始める。この装備としては不要な装飾品はイヌイットと出会ったときの交渉の代価とも言われるが、体力を消耗しきっていた隊員たちはそれを曳いて歩けず、すぐに放棄している。さらに陸地を目指す途中で隊員たちに諍いが起こり、船に戻るものと陸地をめざすものの二つに分裂する。鉛中毒による精神的荒廃が諍いの元になったとも思えるが、ここまで統率をとっていた人物に何かが生じたような感じも受ける。結局船に戻ろうとしたものたちは途中で全員力つき、陸地を目指したものはキング・ウィリアム島にたどり着いたものの、その先までは進めず全滅したらしい。彼らの遺体のいくつかには人為的な切断の跡があり、飢えに苦しんだ彼らがついには人肉食に及んだことが想像できる。

 冒険家の植村直己氏はフランクリンの冒険を「現地のイヌイットの生活に学ばず、西欧の生活をそのまま踏襲しようとして自ら招いた惨事である」としている。これは確かに的を得た言葉である。フランクリンの死後から実に60年後、アムンゼンによってようやく北西航路の航行が実現したが、アムンゼンの用いた船ヨーヤ号はわずかに47トン、喫水約1mの小型船で、氷が押し寄せない浅瀬も航行できる船であった。この船を用い、海面が凍結する時には陸地で越冬し、航行可能な時期に移動するというイヌイットの生活様式に則した方法でアムンゼンは北西航路を制覇した。しかしフランクリンの冒険の目的は「航路の開拓」であり、走破だけが目的ではなかったことを割り引いて考えねばならない。

 航路の開拓という現在でも実現できていない目的を課せられたフランクリン隊にとって北極海はまさに「恐怖」に満ちた「地獄」の地であったろう。
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by narutyan9801 | 2013-03-06 17:31 | 妄想(冒険家) | Comments(3)