鼈の独り言(妄想編)

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大田正一 ~人知れず戦後を生きた特攻兵器「桜花」の発案者~

 人によって強弱の差はあるが、自らの死後自分の評価を気にするものである。例を挙げてみるとダイナマイトの発明者、アルフレッド・ノーベルは自分が発明したダイナマイトが戦争に使用されることに悩み、ダイナマイトその他の爆薬で築いた財産を有価証券に投資しその利子を人類の発展に貢献した人物に分配することを遺言しいわゆるノーベル賞を設立する。この遺言を起草する動機になったのは実の兄が亡くなった際ノーベルが亡くなったと取り違えた新聞が「死の商人ノーベル死す」と記事にし、自らの死後自分がどのように語られるかを考えた末の答えだったという。自分の死後の評価を気にするあまり時として人は「失踪」という選択肢をとってしまうことがある。今回は「失踪」という形で自分の行ったことの評価を消そうとした人物、特攻兵器「桜花」の発案者、「大田正一特務少尉」を考察したい。

 大田は大正元年(1912年)山口県の生まれで昭和三年(1928年)海軍に志願、通信兵を志しやがて攻撃機の偵察員(通信兼任)となり昭和一五年(1940年)に予備役編入、即日召集となり太平洋戦争時は輸送機の機長(偵察員兼任)を勤め、昭和一九年五月には第1081海軍航空隊に所属していた。太田が特攻兵器と関わりを深めるのは1081航空隊発足直後からである。大田は陸軍で開発中の爆撃機に牽引され目標へ投下、誘導され突入する有翼爆弾の構想を耳にする。この兵器の難点は確実な誘導装置がないことであると耳にした大田は「人が搭乗し操縦を行い突入する」という案を1081航空隊司令に発案し、航空技術廠への仲介を依頼する。
 航空技術廠では搭乗する人間はいないという意見が大半であったが、大田は「自分が乗ってゆく」と発言したためについに採用になったと言われている。当時ドイツでは報復兵器フィーゼラーFi103(V-1号)が実用段階に達していたが誘導方法に問題があり有人誘導を行う案が検討されていた(搭乗員は突入直前に脱出する事になっていたが計画は中止になる)この研究は日本にも情報として伝わっており有人爆弾の研究はある程度は進んでいたと思われる。ただ最終的に「人間が乗ったまま突入」という兵器を開発することに躊躇いがあり、それの後押しに大田が一役買ったというところではなかったろうか。

 実際に兵器を運用する責任がある軍令部でも人が乗ったまま突入する兵器への承認は中々出なかったが、大田は自らが所属する1081航空隊の隊員の署名を集め、ついに軍令部も折れ、有人爆弾は軍から正式に開発許可が降りることになった。

 しかし海軍中央を動かせたことに大田は慢心になっていたようで、有人爆弾の具体案を航空本部2課長の伊東祐満中佐が持って行ったところ、大田は「また新しい発明を考えて持って行きます」と言い放ち伊東中佐を鼻白ませている。
 1944年10月1日に桜花専門部隊である第721航空隊(神雷部隊)設立、大田もこの部隊に所属する。翌1945年3月21日に初の実戦投入がされるが、護衛戦闘機の不足、母機の能力不足により出撃した一式陸攻18機がすべて未帰還となり戦果は全くないという惨敗を喫することになる。その後も桜花は散発的に出撃するが、米機動部隊中枢までたどり着くことは困難で、機動部隊前面に展開するレーダーピケット艦に体当たりするのが精一杯という状況であり体当たりしても装甲の薄い駆逐艦では貫通してしまってから信管が作動してしまうということが続き結局桜花が上げた戦果は駆逐艦一隻沈没という状況であった。あまりの戦果に日本海軍も7月以降桜花の出撃を見合わせることになる。

 この頃大田は新聞の取材に応じ「将兵の命など考えるべき時期ではない」と発言したり海軍の方々を回って桜花での攻撃再開を訴えたが、大田の話に耳を傾けるものはすでにいなかった。さらに自ら桜花隊員になるべく偵察員から搭乗員へ異例の配置転換を認めてもらったが搭乗員となるには「能力不足」の判定が下され、仮に桜花攻撃が再開されたとしても自らの出撃はかなわない状況になったのである。

 やがて8月15日の終戦を迎えると大田は精神不安定となり隊内で軟禁状態とされる。戦時中の態度から同僚に報復を受けるのではないかと感じていた、または自分の発案した桜花で犠牲者が出た連合軍が「戦犯」として処刑するのではないか?と不安になったと言われている。大田は軟禁から隙を見て脱出、零式練習戦闘機に乗り込みそのまま飛去ってしまう。机に遺書めいた走り書きを残しておりそのまま海に突入、死亡したとして殉職扱いとなり大尉に昇進し、大田の軍歴はここで終わっている。

 ところが大田は死にきれず、戦後の混乱期知り合いを訪ね無心を行ったことが分かり、生存していることが確認されたのである。その後の調査で大田は変名で戸籍を取得、家庭を持ち1994年に亡くなったことが分かっている。

 大田の生涯を考えるのは非常に難しい面がある。大田の存在は桜花の開発のキーパーソンになったことは間違いないが、大田の発案前に有人爆弾の構想はかなりまとまっており、大田が居なくても実用化された可能性は大いにある。下士官上がりの将校をわざわざ「特務」という冠詞を付けて差別していた日本海軍が一特務士官の進言で兵器を開発したといのは通常では考えられず、大田の存在が無くても「桜花」は正式採用されていたのではないだろうか。
 大田に非があるとすれば自分の発言で特攻兵器が正式採用になったという慢心や、どこか人事のように構えてしまっていた点だろう。よく比較されるところだが同じ特攻専門兵器「回天」の発案者仁科関夫中尉は回天の初回攻撃に同じ発案者で訓練中殉職した黒木大尉の遺骨とともに搭乗し戦死している。単純な比較はできないが、やはり大田の態度には不遜な面もあったといえるのではないだろうか?

 それだけに太田の戦後には非常に興味があるところであるが、大田が自ら本名を名乗ったのは死の直前、入院した病院の看護婦であったといい、戦後の大田の心情を知るものは家族を含めて居ないと言われている。桜花の発案者の戦後は、過去をすべて捨て去っての新たな人生だったか?はたまた贖罪の人生だったか?それを知るのはおそらく大田その人のみであろう。

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 沖縄、読谷飛行場で米軍に鹵獲され調査を受ける「桜花」米軍は桜花の非人道性を嫌い「BAKA-BOMB」(馬鹿爆弾)と蔑みを込めて呼んでいた。
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by narutyan9801 | 2013-09-25 09:37 | 妄想(人物) | Comments(0)