鼈の独り言(妄想編)

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ウェンティゴ症候群 ~姿の見えない精霊が導く人肉食病~

 本日極夜の下の街でしばらく滞在する紀行番組を見ていたがその中で極夜で暮らす人は自殺率が上がると放送されていた。この情報でまた妙な感覚が刺激されたので今回は「ウェンディゴ症候群」を考察したい。

 ウェンディゴとはカナダ北部の先住民に信じられていた精霊で姿をみることが出来ない。一人でいる人や一人旅の人に近づき付きまとう。近づかれた人はウェンティゴの姿を見ることは出来ないが気配を常に感じることになる。そのような状態がしばらく続きそのうちウェンティゴは小さな言葉にならない声で話しかけてくるようになるという。ウェンティゴ自身はこれ以上の危害を加えないのだが付きまとわれた人はその不気味さのあまり自分がウェンティゴになってしまうという不安に駆られそのうちウェンティゴの気配に心が支配されてしまうと人肉を食べたくなる衝動に駆られてしまうという。この状態に陥った人は普通の食事を一切受け付けなくなり意思の疎通や日常の身だしなみも行わなくなる。最終的には自殺したり処刑されてしまうという。

 このウェンティゴに取り憑かれた人を特定の地域、文化、民族内で発生する精神疾患としてウェンティゴ症候群と呼ぶ。原因としては冬期のビタミン不足、極夜による身体バランスの欠如などが上げられる。治療方法は患者にスプーン一杯の動物の脂肪を与えると治ると言われている。実際に視聴した番組では鱈の肝臓から取られた肝油をビタミン不足を補うという目的で摂取していることが紹介されていた。

 番組で紹介された街はロングイヤービエン、このブログでも何度か名前が出てきている北大西洋のスピッツベルゲン島にある町で番組ではトナカイの姿が写されていたがホッキョククマも生息していることが紹介されている。スピッツベルゲン島ではトナカイは定住しているが大陸に住むトナカイ(カナダ圏ではカリブーと呼ばれる)は季節によって移動する動物であり冬期は居なくなってしまう地域もあると思われる。そしてホッキョクグマはさほど移動しない動物であるがホッキョクグマの肝臓はビタミンAが過剰に含まれ人間が食べると過剰摂取により中毒を起こすことが知られていてその他の臓器も含まれる酵素などで長期保存が難しいものが多い。主な狩猟動物であるカリブーとホッキョクグマが居なかったりビタミンが豊富な内臓が食用に適さないとなるとビタミン不足に陥る可能性は高いと言える。
 ビタミン不足で不安定な精神環境に陥るのはなんとなく分かるがそこからカニバリズムに陥るのは何故だろうか。想像力を膨らまして妄想してみると過去に飢餓により人肉食に走ってしまった人が居たのかもしれない。その人物の犯した人肉食をその人の世にせず姿が見えない「ウェンティゴ」という精霊のせいにした可能性は高そうである。そうして人喰いを促す精霊となったウェンティゴの恐怖がウィンディゴ症候群を生み出すことになった…。そんな感じがする。

 ビタミン不足の認識と流通状況が発達した現在、ウェンティゴ症候群の発症は報告されていないようである。しかし食生活の欧米化が進み生鮮食料が近くで調達できない環境ではまたビタミン不足に陥ってしまう可能性も指摘されている。ウェンティゴは今は態を潜めているが再び地上に出る日を待っているのかもしれない。

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# by narutyan9801 | 2018-01-20 01:49 | 妄想(病気) | Comments(0)

広南従四位白象 ~位階を賜ったゾウさん~

 日光東照宮、上神庫に二頭の象の彫り物がある。江戸初期の画家狩野探幽が下絵を描き彫られたものとされている。この彫り物の象は生きている象を知っている我々の目から見れば足の爪の形状など違和感があることは事実であるが、描いた狩野探幽自身は象を見たことがなく想像で描いたことを考えると実在の象にかなり近いものと言える。また象の表情は東照宮にたくさん存在する空想上の動物に比べると表情などにどことなくユーモラスな雰囲気を漂わせている(同じ東照宮表門にも象の彫り物があるがこちらは厳めしい表情をしている)。これは「象」という動物が当時の日本人にはまったく馴染みの無い動物ではなくごくわずかの人であるが実際の象を見たり、見た話を聞いた経験があることに関係があるかもしれない。探幽が下絵を描いた半世紀前には同じ狩野派の狩野内膳が実際に目にした象を描いている。こちらは実際の象の姿をかなり忠実に描いておりもしかしたら象の姿が狩野派の中で語り継がれていたかもしれない。内膳が描いた象は安土桃山時代に輸入された象であるが、今回は江戸時代に輸入され長崎から江戸まで歩いて旅をした「広南従四位白象」を考察したい。

 有史以前には日本列島にもナウマン象、マンモスなどの長鼻目(象の仲間)が闊歩していたのだが日本人が歴史を記録できる時代にはすでに絶滅していた。象は居なくなっていたものの化石化した象の骨は「竜骨」として珍重されていて正倉院にはナウマン象の臼歯が五色龍歯という名で二つ奉納されている。海外では象は飼い慣らせば使役動物として有用であり特別な訓練を施せば「戦象」として兵器としても取り扱える動物であり人間と象のつながりは他の野生動物に比べれば深かった。中国では殷の首都であった殷墟から飼育されていた象が埋葬された状態で発掘されており馴染みのある動物だったと思われる。そして遣唐使などで中国を訪れた日本人も象を見た人物は存在したろう。こうした人々からの伝聞で日本でも象がどのような動物か漠然とながら知られていたようである。12~13世紀の「鳥獣人物戯画」には象と思われる動物が登場している。

