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鼈の独り言(妄想編)

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沢村栄治 ~南海に消えた不世出の大投手~

 この項を書いているのは九月下旬、そろそろプロ野球のペナントレースの結果も見えてきて興味は個人タイトルの結果に移ってきている。そして実際にはタイトルとは関係がないが「沢村賞」を誰が取るか(はたまた該当者なしになるか)も大きな関心事である。今回は「沢村賞」の由来となった沢村栄治を考察したい。

 沢村栄治は1917年(大正六年)三重県で生まれている。京都商業学校(現在の京都学園高等学校)在籍中に全国中等学校野球大会(現在の甲子園大会)に出場し活躍を見せる。沢村は京都商業学校卒業後慶應義塾大学への進学の話がほぼまとまっていたが日本プロ野球の設立を計画していた読売新聞社が獲得に動き沢村は京都商業学校を中退、1934年(昭和九年)にメジャーリーグ選抜選手を招いて開催された日米野球では五試合に先発登板する。浜松で行われた試合ではルー・ゲーリックのホームランによる失点1に抑える好投を見せるが、それ以外の4試合では撃ち込まれてしまっている。ともあれ日米野球の開催により日本でも職業野球チーム結成の機運が高まり12月には「大日本東京野球倶楽部(のちの読売ジャイアンツ)」が結成され、沢村は主力投手として所属することになる。

 職業野球チームは結成されたものの日本にはプロ野球経営のノウハウもなく、さらなる問題として対戦チームが存在しなかった。そこで東京巨人軍はアメリカへ武者修行の遠征を行う。沢村は主力投手として活躍、そのピッチングに注目があつまりサインをせがまれるようになる。遠征も終盤に差し掛かったある日、試合前の練習中外野席から場内に飛び降りてサインをせがんだ男に沢村は何気なしにサインをしてしまう。ところが試合後その男が巨人軍のベンチにやってきて沢村のサイン入りの書類を見せ「沢村はいつ引き渡してもらえるのか?」と詰め寄ってきたのである。けっきょくこの椿事は巨人軍はアメリカの野球団体に加入していないのでサインは無効ということで決着したが、それ以降沢村はこの種の事件に巻き込まれないため(この事件は新聞に掲載され話題となっていた)サインには当時の有名女優の名前「田中絹代」を漢字は分からないだろうということで書いていたという。また酔っ払いに絡まれてサインをした際には「馬鹿野郎」とサインしたという話もある。

 翌年から開催された日本プロ野球リーグで沢村はジャイアンツのエースとして君臨、1937年までの4期(当時は年二リーグ制)で47勝、二度のノーヒットノーランを記録し日本プロ野球の絶対的エースとなるのである。

 しかし沢村にも戦争の影が忍び寄る。1938年に沢村は陸軍に徴兵される。プロ野球選手として鍛えられた肩は模擬の手榴弾を投げさせると演習場敷地の柵を越えて飛んでいったという伝説が伝わるがそれは投手生命である肩を酷使させざるを得ない状況に立たされるということであった。当時の日本軍には砲兵の火器支援が少なく、敵の防御抵抗線に対するもっとも有効な攻撃手段は手榴弾の投擲であった。より遠くに手榴弾を投げ込める人間が居れば投擲は任せたほうが部隊全体の安全に繋がるだろう。しかし当時の九七式手榴弾の重量は455g、硬式ボールの重量は約148g。三倍近い重量の手榴弾を投げ続ければ肩が壊れてしまうことは明白である。さらに沢村は徐州会戦で左腕を負傷、さらにマラリアに感染するなど満身創痍となってしまう。兵役満了で除隊した沢村はもう全力で投げられない状態であった。

 それでも沢村は投球ホームをオーバースローからサイドスローへ変化させ、コントロールを重視する技巧派のピッチャーとしてマウンドに帰ってきた。復帰後の1940年の勝率は0.875でこれは沢村のリーグ勝率としては最高の値である。さらに三度目のノーヒットノーランも達成している。

 しかし1941年に沢村は二度目の徴兵をうけ出征、フィリピン攻略戦に参加する。満期で除隊しジャイアンツに復帰するが、すでにピッチングが不可能なほど体は擦り減ってしまっていた。サイドスローからアンダースローへ再度フォームを変更するが制球は定まらず出場は試合途中の代打出場が主なものになる。沢村の現役最後の出場は1943年(昭和18年)10月24日の阪神戦の代打出場であった。

 戦局の悪化にも関わらず日本プロ野球は1944年(昭和十九年)も開催されることになったが、そのシーズン前に沢村は巨人から解雇される。本人は移籍も考えたが周囲の「巨人で終わるべきだ」の説得に現役を引退することを決意したといわれている。この時沢村27歳、戦争に削り取られてしまった選手生命と言えるだろう。

 現役を引退した沢村に三度目の召集令状が届いたのは昭和十九年十月のことである。第十六師団に配属された沢村はフィリピンに向かうがその途中で乗船した輸送船が12月2日に潜水艦に撃沈され戦死したとされる。享年27歳。
 沢村の死ははっきりしないところがある。沢村の所属は第十六師団であるがすでに師団はフィリピンに上陸しており沢村は充当で師団を追ったものであると推察される。12月2日にフィリピン近海で撃沈された輸送船は安芸川丸とはわい丸があるがそのどちらに沢村が乗っていたのかは分かっていない。日本野球史上に名を遺した大投手が最後を迎えた輸送船は特定できないのである。

 戦後、戦死した沢村の功績を称えジャイアンツは沢村の背番号「14」を永久欠番とする。これが日本プロ野球最初の永久欠番である。同年野球雑誌が私的に制定した「沢村賞(沢村栄治賞)」が現在も戦争に散った大投手の名を現在にも伝えているのである。

終戦のラストゲーム―戦時下のプロ野球を追って

広畑 成志/本の泉社



by narutyan9801 | 2014-09-23 00:39 | 妄想(人物)