鼈の独り言(妄想編)

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紫雲丸 ~次々と起こる事故は名前が由来だったのだろうか?~

 言葉には本来の意味とは異なる別の意味を持たせる「隠語」という使用方法がある。この「隠語」はたいてい直接表現すると色々と不都合が起こるため別の言葉で柔らかく表現することを目的とするか、特定の人物、集団に理解されるような使い方をする。時として「隠語」は発生した事象への原因や結果への相乗として用いられることがある。「ジンクス」や「運・不運」に結びつけられたりして用いられる「隠語」は数多い。今回は度々事故を起こし、名前が事故の原因ではないかと言われ続けた船「紫雲丸」を考察したい。

 紫雲丸が航行していたのは現在の岡山県玉野市と香川県高松市間を航行していた宇高連絡船である。宇高連絡船は旧国鉄の宇治駅と高松駅とを接続する鉄道連絡船であった。戦前より宇高連絡船は輸送量の増大への対応を進めていたが太平洋戦争勃発により計画は中断、昭和一七年(1942年)に九州ー本州を結ぶ関門トンネルの開通により余剰となった関門連絡船を転属させて応急的な対応をするに留まっていた。
 戦後も更なる輸送量の増大が見込まれ、また本格的な鉄道車両の船舶輸送を行うため新造の連絡船建造の機運が高まり、これに応える形で建造されたのが「紫雲丸型」三隻で紫雲丸はそのネームシップに当たる。

 紫雲丸はほぼ同時期に建造されていた青函連絡船「洞爺丸型」と似たような外見を持ち、船尾から車両を積み降ろしを行うため大きな扉を設けていた。ただ大きさは洞爺丸の半分以下である。当時の燃料事情からボイラーは石炭を燃料とするものが搭載されており、新造時には監視用レーダーは搭載されていなかったが当時としてはまず標準的な装備を備えた客船であった。

 しかし紫雲丸は建造当初から「縁起が悪い」という噂が出ていた曰く付きの船であった。名前は高松市にある「紫雲山」から命名したのであるが「紫雲」は臨終の際仏が死者の魂を迎えるために乗ってくる雲の名前であり、また「しうん」という読みは「死運」に通じるものである。そして紫雲丸は竣工後次々に事故を起こすのである。

 1度目の事故
 昭和二五年(1950年)3月25日、姉妹船の「鷲羽丸」と衝突して沈没、死者7人を出す。船体は引き上げられ修理、再就役。

 2度目の事故
 昭和二六年(1951年)高松港内で「第二ゆず丸」と衝突、事故後に監視レーダーを装備。

 3度目の事故
 昭和二七年(1952年)高松港内で護岸捨て石に衝突、この後安定性を高めるためジャイロコンパスを装備。

 4度目の事故
 昭和二七年高松港内で「福浦丸」と接触

と3年間で4度の事故を起こしており、一度は沈没しているというのはやはり尋常ではない。そして5度目の事故となったのが、国鉄戦後五大事故の一つと言われる「紫雲丸事故」である。

 昭和三〇年(1955年)5月11日早朝、紫雲丸は高松港を出航しようとしていた。当時瀬戸内海には濃霧警報が出ていて視界は50m以下の場所もあるという予報が出ていたが紫雲丸船長はブリッジから前方500m程度の視界があることを確認し午前6時40分に出航、宇野港へ向けて航行を始めた。その30分前には衝突の相手側になる「第三宇高丸」が宇野港を出航している。
 「第三宇高丸」はその後濃霧警報に伴いレーダー使用・霧中信号の発信を開始、午前6時51分船首方向2500m先にレーダーの反応を確認している。第三宇高丸は衝突を回避するべく転舵し、そのまま通り過ぎようとしたが、6時56分頃紫雲丸が突然舵を切り接近したため機関停止、左舷に舵を切ったが間に合わず、紫雲丸の右舷船尾付近に第三宇高丸の船首が突っ込む形で衝突してしまう。

 紫雲丸が衝突した箇所は機関室で紫雲丸側の動力は衝突と同時に失われ、電気も止まってしまう。照明の消えた紫雲丸船内では真っ暗の中乗組員が水密扉を手動で閉めようとしたが作業は不可能で、紫雲丸船内はあっという間に浸水が広がってしまう。
 衝突した第三宇高丸の船長は衝突回避のため一旦は機関停止を指示したが衝突後船体が離れてしまうと紫雲丸が急速に浸水、転覆するとの判断で全速力での直進を指示、その間に接触している部分から紫雲丸乗客が第三宇高丸に乗り移るのを助けるなど救助作業を行っている。
 
