「水魚の交わり」という言葉がある。三国志で諸葛亮を迎え日ごとに親密になる劉備に不安を覚えた劉備の義兄弟関羽・張飛が劉備に不満を述べた際に劉備が口にした言葉が元になっていると言われている。中国において魚は多産の故男性の隠語として用いられることが多く、水と魚の仲は男女の仲であり、自分と義兄弟の仲には何も問題ないというのが水魚の交わりと言う言葉の持つ本当の意味であるが次第に意味合いが変化し現在では主従の親密さを表す言葉の意味も持っている。しかし人間の間柄というものは面白いもので主従の間が親密ではなくても大きな功績を残せる場合も多い。今回は以前取り上げた「斉の桓公」を覇者にした人物、管仲を考察したい。
管仲は滁州(現在の安徽省滁州市)の出身、生年は詳しくは分かっていないが桓公より若干年上と思われる。生家は貧しかったが学問に秀でていた。若い頃に鮑叔と知り合い親密な仲となってゆく。後に管仲自身が述懐したところによると人生様々な岐路で鮑叔は管仲の為を思い管仲を立てることを第一に考えてくれた。鮑叔は自分の父母以上に私のことを理解してくれていたと語っている。やがて二人は斉に入り管仲は公子小白(後の桓公)鮑叔は公子糾に仕えることになるが二人の友情は変わらなかった。
二人の公子と管仲・鮑叔の斉公を巡ってのいきさつは「斉の桓公」で述べた通りである。しかし鮑叔の取りなしで管仲を宰相に抜擢した桓公ではあったが管仲に対しては含むところがあったように見受ける。
桓公の逸話にこのような話がある。
{桓公が家臣から詰問を受けると常に「それは管仲に聞け」と答えるので、ある家臣(宮中に侍らせた道化とも言われる)が「君主は楽ですね。すべて管仲任せで済むんですから」というと桓公は「あいつを宰相にするまでは苦労したのだから宰相にしたあとは楽をしてもいいだろう」と答えたという}
聴きようによっては管仲に信頼を置いているようにもとらえ得るがどうも桓公と管仲の間にはしこりが最後まで残っていたように思える。桓公にとってみれば管仲は一度は自分を殺そうとした人物でありやはり「水魚の交わり」という訳にはいかず、それを管仲も感じ取っていたのではないだろうか?後年周王が管仲の功績を称え上卿に迎えようとしたが管仲が固持したのももしかしたら桓公との間を考えてのことかもしれない。
しかし「水魚の交わり」というものにも弊害がある。劉備と諸葛亮の間でも国家戦略に背く劉備の私怨ともいえる夷陵の戦いを諸葛亮は防止することはできなかった。個人的な親密さは国家運営という点では弊害も生じる可能性があるのである。
管仲が宰相に抜擢され最初に託された仕事は内政改革を断行することにあった。斉は始祖である太公望呂尚が封じられた際には民心を安定させることを優先し国内政策はかなり旧来のやり方を取り入れていたのである。塩の専売法など優れた点もあったが国内産業は伸び悩んでおり内乱での混乱がそれに拍車をかけていた状況であった。管仲は斉の国内の行政区を21に分割しその土地土地にあった産業の育成に取り組むよう行政整備を行う。併せて法の整備、賞罰の厳格化、住民の相互監視など厳しい統治も行っている。この改革が平和が保たれていた状態で断行されていたら怨嗟の声も上がったろうが混乱した斉にはこうした劇薬での治療が最も効果的だった。この改革で急速に国力を回復した斉は国内が安定すると積極的な外交活動を行う。鮑叔が言ったとおり管仲でなければなし得なかったことであったろう。しかし桓公はしばしば他の諸侯や周王朝をないがしろにした行動をとろうとする悪い癖があった。そんなとき管仲の意識は桓公その人よりも斉の国益の方に常に向けられており心証が悪くなるような讒言も時には厭わなかった。そして桓公も多少は疎ましく思いながらも管仲の讒言に正当性を見いだして従っていたのではないだろうか。私的な好意を加えないからこそ桓公と管仲は覇道の道を歩めたのだと個人的には考えている。
宰相として桓公を補佐して約四十年、管仲は紀元前645年に亡くなっている。鮑叔との友情は終生変わらなかったといわれている。