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鼈の独り言(妄想編)

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嶋清一 ~海防艦と運命を共にした天才投手~

 いわゆる「甲子園大会(高校野球全国大会)」でノーヒットノーランが記録されると大きな話題となる。過去選抜高等学校野球大会では12回(完全試合2試合を含む)、全国高等学校野球選手権大会では23回達成されておりその中でノーヒットノーランを複数回達成した選手が一人だけ存在する。今回は現在まで甲子園大会でノーヒットノーランを二回達成した投手、嶋清一を考察したい。

 嶋清一は1920年(大正九年)に和歌山県生まれ。幼い頃父親から同県出身で甲子園で活躍した小川正太郎の話を聞かされ野球に興味を持ったと言われている。小学校時代から地元の少年野球チームに所属していた嶋は海草中学校に進学すると一年生ながら一塁手として第21回中等学校優勝野球大会(現在の夏の甲子園)に出場する。この時は初戦でこの大会の優勝校松山商と対戦して3対0で敗れている。この大会後監督の指導で嶋は投手にコンバートし以後海草中学校のエースとして活躍することとなる。

 その後も嶋の所属する海草中学校は何度も甲子園に出場しているが、ベスト4が最高であった。ところが嶋にとって最後の甲子園となる第25回全国中等学校優勝野球大会で嶋は前人未到の快投を見せるのである。
 1回戦の対嘉義中戦は5-0、二回戦の対京都商戦が5-0、準々決勝の対米子中戦が3-0、準決勝の対島田商戦が8-0(ノーヒットノーラン)決勝の下関商戦が5-0(ノーヒットノーラン)と五試合すべてに先発し完投、全て完封で内二試合がノーヒットノーランという快挙であった。試合中相手の応援席から「これではとりつく『シマ』がない」という自虐的な駄洒落が漏れ、「海草の嶋か、嶋の海草か」という賛美の言葉がはやったという。大会前から嶋は高い評価を得ていたのだが肝心なところでコントロールを乱すメンタル面の弱点も指摘されていた。メンタル面に関しては後年様々な要因が指摘されているが、それを払しょくできたのは周囲の変化も大きかったが嶋本人の努力も大きかったと思われる。ちなみに嶋は通算6回甲子園に出場しているが、これは当時の中等学校が五年制であったためで規則上最高九回甲子園出場も可能であった。
 嶋の打ち立てた記録のうち、五試合連続完封と45イニング連続無失点は戦後第30回大会で福嶋一雄が達成する。また決勝でのノーヒットノーラン達成は59年後の第80回大会で松坂大輔が達成するが、現在(2014年)でも個人の複数ノーヒットノーラン及び同一大会での複数のノーヒットノーランを達成した人物は嶋ただ一人である。

 海草中学校卒業後嶋は明治大学に進学し野球部に所属するが、野球部の雰囲気に馴染めなかったのか嶋の成績は海草中学時代に比べると見劣りするような状態になる。一時期大学を中退してプロ野球への転身を図るが周囲の説得により断念している。嶋本人はジャーナリストに興味を持ち朝日新聞の記者になりたいという夢を持っていたと伝わるが、その夢は戦争によって潰えてしまう。

 1944年の学徒出陣により嶋も海軍に応召、44年暮れに竣工した「第84号海防艦」乗り組みを命ぜられ南方に出陣、日本への最後の輸送船団となるヒ88J船団を護衛する任務に参加することになる。
 太平洋戦争の戦局はすでにフィリピンを奪還され南シナ海の制空・制海権も連合国側が掌握する状況になっていた。1945年2月の「北号作戦」で航空戦艦二隻を含む戦闘部隊が辛くも日本本土に帰還するが、この作戦の成功を受け南方に残存する稼働輸送船をかき集めて日本に帰還させる作戦が計画された。しかし速力の遅い輸送船が日本本土にたどり着くことはほぼ絶望的といってよく、無謀な作戦であったことは否めない。

 1945年(昭和二十年)3月19日にシンガポールを出港した船団は途中被害を受けつつも北上を続けていたが、3月29日未明にベトナム東方で第84号海防艦は米潜水艦「ハンマーヘッド」の雷撃を受けてしまう。魚雷命中直後に搭載してた爆雷が誘爆し瞬時に轟沈した言われ、嶋を含む乗員全員が戦死している。嶋清一この24歳。応召直前に恋愛結婚をした新妻を残しての戦死であった。

 嶋の記録は半ば忘れられた状況が続いたが、第80回大会の松坂大輔のノーヒットノーランがきっかけで再認知されるようになる。2008年に野球殿堂入り。その年の第90回全国高等学校野球選手権大会(記念大会)に表彰式が行われ、若くして戦死した天才投手が偲ばれている。

嶋清一―戦火に散った伝説の左腕

山本 暢俊/彩流社

嶋清一の真実―松坂大輔をしのぐ伝説左腕の軌跡

富永 俊治/アルマット




by narutyan9801 | 2014-09-26 00:02 | 妄想(人物)