 日本に生きた象が持ち込まれた最も古い記録は応永十五年(1408年)東南アジアからの献上品と思われる。当時は足利幕府四代将軍足利義持の時代であった。義持は父義満の政策を支持しておらずこの贈り物も父への贈り物と受け取ったようでありほどなく朝鮮へ贈ってしまったと記録されている。
 戦国時代から安土桃山時代にかけてはヨーロッパのポルトガル、スペインとの直接貿易が始まりまた中央政府の監督が行き届かなくなり地方の有力者が貿易を自由に行えたため数度象が来日している。慶長年間には二度象が日本に送られており狩野内膳が描いた象はこの二例のどちらかの象を描いたものであろう。
 その後江戸幕府は鎖国政策を取り海外の品物は輸入が規制されてしまう。この規制が緩むのは八代将軍徳川吉宗の時代である。吉宗は様々な政策を行っているがその中に洋書の輸入解禁がある。キリスト教関連以外の書物の輸入を許可したがただ単に本を輸入していいとって言っても庶民にまでその意図は伝わらないだろう。それならば海外の文物を持ち込み海外に庶民が興味を持つようにするのがいい。この際インパクトがあって入手も現実的な象がいいんじゃないだろうか?と吉宗が考えたか、はたまた単に象が見てみたいと思ったかどうか?詳しい心情は分からないが将軍の直接注文の形でベトナムに象を注文しているのである。

 注文された象は雌雄二頭で中国人貿易商の手配で享保十三年(1728年)六月に長崎に到着、雌象は長崎到着後三ヶ月後に死んでしまうが雄象は無事に冬を越し翌年3月、江戸へ向けて出発することになる。通訳、象使い、随行の役人など14名とハンニバルの長征に比べるとだいぶん規模が小さいが間違いなく前代未聞の旅出であった。
 当初象を江戸に送るには海路での輸送も検討されていた。しかし幕府の禁令により大型船の建造が禁止されており輸送に適した大型船が無いことと遭難の可能性からより安全な陸路を取ることになったと言われる。一行が翌日通るであろうルート沿いは犬猫を外に出さず、号令や鐘など敏感な象を刺激する音を出さないよう、餌と水の準備(成獣の象は一日150リットルの水が必要である)、沿道沿いには縄を張り道路や橋の補強等々、これが地元の負担で行われたのである。とんだインフラ整備を強いられたものであるが異国の珍獣が通るというだけで当時の人々は文句も言わず従ったのである。小倉では藩主小笠原忠基が見物に訪れるなど当時の人々も興味津々で象を見たことだろう。
 関門海峡は石を運ぶ船に乗せられて渡り西国街道を進んだ一行は4月20日に大阪に到着する。ここで思わぬ話が一行に飛び込む、時の天皇中御門天皇が象を見たいといったというのである。象の一行が江戸へ下るというのは朝廷内でも話題持ちきりだったのか、それとも中御門天皇の祖父である霊元上皇が歌会にでも出て噂を仕入れてきたか、中御門天皇に象の噂が伝わり是非とも見てみたいと希望を伝えてきたのである。御所に出入りするには位階が必要である。しかし天皇自らが見物に出るとなれば「行幸」という大げさな話になる。おそらく朝廷の武家伝奏と京都所司代は協議を行ったであろうが江戸幕府成立時や幕末のやりとりに比べれば平和な話し合いだったろう。結局象は「広南従四位白象」という立派な名前と従四位という位を賜ることになる。ちなみに従四位という位、日露戦争で日本海軍の作戦を立案した秋山真之が死後贈られた位でありかなり高い位である。
 4月26日に「広南従四位白象」は御所にて中御門天皇、霊元上皇に拝謁。このとき象は象遣いが背に乗るときに調教された前足を折って体を低くする姿勢を見せたらしい。これを見た中御門天皇は象にも拝跪の礼があるのかと感銘し次の歌を詠んだという

 時しあれは 人の国なるけたものも けふ九重に みるがうれしさ
 
 この時中御門天皇は29歳。和歌や書道、笛を嗜む天皇は象よりも早くこの六年後に崩御している。

 京都を発した一行は東海道を江戸へ向かう。東海道は桑名から熱田までは海路なので象一行は長良川と木曽川を馬を運ぶ船をつなぎ合わせて三里の渡しと呼ばれた渡し船のルートを通って渡り佐屋街道を通って熱田に至っている。橋の整備が進んでいない天竜川や大井川は泳いで渡り武田氏と徳川氏の間で激戦が行われた三方ヶ原を通過するなど一行は東海道を東へ進むが象は疲労が蓄積していたらしい。浜名湖を北に迂回する本坂道の登り道では急勾配に象が悲鳴をあげ後にこの坂は地元の人々に「象鳴きの坂」と名付けられたという。そして「天下の険」箱根でついに象は疲労のため寝込んでしまうのである。箱根の関所を目の前にして倒れた象に近隣から象の好物が送られ近隣の寺院では病気平癒の加持祈祷が行われたと言われる。この甲斐あってか3日後に象は回復、無事に箱根の関所を超える。そして長崎を出発して二ヶ月半、ようやく江戸城に到着、将軍の上覧をうけることになる。
 上覧を終えた象は浜離宮で飼育されることになり江戸城への登城の際には見物人が鈴なりになったと言われ、瓦版や象の玩具など現代で言うところの「メディア展開」に発展する。この状況をみると江戸時代の人々も現代とあまり変わらない感性をもっていたのだなと感じざるをえない。
 しかし広南従四位白象のブームは長く続かなかった。吉宗は数回象を見ただけで満足してしまい江戸城に登城することはなくなってしまう。そして象にとって不幸なのは象使いが帰国してしまったのか居なくなってしまったことであった。象は引き続き浜離宮で飼育されることになったが象に不慣れな日本人飼育係では世話が行き届かず象にはストレスが溜まってしてゆく。また象の飼育には莫大な費用が必要であった。倹約を奨励している吉宗政権下では象飼育はお荷物扱いであったろう。そうしているうちに象が飼育員を攻撃し殺してしまうという事件が起こる。厄介者となっていた象は中野村の源助という人物に払い下げられたが寛保二年(1741年)冬に死んでしまったという。推定の年齢は21歳、象の寿命は60年前後と言われるので早死にといっていい最後であった。死亡した象の象牙と皮は幕府に献上され中野宝仙寺に納められた。宝仙寺では宝物として大事に保管していたが昭和二十年五月二十五日の空襲で大部分が消失。現在鼻の皮膚の一部のみが伝えられているという。


