鼈の独り言(妄想編)

suppon99.exblog.jp
ブログトップ

カテゴリ:未分類( 5 )

ハリー・オニール ~硫黄島で戦死した元メジャーリーガー~

 今週は太平洋戦争で戦死した四人の日本人野球選手のお話を書いたのだが、日本と戦ったアメリカでの野球選手の戦死者はメジャーリーグ経験者に限っていえばごく少数である。もちろんマイナーリーグや独立リーグ経験者での従軍者数は相当な人数になると思われるが、徴兵対象者を根こそぎ応召した日本と違いある種著名人であるメジャーリーガーを徴兵して戦地に送るリスクや、そもそもそこまでの兵力は必要なかったためと思われる。今回は数少ないメジャーリーガー戦死者の一人、ハリー・オニールを考察したい。

 ハリーは1917年にフィラデルフィアで生まれている。ゲティスバーグ大学時代彼は野球、フットボール、バスケットボールの選手として活躍、卒業後はフィラデルフィア・アスレチックスにマイナー契約で入団する。
 入団した年の7月にメジャー昇格し1939年7月23日のデトロイト・タイガース戦の終盤にキャッチャーのポジションに入りメジャーデビューを果たすことになる。この日の試合はアスレチックスが大差で負けておりいわゆる敗戦処理の出場であった。結局この試合でハリーに打順は回ってこず守備機会もなかったためハリーの出場は記録上は出場しただけの無記録である。そしてこの試合がハリーにとって唯一のメジャー出場になったのである。

 その後二年ハリーはアスレチックに所属するがメジャーリーグへの出場は果たせなかった。1941年にアスレチックスを退団したハリーは翌年海兵隊に入隊するのである。すでに太平洋戦争が勃発しており戦争の波は元メジャーリーガーの運命も左右する大きさになっていた。

 二年間の訓練後海兵中尉となったハリーは第4海兵師団第25海兵連隊に配属され歩兵戦闘の指揮を執ることになる。彼は初陣となるサイパン島の戦いで肩に負傷、後送される。そして傷が癒えたハリーが向かったのは硫黄島であった。 硫黄島の戦いで第四海兵師団は上陸作戦から参加、大きな損害を被る。上陸戦と硫黄島南の擂鉢山攻略で損耗した第四海兵師団はいったん後退し再編成を行った後、北方の日本軍陣地攻略を再開する。そして3月6日歩兵戦闘を指揮していたハリーに一発の銃弾が命中する。ハリーを撃ったのは日本軍の狙撃兵であると言われているが定かではない。この時ハリー・オニール27歳。

 ハリーは太平洋戦争で戦死した唯一のメジャーリーガーと言われている。

[PR]
by narutyan9801 | 2014-09-26 23:50 | Comments(0)

石丸進一 ~神風特別攻撃隊で散ったプロ野球選手~

 太平洋戦争中にいわゆる「特別攻撃隊」での戦死者は二千五百人を超えると言われている。戦死者のうち三割以上の人が「予備士官」と呼ばれる学徒出陣の士官たちであった。学業を断念して操縦桿を握りしめ、大空に散っていった約600名の中に元プロ野球選手の姿があった。今回は特攻に散ったプロ野球選手、石丸進一を考察したい。 

 石丸進一は1922年(大正十一年)佐賀県に生まれている。兄の影響を受け石丸は野球に打ち込む少年時代を過ごすが甲子園への出場はできなかった。石丸の実兄藤吉は名古屋軍に所属するプロ野球選手で石丸は出征先の兄にプロ野球選手への思いを血判を押して綴って送り、それを見た藤吉の推薦によりプロ野球名古屋軍に入団することになる。名古屋軍は石丸を兄藤吉の代わりとして内野手で起用、藤吉の復帰後も内野手としてプレーしていたが、藤吉の戦地帰りの影響からか連係プレーの息が合わず、グラウンド外では仲のいいこの兄弟が試合中に限っては喧嘩が絶えなかったといわれている。 

 連携の影響があったのか石丸は二年目には本来のポジションである投手としてプレーすることになる。一年目のシーズンは17勝19敗と負けが先行する内容だったが、当時の名古屋軍の全勝利数が39勝であったことを考えると立派にエースといえる働きをしていたと言えるのではないだろうか。翌1943年(昭和十八年)にはノーヒットノーランを記録、これは終戦前最後のノーヒットノーランとなる記録であった。10月7日の試合で石丸は4回を無失点に抑え降板、これが石丸のプロ野球選手最後の試合となる。

