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鼈の独り言(妄想編)

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広南従四位白象 ~位階を賜ったゾウさん~

 日光東照宮、上神庫に二頭の象の彫り物がある。江戸初期の画家狩野探幽が下絵を描き彫られたものとされている。この彫り物の象は生きている象を知っている我々の目から見れば足の爪の形状など違和感があることは事実であるが、描いた狩野探幽自身は象を見たことがなく想像で描いたことを考えると実在の象にかなり近いものと言える。また象の表情は東照宮にたくさん存在する空想上の動物に比べるとどことなくユーモラスな雰囲気を漂わせている(同じ東照宮表門にも象の彫り物があるがこちらは厳めしい表情をしている)。これは「象」という動物が当時の日本人にはまったく馴染みの無い動物ではなくごくわずかの人であるが実際の象を見たり、見た話を聞いた経験があることに関係があるかもしれない。探幽が下絵を描いた半世紀前には同じ狩野派の狩野内膳が実際に目にした象を描いている。こちらは実際の象の姿をかなり忠実に描いておりもしかしたら象の姿が狩野派の中で語り継がれていたかもしれない。内膳が描いた象は安土桃山時代に輸入された象であるが、今回は江戸時代に輸入され長崎から江戸まで歩いて旅をした「広南従四位白象」を考察したい。

 有史以前には日本列島にもナウマン象、マンモスなどの長鼻目(象の仲間)が闊歩していたのだが日本人が歴史を記録できる時代にはすでに絶滅していた。象は居なくなっていたものの化石化した象の骨は「竜骨」として珍重されていて正倉院にはナウマン象の臼歯が五色龍歯という名で二つ奉納されている。海外では象は飼い慣らせば使役動物として有用で特別な訓練を施せば「戦象」として兵器としても取り扱える動物であり人間と象のつながりは他の野生動物に比べれば深かった。中国では殷の首都であった殷墟から飼育されていた象が埋葬された状態で発掘されており馴染みのある動物だったと思われる。そして遣唐使などで中国を訪れた日本人の中にも象を見た人物は存在したろう。こうした人々からの伝聞で日本でも象がどのような動物か漠然とながら知られていたようである。12~13世紀の「鳥獣人物戯画」には象と思われる動物が登場している。

 日本に生きた象が持ち込まれた最も古い記録は応永十五年(1408年)東南アジアからの献上品と思われる。当時は足利幕府四代将軍足利義持の時代であった。義持は父義満の政策を支持しておらずこの贈り物も父への贈り物と受け取ったようでありほどなく朝鮮へ贈ってしまったと記録されている。
 戦国時代から安土桃山時代にかけてはヨーロッパのポルトガル、スペインとの直接貿易が始まりまた中央政府の監督が行き届かなくなり地方の有力者が貿易を自由に行えたため数度象が来日している。慶長年間には二度象が日本に送られており狩野内膳が描いた象はこの二例のどちらかの象を描いたものであろう。
 その後江戸幕府は鎖国政策を取り海外の品物は輸入が規制されてしまう。この規制が緩むのは八代将軍徳川吉宗の時代である。吉宗は様々な政策を行っているがその中に洋書の輸入解禁がある。キリスト教関連以外の書物の輸入を許可したがただ単に本を輸入していいとって言っても庶民にまでその意図は伝わらないだろう。それならば海外の文物を持ち込み海外に庶民が興味を持つようにするのがいい。この際インパクトがあって入手も現実的な象がいいんじゃないだろうか?と吉宗が考えたか、はたまた単に象が見てみたいと思ったかどうか?詳しい心情は分からないが将軍の直接注文の形でベトナムに象を注文しているのである。