 広南従四位白象が江戸城へ登城した際、御用絵師であった四代狩野栄川古信が象を描いている。想像で描いた同派の狩野探幽と違いモデルを見つつ描いた象はさすがに精緻に描かれている。この作品は現在東京国立博物館に収納されており広南従四位白象の姿を現代の我々に伝えているのである。

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# by narutyan9801 | 2018-01-14 01:24 | Comments(0)

Phoney War ~宣戦布告後半年以上続いた「まやかしの戦争」~

 1939年は第一次世界大戦終結から21年。当時の人間の一生の時間でも隔世というには短すぎる時間であった。人間が初めて体験した人類を滅亡させかねない長く激しい戦いは個人の記憶として生々しく残っていたろう。この年人類は再び世界大戦を始めることになるのだが人々の第一世界大戦の記憶は戦いを始めることを躊躇わせるのに十分だった。今回は第二次世界大戦の緒戦で繰り広げられたファニーウォー(Phoney War)を考察したい。

 1939年9月1日にドイツはポーランド侵攻を開始、その二日後の9月3日にイギリス・フランスはドイツへ宣戦布告するがこの時点ではイギリス、フランスともにドイツに対する戦備はまったくといっていいほど行われていなかったのである。ポーランドとフランスは軍事同盟を締結しておりイギリスも1939年春からはポーランド寄りの外交を行っていたが情勢が一変したのは1939年8月23日の独ソ不可侵条約締結であった。独ソ不可侵条約締結までの英仏の外交方針は最悪ポーランドは切り捨てるという方針だったろう。不倶戴天の敵同士と見られていた独ソが手を結ぶというのは想定外でさすがにドイツはポーランド全土を併合してソ連と国境を接することはせず、また仮にそうなったとなれば今度こそドイツと妥協できるという考えがあったのではなかろうか?しかし独ソが手を結ぶという事態になるとさすがに妥協の余地は無くなっていた。ドイツは英仏にポーランド侵攻の意思を秘密裏に伝え両国がポーランドを支援しないよう交渉を行っている。この交渉は最終的に決裂し9月3日の英仏の対ドイツ戦線布告に至るのである。独ソ不可侵条約締結から英仏の宣戦布告までわずか10日あまり、戦備を整える暇を与えないドイツの外交的電撃戦とも言えよう。

 宣戦布告後英仏は動員令を発しフランスのドイツ国境には英仏の両軍が集結するがドイツ側は若干の守備隊が警備しているだけであった。ポーランド侵攻に主力部隊を投じていたためである。ポーランド侵攻前この状況はフランス方面からの侵攻があった場合耐えられないとドイツ陸軍は多くの守備隊を残すようヒトラーに進言していたがヒトラーはフランス側の侵攻は無いと判断し最小限の守備隊の残置でポーランド侵攻を行ったのである。ヒトラーの判断が英仏の宣戦布告は無いという判断だったか、それとも宣戦布告しても侵攻はないという判断だったかはっきりしないが結論から言えばこの判断は正しくフランス側からは一個連隊規模の威力偵察的な侵攻があったのみであった。
 ポーランド侵攻に投入された兵力は侵攻終了後次々とフランス国境に集結する。ヒトラーはフランス侵攻には強気であり11月中のフランス侵攻を指示していたが悪天候が重なり空軍の移動が遅れフランス侵攻は翌春まで延期となってしまう。国境を挟んで両軍は睨み合っていたもののプロパガンダの応酬程度で次第に緊張感が緩み前線では配給品の物々交換なども見られるようになったと言われている。こうした状態が1941年5月10日のドイツのフランス侵攻作戦が開始されるまで半年以上続くことになる。

 フランスは第一次世界大戦の緒戦侵攻してきたドイツ軍前面に騎歩兵の突撃を敢行して機関銃になぎ倒され多大の損害を被った苦い経験があり自らの侵攻にはきわめて慎重であった。国防の基本からドイツ国境のいわゆるマジノ線での防禦で敵の戦力を削って後の反撃を主体としている。この状況では宣戦布告後速やかな侵攻は無理だったろう。それでもドイツ軍の状況を把握して強引に侵攻すれば勝機はあり得たのか?個人的な意見になるがこれもかなり難しいと思われる。侵攻があった場合ドイツ軍守備隊は出来うる限りの遅滞戦術を行うだろう。フランス軍の中には後のフランス大統領ド・ゴールの様に電撃戦を模索する人物もいたのであるが後のドイツ軍が行ったような電撃戦を行える思想も練度もこの時点では無かったといえる。おそらく侵攻半ばでドイツ軍の迎撃に遭い大きな損害を出して撤退というのが管理者の考えた仮想のシナリオである。

 このPhoney Warは陸上の話だけで海では両軍の激しい戦闘が緒戦から起こっている。海戦と同時にドイツの潜水艦部隊は活動を開始し開戦直後の1939年9月17日には英空母カレイジャスがU39に撃沈され10月14日にはスカパフローに進入したU47により英戦艦ロイヤル・オークが撃沈される。一方ドイツ側も12月17日にモンテビデオ港外に追い詰められたアドミラル・グラーフ・シュペーが自沈している。数的劣勢であったドイツ海軍は通商破壊戦で英国の疲弊を誘う戦略をとっていたが通商破壊戦は常に相手に損害を与え続ける必要があり戦機を待つ余裕は無かったのである。

 1940年にドイツ軍は北欧諸国侵攻を行う。スウェーデンで産出される鉄鉱石はドイツの戦争遂行に必要不可欠なものと考えられていた。スウェーデンは中立国でありドイツは侵攻しなかったがその積み出し港として重要なノルウェー、そしてスカンジナビア半島を扼することができるデンマークへドイツは侵攻、これを占領する。さらに5月10日にはフランスへ侵攻を開始し「Phoney War」は本物の戦争となるのである。