 すでに太平洋戦争の激化でプロ野球選手といえども召集は避けられず、たとえ戦地から帰還しても戦地での生活はプロ野球を続けられないほどに消耗してしまう現状から名古屋軍は石丸の召集を避けようとある奇策を採用する。それは石丸を大学生(日本大学法科夜間部)へ在籍させることであった。当時大学生には兵役が免除されており石丸が戦地に送られることは一旦は回避されたのである。

 しかし1944年からの学徒出陣により石丸も召集される。石丸は海軍飛行科を希望する。その先に待つものは「特攻」であった。厳しい訓練中石丸はよく「鉄拳制裁」を喰らっていたという。「プロ野球選手」だったという目につく存在だったからかもしれない。石丸はこの仕打ちに耐えていたが訓練の最中に行われた野球の試合で投手を務めた石丸は上官チームに対し本気の勝負を行い全く打たせなかったという。

 1945年いよいよ石丸にも特攻の前進基地である鹿屋に移動する命令が下る。石丸は出陣に際しての寄せ書きに「葉隠武士 敢闘精神」としたためたたあと「日本野球は」と書いている。寄せ書きを頼んだ同僚が「この期に及んでもまだ野球か!」と告げると石丸は「俺には野球しかないんじゃ!」と言い残して鹿屋に出発していった。
 5月11日、出撃の直前法政大学野球部に所属し、同じく特攻隊員となっていた本田耕一を相手にキャッチボールを行い、10球を投げ終えるとグラブを捨て笑顔で機上の人となり南に飛び立って行ったという。この日沖縄では航空母艦バンガーヒルが特攻機2機の命中を受け大破炎上した他複数の特攻機の突入が確認されているが、石丸の最後は定かではない。

 日本プロ野球選手のうち、特攻で戦死したのは石丸進一ただ一人である。

消えた春―特攻に散った投手石丸進一 (河出文庫)

牛島 秀彦/河出書房新社


戦場に散った野球人たち

早坂 隆/文藝春秋




[PR]
by narutyan9801 | 2014-09-25 00:17 | Comments(0)

FIJIFILM FINEPIX S4500



先ほどの雀の写真。このデジカメで撮影しました。ちょっと型落ちではありますが、30倍ズームに惹かれて購入。取り回しが軽くて、ズームも接写等に便利です。接写やズームが使えるお手頃なデジカメと言えますね。
[PR]
by narutyan9801 | 2013-02-04 17:53 | Comments(0)

二宮尊徳のお墓参り

本日2012年9月4日二宮尊徳の225回目の誕生日(天明7年7月23日(1787年9月4日))だそうです。あまり知られていませんが、南相馬市には二宮尊徳のお墓があります。学生時代に一度行ったことがあるのですが、よい機会なのでお墓参りに行きました。

お墓の場所は石神中学校のすぐ近く、原高からもさほど離れていない所。今は道沿いに案内板が出ていますが、昔は石碑しかなかったので分かりにくかった。近くのコンビニに車を止めてお墓へ

e0287838_1714571.jpg

昔は階段に手すりは付いてなかったようだけど、最近付けられたのかな?写真では結構明るく補正されていますが、かなり鬱蒼とした感じです。

e0287838_1716573.jpg

この案内板も昔は無かった。原町市教育委員会と書いてあるから南相馬市合併前に付けられたようだが。

e0287838_17193798.jpg

こちらが二宮尊徳のお墓。尊徳自身は当地に足を運ぶことはありませんでしたが、遺髪が埋葬されています。さらに尊徳の妻子が戊辰戦争の戦火を避けて弟子で「相馬仕法」を推進した富田高慶の元に身を寄せ、現在の石神生涯学習センターに居を構えて住んでいました。

e0287838_17265856.jpg

二宮尊徳の弟子、富田高慶のお墓。富田も後年石神に移住し、明治二十三年に亡くなりここに埋葬されました。

e0287838_17284643.jpg

二宮家が住んでいた跡地は現在石神生涯学習センターとなっています。

階段の登り口の感じだとちょっと…と思いましたが、現在もお墓は管理されているようで一安心。二宮尊徳のお墓には誰が添えたのか五円玉が載っていました。
[PR]
by narutyan9801 | 2012-09-04 17:35 | Comments(0)

終わりの始まり

本日よりこちらでブログ書かせていただくことにしました。
日常、自然、動物、ゲームなんかの内容はこちらに記することにします。
資格検定の書き込みは別館にて行う予定。

それではよろしくお願いいたします。
[PR]
by narutyan9801 | 2012-08-02 17:34 | Comments(0)