 紫雲丸の乗客には多数の児童が含まれていた。この日の紫雲丸には小学校3校中学校1校の児童が乗船していたのである。愛媛県から中国方面への修学旅行に出かける小学校が一行、その他は中国地方から四国地方への修学旅行へ出かけ、帰る学校であった。事故後照明が点かず傾斜のため船内から多くの生徒が脱出できず取り残されてしまう。一旦第三宇高丸に待避したものの生徒の救助に紫雲丸に戻ってしまった先生やおみやげを持ってゆこうとして逃げ遅れた生徒もいたという目撃談もある。
 紫雲丸船長は一度ブリッジから離れ衝突箇所を確認した後ブリッジに戻ってくる。途中すれ違った船員に「やった…」と一言伝えた後ブリッジから動こうとしなかった。

 衝突から6分後の午前7時2分、双方の船員の努力も実らず紫雲丸は沈没する。犠牲者は紫雲丸の乗員が船長以下2名、乗客が166名の計168名に上った。特に修学旅行中の児童の犠牲者は100人に達し、さらに児童犠牲者の81人が女子児童だったという。

 この事故の海難審判は難航を極めた。事故の主な原因は紫雲丸側の航行、特に衝突直前の転舵が重要な原因とされたが、双方の船ともに霧中では過大な速度で航行しているなど責任について審議を行わなければならない部分もあったが、紫雲丸側は船長が死亡しており、事故原因の究明は困難であった。結局海難審判は紫雲丸側の操船に問題があったとしたものの、操船そのものの理由については船長死亡のため推測の域を出ないという曖昧な表現になっている。一方刑事裁判では紫雲丸航海長、第三宇高丸船長に有罪が言い渡されている。

 紫雲丸事故は思わぬ方面に影響を与えている。当時の学校教育では水泳の授業はほとんど行われず、プールが設置されている学校はごく僅かでしかなかった。この事故後体育の授業に水泳が取り入れられ、全国の小中学校にプールが設置されるようになるのである。

 またこの紫雲丸事故と前年の洞爺丸事故を受けて連絡船による交通から鉄道が直接連絡する輸送ルートの整備計画が持ち上がり宇高連絡船のルートには本州四国連絡橋、青函連絡船のルートには青函トンネルが40年ほどの歳月をかけて建設されることになる。

 沈没した紫雲丸はその後サルベージ・修理が行われ再々就役することになるが、度重なる事故を嫌ってか「瀬戸丸」と改名されている。しかしそれでも事故はやまず昭和三五年(1960年)に中央栄丸と高松港入り口で衝突し中央栄丸が沈没する事故が起こっている。昭和四一年(1966年)に瀬戸丸は宇高連絡船を引退、一部解体の後船体は宇品で浮きドックとして使用される。平成三年(1991年)に役目を終え解体されるが、本州四国連絡橋児島・坂出ルート(通称瀬戸大橋)の開通を見届けられたことは「紫雲丸」にとって本望であったろう。

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上空から見た紫雲丸沈没地点。写真左端には本州四国連絡橋児島・坂出ルートも写っている。三本の本州四国連絡橋のうち児島・坂出ルートが最初に着工、完成したのは紫雲丸事故のためと言われている。
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by narutyan9801 | 2013-09-16 09:51 | 妄想(事件・事故) | Comments(2)
Commented by 謙介 at 2014-04-28 15:45 x
はじめまして
高松市民で、紫雲丸再引き上げ後の瀬戸丸に乗った
ことのある者です。
紫雲丸事故に関した記録をよく読むのですが
紫雲が死運に通じる、と書かれた記事を
よく見ます。ですが、高松市での捉え方
はそんなことはありません。
高松では紫雲山は非常に親しみのある山で
小学校の遠足でよく行きますし、
私の卒業したのも高松市立紫雲中学校です。
もちろんこの紫雲山の名前からです。
ですから、縁起の良くない名前、
というのは、地元の感覚から行けば
ちょっと異なるような気がします。
それから瀬戸大橋が先にできたのは
おそらくその当時の大平正芳総理が
香川県出身だった、ということのほうが
大きいかもしれません。
Commented by narutyan9801 at 2014-04-30 04:15
※謙介さん
当ブログを管理している鼈の化石と申します。
コメントありがとうございます。

紫雲丸の「しうん」という読みが「死運」に繋がるという表記は確かに
いささか膨張したものであったと今となっては感じます。

今回の紫雲丸の記載として念頭にあったのが人が運用する船舶にも
運命というものを持っているかどうか?ということでした。
人に幸運、不運が付きまとうように船舶にも幸運、不運があるように
思え、紫雲という船舶には珍しい命名をされた船舶について
他の方にも考慮していただければと書いた次第です。

決して紫雲=死運という意図を広めようとした訳ではないことを
ご理解いただきたく思います。

瀬戸大橋が他の連絡橋に先んじて作られたのは大平総理の尽力と
いうご指摘は通産大臣も務めた方ですし当然優先順位を上位にされた
と思います。ただ紫雲丸沈没事故直後に香川県議会が国に対し
宇高連絡鉄道建設促進の意見書を提出しており、また明治期に
香川県議会議員の大久保諶之丞が瀬戸内海を横断する橋の構想を
披露しておりおそらく本州、四国連絡橋の着工は
大平総理の存在がなくても瀬戸大橋が最初に建設されていた
のではないかと思います。