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 イギリス空軍のハンドレページ・ハンプデン(発音はハムデンに近いそうな)爆撃機。第二次世界大戦開戦直後は本機を含む英国爆撃機がドイツ爆撃を行っているがプロパガンダ目的のビラ撒きを行ったこともある。イギリス空軍は昼間の爆撃でドイツ空軍の迎撃により大きな損害を受け主に夜間爆撃を行うことになる。

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# by narutyan9801 | 2018-01-12 00:49 | 妄想(歴史) | Comments(0)

グルカ兵 ~山岳地帯が生んだ精強な戦士たち~

 管理者の小学生時代愛読していた漫画に「劇画太平洋戦争 激突!戦車部隊(7)」という漫画があった。太平洋戦争中の旧日本海軍の主力戦車「九七式中戦車(チハ車)」乗車兵の物語でガールズ&パンツァーブームのこのご時世ちょっと見直されても良さげな漫画である。この漫画で密林の仲から唐突に銃撃を受けるシーンがあるのだがその際戦車長が「グルカ兵だな」と看破する台詞がある。この漫画では「グルカ兵」がなんなのか具体的に説明しておらず管理者も成人後自力で(と言うより自費)調べてみるまで実態は知らなかったのである。今回はこの「グルカ兵」を考察したい。

 一般にグルカ兵は「グルカ族出身の傭兵」というイメージがあるがこれは正しくない。元々はネパールの一地方名、そしてそこに暮らすヒンドゥー教を信仰する少数民族を示す言葉であった。ネパールには元々はヒンドゥー教徒は住んでいなかったのだが14世紀にインド北部のヒンドゥー教徒が移住を行っている。当時カトマンズ盆地では三つの王国がしのぎを削っていたが外部にはほとんど警戒を払っていなかった。ネパールに定住したヒンドゥー教徒は自分たちの王朝を立て三王国を滅ぼしカトマンズ盆地を統一することに成功する。この王国は「ゴルカ朝」と称することになるが英語での発音は「グルカ」に近かったので西欧圏ではこの王朝を「グルカ朝」王国内の民族を「グルカ族」と呼ぶことになるのである。

 グルカ朝に滅ぼされた三王国の王族はインドへ逃れ当時インド支配を固めつつあったイギリスにカトマンズ盆地奪回を懇願する。これに応えイギリスは小規模な部隊を派遣するがネパール軍に撃破されてしまいイギリスのネパール侵攻は一時的に凍結されることになる。

 グルカ朝はその後も積極的な対外侵攻を行うが隣国チベットとの紛争が生じチベットの宗主国である清の侵攻を招いてしまう。首都であるカトマンズ近郊まで侵攻されたグルカ朝は清の宗主権を認め属国として存続する道を選択、その後勢力拡大の方向を南に求めたグルカ朝は次第にインドへ圧力をかけるようになっていったのである。

 当時インドではイギリスの東インド会社による植民地支配が進行中であったがそれに反抗する勢力が各地で反乱を起こしていた。ここでグルカ朝が介入してくると抵抗が激しくなる懸念もありイギリスはグルカ制圧を行うのである。
 グルカ戦争と呼ばれるこの戦闘でイギリスはグルカ朝を屈服させることに成功するが山岳地帯でのグルカ部隊はイギリス軍に頑強に抵抗しイギリス軍はしばしば苦境に立たされている。他方グルカ族はインドにも多数暮らしているヒンドゥー教徒であるがヒンドゥー教の特色であるカーストはインドのそれほど絶対的ではなくそれでいて命令や規律に関しては厳密に守る民族性を持っていることにイギリス軍は着目し戦争中からイギリス軍はグルカ側から脱落した勢力の兵士を非正規軍に編入させることを行っている。
 1816年にスガウリ条約が批准されグルカ朝はイギリスの保護国となるがネパールの自治権はほぼ保障され王国としての面目は保たれることになる。他方イギリスはグルカ朝を通さず直接グルカ族と傭兵契約が出来ることを認めさせ5000人のグルカ族を傭兵として自軍に編入させるのである。インド大反乱(セポイの乱)の際グルカ傭兵は14000人が乱鎮圧に参加、多くの戦果を上げている。イギリスはグルカ兵の策源地であるゴルカ朝の存続に配慮しイギリス領インド帝国の成立後もゴルカ朝(実質上宰相家に簒奪されていて形骸化していたが)の自主性は存続させ1923年にはイギリスから独立国と認められている。この間もイギリスはグルカ兵を雇い入れている

 第二次大戦でもイギリスはグルカ兵を戦線に投入させている。特にインパール作戦では多数が投入され日本軍の撃退に大きな功績を残している。その後も第二次大戦後半、朝鮮戦争、そしてフォークランド紛争、湾岸戦争、イラク戦争に至る現在の戦闘地域でもグルカ兵は傭兵として戦場に姿を現している。フォークランド紛争では真偽は別としてグルカ兵が攻めてくると聞いたアルゼンチン軍に逃亡者が出たという逸話も伝わっている。

 グルカ兵の選抜は現在も独特な方式をとっていると言われている。イギリス軍のスカウトがネパールの山村を巡りめぼしい人材を見つけ雇用するのである。しかしグルカ兵は軍隊内では英語を使わなければならずさらに入隊に必要な基礎体力を養っておかなければならない。そのため現在はネパール国内にはグルカ兵養成所が設立され基礎的な訓練を施された人材をスカウトする方式が取られているらしい。さらに入隊後軍隊で必要な知識や技術を学ぶ訓練所が設立されているとされる。以前はイギリス軍内で「グルカ」という呼称は一部上級者のみで一般の兵士は訓練所の所在場所の名称で呼ばれていたらしいが現在は「グルカ」という呼称に一定の価値が見いだされており一律に「グルカ」という呼称が使われているそうである。