 注文された象は雌雄二頭で中国人貿易商の手配で享保十三年(1728年)六月に長崎に到着、雌象は長崎到着から三ヶ月後に死んでしまうが雄象は無事に冬を越し翌年3月、江戸へ向けて出発することになる。通訳、象使い、随行の役人など14名とハンニバルの長征に比べるとだいぶん規模が小さいが間違いなく前代未聞の旅出であった。
 当初象を江戸に送るには海路での輸送も検討されていた。しかし幕府の禁令により大型船の建造が禁止されており輸送に適した大型船が無いことと遭難の可能性からより安全な陸路を取ることになったと言われる。一行が翌日通るであろうルート沿いは犬猫を外に出さず、号令や鐘など敏感な象を刺激する音を出さないよう、餌と水の準備(成獣の象は一日150リットルの水が必要である)、沿道沿いには縄を張り道路や橋の補強等々、これが地元の負担で行われたのである。とんだインフラ整備を強いられたものであるが異国の珍獣が通るというだけで当時の人々は文句も言わず従ったのである。小倉では藩主小笠原忠基が見物に訪れるなど当時の人々も興味津々で象を見たことだろう。
 関門海峡は石を運ぶ船に乗せられて渡り西国街道を進んだ一行は4月20日に大阪に到着する。ここで思わぬ話が一行に飛び込む、時の天皇中御門天皇が象を見たいといったというのである。象の一行が江戸へ下るというのは朝廷内でも話題持ちきりだったのか、それとも中御門天皇の祖父である霊元上皇が歌会にでも出て噂を仕入れてきたか、中御門天皇に象の噂が伝わり是非とも見てみたいと希望を伝えてきたのである。御所に出入りするには位階が必要である。しかし天皇自らが見物に出るとなれば「行幸」という大げさな話になる。おそらく朝廷の武家伝奏と京都所司代は協議を行ったであろうが江戸幕府成立時や幕末のやりとりに比べれば平和な話し合いだったろう。結局象は「広南従四位白象」という立派な名前と従四位という位を賜ることになる。ちなみに従四位という位、日露戦争で日本海軍の作戦を立案した秋山真之が死後贈られた位でありかなり高い位である。
 4月26日に「広南従四位白象」は御所にて中御門天皇、霊元上皇に拝謁。このとき象は象遣いが背に乗るときに調教された前足を折って体を低くする姿勢を見せたらしい。これを見た中御門天皇は象にも拝跪の礼があるのかと感銘し次の歌を詠んだという

 時しあれは 人の国なるけたものも けふ九重に みるがうれしさ
 
 この時中御門天皇は29歳。和歌や書道、笛を嗜む天皇は象よりも早くこの六年後に崩御している。

 京都を発した一行は東海道を江戸へ向かう。東海道は桑名から熱田までは海路なので象一行は長良川と木曽川を馬を運ぶ船をつなぎ合わせて三里の渡しと呼ばれた渡し船のルートを通って渡り佐屋街道を通って熱田に至っている。橋の整備が進んでいない天竜川や大井川は泳いで渡り武田氏と徳川氏の間で激戦が行われた三方ヶ原を通過するなど一行は東海道を東へ進むが象は疲労が蓄積していたらしい。浜名湖を北に迂回する本坂道の登り道では急勾配に象が悲鳴をあげ後にこの坂は地元の人々に「象鳴きの坂」と名付けられたという。そして「天下の険」箱根でついに象は疲労のため寝込んでしまうのである。箱根の関所を目の前にして倒れた象に近隣から象の好物が送られ近隣の寺院では病気平癒の加持祈祷が行われたと言われる。この甲斐あってか3日後に象は回復、無事に箱根の関所を超える。そして長崎を出発して二ヶ月半、ようやく江戸城に到着、将軍の上覧をうけることになる。
 上覧を終えた象は浜離宮で飼育されることになり江戸城への登城の際には見物人が鈴なりになったと言われ、瓦版や象の玩具など現代で言うところの「メディア展開」に発展する。この状況をみると江戸時代の人々も現代とあまり変わらない感性をもっていたのだなと感じざるをえない。
 しかし広南従四位白象のブームは長く続かなかった。吉宗は数回象を見ただけで満足してしまい江戸城に登城することはなくなってしまう。そして象にとって不幸なのは象使いが帰国してしまったのか居なくなってしまったことであった。象は引き続き浜離宮で飼育されることになったが象に不慣れな日本人飼育係では世話が行き届かず象にはストレスが溜まってゆく。また象の飼育には莫大な費用が必要であった。倹約を奨励している吉宗政権下では象飼育はお荷物扱いであったろう。そうしているうちに象が飼育員を攻撃し殺してしまうという事件が起こる。厄介者となっていた象は中野村の源助という人物に払い下げられたが寛保二年(1741年)冬に死んでしまったという。推定の年齢は21歳、象の寿命は60年前後と言われるので早死にといっていい最後であった。死亡した象の象牙と皮は幕府に献上され中野宝仙寺に納められた。宝仙寺では宝物として大事に保管していたが昭和二十年五月二十五日の空襲で大部分が消失。現在鼻の皮膚の一部のみが伝えられているという。


 広南従四位白象が江戸城へ登城した際、御用絵師であった四代狩野栄川古信が象を描いている。想像で描いた同派の狩野探幽と違いモデルを見つつ描いた象はさすがに精緻に描かれている。この作品は現在東京国立博物館に収納されており広南従四位白象の姿を現代の我々に伝えているのである。

by narutyan9801 | 2018-01-14 01:24 | 妄想(生物)