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鼈の独り言(妄想編)

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石丸進一 ~神風特別攻撃隊で散ったプロ野球選手~

 太平洋戦争中にいわゆる「特別攻撃隊」での戦死者は二千五百人を超えると言われている。戦死者のうち三割以上の人が「予備士官」と呼ばれる学徒出陣の士官たちであった。学業を断念して操縦桿を握りしめ、大空に散っていった約600名の中に元プロ野球選手の姿があった。今回は特攻に散ったプロ野球選手、石丸進一を考察したい。 

 石丸進一は1922年(大正十一年)佐賀県に生まれている。兄の影響を受け石丸は野球に打ち込む少年時代を過ごすが甲子園への出場はできなかった。石丸の実兄藤吉は名古屋軍に所属するプロ野球選手で石丸は出征先の兄にプロ野球選手への思いを血判を押して綴って送り、それを見た藤吉の推薦によりプロ野球名古屋軍に入団することになる。名古屋軍は石丸を兄藤吉の代わりとして内野手で起用、藤吉の復帰後も内野手としてプレーしていたが、藤吉の戦地帰りの影響からか連係プレーの息が合わず、グラウンド外では仲のいいこの兄弟が試合中に限っては喧嘩が絶えなかったといわれている。 

 連携の影響があったのか石丸は二年目には本来のポジションである投手としてプレーすることになる。一年目のシーズンは17勝19敗と負けが先行する内容だったが、当時の名古屋軍の全勝利数が39勝であったことを考えると立派にエースといえる働きをしていたと言えるのではないだろうか。翌1943年(昭和十八年)にはノーヒットノーランを記録、これは終戦前最後のノーヒットノーランとなる記録であった。10月7日の試合で石丸は4回を無失点に抑え降板、これが石丸のプロ野球選手最後の試合となる。

 すでに太平洋戦争の激化でプロ野球選手といえども召集は避けられず、たとえ戦地から帰還しても戦地での生活はプロ野球を続けられないほどに消耗してしまう現状から名古屋軍は石丸の召集を避けようとある奇策を採用する。それは石丸を大学生(日本大学法科夜間部)へ在籍させることであった。当時大学生には兵役が免除されており石丸が戦地に送られることは一旦は回避されたのである。

 しかし1944年からの学徒出陣により石丸も召集。予備士官となった石丸は海軍飛行科を希望する。その先に待つものは「特攻」であった。厳しい訓練中石丸はよく「鉄拳制裁」を喰らっていたという。これは「元プロ野球選手」だったという目につく存在だったからかもしれない。石丸はこの仕打ちに耐えていたが訓練の最中に行われた野球の試合で投手を務めた石丸は上官チームに対し本気の勝負を行い全く打たせなかったという。

 1945年いよいよ石丸にも特攻の前進基地である鹿屋に移動する命令が下る。石丸は出陣に際しての寄せ書きに「葉隠武士 敢闘精神」としたためたたあと「日本野球は」と書いている。寄せ書きを頼んだ同僚が「この期に及んでもまだ野球か!」と告げると石丸は「俺には野球しかないんじゃ!」と言い残して鹿屋に出発していった。
 5月11日、出撃の直前法政大学野球部に所属し、同じく特攻隊員となっていた本田耕一を相手にキャッチボールを行い、10球を投げ終えるとグラブを捨て笑顔で機上の人となり南に飛び立って行ったという。この日沖縄では航空母艦バンガーヒルが特攻機2機の命中を受け大破炎上した他複数の特攻機の突入が確認されているが、石丸の最後は定かではない。

 日本プロ野球選手のうち、特攻で戦死したのは石丸進一ただ一人である。

消えた春―特攻に散った投手石丸進一 (河出文庫)

牛島 秀彦/河出書房新社


戦場に散った野球人たち

早坂 隆/文藝春秋




by narutyan9801 | 2014-09-25 00:17