 一般にはグルカ兵は特徴的な「ククリ」と呼ばれる前方に湾曲した刃物から連想されるのか格闘戦を主体とする軍隊と思われがちであるが彼らは格闘戦を主体とはしていない。彼らは非常に小柄で格闘戦では大柄な兵士に圧倒されてしまう。彼らの持ち味は厳しい地形を素早く行軍し有利な地形から火力で敵を圧倒することである。19世紀のグルカ兵の写真にはしばしば彼らの身長とは不釣り合いな当時最新式のスナイドル銃を装備した姿を写したものがあるがその姿が彼らの主任務が何かを物語っている。

 グルカ兵は現在も「短期雇用」扱いである。雇用契約が終われば除隊して次の仕事を見つけなければいけない。契約から解き放たれた彼らの仲には経験を活かして紛争地域のゲリラ勢力に身を投じるもの居たと言われる。現在は退役したグルカ兵の再就職を斡旋する民間軍事会社も存在する。決して裕福といえないネパールではグルカ兵の存在は貴重な外貨獲得の手段となっているのである。

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# by narutyan9801 | 2018-01-08 10:49 | 妄想(軍事) | Comments(0)

鳥葬 ~ハゲワシに託される死者の肉体~

 個人的な話で申し訳ないが管理者が小学生の頃日曜日午後7時30分の楽しみだったのが「すばらしい世界旅行」の視聴だった。久米明氏の独特のナレーションで語られる世界の自然、歴史、風俗の映像は片田舎の子供に刺激と衝撃を与えてくれたものである。この「すばらしい世界旅行」の放送シーンで今でも忘れられない回がある。その映像は男性が鉈か山刀を振るってる映像なのであるが画面の下の部分が黒く塗りつぶされている異様な画面であった。実はこの画像、人間の遺体を鉈状の刃物で解体しているシーンだったのである。当時既にモザイク処理の技術はあったと思われるがそれでもこの画像の衝撃を完全に打ち消すことができず塗りつぶしという極端な処理を施さざるを得なかったのだろう。今回はこの放送で取り上げられていた「鳥葬」を考察したい。

 鳥葬は現在もチベット、内モンゴル地方、その他ごく限られた地域で行われている葬儀である。遺体をハゲワシ等の腐肉食の鳥に食べさせて処理をする葬儀であるが、この葬儀の始まりは自然発生したのではなく信仰、具体的に言うとゾロアスター教の教義から発生したことが現在指摘されている。

 ゾロアスター教では人間の遺体には悪魔が宿るとされており、神聖視される火、水、土を用いる火葬、土葬、水葬は行われなかった。ゾロアスター教を国教としたササーン朝ペルシャでは遺体は路上に放置され、骨になったら崖に掘られた納骨用のトンネルに運ばれ処理されていた。そしてこの骨になる過程で一役買ったのがハゲワシなどの腐肉食の鳥類であった。現在鳥葬を行っている地域のうちゾロアスター教の教義を忠実に守って鳥葬を行っている地域がインドを中心に存在する。死者はダフマと呼ばれる塔状の施設に運ばれそこで鳥に軟部を食べられ残された骨は直射日光に晒され細分化して処理されるのであるが、現在のゾロアスター教信者の居住する地域では都市化が進んでいる地域も多く他の葬儀方法を取ったり太陽光を利用して熱による処理(いわゆる火葬)を行う場合も多い。
 ゾロアスター教の葬儀方法が東へ伝播していく過程で鳥葬も伝わっていったと思われる。そして多くの地域ではゾロアスター教信仰が衰退すると鳥葬も消えていったと思われるのだがチベットなどの地域ではゾロアスター教の衰退後も鳥葬の風習は宗教を超えて存続している。

 鳥葬が現在も行われている地域でも他の葬儀、火葬・土葬・水葬などは行われているが一般的ではない。自然環境がそれを許さないのである。
 まず遺体を火で処理する火葬であるが人を完全に灰にするにはかなりの可燃物が必要になる。チベットなどの森林限界を超えた高所や平原が多い内モンゴルなどでは可燃物である薪を大量に集めるにはかなりの財力が必要である。これらの地域で火葬を行えるのは富裕層のみに限られるのが実情である。
 次に土葬であるが人を埋葬するには岩盤ではない堆積した土壌が必要であるがそれは人間の居住や耕作にも必要な土地である。人が暮らすために必要な土地をおいそれと埋葬地にするわけにはいかず土葬は疫病などで亡くなった死者を埋葬する場合に用いられる。
 最後に水葬であるが実は鳥葬には執り行う鳥葬専門の職人がおり職人を呼べない地域で大きな河川がある地域では水葬を行う地域も存在する。とはいえ山がちな地域では遺体をそのまま流す訳にはいかず物理的に分解して川に流すことになる。また疫病の死者は疫病蔓延の可能性があるため土葬が行われる。こうした理由で現在でも鳥葬は行われているのである。なおチベット仏教では化身ラマと呼ばれる菩薩や如来が現世に姿を現した化身であるラマを葬る「塔葬」という葬儀も存在する。

 現在の鳥葬は専門的な職人の手で行われる場合と死者の地域・親族が執り行う場合とに大別できる。地域・親族が行う場合は多くが特定の高台に死者を運びそのまま遺体を放置するか解体を行い自然に任せるのが一般的である。これに対し職人が行う鳥葬は決まった日時、場所に死者を運び、複数の遺体の葬儀を執り行う。葬儀の日職人は特殊なお香を焚いて鳥たちを呼ぶ。そして遺族から遺体をを受け取ると遺体に鉈等で人為的な損傷を加えるのである。一見残忍な行為に見えるが人間の皮膚は思った以上に丈夫でハゲワシ等の嘴では裂くことが出来ない。このためハゲワシたちは肛門などから内蔵などを中心に食べ進むのであるが皮膚は残ってしまい特に胸部は皮が張った肋骨のまま放置されてしまう。これを防ぐために人為的に損傷を加えるのである。またこの時に踝の骨や頭蓋骨の一部などを遺族に渡す地域もあると言われる。遺族はこの遺体の一部を持ち帰り葬るのである。
 鳥たちが死者の肉体を食べている間も職人たちは遺体の解体を進める。特に大腿骨や脊髄といった大きな骨はハンマーなどを使って砕き、鳥たちが食べやすいように手を加えてゆく。最後に細かくなった骨を小麦粉などに混ぜ、カラス等のやや小型の鳥に与える。こうして死者の肉体はほとんどすべてが鳥たちに食べられて消滅するのである。かってこの鳥葬は観光客なども見学できたが現在は鳥葬が行われてい中国、チベット両国により関係者以外の立ち入りや撮影は禁止されている。

 チベット仏教では人間の肉体は魂の入れ物であり、死者の肉体は魂が抜けた抜け殻であるという考え方がある。人間は生きている間多くの生き物を食べなければいけず死後多少なりとも還元しようという思想と遺体の処理という現実的な問題を鳥に託し死者を葬るのは外部の人間からみるとなかなか複雑な思いもよぎるのであるが非常に合理的な葬り方でもあるのである。

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鳥葬の主役であるヒマヤラハゲワシ。近年鎮痛作用のあるジクロフェナクを塗布された家畜の死体を食べて多数のヒマヤラハゲワシが中毒死し生息数が激減していると言われている。

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# by narutyan9801 | 2018-01-06 12:03 | 妄想(その他) | Comments(0)

管仲 ~斉の桓公を覇者にした男~

 「水魚の交わり」という言葉がある。三国志で諸葛亮を迎え日ごとに親密になる劉備に不安を覚えた劉備の義兄弟関羽・張飛が劉備に不満を述べた際に劉備が口にした言葉が元になっていると言われている。中国において魚は多産の故男性の隠語として用いられることが多く、水と魚の仲は男女の仲であり、自分と義兄弟の仲には何も問題ないというのが水魚の交わりと言う言葉の持つ本当の意味であるが次第に意味合いが変化し現在では主従の親密さを表す言葉の意味も持っている。しかし人間の間柄というものは面白いもので主従の間が親密ではなくても大きな功績を残せる場合も多い。今回は以前取り上げた「斉の桓公」を覇者にした人物、管仲を考察したい。

 管仲は滁州(現在の安徽省滁州市)の出身、生年は詳しくは分かっていないが桓公より若干年上と思われる。生家は貧しかったが学問に秀でていた。若い頃に鮑叔と知り合い親密な仲となってゆく。後に管仲自身が述懐したところによると人生様々な岐路で鮑叔は管仲の為を思い管仲を立てることを第一に考えてくれた。鮑叔は自分の父母以上に私のことを理解してくれていたと語っている。やがて二人は斉に入り管仲は公子小白(後の桓公)鮑叔は公子糾に仕えることになるが二人の友情は変わらなかった。
 二人の公子と管仲・鮑叔の斉公を巡ってのいきさつは「斉の桓公」で述べた通りである。しかし鮑叔の取りなしで管仲を宰相に抜擢した桓公ではあったが管仲に対しては含むところがあったように見受ける。

 桓公の逸話にこのような話がある。
{桓公が家臣から詰問を受けると常に「それは管仲に聞け」と答えるので、ある家臣(宮中に侍らせた道化とも言われる)が「君主は楽ですね。すべて管仲任せで済むんですから」というと桓公は「あいつを宰相にするまでは苦労したのだから宰相にしたあとは楽をしてもいいだろう」と答えたという}
 聴きようによっては管仲に信頼を置いているようにもとらえ得るがどうも桓公と管仲の間にはしこりが最後まで残っていたように思える。桓公にとってみれば管仲は一度は自分を殺そうとした人物でありやはり「水魚の交わり」という訳にはいかず、それを管仲も感じ取っていたのではないだろうか?後年周王が管仲の功績を称え上卿に迎えようとしたが管仲が固持したのももしかしたら桓公との間を考えてのことかもしれない。

 しかし「水魚の交わり」というものにも弊害がある。劉備と諸葛亮の間でも国家戦略に背く劉備の私怨ともいえる夷陵の戦いを諸葛亮は防止することはできなかった。個人的な親密さは国家運営という点では弊害も生じる可能性があるのである。
 管仲が宰相に抜擢され最初に託された仕事は内政改革を断行することにあった。斉は始祖である太公望呂尚が封じられた際には民心を安定させることを優先し国内政策はかなり旧来のやり方を取り入れていたのである。塩の専売法など優れた点もあったが国内産業は伸び悩んでおり内乱での混乱がそれに拍車をかけていた状況であった。管仲は斉の国内の行政区を21に分割しその土地土地にあった産業の育成に取り組むよう行政整備を行う。併せて法の整備、賞罰の厳格化、住民の相互監視など厳しい統治も行っている。この改革が平和が保たれていた状態で断行されていたら怨嗟の声も上がったろうが混乱した斉にはこうした劇薬での治療が最も効果的だった。この改革で急速に国力を回復した斉は国内が安定すると積極的な外交活動を行う。鮑叔が言ったとおり管仲でなければなし得なかったことであったろう。しかし桓公はしばしば他の諸侯や周王朝をないがしろにした行動をとろうとする悪い癖があった。そんなとき管仲の意識は桓公その人よりも斉の国益の方に常に向けられており心証が悪くなるような讒言も時には厭わなかった。そして桓公も多少は疎ましく思いながらも管仲の讒言に正当性を見いだして従っていたのではないだろうか。私的な好意を加えないからこそ桓公と管仲は覇道の道を歩めたのだと個人的には考えている。

 宰相として桓公を補佐して約四十年、管仲は紀元前645年に亡くなっている。鮑叔との友情は終生変わらなかったといわれている。

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# by narutyan9801 | 2016-09-10 03:50 | 妄想(人物) | Comments(0)

宋の襄公 ~「宋襄の仁」に隠された思い?~

 日露戦争初期に日本軍の補給路を攻撃したウラジオストク巡洋艦隊は何度も日本軍の追跡を振り切っていたが1904年8月1日の蔚山沖海戦でついに日本海軍第二艦隊に補足される。この海戦でウラジオストク巡洋艦隊は巡洋艦リューリクが撃沈されロシア、グロモボーイも大破し艦隊としての行動能力を失うことになった。しかし日本海軍としては遁走した二隻の状態をすぐに把握できなかったこともあり戦果としては不満で、特に第二艦隊が追跡をあきらめた後リューリクの救助に向かったことが非難の対象になった。当時連合艦隊作戦参謀であった秋山真之中佐は第二艦隊のリューリク救助の行動を「宋襄の仁」という言葉を使って非難していることが司馬遼太郎著「坂の上の雲」に書かれている。この「宋襄の仁」は敵に対し無用の情けをかけることであるが、別に第二艦隊は戦闘を中止してまでリューリクの救助を行ったわけではない。しかし戦争全体の勝利に全身全霊を傾けていた秋山中佐にとっては腹に据えかねる行動だったのだろう。今回は「宋襄の仁」の古語を残した宋の襄公を考察したい。

 襄公の正確な生年は分かっていないがおそらく前回取り上げた斉の桓公よりも多少年下と思われる。彼は宋公である桓公(斉の桓公とは別の人物)の公子として生まれているが彼には異母兄の公子目夷(のちに子魚と名乗る)が居た。襄公は宋公を継ぐ際に兄に宋公の位を譲ろうとしたが父の桓公の反対を受け断念している。父の死後襄公は兄を宰相に就け政治の補佐役に抜擢している。このことから襄公は序列を重んじる性格だったように思える。

 襄公が宋公に就いた時期は現在の湖南・湖北付近に「楚」が建国し中原諸国を脅かしていた。楚が中原諸国に侵攻してくると当時覇を唱えていた斉の桓公が諸国に会盟を呼びかけ楚を迎撃することが常になっていた。宋も襄公の父の代から会盟に加わっていたが襄公は父の喪中でも会盟に参加するほど積極的であった。
 紀元前643年に斉の桓公が死去すると斉は後継者を巡り内乱状態となってしまう。この混乱に襄公はかって宋に滞在したことがある斉の公子昭を擁立し孝公として即位させ斉の内乱を収めることに成功するのである。この成功から自信を深めたのか四年後宿敵楚王を含めた会盟を執り行い覇者となることを楚王に認めさせている。この行為に兄である宰相目夷は国力が伴わないことであると反対したが襄公は聞き入れなかった。さらにこの年多くの諸侯を集めて会見を執り行おうとしたが、襄公の覇権を内心では認めていなかった楚の成王の意を受けた使者に監禁されてしまうのである。この時は諸侯の取りなして軟禁は解かれ襄公は帰国することができたが、この恥を注ぐべく襄公は楚討伐の準備を進め、この動きを察した楚が先に宋討伐へ動くことになる。
 楚の侵攻を受け襄公は泓水のほとりで楚軍を迎撃、やがて楚軍が現れ泓水を渡り始める。宰相の目夷は楚軍の渡河終了前に攻撃することを進言するが襄公はこの進言を退け楚軍が渡河を終えて陣容を整えた時点で攻撃を命じている。戦いは兵力に勝る楚軍の圧勝に終わり襄公自身も太ももに矢を受け負傷するほどの惨敗であった。
 合戦後襄公はなぜ楚軍の渡河終了前に攻撃を始めなかったのかとの問いに「君子は人が困窮しているときにつけ込んだりはしない」と答えたという。この答えを聞いた目夷は「戦いの道理が分かっていない。戦時と平時では道理が違う」と嘆息したという。

 相手の弱みにつけ込まないと言っているところを見るとおそらく襄公も上陸前後の陣容が整っていない状況で攻撃すれば有利だったことが分かっていたのだろう。それを行えなかったのには襄公の血筋が多少影響しているのではないか?と管理者は思うのである。
 襄公の生国宋は周王朝から封じられた斉、王朝の枠外から建国した楚とは違った成り立ちでできた国である。宋は前王朝である「殷」王朝の血筋(報じられたのは殷の最後の王紂王の子供だが謀反に荷担したため紂王の異母兄が改めて封じられた)を始祖としている。このため周王朝が封じた国とは思想、習慣が相容れないことが多く差別の対象になっていたと思われる節が見受けられる。たとえば北原白秋の詩に山田耕筰が曲を付けた唱歌「待ちぼうけ」。この歌詞は韓非子の旧来の伝承にしがみついている人を批判する説話を元にしているがこの場面は宋の国でのこととされている。他の中原の国からすれば宋は異質な国だったという印象を感じとれる逸話である。
 管理者の想像ではあるが、襄公は覇を唱える以上宋の国の印象を変える必要性を感じていたのではないだろうか?国の印象を変えるために敢えて不利な戦いを挑んでいったように思えるのである。しかしそれでも宋の印象を変えることはできずかえって「宋襄の仁」という異質さを強調される言葉を生んでしまったことは襄公も残念だったろう。

 泓水の戦いの後、晋の公子重耳が宋を訪れている。襄公は敗戦直後ではあったが重耳を手厚くもてなしている。しかし襄公は泓水の戦いで受けた傷が元で重耳の来訪後ほどなく亡くなってしまう。襄公の死後宋は泓水の戦いでの損害も回復せず国力が低下し襄公の死の五年後再び楚の侵攻を受けることになる。この時宋を救ったのが晋に帰国し晋の文公となっていた重耳の救援であった。その後もたびたび宋は楚の侵攻を受けることになるが晋は襄公から受けた恩義を忘れず援軍を送り続けそれは晋が内乱で分裂するまで続くことになる。襄公の思いは後世には伝わらなかったかもしれないが、文公にだけは伝えることができたのかもしれない。

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# by narutyan9801 | 2016-09-09 02:52 | 妄想(人物) | Comments(0)

斉の桓公 ~覇者の人生につきまとったのは棺桶だった~

 マカロニ・ウェスタン映画の傑作「荒野の用心棒」のラストシーン、宿敵ラモンを倒したクリント・イーストウッド演じる流れ者ガンマンのジョーがサン・ミゲルの町を去ってゆく…。銃撃戦後の殺伐とした雰囲気であるがそんな雰囲気をいい意味でぶち壊すのは射殺された男たちの棺桶を作るために身長を測って読み取る棺桶屋の声であった。棺桶はほとんどの人間が人生を終えた際に入る器であるが死者を抱くが故に色々と感情をかき立てる品物でもある。フランスの伝説的な女優サラ・ベルナールは就寝する際には棺桶の中に入って眠っていたと言われるし、江戸時代の演出家四代目鶴屋南北は作中によく棺桶を登場させている。今回は棺桶で覇者となり棺桶に入るのに難渋した覇者、斉の桓公を考察したい。

 桓公を語る前に覇者という言葉を説明しておきたい。我々の世代であれば世紀末覇者拳王を思い出す御仁も多いと思うが覇者とは中国の春秋時代、周王朝下の諸侯に与えられる尊号である。初期は周王朝を夷狄から守った者に対して授けられた称号であったが春秋時代になると国力を背景に他の覇者を周王の元に集め、合議を行う「会盟」を取り仕切った者を「覇者」と呼ぶようになる。斉の桓公は初めて「会盟」を取り仕切った覇者である。

 斉の桓公の生年は詳しく分かっていないがおそらく紀元前710年頃の生まれと思われる。諱は小白、彼には二人の兄がいて長兄が襄公として斉公の位に就くが、この襄公は性格が荒々しく気に入らない人物を次々と殺害したため小白と次兄の公子糾はそれぞれ莒国と魯へ亡命する。やがて襄公は従兄弟の公孫無知に暗殺されるが、公孫無知もまもなく暗殺され斉公の座が空白になってしまう。このため斉の貴族たちは亡命していた二人の後継者のうち早く帰国した方に斉公についてもらうという、いわば斉公の椅子取りゲームを二人にしてもらうことにしたのである。
 
 小白の兄の公子糾は腹心の管仲を小白の帰路に待ち伏せさせ矢で射殺すよう命じ命令通り管仲は小白を射、小白は矢を腹に受けて倒れるのを確認して公子糾へ報告する。しかし小白は幸運にも帯の留め金に矢が当たり無事であった。小白と彼の師である鮑叔はこの状態を利用し護衛の兵を次の宿場で帰国させ、鮑叔牙は棺桶を用意させ小白の棺を一人で運んでいるよう偽装したのである。この策に公子糾はかかり帰国の足取りを緩め、その隙に棺桶に潜んでいた小白は先んじて帰国、斉公の地位に就き桓公と称することとなる。

 斉公に就いた桓公は帰国中の公子糾の一行を待ち伏せして急襲し撃退する。公子糾は魯国に逃げ込んだものの桓公の圧力で魯は公子糾を処刑、管仲は生け捕りにされ斉に連行されることになる。

 桓公は鮑叔牙の功績を評価し宰相の位に就くよう求めるが、鮑叔牙は「公がただ斉の君主だけでよいならば自分でも務まりますが、天下に覇を唱えるならば異才の人物を宰相につけなければなりません」と友人であり罪人として魯から連行されてきた管仲を宰相に推挙するのである。管仲を宰相にするのに桓公はかなり迷いがあったようであるが鮑叔牙の熱心な推挙もあり管仲を宰相に任命することになる。

 管仲を宰相に迎えた斉は政治、経済面の改革を行い国力の増大に成功する。元々斉は太公望呂尚が封じられた国であり他の国から人目置かれた国であった。斉の国力はすでに衰退を見せていた周王朝を凌ぎ諸侯は国家間の諸問題を桓公に裁定してもらうようになる。折しも長江流域では楚が建国され南方から周王朝や諸侯に圧力をかけ始めていた。桓公は諸侯に働きかけ楚を討ち、紀元前651年周王臨席の下諸侯を集め会盟を行い、歴史上初の覇者となったのである。桓公が会盟を行えた大きな理由に約定を違えない姿勢があったと言われている。公子糾をかくまった魯国と斉は国境を接している隣国同士であり魯の始祖は周王朝の始祖武王の甥である伯禽、斉の始祖は武王の軍師太公望とライバル同士、さらに公子をかくまっていたとなると国家間がしっくりするわけもなく桓公の即位後は何度も争っていたが国力は斉の方が上で魯は次第に追い詰められ、土地の割譲による講話を結ぶことになった。しかし講和締結の席上、魯の将軍曹沫が桓公に掴みかかり短剣を突きつけ割譲された土地の返還を求める椿事が起こったのである。その場ではこの条件を呑んだ桓公であるが後になってこの講和を破棄し土地の返還を拒否しようとしたのである。これを諫めたのは管仲であった。彼の考えでは脅しの結果であっても約定を違えない姿勢をとることが諸侯たちへ信頼を与えることにになり結果的に斉に利益をもたらすであろうという読みがあったのである。桓公も熟慮の末管仲の考えが正しいと思い直し土地の返還に応じたのである。この結果が会盟の成功に大いに貢献したと思われる。

 会盟を行った桓公は次第に増長し君子だけが執り行えるという封禅の儀式を行おうとするがこれを諫めたのも管仲であった。桓公と管仲の間は堅い信頼で結ばれていた訳ではなさそうであるが桓公は管仲をその死まで宰相の位に留まらせている。

 紀元前645年に管仲がなくなると桓公を諫める者はいなくなり桓公は放蕩に明け暮れ後継者の選定も曖昧になる。管仲の死から二年後桓公も病に倒れるが国内は後継者争いの混乱に突入してしまい病床の桓公を顧みる者はいなかった。桓公は紀元前643年10月8日に亡くなるが死後67日間も遺体は病床に横たえられたまま放置されたという。納棺後も翌年8月に息子太子昭が斉公に就くまで埋葬されず、ついには蛆虫が棺桶から這い出してきたと言われる。桓公の人生は花開くときも終焉も棺桶に左右された人生といっても過言ではないだろう。
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   斉の桓公。春秋五覇と言われる覇者の中でも晋の文公と並んで上位に置かれることが多い。

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# by narutyan9801 | 2016-09-07 03:36 | 妄想(人物) | Comments(0)